2: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 休む日と書いて休日と読むんだぜ。 わかったか、プチのん?」 娘「誰に向かってものを言っているのかしら。 自慢ではないけれど、万年学年三位だったパパとは違って、私の国語の成績は入学以来常に学年一位よ」 と、無い胸を誇らしげに張るのは我が娘である。 昨夜は休日前ということもあって、積んでいた読書やらゲームやらを明け方までやっていたから、眠りに落ちたのはつい二時間ほど前のことであった。 だというのに、我が娘ときたら、気持ちよく眠りにつく父の布団を剥ぎ取り、叩き起こすのである。 挙げ句の果てには説教される始末であった。 これは誰に似たのん? 八幡「べつに恩に着せるつもりはないが、お父さんは毎日お仕事を頑張っていてだな……。 たまには遅くまでダラダラしてもいいんじゃないかなって思うんだけど?」 娘「いつも私たちのために働いてくれることに関しては、尊敬もしていますし、感謝もしています。 だけれど、それとこれとは話が別よ。 休日でも早起きする。 そうすることで充実した休日を過ごすことができるのだから、厳しいように思えるかもしれないけれど、これはパパのためになることよ」 八幡「もっともらしいことを言っちゃってまぁ。 まじ、プチのん」 娘「もっともらしいことではなく、もっともなことよ。 ……それから一応訊いておくけれど、そのプチのんというのは何かしら?」 3: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 その旨を伝えようとしたところ、「いえ、やっぱり言わなくてもいいわ」と手で制されてしまう。 どうやらだいたいのところは察したらしい。 呆れたようにこめかみに手をやり、はぁ、と大きな溜め息をついている。 八幡「頭でも痛いのか?」 娘「……誰かさんのせいでね」 八幡「困った奴がいたもんだな」 娘「本当にね。 まあ、いいわ。 パパ、朝食ができたから食べましょう。 早くしないと冷めてしまうわ」 寝ている俺の腕を引っ張り、ベッドの上に座らせたのを見届けると、娘はエプロンの裾を翻して部屋を抜けようとする。 そのとき、娘の唇がわずかに動いたのを見逃さなかった。 八幡「……」 我が娘ながらできた子である。 休日には母親の代わりに朝食を作り、だらしない父親を起こし、そして何よりも部屋を出る直前に「パパと一緒に朝食をとる機会なんてあまりないのだから、早く来なさい」と少しデレてみせるあたり、本当にできた娘であった。 ……そのあと、「今の愛娘的にポイント高い」などと呟かなければの話であるが。 雪乃と小町のハイブリッドとか、俺が大好きなもの同士の組み合わせなのに、なぜか悪寒が止まらないのはなんでだろう。 4: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 雪乃と俺のフュージョンという時点でかなり地雷臭がするが、そのうえ、三親等以内の親族には小悪魔小町と大魔王陽乃さんがいるのであった。 王道を行く雪乃の勤勉さを見習い、邪道を極めし俺の要領の良さを受け継ぎ、対人関係において無敵の小町に師事し、あらゆるものに勝ち続けてきた陽乃さんに帝王学を仕込まれ。 我が娘は何者になるのだろう。 しかし、まあ、とりあえず料理人という選択肢もありだよなぁと、娘が作ってくれた朝食を口にしながら思う。 ゆきのんに勝るとも劣らないプチのんの料理の腕。 基本的にも応用的にも負けず嫌いなものだから、料理上手の母親にライバル意識を燃やしているうちにとんでもない領域にまで昇華されているのだった。 家に帰ると毎日食戟なのである。 食卓に並ぶ料理が美味しいのは嬉しいが、両隣から「私の作ったものの方が美味しいわよね?」と圧力をかけられるのは辛かった。 朝食をとっていると、ふと娘と目が合う。 八幡「ん? 今、俺のこと見てたか?」 娘「ええ。 えっと、その、今日、パパは何か予定があるのかしら?」 少し恥ずかしそうにして、視線をテーブルの隅に固定されながら、珍しく歯切れの悪い様子で娘が訊ねてくる。 八幡「いや、昼まで寝るつもりだったが、その予定は潰えたからな……。 何もないぞ。 なんかあるのか?」 娘「そ、そう。 いえ、たいしたことではないのだけれど、パパが娘とデートしたそうな顔をしていたから、たまには一緒に遊んであげてもいいかなと思っただけよ」 どんな顔だよ。 俺、そんな顔してたか? いや、娘と仲良くデートだなんて、お父さん的には一種のステータスだから、願ってもないことではあるんだけどね? 9: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 だから、有り難く誘いを受けなさい」 八幡「おい、やめろ。 それ何のんの物真似だよ。 ……え? てゆーか、なんでお母さんがデートに誘うとき定番の口上を知ってんの?」 娘「叔母に聞いた」 八幡「どっちの叔母だよ。 邪悪な方? それともマジエンジェーな方?」 陽乃さんも小町もいらぬことを娘に吹き込むのに定評があるので、どちらが言ったか判別がつかない。 身内にえらい爆弾を抱えているのであった。 なんなら嫁も爆弾だし、俺が一番の爆弾まである。 娘「はるのんの方よ」 八幡「邪悪な方だったか」 娘「またそんなことを言って……。 失礼よ。 陽乃さんに告げ口してもいいのかしら」 八幡「おい、やめろ。 お前のお父さんが謎の失踪しちゃうだろうが。 もしも告げ口したら、次の冬休み中、陽乃さん家に預けるからな」 娘「待ちなさい、パパ。 それはやめてちょうだい。 お願いします、なんでもしますから。 それはあまりにも酷いわ」 八幡「まあ、あまりにも酷いリアクションしてるのはお前なわけだが。 陽乃さん、泣いちゃうぞ」 10: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 なんせ陽乃さん、自分に子どもがいないものだがら、うちの娘を猫可愛がりしているのである。 娘が母親似であるので、それもまた可愛いところなのだろう。 あの陽乃さんが週に一度は貢ぎ物を持って娘に会いに来るほどなのだ。 それなのにうちの娘ときたら、陽乃さんを苦手としている節がある。 可愛がられ過ぎて疲れてしまうのだそう。 若かりし頃、雪乃があまりにカマクラに構うものだから、そのうち避けられていたのを思い出す。 娘と陽乃さんの関係は、雪乃と猫の関係に似ているであった。 とはいえ、陽乃さんと二人旅をよくしているので、構われ過ぎることを嫌っていても基本的に慕ってはいるようだ。 娘「陽乃さん、よくしてくれるし、好きだけれど、二週間も一緒にいたら構われ過ぎてストレスでハゲるわ」 八幡「猫ちゃんかよ」 娘「まあ、猫のように愛らしいという意味では、そう言えなくもないわ」 八幡「いや、そういうこと自分で言っちゃダメだろ」 娘「いいじゃない。 だって、私、美少女なのだもの」 顔にかかる長髪を颯爽と手で払い、ふふんと得意気な表情を浮かべる我が娘。 なんか既視感あるなー。 なんだっけなー。 忘れもしない、奉仕部を初めて訪ねたあの日、たしかママノ下さんがまだ雪ノ下さんだったときにドヤ顔で言っていた気がする。 11: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 八幡「なに、これ」 娘「何と言われても……。 過去三年間に遡って、デートスポットに関する特集を組んでいた雑誌を集めたものだけれど」 集めたものだけれどって言われても……。 父親だからよいものを、たとえば彼氏相手にこれだけの準備をして迫るとひかれると思う。 ソースは雪乃にデートプランのプレゼンを受けたときの俺。 八幡「気合い入れ過ぎだろ。 何日前から準備してたんだよ、これ。 父親相手に頑張り過ぎじゃね?」 娘「いいえ、パパ。 やってやりすぎということはないの。 何事もやるならば徹底的によ。 今日は最高のデートにしてみせるわ」 八幡「くっ、この負けず嫌いさんめ!」 え、俺の遺伝子混じってんの? ってくらい雪乃にそっくりだ。 娘「まあ、パパと一緒にいられるのなら、本当はデート場所なんてどうでもいい のだけれど。 ……あ、今のは愛娘的にポイント高いわ」 しかし、、小町の流れを汲んでいるあたり、しっかりと俺の遺伝子も受け継がれているようだった。 八幡「だけど、普通、お前くらいの年頃だと彼氏なんかとデートに行くんじゃねぇの?」 まあ、彼氏とか絶対に認めないんだけど。 うちの娘と付き合うなら、面接を受けてもらわないと。 勿論、面接官は、俺、雪乃、小町、陽乃さん。 何それ、全然受かる気がしない。 圧迫面接にもほどがある。 なんなら俺が一番優しく見えるまである。 12: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 しかし、俺も鬼じゃない。 こちらが提示する条件を一生守るのなら、娘との交際を認めてやる。 ……そうだな、肝心の条件というのは、金輪際娘と関わらないことだ。 これさえ守れるのなら付き合ってもいいぞ」 「将来の展望は? あなたは将来的にどのような職に就くつもりかしら? もちろん金銭面だけが全てではないけれど、人が生きていく上で無視することのできない問題よ? どんな職に就きたいの? あなたの今の成績は? 目標と今のあなたの能力との間にあるギャップを埋めるためにしている取り組みはある? その努力の方法は正しいと言える? その論拠は? 何をしどろもどろしているの、早く答えなさい」 「まあ、小町の姪が選んできた彼氏候補だからね、きちんとしてるとは思うんだけど、一応小町にも人柄を確かめさせてね。 ……さて、もしかすると身に覚えがあるかもしれないけど、彼氏候補くんは昨日一日やたらと女性にモテたよね? あれ、全て小町の息がかかった子たちによるハニートラップなんだよねー。 そして、こちらにハニートラップを仕掛けられていたときの彼氏候補くんを撮った映像があります。 さっそく見てみましょー! ……んー、どうしたの、青い顔して?」 「あはは、小町ちゃんってばひどーい。 もう雪乃ちゃんも比企谷くんも大袈裟なんだから。 ちょっと付き合ってみるだけじゃない、何も結婚するわけじゃなし。 ……それで、ご両親は何をされている方? 借金とかはない? もちろん身内に犯罪者はいないよね? それから、君、何か持病を患っているとかない? いえ、病気だからいけないと言っているわけではないんだよ? それは仕方ないことだから。 ただ、もしも君の身に何かあったとき、残された私の可愛い可愛い姪っ子はどうなるのかなって。 ちゃんとそういうことまで考えてるなら、私は何も言わないよ?」 「陽乃さん、融資の相談を受けた銀行員じゃないんだから。 ……てゆーか、話の切り口が雪乃と同じだし」 13: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 そして何が酷いって、おそらく現実はもっと酷いことになるであろうことだ。 俺が想像できる範囲の仮想ゆきのんやはるのんなんてたいしたことはない。 本物は俺の想像を遥かに超えてくるのだろうから。 もしかすると、うちの娘は結婚できないかもしれないなぁ……。 本人にも難があるし、親族一同はさらに難があるし。 もしもそれら全ての万難を排して、見事娘の心を射止めることができるならば、それはもう素直に敗けを認めて娘を譲ろう。 むしろ天晴れである。 雪乃と結婚するにあたって、陽乃さん、雪ノ下パパ、雪ノ下ママに圧迫面接されたのを思い出す。 ……あれ、テスト勉強みたいにして予想質問集を作って、雪乃と一緒に受け答えの練習をしたんだよなぁ。 予想質問集の厚さが週刊少年誌みたいになったのはいい思い出である。 しかし、雪乃が用意した正攻法だけでは不安だったから、結局、面接前に陽乃さんを抱き込んで味方になってもらうという搦め手に出たのだった。 雪乃が正道を歩むのなら、俺は邪道を征く。 雪乃が作ってくれた質問集と陽乃さんの協力のおかげで、なんとかかんとか雪ノ下家による圧迫面接を乗り切り、結婚にまでこぎ着けたのだった。 ……まあ、大変だったけど、心底から相手と結ばれたいと思ってるんなら、このくらいは頑張れる。 だから、いつか現れる娘の彼氏にも頑張って圧迫面接を突破してほしいものだ。 そして、娘のことを愛していることを俺たちに証明してくれ。 そうすれば安心して引き渡せるというものである。 娘「……悩むわね。 パパは人混みが苦手だから、デートプランを立てるのにも苦労するわ」 ……。 まあ、彼氏云々のことを考えるのはまだ早いかもしれない。 若い娘がせっかくの休日に父親とデートプランを考えている時点でお察しである。 18: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 それもどこか覇気のない、だらっとした調子である。 それはあれか、仕事中の俺の真似をしているのか。 さては、総武高校の国語教師の真似だろ。 ……いや、てゆーか、なんで俺の勤務態度知ってるの? 同じ職場の学年主任とかいう目の上のたんこぶこと、ゆきのん先生がリークしてるのん? 職場でも家でも雪乃まみれどうも俺です。 八幡「俺が今一番ホットなデートスポットを教えてやろう。 レンタルビデオ屋に行って、映画を何本か借りるだろ? それから適当にお菓子と酒とツマミを買い込んで、家で映画鑑賞会をしよう。 勿論、帰宅後にはパジャマに着替えるから、パジャマデートと言えなくもない。 ほら、パジャマデートなんて、響きが大人っぽいだろ? どうだ?」 娘「……パパ、それ、あなたが家でゴロゴロしたいだけじゃない。 毎日お仕事で疲れているでしょうパパのことを慮った結果、百歩譲ってお家デートを認めたとしても、パパとお喋りしたいのだから映画鑑賞会なんて嫌よ。 私はパパとスキンシップをとりたいの。 そんなこともわからないなんて、パパは本当にダメ幡ね」 八幡「おい、父に変な呼び名をつけるな、プチのん。 デレるなら最後までデレろよ。 いきなり牙を剥かれたら、びっくりしちゃうだろうが」 しかし、お家デートを認めてくれるあたり、うちの娘は人間ができている。 そこまで良い子にされると、「いつも我慢させちゃってるのかな?」だなんて我が儘を聞いてあげたくなるのが親心なわけで、もうすっかりお家デートをする気は失せていた。 たまにはどこか遠くに連れて行ってやるのもいいだろう、たまの休日くらい家族サービスをしなければ。 と、そんな気分になったのである。 すっかり俺も人の親だなぁなどと、改めて娘が持ち込んだデート特集の山に視線を落とす。 21: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 Q9OQYw 八幡「まあ、なんだ、その……。 さっきはお家デートなんて言ったが、せっかくの親子水入らずなんだし、どこにでも連れてってやる。 どこに行きたいんだ?」 よくよく考えてみるに、娘とデートできる期間は人生のうちでも今くらいのものだろう。 たとえば、娘に彼氏ができて、家庭を持ったとして、そうなればなかなか父親と二人きりで外に出る機会もないだろう。 そもそも頻繁に会うこと自体が難しくなるかもしれない。 俺がそうであるように、自分の家庭を持つようになると、やはり実家よりも自分の家庭を優先する生活になるものである。 実際、結婚してから、特に娘が生まれてからになるが、年に数度しか生家に帰らなくなったのだ。 互いの家庭の都合を優先していたから、小町とすらほとんど会えていない。 娘も今年で十四。 仮に家から離れた大学に通うとなると、ここを十八で出ていくことになる。 その後、通っていた大学の周辺で就職、そして結婚となれば、娘と一緒に暮らせるのはこの四年の間だけである。 そこのところまで考慮すれば、娘とのデートの貴重さに気が付く。 娘「本当にどこでもいいの? 前言を覆すなら今のうちよ? 無理してない?」 八幡「無理はしてない、大丈夫だ。 子どもが遠慮するなよ。 人生で我が儘を言える期間なんて短いんだから、今のうちにたくさん言っとけ」 娘「パパがそういうなら……」 ふむ、と娘が顎に手を当て、瞑目すると、しばらく考えるような間がある。 22: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 どこでデートをするのかはまだ決めかねているのだけれど……」 八幡「いるのだけれど?」 娘「ええ。 とりあえずお昼をいただくお店なら決まっているわ」 八幡「ほぅ。 どこだ?」 長い瞑目の後、すぅっと目を開いた娘が言う。 この娘、陽乃さんに連れられて、頻繁に高級料理店に行っているものだから、舌はよく肥えている。 それだけではなく、雪乃の父と母……、つまり、娘から見ると祖父母になるわけだが、雪ノ下家御用達の料亭なぞにも通い慣れているものだから、俺なんかよりも断然良いものを食べてきているのだった。 そんな娘が行きたい料理屋とは一体どのようなところなのか。 格好をつけて、どこにでも連れて行くと言った手前、今さら後には退けないが、少し懐の具合が心配になってきた。 娘とデートに行く前にATMに立ち寄った方がいいかもしれない。 ダラダラと嫌な汗を背中いっぱいにかきつつ、娘が口を開くのを待つ。 娘「まあ、言うまでもないことではあるのだけれど、もちろん、ご飯と言えばサイゼリアよね」 そして、俺は盛大にずっこけた。 いや、サイゼって……。 あまりに可愛らしい店のチョイスでほっとしているが、せっかくだからもう少しきちんとした料理屋さんでもと思う。 てゆーか、この娘、親想い過ぎでしょ。 明らかに気を遣われている気がする。 八幡「いや、べつに遠慮しなくてもいいんだぞ? 雪乃だって、今日は由比ヶ浜と飯を食いに行ってるみたいだし。 こっちはこっちで美味しいものを食べに行っても文句はないだろ」 27: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 NkuBR2 お互い様だから、ちょっとくらい贅沢をしたところで怒られまい。 娘「遠慮なんてしていないわ。 そういうことではないの。 パパともあろう者が見下げ果てたものね。 あなたのサイゼリアへの愛はその程度のものだったの? 少し所得に余裕ができたからといって、サイゼに見向きもしなくなるだなんて、サイゼリアンとして恥を知りなさい」 八幡「……なん、だと?」 娘の言い種が胸に引っかかる。 八幡「今のは聞き捨てならねぇな。 俺のサイゼリアの愛がなんだって? ……いいだろう、お前がそこまで言うなら、望み通りサイゼに連れて行ってやる。 そして、俺がいかにサイゼリアを愛しているのか語り聞かせてやんよ」 娘「上等よ。 返り討ちにしてあげるわ。 ふふん、パパは私のサイゼトークについてこられるのかしら。 千葉愛とパンさん、マッ缶、サイゼに関して、私の右に出るも者はいないわ」 誰に似たのか、この娘、非常に凝り性である。 一度気に入ってしまうと、徹底的にのめり込むのが娘の気性なのだ。 ここまで娘が言い切るのであれば、本人が口にするようにサイゼに関する知識は十分蓄えているのであろう。 が、しかし。 八幡「パンさんはともかく、千葉愛、マッ缶、サイゼのことで、俺が遅れをとるわけがないだろ。 俺が千葉の観光大使に選ばれない理由、そしてマッ缶とサイゼからCMのオファーが来ないわけがわからない」 娘「それじゃあ、お昼はサイゼリアということで異論はないかしら?」 八幡「おう」 こうなってしまっては、サイゼリアをおいて他に昼食は考えられない。 さて、と部屋に据えられた壁時計を見る。 昼食が決まったのはいいけれど、本題のデートプランも早々と考えてしまわなければならない。 遠出するつもりでいるのなら、できるだけ早いうちに家を出た方がいいだろう。 それから小一時間ほどでデートプランを詰め、身支度を済まる。 念のため財布の中身を確認してから、娘を伴って遊びに出る運びとなった。 28: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 NkuBR2 失礼、サイゼリアではなく、サイゼリヤです。 29: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 NkuBR2 結局、決まったデートプランというのは、街中の散策がメインである。 八幡「なあ、本当にこれで良かったのか?」 昼時の混雑を嫌って、サイゼで少し早めの昼食をとった後、腹ごなしもかねてショッピングモールを歩きながら娘に訊ねる。 デート特集の雑誌では、それこそお洒落で若い子たちの受けが良さそうなデートスポットが様々紹介されていた。 しかし、最終的に娘が選んだデート先はありふれたもので、せっかく用意した雑誌も全く役立てていなかった。 声をかけると、隣を歩いていた娘がちらりと横目で俺を見る。 娘「言ったじゃない、私はパパとお話できればそれで嬉しいって」 八幡「でも、お前、雑誌を広げながら、今日は最高のデートにしてみせるって意気込んでたじゃん」 娘「それは……」 指摘すると娘が目を僅かに逸らして口ごもる。 何か言い難いことなのだろうか。 気長に娘が口を開くのを待ってみる。 すると、少しだけ困った顔をして、もにょもにょと喋り出した。 娘「いえ、その、ね。 気を悪くしないでほしいのだけれど、どうにもパパが張り切っているように見えたものだから……。 不馴れな場所に連れて行くと頑張り過ぎて疲れてしまうのではないかと思って。 でも、それをパパに伝えてしまうと、どこにでも連れて行ってやると言ってくれた厚意を無下にすることになるのではないかと……」 娘の言葉に、今度はこちらが困ってしまう。 八幡「いや、べつにそのことで気を悪くはしないが……、たしかに、かなり複雑な気持ちにはなった」 娘が人を思いやれる人間に育ったことは嬉しい。 しかし、親として、子どもに我が儘を言ってもらえないのは寂しいものだ。 我が儘を言うことは、きっと甘えることと同義だから。 30: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 NkuBR2 あまりに我が儘を言ってもらえないと、寂しく思うだけではなく、俺はそんなに頼りなく見えるだろうかと不安にもなる。 八幡「あのな、家でも言ったが、我が儘を言える期間なんて短いものなんだから、今のうちにたくさん言っとけ。 遠慮するな。 疲れることよりも、きっと家族に遠慮される方が辛いから」 娘「だって、パパに手のかかる娘だと思われたくなかったのだもの」 八幡「ばっか、お前、んなこと思うわけねぇだろ。 家族大好きなことに定評のある俺だぞ。 なんなら小町にはうざがられていたまである」 陽乃さんと娘の関係は雪乃と猫の関係に似ているが、雪乃と猫の関係は俺と小町の関係に似ているのであった。 娘「……パパは我が儘を言われて嬉しいの?」 八幡「全く言われないのは寂しいもんだ。 お前も人の親になればわかるさ」 娘「……そう」 娘は呟いたきり黙りこくって、わずかに何か考えるようは間があった後、「つまり、比企谷くんはドMということかしら?」と母親譲りの良い笑顔で言った。 それに対して、俺はこめかみに手をやるという例のポーズで対抗する。 八幡「比企谷くんだなんて私のことを呼んで、なぜ雪乃風に言うのかしら」 娘「ママに似せてドMと詰った方が喜んでくれると思ったからよ」 八幡「余計な気遣いなのだけれど。 ……それにしても、どうして未だに雪乃は私のことを比企谷くんと呼ぶのかしら。 今となっては自分も比企谷のくせに」 娘「パパは本当にダメ幡ね。 そんなの、未だにパパを名前で呼ぶのが恥ずかしいからに決まっているじゃない」 八幡「……え、そんな可愛い理由なの?」 32: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 NkuBR2 っべー、まじっべーわー。 これはゆきのん可愛過ぎるっしょー。 いや、頑なに比企谷くんと呼び続けるものだから、てっきり俺の名前なんて忘れちゃってるのかと思ってたぜ。 どんだけシャイだよ。 家に帰ったら、雪乃に八幡と呼ぶことを強要してみよう。 娘の言い分が本当であれば、きっと面白いものを見られるはずだ。 娘「パパ、あなた、今、ママのことを考えているでしょう。 顔が緩んでいるわ。 ……でも、今日は私とのデートなのだから、他の女のことを考えてはダメよ」 八幡「いや、他の女っていうか、お前のお母さんのことなわけだが……」 それってダメなことなのん? プチのん、ちょっとファザコン過ぎやしませんかねぇ。 流石は我が娘、家族愛の重さが半端ではない。 というか……。 八幡「今さらなんだが、街中まで出てきて構わなかったのか? ほら、父親と一緒にいるところを同級生に見られたら恥ずかしくないか?」 俺がまだ思春期真っ盛りの頃、出先で父親や母親と一緒にいるところを同級生に見られるのが無性に恥ずかしく感じる時期があった。 思えば、娘も思春期真っ盛りの年頃で、ふと気になったので訊ねてみるのだった。 娘「恥ずかしいと思っているのなら、最初からデートに誘わないわ」 八幡「なるほど、道理だ。 それもそうか」 娘「ええ、そうよ。 だから、こんなこともできてしまうわ」 と、何やら手に柔らかい感触があって、視線を落としてみれば、娘に手を握られていた。 33: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 NkuBR2 八幡「手をつなぐのは構わないんだが、俺、不審者に見えないか? 拐かしとか、援交とかさ」 娘は誰が見てもわかるレベルで母親似であり、外見的特徴が雪乃に寄り過ぎているため、一見様の場合、俺と娘が父子だとは見抜けない可能性がある。 それでも普通にしていれば、道行く人たちからも「たぶん親子だろうな」と理解されるだろうが、手をつないで歩くとなると「……ん? あれは親子か?」と疑惑の目で見られかねない。 八幡「ちゃんと親子に見えればいいんだが……」 ぽつりと呟くと、隣を歩いていた娘の足が止まる。 娘「それは私たちが親子ではなくて恋人に見られているかもしれないということかしら少し嬉しくもあるけれどでもやっぱり親子だからそういうただれた関係は無理ですごめんなさい」 八幡「おい、やめろ。 何はすの物真似だよ」 娘「いろはちゃんの物真似よ。 一色くんにも似ているとお墨付きをもらったのだけれど、どうだったかしら? ちなみに、ママに披露してみせたところ、肩を震わせて笑いを堪えていたから、我ながら完成度は高いと思うわ」 しかし、俺のいないところで、 嫁と娘は一体何をしているのか。 得意気に物真似を披露する娘とそれに付き合う雪乃を想像すると、じんわりと胸が温かくなるようで和む。 八幡「そういや、今年は一色の息子と同じクラスだったか。 名前なんだっけ、一色ボルヴィックだっけか」 娘「そんなわけないでしょう。 水から離れなさい、パパ。 一色クリスタルガイザーくんに決まってるじゃない」 八幡「おい、ばか、ボケにボケを重ねんな。 一色六甲のおいしい水くんに決まってんだろーが」 娘「パパだってボケ倒しているじゃないの。 ……はぁ、ママがいないと会話にまとまりがなくなるわね」 たしかに。 基本的に俺も娘もボケたがりなので、ツッコミ不在だと会話にとりとめがなくなる。 35: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 NkuBR2 一色とは高校卒業以降も付き合いがあり、それからも奉仕部の面子に加わって交流を続けていた。 その後、学区が被るほどの近所に住み、お互いの子どもが同い年ということもあって、保護者会や運動会などの催しも一緒に参加している。 所謂、一つの腐れ縁というやつで、今ではすっかり家族ぐるみの付き合いになっているのだった。 八幡「いいかげん、幼馴染みの名前くらい覚えてやれよ。 チビはすが可哀想だろ」 娘「パパの方こそ、可愛い後輩の子どもの名前くらい覚えてあげなさいよ。 チビはすくんが可哀想じゃない」 八幡「でも、チビはすで通じるんだよなぁ……」 チビはすと呼びかけると、文句を言いながらも返事してくれるし。 あそこの息子も人間ができているよなぁ。 娘「パパ、一色くんのこと大好きよね」 八幡「まあ、言葉も喋れない頃から知ってるしなぁ」 付き合いも長いし、親戚の子どもと同じくらいには可愛がっていると思う。 娘「世間一般が言うところによると、父親というのは子どもとキャッチボールをするのが夢だそうじゃない。 本当は息子も欲しかったのではないの?」 何気ないふうを装いながらも、落ち着きなく前髪をいじりつつ娘が訊ねる。 39: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 NkuBR2 八幡「俺がキャッチボールなんてガラかよ。 いや、たしかに壁を相手にキャッチボールするのは得意だが」 娘「それはキャッチボールと言わないのではないかしら……。 急に自虐ネタを披露されてもリアクションに困るからやめなさい」 八幡「俺から自虐ネタを抜いたらイタい過去しか残らないんだが……」 笑い話にでもしないとやりきれないような話が大量にあるのだった。 八幡「だから、たぶん息子がいたとしてもキャッチボールはやらなかったと思う。 まあ、その、なんだ、……つまり、可愛い娘が一人いれば、それで幸せなんじゃねぇの?」 娘「パパ……」 つないでいた手をぎゅっと握ると、それに応えるように返ってくる感触がある。 隣を見ると、照れくさそうに頬を赤らめる娘の姿があった。 流れる黒髪の間から覗く耳まで真っ赤になっていて可愛い。 しかし、わかりやすく照れられてしまうと、なんだかこちらまで気恥ずかしくなってくる。 八幡「とりあえず好きな人との間に子どもが欲しいとは思っていたけど、性別にこだわりはなかったな。 雪乃との子どもなら男でも女でも嬉しかったから。 もっとも、今となっては娘で良かったと思ってるけどな」 娘「それはどうして?」 八幡「そりゃあ、汗水流してボールを投げ合うよりも、娘と仲良くデートしてる方が楽しいからな」 娘「そ、そう。 デートを楽しんでくれているのなら何よりだわ。 ま、まあ、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。 というのも、絶世の美少女であるところの私とのデートなのだもの。 楽しくないはずがないわ。 パパも果報者よね。 そ、その、私もパパとのデートを楽しく思っているけれどね」 娘が早口でまくしたてるように言う。 照れると早口になるところまでゆきのんにそっくりだ。 まじプチのん。 43: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 いえ、弟や妹ができるのは構わないのだけれど、……今から十月十日後に生まれるのだけは勘弁してね。 逆算すると、私とのデートがあった日に、私との会話がきっかけでママと睦み合っていたのがわかってしまうから。 それは流石に気まずいわ」 八幡「俺も気まずいわ」 てゆーか、逆算するんじゃありません。 あられもないことを話ながらショッピングモールを歩く。 その途中、ふと本屋の前を通りかかり、全く同じタイミングで俺と娘の歩調が緩まった。 娘「……寄っていく?」 八幡「……だな」 元々、俺も雪乃も本が好きで、そのため、娘も当たり前のように本に囲まれた生活をしていたので、今ではすっかり読書家になっていた。 純文学から一般文芸、新書、ラノベ、漫画、小町が読むようなファッション雑誌まで、親族一同の影響を受けまくり、ほとんど節操なしと言えるほど娘の守備範囲は広くなっていた。 そんな彼女が本屋の前を素通りできないのは当然のことで、その気持ちは俺にもよく理解できたので、特に申し合わせることなく立ち寄ることを決定した。 八幡「俺も本を買うだろうし、お前も何か欲しいものがあったら持って来いよ」 娘「い、いえ、でも、図書館に行けば本は借りられるのだし……」 八幡「また遠慮してる。 たしかにうちはなんでも買ってやれるほど裕福ではないが、本くらいなら何冊でも買ってやる。 だから遠慮すんな。 ……お父さんは娘に甘えられたいものなんだよ」 図書館で借りて読みさえすれば満足するものもあるとはいえ、どうしても手元に置いておきたい本というのもある。 読書家であるならば、当然そのような心理が働くはずで、図書館で読めさえできればそれでいいと言った娘の言葉は本心ではないはずだ。 娘「う、うん。 わかったわ。 その、ありがとう、ございます、パパ」 甘え慣れていないものだから、こういうときにどのようなリアクションをしていいのかわからず、うつむきがちになった娘がモジモジとしている。 44: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 超可愛い」 娘「なっ、え、あ……、ああありがとう?」 すっかり混乱した娘が目をぐるぐる回しながら頭を下げる。 ストレートに真っ直ぐ向けられる好意に耐性がないところも雪乃そっくりだ。 ……いや、それは俺もだが。 俺も雪乃もひねくれものだったから、昔から真っ直ぐな好意を向けてくれる由比ヶ浜などに弱かった。 特に雪乃なんかはガハマさん相手だとポンコツも同然で、チョロ甘のチョロのんだった。 娘も含め、相性的に、由比ヶ浜には滅法弱いのが比企谷家なのである。 理論武装が得意な比企谷家に対して、そのことごとくをまるっと無視してしまう彼女はまさに天敵だったりするのだ。 八幡「それじゃあ、何か気に入ったものがあれば、遠慮せずに持って来いよ。 俺は俺で見て回ってるから」 そう言って本屋に足を踏み入れようとしたのだが、それを阻むように後ろに引かれる力が働いて、意図せず上体を反らしてしまう。 振り返ると、俺と手をつないだままでいる娘がいた。 八幡「いや、あの、本を見て来るから……」 説明しようとすると、それを拒むように娘が首を横に振る。 娘「せっかくのデートなのだから一緒に見て回ればいいじゃない。 デートに効率性はいらないの。 一緒にいることが大切なのだから。 ……その、わかる?」 八幡「まあ、わからなくもないが……」 デートにおいても効率性を重視したところ、何度も雪乃にたしなめられたものだ。 どちらかと言えば、雪乃も効率厨に分別されるタイプであったが、付き合い始めてデレのんになってからは効率性重視で別行動しようとすると怒るようになったのだ。 八幡「……あー、それじゃあ、お薦めの本とか教えてもらってもいいか?」 47: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 その……、良かったら、パパのお薦めも私に教えてね?」 八幡「ああ、いいぞ」 頷くと、娘が嬉しそうに口元を緩める。 娘「パパ、それじゃあついてきてくれるかしら」 娘に手をひかれて向かった先は、時代小説のコーナーであった。 八幡「あー、大河ドラマとか木曜時代劇とか毎週欠かさず視てるもんな」 女子中学生にしてはチョイスが渋いように思えるが、娘の守備範囲の広さを考慮すれば、時代小説を好んで読んでいたとしても不思議はない。 俺も歴史は好きな方なので歴史番組自体はよく視ていたのだが、時代劇などはお年寄りが視るものという印象があって、これまであまり視聴したことがなかった。 しかし、近頃、娘が時代劇を視るようになって、なんとなく一緒に視ているうちに、俺も雪乃も毎週欠かさず視る習慣がついてしまっていた。 平積みになって陳列された本を眺めていると、ちょうどテレビで放映されている作品の原作を見つけた。 八幡「司馬遼太郎とか歴史小説なんかは読むんだが、時代小説はあまり読まないんだよなぁ……。 お薦めを教えてくれないか?」 手近にあった本を適当に手にしながら、娘に話の水を差し向ける。 娘「そうね。 人に薦めるということなら、佐伯泰英先生や藤沢周平先生は外せないわ。 けれど、私の贔屓の作家ということならば、断然、池波正太郎先生よ」 八幡「あー、藤枝梅安の人?」 娘「ええ、鬼平や剣客商売を書いている作家さんよ。 どのシリーズも長いけれど、どれも面白いから一読の価値ありよ。 むしろ一生読んでいるまであるわ」 剣客商売といえば、藤田まことさんが主演をしていた作品だよな。 藤田まことさんが亡くなってからは、北大路欣也さんが主演を務めているんだっけか。 48: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 シリーズの最初から数冊分を手に取り、本の購入を決める。 ふと娘を見ると、いつものように澄まし顔を決めているものの、どこか嬉しそうな気配を隠しきれていない。 そうだよな。 自分が好きなものに興味を持ってもらえると嬉しいよな。 それで、相手に好きになってもらえるともっと嬉しいよな。 娘の喜びが伝播してくるようで、なんだか俺まで嬉しくなってくる。 娘「それじゃあ、今度はパパのお薦めを教えて?」 八幡「あいよ」 今度は俺が手をひいて、娘をお気に入りの場所に連れて行く。 最近、お気に入りなのは鉱物図鑑や元素図鑑。 小説や漫画のようにストーリーがあるわけではないが、近頃は変わり種の図鑑が増えていて面白い。 特に元素などは綺麗で、ずっと眺めていても飽きないものだ。 娘に紹介したところ食い付きもよく、興味深げに眺めていた。 八幡「次は雪乃も一緒に書店巡りしたいな」 娘「そうね。 ママのお薦めも教えてほしいし、きっと楽しいと思うわ」 互いのお薦め本を買い終えた後、店を出ながら次回の企画を練る。 と、その途中、楽譜などを並べた音楽コーナーに差し掛かり、そこで娘の足が止まる。 49: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 この前、陽乃さんと遊んでいるときに音楽の話になったのよ。 それで陽乃さんってドラムを叩けるじゃない?」 八幡「ああ、そうだな」 昔、俺がまだ学生だったころ、高校の文化祭で陽乃さんがドラムを叩いていたのを思い出す。 娘「ドラマーって格好いいでしょう? だから、陽乃さんにも格好いいわねって言ったの。 そしたら陽乃さんがドラムを教えてあげようかって」 八幡「おお。 いいじゃん、教えてもらえよ」 娘「いえ、それがね、陽乃さんってば、ドラムを教えるにあたって、私にマイドラムを買い与えようとするのよ。 私、もうびっくりしてしまって、慌てて断りを入れたわ」 八幡「……あの人の身内に向ける愛情も相当重いからなぁ。 金持ちすげぇ」 俺とベクトルは違っていたが、陽乃さんもとてつもないシスコンだったからなぁ。 雪乃似の姪っ子を可愛がるのも当然のことで、一般に安くない買い物とされている楽器であっても躊躇なく買い与えようとするのも想像がつく。 だが、しかし。 娘「喉が渇いただろうから、そこの自販機でジュースを買ってあげましょうか? ……くらいの感覚でドラムを買おうとするものだから、本当に心臓に悪いわ。 雪ノ下の家では迂闊なことを言えないわね。 祖父母も陽乃さんも金銭感覚がおかしいもの」 うちの娘は慎み深く遠慮深い。 本くらいの値段のものですら買ってもらうのを躊躇する性格なのだから、あまりに高価なものを受け取るのは相当な抵抗があるはずだ。 とはいえ、純粋な好意から贈り物をしてくれようとしているのを分かっているので、娘もなかなか断り難いらしく、雪ノ下の家に里帰りした際にはいつもぐったりして帰って来るのがお決まりであった。 なるべく祖父母や陽乃さんが傷付かないよう、やんわりと断りを入れるのに苦心するプチのんなのであった。 もっとも、そういう遠慮しがちな娘だからこそ、あれやこれやと物を与えたくなる陽乃さんたちの気持ちがわからないではない。 なかなか我が儘を言ってくれないものだから、そのことが寂しくて、ついこちらから構いたくなってしまうのだ。 みんな、娘に甘えて欲しいのである。 しかし、ちっとも甘えてくれないから、こちらで勝手に甘やかすしかないのであった。 50: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 申し出を断るのにも体力がいるし、今から想像しただけで憂鬱だわ。 ……私だって、しょんぼりと気落ちする陽乃さんの顔を見たくないもの。 でも、だからといって、受け取るわけにはいかないし。 どう言えばわかってもらえるのかしら」 八幡「それな。 ほんとそれ。 だが、陽乃さんはいいとしても、俺の口から雪ノ下のお義父さんやお義母さんに意見し難いんだよなぁ。 ここは雪乃にビシッと言ってもらうしかねぇな」 実の娘である雪乃が両親をたしなめるぶんには波風も立つまい。 はぁ、と同じタイミングで俺と娘の口から溜め息が漏れる。 娘「そこをいくと、比企谷の実家は落ち着くわ」 八幡「あそこにいても何もやることがないから、落ち着くしかないという説もあるが……」 ザ・一般家庭だしな。 なにせ物珍しいものが何一つない。 今度こそ書店を出ながら、娘の持っている本が入った袋を奪おうとする。 娘「もう、ダメ幡」 が、なぜか罵倒されてしまう。 結局、俺の薦めた元素図鑑と予てよりお気に入りだった文庫本を数冊買ったようで、娘の手持ちの袋も重かろうと気を遣ったのだが……。 娘「パパの両手が塞がってしまうと、手を離さないといけないじゃない」 51: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 と、娘が遠慮がちに言うものだから、それもそうだなと荷物を交換する。 八幡「なあ」 娘「なにかしら?」 八幡「いや、お父さん的には娘に慕ってもらえて嬉しいんだが、プチのん、ファザコン過ぎて絶対に彼氏できないだろ」 今日一日デートをしてみて、徐々に不安になってきた。 プチのん、全然手を離してくれないじゃん。 これ、彼氏できんの? いや、娘に彼氏ができるところなんて想像したくないが、ずっと独り身というのもよくない。 俺や雪乃の方が娘よりも先に死ぬだろうから、そのとき、娘に伴侶がいなければ彼女は独りになってしまうではないか。 しかし、娘はまだ中学生。 父親や母親にべったりでもおかしくない年頃なのかもしれないが。 我が身を振り返ってみるが、そもそも誰かとべったりしていた記憶がないので参考にならない。 雪乃はどうだろうと考えてみたが、彼女に至っては親との折り合いが悪くて、高校生のときにはすでに一人暮らしをしていたので、こちらも一般的とは言えず、全く参考にならなかった。 娘「パパに話したことはないけれど、私、これでもモテるのよ?」 心外だとでも言いたげに、ツンと唇を尖らせて娘が主張する。 八幡「そりゃ当然だろ。 俺の娘が世界一可愛いに決まってるんだから。 むしろ、モテなきゃ世界の方が間違ってるまである」 娘「……全力で肯定されると、こっちの方が恥ずかしくなるわね」 52: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 もっとも、なかなかこれという人がいないから、全てお断りしているのだけれど。 主に一色くんが」 八幡「ほぉん。 ……ん? なんでチビはすが?」 娘「私と幼馴染みなものだから、すっかり窓口役にされてしまっていて、それで私の方でも告白を受けるのが面倒だから、窓口の段階で断りを入れてもらうようにしているの」 八幡「いやいや、とりあえず告白くらい聞いてやれよ」 可哀想だろ、男子が。 そして、何よりもチビはすが可哀想だった。 今度、ボルヴィックを差し入れてあげよう。 娘「私が言うのもおかしいけれど、一色くん、損な役目よね。 おかげで助かってはいるけれど。 是非とも私と同じ高校に入学して、引き続き窓口役を務めてもらいたいわ」 八幡「まあ、学力的に考えれば、同じ高校に進学する可能性は高いわけだが……」 しかし、それだとあまりにチビはすが不敏過ぎる。 クリスタルガイザーも買ってあげなきゃ。 59: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 八幡「いや、進路くらい好きに選ばせてやれよ」 娘「いえ、大学や就職先ならばともかく、普通科の高校なんてどこに行っても一緒よ。 なんだったら、大学進学を考えるのであれば、総武高校を選んで間違いはないはずだけれど。 いろはちゃんの母校でもあるわけだし、誰も反対しないでしょう」 まあ、たしかに。 大学進学を目的とするのなら、この辺りでは総武を選んで間違いないだろう。 でもなぁ……。 同じ高校に進学するということは、つまりチビはすの受難が続くわけで、娘にいいように使われてしまうのは確定的に明らか。 幼馴染みって大変だなぁと思う。 物心がついたときから腐れ縁なものだから、逃げようとして逃げられるものでもないし。 どころか、幼少期の恥ずかしいエピソードを互いに握り合っているので、喧嘩をした日には大戦争不可避である。 やれやれ、まーたぼっちこそ最強であることが証明されてしまったか。 八幡「てゆーか、総武を受験すんの?」 娘の学力を鑑みるに、高校受験レベルならば困ることはないだろうと楽観視していたため、これまで特に志望校を訊いてこなかった。 だから、娘の口から志望校を聞いたのは初めてだった。 八幡「俺の母校でもあるわけだし、大学に進学するつもりなら良い学校だとは思うが……。 学校に父親と母親が勤めてるのって嫌じゃないのか?」 俺なら絶対に嫌だけど。 61: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 考えてもみなさい。 親と一緒にスクールライフを送ることができるのよ? 普通であればまずありえない体験よ。 それができるのだから、むしろ喜ばしく思うわ」 八幡「そういうものか?」 娘「ええ、そういうものよ。 ……それに家でも学校でも娘と一緒で、パパも嬉しいでしょう?」 下から覗き見るように、ちらと視線を走らせる娘。 もちろん、娘と一緒の時間が増えて嬉しい。 喜ばない父親はいないだろう。 八幡「嬉しいのは俺だけなのか?」 娘「そうね。 きっとママも喜ぶわ」 八幡「それから?」 娘「……いじわる。 もちろん、わ、私も嬉しいわ」 少しだけ握る手に力を込めてきて、娘が物言わずに意趣返しをする。 しかし、話に水を差すようで口にはしなかったが、総武高校は市立であるので、俺や雪乃が異動してしまうという可能性はある。 なんの因果か、たまたま母校で雪乃と同じ職場になったけれど、そこに娘まで加わるとなると比企谷家が一所に集中し過ぎるので、流石にかち合わないよう調整されるような気がする。 八幡「娘と一緒に高校生活とか最高だよなぁ」 娘「お昼も一緒できるわね」 八幡「いや、それは周りから奇異の目で見られるからやめとけって」 62: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 しかし、娘との高校生活を想像してみると、たしかに魅力的なもののように思えてきた。 嫁がいて、娘がいて、チビはすがいて。 そんな毎日が続くのであれば、憂鬱な月曜日の出勤も苦には感じないだろう。 八幡「まあ、まずは受験勉強よりも先にチビはすを確保するところからだな」 娘「そうね。 まずは私の大事な虫除け……、ではなくて、えっと、そう、大事な幼馴染みの志望校を総武に決定させるところから始めないといけないわね」 八幡「おい、本音がところどころ漏れちゃってるぞ」 娘「いろはちゃん的に考えて、何も問題ないわ。 うっかり本音が漏れてしまうだなんて、話をしていればよくあることよ」 八幡「いや、一色的に考えてる時点で問題しかねぇよ」 そろそろ歩き疲れてきたものだから、適当に休める場所を探し求める。 68: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 話の早い子である。 おう、と頷くと、わずかに手を引かれる感覚がある。 娘「休憩するなら、パパと行ってみたかったところがあるの。 行ってもいい?」 八幡「おう。 どこでもいいぞ」 娘「……パパ、あなたに他意がないのはわかっているけれど、どこでもいいは女子語でどうでもいいという意味よ」 まさか、娘に女性を説かれる日が来ようとは思いもしなかった。 これは誰の受け売りだろうか。 いくつか思い当たる顔がある。 雪乃は「女子語」だなんて頭の悪そうな言葉を嫌うだろうから選択肢から外れるとして、残る有力候補は、由比ヶ浜、小町、一色の三人。 八幡「で、それは誰の受け売りだ?」 娘「結衣ちゃんよ」 訊いてみれば、颯爽と髪を払いながら娘が得意気に教えてくれる。 あちゃー、ガハマさんだったかー。 女子語なんて頭の悪そうな言葉を使ってたのはガハマさんだったかー。 しかし、コミュ力に定評のある由比ヶ浜が言うのであれば、きっと正しいのであろう。 なにせ俺や雪乃と親しくなるほどのコミュ力なのである。 どこでもいいはどうでもいい。 肝に銘じておこう。 八幡「そんじゃあ、どこでもいいじゃなくって……、その、なんだ、お前の好きな店を教えてくれよ」 由比ヶ浜の教えの通りに言えば、娘が照れたようにはにかみながら「ええ、もちろんよ」と頷く。 70: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 本をゆっくりと読むのに具合が良いので喫茶店にはよく行くが、甘味処というのは存外馴染みがない。 日本人たるもの珈琲にケーキよりもお茶に団子であろうが、いかにも過ぎてかえって敷居が高くなっている気がする。 だから、改めて甘味処に入るとなると、少しばかり二の足を踏んでしまうところがあって、こういった機会でもないと訪れることもないだろう。 店に入ると橙色の間接照明が柔らかく店内を照らしていて、落ち着いたゆったりとした時間が流れているようだった。 娘「こっちよ」 窓ガラス越しに手入れされた庭がよく見える席に案内される。 庭といっても広いものではなくて、平安時代の寝殿造で言うところの渡殿と透渡殿の間にある壺といった感じであるが、これはこれでなかなか趣深くて良い。 八幡「なかなか洒落てるもんだな……。 俺、ここにいてもいいのか? 変じゃない?」 娘「いきなり卑屈にならないでほしいのだけれど……。 大丈夫よ、この私のパパなのだから、もっと自信を持ちなさい」 八幡「お、おう。 ……さんきゅ?」 娘「どういたしまして」 机を挟んで対面に座った娘が口許で笑む。 流石に手をつないだまま席に着くわけにはいかなかったから手を離したわけだが、そうしてみると今まで娘と触れ合っていたぶん何か物足りない感じがする。 どうにも持て余し気味になった手を落ち着けるため、机にあったメニュー表を手に取る。 娘から見て字が見えやすいようにメニューを広げる。 さりげない気遣いができる俺かっけぇと得意気に娘を見てみると、そんな俺の思惑などすっかり見透かされていたようで、微笑ましそうに「ありがとうね、パパ」と声には出さずに口を動かしてみせる。 そして、浅はかな俺だせぇ、と今度は恥ずかしい気持ちでいっぱいになるのであった。 71: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 比較的、娘と美味しいと感じるものが似通っているから、彼女と同じものを注文すればハズレはないだろう。 店員さんを呼ぶと注文を済ませる。 ましましだなんて注文してしまって変に思われないか心配であったが、店員さんはにこやかに「ましましですね」と復唱して下がって行った。 マジか。 白玉ましましで通じるのかよ。 洒落ていて、洗練された雰囲気であったから、少し肩肘を張っていたのだが、なんだか急に身近な店に思えてきた。 八幡「しかし、随分と慣れた様子だが、前にも店に来たことがあったのか?」 我が家は基本的に紅茶党兼珈琲派閥であるから、そもそも日本茶を頂こうという発想がない。 だから、陽乃さんか小町あたりに連れられて来たのかしらと考えていると、意外や意外、娘は「ママと来たことがあるの」と答えた。 八幡「へぇ。 そいつは意外だな」 紅茶大好きゆきのんのことだから、てっきり休憩するのも喫茶店かと思っていた。 娘「いえ、ママと遊ぶときはいつも喫茶店で休むのよ? だけれど、そのときはちょうど贔屓の店がお休みで、どこで休んだものかと辺りを歩いていたところ、この甘味処を見つけたわけなの」 八幡「それでお気に入りになったと」 娘「ええ。 たまには日本茶もいいものね」 72: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 しかし、得心がいった。 最近、家で日本茶が出る機会が増えていたから、なんでだろうと思っていたんだが……。 娘「ママとね、今度は一緒にパパと来たいわねって話をしていたの。 きっと甘党のパパなら気に入るだろうって」 たしかに。 ぜんざいは体に染み入るように甘くて、日本茶の渋味がそれを引き締めて飽きさせない。 雪乃と娘の見立ては正しく、たまには甘味処もいいものだと思わせてくれる。 娘「ふふ、見事にママを出し抜いてやったわ」 口に白玉を運びながら、娘にしては珍しい年相応の悪戯っぽさを滲ませて笑ってみせる。 娘「ママに話したらきっと悔しがるでしょうね」 八幡「怖い者知らず過ぎる……」 娘「いいじゃない。 私はパパとデートできて嬉しいし、嫉妬するママを見てパパも満更ではないわけだし、みんなの効用を最大化できるわ」 八幡「いや、明らかにゆきのんさんだけが損してるんだが、それは……」 娘「いいえ。 拗ねたママをフォロ幡がフォローするでしょ?」 八幡「なんだよ、フォロ幡って」 娘「そして、結局、ママもご機嫌になるから、みんな幸せになるということで問題ないわ」 私の理論に穴はないわ、と今にも言い出しそうな口振りで、防御力の低そうな胸を得意気に張って娘が言う。 73: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 教師なんて職に就いてはいるけれど、だからといって中高生が好むような遊びに精通しているわけではない。 そんな雪乃が娘と何をして遊ぶのか少し興味があって訊ねてみたのだった。 娘「そうね、まずママと遊びに行くときは本屋さんに寄るでしょう」 だよな。 俺とデートに行くときもデートコースに本屋を組み込むことに余念のないゆきのんであった。 娘「それからキッチン用品を見て回るわ」 八幡「あー、二人とも料理が好きだもんな」 娘「ええ。 面白いアイデア商品なんかもあったりして、陳列されている商品を眺めているだけでも楽しいわ。 珍しい型抜きなんかもあったりするのよ。 わんこやにゃんこの型抜きはよく見かけるのだけれど、この前だなんてキリンさんの型抜きがあったのだから」 なるほどなぁ。 お互いに共通の趣味があると、今時の遊びを知らなくても行くところに困らないわけだ。 娘「あとは雑貨屋さんに寄ってみたり、晩ごはんの買い出しに付き合ったりというところかしら」 八幡「ふぅん。 雪乃は計画的だから、遊びに行くにしても充実した休みになりそうだな」 あのひと、効率厨だし。 ゲームの類いは一切しない雪乃だが、RPGなどにハマった日にはヤバかろう。 たぶん効率厨過ぎて周りをドン引きさせることになるのは想像に難くない。 八幡「それで、二人でいるとき、どんな話をするんだ?」 ゆきのんとプチのんが二人きりで喋るとなると、喋り方どころか会話のテンポすら同じなので、するすると流れるように話が進みそうである。 74: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 それは話せないわ」 とても言い難そうにしながら、ふいっと娘が目を逸らす。 その仕草と声のトーンで、だいたいのところを察してしまった。 幾千幾万八万もの黒歴史に曝されながらも長年研きをかけてきた八幡センサーに死角はない。 ……あっ、これ、悪口を言われてるパターンのやつだ。 むしろ、俺レベルになると、慣れ過ぎて「あー、はいはい、そのパターンね、よくあるやつね」と軽く流せるまである。 ……他人の悪口ならば。 愛しい嫁と娘に悪口を言われるのは、さしもの俺であっても堪える。 ずーんと重たい空気を背負って肩を落としていると、「パパは何か勘違いをしているわ」と娘が焦った様子であたふたと空いたグラスに差し水を注いでくれたりと気を回してくれる。 75: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 若い頃の俺の写真、残ってるんだな……。 友達と写真を撮る機会に恵まれているわけではなかったし、生家もまめまめしく記念撮影をする方ではなかったから、俺の写真というものはほとんど現存していないレア物であった。 娘「パパの表情から鑑みるに、きっと何か後ろ向きなことを考えて気落ちしているのだろうけれど、パパが傷つくような話はしていないわ。 私とママがパパの嫌がることをするわけがないじゃない。 ね?」 テーブルから身を乗り出して、俺の両手を包むように握る娘。 たしかにマイナスに考えて気落ちしてはいたが、そこまで重く捉えていたわけではなくて、精々「母子で俺の愚痴を言ってるのかな……」くらいのものだったのだが。 一所懸命になって娘が誤解を主張するものだから、その勢いに思わず気圧されてしまう。 八幡「お、おう。 いや、てっきり俺の素行を愚痴り合っているのかなぁと思っていたくらいなんだが……」 娘「まさか! ママも私も本人にはきつい口調で接することが多いのだけれど、裏ではパパをベタ褒めだもの! 愚痴を言うだなんて、とんでもないわ!」 誤解を解こうと必死になり過ぎて、自分が何を言っているのかわかっていない様子の娘であるが、今、たぶん俺に聞かせるつもりのなかったことを言ったのではないかと思う。 面白いので少しの間押し黙り、このまま娘を泳がせてみようかしらと話を聞く態勢を整えていると、そんな俺の態度に違和感を覚えた様子の娘の口がピタリと止まる。 そして。 娘「あっ、え、これはその……」 夕陽の映える海の水面のように、さっと面を赤くしながら娘は言葉を失った。 何か言い募ろうとして、しかし結局言葉にはできず、うぅと小さく呻きながら恨めしそうな瞳で俺を見る。 78: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 悪い?」 いや、そんな逆ギレ気味に言われても反応に困る。 え、なに、そんな恥ずかしいことしてるのん? なんか俺まで気恥ずかしくなってきて、べつに喉が渇いているわけでもないのにグラスの水を煽ってしまう。 娘「恥ずかしいからパパには話したくなかったのに……」 赤くなってしまった顔を両手で隠しながら、娘がぶつぶつと恨み言を呟いている。 それで心の整理がつくのなら好きなだけそうしていればいいのだが、その間、俺は娘をどういう気持ちで見ていればいいのか。 なんだか妙に心が浮わついている。 ふわふわと地に足が着かない感覚がある。 娘の話を聞いてから、ずっと頬が弛んでいる自覚があるのだった。 しかし、ニヤケ面を娘に見られるのも恥ずかしい。 娘が自分の殻の中に閉じ籠っているうちに、俺の方でも照れくささに折り合いをつけないと。 娘「……まあ、いいわ。 今日のパパとのデートをママに自慢したおしてやるのだから」 何やら明後日の方向に気持ちの整理をつけた娘が、普段通りの澄まし顔に戻って姿勢を正す。 てゆーか、ゆきのんがとばっちりすぎる。 雪乃は相当な負けず嫌いさんだから、黙って煽られっぱなしということもないのだろうが。 でも、娘の自慢話を聞いて本当に雪乃が悔しがるのであれば、それは少し……いや、正直なところめちゃくちゃ嬉しかったりする。 ゆきのん、まじえんじぇー。 79: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 今日はパパにすごくダメなところばかり見られている気がするわ」 前髪をいじりながら、溜め息混じりに娘が言う。 八幡「そんなことはない。 俺の娘にダメなところがあるわけないだろう」 娘「……前々から思っていたのだけれど、パパは少し身贔屓が過ぎると思うわ」 八幡「陽乃さんには負けるんだよなぁ」 あの邪悪なお姉さんの身贔屓に比べれば可愛いものだ。 あのひと、こないだ大真面目に家の一角にシアタールームを作ることを検討していて、映画を観るんなら俺も呼べよと言ったところ、映画を観るのが主な目的ではなくて、姪っ子を撮り溜めた動画や写真のスライドショーを観るのが目的だと話していた。 金持ちの感覚がわからないとはいえ、流石に身贔屓が過ぎるのは俺にもわかる。 姪は大好きだしシスコンだしで二重苦なはるのんなのであった。 義弟にも優しくしてくれると嬉しいんだけどなぁ。 まあ、俺レベルともなると、嫁大好きだし娘大好きだし妹大好きな三重苦なわけだが。 ……あれ? 俺、陽乃さんに比肩する勢いじゃね? 俺も金さえあれば陽乃さんと同じことをやろうとしていた可能性が高いから笑えない。 白玉ぜんざいも食べ終えて、お互いに恥ずかしい思いをしながらも一息ついていると、不意に娘のポケットが震えた。 娘「ママから電話だわ」 ポケットからスマホを取り出して、表示された画面を見て娘が言う。 娘「まさかパパとのデートを察知して抗議の電話を掛けてきたわけじゃないだろうけれど……」 何用だろうかと訝しそうな顔で画面を見つめて、「ごめんなさい、ちょっと電話に出るから待っていてちょうだい」と断りを入れてから店の外に出て行く。 べつに一緒に店を出て行っても良かったのだが、席を立とうと腰を浮かしたところ、手振りでそれを押し留められてしまった。 81: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 特にすることもなくて、なんとなくメニュー表を眺める。 宇治金時にくずきり餅、夏場には涼しそうな印象の水饅頭。 日本人の味覚に合うように長い年月をかけて研鑽されてきた伝統の味だから舌に馴染むのは勿論だが、こうして改めて見てみると和菓子は視覚だけでも楽しめることに気付かされる。 と、メニュー表に目を落としていると、ふとある一点で釘付けになる。 どうやら二人静という名前の和菓子があるらしい。 独り静なら心当たりがあるんだがなぁ……。 我ながら上手いこと言えてニヤッとしていると、ちょうど電話を終えて戻って来た娘が「どうかしたの、パパ?」と目を丸くしていた。 八幡「んにゃ、べつに。 それよりも雪乃からの電話の内容はなんだったんだ?」 再び娘が対面の席に座ったのを見計らって訊ねる。 娘「ええ。 今ね、ママと結衣ちゃんがお茶していたところにいろはちゃんたちも合流したらしくて、これからうちに遊びに来るって。 だから、もしも家にいるのだったら、少し掃除をしておいてほしいのだけれどってママから……」 八幡「なんだ、一色も合流したのか。 あいつら本当に仲良いよな」 女が三人寄れば姦しいとは言うが、あいつら放っておいたら一生喋ってるからな。 娘「そのあいつらのなかには、勿論、パパも含まれているのよね?」 八幡「ま、まあ、学生時代からの付き合いではあるし、その、なんだ、俺もその輪の中に入っていることもあるが……」 娘「いえ、べつに照れることではないと思うのだけれど」 八幡「だって、今まで友達と呼べる人間が少ない人生を送ってきたものだから、仲が良いとか言われちゃうとリアクションに困る」 娘「理由が切なすぎるわ」 82: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 八幡「ま、遊びに来るのはいいんだが、今外出しているから掃除はできないよな」 もっとも、雪乃も娘も綺麗好きなので、いつ来客があっても恥ずかしくない程度には常に片付いている。 むしろ、掃除をしろと言われても、どこが片付いていないのかわからないまである。 娘「ふふ、私がパパとデートしてるから無理と言ったら、ママってば悔しそうにしていたわ」 そこで一度コホンと咳払いをすると、娘は髪をしゃらっと払う。 娘「私の比企谷くんを勝手に連れ出すなんていい度胸ね。 これは宣戦布告と受け取ってもいいのかしら? 上等よ。 美味しいお菓子を用意して待っているから、帰ったらたんと食べなさい。 そして肥え太るがいいわ」 おそらく雪乃の物真似をしているつもりなのだろう。 しかし、見た目も喋り方も元々雪乃そっくりなものだから、ほとんど素の口調と変化がなかった。 てゆーか。 八幡「なに、その捻デレ。 文句を言っているように見せかけてデレるとか、ゆきのん、まじぱねぇ」 娘「そうね。 誰かさんの影響ですっかり捻デレスキルが身についてしまったらしいわ。 結衣ちゃんが困ったように笑いながら言ってたわよ?」 八幡「ふぅん。 誰かって誰なんだろうなぁ」 娘「さあ、誰なんでしょうね」 八幡「捻くれているといえば陽乃さんかな?」 娘「はるのんイヤーは地獄耳。 その手の冗談はいつの間にか陽乃さんに伝わっているから、迂闊に口にしない方がいいわよ」 それな。 ほんとそれ。 はるのんジョークを言った日には高い確率でバレてしまうのだった。 84: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 八幡「ところで、お菓子を用意しているという話だが、まさか由比ヶ浜の手作りではないだろうな?」 娘「パパ、結衣ちゃんに失礼よ。 昔のことは噂でしか知らないけれど、今では食べた者を必ず仕留めるというポイズンクッキングぶりはなりを潜めているじゃない」 まあ、確かに。 雪乃と一色の指導の甲斐あって、お菓子作りはかなり上達している。 お菓子作りの腕は。 飽くまで、お菓子作りの腕は。 他の料理に関しては……、まあ、お察しである。 八幡「まあ、なんだかんだ言いながらも、実のところ、由比ヶ浜の下手っぴなお菓子が嫌いじゃなかったんだよなぁ」 娘「パパ、マゾなの?」 八幡「いや、そういうわけじゃねぇけど……」 お世辞にも美味しいとは言えない由比ヶ浜のお菓子を食べると思い出すのだ。 俺が奉仕部として受けた初めての依頼、雪乃と由比ヶ浜と深く関わり合うようになったきっかけ。 美味しいとは言えないけれど、出会った当時の記憶を手繰り寄せるよすがになるから、実は由比ヶ浜のポイズンクッキングが嫌いではなかったりするのだった。 それが近頃ではマシなものを作るようになったものだから、少しだけ寂しいような心持ちになる。 娘「まあ、ママが用意しているというお菓子は既製品らしいのだけれどね。 結衣ちゃんと遊びに行った先のケーキ屋さんが美味しかったものだから、お土産にそこのシュークリームとプリンを買って帰るそうよ?」 八幡「ほぉ。 それは楽しみだ」 ケーキ屋さんのプリン、結構好きなんだよなぁ。 市販のプリンとはまた違った味わいがあって、たまに無性に食べたくなるときがある。 娘「それじゃあ、私たちもここの和菓子を手土産にして帰る?」 八幡「ああ、そうだな。 それは構わないんだが、もう帰ってしまってもいいのか? まだ日は高いぞ?」 85: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 帰るには早い時間のように思えるが……。 娘「そのことだけれど、今日は元より早いうちに帰るつもりだったから大丈夫よ?」 八幡「ん、そうなのか?」 朝の気合いの入れようを思い出すに、てっきり遊び倒すつもりでいるのかと思っていた。 娘「ええ。 だって、その、パパはせっかくの休日なのだし……。 一日中連れ回すのは悪いわ」 それに、と続けて、娘が冗談めかして唇を尖らせてみせる。 娘「それに、嫉妬したママに太らされるのは嫌だもの」 八幡「じゃあ、逆に太らせてやるか。 何をお土産にする?」 メニュー表を指で示しながら娘に問うと、しばらく顎に手を当てて考え込んだのち、「すみません」と店員さんに声をかけた。 娘「いくつか持ち帰りたいのですが、人気商品を数点教えてもらえますか?」 無難で堅実な娘であった。 それから店員さんに薦めてもらった品を包んでもらって、お土産の用意ができるのを店内で待つ。 八幡「もっと中学生らしく、フィーリングに従って自分が食べたいものを包んでもらってもよかったんだぞ?」 娘「いえ、こういう場合は店員さんにお薦めを訊ねるのが結果的に一番良い選択なの。 下手なものを薦めると二度と来店してくれなくなる可能性があるから、店の方でも本当に自信のある商品しか薦めないわ。 だから、何が美味しいか率直に訊くのが店にとっても私たちにとっても一番なの」 86: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 ……んで、それは誰の入れ知恵だ? どこの邪悪なお姉さん?」 娘「やめなさい。 だから陽乃さんに失礼だってば」 八幡「おい、ばか、誰も陽乃さんとは言ってないだろ」 娘「ほとんど言っているようなものじゃない。 もっとも、陽乃さんの教えで間違えていないのだけれど」 でも、やっぱり陽乃さんじゃないか。 いや、色々なことを仕込んでくれるのは構わないのだが、他にも小町や一色、由比ヶ浜なども好き勝手に知恵を授けていくものだから、娘がどんどん中学生らしくなくなってきている。 それでも可愛げが失われないあたり、流石のプチのんなのであった。 やはり俺の娘が世界一可愛いという真理は揺らぐことがない。 と、そうこうしているうちに土産の用意ができたようで、店員さんが「お待たせしました」と商品を持って来てくれる。 それから、代金を支払い、土産を受け取ると、本に和菓子を抱えて店を出た。 娘「……パパの両手埋まっちゃったわね」 じとっとした目を本と和菓子に落として不服そうに言い募る娘。 八幡「じゃあ腕でも組むか?」 娘「そうしようかしら……」 八幡「え、いや、ツッコミ待ちだったんだが」 それはちょっと……、と断られるのを前提に言ったので、真剣に検討されてしまうと返す言葉に困ってしまう。 そして、困っているうちに腕に暖かな感触があった。 ふわりと鼻腔をくすぐる甘い匂いで、本当に娘が腕を組んできたのだと気がつく。 俺の肩口の辺りでじゃれつくように踊る娘の髪がいやにくすぐったかった。 90: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 娘「ねえ、パパ?」 腕を組むというより、もはや俺の腕を大事に抱え込むようにしている娘が言う。 娘「このまま家に帰ってしまう前に、せっかくだから記念写真を撮りたいのだけれど……」 八幡「それは構わないが、記念写真というほど大したものでもないだろ。 その、なんつーか、いつでもデートくらいするし。 むしろ、こっちからお願いするまである」 娘「それ、本当? また私とデートしてくれるの?」 ぐっと顔を寄せて言質を取ろうとする娘の圧が凄まじくて、のけぞって距離を確保しながら、おう、と肯定する。 娘が親離れする日は近い将来必ず来るわけだが、せめてそれまでは傍にいたいと思うのだ。 娘「それじゃあ、こっち」 娘に軽く腕をひかれながら、往来を行き交う人々の妨げにならないように路側の脇に寄る。 娘はポケットの内を探ってスマホを取り出すと、カメラアプリを起動して構えた。 娘「撮るわよ?」 八幡「あいよ」 娘「はい、ちーず」 91: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 掛け声から撮影までの一連の流れがテンポよく過ぎ去り、つい娘の悪戯を見逃してしまいそうになる。 しかし、今の一瞬、何かがおかしかった。 八幡「……恥ずかしくねぇの?」 娘「……恥ずかしいに決まっているじゃない。 でも、フリだけなのだし、それに思い出が欲しかったのだもの」 スマホの画面には先程の写真が表示されていて、そこには俺の頬に口付けするように顔を寄せる娘の姿があった。 写真の娘の顔はかなり赤くなっていて、やはり悪戯を仕掛けてきた当の本人も相当恥ずかしかったようであった。 赤面症というわけでもないが、元々の色が白いだけに赤くなるとすぐにわかる。 顔だけではなくて首筋まで赤くなってしまっていた。 八幡「そんなに恥ずかしいならやめときゃいいのに」 娘「いいえ。 またデートをしてくれるという約束をパパが忘れないようにエピソード記憶と結びつける必要があったから、恥ずかしくても意味のあることだったわ。 これでパパは何か恥ずかしいことがあったとき、今の写真撮影のことを連想して、そこから私とまたデートをする約束をしたことを思い出すの」 何やら理屈っぽいことを口にする娘。 が、そんなことよりも、スマホをポチポチと弄って、今の写真をどこかに送っているようだが、それはどこに送っているのだろう? 娘「もちろん、ママよ」 訊ねると、すぐに返答がある。 93: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 てゆーか、なぜママのんを煽るのん?」 娘「そんなの決まっているじゃない」 問えば、娘はふふんと不敵に笑う。 娘「妬いているママって、まるで恋する少女のようで可愛いのだもの。 つい煽ってしまうのも仕方ないことだわ」 もちろんなのかー。 ……いやぁ、ちょっと、プチのん、マザコン過ぎやしませんかねぇ。 そして、ゆきのんへの愛情の向け方が歪んでいる気がすると思うの。 陽乃さんのダメなところが見事に受け継がれているようだった。 もっとも、これも捻デレのうちに入るのであれば、俺の影響と言えなくもないのだが。 娘が写真を送り終えると、少しだけ間があって彼女のスマホが震える。 流れから察するに雪乃からだろう。 娘「ママからメールだわ」 八幡「なんて?」 娘「冬休みの間中、姉さんのところに預けるわよって」 八幡「ゆきのんは陽乃さんをなんだと思ってんだか。 失礼だろうが」 94: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 あちゃー、ついに娘にまで溜め息をつかれるようになっちゃったかー。 しかし、我が家で陽乃さんネタは鉄板だからなぁ。 やめられないとめられないなんだよなぁ。 娘「あら?」 何かに気がついたようで、スマホの画面をタッチする娘。 八幡「うん?」 娘「いえ、ママからのメールにも写真が添付されていたようだから」 八幡「ほぉん」 娘が写真を見せてくれるから、どれどれと身を屈ませて画面を覗き込む。 95: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 両隣から体を寄せられて、顔を赤らめている雪乃。 視線もスマホのレンズではなくて斜め上に固定されていて、ぎこちない様子が隠しきれない。 いや、そろそろ慣れてもいいのではと思うのだが、うぶなゆきのんが可愛いからもうなんでもいっかとも思う。 八幡「ん? そういえば、この写真、三人とも全身が写ってるけど、一体誰はすが写真を撮ってるんだ?」 娘「それ、ほとんど答えがわかってるじゃないの。 そうよ、一色くんよ。 いろはちゃんと一緒にママたちに合流したみたい。 さっき電話でママが言ってたわ」 ということは、チビはすもママはすとデートしていたわけか。 八幡「あの年頃の男子って、母親とデートするの嫌がるもんじゃねぇの?」 娘「嫌がっても無駄よ。 いろはちゃんが見逃してくれるわけがないじゃない」 訂正。 デートしていたのではなくて、デートさせられていたみたいだった。 娘「お母さんとデートできて嬉しくない息子がいるわけないじゃないですかぁー?」 八幡「チビはす、マジ不憫」 今回も娘の物真似が似ているものだから、チビはすが一色に捕まる様がありありと想像されて、やはり不憫に思えて仕方なかった。 miuも買って帰らなくちゃ。 そして、妙な使命感に燃える俺なのであった。 96: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 娘「ちょうどいいわ。 家に帰ると一色くんがいるのであれば、さっそく総武を受験するように洗脳しないと。 場にいる面子も全員総武出身なわけだし、畳み掛けるのであれば今日をおいて他にないわね」 目を細めて企み事を膨らませている様子の娘。 八幡「どうあってもチビはすを手元に置くつもりなんだな」 娘「当然よ。 全自動告白お断り窓口……、ではなくて、えっと、そう、一色くんがいれば、高校生活も有意義に過ごせることでしょう」 いつもの澄まし顔が少し崩れて、口角を上げながら娘が言う。 うーん。 八幡「……まあ、捻デレは遺伝するから仕方ないね」 娘「……誰もデレてはいないのだけれど」 八幡「そうか?」 娘「ええ」 父親の目から見て十分デレていたと思うのだが、うちの人間は対人関係において基本的に面倒なところがある人間ばかりだから、あまり強くデレていたとも断言できなかった。 娘「いいかしら、パパ。 デレるというのはね、こういうことを言うのよ?」 俺の肩に手をかけて精一杯背伸びをすると、耳元に唇を寄せて「今日は一日付き合ってくれて有り難う。 愛しているわ、パパ」と吐息混じりに娘が囁く。 何やらこそばゆい感覚が消えなくて、娘の顔が離れたあとになって耳を服の袖口でゴシゴシと擦った。 97: やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 ……その、ありがとうな」 娘の言葉に対して俺も気持ちを返したいと思ったのだが、娘のように「愛している」の言葉が出てこない。 漱石先生の言うように、その言葉は日本人にとってハードルが高いようなので、代わりに「ありがとう」の五音に様々な気持ちを織り交ぜて伝えるのであった。 こんなぶっきらぼうなやり方で正しく気持ちが伝わったかわからないけれど、娘が幸せそうにして俺の肩に頬をすりつけるので、少なくともいくらかは伝わっているようだと安堵した。 そして、娘と二人、家路を辿る。 朝、家を出たときよりも荷物は増えたが、気持ちは軽いままだ。 疲れはしたが、心は充実感で満ちている。 俺を叩き起こしたとき、娘が言ったように、今日は有意義な一日となった。 何よりも俺の娘こそが世界でもっとも可愛いと確信を持てたという点において有意義であった。 しかし、帰るまでがデートであるから、気を抜いてはいけない。 なんなら家に帰ると由比ヶ浜や一色がいるようなので、なおさら気が抜けない。 今日の娘とのデートを反芻してニヤけ、家に帰ってからの一日を考えてさらに頬を弛めるのであった。 shitaraba.
次の俺は比企谷八幡。 総武高校2年……だったのは、もう10年も昔の話だ。 ……いや、今言いたいのはそう言うことじゃなくて。 結婚して5年目、正直罪悪感がヤバい。 毎朝くたびれた顔をして出勤し、そして毎晩さらに、くたびれたを通り越して死にそうな顔をして帰ってくる妻を見ていると、それに比べて俺は一体何をしているのかという気持ちになる。 雪乃の力になってあげれない自分が、嫌になってくる。 俺は俺なりに、せめて雪乃がすぐ休めるようにと色々と気をつかっているつもりなのだが、それでも今のところ、雪乃の体調の維持が精一杯だ。 最近は、あれほど雪乃が愛して止まなかったパンさんもこの家から忽然と姿を消している。 体力の回復に精一杯で精神の安らぎにまで割いている時間がないのだろう。 もはや、無力感を通り越して俺が雪乃を追い詰めているのではないかと思うまである。 第一章 やはり比企谷八幡は変われない 「……ふぁ」 朝5時。 冬場は寒く、出来ればこのままベッドから出たくはないが、そんなことは言っていられない。 主夫の朝は早いのだ。 「今日は月曜日……燃えるゴミの日だな。 」 安直なセリフに聞こえるかもしれないが、実はこうやって逐一声に出して物事を確認すると言うのは、家事をするに当たってとても大切なことである。 下手をすると、 「あれ、俺って次、何をするんだっだっけ……」 となって、また確認する羽目になり、二度手間、つまり時間の無駄になる。 俺は無駄なことは絶対にしたくないタイプだからな。 例えば日曜の朝にそんなことしてみろ。 プリキュアが見れなくなる。 ……まあ、最近はそのために30分も時間を使うのが申し訳なくなってきて、見る機会も少なくなってきているんだけど。 雪乃は日曜だろーとなんだろーと連日出勤である。 どうやら、労働基準法というのは労働者のみに適用されるものであって、使用者にとってはどれだけ働こうが関係のないものらしい。 それが本当にそうなのかは知らないが。 まあ、それはともかくとして。 「……ああ、八幡、おはよう。 早いのね……」 「……ん、ああ、おはよう」 雪乃が起きてきた。 現在時刻午前5時42分。 ちょうど朝ごはんが出来上がったタイミングだ。 「……それで、今日は何時くらいに帰ってこれそうなんだ?」 「えっと……10時くらいかしら」 ……どうやら今日は帰ってこれないようだな。 目線が泳いでるぜ、バレバレだ。 「わかった、じゃ、そうする」 「ええ、何て言うか、その……ありがとう、私のために」 ……最近こいつは、全く毒舌を吐かなくなった。 高校時代には、あんなに、息をするように吐いていた毒舌を。 原因はやはり、仕事だろう。 おかげで、日々の会話が味気ない。 感謝の言葉しか並べられていない会話なんか、はっきり言ってうんざりするだけだ。 それでも俺は、 「いや……まあ、仕事、頑張れよ」 こんな答えしか返してやることができない。 気のきいた言葉なんて、返してやることができないのだ。 今日は結婚記念日だというのに…… 青春時代、それこそ10年前には、女って、何でそんなに記念日を気にするんだろうな、と思っていたものだが、今となると、その気持ちがよーく理解できる。 要は、口実だ。 大切な人と一緒にいるための口実。 本来女性が立っている方が多いポジションに立ってみて、それが理解できた。 ……俺が女性的になった訳じゃないよ?うっふんとか言わないよ? 「八幡、シャワーを浴びてくるわ」 「わかった」 雑談ばっかりでストーリーが全然進んでいない間も、どうやら雪乃は、しっかりと出勤の準備を進めていたようだった。 それから一時間後。 シャワーを終えた雪乃は、用意されていた朝ごはんを食べ、化粧を済ませて、今正に出勤しようとしていた。 俺は玄関先に見送りに行く。 「……できるだけ、早く帰ってくるから」 そう言って浮かべる笑顔でさえ、俺たちがあれほど嫌った嘘や欺瞞で繕われているように感じる。 今の雪乃は。 もはやあの頃の雪乃ではない。 「わかった」 しかしそれは、俺にも言えることなのかもしれなかった。 本当は分かってなどいないのに。 仕事になんかいって欲しくないのに。 つい、「いつもの流れで」言ってしまう。 それが惰性であると知っていても。 「……いってきます」 「いってらっしゃい」 ……違う、そうじゃない。 俺は何も変わってなんかいない。 相も変わらず、俺はそれ以外の選択肢を持てないでいるのだ。 10年前のように。 第二章 しかし材木座義輝は暴走する。 その日の午後、俺の携帯にとある人物からの着信があった。 材木座義輝。 10年前、よく奉仕部に依頼をしてきた、常連のうちの1人だ。 今は確か…… 出版社を起こしたんだっけ? とりあえず電話に出る。 「もしもし」 「ふはははは!我だ!八幡!」 プツッ。 ……プルルル。 「もしもし」 「あ、もしもし八幡?我」 「おう、材木座か」 「あー、今時間大丈夫?」 「ん、良いぞ」 ……一回電話を切ってから出る。 これ材木座と話すときの常識。 一回目で出ちゃうと、終始あのテンションだから疲れる。 「それで、何の用だ?」 「えっと、仕事だ」 「またか……」 「なっ!ちゃんと報酬は払っておるではないか!無礼な!」 「はいはい……」 材木座は、月1のペースで俺に仕事を依頼してくる。 なんてことはない、ただのモニタリングだ。 材木座のところで発刊した本を読んで、どんな年代の、またどんな性別の人に売れそうかを教える。 ……それだけで、何と不労所得が月20000円! Youtuberもビックリだ。 まあ、あいつがそれで助かるってんなら、断る理由もない。 現に、本屋で「あ、これ読んだやつだ」という本を見つけたこともある。 売れたかどうかは知らん。 「……で、今回のは何だ?」 「実はな、今回の原稿は、何と我が直々に書き上げたのだ!」 「……ほう」 こいつ、実はあの2年間で並々ならぬ文章力を身につけ、大学のサークルで見事電撃大賞を受賞、一時期プロのラノベ作家でもあったのだ。 そんなあいつが新作を出すとは。 高校時代とは違ってワクワクするぜ。 「原稿は既に送ってある。 では八幡!また会おう!」 「ああ、材木座、待て」 「何だ?八幡、我が友よ」 ……そういえば、こいつも一応、社長、なんだよな。 「……聞きたいことがある」 「わかった、手を貸そう」 ただし、 と、材木座は付け加えた。 「我はまだ昼食を取っておらん。 場所はこちらが指定する。 よいな?」 「ああ、構わない」 「であればよし!今から向かうぞ、八幡よ!」 ピッ。 「わははは!おい秘書よ!我はちょっくらサイゼリヤに行ってくるぞ!」 ……あ、あいつ、間違って通話ボタン押しやがったな…… どうやら材木座の携帯はハンズフリー状態のまま放置されているらしく、周囲の喧騒がけたたましく聞こえてくる。 相変わらずうるさい職場だ。 ま、社長があれだからな…… そうして、俺が電話を切ろうとした時だった。 「もしもし、勝手にお電話変わりました。 秘書の戸塚と申します。 ……えへへ、八幡、久しぶりだね」 お、戸塚だ! やった! 「おう。 大丈夫か、職場に毒されてないか?戸塚」 「あはは、とっても楽しいよ!あ、そうだ!そういえば、今度結衣が遊びに行きたいって言ってたから、来週あたり、またお邪魔させてもらうねー!」 「わかった、待ってるぜ!」 「……と、そうだ、もうひとつ。 ねえ八幡、材木座くん、八幡と話せると、すっごく喜ぶんだよ!だからさ、えっと、お仕事じゃないときにも、良かったらお話してあげてね!」 「戸塚の頼みだからな、わかった」 「ふふ、八幡らしいや。 じゃあ、集合場所はサイゼリヤっぽいから、遅れないようにねー!」 そう言って、戸塚は電話を切った。 来週戸塚が家にくる…… やった! これはパーティーだな! 久しぶりに由比ヶ浜とも話ができるから、雪乃も喜ぶだろう。 雪乃が居ればだけど…… …… ダメだ。 早く材木座の所に行こう。 俺は、急いでサイゼリヤに向かった。 第三章 そして比企谷八幡は思い出す。 急いで準備を整え、二十分後。 サイゼに着いたはいいものの、結構混んでんな…… 辺りを見渡して、とりあえず体格のいいやつを探す。 すると、 「 おーい、八幡!」 そこにはこちらに向かって手を振る天使の姿が! あとついでに材木座! 材木座、ナイス目印だ! 流石の体格だぜ! ひとまず、二人と合流することに成功した。 が、材木座は、 「おっと、漆黒の堕天使が我を呼んでいる!とうっ!」 ……などと言い、まあ、食事の場なので後は伏せる。 気持ち悪いから黙って行けよ…… しかし、材木座が居なくなったことによって、言っちゃ悪いが、最高の状況が生まれたのだ。 俺は今、戸塚と二人っきりである。 目の前に戸塚。 俺の目の前に戸塚。 いやあ、随分と久しぶりだなぁ…… 年甲斐もなく、ついはしゃいでしまいそうである。 ……しかし、今はお互い家族持ち。 それに加え、戸塚の方は一家の大黒柱。 見た目はそんなに変わらないけど、やはりどこか、父親としての威厳が感じられるのだった。 「えへへ……やっほー、八幡」 しかし。 やはり戸塚はとつかわいい。 「ねぇ、八幡はご飯食べた?」 「あ……食べたけど」 「そっかー、八幡主夫だもんね!」 ……今のはポジティブに捉えて良いのだろうか。 「うちの主婦も、もうちょっと頑張ってくれたらなぁ……」 そう言って、冷たい視線を斜め下に向ける戸塚。 どうやら、由比ヶ浜の料理の腕は相変わらずらしい。 ……というか、今、何か見てはいけない物を見てしまったような気がする。 戸塚は、すっかり世の働くお父さんだった…… 「はっちまーん!待たせたな!懐かしの剣豪将軍再臨!」 ……おっと、どうやら材木座が帰ってきちまったらしい。 「むむっ、何だ八幡!その冷たい視線は!もしや新たなる闇の力、アイズ・オブ・アイスか?」 「あー、また始まっちゃったね……」 「おい材木座、戸塚が引いてんだろ、やめろ」 「いいよ、慣れてるから」 材木座、お前いつの間に戸塚とそんな中に…… あれか、単純接触効果か!? ……とか何とか言って、俺達はしばらくの間、久しぶりの再会を祝うようにはしゃいでいたのだった。 しかし、やはりその時は訪れた。 「……ところで八幡、話って何?」 「そうだそうだ、我も気になってたところだ」 「ああ……そうだったな」 とは言っても、本当に忘れていた訳ではない。 むしろ、今までオーバーにはしゃいで、無理やり頭の片隅に追いやっていたようなものだ。 いざ話し始めるとなると、怖くてしょうがない。 しかし同時に、そんな悠長なことを言っていられないのも、また現実だった。 「何でも聞くよ、八幡」 「ああ、遠慮なく話せ」 「……ありがとう」 正直話しづらかったが、俺は、最近雪乃が働きづめで全然休めていないこと、それも、体力、精神力共にもう限界に近いであろうこと、そのせいで、夫婦仲があまり芳しくないことなどを、彼らに打ち明けた。 そして、 「なあ、材木座。 お前も一応、雪乃と同じ社長だろ?今の話を聞いて、何か俺にできることがないか、考えつかなかったか?」 ……だから何だ、と言われそうな質問だが、俺は藁にもすがる思いで材木座に問う。 しかし、ついにその答えが帰ってくることはなかった。 その代わり、 「……ねぇ材木座くん」 「……うむ」 二人は、俺の話が終わるや否や、何かこそこそと話をし始めた。 「な、何かあったのか?」 「いや、ちょっと……ね」 「うむ……」 「何だよ、その曖昧な返事は」 「だって……ねぇ、材木座くん」 「うむ……八幡よ、これは本当に言いづらいことなのではあるが……」 「「変わったね な 、八幡」」 「……っ!!」 がばっと、俺の心が抉られる。 それはつまり、この一連の原因は俺にある、ということなのだろうか。 やはり、俺が悪いのだろうか。 ……いや、そんなこと、分かりきっていたことだ。 俺が悪い。 それはわかっていた。 雪乃はあんなに頑張っているのだから。 ……対して俺は、何もしていないのだから。 「……八幡」 帰り道、不意に戸塚が口を開いた。 「八幡てさ、雪乃さんのどこを好きになったの?」 「……」 「悩むよね。 多分、僕が想像している以上に、八幡は雪乃さんの良いところをいっぱい知ってて、それで、雪乃さんを好きになったんだと思うから」 「……」 「それはわかる……僕も同じ」 「……ああ」 「僕はね、八幡。 葉山くんよりも、八幡よりも」 「……そうか」 「これは別に、そりゃあ結婚したからつまりそういうことだろう、っていう話じゃないんだ。 だから、もし、これで結衣が他の男の人と結婚していても、いやらしい話、それでも僕は結衣と結婚できると思うよ。 それでも結衣は、きっと僕を選んでくれるって、そう確信できる」 「……っ!」 「逆も同じだ。 もし僕が結婚していても、どこかで結衣と知り合うことがあったならば、僕はなりふり構わず、結衣に結婚を申し込むだろう。 そして一緒に子供を作って、幸せな家庭を築いていくんだ……今のように」 そう言って戸塚は、今までに見たこともないような満足げな顔をして…… そしてまた口を閉じた。 「……俺には」 俺には果たして、そんなことが言えるのだろうか。 相手の幸せを奪ってでも、 自分の幸せを投げ棄ててでも、 それでも一緒になりたい、だなんて…… ………………。 10年前、俺は、彼女にしっかりと伝えたはずだ。 自分の言葉で、ハッキリと伝えたはずだ。 ただそれを、今まで10年間、うっかり忘れていただけ。 ああ、そうだ。 そういうことだったのか…… ……瞬間、視界がパッと開けた感覚があった。 横を見ると、戸塚が微笑んでいた。 「……僕の言いたいことは、分かってくれたかな?八幡」 「……ああ、ありがとう、戸塚」 これでようやく、思い出すことができた。 10年前の覚悟を。 俺と彼女の、最初で最大の約束を。 ……そういえば、今日は結婚記念日だ。 あの約束を果たすのには、丁度タイミングがいい。 帰ったら、雪乃と二人で話し合おう。 そう思って、俺は戸塚に礼をいい、今度こそ帰路に着いたのだった。 ……しかし。 その日、やはりいくら待っても雪乃が帰ってくることはなかった。 第四章 しかし雪ノ下雪乃は煩悶する。 ……ふぅ、やっと片がついたわ。 時刻は……午前1時。 ああ、今年もダメだった…… ごめんなさい八幡、あなたも今日が何の日だったか、知らない訳ではないでしょうに…… 今日は……昨日は、私達の結婚記念日。 まあ、世の中には、結婚記念日なんてどうでもいい、なんて言う人達もいるのだけれど、私達にとってこの日は、ある特別な意味合いを持っている日でもある……それを八幡が覚えているのかは分からないけれど、毎年、期待してしまうものがあるのも事実。 つまり、私達にとってこの日は、一年の中で、互いの誕生日に続く3番目の記念日。 そんな大切な日を私は、こうして会社にいながら終えてしまった。 今年で3回目、いい加減八幡も怒っているわよね…… 「……はぁ」 独りでに出てくるため息も、もう何百回聞いたのだろう。 ため息をすると幸せが逃げて行くって言うけど、もしかしたらそれは、あながち迷信ではないのかも知れない…… 「社長、お疲れさまです」 「ええ、お疲れ様。 今日はもう遅いから、上がっていいわよ」 「え……あ……分かりました、失礼します」 「八幡……ごめんなさい」 私は、いつからか人の仕事まで背負いたがるようになっていた。 理由は分かっている。 ただの口実作り。 家に帰らないための、詭弁でしかない言い訳を求めているのだ。 八幡のため、と、自分にそう言い聞かせながら。 多分、今更私が家に帰ったところで、きっと八幡は、私の体を気遣ってすぐに寝るよう勧めてくるだろう。 自分の感情に、必死にブレーキを掛けながら、またムスッとした、しかし優しいあの顔で、不満など一切漏らさずに、私を迎えてくれることだろう。 私は、それを見るのが何より辛い。 ……彼はずっと隠し通せていると思っているのでしょうけど、実は、私はとっくに気づいている。 彼が、私達の間に子供を望んでいることを。 私だって、子供は欲しいと思っているわ。 あの人の子供を産んで、1日でも早く、今よりもさらに幸せな家庭を作りたい…… でも、未だにそれができないでいる。 私の仕事のせいで。 彼は優しいから、いつも私のことを優先してくれる。 朝も、いつも早い時間からご飯を作ってくれているし、帰ってきても、家の中はいつもキレイに整頓されていて、私がすぐに休めるようにベッドの用意までしておいてくれる。 私も、ついその優しさに甘えて、自分の体調の方をとってしまう…… 私のせいで、彼がどれだけ辛い思いをしているか。 私の弱さのせいで、彼がどれだけ心の中で泣いているか。 分からない訳ではないのだけれど、自分ではどうすることもできない。 だから、逃げる。 八幡の優しさを利用して、彼とのコミュニケーションを避ける。 避けつつも、心の中では彼の言葉を待っていたりする。 「……八幡、許して」 今のところそれが、私が言える精一杯の言葉だった。 携帯が鳴った。 ……葉山くん? 一体何の用かしら…… いや、違ったわ。 そういえば、私が彼に連絡を取ったのだった…… ああ、本当ダメね、私。 「もしもし、葉山くん?」 「ああ、雪乃ちゃんかい?」 「ええ、そうよ。 わざわざ連絡してくれてありがとう」 「何だ、覚えていたのか……正直、ちょっと不安だったよ」 そう言って、葉山くんは軽い笑みをこぼした。 彼にまで見抜かれるなんて…… 「まあ、こっちもちょうど今、決心が固まったところだからね。 タイミング的にはバッチリだ」 「今……?」 「まあ、詳しい話はうちでするんだろう?僕はもう少しで着くところだから、そろそろ雪乃ちゃんにも向かって欲しいかなーって」 「わかった、すぐ行くわ」 「待ってる」 ピッ。 …… 本当に、最低な女。 結局、自分のことしか考えてないんだから。 時間通り、私は葉山くんの家に着いていた。 「いらっしゃい、雪乃ちゃん」 「おじゃまします」 リビングに通され、葉山くんは何か飲み物を、と言いキッチンへ、私はそのままソファーに座る。 数分後、葉山くんはワインとグラスを持って戻ってきた。 「あの、私は、アルコールは……」 「ああ、そうなのか。 じゃあ、すまないが僕だけいただくことにするよ……素面じゃ、やっぱり厳しいところがある」 「……構わないわ」 葉山くんは、そう言ってワインをグラスに注ぎ、少しだけ口に含んだ。 「……じゃあ、最後に聞くけど、今からのことを聞いて、決して、雪乃ちゃんは罪悪感を抱かないでくれ。 悪いのは僕だ」 「分かったわ……」 「それと……あとはいいか。 じゃあ、短いが、語らせて貰うとしようか。 大学2年生で、当時の僕は、何も知らないまま家庭をもつことになった。 相手はどこだかのご令嬢。 お見合い結婚。 ほぼ政略結婚みたいなものだった。 それでも僕たちは、最初のころは、とても幸せだったんだ。 子供も作ったし、円満だった。 でも、それを壊したのは僕だ。 僕が彼女を信じきれなかったせいだ。 ……ある日のことだ。 僕はその日、接待でとあるホテルのレストランに行ったんだ。 結構名の知れたところでね、それなりに客もいた。 接待は順調、このままいけば、あと数分で終わりそうな、そんな時。 その客の中に、男を連れた彼女を見つけてしまった。 向こうも僕を見つけたようだった。 動揺した。 見間違いだ、と何度も自分に言い聞かせた。 詭弁でも何でもいいから、とにかく言い訳がほしかった。 とりあえず、そのときは仕事に集中することで何とか乗り切れた。 問題はそのあとだった。 家に帰ると、彼女はやはり気まずそうな顔で僕を迎えてくれた。 どうしたんだ、とか、何で、とか、僕は彼女にそんな質問すら、弁解の余地すら与えてやらなかった。 もしかしたら、僕の誤解かもしれなかったのに。 僕は、そこまで考えてやることすらできなかった。 そして、その後も僕らの間で話し合いは行われることなく、財産も親権も全て彼女に押し付けて、 結局、僕らは離婚した。 話が終わるころには、すでにワインは無くなっていた。 顔が赤い。 相当アルコールが回っているのだろう。 「ええ……ありがとう、葉山くん」 「礼には及ばないよ。 言うなら、それは彼に言ってあげてほしい」 「……どうして?」 「今の僕は、彼のお陰で生きる希望を失わずに済んでいるから。 「……で、僕からのことだけど」 「……はい」 「単純に、信じてやってほしい。 彼の人格を、何から何まで信じてやってほしい。 世の中には二種類の人間がいるが、彼はそれに値する方の人間だ。 雪乃ちゃんが素直になりさえすれば、彼はきっと君の期待通りの答えを返してくれるだろう。 いいか、嘘はつくな。 それでも、私にとってそれは大きなヒントだった。 腹を割って話し合う。 今まで逃げてきたことにピリオドを打つ。 無駄なことは一切なし。 それだけで良かった。 話が終わってから、三分くらい経った後、 「……彩加達の方も、上手くいっているかな」 ふと、彼はそう漏らした。 「戸塚さん?」 「ああ……気にしないでくれ。 それよりほら、こんなに遅くなったんだから、電話の一本でも入れておかなきゃ、あの愛妻家はきっと悶絶し出す頃だと思うよ」 「愛妻家……」 確かに、そうだわ。 葉山くんにもだけれど、私が一番助けられているのは、他でもない彼なんだから。 そう思うと、もういてもたってもいられず、私はすぐさま「我が家」に電話をかけることにした。 「葉山くん、ちょっと失礼するわ」 「ああ、構わない」 プルルル。 午前4時、起床。 ……やはり雪乃は帰って来ていない。 仕方ない、朝食は一人で食べるか…… アイツも忙しいんだろうしな。 そうしてベッドから下りたのだが、部屋の隅に寄せてある洗濯物を見て自分が昨日何をしていたのか、また何をしていないのかを思い出す。 「今のうちにまとめておかなきゃな……」 そう言って、ゴミ袋を取りにキッチンへ向かおうとしたのだが、寝不足のためか、立ちくらみをおこしてベッドに倒れこんでしまった。
次の俺は比企谷八幡。 総武高校2年……だったのは、もう10年も昔の話だ。 ……いや、今言いたいのはそう言うことじゃなくて。 結婚して5年目、正直罪悪感がヤバい。 毎朝くたびれた顔をして出勤し、そして毎晩さらに、くたびれたを通り越して死にそうな顔をして帰ってくる妻を見ていると、それに比べて俺は一体何をしているのかという気持ちになる。 雪乃の力になってあげれない自分が、嫌になってくる。 俺は俺なりに、せめて雪乃がすぐ休めるようにと色々と気をつかっているつもりなのだが、それでも今のところ、雪乃の体調の維持が精一杯だ。 最近は、あれほど雪乃が愛して止まなかったパンさんもこの家から忽然と姿を消している。 体力の回復に精一杯で精神の安らぎにまで割いている時間がないのだろう。 もはや、無力感を通り越して俺が雪乃を追い詰めているのではないかと思うまである。 第一章 やはり比企谷八幡は変われない 「……ふぁ」 朝5時。 冬場は寒く、出来ればこのままベッドから出たくはないが、そんなことは言っていられない。 主夫の朝は早いのだ。 「今日は月曜日……燃えるゴミの日だな。 」 安直なセリフに聞こえるかもしれないが、実はこうやって逐一声に出して物事を確認すると言うのは、家事をするに当たってとても大切なことである。 下手をすると、 「あれ、俺って次、何をするんだっだっけ……」 となって、また確認する羽目になり、二度手間、つまり時間の無駄になる。 俺は無駄なことは絶対にしたくないタイプだからな。 例えば日曜の朝にそんなことしてみろ。 プリキュアが見れなくなる。 ……まあ、最近はそのために30分も時間を使うのが申し訳なくなってきて、見る機会も少なくなってきているんだけど。 雪乃は日曜だろーとなんだろーと連日出勤である。 どうやら、労働基準法というのは労働者のみに適用されるものであって、使用者にとってはどれだけ働こうが関係のないものらしい。 それが本当にそうなのかは知らないが。 まあ、それはともかくとして。 「……ああ、八幡、おはよう。 早いのね……」 「……ん、ああ、おはよう」 雪乃が起きてきた。 現在時刻午前5時42分。 ちょうど朝ごはんが出来上がったタイミングだ。 「……それで、今日は何時くらいに帰ってこれそうなんだ?」 「えっと……10時くらいかしら」 ……どうやら今日は帰ってこれないようだな。 目線が泳いでるぜ、バレバレだ。 「わかった、じゃ、そうする」 「ええ、何て言うか、その……ありがとう、私のために」 ……最近こいつは、全く毒舌を吐かなくなった。 高校時代には、あんなに、息をするように吐いていた毒舌を。 原因はやはり、仕事だろう。 おかげで、日々の会話が味気ない。 感謝の言葉しか並べられていない会話なんか、はっきり言ってうんざりするだけだ。 それでも俺は、 「いや……まあ、仕事、頑張れよ」 こんな答えしか返してやることができない。 気のきいた言葉なんて、返してやることができないのだ。 今日は結婚記念日だというのに…… 青春時代、それこそ10年前には、女って、何でそんなに記念日を気にするんだろうな、と思っていたものだが、今となると、その気持ちがよーく理解できる。 要は、口実だ。 大切な人と一緒にいるための口実。 本来女性が立っている方が多いポジションに立ってみて、それが理解できた。 ……俺が女性的になった訳じゃないよ?うっふんとか言わないよ? 「八幡、シャワーを浴びてくるわ」 「わかった」 雑談ばっかりでストーリーが全然進んでいない間も、どうやら雪乃は、しっかりと出勤の準備を進めていたようだった。 それから一時間後。 シャワーを終えた雪乃は、用意されていた朝ごはんを食べ、化粧を済ませて、今正に出勤しようとしていた。 俺は玄関先に見送りに行く。 「……できるだけ、早く帰ってくるから」 そう言って浮かべる笑顔でさえ、俺たちがあれほど嫌った嘘や欺瞞で繕われているように感じる。 今の雪乃は。 もはやあの頃の雪乃ではない。 「わかった」 しかしそれは、俺にも言えることなのかもしれなかった。 本当は分かってなどいないのに。 仕事になんかいって欲しくないのに。 つい、「いつもの流れで」言ってしまう。 それが惰性であると知っていても。 「……いってきます」 「いってらっしゃい」 ……違う、そうじゃない。 俺は何も変わってなんかいない。 相も変わらず、俺はそれ以外の選択肢を持てないでいるのだ。 10年前のように。 第二章 しかし材木座義輝は暴走する。 その日の午後、俺の携帯にとある人物からの着信があった。 材木座義輝。 10年前、よく奉仕部に依頼をしてきた、常連のうちの1人だ。 今は確か…… 出版社を起こしたんだっけ? とりあえず電話に出る。 「もしもし」 「ふはははは!我だ!八幡!」 プツッ。 ……プルルル。 「もしもし」 「あ、もしもし八幡?我」 「おう、材木座か」 「あー、今時間大丈夫?」 「ん、良いぞ」 ……一回電話を切ってから出る。 これ材木座と話すときの常識。 一回目で出ちゃうと、終始あのテンションだから疲れる。 「それで、何の用だ?」 「えっと、仕事だ」 「またか……」 「なっ!ちゃんと報酬は払っておるではないか!無礼な!」 「はいはい……」 材木座は、月1のペースで俺に仕事を依頼してくる。 なんてことはない、ただのモニタリングだ。 材木座のところで発刊した本を読んで、どんな年代の、またどんな性別の人に売れそうかを教える。 ……それだけで、何と不労所得が月20000円! Youtuberもビックリだ。 まあ、あいつがそれで助かるってんなら、断る理由もない。 現に、本屋で「あ、これ読んだやつだ」という本を見つけたこともある。 売れたかどうかは知らん。 「……で、今回のは何だ?」 「実はな、今回の原稿は、何と我が直々に書き上げたのだ!」 「……ほう」 こいつ、実はあの2年間で並々ならぬ文章力を身につけ、大学のサークルで見事電撃大賞を受賞、一時期プロのラノベ作家でもあったのだ。 そんなあいつが新作を出すとは。 高校時代とは違ってワクワクするぜ。 「原稿は既に送ってある。 では八幡!また会おう!」 「ああ、材木座、待て」 「何だ?八幡、我が友よ」 ……そういえば、こいつも一応、社長、なんだよな。 「……聞きたいことがある」 「わかった、手を貸そう」 ただし、 と、材木座は付け加えた。 「我はまだ昼食を取っておらん。 場所はこちらが指定する。 よいな?」 「ああ、構わない」 「であればよし!今から向かうぞ、八幡よ!」 ピッ。 「わははは!おい秘書よ!我はちょっくらサイゼリヤに行ってくるぞ!」 ……あ、あいつ、間違って通話ボタン押しやがったな…… どうやら材木座の携帯はハンズフリー状態のまま放置されているらしく、周囲の喧騒がけたたましく聞こえてくる。 相変わらずうるさい職場だ。 ま、社長があれだからな…… そうして、俺が電話を切ろうとした時だった。 「もしもし、勝手にお電話変わりました。 秘書の戸塚と申します。 ……えへへ、八幡、久しぶりだね」 お、戸塚だ! やった! 「おう。 大丈夫か、職場に毒されてないか?戸塚」 「あはは、とっても楽しいよ!あ、そうだ!そういえば、今度結衣が遊びに行きたいって言ってたから、来週あたり、またお邪魔させてもらうねー!」 「わかった、待ってるぜ!」 「……と、そうだ、もうひとつ。 ねえ八幡、材木座くん、八幡と話せると、すっごく喜ぶんだよ!だからさ、えっと、お仕事じゃないときにも、良かったらお話してあげてね!」 「戸塚の頼みだからな、わかった」 「ふふ、八幡らしいや。 じゃあ、集合場所はサイゼリヤっぽいから、遅れないようにねー!」 そう言って、戸塚は電話を切った。 来週戸塚が家にくる…… やった! これはパーティーだな! 久しぶりに由比ヶ浜とも話ができるから、雪乃も喜ぶだろう。 雪乃が居ればだけど…… …… ダメだ。 早く材木座の所に行こう。 俺は、急いでサイゼリヤに向かった。 第三章 そして比企谷八幡は思い出す。 急いで準備を整え、二十分後。 サイゼに着いたはいいものの、結構混んでんな…… 辺りを見渡して、とりあえず体格のいいやつを探す。 すると、 「 おーい、八幡!」 そこにはこちらに向かって手を振る天使の姿が! あとついでに材木座! 材木座、ナイス目印だ! 流石の体格だぜ! ひとまず、二人と合流することに成功した。 が、材木座は、 「おっと、漆黒の堕天使が我を呼んでいる!とうっ!」 ……などと言い、まあ、食事の場なので後は伏せる。 気持ち悪いから黙って行けよ…… しかし、材木座が居なくなったことによって、言っちゃ悪いが、最高の状況が生まれたのだ。 俺は今、戸塚と二人っきりである。 目の前に戸塚。 俺の目の前に戸塚。 いやあ、随分と久しぶりだなぁ…… 年甲斐もなく、ついはしゃいでしまいそうである。 ……しかし、今はお互い家族持ち。 それに加え、戸塚の方は一家の大黒柱。 見た目はそんなに変わらないけど、やはりどこか、父親としての威厳が感じられるのだった。 「えへへ……やっほー、八幡」 しかし。 やはり戸塚はとつかわいい。 「ねぇ、八幡はご飯食べた?」 「あ……食べたけど」 「そっかー、八幡主夫だもんね!」 ……今のはポジティブに捉えて良いのだろうか。 「うちの主婦も、もうちょっと頑張ってくれたらなぁ……」 そう言って、冷たい視線を斜め下に向ける戸塚。 どうやら、由比ヶ浜の料理の腕は相変わらずらしい。 ……というか、今、何か見てはいけない物を見てしまったような気がする。 戸塚は、すっかり世の働くお父さんだった…… 「はっちまーん!待たせたな!懐かしの剣豪将軍再臨!」 ……おっと、どうやら材木座が帰ってきちまったらしい。 「むむっ、何だ八幡!その冷たい視線は!もしや新たなる闇の力、アイズ・オブ・アイスか?」 「あー、また始まっちゃったね……」 「おい材木座、戸塚が引いてんだろ、やめろ」 「いいよ、慣れてるから」 材木座、お前いつの間に戸塚とそんな中に…… あれか、単純接触効果か!? ……とか何とか言って、俺達はしばらくの間、久しぶりの再会を祝うようにはしゃいでいたのだった。 しかし、やはりその時は訪れた。 「……ところで八幡、話って何?」 「そうだそうだ、我も気になってたところだ」 「ああ……そうだったな」 とは言っても、本当に忘れていた訳ではない。 むしろ、今までオーバーにはしゃいで、無理やり頭の片隅に追いやっていたようなものだ。 いざ話し始めるとなると、怖くてしょうがない。 しかし同時に、そんな悠長なことを言っていられないのも、また現実だった。 「何でも聞くよ、八幡」 「ああ、遠慮なく話せ」 「……ありがとう」 正直話しづらかったが、俺は、最近雪乃が働きづめで全然休めていないこと、それも、体力、精神力共にもう限界に近いであろうこと、そのせいで、夫婦仲があまり芳しくないことなどを、彼らに打ち明けた。 そして、 「なあ、材木座。 お前も一応、雪乃と同じ社長だろ?今の話を聞いて、何か俺にできることがないか、考えつかなかったか?」 ……だから何だ、と言われそうな質問だが、俺は藁にもすがる思いで材木座に問う。 しかし、ついにその答えが帰ってくることはなかった。 その代わり、 「……ねぇ材木座くん」 「……うむ」 二人は、俺の話が終わるや否や、何かこそこそと話をし始めた。 「な、何かあったのか?」 「いや、ちょっと……ね」 「うむ……」 「何だよ、その曖昧な返事は」 「だって……ねぇ、材木座くん」 「うむ……八幡よ、これは本当に言いづらいことなのではあるが……」 「「変わったね な 、八幡」」 「……っ!!」 がばっと、俺の心が抉られる。 それはつまり、この一連の原因は俺にある、ということなのだろうか。 やはり、俺が悪いのだろうか。 ……いや、そんなこと、分かりきっていたことだ。 俺が悪い。 それはわかっていた。 雪乃はあんなに頑張っているのだから。 ……対して俺は、何もしていないのだから。 「……八幡」 帰り道、不意に戸塚が口を開いた。 「八幡てさ、雪乃さんのどこを好きになったの?」 「……」 「悩むよね。 多分、僕が想像している以上に、八幡は雪乃さんの良いところをいっぱい知ってて、それで、雪乃さんを好きになったんだと思うから」 「……」 「それはわかる……僕も同じ」 「……ああ」 「僕はね、八幡。 葉山くんよりも、八幡よりも」 「……そうか」 「これは別に、そりゃあ結婚したからつまりそういうことだろう、っていう話じゃないんだ。 だから、もし、これで結衣が他の男の人と結婚していても、いやらしい話、それでも僕は結衣と結婚できると思うよ。 それでも結衣は、きっと僕を選んでくれるって、そう確信できる」 「……っ!」 「逆も同じだ。 もし僕が結婚していても、どこかで結衣と知り合うことがあったならば、僕はなりふり構わず、結衣に結婚を申し込むだろう。 そして一緒に子供を作って、幸せな家庭を築いていくんだ……今のように」 そう言って戸塚は、今までに見たこともないような満足げな顔をして…… そしてまた口を閉じた。 「……俺には」 俺には果たして、そんなことが言えるのだろうか。 相手の幸せを奪ってでも、 自分の幸せを投げ棄ててでも、 それでも一緒になりたい、だなんて…… ………………。 10年前、俺は、彼女にしっかりと伝えたはずだ。 自分の言葉で、ハッキリと伝えたはずだ。 ただそれを、今まで10年間、うっかり忘れていただけ。 ああ、そうだ。 そういうことだったのか…… ……瞬間、視界がパッと開けた感覚があった。 横を見ると、戸塚が微笑んでいた。 「……僕の言いたいことは、分かってくれたかな?八幡」 「……ああ、ありがとう、戸塚」 これでようやく、思い出すことができた。 10年前の覚悟を。 俺と彼女の、最初で最大の約束を。 ……そういえば、今日は結婚記念日だ。 あの約束を果たすのには、丁度タイミングがいい。 帰ったら、雪乃と二人で話し合おう。 そう思って、俺は戸塚に礼をいい、今度こそ帰路に着いたのだった。 ……しかし。 その日、やはりいくら待っても雪乃が帰ってくることはなかった。 第四章 しかし雪ノ下雪乃は煩悶する。 ……ふぅ、やっと片がついたわ。 時刻は……午前1時。 ああ、今年もダメだった…… ごめんなさい八幡、あなたも今日が何の日だったか、知らない訳ではないでしょうに…… 今日は……昨日は、私達の結婚記念日。 まあ、世の中には、結婚記念日なんてどうでもいい、なんて言う人達もいるのだけれど、私達にとってこの日は、ある特別な意味合いを持っている日でもある……それを八幡が覚えているのかは分からないけれど、毎年、期待してしまうものがあるのも事実。 つまり、私達にとってこの日は、一年の中で、互いの誕生日に続く3番目の記念日。 そんな大切な日を私は、こうして会社にいながら終えてしまった。 今年で3回目、いい加減八幡も怒っているわよね…… 「……はぁ」 独りでに出てくるため息も、もう何百回聞いたのだろう。 ため息をすると幸せが逃げて行くって言うけど、もしかしたらそれは、あながち迷信ではないのかも知れない…… 「社長、お疲れさまです」 「ええ、お疲れ様。 今日はもう遅いから、上がっていいわよ」 「え……あ……分かりました、失礼します」 「八幡……ごめんなさい」 私は、いつからか人の仕事まで背負いたがるようになっていた。 理由は分かっている。 ただの口実作り。 家に帰らないための、詭弁でしかない言い訳を求めているのだ。 八幡のため、と、自分にそう言い聞かせながら。 多分、今更私が家に帰ったところで、きっと八幡は、私の体を気遣ってすぐに寝るよう勧めてくるだろう。 自分の感情に、必死にブレーキを掛けながら、またムスッとした、しかし優しいあの顔で、不満など一切漏らさずに、私を迎えてくれることだろう。 私は、それを見るのが何より辛い。 ……彼はずっと隠し通せていると思っているのでしょうけど、実は、私はとっくに気づいている。 彼が、私達の間に子供を望んでいることを。 私だって、子供は欲しいと思っているわ。 あの人の子供を産んで、1日でも早く、今よりもさらに幸せな家庭を作りたい…… でも、未だにそれができないでいる。 私の仕事のせいで。 彼は優しいから、いつも私のことを優先してくれる。 朝も、いつも早い時間からご飯を作ってくれているし、帰ってきても、家の中はいつもキレイに整頓されていて、私がすぐに休めるようにベッドの用意までしておいてくれる。 私も、ついその優しさに甘えて、自分の体調の方をとってしまう…… 私のせいで、彼がどれだけ辛い思いをしているか。 私の弱さのせいで、彼がどれだけ心の中で泣いているか。 分からない訳ではないのだけれど、自分ではどうすることもできない。 だから、逃げる。 八幡の優しさを利用して、彼とのコミュニケーションを避ける。 避けつつも、心の中では彼の言葉を待っていたりする。 「……八幡、許して」 今のところそれが、私が言える精一杯の言葉だった。 携帯が鳴った。 ……葉山くん? 一体何の用かしら…… いや、違ったわ。 そういえば、私が彼に連絡を取ったのだった…… ああ、本当ダメね、私。 「もしもし、葉山くん?」 「ああ、雪乃ちゃんかい?」 「ええ、そうよ。 わざわざ連絡してくれてありがとう」 「何だ、覚えていたのか……正直、ちょっと不安だったよ」 そう言って、葉山くんは軽い笑みをこぼした。 彼にまで見抜かれるなんて…… 「まあ、こっちもちょうど今、決心が固まったところだからね。 タイミング的にはバッチリだ」 「今……?」 「まあ、詳しい話はうちでするんだろう?僕はもう少しで着くところだから、そろそろ雪乃ちゃんにも向かって欲しいかなーって」 「わかった、すぐ行くわ」 「待ってる」 ピッ。 …… 本当に、最低な女。 結局、自分のことしか考えてないんだから。 時間通り、私は葉山くんの家に着いていた。 「いらっしゃい、雪乃ちゃん」 「おじゃまします」 リビングに通され、葉山くんは何か飲み物を、と言いキッチンへ、私はそのままソファーに座る。 数分後、葉山くんはワインとグラスを持って戻ってきた。 「あの、私は、アルコールは……」 「ああ、そうなのか。 じゃあ、すまないが僕だけいただくことにするよ……素面じゃ、やっぱり厳しいところがある」 「……構わないわ」 葉山くんは、そう言ってワインをグラスに注ぎ、少しだけ口に含んだ。 「……じゃあ、最後に聞くけど、今からのことを聞いて、決して、雪乃ちゃんは罪悪感を抱かないでくれ。 悪いのは僕だ」 「分かったわ……」 「それと……あとはいいか。 じゃあ、短いが、語らせて貰うとしようか。 大学2年生で、当時の僕は、何も知らないまま家庭をもつことになった。 相手はどこだかのご令嬢。 お見合い結婚。 ほぼ政略結婚みたいなものだった。 それでも僕たちは、最初のころは、とても幸せだったんだ。 子供も作ったし、円満だった。 でも、それを壊したのは僕だ。 僕が彼女を信じきれなかったせいだ。 ……ある日のことだ。 僕はその日、接待でとあるホテルのレストランに行ったんだ。 結構名の知れたところでね、それなりに客もいた。 接待は順調、このままいけば、あと数分で終わりそうな、そんな時。 その客の中に、男を連れた彼女を見つけてしまった。 向こうも僕を見つけたようだった。 動揺した。 見間違いだ、と何度も自分に言い聞かせた。 詭弁でも何でもいいから、とにかく言い訳がほしかった。 とりあえず、そのときは仕事に集中することで何とか乗り切れた。 問題はそのあとだった。 家に帰ると、彼女はやはり気まずそうな顔で僕を迎えてくれた。 どうしたんだ、とか、何で、とか、僕は彼女にそんな質問すら、弁解の余地すら与えてやらなかった。 もしかしたら、僕の誤解かもしれなかったのに。 僕は、そこまで考えてやることすらできなかった。 そして、その後も僕らの間で話し合いは行われることなく、財産も親権も全て彼女に押し付けて、 結局、僕らは離婚した。 話が終わるころには、すでにワインは無くなっていた。 顔が赤い。 相当アルコールが回っているのだろう。 「ええ……ありがとう、葉山くん」 「礼には及ばないよ。 言うなら、それは彼に言ってあげてほしい」 「……どうして?」 「今の僕は、彼のお陰で生きる希望を失わずに済んでいるから。 「……で、僕からのことだけど」 「……はい」 「単純に、信じてやってほしい。 彼の人格を、何から何まで信じてやってほしい。 世の中には二種類の人間がいるが、彼はそれに値する方の人間だ。 雪乃ちゃんが素直になりさえすれば、彼はきっと君の期待通りの答えを返してくれるだろう。 いいか、嘘はつくな。 それでも、私にとってそれは大きなヒントだった。 腹を割って話し合う。 今まで逃げてきたことにピリオドを打つ。 無駄なことは一切なし。 それだけで良かった。 話が終わってから、三分くらい経った後、 「……彩加達の方も、上手くいっているかな」 ふと、彼はそう漏らした。 「戸塚さん?」 「ああ……気にしないでくれ。 それよりほら、こんなに遅くなったんだから、電話の一本でも入れておかなきゃ、あの愛妻家はきっと悶絶し出す頃だと思うよ」 「愛妻家……」 確かに、そうだわ。 葉山くんにもだけれど、私が一番助けられているのは、他でもない彼なんだから。 そう思うと、もういてもたってもいられず、私はすぐさま「我が家」に電話をかけることにした。 「葉山くん、ちょっと失礼するわ」 「ああ、構わない」 プルルル。 午前4時、起床。 ……やはり雪乃は帰って来ていない。 仕方ない、朝食は一人で食べるか…… アイツも忙しいんだろうしな。 そうしてベッドから下りたのだが、部屋の隅に寄せてある洗濯物を見て自分が昨日何をしていたのか、また何をしていないのかを思い出す。 「今のうちにまとめておかなきゃな……」 そう言って、ゴミ袋を取りにキッチンへ向かおうとしたのだが、寝不足のためか、立ちくらみをおこしてベッドに倒れこんでしまった。
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