イギリスのニューカッスルで暮らすターナー一家。 父親のリッキーは、マイホーム購入のためにフランチャイズの宅配ドライバーとして独立を決意する。 妻のアビーはパートタイムの介護福祉士として、1日14時間労働をしているが、リッキーの仕事のために車を売らねばならない。 二人とも仕事が忙しく、16歳の息子セブと12歳の娘ライザとゆっくりする時間もない。 家族のすれ違いから、ある事件が起きる。 「家族を想うとき」の解説 社会派として名高いイギリスの名匠ケン・ローチ監督。 長年にわたって社会の日の当たらない人々を描き、ほぼそのすべてが高評価を得ている。 とりわけ前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』はカンヌ国際映画祭最高賞であるパルム・ドールを受賞するなど、高い評価を受けた。 本作でも社会問題を提起する流れは受け継ぎ、仕事に追われる両親と子どもたちを描いている。 宅配や福祉の仕事の過酷さと低賃金は、日本でも知られている。 共に今の社会にはなくてはならぬ仕事だが、彼らの待遇がいいという話は聞いたことがない。 自分の時間を犠牲にして必死に働いても、家族は崩壊していく。 長年にわたって先人たちが築いてきた労働者の権利を、あっという間に崩壊させたフランチャイズのシステムとはなんだろう。 幸せになれない仕事を生み出しながら、それを「自己責任」にしてしまう社会とは。 いつものように深く考えさせられるケン・ローチ映画だ。
次の「家族を想うとき」 壮絶な家族のドラマで、結局、救われる未来がないラストがなんとも苦しい作品でした。 監督は。 父のリッキーが就職活動をしている場面から映画が始まる。 そして自分で車を購入して宅配ドライバーをすることを決める。 連日の過酷な配達をこなすリッキーだが、妻のアビーも介護職の仕事を献身的にこなしていく。 それぞれが家族のために必死になっているのだが、いつの間にか反抗期を迎えた息子のセブや娘のライザは寂しい思いをするようになっていく。 そんな思いの中、セブは次々と問題を起こし、両親の気持ちを引こうとし始め、ライザはリッキーの車の鍵を隠せば家族の元に戻るのではとキーを隠したりする。 それにふり回されるうちにリッキーもアビーも戸惑いと混乱が膨らんでいく。 そんな時、リッキーは配達の途中で強盗にあい、重傷を負った上に荷物を盗まれ、その罰金などでさらに借金が膨らむ。 絶望的になったリッキーは家族に別れのメモを残し、一人車で家を出る。 慌てて、息子やアビー、ライザも止めに入るが、リッキーは涙にくれながら、仕事に行かなければならないと叫びながら車を出す。 そして映画は終わる。 果たしてリッキーはどうなるのか。 家族のこれからがどうなるのかは、楽観的に見ればこれを機会にまとまるのかもしれず悲観的に見れば、リッキーは命を落とす結果になるのかもしれない。 しかし、この社会性の強いメッセージをギリギリの視点で描いた力量はさすがであるし、一見、憎たらしいセブも、ここぞという時には家族のため、父のために近くに戻ってくるという設定も実にうまいと想う。 ただ、こういう家族の物語は、やはりもうちょっとほのぼの見たいなというのが本心です。 「去年マリエンバードで」 4Kデジタルリマスター版 公開のたびに見る映画の一本、10年ぶりくらいに再見。 言うまでもなく監督は。 うーんこれまで何回見ているかと思うが、細かいシーン全てを覚えていない。 だからこそこの映画には魅力があるのだろう。 物語もラブストーリーなのだが、空間と時間を縦横無尽に前後に組み合わせた編集演出は、さすがにクセになる面白さである。 映像を楽しむ作品とはこう言うものを言うんだろうなと思う。 「娘はかく抗議する」 扱っているテーマは流石に古いのですが、メッセージを見せると言う手腕は流石にうまい。 これが映画づくりの感性と言うのでしょうね。 監督は。 主人公の女子高生は、厳しい母親の元で素直に育っている。 母親は18歳の時に男性に妊娠させられて捨てられた過去があり、異常なほどに娘に干渉してくる。 時代は、思春期の男女のに注目が集まる頃で、一方で女性の処女性には今なお偏見がくっきりとあった時代、そこで描かれる時代の流れと考え方の変化を描いた点ではおそらく当時はモダンな作品であったと思います。 主人公の少女が友人の兄で大学生の男性に憧れほのかな恋に発展する一方で、新しい考え方を取り入れようとする女先生と一方で古風なままのPTA会長の男など、一昔前の典型的なキャター配置がくっきりと物語を語っていくのでわかりやすい。 あるべくして展開していくストーリーの中に、伝えるべきメッセージが浮かび上がってくる。 名作でも傑作でもないものの、物語を飽きずに見ることができました。 kurawan.
次のCONTENTS• リッキー(クリス・ヒッチェン)は生活を立て直してマイホームを建てるため、フランチャイズの宅配ドライバーとして働くが…。 人間性をないがしろにする労働環境にがんじがらめになっていく男性と、家族の姿を描く社会派ヒューマンドラマ。 リッキーと彼の家族は、2008年の銀行の取り付け騒ぎで住宅ローンが流れて家を失い、賃貸暮らしが続いていました。 リッキーは建設関連のありとあらゆる仕事をしてきましたが、あまりのハードさに体が悲鳴を挙げ、転職を決意。 友人のヘンリーに紹介されたのは宅配ドライバーの仕事でした。 責任者のマロニーは、個人で会社と契約するのではなく、個人事業主として契約を結ぶのだと説明します。 「勝つのも負けるのもすべて自分次第だ」というマロニーに、ヘンリーは「こんなチャンスを待っていた」と応えました。 しかし、いきなり車は持ち込みか、レンタルかと尋ねられ、迷ったリッキーはヘンリーに相談します。 会社から借りた場合、一月あたりのレンタル料は、購入した場合の月あたりの返済額よりも割高で、長い目で見れば車を購入したほうがよいというヘンリーのアドバイスに従うことにしました。 しかし、頭金を捻出しなければなりません。 リッキーは妻のアビーにファミリーカーを売るよう説得します。 アビーは在宅看護師として働いていて、車は移動の必需品でしたが、借金がある上に金目のものといえばそのファミリーカーくらいしかないのです。 車を売ったため、アビーはバスで仕事場に向かわなくてはならなくなりました。 配達用の車を購入したリッキーは仕事を開始しますが、持ち運びする通信機器で常に時間内に配達できているか、コースを外れていないか監視される上に、遅れたり間違えたりすると罰金を科せられるハードな毎日が待っていました。 用を足しに行く時間もなく、ドライバーは空のペットボトルをトイレ代わりに使用しなければなりません。 一方のアビーも仕事の移動の手段がバスになったため、今まで以上に時間が重くのしかかってきます。 介護先の人々は彼女の思うようには動いてくれず、次第に神経をすり減らしていきます。 ある日、学校から呼び出しを受けたアビーは、セブが退学になるかもしれないと心配し、リッキーにも来てくれるよう連絡を取りました。 リッキーはマロニーに用事が出来たので数時間休ませてほしいと頼みますが、お前は個人事業主なんだから変わりの人間を用意しろと言われ、面談に向かうことができません。 ようやく学校にたどり着いた時には、既に面談は終わっていました。 なぜ父親が来ないのかと校長は怒っていたそうです。 2週間の停学処分となったセブを叱りつけるヘンリーでしたが、セブは反抗的な態度を取り続けます。 アビーは叱らないで諭してほしいと訴えますが、忙しさの中、ヘンリーは激しいストレスを感じ、家族にも声を荒げることが多くなっていきました。 しばらく休養して自分自身を取り戻したいと考えたリッキーはマロニーに休暇を与えてくれるよう頼みますが、「個人事業主なのだから代わりを見つければ済むことだ」と突っぱねられ、休んだ場合は罰金を払うように言われます。 土曜日に12歳の娘のライザが配達車に同乗し、仕事を手伝ってくれたことで、リッキーは家族の大切さを改めて認識します。 インド料理をテイクアウトし、セブにも早く帰るよう連絡して、久々の団らんの時間を持ちます。 そんな時、アビーの介護先から連絡が入りました。 世話をしてくれる係の人間が現れず、3時間も動けず座ったままでいるというのです。 いかなくちゃと言って立ち上がるアビーを見て、セブは父さんのバンで行こうと提案します。 家族4人が乗り込み、音楽をかけて歌い、それは思わぬ楽しい一時となりました。 いつものセブだわと父も母も楽しそうな息子の様子を見てほっとします。 しかし、安心したのも束の間、警察から、セブが万引をして捕まったと連絡が入ります。 リッキーはアンに行ってもらうため連絡を取ろうとしますが、携帯が通じません。 誰も来なければ有罪になると警官は告げます。 マロニーに今日は配達に行けないと話すと、彼は激怒し、罰金を支払うよう命じました。 警察官は、有罪にならないよう対処してくれましたが、今後何かをした時は、罪を問われると宣告し、「君には最高のものがある。 家族だ。 中にはそんなあたたかい家族のいないものもいる。 恵まれているのだから正しい道を進むように」とせブを諭すのでした。 家に戻ると、リッキーはセブに説教を始めましたが、セブはずっと反抗的な態度を取り続け、堪忍袋の緒が切れたリッキーはセブの頬をはげしく叩き、「出ていけ!」と怒鳴っていました。 セブは家を飛び出しました。 翌朝、リッキーが仕事に行こうとするとバンのキーがありません。 セブが腹いせにキーを持っていったに違いないとリッキーはセブを探しますが、見つかりません。 結局仕事に行くことができず、また罰金を食らう羽目になってしまいました。 その夜、帰ってきたセブにリッキーがキーのことを問い詰めますが、セブは白状せず再び飛び出していきました。 その夜、ライザは涙ながらにキーをとったのは自分だと告白します。 キーがなければ以前のような家族に戻れるのではないかと彼女は願ったのです。 泣き出したライザを「お前は悪くない」と慰めるリッキー。 セブを疑ってしまったことを彼は激しく後悔していました。 そんな中、仕事に出かけたリッキーは暴漢に襲われ、ひどい怪我を負った上に、一部荷物を奪われ、通信機器を壊されてしまいます。 それは、破損したら多額の弁償代がかかると言われていた代物でした。 病院でレントゲンを撮ってもらったものの、診察まで3時間も待たなければならず、待合室でくたびれ果てている時、マロニーから連絡が入ります。 怪我の心配よりも仕事に穴をあけたことに対する罰金と通信機器の弁償を請求するマロニーに切れるリッキー。 アビーは思わず夫の携帯を取り、マロニーを汚い言葉で罵りますが、電話を切ったあと、汚い言葉を使ってしまったことを恥じたアビーは屈辱で泣き出してしまいます。 家でソファーに横になり休んでいると、セブが戻ってきて、心配そうに声をかけてきました。 大丈夫だと応えるリッキーでしたが、しばらくすると起き上がり、バンに乗り込み仕事へと向かおうとします。 それに気づいた家族が車を止めようとしますが、彼は逆の方向にUターンすると家族を振り切って、車を走らせました。 傷だらけの彼の頬に涙がつたいました。 会社でその人・個人を雇用するのではなく、個人事業主として会社と契約するというシステムに隠された搾取の構造を、主人公であるリッキーは見破ることができません。 10年前の銀行の取り付け騒ぎで家と仕事を失い、それでも懸命に働いてきた彼は、この仕事で、生活を立て直そうと考えています。 ところが罰金や弁償がどんどんかさみ、真面目に働けば働くほど負債が増えていくという悪夢のような循環に陥ってしまうのです。 子供の親に対する反抗や、突発的に起こる暴行事件といったエピソードの重ね方は、多少、あからさますぎるように見えなくもありませんが、毎日ぎりぎりの生活をしている中、わずかな出来事が持ち上がっただけで、均衡を保っていたものがバラバラと崩れてしまうことは誰にでも起こりうることでまったく他人事ではないのです。 リッキーに仕事を紹介した男性だって、いつリッキーのような境遇に陥るかわかったものではありません。 それにしても聞かれなかったからと不都合なことを一切説明せず、言葉巧みに労働者に希望をもたせる企業のやり口はまさに奴隷商人の如くといわざるをえません。 ケン・ローチはそうした社会の実態を静かに告発するのです。 リッキーたち家族は古き良きイギリスの労働者階級を代表する人々です。 彼らのような人々は、新自由主義がはびこる以前は、裕福でなくても誇りを持って、真面目に勤勉に慎ましく生活し、家族で支え合って、幸せを築いてきたのです。 『わたしはダニエル・ブレイク』でも怪我をして仕事ができなくなった気のいい大工が、複雑な福祉システムに適応できず、思うように支援を受けられず、もがく姿が描かれていました。 リッキーもその妻も、ダニエル・ブレイクと同様、新しい社会のルールから落ちてこぼれていく人々であり、そんな彼らに手を差し伸べてくれる行政の人間は誰もいないのです。 もはや、 誠実で真面目なだけでは生きていくのは困難で、知恵や、社会を見渡せる力を持たない人は淘汰されていく時代。 ケン・ローチはそうした現実を見つめ、誠実な労働者階級の人々がじわじわと滅びゆく姿をリアルに描き出します。 何の救いも読み取ることができないラストは衝撃的で、そこには絶望しかありません。 搾取する相手に罵声を浴びせ、汚い言葉を使ったと恥じて泣くアビーの心は清らかすぎるのでしょうか。 人間の尊厳を踏みつけられ続ける人々に救いはないのでしょうか? 劇中、万引でつかまったリッキーの息子に警官が語った言葉が思い出されます。 曰く、「 君には最高のものがある。 家族だ。 中にはそんなあたたかい家族のいないものもいる。 恵まれている」 この家族は確かな愛情で結ばれています。 父親の職業を歓迎していない子どもたちが、父の心を動かすことに成功する可能性もなくはありません。 妻の溢れるような優しさが、彼を支えるでしょう。 家族で考え、この狂った社会からサバイバルする方法をみつけることができれば・・・。 この 警官が発する台詞が、この家族を救える唯一の手立てとして浮かび上がります。 観る者は思わずその言葉にすがりつきたくなるのです。 父母ははっと目覚めて、「ちゃんとベッドで寝なくちゃ」と身支度を始めます。 彼らはそれ以上、娘に何かをさせたりはしません。 限界ぎりぎりで生きていれば、親というものは、子供を自身の都合のよいように動かそうとするものです。 子供に愛情を注ぐ暇もなく、長い間、ひとりで放っておけば、子供は子供時代を失い、早く大人になっていかなければなりません。 聡明な子ほど、自分自身の生きたい世界と、家族の都合をはかりにかけて苦しむことになるでしょう。 長男には既にその傾向が見え始めています。 しかし、この一家は、とりわけ 母親は、子供を子供のまま、そして一人の意志ある人間として育てようとしています。 長男にも進学させてやりたいと本気で考えています。 もっとも長男は、たとえそう言われても現実的でないだろうと気づいて苦悩しているわけですが。 余裕がなく、追い詰められて行く生活の中で、どのように難しい年頃の子を育てていけばよいのか? 本作は、新自由主義経済社会が生み出した富めるものはより豊かに、貧しいものはより貧しくなる社会を厳しい目でみつめると共に、 この時代の子育て、家族のあり方を描いているのです。 怒るよりも諭すということを実行することの難しさと、でもやはりそこを忘れてはいけないと葛藤する姿を、父であるリッキーと母であるアビーに扮したクリス・ヒッチェンとデビー・ハニーウッドが好演しています。 クリス・ヒッチェンは配管工として20年以上働き、40歳を過ぎてから俳優をめざしたという経歴の持ち主です。 見事にこのチャンスを掴みました。 一方のデビー・ハニーウッドもテレビで小さな役柄を演じていた俳優でしたが、本作のオーディションで選ばれ、映画初出演を果たしています。
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