カンザキイオリは初音ミクだけでなく、鏡音リン・レン、IA、琥珀メリーなど様々な楽曲政策ソフトを使用して作曲、編曲を手掛けています。 初投稿の「プロテクト」という楽曲投稿時は「黒柿」という名義で投稿していました。 作風が人に思いを伝えることを重視するのではなく「自分」に重きを置き、苦悩と葛藤が書かれていることが多く、問いかけてくるようなメロディーで多くの若者の共感を得ています。 楽曲、コーラスなどカンザキイオリ自身も歌っている楽曲があります。 しかしそんなシリアスな楽曲を発表するカンザキイオリは生き物大好きで明るい性格の持ち主。 エゴサーチに没頭したりSNSで楽しませてくれる人柄を持っています。 現在はイメージソングの書き下ろしや、Vtuberへの楽曲提供等の活動も積極的に行っていて、幅広く活躍しています。 歌詞には負けていない音の共鳴 この曲の印象的なのはなんといってもスタートから走り出すかのような疾走感溢れる四つ打ちのタイトなリズム、そのリズムは一見心臓の音にも聞こえますよね。 このリズムを引っ張っているのが人の性格を表しているような淡々とした電子ピアノ、そこにベースが加わり、曲の中盤へ差し掛かると悲壮感を表すかのようなストロングス、控えめにギターが加わると徐々にいろんな感情がぶつかり合っているようです。 後半へ差し掛かると全体で音質を変化させ、音で人を表すかのような表現で、シンプルなように聞こえますが複雑に入り組んでいて、音だけでも歌詞を表しているような音楽性を感じることができるのではないでしょうか。 「命に嫌われている」の歌詞を読み解く 『命に嫌われている』は、なんといってもインパクトが強すぎるほどの歌詞が特徴です。 周囲に対しての若くトゲトゲしい否定、その否定を周囲に投げかけ共感を求めるところから始まります。 ---------------- 「死にたいなんて言うなよ。 」 「諦めないで生きろよ。 」 そんな歌が正しいなんて馬鹿げてるよな。 実際自分は死んでもよくて周りが死んだら悲しくて 「それが嫌だから」っていうエゴなんです。 そんな中、綺麗事を歌う歌はエゴイズムだと言い切りますが、これは感情の二面性を表現しているように感じます。 特に「自分は死んでもよくて 周りが死んだら悲しくて」という部分が孤独になりたくない、一人にしないでという心を隠していてかまってほしいという気持ちを表わしていることが隠されているようです。 ---------------- 他人が生きてもどうでもよくて 誰かを嫌うこともファッションで それでも「平和に生きよう」 なんて素敵なことでしょう。 画面の先では誰かが死んで それを嘆いて誰かが歌って それに感化された少年が ナイフを持って走った。 少年時代好きだった子に対して嫌がらせをする行動に似ていますよね。 ---------------- 価値観もエゴも押し付けていつも誰かを殺したい歌を 簡単に電波で流した。 軽々しく死にたいだとか 軽々しく命を見てる僕らは命に嫌われている。 ネット上で言いたい放題言うこと。 それによってどこかで誰かを傷つけているかもしれない、迷惑をかけているかもしれないという後ろめたい劣等感の塊を表しているのでしょうか。 ---------------- 生きる意味なんて見出せず、無駄を自覚して息をする。 そしてこのあとの歌詞と合わせるとベッドに逃げ妄想にふける姿が目に浮かびます。 ---------------- 幸福も別れも愛情も友情も 滑稽な夢の戯れで全部カネで買える代物。 変わらず誰かがどこかで死ぬ。 夢も明日も何もいらない。 君が生きていたならそれでいい。 そうだ。 本当はそういうことが歌いたい。 ここからは少年が青年に生まれ変わると同時に、いろいろなことに気付きはじめるような歌詞に変わっていきます。 誰でもいいのではなく、ここで自分が伝えたい人を見つけることができ、自分が望んでいるものは大切な人が生きていればそれでいいのだということに気づきます。 ---------------- 結局いつかは死んでいく。 君だって僕だっていつかは枯れ葉のように朽ちてく。 それでも僕らは必死に生きて 命を必死に抱えて生きて 殺してあがいて笑って抱えて 生きて、生きて、生きて、生きて、生きろ。 ここは大切だと気付いた人と向き合い進んでいくという覚悟が感じられます。 そしてそれは自分だけでなく、一緒に頑張ろうという強いメッセージを伝えています。 強いメッセージを伝えていた「命に嫌われている」 一人の青年の成長が伺える「命に嫌われている」という曲はたくさんの視点から世界観を見ることができます。 現在の生活に疑問を抱いている人、生きることに疲れた人、落ち込んでいる人にとって、前半で共感を得て後半は励まされ、ポンと背中を押される一曲ではないでしょうか。 この曲は暗いと思われがちな曲ですが、「本当は頑張るんだ。 諦めないぞ」という生命力の溢れた楽曲です。 今一度、生について向き合い、聞いてみると違う一面を発見できるかもしれません。 の歌詞をもう一度読んでみる.
次の僕はカンザキイオリさんの「命に嫌われている。 」を聴いて感動しました。 僕のようなテーゼも貴方のようなアンチテーゼも、どちらも個人のエゴです。 そして、「命に嫌われている。 」という曲もカンザキイオリさんのエゴです。 エゴなんてただの個人の主観です。 それに共感したか、しなかったかの違いです。 彼はエゴには人を生かす力があり、人を殺す力があると言いたがったのではないでしょうか。 そんなエゴごときて命が左右されるだなんて、命がかわいそうではありませんか?命をないがしろにして命に嫌われてでもエゴを貫けということなのではないのでしょうか。 めっちゃ本家よりエゴエゴしてましたね。 エゴエゴエゴエゴエゴエゴゴエエゴエゴエゴエゴ.
次のカンザキイオリさんの作品でしょうか。 諦めないで生きろよ。 」 そんな歌が正しいなんて馬鹿げてるよな。 本当に死にたいと思ってる人にそんな言葉は関係ないし、そんなことを歌にするのは馬鹿げてる 実際自分は死んでもよくて周りが死んだら悲しくて 「それが嫌だから」っていうエゴなんです。 自分は死んでもいいけど周りが死んだら悲しいから「死なないで」って言う自分中心の考え。 他人が生きてもどうでもよくて 誰かを嫌うこともファッションで それでも「平和に生きよう」 なんて素敵なことでしょう。 どこかで誰かの命が助かっても所詮どこか他人事。 なんて矛盾した世界だろうって感じ 画面の先では誰かが死んで それを嘆いて誰かが歌って それに感化された少年が ナイフを持って走った。 少年が犯人を殺しに行ったのか模倣犯になったのかは分かりません。 けれど、一つの歌で簡単に命が失われることを風刺してると思います 僕らは命に嫌われている。 価値観もエゴも押し付けていつも誰かを殺したい歌を 簡単に電波で流した。 僕らは命に嫌われている。 軽々しく死にたいだとか 軽々しく命を見てる僕らは命に嫌われている。 今のボカロの歌や、そこらへんの歌では簡単に死にたいだとか、誰かへの恨みを勝手に電波にのせている。 死を押し付けてる お金がないので今日も一日中惰眠を謳歌する 生きる意味なんて見出せず、無駄を自覚して息をする。 寂しいなんて言葉でこの傷が表せていいものか そんな意地ばかり抱え今日も一人ベッドに眠る 命があるのに、命を使っていない。 これはこの歌を歌っている主人公だと思いました。 命があるのに命を使わないのも命を軽視してる、と自分を嘲笑っている感じでしょうか 少年だった僕たちはいつか青年に変わってく。 年老いていつか 枯れ葉のように誰にも知られず朽ちていく。 不死身の身体を手に入れて、一生死なずに生きていく。 そんなSFを妄想してる 自分たちもいつか簡単に枯葉のように朽ちていってしまうのだ。 最初の歌詞と似てますが、こっちのほうがわかりやすく直球ですね。 自分はしんでもいいけど周りには死んで欲しくない。 どちらも命の大切さは同じはずなのに 「正しいものは正しくいなさい。 」 「死にたくないなら生きていなさい。 」 悲しくなるならそれでもいいなら ずっと一人で笑えよ。 いじめられてもあなたは正しいからそのままでいなさい、死にたくないなら生きていればいい、といった身勝手な励ましについて、こっちが悲しくなってもそれでもいいならずっとそう言ってればいい。 という感じですかね…うまくいえないですが… 僕らは命に嫌われている。 幸福の意味すらわからず、産まれた環境ばかり憎んで 簡単に過去ばかり呪う。 僕らは命に嫌われている。 さよならばかりが好きすぎて本当の別れなど知らない僕らは命に嫌われている。 本当の幸福はお金を手に入れることでも結婚することでもない、ただ自分の命があることが幸福。 それを知らない僕達はただ「こんな場所に産まれなかったら」と過去を恨んでいる。 主人公は虐待を受けてたのかなとも思います。 カンザキイオリさんの歌はそのような歌が多いので。 投稿日の8月6日。 広島に原爆が落ちてたくさんの命が失われた日であることから、友達や家族が簡単に失われる、そんな本当の別れも知らない僕達は命を軽視してる。 単純にここでは本当に友達や家族が死ぬところなんて経験してないくせに、という感じだと思います。 幸福も別れも愛情も友情も 滑稽な夢の戯れで全部カネで買える代物。 明日死んでしまうかもしれない。 すべて無駄になるかもしれない。 朝も夜も春も秋も 変わらず誰かがどこかで死ぬ。 夢も明日も何もいらない。 君が生きていたならそれでいい。 そうだ。 本当はそういうことが歌いたい。 幸福も別れも愛情も友情も全部お金で買える時代。 そんなことはいらない、死にたがっている人にそんな言葉は必要ない。 たくさんの人が今のこの瞬間も死んでいくけど、ゆめだって明日だっていらない、ただ『あなたが』生きてくれていればいいんだという強いメッセージが入っている部分だと思います。 結局いつかは死んでいく。 君だって僕だっていつかは枯れ葉にように朽ちてく。 それでも僕らは必死に生きて 命を必死に抱えて生きて 殺してあがいて笑って抱えて 生きて、生きて、生きて、生きて、生きろ。 確かにいつか人は死ぬけれどそれでも僕達は必死に生きなければならない。 僕達が思ってる以上に命は大切なものだから。 必死に抱えてどんなに辛くても気持ちを殺して、足掻いて、そして笑っていきていく。 だから生きろ!と言っていると思います。 カンザキイオリさんの作品は虐待されている子の目線で歌ったものなどが多いと思います。 またカンザキイオリさんのTwitterで「あの曲は、生きるだけで大変な環境の人、環境になってしまった人たちに向けた曲であると同時に、友達に向けた曲でもありました。 」とあるので、虐待を受けていた、もしくは受けていない、自殺したがっている友人に向けて歌ったのかなとも思います。 もしかしたらその友人はもう死んでしまっているのかも知れません。 カンザキイオリさんからの強いメッセージを感じる歌ですね! 乱字、乱文、自己解釈失礼しました。 こんな風に解釈しなくても、心に突き刺さったまま感じればいい歌だと思います…! またカンザキイオリさんの「アダルトチルドレン」もいい曲ですのでぜひ聴いていただきたいです(笑).
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