シーボルトに従事した、庭の管理人=御庭番• 熊吉のお話。 蘭語にどうしようもなく惹かれ、そこからシーボルトとの運命的な出会いを果たす冒頭、初っ端からぐっとくる。 フィクションのような盛り上がりがあるのに、ノンフィクションの持つ客観性も持ち合わせていて、読んでいて不思議な気持ちになった。 シーボルト先生が、私たちにとって馴染み深い「自然」という言葉を初めて定義付けるシーンも、ハッとさせられる。 それなのに、日本人の「自然」観には触れきれないシーボルト先生の哀しみ。 それでも、熊吉の彼を慕う姿が良い。 どれだけの犠牲を払い、失い、過たれたとしても、熊吉の仕事は変わらない。 ひたすら地味だけど、めちゃくちゃ格好良い! 読んでいて、良い重みを感じた。 長崎出島を舞台に、植物学者のシーボルトの 下に仕えることになった少年・熊吉の姿を描いた 歴史小説。 何もない土地からいきなり荘園を作れ、と命令 された熊吉。 熊吉は初めは何をすればいいのか分からず、 シーボルトから指示をもらおうと、右往左往 するのですが、何も言ってもらえません。 結局作業が進まないまま、五日がすぎ、 そこでシーボルトの奥方のお滝が熊吉を一喝 します。 たとえ少年であっても、実力がないと許さ れない世界。 そんな中でそこから創意工夫を 凝らし、信頼を勝ち得ていく熊吉の姿がとても 爽やかでした。 このお滝のキャラも印象的です。 彼女は元々 女郎だったところをシーボルトに見初められ ました。 女郎までの人生経験のためかどんな 出来事に対しても、どこか達観としているよう にも見えます。 しかし、シーボルトは故国のオランダや 母親への思いがあります。 お滝はそうなっても 仕方ないと思いつつも、シーボルトが帰ることに より今の幸せがなくなってしまうかもしれない という、不安定な立場が故の不安や弱さが見られる 場面もあり、そうした弱さの描き方が良かった と思います。 シーボルトと熊吉、お滝の間の歯車が狂う場面 の象徴としてそれぞれの自然観の違いが如実に 現れる場面があるのですが、この場面がとても 印象的でした。 四季のある日本で暮らしてきた熊吉たちと そうでないオランダ人のシーボルト、そこから 見える世界というもの違いに越えられない壁を 感じさせられました。 そういう溝の描き方が とても上手いなあ、と読んでいて感じます。 シーボルトをめぐって後半は不穏な動きが あります。 史実に基づいたが故の展開なのだと 思うのですが、そのため終盤からシーボルトの 人物像が分からなくなってしまったのが、個人 的にちょっと残念だったかなあ。
次のネタバレ Posted by ブクログ 2019年11月30日 よかった。 多くの人に向けて文章を書きたいと思っていたので、見事にささった。 おもしろい、読みたいと思われる文や物語には、解釈がないのだと思った。 今さらなのかもしれないけども。 そこを混同していた。 解釈は読む人がくわえるもの、書く人は描写をするか、誤解を生むような解釈の文章を書かなければいけない。 文章だけでなく、ビジネスやマーケティングへの示唆にも富んでると感じた。 買いたいと思ってもらえるものは、きっぱりと分かるものではなく「なんかよくわからないもの」である。 そのわからなさに人は惹かれる。 さらに話は広がって「経済」や「貨幣」についても言及。 貨幣の価値や役割を学びたかったので勉強になった。 物事のそのいちばん最初はどういう気持ちで始まったのか?を考えるという方法も面白い。 先生や教育論という切り口だが、「わくわくする」ことについて書かれた本のように感じた。 人によってまさに読みとることや胸にささるところのが違う本だと思う。 なるべく多くの人がいろいろ学べるように、方向や角度を変えて語っている。 それぞれの「引っかかりポイント」が具体的で学術的で面白い。 子ども向けの語り口だけど、内容は大人向け。 というか、内容が難しいのに無理に子ども向けに口当たりだけ直してるのがもったいない。 そこだけ気持ち悪かった。 最初は苦しかったが、我慢して読んでよかったと感じた。 Posted by ブクログ 2018年10月18日 タイトルと内容はイメージが違う。 先生とは何か、すごい先生ってどんなだ、など書いてある話と思いきや。 タイトルはキャッチフレーズで。 もっと深い話でした。 人間のコミュニケーションの根源の話であり、文学の話でもあり、発展すると芸術の話だとも思う。 この本で書かれているのは ファーストフードのように あらかじめ決められたものをお金で買うようなコミュニケーションには人は退屈してしまい、何も発展しないということ。 だから、「すごい先生」というのはあらかじめ存在するのではなく、生徒が見つけるということ。 お互い何かわからない、誤解が発生するような部分が含まれたコミュニケーションの方が、お互いの興味が湧き、本当のことに近付くという。 哲学的な話が容易に書かれている。 小説でいえば、筆者と読者そして何らかの第三者(それを村上春樹は「うなぎ」と呼んでいる)がいて、そこから小説が立ち上がる。 というところが非常に面白かった。 語り口が口述筆記のよう(講演なのですかね?)で、話がどんどん膨らんでいて、センセイの話していない方が多いけれど、飛んだ話がたとえ話含めて全て面白い。 これは内田さんの知識が豊富なのと、一つのテーマ(人と人がコミュニケーションすること誤解が興味を、新しい何かを生み出すこと)に即した上での話が飛んでいるので、安心して、それでいてドキドキして読めるのだろう。 自分が高校生の頃に読んだら、かなり理解できない部分も多かったと思うが、なんだか変なこといってるけど面白いなと断片的な印象が残るのだと思う。 その後の人生で、何かのきっかけでこの断片の印象が思い出され、あ、このことだったのか!となる。 そんな感じの本です。 Posted by ブクログ 2018年10月09日 非常に平易な文章で書かれているが,ジャック・ラカンの引きながら「学び」や「コミュニケーション」の本質を説いている. ・「これが出来れば大丈夫」ということを教える先生と,「学ぶ事には終わりがない」ということを教える先生は雲泥の差 ・「学びの主体性」とは?人間は自分が学ぶことの出来ることしか,学ぶこと はできない.学ぶことを欲望するものしか学ぶことはできない. ・コミュニケーションは,常に誤解の余地があるように構造化されている. ・「わかる」ことは,コミュニケーションを閉じる危険性と常に隣り合わせ ・人は知っている者の立場に立たされている間は常に十分知っている.• Posted by ブクログ 2017年06月06日 内田氏のこの著作『先生はえらい』を自分なりに解釈すると、学ぶ側(学生、生徒)は、 「自分は何を知らないか、できないか」を適切に言うことができない状態を適切だとしている。 そして、先生は、その「何か=知識」を教えてくれるものではなく、 「スイッチ=媒介装置」の役割をすることが適切だと、 つまり、教師は 、知識を教授する、しないは、あまり学ぶ側にとって真に必要とせず 学ぶ側が何を知りたいかを自己に問いかけるような存在になるべきだということです。 学ぶ側が、あっ自分自身は、こういう「知」を知りたいんだ、勉強したいんだと、 心の底から思える状態ではあれば、教師の役目は半ば終了し、 学ぶ側は、以後、自発的に学ぶ。 今、学校の授業はシラバス方式(いつ、何を、どう教えるを開示したもの)になっているらしい。 これは、先生を知識提供サービス者とし、勉強する側は消費者とする、 まさに、ビジネスの論理で教育を考えている。 これをやっちゃおしまいよという言葉がありますが、 内田氏曰く、お終いなのでしょう。 つまり今の状況は、学ぶ側にメリットがあるように思えるが (だって知識を効率的に分かり易く教えてくれるんだから)、 しかし、実はあまりメリットがない。 そもそも、教育に対してメリット、デメリットを考えしまうこと自体が、 ナンセンスなのだろうと思う。 結局は知識の過多で点数をつけられるから、仕方ないかもしれないが、 これでは、今も昔も大量の勉強嫌い(点数をつけられ、順番をつけられることが嫌だと思うこと) を生んでしまうように思う。 こういう社会的損失をしっかり把握したほうがいいんじゃないだろうか。 ただ、現に、これではいかん!と思って動き出している先生は多数いる。 ビジネスの論理に負けないで、是非、頑張っていただきたい。 ネタバレ Posted by ブクログ 2017年06月05日 本書は中高生を対象にした新書ですが、大人にとっても十分読みごたえのある、深い内容の本です。 特に教える立場にある人にとってはかなり痛い所をつかれた部分もあるのではないかと思います。 同じことばを語りかけても、聴き手の受けとる情報は同じではない、人それぞれ解釈が違う、という筆者のことばは、正直身につまさ れました。 学生にはつい「わかりましたか?」と聞いてしまいますが、この質問がいかに愚かなものであったか。 こちらの伝えたい意図と違う理解をしていたとわかったときは「やっぱりわかってなかった」とがっかりするのも、こういうからくりがあるとわかれば今後の対処の仕方も違ってきます。 その他、コミュニケーションに関してもいろいろな気付きが得られ、とても学ぶところの多い本でした。 Posted by ブクログ 2016年10月05日 内田樹センセイ的 けむりにまく忍術。 『先生はえらい』と言っても、 そんじょそこらのえらさとは違うのである。 『えらい』と誤解することで、えらさがわかるということだ。 つまり、誤解する生徒が もっとえらいのだということらしい。 先生はつねに謎をもっていてわからないことを知っているはずだ。 そのように 生徒が 誤解してくれることで 先生は 成り立つ。 内田樹センセイの 脱線力というか 雑談力が 実にある。 どうも、ここでは 一般的な教育の場面での 先生と生徒を言っていないようだ。 この本は 高校生中学生を対象にしていると言われるが、 高校生中学生は 先生を選べない。 そして ここでは『生徒』という概念は現れない。 内田樹は『「えらい」の構造分析を通じて、 師弟関係の力学的構造が解明』 されれば、といっているので 『先生と生徒』ではなく 『師匠と弟子』との関係を語っているのだ。 つまり、微妙に話を 変えているのだ。 師弟関係を述べているので 本来この本の題名は 『師匠はえらい』と言うべきだ。 それを間違えて 教師が 『先生をえらい』と誤解してくれることを見通している。 本のマーケティングで言えば 『えらいと言われない先生』が顧客ターゲットだ。 それで、なんとなく けむりに巻かれて 自分は それなりに えらかったんだと 納得するのだ。 大いなる誤解と言うべきなのだ。 もう少しいえば 中高生に読ませるならば 『生徒はえらい』にしなければならないが それをしないところに 内田樹センセイのあざとさがある。 『うざい』『だるい』『めんどくさい』 という生徒が読むはずがないからである。 弟子は 師匠を選ぶことができる。 つまり、それは 教祖と弟子との関係にも広がっていく。 張良と黄石公の沓を落とす話も、師匠と弟子の関係を説明する。 弟子は 師匠のやっていることを 弟子が納得しやすいように 理解する。 それを発展させれば、 間違った教義を唱える教祖も えらいのである。 多様性があっていいのだ。 とさえ言い切ってしまう。 謎めいている 教祖ほど えらい人はいないからである。 なぜ、オウム真理教が 高学歴の弟子を たくさんつくれたのかを ここでは解き明かしている。 そのような危険性をはらんだ えらいの構造の説明なのである。 結局 内田樹センセイが えらいんだ と思うことで、 免許皆伝となるのだ。 するんだ。 内田樹センセイに 五体投地を!• Posted by ブクログ 2014年11月12日 私の本棚には「ウチダ本」が一段を占めている。 数えたら共著も含めて60冊余り。 その中から大学受験に向けて日々を過ごす娘に、受験勉強だけではない「学び」ということを伝えるのに内田先生の本からどれを勧めようかと選んでいたら、代表作のひとつである本書が抜けていたのに気づいてあわてて購入。 この本はまさに中 学、高校生に向けて書かれたものなので、順を追って非常に(ちょっとまどろっこしいほど)丁寧に書かれている。 筆者は大学教授として、また合気道の師範として長年若者を教え続けていた「先生」であり、同時に現代思想に於いてはエマニュエル・レヴィナス、武道に於いては多田宏という師を敬愛する「弟子」である。 世の中に先生はあまた存在するが、同時に「弟子」であり続ける人はそう多くない。 したがって師弟のあるべき姿をこれほど的確かつ深く掘り下げて語れる人は珍しいのではないかと思う。 「先生」に求められる資質とは何か。 「学ぶ」とはどういうことか、から始まった話は沈黙交易、資本論、文学論にまで脱線して脳に心地よい刺激を与えてくれる。 「人間は誰でも先生という立場に置かれた瞬間に先生になれる」という仮説には刮目させられた。 先生が先生であるためには実は「生徒」の存在こそが重要である、という逆説的なことが結論だと思うのだが、勿論そんな単純な話ではなく、もっと豊穣な思考の楽しみが行間から溢れんばかりに迫ってくる。 そんな本である。 Posted by ブクログ 2014年03月13日 「人間はコミュニケーションを志向する」という基本的な立場に立って、教育の根幹にあるものについて論じた本です。 著者は、ラカンの「人間は前未来形で過去を回想する」という言葉を引用しています。 他者に向かって自分の過去のことを話すとき、私たちは「あらかじめ話そうと用意していたこと」ではなく、「この人はこ んな話を聴きたがっているのではないかと思ったこと」によって創作されたことを話すはずだと著者は言います。 そして、そういう話をするとき、私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になると著者は言います。 ここには、最初に伝えるべきメッセージを抱え込んでいる自分がいて、それが言葉を通じて他者に伝えられるというような常識的な対話のモデルとは、まったく異なる真理が示されています。 他者に向けて話をする中で、自分の語るべき内容が定まってくるというのが、本書の示す対話のモデルです。 さらに著者は、「沈黙交易」の例をあげて、他者から何かを贈与されてしまったという思い込みが、人をコミュニケーションへと駆り立てることを説明しています。 本書の最後で紹介されている能楽の『張良』が、非常に印象に残ります。 Posted by ブクログ 2019年12月27日 「先生はえらい」? タイトルが意図するものがわからなかった。 はじめにを読んで、要約すると・・・ 『先生はえらい』と題したこの本では、「どういう条件を満たす先生がえらいか」ではなく、「人間が誰かを『えらい』と思うのはどういう場合か?」ということについて論じているらしい。 要は学びの主体性ということが重要だと言っている。 人間は自分が学ぶことのできることしか学ぶことができない、学ぶことを欲望するものしか学べないという自明の事実なのだ。 Posted by ブクログ 2018年06月21日 「先生はえらい」 内田先生は本当に素敵な文章を書く。 また、中高生向けにかかれたため、内田先生の他の本より平易にかかれているのもとっつきやすい。 オススメ! 心に残った話1: プロとは プロとは、技術には無限の段階があり、完璧な技術には到達することができないことを知っている人。 自動車教 習所の先生とF1プロドライバーの教え方の違い 教習所の先生は、「これでいい」を教える。 F1プロドライバーは、「先には先があることを」教える。 心に残った話2: 学びの極意「張良の話」 張良は、師匠の黄石公が、靴を落としたことから「兵法の極意」を学んだ。 師が語る以上を弟子は勝手に誤解して学ぶことができる。 まとめ 「先生はえらい」と感じるところから学びは始まる。 教えてもらうのではなく、学ぶ。 Posted by ブクログ 2018年03月20日 教えることを、知識や技能を伝えることではなく、コミュニケーションの問題に帰結して語る本です。 コミュニケーションの本質を誤解に見ていて面白い。 素晴らしい先生と言えるのは、生徒側が勝手に妄想を逞しくして、勝手になんらかのことを学んで行く誤解が生じたときだという結論だけど、はてさて、これもやはり誤の上 で学んだことなのでしょうか。 完全に哲学的なお話で、先生は偉いんだよ!と子供達を諭す内容ではありません。 一応、子供向けに話はしているんですが。 なにかを学ぶ、会得するためには誤解が生じる必要がある。 文学や哲学がわかりにくいのは、あえて誤解を与え、解釈の余地を作るため、というのは面白い。 わかりやすいことがいいことのように言われていますが、教えることをしていると、わかった瞬間思考停止になり、じつは大したことが身についていないのではないかと思っていたので、納得できる話だった。 わかりにくいと、個々の人で解釈が生まれる、だからわかりやすいものはすぐに忘れられてしまうが、わかりにくいものはしこりのように残って、新しい解釈を人の数だけうんでいく。 なるほど。 ネタバレ Posted by ブクログ 2015年05月16日 内田先生が中学生くらいに向けて書いている、先生という存在について。 しかし、全教育関係者が必読だと思う。 人によって、えらい先生は違う。 それは同じことを言われても捉え方が人によって違うから。 それゆえ、ある先生をえらいと思うかどうかは、受け手次第。 「先生運」というものはない。 コミュニケーション とは本質的に、誤解に基づいている。 学びは何かの対価として得られるものではない。 「定量的な技術」を教える場合と、「技術は定量的ではないということ」に気づかせる違い。 定量的な技術を学ばせることが教育のすべてとなっている節がある。 だから記憶に残る先生は少ないのでは? 学ぶ側のスタンスについての話だが、学ばれる側にも問題は多い。
次のシーボルトに従事した、庭の管理人=御庭番• 熊吉のお話。 蘭語にどうしようもなく惹かれ、そこからシーボルトとの運命的な出会いを果たす冒頭、初っ端からぐっとくる。 フィクションのような盛り上がりがあるのに、ノンフィクションの持つ客観性も持ち合わせていて、読んでいて不思議な気持ちになった。 シーボルト先生が、私たちにとって馴染み深い「自然」という言葉を初めて定義付けるシーンも、ハッとさせられる。 それなのに、日本人の「自然」観には触れきれないシーボルト先生の哀しみ。 それでも、熊吉の彼を慕う姿が良い。 どれだけの犠牲を払い、失い、過たれたとしても、熊吉の仕事は変わらない。 ひたすら地味だけど、めちゃくちゃ格好良い! 読んでいて、良い重みを感じた。 長崎出島を舞台に、植物学者のシーボルトの 下に仕えることになった少年・熊吉の姿を描いた 歴史小説。 何もない土地からいきなり荘園を作れ、と命令 された熊吉。 熊吉は初めは何をすればいいのか分からず、 シーボルトから指示をもらおうと、右往左往 するのですが、何も言ってもらえません。 結局作業が進まないまま、五日がすぎ、 そこでシーボルトの奥方のお滝が熊吉を一喝 します。 たとえ少年であっても、実力がないと許さ れない世界。 そんな中でそこから創意工夫を 凝らし、信頼を勝ち得ていく熊吉の姿がとても 爽やかでした。 このお滝のキャラも印象的です。 彼女は元々 女郎だったところをシーボルトに見初められ ました。 女郎までの人生経験のためかどんな 出来事に対しても、どこか達観としているよう にも見えます。 しかし、シーボルトは故国のオランダや 母親への思いがあります。 お滝はそうなっても 仕方ないと思いつつも、シーボルトが帰ることに より今の幸せがなくなってしまうかもしれない という、不安定な立場が故の不安や弱さが見られる 場面もあり、そうした弱さの描き方が良かった と思います。 シーボルトと熊吉、お滝の間の歯車が狂う場面 の象徴としてそれぞれの自然観の違いが如実に 現れる場面があるのですが、この場面がとても 印象的でした。 四季のある日本で暮らしてきた熊吉たちと そうでないオランダ人のシーボルト、そこから 見える世界というもの違いに越えられない壁を 感じさせられました。 そういう溝の描き方が とても上手いなあ、と読んでいて感じます。 シーボルトをめぐって後半は不穏な動きが あります。 史実に基づいたが故の展開なのだと 思うのですが、そのため終盤からシーボルトの 人物像が分からなくなってしまったのが、個人 的にちょっと残念だったかなあ。
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