皆さん、『不思議の国のアリス』の出生に迫ったは読んでいただけましたでしょうか? 【後編】はその謎を哲学的に紐解いていきます。 アリスのようにもう少し首を長くして、お楽しみ下さい。 『不思議の国のアリス』はルイス・キャロルがノンセンス文学として世界中で読まれた作品として 知られています。 「皮肉」という言葉は、皮と肉が原材料。 (つまるところ、骨や髄にまで達しない「上辺」という意味です。 ) しかし、果たしてルイス・キャロルが当時の時代や社会をあざ笑うためにパロディー作品を 残したのでしょうか。 私はそう思いません。 (大英図書館のアリス展にて) 私のご近所さんであるビックベン・砂時計・振り子時計・腕時計・そしてiwatch。 現代社会に生きる人びとは「時間」に支配され、常にスピードを求められながら毎日を生きています。 「時間」は『不思議の国のアリス』で重要な役割を果たしているのです。 そこで、「アリスと時間のなぞなぞ」について考えてみましょう! 「時間」という概念が生まれたのはいつのことでしょう?古代の人々は月の満ち欠けと太陽の位置によって、 自然を頼りに「時」を図っていました。 「数字と時の概念」が人類に与えられたことにより、人々はより 効率的に生活できるようになり、より効率的にコミュニケーションが出来るようになりました。 スター・ウォーズのワープも時を巻き戻したり、先延ばしたり「時の工作」をしているのです。 ところが、 この「時」は実はアリスのお話では不思議の国をややこしくさせている登場人物として描かれているのです。 ここで、キャロル言葉を巧みに用いて作り上げた「不思議の国」の2つのシーンを取り上げて ご紹介しましょう! 〜マッドハッターとの「おかしな茶会」〜 お茶会でのマッドハッターと3月ウサギの会話を抜粋。 マッドハッター 「大ガラスが机に似ているのはなぜ?」 … アリス 「あなたがた、もう少しはましな時の使いようがあると思うわ」 「答えの出っこないようななぞなぞをかけて、時をつぶすよりはね」 マッドハッター 「わたしが知っているていどに、あんなにも時というものがわかっているなら。 つぶすなどとは言わんだろうがね。 時はいきものだぜ」 アリス 「どういう意味か分からないわ」 (出典 ) マッドハッター 「時は、はかられたりするのがいやなのさ。 ハートの女王がもよおされた大音楽会のときだったが、おれはうたわなきゃならなかったんだ」 「ところで、おれが大1節を終えるか終わらないというところで… 女王が怒鳴り出されたのだ『こやつ、時間をつぶしているぞ!首をちょん切れ!』 それからというもののいつみても6時なんだよ!」 アリス 「ここにこんなにお茶の道具が出ているのはそのせいなのね」 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 エマニュエル・カントはかつてこのような言葉を残しました。 「時間」というものは人間が世界との関係・つながりを構築し、感覚を研ぎ澄ませながら、 その世界を経験・体感することから時間が生まれる。 )かなり意訳ですが。 カントは、「人びとは世界とのつながりと構築を通してその人びとの中になる時間の針が動いていく」 というのです。 でもそんな哲学的なことと『不思議の国のアリス』とはどのようなつながりがあるのでしょうか!? (ウァンダーランドウィークで出会った才能ある素晴らしい研究者たち) そのややこしい数式を解く前に151年前のオックスフォードのタイムトリップしてみましょう! この写真はキャロルが教鞭を執っていたオックスフォードのクライストチャーチカレッジです。 151年前は時間軸が今と異なっていたそうです。 現在ではイギリス全土は同じ時間軸で設定されていますが、151年前はオックスフォードの場所はロンドンより 時間が1時間ほどずれていたそうです。 つまり、ロンドンの時間とは別に、オックスフォードの時間が存在していたそうです。 コラムので述べたようにルイス・キャロルが生きていた時代は、産業革命によりその変化は著しく、 人びとがスピードを意識し、より効率的に生活をはじめものでした。 ポストモダニズム、ポストモダンと呼ばれる現代では、テクノロジーの発展によりスピードのみならず、 情報化が進むことで自分の「姿」や「実体」が曖昧な時代に入っています。 人類はコミュニケーション手段としてアナログとデジタルをうまく両立させています。 しかし、そのことにより自分の姿が、バーチャル化されているのか、絵画のように描かれているのか、 模写されているのか、点・線なのか、それとも透明人間状態として捉えられているのか。 自分の体は 存在しても、自分の認識と信条にズレが起こることで、その人の存在自体もズレが生じているというのです。 良く考えれば、コミュニケーションと情報伝達の効率化には最適な時代です。 しかし、ルイス・キャロルはそこには大きなブラックホールのような落とし穴があるということをお話を 通して教えてくれているのです。 (これは私の個人的な解釈です。 ご了承下さい。 ) スター・ウォーズにもバーチャル化されたミニチュアジェダイがメッセージを届けるために飛行船の中に 登場しるように…バーチャル化されはじめた時代、実体が分からない時代だからこそ、自分たちの実体や 認識や時間はどこかに飛んで消えてしまうかもしれません。 『千と千尋の神隠し』の千尋のように、あのトンネルを抜けて辿りついた世界では、その世界の食べ物を 食べないと消えてしまうように、千尋の名前を忘れてしまう実態に陥ってしまうかもしれません。 実際にその落とし穴にはまった人物たちがマッドハッターや3月うさぎなのではないでしょうか。 時計を持って急ぐ白いうさぎも、時計を持って走ってばかり…いっそ、その時間をバタークッキーにして 食べてしまえばいいのにと思ってしまうほどです。 出典: ルイス・キャロルはきっと151年後の世界を予知していたのでしょう。 世界がより早く変化し、発展し、便利になる。 でも世界に存在する宗教や法律は多様で一つの共通した ものではありません。 盛者必衰と森羅万象の理。 国際情勢を見て分かるように、多様な宗教と法律が存在することで、秩序が崩れてカントが言う「時間軸」を 見失い、人びとの混乱が生じながらも、それでも現代人が「光」を求めて生きていく道をたどっていくことを。 (『バベルの塔』出典: ) アリスのお話でもありますが、現代に生きる人びとのためのお話でもあるのです! (『真珠の耳飾りの少女』フェルメール出典: ) 世界中で有名な少女は他にもいます! 物語のはじめを少し振り返ります。 そして、アリスが小さなドアの鍵穴を覗いてみると、奥には世にも美しい素敵な 庭が見えました。 好奇心旺盛なアリスは、そのお庭に行くためにどうしようか考えていると、自分の体の 大きさが変化するお菓子やテーブルの上に黄金の鍵を見つけ、急いで走る白いウサギを再び見つけます。 お菓子を食べて体の大きさが小さくなるものの、鍵を手にすることが出来ないため、なかなかドアの向こう 側にはたどり着けません。 途方も暮れて、大粒の涙を流しながら、ウサギが置いていった扇で自分のことを 仰いでいると、なんとアリスの体がどんどん小さくなるのです。 アリスは泣き止み、自分がまだ存在することに感謝しますが、自分がこぼした涙と体の大きさの変化のせいで、 アリスは涙の池の中に自分がいることにすぐ気が付くのです。 涙の池で泳いでいると、パシャパシャと水のはねる音がし、近くまで泳いでいくと、なんと泳いでいる ネズミに出会うのです。 そのネズミは猫と犬が大嫌いでお節介なネズミ。 そのネズミの前でアリスは猫の 「ね」さえ言うことは出来ません。 出典: ネズミとアリスは陸に上がり、同じく涙の池から上がってきたアヒル、ドードー、オウム、子ワシたちが 陸へと上がっていきます。 陸に上がった動物たちとアリス。 すぐにネズミが説教を始めたり、動物達が ルールの無いヘンテコなコーカスレースを始めたりするのです。 そのコーカスレースはスタートも無い、 ただランナーたちが走りたい時に走り、やめたい時にやめる。 半時間ほど経って、体が乾いた頃に、 ドードーが「辞め!」というと終わるレース。 ちなみに、コーカスとは英国では規律のある党組織の制度を表すそうです「キャロルの使うコーカスレーでは、 委員が政治的な利を求めて走りまわって落としどころがなくなるのを揶揄するかのように、好き勝手に動き まわって堂々巡りの話となっています」(『アリスのことば学』より抜粋) なんとも奇妙なお話です! その後、しゃばりでお節介なネズミは嫌いな犬がネズミ一家をいかに脅かしたかという身の上話をします。 本ではこのネズミのストーリーは尻尾の形として表現されます。 ネズミが動物たちの目の前で出しゃばって「身の上話」 tale を話す一方、アリスは目の前のネズミの しっぽ tail に気を取られていると、このtailとtaleがこんがらがり、勘違いしてしまいます。 アリスは tailが長いlongと理解できるけれども、なぜtaleが悲しいsadなのか、という難問にぶつかります。 アリスはネズミの話のどこが悲しいのか一生懸命聞いたのですが、こんがらがり、このようにしっぽの形に なってしまったそう。 これはアリスの脳の中で認識されたネズミの話の表象なのです。 ちょっとおしゃれですね。 でもこのしっぽの話しの仕掛けはそれだけではありません、お話は続きます。 上の空にいるアリスに気づいたネズミはアリスに、自分の話しを聞いているのか確かめるために、 アリスに自分の話の説明をさせます。 でもアリスはこう答えます。 「the fifth bend」(5番目の曲がり角)と。 しっぽの形のお話になっているのはアリスの頭の中のみ。 ネズミに「5番目の曲がり角」と答えたって、 ネズミもわかる訳がありません。 そこでネズミはこう答えます。 「ねじれたのなら私に任せて!」。 NotとKnotと聞き間違えたアリス。 ネズミはアリスの話しでさらにねじれていきます。 TailとTale, NotとKnotを認識し間違えたところで、ネズミのしっぽの話がどんどんねじれていき、 終いにはネズミが憤慨してどこかへ行ってしまいます。 実にナンセンスなお話しですね! 『アリスのことば学』参照 何か哲学的な答えにたどり着くどころか、意味を突き止める挙句に無意味にたどりついてしまうアリス。 これがナンセンス文学の特徴です。 でもその「意味」と「無意味」の島々を行き交うことで、アリスという登場人物を印象深く描いているのです。 もし、なんでも起こることを当然のように受け取り、論理的に考えることが出来なければ、きっとアリスは 不思議の国に滞在し続けることになっていたでしょう。 子どもにとってみたら悪夢でしかありません。 (ルイス・キャロルによる挿絵) 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 そうそう、著名なジャズ作曲家兼演奏家たちが『不思議の国のアリス』をタイトルに曲を出しているのです。 ビル・エヴァンズのAlice in Wonderland どれも素敵ですね! 私は特に、デイブ・ブルーベックとオスカー・ピーターソンが茶目っ気たっぷりでお気に入りです。 音楽とアリスというと、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンは『不思議の国のアリス』が 大好きだったそうです。 ポール・マッカートニーも確か、この作品に影響を受けて作曲したとか。 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」の歌はジョン・レノンが『鏡の国のアリス』の 「ウールと水」の章から影響を受けたとか。 , 2010. Canada: Wiley. Nagel. , 2014. Oxford: Oxford. Susina. , 2013. London: Routledge. 大英図書館のアリス展のお店 これはラテン語に訳された『不思議の国のアリス』です。 私の友人はラテン語が読めますが、私にとって残念ながら、お飾りの本です。 青山学院大学文学部卒。 オーデン作 「1939年9月1日」。
次の皆さん、『不思議の国のアリス』の出生に迫ったは読んでいただけましたでしょうか? 【後編】はその謎を哲学的に紐解いていきます。 アリスのようにもう少し首を長くして、お楽しみ下さい。 『不思議の国のアリス』はルイス・キャロルがノンセンス文学として世界中で読まれた作品として 知られています。 「皮肉」という言葉は、皮と肉が原材料。 (つまるところ、骨や髄にまで達しない「上辺」という意味です。 ) しかし、果たしてルイス・キャロルが当時の時代や社会をあざ笑うためにパロディー作品を 残したのでしょうか。 私はそう思いません。 (大英図書館のアリス展にて) 私のご近所さんであるビックベン・砂時計・振り子時計・腕時計・そしてiwatch。 現代社会に生きる人びとは「時間」に支配され、常にスピードを求められながら毎日を生きています。 「時間」は『不思議の国のアリス』で重要な役割を果たしているのです。 そこで、「アリスと時間のなぞなぞ」について考えてみましょう! 「時間」という概念が生まれたのはいつのことでしょう?古代の人々は月の満ち欠けと太陽の位置によって、 自然を頼りに「時」を図っていました。 「数字と時の概念」が人類に与えられたことにより、人々はより 効率的に生活できるようになり、より効率的にコミュニケーションが出来るようになりました。 スター・ウォーズのワープも時を巻き戻したり、先延ばしたり「時の工作」をしているのです。 ところが、 この「時」は実はアリスのお話では不思議の国をややこしくさせている登場人物として描かれているのです。 ここで、キャロル言葉を巧みに用いて作り上げた「不思議の国」の2つのシーンを取り上げて ご紹介しましょう! 〜マッドハッターとの「おかしな茶会」〜 お茶会でのマッドハッターと3月ウサギの会話を抜粋。 マッドハッター 「大ガラスが机に似ているのはなぜ?」 … アリス 「あなたがた、もう少しはましな時の使いようがあると思うわ」 「答えの出っこないようななぞなぞをかけて、時をつぶすよりはね」 マッドハッター 「わたしが知っているていどに、あんなにも時というものがわかっているなら。 つぶすなどとは言わんだろうがね。 時はいきものだぜ」 アリス 「どういう意味か分からないわ」 (出典 ) マッドハッター 「時は、はかられたりするのがいやなのさ。 ハートの女王がもよおされた大音楽会のときだったが、おれはうたわなきゃならなかったんだ」 「ところで、おれが大1節を終えるか終わらないというところで… 女王が怒鳴り出されたのだ『こやつ、時間をつぶしているぞ!首をちょん切れ!』 それからというもののいつみても6時なんだよ!」 アリス 「ここにこんなにお茶の道具が出ているのはそのせいなのね」 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 エマニュエル・カントはかつてこのような言葉を残しました。 「時間」というものは人間が世界との関係・つながりを構築し、感覚を研ぎ澄ませながら、 その世界を経験・体感することから時間が生まれる。 )かなり意訳ですが。 カントは、「人びとは世界とのつながりと構築を通してその人びとの中になる時間の針が動いていく」 というのです。 でもそんな哲学的なことと『不思議の国のアリス』とはどのようなつながりがあるのでしょうか!? (ウァンダーランドウィークで出会った才能ある素晴らしい研究者たち) そのややこしい数式を解く前に151年前のオックスフォードのタイムトリップしてみましょう! この写真はキャロルが教鞭を執っていたオックスフォードのクライストチャーチカレッジです。 151年前は時間軸が今と異なっていたそうです。 現在ではイギリス全土は同じ時間軸で設定されていますが、151年前はオックスフォードの場所はロンドンより 時間が1時間ほどずれていたそうです。 つまり、ロンドンの時間とは別に、オックスフォードの時間が存在していたそうです。 コラムので述べたようにルイス・キャロルが生きていた時代は、産業革命によりその変化は著しく、 人びとがスピードを意識し、より効率的に生活をはじめものでした。 ポストモダニズム、ポストモダンと呼ばれる現代では、テクノロジーの発展によりスピードのみならず、 情報化が進むことで自分の「姿」や「実体」が曖昧な時代に入っています。 人類はコミュニケーション手段としてアナログとデジタルをうまく両立させています。 しかし、そのことにより自分の姿が、バーチャル化されているのか、絵画のように描かれているのか、 模写されているのか、点・線なのか、それとも透明人間状態として捉えられているのか。 自分の体は 存在しても、自分の認識と信条にズレが起こることで、その人の存在自体もズレが生じているというのです。 良く考えれば、コミュニケーションと情報伝達の効率化には最適な時代です。 しかし、ルイス・キャロルはそこには大きなブラックホールのような落とし穴があるということをお話を 通して教えてくれているのです。 (これは私の個人的な解釈です。 ご了承下さい。 ) スター・ウォーズにもバーチャル化されたミニチュアジェダイがメッセージを届けるために飛行船の中に 登場しるように…バーチャル化されはじめた時代、実体が分からない時代だからこそ、自分たちの実体や 認識や時間はどこかに飛んで消えてしまうかもしれません。 『千と千尋の神隠し』の千尋のように、あのトンネルを抜けて辿りついた世界では、その世界の食べ物を 食べないと消えてしまうように、千尋の名前を忘れてしまう実態に陥ってしまうかもしれません。 実際にその落とし穴にはまった人物たちがマッドハッターや3月うさぎなのではないでしょうか。 時計を持って急ぐ白いうさぎも、時計を持って走ってばかり…いっそ、その時間をバタークッキーにして 食べてしまえばいいのにと思ってしまうほどです。 出典: ルイス・キャロルはきっと151年後の世界を予知していたのでしょう。 世界がより早く変化し、発展し、便利になる。 でも世界に存在する宗教や法律は多様で一つの共通した ものではありません。 盛者必衰と森羅万象の理。 国際情勢を見て分かるように、多様な宗教と法律が存在することで、秩序が崩れてカントが言う「時間軸」を 見失い、人びとの混乱が生じながらも、それでも現代人が「光」を求めて生きていく道をたどっていくことを。 (『バベルの塔』出典: ) アリスのお話でもありますが、現代に生きる人びとのためのお話でもあるのです! (『真珠の耳飾りの少女』フェルメール出典: ) 世界中で有名な少女は他にもいます! 物語のはじめを少し振り返ります。 そして、アリスが小さなドアの鍵穴を覗いてみると、奥には世にも美しい素敵な 庭が見えました。 好奇心旺盛なアリスは、そのお庭に行くためにどうしようか考えていると、自分の体の 大きさが変化するお菓子やテーブルの上に黄金の鍵を見つけ、急いで走る白いウサギを再び見つけます。 お菓子を食べて体の大きさが小さくなるものの、鍵を手にすることが出来ないため、なかなかドアの向こう 側にはたどり着けません。 途方も暮れて、大粒の涙を流しながら、ウサギが置いていった扇で自分のことを 仰いでいると、なんとアリスの体がどんどん小さくなるのです。 アリスは泣き止み、自分がまだ存在することに感謝しますが、自分がこぼした涙と体の大きさの変化のせいで、 アリスは涙の池の中に自分がいることにすぐ気が付くのです。 涙の池で泳いでいると、パシャパシャと水のはねる音がし、近くまで泳いでいくと、なんと泳いでいる ネズミに出会うのです。 そのネズミは猫と犬が大嫌いでお節介なネズミ。 そのネズミの前でアリスは猫の 「ね」さえ言うことは出来ません。 出典: ネズミとアリスは陸に上がり、同じく涙の池から上がってきたアヒル、ドードー、オウム、子ワシたちが 陸へと上がっていきます。 陸に上がった動物たちとアリス。 すぐにネズミが説教を始めたり、動物達が ルールの無いヘンテコなコーカスレースを始めたりするのです。 そのコーカスレースはスタートも無い、 ただランナーたちが走りたい時に走り、やめたい時にやめる。 半時間ほど経って、体が乾いた頃に、 ドードーが「辞め!」というと終わるレース。 ちなみに、コーカスとは英国では規律のある党組織の制度を表すそうです「キャロルの使うコーカスレーでは、 委員が政治的な利を求めて走りまわって落としどころがなくなるのを揶揄するかのように、好き勝手に動き まわって堂々巡りの話となっています」(『アリスのことば学』より抜粋) なんとも奇妙なお話です! その後、しゃばりでお節介なネズミは嫌いな犬がネズミ一家をいかに脅かしたかという身の上話をします。 本ではこのネズミのストーリーは尻尾の形として表現されます。 ネズミが動物たちの目の前で出しゃばって「身の上話」 tale を話す一方、アリスは目の前のネズミの しっぽ tail に気を取られていると、このtailとtaleがこんがらがり、勘違いしてしまいます。 アリスは tailが長いlongと理解できるけれども、なぜtaleが悲しいsadなのか、という難問にぶつかります。 アリスはネズミの話のどこが悲しいのか一生懸命聞いたのですが、こんがらがり、このようにしっぽの形に なってしまったそう。 これはアリスの脳の中で認識されたネズミの話の表象なのです。 ちょっとおしゃれですね。 でもこのしっぽの話しの仕掛けはそれだけではありません、お話は続きます。 上の空にいるアリスに気づいたネズミはアリスに、自分の話しを聞いているのか確かめるために、 アリスに自分の話の説明をさせます。 でもアリスはこう答えます。 「the fifth bend」(5番目の曲がり角)と。 しっぽの形のお話になっているのはアリスの頭の中のみ。 ネズミに「5番目の曲がり角」と答えたって、 ネズミもわかる訳がありません。 そこでネズミはこう答えます。 「ねじれたのなら私に任せて!」。 NotとKnotと聞き間違えたアリス。 ネズミはアリスの話しでさらにねじれていきます。 TailとTale, NotとKnotを認識し間違えたところで、ネズミのしっぽの話がどんどんねじれていき、 終いにはネズミが憤慨してどこかへ行ってしまいます。 実にナンセンスなお話しですね! 『アリスのことば学』参照 何か哲学的な答えにたどり着くどころか、意味を突き止める挙句に無意味にたどりついてしまうアリス。 これがナンセンス文学の特徴です。 でもその「意味」と「無意味」の島々を行き交うことで、アリスという登場人物を印象深く描いているのです。 もし、なんでも起こることを当然のように受け取り、論理的に考えることが出来なければ、きっとアリスは 不思議の国に滞在し続けることになっていたでしょう。 子どもにとってみたら悪夢でしかありません。 (ルイス・キャロルによる挿絵) 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 そうそう、著名なジャズ作曲家兼演奏家たちが『不思議の国のアリス』をタイトルに曲を出しているのです。 ビル・エヴァンズのAlice in Wonderland どれも素敵ですね! 私は特に、デイブ・ブルーベックとオスカー・ピーターソンが茶目っ気たっぷりでお気に入りです。 音楽とアリスというと、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンは『不思議の国のアリス』が 大好きだったそうです。 ポール・マッカートニーも確か、この作品に影響を受けて作曲したとか。 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」の歌はジョン・レノンが『鏡の国のアリス』の 「ウールと水」の章から影響を受けたとか。 , 2010. Canada: Wiley. Nagel. , 2014. Oxford: Oxford. Susina. , 2013. London: Routledge. 大英図書館のアリス展のお店 これはラテン語に訳された『不思議の国のアリス』です。 私の友人はラテン語が読めますが、私にとって残念ながら、お飾りの本です。 青山学院大学文学部卒。 オーデン作 「1939年9月1日」。
次のポンコツ映画愛護協会『アリス・イン・ワンダーランド』 『アリス・イン・ワンダーランド』:2010、アメリカ 7歳の頃、アリスは奇妙な夢ばかり見ていた。 彼女は実業家の父チャールズに、「真っ暗な穴を落ちて、変な生き物に会うの。 ドードー鳥とか、洋服を着た白ウサギとか、笑う猫とか、青い芋虫とか」と語る。 「私、おかしくなったの?」と不安になったアリスに、チャールズは穏やかな表情で「そうだね。 だけど偉大な人は、みんなそうだったんだよ。 ただの夢だ。 悪いことは起きない」と告げた。 13年後、相変わらずアリスは、その時と同じ夢ばかり見ていた。 優しかったチャールズは死去し、貴族のアスコット卿が事業を引き継いでいる。 ある日、アリスは母のヘレンに連れられ、アスコット卿の豪邸で開かれるパーティーに参加する。 しかしアリスにとって、それは退屈な催しでしかない。 アリスはアスコット卿と夫人に促され、夫妻の息子ハーミッシュと踊る。 ダンスの後、アリスはそれが自分とハーミッシュの婚約パーティーだと知った。 後でハーミッシュが求婚する手はずになっているのだという。 アリスはアスコット夫人に連れ出されて中庭を歩きながら、ハーミッシュと結婚する上での注意事項を聞かされる。 洋服を着た白ウサギを見つけたアリスは後を追うが、すぐに見失った。 白ウサギを捜したアリスは、姉マーガレットの婚約者であるローウェルが他の女とキスしている現場に遭遇した。 ローウェルが「お姉さんの結婚式を台無しにするつもりかい」と内緒にするよう求めたので、アリスは「でも、こそこそしてるのは私じゃないわ」と腹を立てた。 ハーミッシュは大勢の前へアリスを連れて行き、結婚を申し込んだ。 白ウサギの姿を見つけたアリスは「時間を頂戴」と告げて走り去る。 白ウサギを追い掛けたアリスは、穴に転げ落ちてしまう。 アリスが辿り着いたのは、幾つもの扉がある部屋だった。 テーブルの上にある鍵を使ってみるが、どの扉も開かない。 アリスは小さな扉を見つけ、鍵を鍵穴に差し込んでみた。 扉は開いたものの、アリスが通り抜けるには、あまりにも小さすぎた。 アリスは液体の入った小瓶に気付き、それを手に取った。 小瓶には「私を飲んで」と書かれた紙が括り付けられている。 液体を飲むと、あっという間にアリスの体が縮んだ。 扉を通り抜けられるサイズになったが、テーブルの上に鍵を置いたままだった。 鍵を取ろうとするアリスだが、まるで届かない。 その時、彼女は床に置いてあるケーキ(アッペルクーヘン)に気付く。 そこには「私を食べて」と書かれていた。 一口食べると、天井に頭がぶつかるほど大きくなってしまった。 アリスは鍵を手に取ってから、小瓶の液体を飲んだ。 彼女は鍵を開けて小さな扉をくぐり、外に出た。 すると白ウサギとヤマネ、喋る花、双子のトウィードルダムとトウィードルディーが待ち受けていた。 彼らはアリスが本物かどうかで揉めていた。 白ウサギは「あの時のアリスに間違いない」と確信して連れて来たのだが、ヤマネは人違いではないかと疑っている。 そこで審判を仰ぐため、彼らは物知りの芋虫、アブソレムの元へアリスを連れて行くことにした。 アブソレムは白ウサギたちに命じて、アリスにアンダーランドの暦が描かれた絵巻物を見せる。 それは予言の書であり、未来の出来事が示されている。 その中には、アリスがフラブジャスの日にヴォーパルの剣を使い、ジャバウォッキーを殺す絵も描かれていた。 アリスが「私じゃないわ」と言うと、アブソレムは「彼女はアリスとは程遠い」という判断を示した。 アリスは夢を見ているのだと思い、腕をつねって目覚めようとするが、上手くいかなかった。 バンダースナッチとトランプ騎士団が襲撃して来たので、アリスたちは慌てて逃げ出した。 トランプ騎士団を率いるステインは予言の書を拾い、赤の女王が暮らす城へ戻った。 ステインは赤の女王に、アリスがジャバウォッキーを殺す絵が予言の書に描かれていることを教える。 赤の女王は彼に、アリスを見つけ出すよう命じた。 アリスは夜の森に迷い込み、ニヤニヤと笑うチェシャ猫に出会った。 チェシャ猫は彼女をマッドハッターの元へ連れて行くことにした。 マッドハッターはヤマネと三月ウサギを招待し、ティー・パーティーを開いていた。 マッドハッターたちは、赤の女王を打倒し、白の女王が再び王座に就くことを望んでいた。 ジャックが騎士団を率いてやって来たので、マッドハッターはアリスの体を小さくしてティーポットに隠れさせる。 ジャックはアリスを捜していたが、マッドハッターたちは何も知らないフリをした。 騎士団が連れているブラッドハウンドのベイヤードが、ティー・ポットに近付いた。 だが、マッドハッターの仲間である彼は、すぐに踵を返した。 ステインと騎士団が立ち去った後、マッドハッターはアリスを白の女王の元へ連れて行くことに決めた。 白の女王の元へ行く道中で、マッドハッターはジャバウオッキーに関する詩を語る。 「全て君のことだ」と言われたアリスは、「私は誰も殺さないわ」と反発した。 マッドハッターが「赤の女王が何をしたか知った上で、そんなことを言うのか」と口にするので、「赤の女王は何をしたの?」とアリスは尋ねる。 マッドハッターは、自分が白の女王の帽子職人をしていた頃の出来事を回想した。 森の広場で白の女王と仲間たちが楽しんでいた時、ジャックと騎士団が急襲し、火を放ったのだ。 マッドハッターはステインと騎士団が迫って来たのに気付き、慌てて逃げ出した。 泉に行き当たったマッドハッターは、「トロッターズ・ボトムへ行け。 白の女王の城は、すぐ近くにある」とアリスに告げ、彼女を乗せた帽子を投げた。 泉の向こう側に帽子が落下した直後、マッドハッターは騎士団に包囲されて捕まった。 いつの間にか眠ってしまったアリスが目を覚ますと、ベイヤードが目の前にいた。 アリスが「マッドハッターを裏切ったわね」と責めると、彼は「妻と子供たちが殺される」と釈明した。 アリスが「マッドハッターはどこへ連れて行かれたの?」と尋ねると、ベイヤードは「サラゼングラムにある赤の女王の城だ」と教える。 「助けに行きましょう」と口にするアリスに、ベイヤードは「そんな予言は無い。 君はジャバウォッキーに備えないと決められた道を守らないと」と告げる。 しかしアリスはキッパリとした口調で「これは私の夢よ。 道は自分で作るわ」と言い、ベイヤードの背中に乗って城までの案内を要求した。 アリスは城に侵入し、白ウサギの持っていたケーキを食べた。 大きくなりすぎたアリスは赤の女王に見つかり、アムという偽名を名乗る。 赤の女王は「頭の大きな人は大歓迎よ」と言い、アリスを城内へ招き入れる。 赤の女王はマッドハッターを連行させ、アリスの居場所を教えるよう要求した。 しかしマッドハッターが「貴方の素晴らしい頭を飾る帽子を作りたい」と述べると、赤の女王はステインに指示して彼の手枷を外させた。 ベイヤードは白の女王の元へ辿り着き、アリスがアンダーランドへ来ていることを知らせる。 「しかし今はサラゼングラムに」と申し訳無さそうに言うベイヤードに、白の女王は「いいのよ。 ヴォーパルの剣はそこにあるんだから」と告げた。 赤の女王はステインに「アリスを見つけ出すのよ。 ジャバウォッキーが殺されたら、妹を慕う者たちが謀反を起こすわ」と語る。 赤の女王は、民衆から愛されている妹、白の女王に対する強い嫉妬心を抱いていた。 赤の女王のための帽子を作り始めたマッドハッターは、アリスに「この城にヴォーパルの剣がある。 白ウサギが手伝ってくれるから、白の女王に届けてほしい」と依頼した。 白ウサギがアリスを導いた場所は、バンダースナッチの小屋だった。 その中に剣があるのだという。 アリスは怯えながらも小屋に入り、ヤマネが抉り取った目玉をバンダースナッチに返した。 するとバンダースナッチは、アリスに負わせた左腕の傷を優しく舐めた。 アリスは箱の中に保管されていたヴォーパルの剣を手に入れた。 赤の女王は家臣から、ステインがアムを口説いていたという報告を受ける。 追及を受けたステインは、「彼女がしつこく迫って来た」と嘘をついた。 赤の女王は激怒して「打ち首じゃ」と叫び、アムを捕まえるよう命じた。 マッドハッターとヤマネはアリスに「逃げろ」と言い、ステインと騎士団を妨害する。 アリスは騎士団に包囲されるが、バンダースナッチが助けに入った。 アリスはバンダースナッチの背中に乗り、マーモリアルにある白の女王の城へと向かった。 アリスは白の女王と会い、ヴォーパルの剣を渡した。 すると白の女王は、面会者が来ていることを教える。 それはアブソレムだった。 彼は「前は程遠いと言ったが、今は違う。 ほとんどアリスだ」と口にした。 「だとしてもジャバウォッキーは殺せない。 死ぬことになっても」とアリスが言うと、アブソレムは「死ぬぞ。 だからダブチェスの日には、ヴォーパルの剣を傍に置いておくといい」と述べた。 マッドハッターとヤマネは捕まり、牢に入れられていた。 マッドハッターの牢にはチェシャ猫が現れ、彼の帽子を見て「それ、欲しいな」と呟いた。 翌朝、マッドハッターとヤマネは庭に連れ出され、処刑されることになった。 マッドハッターの首が撥ねられた途端、彼の姿が消滅した。 そして帽子が空に浮かび、そこにチェシャ猫の頭部だけが出現した。 赤の女王の傍らに姿を現したマッドハッターは、「貴方の周囲は嘘つきのおべっか使いばかりですよ」と言い、家臣たちが体の一部を大きく見せていることを暴露した。 マッドハッターは集まった民衆に対し、「赤の女王に虐げられている者たちよ、今こそ赤の女王を倒そうじゃないか」と呼び掛けた。 拍手が起きる中、怒った赤の女王は、ジャルジャル鳥を放ってマッドハッターたちを襲撃させた。 彼女はステインに、「お前の言う通りだ。 愛されるより恐れられた方がいい。 戦の準備をせよ。 妹の城へ行く」と告げた。 一方、アリスは鎧と剣を手に入れた赤の女王から「後は戦士だけ」と言われるが、ジャバウォッキーと戦おうとする気持ちは芽生えていなかった…。 監督はティム・バートン、原作はルイス・キャロル、脚本はリンダ・ウールヴァートン、製作はリチャード・D・ザナック&スザンヌ・トッド&ジェニファー・トッド&ジョー・ロス、共同製作はカッテルリ・フラウエンフェルダー&トム・ペイツマン、製作協力はデレク・フレイ、製作総指揮はピーター・トビアンセン&クリス・レベンゾン、撮影はダリウス・ウォルスキー、編集はクリス・レベンゾン、美術はロバート・ストロンバーグ、衣装はコリーン・アトウッド、シニア視覚効果監修はケン・ラルストン、音楽はダニー・エルフマン。 主演はジョニー・デップ、共演はミア・ワシコウスカ、アン・ハサウェイ、ヘレナ・ボナム=カーター、クリスピン・グローヴァー、マット・ルーカス、フランシス・デ・ラ・トゥール、リンゼイ・ダンカン、ジェラルディン・ジェームズ、ティム・ピゴット=スミス、マートン・チョーカシュ、ジョン・サーマン、ピーター・マティンソン、レオ・ビル、ジェマ・パウエル、ジョン・ホプキンス、エレノア・ゲックス、エレノア・トムリンソン、レベッカ・クルークシャンク他。 声の出演はアラン・リックマン、スティーヴン・フライ、マイケル・シーン、ティモシー・スポール、バーバラ・ウィンザー、クリストファー・リー、マイケル・ガフ、ジム・カーター、イメルダ・ソーントン、ポール・ホワイトハウス他。 ルイス・キャロルの児童小説『不思議の国のアリス』と続編『鏡の国のアリス』をモチーフにして、その後日談となる物語を構築した作品。 監督は『チャーリーとチョコレート工場』『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』のティム・バートン。 マッドハッターをジョニー・デップ、アリスをミア・ワシコウスカ、白の女王をアン・ハサウェイ、赤の女王をヘレナ・ボナム=カーター、ステインをクリスピン・グローヴァー、ダム&ディーをマット・ルーカスが演じている。 他に、伯母のイモージェンをフランシス・デ・ラ・トゥール、ヘレンをリンゼイ・ダンカン、アスコット卿夫人をジェラルディン・ジェームズ、アスコット卿をティム・ピゴット=スミス、チャールズをマートン・チョーカシュが演じている。 アブソレムの声をアラン・リックマン、チェシャ猫をスティーヴン・フライ、白ウサギをマイケル・シーン、ベイヤードをティモシー・スポール、ヤマネをバーバラ・ウィンザー、ジャバウォッキーをクリストファー・リー、ドードー鳥をマイケル・ガフが担当している。 ティム・バートン監督の作品を観賞する上で重要なキーワードは、「フリークスへの愛情」と「毒を含んだ無邪気さ」だと私は思っている。 ところが、製作したのがウォルト・ディズニー・ピクチャーズだから遠慮したのか、それとも製作サイドのコントロールがあったのか、どちらの要素も今回は薄味になっている。 ってことは、ティム・バートン監督作としての持ち味が弱くなっているということだ。 それでも職人監督としての手腕がある人なら、面白い映画に仕上げることが出来たのかもしれない。 しかし残念ながら本作品は、ティム・バートンの持ち味が出ているかどうかという問題を抜きにしても、単純に面白くない。 この映画は、アクション映画としての色合いが濃くなっている。 原作の『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』は、そんなテイストの作品ではない。 いつの頃からか、ハリウッドでは著名な古典的作品を勧善懲悪のアクション物として改変することが多くなった印象があるが、それは良くない傾向だなあ。 少なくとも『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』については、そういうのはアプローチの方向として間違ってるんじゃないかと思うぞ。 原作の言葉遊びを持ち込めとは言わない。 どうせ英語の言葉遊びだから、日本人には分かりにくいし。 ただ、ナンセンスな味付けという部分に関しては、それを消しちゃダメなんじゃないかと。 まあ全く持ち込んでいないとは言わないけど、かなり薄まっている。 そこに「人生をどう歩んでいくべきか」といった真面目なテーマを持ち込んだせいで、ますますナンセンスの色が薄くなっている。 そりゃあ、「ヒロインの精神的成長」という要素を持ち込んで、勧善懲悪のアクションとして作った方が、色んな観客から分かりやすく感じてもらえる映画になる可能性は高いのかもしれない。 だけど、そんな仕上がりにしちゃったら、もはや『不思議の国のアリス』じゃないと思うんだよな。 『不思議の国のアリス』って、幻想的な世界をアリスが冒険する内容ではあるけれど、ヒロイック・ファンタジーじゃないからね。 終盤、ジャバウォッキーと戦うことを決意したアリスは鎧を装着し、盾と剣を持っているけど、ジャンヌ・ダルクじゃないんだからさ。 それと、「敷かれたレールの上を歩くよう求められていたアリスが、自分で決めた道を歩こうと決意する」という流れがあるんだけど、そこも引っ掛かるんだよなあ。 確かにアリスがジャバウォッキーと戦うのは本人が決めたことだけど、予言の書に書かれていた通りの行動であることは確かなわけで。 それって、「定められた道を歩いている」ということにならんのかな。 あと、現実世界に戻った彼女は父の事業を引き継ぎ、中国への展開をアスコット卿に提案するんだけど、そういう妙なリアリティーは邪魔だなあ。 まだ「幻想世界の余韻」が欲しいところなんだよな、ラストは。 そこまで極端に現実へ引き戻すのは、無粋に思えるんだが。 この映画って、明らかに原作を知っている人を前提として作られているよね。 もしくは1951年に公開されたディズニーの長編アニメ映画『ふしぎの国のアリス』を見ていれば、それと同じ条件と言ってもいいけど。 アンダーランドに落ちたアリスが最初の部屋で体験する出来事は、「少女時代にアリスが体験した出来事を白ウサギやヤマネたちが再現させている」ということなんだけど、『鏡の国のアリス』はともかく、『不思議の国のアリス』を知らないと、それが「同じ出来事」であることはピンと来ないよね。 ってことは、「原作を読んだりアニメ版を見たりしたことのある人に見てもらいたい」というスタンスのはずなんだけど、それなのに原作やアニメ版とは全く異なるテイストで仕上げているのは、いかがなものかと。 これを『不思議の国のアリス』の後日談という風に感じることは、ちょっと出来ないなあ。 「『不思議の国のアリス』のアクション版」として作られているならともかく、あの原作があって、そこから13年後の物語ってことになると、あまりにも雰囲気が違いすぎて、受け入れ難い。 シリアスになりすぎているのも、違和感が強いんだよなあ。 例えばトランプ兵にしても、マジに強くて怖い存在になっているんだけど、そりゃ違うなあと。 ペラペラで弱そうなのに、自分たちは強いと思い込んで偉そうにしているってのが面白いと思うので。 まあ、そもそも、そういう面白さを出そうとはしてないんだけどね。 でもなあ、アリスの物語に、マジな緊張感とか、そんなの要らないわ。 こっちはワクワク感が欲しいのよ。 ハラハラ感は、そんなに要らない。 っていうか、まるで要らないわ。 赤の女王の扱いに関しては、「ティム・バートンらしくないなあ」と感じさせられる。 赤の女王は頭が異様に大きい、いわゆるフリークスである。 家臣たちは付け鼻や付け耳でフリークスを装い、彼女に媚びている。 赤の女王は性格が悪くて残忍で、人々から忌み嫌われている。 一方、赤の女王の妹である白の女王は、白塗りメイクだがフリークスではないので、美女という解釈でいいんだろう。 そんな彼女は、民衆から愛されている。 美醜によって善悪を分けるというのは、ディズニー映画の伝統だ。 赤の女王は妹に対して、「なぜ彼女だけが愛されるのか」と強い嫉妬心を抱いている。 赤の女王だって、人々から愛されたいと思っている。 しかしマッドハッターが「赤の女王に虐げられている者たちよ、今こそ赤の女王を倒そうじゃないか」と呼び掛けて民衆から拍手が起きると、彼女は「愛されるより恐れられた方がいい」と完全に腹を決めている。 そこにはフリークスの悲哀が感じられる。 そこまでは、ティム・バートンらしい視線が感じられる。 問題は、その後だ。 戦いに敗れた赤の女王は、白の女王によって追放され、一人ぼっちで生きていくよう命じられる。 だが、その結末は、悲哀を帯びたモノとしては描かれていない。 単に「善が悪を駆逐した」というだけだ。 美しい者が醜い者をやっつけたという決着を、単純な勧善懲悪として描いているのは、ティム・バートンらしくないんじゃないかと。 そもそも、白の女王って、ホントに善玉として受け止めていいのか。 彼女を「善」とする裏付けって、「民衆から慕われている」ということぐらいでしょ。 でも、かなり冷淡な奴に見えるんだけど。 (観賞日:2013年4月9日) 2010年度 HIHOはくさいアワード:2位.
次の