あぜ くら 会。 社会福祉法人アゼリヤ会

支倉常長

あぜ くら 会

生涯 [ ] 2年()、を祖先とする の子として長井荘立石邑(現在の立石、米沢市立関小学校の周辺)に生まれる。 その後、伯父の養子となり、7歳から支倉村(現在の支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした。 その後、時正に実子・が生まれたため、の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。 に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。 またの鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。 14年()、前の一行()が副王領(現在の)への帰途に遭い、岩和田村(現在の)の海岸で座礁難破した。 地元民に救助された一行に、がの建造したを贈りヌエバ・エスパーニャ副王領へ送還した。 この事をきっかけに、日本とエスパーニャ()との交流が始まった。 こうしたエスパーニャとの交流ができたことにより、常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。 遣欧使節はエスパーニャ人の(Luis Sotelo)を副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してに赴くことになった。 遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗が倒幕を行おうとした説も存在している。 慶長17年()、常長は第一回目の使節としてでソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。 再度仙台へ戻り、現・で建造したガレオン船で慶長18年()に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。 なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、として出航させたのではないか、とする説もある。 出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバ・エスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸の岸にある(メキシコ・)へ向かった。 アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で岸の(メキシコ・)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、(スペイン・)に到着、小型帆船に乗り換えてを遡上し、に上陸した。 慶長20年()にはエスパーニャ国王に謁見している。 その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年()にはに謁見した。 また、その後もに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。 しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかった。 常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年()に帰国した。 こうしてはるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでにが出されていた。 そして、2年後に失意のうちに死去した。 常長の墓といわれるものは内に3ヵ所 北山にある光明寺( の1つ )、支倉地区の円福寺、そしての西光寺 存在する。 その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、17年()、家臣がであったことの責任を問われて処刑され断絶した。 しかし8年()、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。 その後、第10代当主の代までに 、第11代から現在の第13代支倉常隆、そして第14代支倉正隆に至るまで、に居を構え続けている。 また、支倉常隆は日本国内ならびに世界各国を周って先祖の常長の功績を伝え、現在はその子正隆が引き継いでいる。 常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」はに所蔵されており、13年()にに指定されている。 また、2013年にはユネスコの「世界の記憶」に選定された。 その中には常長のがあり、日本人を描いたとしては最古のものとされる。 また、常長自身が記録した訪欧中のが9年()まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。 なお、資料の中に「支倉」を FAXICRA とつづった部分があり、当時ハ行をで発音(を参照)していた証拠となっている。 諱「常長」について [ ] この人物は一般に「支倉常長」と称されるが、同時代に彼のを「常長」と記述した例はない。 自筆史料の署名も「六右衛門」「六右衛門長経」とされており、自身が「常長」を称したことはなかったと推定される。 「常長」という諱が登場するのは、彼の死後、支倉家が一時断絶して再興した後に編纂された支倉家の系図である。 後世の子孫が、先祖がキリシタンであったことを隠すため、「長経」の使用を忌避し、「常長」と偽って記録した可能性がある。 家紋について [ ] 支倉家の家紋は「」とされる。 『』には「三幅四方浅黄白卍」とあり、古くから右万字が使われていたことは確かである。 しかし、支倉常長の家紋としての意匠は、「逆卍に違い矢斜め十字」が有名であり、宮城県の時代行事の装束にはこれが使われている。 ギャラリーにあるようにヨーロッパの記録にも残っており、少なくとも常長の時点で家紋であったと考えてもよいであろう。 2013年の遣欧使節団400年記念行事において支倉家がスペインに招かれたが、その際には支倉常隆が裃に陣笠姿で諸行事に参加しており、肩衣と陣笠には右万字の家紋が使われている姿が残っている。 支倉常長が登場する、あるいは彼をモデルにした作品 [ ]• 『支倉常長の歌』(合唱曲、作曲:淺野末治 )• 『』(作・演出:植田紳爾)1981年8月13日 - 9月29日,11月3日 - 11月29日 宝塚歌劇団星組公演• 『』(著。 『』( 第40. 41回 演:)• 『』( ・・の) 支倉常長の旅を大まかに基づいています。 『遠い帆 支倉常長』(台本、作曲。 『』(著。 新潮文庫、)• 『ヨーロッパに消えたサムライたち』(著 、7月 、2007年1月)• 『 』(原作、作画。 『捨て童子 』 (著)• 「ファセクラ」 2015 八木澤教司 作曲。 吹奏楽などの作品で世界から注目を集める作曲家・八木澤教司氏によって2015年に作曲された作品である。 同年、東北福祉大学吹奏楽部により委嘱されたもの。 ウインドアート出版により販売されている。 慶長遣欧使節団として派遣された仙台藩士を主人公とした作品。 ギャラリー [ ] に出版された、生まれの歴史学者 Scipione AMATI の著書 "Historia del regno di Voxv del , dell' antichita, nobilta, e valore del svo re Idate Masamvne "(題名和訳:『日本奥州國伊達政宗記并使節紀行 』または『伊達政宗遣欧使節記 』)、支倉常長の肖像画など。 支倉常長の西洋式の紋章は盾の中に右卍をあしらったものだった。 左はローマ市民権の認定の中に描かれた紋章、中はドイツの記録に残る紋章、右は常長の船の旗 パウルス5世に拝謁した際、常長が鼻をかんだ懐紙がバチカンの人類博物館に展示されていたことがある。 当時の西洋では手鼻かハンカチを使って鼻をかみ、懐紙を用いて鼻をかむという習慣がなく、大変珍しがられたためである。 2013年から2014年にかけてはスペインと日本の国交400周年を記念して様々なイベントが行われた。 支倉常長が最初に着いたはの産地として有名で、これを記念して日本におけるシェリー酒専門家による企画で、サンルーカルにある社と日本の正規輸入代理店によって「サン・フアン・バウティスタ・パロ・コルタド・VOS・シェリー」が限定で造られた。 (ラベルの肖像画に関しては仙台博物館の許可を得ている。 ) 支倉常長の立体像 [ ] - - - 各地の支倉常長の立体像の多くは、の二の丸にある制作のを基にされている。 足跡順に記載。 : 仙台城二の丸 ( )• (47年)設置。 支倉常長生誕400年記念事業による。 :宮城県 月の浦公園 ( )• (昭和62年)設置。 : 日本広場( )• (昭和48年)設置。 仙台市との締結記念。 当初は、オルノスビーチ近くのを望む州立公園において、常長像の視線を仙台の方向に向けて建立された。 しかし、初めに西に300移動され、さらに(9年)にアカプルコ湾に沿って走る「コステラ・ミゲル・アレマン」という大通りの中央緑地帯に移転された。 この中央緑地帯にはなど世界の著名なの像が並べられており、常長もそのような偉人の1人としてアカプルコ市が扱ったことになるが、当初の建立地から数離れ、海を望めない状態になった。 この情況を憂えたメキシコの宮城「メキシコ宮城青葉会」の会長(出身)が日本に帰郷した際に訴えたため、(平成20年)に石巻市の慶長使節船ミュージアム(館)を訪れた駐日メキシコ大使に同館館長が伝えると、大使は善処を約束した。 (平成22年)に常長像は、日交流400周年を記念してカラバリビーチに開設する日本広場へ移設され、同年に日本広場開所式と共に支倉常長像移転式が開催された。 これにより再び常長像の視線は、太平洋の先の仙台の方向に向けられた。 (平成24年)、同じ「日本広場」内に、が寄贈した高さ9メートルの「」が建てられた。 : ( )• (平成13年)設置。 仙台開府400年を記念して関係者および市民有志が寄贈。 佐藤忠良作の像とは違って右手を上げ、目的地のローマの方向を指して建っている。 : カルロス・デ・メサ公園( )• (平成4年)設置。 慶長遣欧使節団渡航380年記念事業による。 に面したカルロス・デ・メサ公園に川に向かって建つ。 常長像建立後にコリア・デル・リオを訪問した日本人たちが、像の一部が破壊され、がされていると報告していたが、(平成20年)に仙台から訪問した青葉城資料展示館主任学芸員らがその惨状を確認した。 その後、コリア・デル・リオ当局が台座を黒く塗って落書きを消したが、(平成22年)時点では破壊された太刀や持ち去られた航海図のプレートの修復は行われていなかった。 本作品中央に走る縦の剥落および無数の横皺は、藩に没収されたか支倉家で秘匿する際、枠から外され、2つ折りされた上で巻かれたため生じたと推測される。 またvはウ音を表わしていると思えばよいが、元来vは子音 [w]と母音 [u]を表わす字であった。 紀元後の俗ラテン語の中で、子音 [v]もこれが管轄するところとなったが、vの下部が特に丸く表記されたuの字が母音 [u]を表わす独立した字として十分に確立するのは17世紀より後のことであり、支倉の頃にはまだvで [u]を表わす文化が広く残っており、vとuの書き分けもかなり広く見られるようにはなっていたが、権威ある場面であるほど書き分けず古式通りにされる傾向があった(同じ文書内でも、全部大文字の題字では母音もVで表わすが本文ではuを使う、というようなことがある)。 つまり、FAXICVRAは概ね「ファシクラ」だと思えばよい。 このような例はの内藤家系図にも見られる。 『』10巻の「CHAPTER 7 祈りのタペストリー」に支倉常長がもたらしたとされるタペストリーが出てくる。 "Idate Masamvne" 、現代風のローマ字表記では Idate Masamune だが、これは「」を指す。 伊達がかつて「いだて」と発音されていたことについては「」を参照。 出典 [ ]• 仙台市博物館. 2016年9月8日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 田代希文ほか『』作並清亮〈仙台文庫叢書〉、1896年9月。 [ ]• 支倉常長隊. 川崎町役場 地域振興課. 2016年7月6日閲覧。 , p. 不明 [ ]. 樫山巌『支倉常長の謎』創栄出版、1993年。 [ ]• 読売新聞. 2015年1月15日. の2017年9月2日時点におけるアーカイブ。 2016年7月6日閲覧。 臨済宗妙心寺派 桂蔵寺. 2019年6月20日閲覧。 , p. 不明 [ ]. 2010年8月25日. の2010年8月27日時点におけるアーカイブ。 国立情報学研究所. 2019年6月20日閲覧。 京都外国語大学付属図書館. 2019年6月20日閲覧。 三陸河北新報社. 2010年1月4日. の2010年11月28日時点におけるアーカイブ。 社団法人石巻観光協会. 2013年5月4日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 三陸河北新報社. 2007年7月25日. の2007年8月19日時点におけるアーカイブ。 支倉常長の足跡を追う旅. 2012年5月26日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 三陸河北新報社. 2008年1月26日. の2008年11月21日時点におけるアーカイブ。 2010年8月29日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 2010年6月23日. [ ]• 石田義廣, 編纂. 「 」第600号、御宿市企画財政課、2012年8月。 オンライン版. 2012年7月11日. 2016年7月18日閲覧。 支倉常長の足跡を追う旅 2008年7月10日. 2012年5月26日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 大沢慶尋 2013年6月19日. 学芸員・大沢の研究ノート Second Season. 2016年7月6日閲覧。 大郷町. 2012年4月19日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2019年6月) 資料• 編『 第十二編之十二』(初版)• 仙台市史編さん委員会編集 『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』 仙台市、2010年3月 研究文献• 『慶長遣欧使節 徳川家康と南蛮人』朝文社、• 松田毅一『伊達政宗の遣欧使節』新人物往来社、1987年。 『支倉六右衛門常長 慶長遣欧使節を巡る学際的研究』文眞堂、• 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社〈中公新書〉、1999年。 『ヨーロッパに消えたサムライたち』角川書店、1999年• 『人物叢書 支倉常長』、• 『支倉常長 武士、ローマを行進す』ミネルヴァ書房、 図録• 編集・発行 『仙台市博物館収蔵資料図録 国宝「慶長遣欧使節関係資料」』• 仙台市博物館編 『伊達政宗の夢 慶長遣欧使節と南蛮文化』 慶長遣欧使節出帆400年・ユネスコ世界記憶遺産登録記念特別展「伊達政宗の夢-慶長遣欧使節と南蛮文化」実行委員会発行、2013年 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 支倉常長を題材にしたオペラ「遠い帆」を初演 外部リンク [ ]• [ ]()• (「せんだい教材映像」)•

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生涯 [ ] 2年()、を祖先とする の子として長井荘立石邑(現在の立石、米沢市立関小学校の周辺)に生まれる。 その後、伯父の養子となり、7歳から支倉村(現在の支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした。 その後、時正に実子・が生まれたため、の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。 に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。 またの鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。 14年()、前の一行()が副王領(現在の)への帰途に遭い、岩和田村(現在の)の海岸で座礁難破した。 地元民に救助された一行に、がの建造したを贈りヌエバ・エスパーニャ副王領へ送還した。 この事をきっかけに、日本とエスパーニャ()との交流が始まった。 こうしたエスパーニャとの交流ができたことにより、常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。 遣欧使節はエスパーニャ人の(Luis Sotelo)を副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してに赴くことになった。 遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗が倒幕を行おうとした説も存在している。 慶長17年()、常長は第一回目の使節としてでソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。 再度仙台へ戻り、現・で建造したガレオン船で慶長18年()に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。 なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、として出航させたのではないか、とする説もある。 出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバ・エスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸の岸にある(メキシコ・)へ向かった。 アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で岸の(メキシコ・)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、(スペイン・)に到着、小型帆船に乗り換えてを遡上し、に上陸した。 慶長20年()にはエスパーニャ国王に謁見している。 その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年()にはに謁見した。 また、その後もに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。 しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかった。 常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年()に帰国した。 こうしてはるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでにが出されていた。 そして、2年後に失意のうちに死去した。 常長の墓といわれるものは内に3ヵ所 北山にある光明寺( の1つ )、支倉地区の円福寺、そしての西光寺 存在する。 その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、17年()、家臣がであったことの責任を問われて処刑され断絶した。 しかし8年()、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。 その後、第10代当主の代までに 、第11代から現在の第13代支倉常隆、そして第14代支倉正隆に至るまで、に居を構え続けている。 また、支倉常隆は日本国内ならびに世界各国を周って先祖の常長の功績を伝え、現在はその子正隆が引き継いでいる。 常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」はに所蔵されており、13年()にに指定されている。 また、2013年にはユネスコの「世界の記憶」に選定された。 その中には常長のがあり、日本人を描いたとしては最古のものとされる。 また、常長自身が記録した訪欧中のが9年()まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。 なお、資料の中に「支倉」を FAXICRA とつづった部分があり、当時ハ行をで発音(を参照)していた証拠となっている。 諱「常長」について [ ] この人物は一般に「支倉常長」と称されるが、同時代に彼のを「常長」と記述した例はない。 自筆史料の署名も「六右衛門」「六右衛門長経」とされており、自身が「常長」を称したことはなかったと推定される。 「常長」という諱が登場するのは、彼の死後、支倉家が一時断絶して再興した後に編纂された支倉家の系図である。 後世の子孫が、先祖がキリシタンであったことを隠すため、「長経」の使用を忌避し、「常長」と偽って記録した可能性がある。 家紋について [ ] 支倉家の家紋は「」とされる。 『』には「三幅四方浅黄白卍」とあり、古くから右万字が使われていたことは確かである。 しかし、支倉常長の家紋としての意匠は、「逆卍に違い矢斜め十字」が有名であり、宮城県の時代行事の装束にはこれが使われている。 ギャラリーにあるようにヨーロッパの記録にも残っており、少なくとも常長の時点で家紋であったと考えてもよいであろう。 2013年の遣欧使節団400年記念行事において支倉家がスペインに招かれたが、その際には支倉常隆が裃に陣笠姿で諸行事に参加しており、肩衣と陣笠には右万字の家紋が使われている姿が残っている。 支倉常長が登場する、あるいは彼をモデルにした作品 [ ]• 『支倉常長の歌』(合唱曲、作曲:淺野末治 )• 『』(作・演出:植田紳爾)1981年8月13日 - 9月29日,11月3日 - 11月29日 宝塚歌劇団星組公演• 『』(著。 『』( 第40. 41回 演:)• 『』( ・・の) 支倉常長の旅を大まかに基づいています。 『遠い帆 支倉常長』(台本、作曲。 『』(著。 新潮文庫、)• 『ヨーロッパに消えたサムライたち』(著 、7月 、2007年1月)• 『 』(原作、作画。 『捨て童子 』 (著)• 「ファセクラ」 2015 八木澤教司 作曲。 吹奏楽などの作品で世界から注目を集める作曲家・八木澤教司氏によって2015年に作曲された作品である。 同年、東北福祉大学吹奏楽部により委嘱されたもの。 ウインドアート出版により販売されている。 慶長遣欧使節団として派遣された仙台藩士を主人公とした作品。 ギャラリー [ ] に出版された、生まれの歴史学者 Scipione AMATI の著書 "Historia del regno di Voxv del , dell' antichita, nobilta, e valore del svo re Idate Masamvne "(題名和訳:『日本奥州國伊達政宗記并使節紀行 』または『伊達政宗遣欧使節記 』)、支倉常長の肖像画など。 支倉常長の西洋式の紋章は盾の中に右卍をあしらったものだった。 左はローマ市民権の認定の中に描かれた紋章、中はドイツの記録に残る紋章、右は常長の船の旗 パウルス5世に拝謁した際、常長が鼻をかんだ懐紙がバチカンの人類博物館に展示されていたことがある。 当時の西洋では手鼻かハンカチを使って鼻をかみ、懐紙を用いて鼻をかむという習慣がなく、大変珍しがられたためである。 2013年から2014年にかけてはスペインと日本の国交400周年を記念して様々なイベントが行われた。 支倉常長が最初に着いたはの産地として有名で、これを記念して日本におけるシェリー酒専門家による企画で、サンルーカルにある社と日本の正規輸入代理店によって「サン・フアン・バウティスタ・パロ・コルタド・VOS・シェリー」が限定で造られた。 (ラベルの肖像画に関しては仙台博物館の許可を得ている。 ) 支倉常長の立体像 [ ] - - - 各地の支倉常長の立体像の多くは、の二の丸にある制作のを基にされている。 足跡順に記載。 : 仙台城二の丸 ( )• (47年)設置。 支倉常長生誕400年記念事業による。 :宮城県 月の浦公園 ( )• (昭和62年)設置。 : 日本広場( )• (昭和48年)設置。 仙台市との締結記念。 当初は、オルノスビーチ近くのを望む州立公園において、常長像の視線を仙台の方向に向けて建立された。 しかし、初めに西に300移動され、さらに(9年)にアカプルコ湾に沿って走る「コステラ・ミゲル・アレマン」という大通りの中央緑地帯に移転された。 この中央緑地帯にはなど世界の著名なの像が並べられており、常長もそのような偉人の1人としてアカプルコ市が扱ったことになるが、当初の建立地から数離れ、海を望めない状態になった。 この情況を憂えたメキシコの宮城「メキシコ宮城青葉会」の会長(出身)が日本に帰郷した際に訴えたため、(平成20年)に石巻市の慶長使節船ミュージアム(館)を訪れた駐日メキシコ大使に同館館長が伝えると、大使は善処を約束した。 (平成22年)に常長像は、日交流400周年を記念してカラバリビーチに開設する日本広場へ移設され、同年に日本広場開所式と共に支倉常長像移転式が開催された。 これにより再び常長像の視線は、太平洋の先の仙台の方向に向けられた。 (平成24年)、同じ「日本広場」内に、が寄贈した高さ9メートルの「」が建てられた。 : ( )• (平成13年)設置。 仙台開府400年を記念して関係者および市民有志が寄贈。 佐藤忠良作の像とは違って右手を上げ、目的地のローマの方向を指して建っている。 : カルロス・デ・メサ公園( )• (平成4年)設置。 慶長遣欧使節団渡航380年記念事業による。 に面したカルロス・デ・メサ公園に川に向かって建つ。 常長像建立後にコリア・デル・リオを訪問した日本人たちが、像の一部が破壊され、がされていると報告していたが、(平成20年)に仙台から訪問した青葉城資料展示館主任学芸員らがその惨状を確認した。 その後、コリア・デル・リオ当局が台座を黒く塗って落書きを消したが、(平成22年)時点では破壊された太刀や持ち去られた航海図のプレートの修復は行われていなかった。 本作品中央に走る縦の剥落および無数の横皺は、藩に没収されたか支倉家で秘匿する際、枠から外され、2つ折りされた上で巻かれたため生じたと推測される。 またvはウ音を表わしていると思えばよいが、元来vは子音 [w]と母音 [u]を表わす字であった。 紀元後の俗ラテン語の中で、子音 [v]もこれが管轄するところとなったが、vの下部が特に丸く表記されたuの字が母音 [u]を表わす独立した字として十分に確立するのは17世紀より後のことであり、支倉の頃にはまだvで [u]を表わす文化が広く残っており、vとuの書き分けもかなり広く見られるようにはなっていたが、権威ある場面であるほど書き分けず古式通りにされる傾向があった(同じ文書内でも、全部大文字の題字では母音もVで表わすが本文ではuを使う、というようなことがある)。 つまり、FAXICVRAは概ね「ファシクラ」だと思えばよい。 このような例はの内藤家系図にも見られる。 『』10巻の「CHAPTER 7 祈りのタペストリー」に支倉常長がもたらしたとされるタペストリーが出てくる。 "Idate Masamvne" 、現代風のローマ字表記では Idate Masamune だが、これは「」を指す。 伊達がかつて「いだて」と発音されていたことについては「」を参照。 出典 [ ]• 仙台市博物館. 2016年9月8日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 田代希文ほか『』作並清亮〈仙台文庫叢書〉、1896年9月。 [ ]• 支倉常長隊. 川崎町役場 地域振興課. 2016年7月6日閲覧。 , p. 不明 [ ]. 樫山巌『支倉常長の謎』創栄出版、1993年。 [ ]• 読売新聞. 2015年1月15日. の2017年9月2日時点におけるアーカイブ。 2016年7月6日閲覧。 臨済宗妙心寺派 桂蔵寺. 2019年6月20日閲覧。 , p. 不明 [ ]. 2010年8月25日. の2010年8月27日時点におけるアーカイブ。 国立情報学研究所. 2019年6月20日閲覧。 京都外国語大学付属図書館. 2019年6月20日閲覧。 三陸河北新報社. 2010年1月4日. の2010年11月28日時点におけるアーカイブ。 社団法人石巻観光協会. 2013年5月4日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 三陸河北新報社. 2007年7月25日. の2007年8月19日時点におけるアーカイブ。 支倉常長の足跡を追う旅. 2012年5月26日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 三陸河北新報社. 2008年1月26日. の2008年11月21日時点におけるアーカイブ。 2010年8月29日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 2010年6月23日. [ ]• 石田義廣, 編纂. 「 」第600号、御宿市企画財政課、2012年8月。 オンライン版. 2012年7月11日. 2016年7月18日閲覧。 支倉常長の足跡を追う旅 2008年7月10日. 2012年5月26日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 大沢慶尋 2013年6月19日. 学芸員・大沢の研究ノート Second Season. 2016年7月6日閲覧。 大郷町. 2012年4月19日時点のよりアーカイブ。 2019年6月20日閲覧。 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2019年6月) 資料• 編『 第十二編之十二』(初版)• 仙台市史編さん委員会編集 『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』 仙台市、2010年3月 研究文献• 『慶長遣欧使節 徳川家康と南蛮人』朝文社、• 松田毅一『伊達政宗の遣欧使節』新人物往来社、1987年。 『支倉六右衛門常長 慶長遣欧使節を巡る学際的研究』文眞堂、• 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社〈中公新書〉、1999年。 『ヨーロッパに消えたサムライたち』角川書店、1999年• 『人物叢書 支倉常長』、• 『支倉常長 武士、ローマを行進す』ミネルヴァ書房、 図録• 編集・発行 『仙台市博物館収蔵資料図録 国宝「慶長遣欧使節関係資料」』• 仙台市博物館編 『伊達政宗の夢 慶長遣欧使節と南蛮文化』 慶長遣欧使節出帆400年・ユネスコ世界記憶遺産登録記念特別展「伊達政宗の夢-慶長遣欧使節と南蛮文化」実行委員会発行、2013年 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 支倉常長を題材にしたオペラ「遠い帆」を初演 外部リンク [ ]• [ ]()• (「せんだい教材映像」)•

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社会福祉法人 清郷会

あぜ くら 会

名前の由来 踏まれても踏まれても根を張り続ける、しぶとさを持った植物「洋つつじ」。 私たちアゼリヤ会の名は、この「洋つつじ」の原名に由来しています。 日本国憲法が謳う基本的人権の理念をふまえ、 お年寄り、障害のある人、こどもたちの幸せを希求する姿勢を大切にし、 常に、地域に開かれ親しみのある、 そして利用者を主人公とした福祉事業の展開をめざしています。 また実践と検証を尊び、事業の本質を探りながら、まさにしぶとく根を張る アゼリヤ(洋つつじ)のように着実に一歩一歩、 確かな充実と発展を図っていきたいと考えています。 主な施設のご紹介 環境上の理由または経済的理由により、家庭での生活が困難な高齢者に、快適で安心安全な生活環境を提供し、心豊かな暮らしがいとなめるよう支援します。 家の中に閉じこもらず、多くの友人をつくり、健康で生きがいを感じる生活を送っていただくための通所サービスセンターです。 介護を必要とする高齢者への生活の場であり、介護と生活支援に福祉サービスを提供します。 社会的立場の弱い高齢者や家族・地域の福祉ニーズに応える拠点施設です。 新宿区内の高齢者が住み慣れた地域のなかで、いつまでも明るく、健康的に自立した生活を営むことができるように、在宅サービス・施設サービスを提供いたします。 身体・精神・知的など、さまざまな障害のある100人の方が生活されています。 「利用者のみなさん一人ひとりが主人公」を運営理念の大原則に据えている施設です。 近年働くお母さんが増加するなか、安心して子育てと仕事が両立できる保育の場を提供し、児童の成長促進を援助するため、創意工夫のある保育を提供致します。

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