「私の方から祈ってすくわれるのではなく、むしろ逆に、阿弥陀仏の方から「悩み苦しむあらゆる人々をすくいたい」と願われ、そのはたらきによって私がすくわれていくところに、浄土真宗の真髄があります。 」 浄土真宗の教えでは、この世の一切のことは自分たちの意思ではなく、阿弥陀如来の力によるものだとしています。 だからこそ、自分たちの思いや希望を「祈る」のではなく、阿弥陀如来のはたらきによるあるがままをそのまま受け入れ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えて感謝しましょうという教えを説いています。 ちなみに、「南無阿弥陀仏」は、古代インドの言葉を音訳したもので、「ナム」は「どうかよろしくお願いいたします。 わたしはあなたを信じます」、「アミダ」は「計り知れないもの」、「ブツ」は悟りを開いた仏、を意味すると言われています。 1-2 ご本尊、阿弥陀如来とは 阿弥陀如来は、浄土真宗のご本尊、つまり信仰の対象となる仏様です。 古いインドの言葉で「アミターバ」(計り知れない光を持つもの)や「アミターユス」(計り知れない寿命を持つもの)と呼ばれており、これが転じて「阿弥陀」と呼ばれるようになりました。 浄土経系(浄土宗や浄土真宗など、浄土思想を教義の中心に置く宗派の系統)以外でもさまざまな国や地域で礼拝されています。 浄土経系では、特に阿弥陀如来の「本願」が重視されています。 本願とは、仏や菩薩が立てた誓いのことです。 『仏説無量寿経』の中で、阿弥陀如来は修行中に48の誓いを立てたとされていますが、その内の18番目の誓いが、浄土真宗の教えの根幹にあります。 18番目の誓いとは、次のようなものです。 「私が仏となった以上、私のまごころを受け取って疑いなく信じるあらゆる人々を私は救います。 もしも、私の作った浄土に生まれることを願って、少なくとも10回私の名前を唱えたのに(「南無阿弥陀仏」の念仏)、万が一にも浄土に往生できないようなことがあるのであれば、私は仏になりません。 」 このような誓いを立てて悟りを開いたのが阿弥陀如来です。 「私を信じ、名を唱えるものは絶対に救う」と説く阿弥陀如来のはたらき、その力を人々は信じ、そこに救いを求めているのです。 1-3 極楽浄土とは? 極楽浄土とは、阿弥陀如来が作った清浄で清らかな仏や菩薩が住む国のことです。 浄土真宗では、阿弥陀如来を信心し、「南無阿弥陀仏」を念仏するものは、誰もが等しく極楽浄土に往生できるとしています。 実は「浄土」は他にもたくさんあります。 大日如来に密厳浄土、薬師如来の浄瑠璃浄土、弥勒菩薩の兜率天浄土、観世音菩薩の補陀落浄土などがあり、その中で阿弥陀如来が作ったとされるのが極楽浄土、なのです。 極楽浄土はどのような世界なのか。 その様子は浄土真宗でもとても大切なお経とされている『浄土三部経』の「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の中で描かれています。 たとえば、「仏説阿弥陀経」の中に次のようなくだりがあります。 「極楽浄土には七宝の池あり、8つの功徳をもたらす清らかな水が池の中に充満している。 池の底には一面に黄金の金の砂が敷き詰められている。 四方には階段がかかり、金・銀・瑠璃・水晶で作られていて、それを登り詰めると楼閣があり。 また金・銀・瑠璃・水晶・宝石・赤真珠・碼碯の七宝できれいに飾られている。 」 これだけの宝石があちこちに広がっており、その他にも宝でできた樹木が並び、どこからともなく風のように美しい音楽が鳴り、広がる池の水には8つの功徳がもたらされる、極楽浄土とはそういう世界なのです。 もちろん、こうした世界が実在しているかどうかは分かりません。 そもそも浄土とは言葉では言い表せられない世界ですから、「阿弥陀経」で描かれている風景は、私たち庶民でもイメージしやすいように描写されているものなのです。 ですから、本来「極楽往生」とは、極楽浄土という場所に行くことではなく、迷いのない境地にたどりつく、仏になること、と言えるでしょう。 2 浄土真宗の特徴 他宗との考え方の違い 浄土真宗の教えは大変やさしく分かりやすいため、多くの信者を獲得しました。 平安時代の日本仏教は、仏教研修者の集まりであった奈良仏教、学問的要素の強い比叡山の天台宗、きびしい修行と超人的能力を前提とした高野山の真言宗などがその中心にあったため、親鸞は庶民たちでも分かるような教えと実践を説いて回ったのです。 しかし、分かりやすさを追求したためか、浄土真宗の教義や作法には他の宗派と数多くの違いがあります。 たとえば浄土真宗専用の仏壇として「金仏壇」の様式が発展していったのもそのような背景があると考えられます。 浄土真宗の独自性には次のようなものが挙げられます。 2-1 他力本願 修行によって自力で悟りの境地を目指すのではなく、あくまでも他力を信じる。 ここでいう他力とは、阿弥陀如来の力のことを指します。 阿弥陀如来は自らが修行中に「私のことを信じるものはどんな者でも往生させる」と誓っており、(『仏説無量寿経』の中の「四十八願」)親鸞は阿弥陀如来の本願力(=誓い)を信じることを説いています。 自分たちで読み書きや修行などできない当時の庶民たちは、「南無阿弥陀仏」を唱えて、阿弥陀如来の本願に、現世や来世の幸せを願ったのです。 2-2 在家仏教を貫く 阿弥陀如来の本願を信じる者こそが救われると説く親鸞。 そこには聖俗も浄穢(じょうえ)もなく、出家や在家も関係ありません。 その教えを体現するため、親鸞自身が肉食妻帯を貫き、非僧非俗の立場を貫きました。 これは、当時の仏教者としての生き方としては大変な異端でした。 いまでは僧侶の結婚は当たり前のことですが、明治時代まで、僧侶の結婚を許した宗派は浄土真宗だけだったほどです。 2-3 戒律がなく、そのために戒名がない 戒律とは、修行者が守るべき生活規律のことです。 仏教徒は古来より、心のはたらきを表す「戒」と、決まりごとの「律」を遵守してきました。 戒律を受けることを授戒と呼び、授戒することで仏弟子となるのです。 そこで授けられる名前を戒名と呼びますが、浄土真宗にはこの戒律がなく、そのために授戒も、戒名もないのです。 2-4 先祖に礼拝しないため、位牌がない 浄土真宗が礼拝の対象とするのは、本尊である阿弥陀如来のみです。 他宗派では、仏教で礼拝されている諸仏とあわせて、自分たちの祖先に対しても位牌を祀りともに礼拝していましたが、浄土真宗では位牌を不要としています。 (ただし、地域性や諸派によっては位牌を祀ることもあります) 3 浄土真宗の歴史 3-1 親鸞の分かりやすい教えは、当時の庶民たちに爆発的に受け入れられた 親鸞が生きたのは鎌倉時代で、当時の仏教はエリート層やインテリ層にこそ普及していましたが、庶民たちの苦しい生活の救いにはなっていませんでした。 親鸞は諸国を遍歴しては人々に阿弥陀如来を信仰することを説き、その分かりやすい教義は多くの庶民に受け入れられ、いまでも日本最大級の信者(門徒)を抱えているほどです。 浄土真宗はさらに、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派など10の宗派に分かれていますが、合計すると寺院の数は2万を超え、1500万人を超える信者数を誇ります(『宗教年鑑 平成30年度版』文化庁)。 3-2 親鸞死後、血脈(本願寺)と法脈に別れる 親鸞自身は教団を作る意志はなかったと言われています。 また、自分の遺骨も、墓など建てずに鴨川に捨てて欲しいといったほどです。 親鸞は42歳から63歳までの間、関東地方(いまの茨城県)を拠点に関東や東北で布教活動に邁進します。 そして、63歳で京都に戻り、90歳で往生するまで、ひたすら著作活動に励みます。 さて、親鸞死後、浄土真宗は主に2つの流派に別かれていきます。 一つは、親鸞の「血脈」、つまりは血のつながりのある血統です。 親鸞の末娘の覚信尼が、親鸞の遺骨を安置する「大谷廟堂」を建てます。 これの管理者のことを「留守職(るすしき)」と呼び、世襲で務めました。 これがのちのちの「本願寺」となります。 もう一つの流派は「法脈」と呼ばれるもので、関東の高弟たちによる門徒集団です。 親鸞自身は教団を持つ意志はありませんでしたが、弟子たちは親鸞の教えを継いで、それぞれが布教活動に励んだのです。 つまり、親鸞と血のつながりのある「血脈」は京都を中心とし、血のつながりこそないものの親鸞の教えをつないでいく「法脈」は関東を中心に展開していきます。 そして当初の勢力は関東の法脈こそ強く、最大勢力の仏光寺派や、高田派、三門徒派などがあり、京都の大谷廟堂=本願寺は、関東の門徒たちの援助がなければ成り立たないほどでした。 血脈、つまり大谷廟堂に始まる京都の本願寺は、親鸞の入滅から蓮如の第8代門主(本願寺の住職)就任までの約200年、沈滞期を続けるのでした。 3-3 蓮如による布教で、本願寺は勢力拡大する 本願寺第8代門主の蓮如(れんにょ)。 室町時代の中ごろに、日本中に浄土真宗の教えを説いて回った浄土真宗の中興の祖として、いまでも親鸞と並んで崇められています。 蓮如は、庶民にも阿弥陀如来の教えを説くことができるよう、多くの門徒に手紙を送っています。 これはいまでも「御文章」または「御文」と呼ばれ、さまざまな法要の場で読み上げられています。 また、仏壇を各家庭に安置するよう説いたのも蓮如で、仏壇が一般化するようになった始まりといわれています。 「南無阿弥陀仏」と書かれた六字名号を礼拝の対象とし、「正信偈」と呼ばれるお経を朝夕のおつとめに用いるなど、仏事儀礼の統一化も図りました。 3-4 浄土真宗の勢力拡大と一向一揆 本願寺門徒が結束して起こした一揆を一向一揆と呼びます。 一向とは、浄土真宗の別名である「一向宗」に由来します。 蓮如による布教により、浄土真宗門徒は爆発的に勢力を拡大します。 室町時代は農民などの庶民の自立が始まった時期でもあり、門徒強化のための民衆同士の寄合は、政治的にも庶民たちの結束を強めました。 しかしこうした庶民の結束はやがて反体制運動へと拡大していきます。 一揆はすでに日本全国で発生しており、各地で守護や大名の圧政に対して民衆たちが立ち上がるのですが、その民衆同士を結束させるものが浄土真宗という信仰だったのです。 蓮如自身は一揆の拡大を抑えようとしたと言われていますが、その勢いは止まらず、近畿、東海、北陸地方で続発し、特に有名な加賀の一向一揆では数十万という門徒が参加し、その後約100年間、加賀の国は門徒たちによって支配され、門徒による自治を守り続けました。 3-5 戦国時代と本願寺の東西分裂 勢力を拡大させた一向一揆ですが、いよいよ織田信長と衝突します。 本願寺は毛利や朝倉、三好といった諸大名と同盟を結びますが、本願寺側は実質的に敗北。 本願寺第11代顕如(けんにょ)は信長と講和を結びます。 これに顕如の長男、教如(きょうにょ)は反対しています。 この親子の対立がのちの本願寺東西分裂の引き金になります。 戦国の騒乱の中、紆余曲折ありながらも本願寺は各地に場所を点々としつつなんとか存続します。 ついに天下統一が豊臣秀吉により果たされると、本願寺の顕如は、秀吉から京都七条堀川に土地の寄進を受け、ここに本願寺を再建します。 さて第11代顕如の死後、本願寺は長男教如が12代目として継ぎました。 しかしここで秀吉は突如教如に、跡目を弟の准如に譲ることを命じます。 門主の座を追い出された教如はそれでも行動派で、多くの門弟を率いて各地に教団を組織します。 そして現れるのが徳川家康です。 関ヶ原の合戦で東軍徳川家康は西軍豊臣勢に勝利。 この時東軍に加担していた教如は家康の庇護を受け、京都烏丸六条の土地を寄進され、ここで東西が分裂します。 教如を主とした東本願寺(烏丸)、准如を主とした西本願寺(堀川)です。 徳川家康は、一大勢力となっていた浄土真宗の教団内部の対立を上手く利用して、東と西に分けその勢力を削いだのでした。 現在では、浄土真宗の10派のなかで、東本願寺を中心とするのは「真宗大谷派(大谷派)」、西本願寺を中心とするのは「浄土真宗本願寺派(本願寺派)」と呼ばれています。 4 浄土真宗の仏壇仏具・法要マナーなど 4-1 浄土真宗の仏壇 浄土真宗の仏壇は一般的に金仏壇として知られています。 これは、『仏説阿弥陀経』の中で、極楽浄土が金色のまばゆい世界として描かれているからです。 浄土真宗の寺院では、金箔や漆や蒔絵など、さまざまな伝統工芸の技術を集結させてまばゆい極楽浄土を再現しています。 自宅用の仏壇は、いわばお寺の寺院を小さくしたものなので、金仏壇が用いられているのです。 4-2 浄土真宗に戒名・位牌はない 「2.浄土真宗の特徴」で述べたように、浄土真宗では戒名は与えられず、位牌も作りません。 それは、浄土真宗がその教えとして先祖の霊魂を信じていないからです。 この世界の一切は阿弥陀如来の力によるものであるため、霊魂や迷信や占いなどに迷うことなく阿弥陀如来を念仏するよう教えているのです。 また、浄土真宗には戒律がありません。 戒律とは仏教僧が守るべき規則や規律のことで、本来仏教では出家して僧侶になる際には、仏弟子として戒律を授からなければなりません。 浄土真宗では、阿弥陀如来のもとでは聖俗の差も、出家や在家の差もないものとしています。 実際に、親鸞自身が半僧半俗を貫いていたほどです。 浄土真宗では、戒名ではなく法名を授かります。 また、位牌を設けずに「過去帳」と呼ばれる帳面に先祖の名を記していきます。 これはあくまでも記録のためのもので、魂を込められるものではなく、礼拝の対象ではありません。 その他、法名軸と呼ばれるものを仏壇の中で飾ることもあります。 これは、寺院から授かった法名(法名の書かれた白い紙)を表装して、仏壇の中に飾るものです。 こちらの記事もCHECK!• 4-3 浄土真宗の念珠(数珠)は 浄土真宗では数珠のことを「念珠」と呼びます。 仏前で礼拝して念仏を唱える時に用いる法具だからです。 本来数珠は「数の珠」と書くほどで、お経や真言の数を手元で数えるために用いられているものでした。 しかし、浄土真宗では念仏の数を重視することもありませんし、数珠を繰ることで煩悩の火を消すという考えもありません。 浄土真宗の念珠は、108の珠を連ねた長い一連の数珠を二重にして使用します。 宗派の1つ本願寺派の場合は合掌の時に両手にかけて、房が下に下がるようにします。 また大谷派の場合は、親玉(房の付け根に位置する少し大きい珠)を親指に挟んで、房を左側に垂らします。 また、男性の場合は略式の片手念珠を用いることもあります。 約20個の珠を連ねて、紐状の簡略な房を垂らします。
次の釈尊は「すべての人は阿弥陀仏の本願の前では平等である」と教え られ、浄土真宗を開かれた親鸞聖人も同じことを教えられています。 阿弥陀仏の本願には 「 おおよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女老少を謂わず、 造罪の多少を問わず、修業の久近を論ぜず」と『教行信証』にあります。 親鸞聖人ほど万人平等を叫ばれた方はありません。 阿弥陀仏の本願に「設我得仏 十方衆生」と誓われているからです。 【意訳】 「私 弥陀 はすべての生きとし生ける衆生を絶対の幸福に救う」 と約束されている。 この弥陀の本願一つを生涯かけて教えられたのです。 したがって聖人の教えには勿論、死人につける戒名、法名はあり得ま せん。 皆、末代の坊主が懐を肥やすため、世間体を気にして、差別した ものと思います。 宗派によって言い方は違うが「戒名」を真宗では「法名」と言います。 葬儀社の辞典には 現在は、仏式の葬儀を行う人には基本的には戒名が付けられます。 仏教の考えでは、生きている間の名前を俗名とし、死後の名前を「戒名」 と言います。 戒名と同じ意味で、「法名(ほうみょう)」や「法号 (ほうごう)」という名前が使われることがありますが、これは宗派の 違いによるもので、浄土真宗では法名、日蓮宗では法号と言います。 と書かれています。 ということは死人につけるものだと殆どの人はそう思っていることは 疑いありません。 浄土真宗で言えば 男性が亡くなるとお寺さんに「法名を付けてください」と言うと、 「なんぼにしますか」と。 いろいろ段階がつけられているそうです。 他宗なんかもっとひどいです。 「何百万円もする戒名をつけてもらったん だから亡くなった人は極楽間違いなかろう」と安心していますが、とん でも無いことです。 浄土真宗では 生きている人が仏法を聞いて阿弥陀仏の本願にこの世で救われ、弥陀の 浄土間違いなしとハッキリ救われた人につけられるのが法名というのです。 男性なら「釈〇〇〇〇」 女性には「釈尼〇〇〇〇」 釈尊のお弟子になりました。 真の仏弟子という意味です。 親鸞聖人はご自分の名を 「愚禿釈の親鸞」と生涯仰って行かれました。 死んだ人につけても極楽浄土へはいけません。 死んでからは元も子もないのです。 手遅れなのです。 釈尊はご生涯、葬式もされませんでした。 常に仰言っていたお言葉は、 「私は苦悩の心田を耕す労働者である」と。 【意訳】 何のために生きているのやら真っ暗な心をかかえて苦しんでいる者に 阿弥陀仏の本願のタネを植え付ける労働者である。 全ての人は『大無量寿経』に 「従苦入苦 従冥入冥」苦より苦に入り、冥 闇 より冥 闇 に入る、と 【意訳】 全ての人は苦から苦の綱わたりで、暗い心をかかえて死ねば本当の暗黒 の世界に堕ちて苦しむである。 ということを教えられています。 死んでしまっては手遅れなのです。 仏法は生きている時に聞きなさいと 教えられたのです。 差別戒名を主張する団体の言い分は、エタは、牛馬などに関する仕事をしていて戒名に、「牛馬」などを付けた戒名の事をさします。 もし、その牛馬に関する仕事を誇りに思っており牛馬の文字を入れて欲しい。 という人間がいたら、それが差別戒名だから駄目だ。 というのであれば、差別戒名を主張するものは、エタの誇りを汚し、初めからエタが悪いものと差別する人間です。 ちなみに、浄土真宗では、一般的に戒名とは言わず、法名といいます。 基本的に、江戸時代は、被差別部落は、浄土真宗が大半です。 浄土真宗での差別法名の言い分としては、観無量寿経を順番に法名にあてていったら、差別だ。 と言われたというものだったと思います。 たぶん、旃陀羅だったと思います。
次のなぜなら浄土真宗の教義とは異なる要素を含んでいるからです。 浄土真宗の教義や般若心経の意味などから考えていきたいと思います。 まずは浄土真宗の基本的な教義とは 煩悩を克服できないため、善の一つも行うこともできず、悟りとは程遠い凡夫が阿弥陀様の必ず救うぞという本願を信じ、「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえ、よろこぶ身になった時、浄土に往生することが決定 けつじょう する。 いわゆる 他力念仏の教え 般若心経のおおよその意味とは 二百六十二文字で書かれている般若心経、日本で一番となえられているお経かもしれません。 一言で言い表すのは難しいですが、おおよその意味は「空」の思想と 般若 菩薩の智慧 を得て悟りを得ましょう彼岸 浄土 に至りましょうという実践行といわれます。 簡単に言うと 自力修行の教え つまり両者には考え方が異なる部分があるのがわかります。 親鸞聖人もおっしゃっておりますように我々凡夫は「いずれの行も及び難き身 歎異抄 」であり、自力で悟りを開こうというのは大変難しいことです。 お念仏こそが阿弥陀様にお救い頂き浄土へ往生するための唯一の行であると明らかにされています。 浄土真宗でお勤めするお経は 般若心経をとなえないなら、どんなお経をとなえたらいいのか?浄土真宗で教えの根本となるお経は浄土三部経 大無量寿経、勧無量寿経、阿弥陀経 です。 毎日のお勤めに用いられるのは正信偈が多いですが、こちらは正確に言うとお経ではありません 後述します 般若心経と正信偈の違いとは 同じお経なのに何が違うのか?まずお経というものはお釈迦様の言葉をまとめたものです。 般若心経はお経ですが、対して正信偈はお経ではなく、お念仏の教えと、教えを広められた七高僧の徳を親鸞聖人が讃えた偈文 歌のようなもの です。 どちらも同じように仏前でお勤めしますが、正信偈の方には先祖を供養しようとか、となえて功徳を積もうという概念がありません。 般若心経をとなえてはいけないのか もちろん浄土真宗は般若心経を否定しているわけではありません。 仏教には様々な宗派があり、よく山登りに例えられます。 山頂を目指すという目的は同じですが、そこへ至るルートが異なるというわけです。 浄土真宗には浄土真宗の 他宗派には他宗派の救われ方があり、ただ浄土真宗では般若心経などの自力修行の教えではなく他力の教えで救われるというのが本来です。 となえてはならない!ではなく となえる必要ないのではないかな?くらいのニュアンスです。 関連ページ: 般若心経と浄土真宗のことまとめ ・般若心経は自力で悟りを目指すためのお経 ・正信偈は他力の教えと七高僧の徳を讃えた偈文 ・自力で悟りを得るという概念が浄土真宗にはない ・般若心経を称えてはダメではなく、称える必要がない 「正信偈は長いし般若心経は短いからとなえやすいんだよね」という浄土真宗の門徒の方は讃仏偈 歎仏偈 や重誓偈 三誓偈 をお勤めしてはいかがでしょうか? どちらも短いですが大無量寿経のエッセンスがつまったありがたい偈文です。 浄土宗の法事用のお仏壇の仏具の配置です。 主に法事用の飾り方並べ方になっていますので普段はお膳や打 東本願寺の仏具日常の飾り方 真宗大谷派 東本願寺 の仏具の日常の並べ方をご紹介します。 法事の時と違 仏前結婚式について 浄土真宗編 まず仏前結婚式とは 単純に神様の前で行う結婚式が神前式、仏様の前 ご冥福をお祈りいたします なんだか誰かが亡くなったときの決まり文句のような印象を受けますが、実は浄 浄土真宗のお仏壇を置く場所や向きについて お仏壇を購入しようと思った時、気になるのは設置場所です。 不要になった仏具 浄土真宗的解釈 仏具が古くなってしまったので新しいものに買い替えた。 さてこの壊れ お坊さんを呼びたい でも困ったことに実家の宗派はわかるけど、地元を離れて久しいし現在はお寺とご お盆に役立ちそうな仏具色々ダイソー編 お盆やお墓参りのときに役立つ仏具も最近では100円均一の店で お仏壇を新調した際 御本尊は本山からお受けしてください。 本願寺派 西 、大谷派 東 問わず浄土真宗 浄土真宗の打敷の掛け方 まず打敷って何なのか? お仏壇を荘厳 お飾り するための仏具の一つで.
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