楊貴妃とは 楊貴妃 ようきひとは唐代の玄宗皇帝の 妃 きさきで、(「」「」「」「」)のうちの1人です。 楊貴妃はクレオパトラ、小野小町とともに世界三大美人としても有名です。 では楊貴妃とはどんな女性なのか?一般に知られているのは、中国の唐代に生きた美女、玄宗皇帝の妃、太目の美女だった、若くして亡くなった…などでしょう。 唐の玄宗皇帝の治世の時代に生まれました。 玉環という名前は美しい 玉 ぎょくのブレスレットのことで、小さい頃から美しい少女だったのでしょう。 十代で親を亡くし叔父に引き取られて育ちます。 この叔父は唐の役所に勤める役人でした。 今でいえば上流とは言えなくても庶民以上、中流の家庭で育っています。 彼女は優れた詩を一つ残していますし、や笛、などの楽器や踊りにも長けていましたから、きちんと教育を受けた少女だったのでしょう。 楊貴妃の生きた時代(年表)。 楊貴妃は唐の時代の人です。 楊貴妃は太目だった? 楊貴妃はふっくら美女だったと言われています。 こういう話を聞いて「美の基準て変わるのね」「唐の時代だったら私も美人」という流れになっていき、美女伝説があやしくなって世の大多数を占める「それなりの」女性たちの心を慰めるのです。 彼女がふっくら美女だったという話は、一つは成語「環肥燕痩」(楊貴妃は太った美女、漢の成帝の 妃 きさき・趙飛燕は痩せている美女)から来ています。 もう一つは唐の時代に描かれた『貴妃出浴図』の楊貴妃の絵がぽっちゃり型であることから来ています。 この説…楊貴妃ふくよか型説は世にかなり浸透していますが、中国の楊貴妃関連の本を読みますと、これを否定する人たちも何人かいます。 その根拠としては、唐の時代は満足に食が取れない人々がたくさんいて、ふっくら系は憧れでもあった。 そうした憧れを絵に託したので、決して太ってはいなかった楊貴妃もふっくら系に描かれてしまった。 さらに彼女は胡旋舞という踊りの名手で、これはくるくると回る踊りだから、体重の重い人には無理だったろうと言うのです。 確かにこの説の後半は説得力があります。 彼女は音楽の才能にあふれ、琵琶を弾き、磬(けい)という打楽器を叩き、横笛を奏で、胡旋舞を舞い、更には玄宗の行く所どこにでもお供をしましたから、かなりアクティブな人です。 こういう人は太りにくいのではないでしょうか。 唐の時代の宮中の生活。 明代に描かれました。 楊貴妃はどんな顔? では 楊貴妃の容貌はどのようなものだったのでしょうか。 いろいろな文献に少しずつ残っている彼女の容貌をまとめると「柳の葉っぱのような眉、ぱっちりとした目、おちょぼ口、豊かな黒髪、白いもち肌」だったようです。 おそらくは現代でも非常に美しい整った顔の持ち主だったのでしょう。 何しろ唐の皇帝と言えば、後宮に何千人という女性たちがいて、当然彼女たちは容貌の美しさで選ばれてきています。 にもかかわらず玄宗皇帝は楊貴妃を得てからは他の女性たちには見向きもしなかったと言いますから、その魅力のほどがわかります。 もちろん彼女の魅力は顔だけではありませんでした。 非常に頭がよく、人の心理を見抜き、人の気持ちを汲む人だったと言われます。 さらには玄宗皇帝と同じ、音楽をこよなく愛し、音律まで解したと言いますから、音楽への造詣もまた深かったことがわかります。 玄宗も自ら唐代を代表する名曲『 霓裳 げいしょう 羽衣 ういの曲』を作曲していますから、音楽の天才どうしが巡り合ったとも言えるわけで、この二人が魅かれ合う要素はたくさんありました。 玄宗皇帝。 玄宗皇帝には息子30人に娘が30人、合計60人の子供がいたと言いますから驚きです。 このうち18番目の息子が735年に17歳、結婚すべき年齢になりました。 そこで玄宗はたくさんのお供を連れて洛陽に花嫁探しにやってくるのですが、その接待をしたのが楊貴妃の義父です。 楊貴妃の美貌は一族だけでなく、周囲の人々にもよく知られていましたので、彼女が妃に推薦されます。 厳しいチェックを経て楊貴妃、当時の楊玉環はみごと玄宗皇帝の18番目の息子・寿王の妃に選ばれます。 彼女もまた17歳でした。 楊貴妃は17歳から22歳までの5年間、玄宗の息子・寿王の奥さん、つまり玄宗の家の嫁でした。 ところで玄宗と楊貴妃の物語でこの寿王の影はきわめて薄いのですが、いったいどんな人物だったのでしょうか。 歴史の資料によりますと彼もまた美貌の若者。 謙虚で素直、儒教の教えに忠実な、きわめて好もしい青年だったと言われます。 美男美女、まさにお似合いのカップルでした。 彼らが結婚して間もなく長安の宮殿でお家騒動が起こります。 当時玄宗皇帝が最も寵愛していたのは武恵妃で、この寿王のお母さんです。 武恵妃は自分の息子が18番目で皇太子になれそうもないのに、自分が寵愛されているからと息子を皇太子にすべく暗躍し、それが原因でゴタゴタが起きます。 結果どうなったかというと、玄宗は当時すでに決まっていた皇太子を含めて3人の息子をなんと亡き者にしてしまうのです。 同時に武恵妃の息子・寿王のことも皇太子にはしませんでした。 武恵妃は望みもかなわず、また自分が殺したも同然の3人の王子たちの祟りも恐ろしく、やがて病気になって亡くなりました。 まだ39歳の若さだったと言います。 玄宗は武恵妃を非常に愛していましたので、しばらく抜け殻のようになってしまいました。 それから3年の月日が経ちます。 玄宗皇帝の一家はしばしば華清池という温泉地への旅行を楽しんでいます。 あるとき、この旅行に寿王や楊貴妃も参加していました。 玄宗はここで楊貴妃に出会うのです。 もちろん結婚式に参列していたのですから前から知っていたはずですが、この華清池での出会いで玄宗は彼女に心奪われてしまったと言います。 息子の奥さんなのにそんなことがありえるんでしょうか?ただ上で書いたように、朝廷でごたごたを起こせば血を分けた自分の息子も処刑してしまうわけですから、現代のような核家族における親子関係とは違います。 歴史資料にこの件に関する三人目の当事者・寿王の言葉は残っていません。 反抗すれば命をも奪う恐ろしい父親にして万能の皇帝ですから、手も足も出なかったのかもしれません。 ある本には当時すでに寿王と楊玉環の夫婦仲は良くなかったと書かれています。 その理由として、二人の性格がまったく違うこと。 夫はつつましく謙虚で優等生的な君子、妻は才ある美貌の持ち主で自由奔放なタイプだったと書いてあります。 もう一つの理由として、二人の間に子供はなく、当時子供のできない妻は離縁されるのが普通だったので、これが原因で二人の仲は悪かったと言うのです。 どちらの説もこじつけのような気がしますが…。 またここには「高力士」という玄宗の側近による画策があったという説もあります。 落ち込んでいる玄宗に元気になってほしくて、評判の美女を紹介したと。 この高力士という人物は楊貴妃の物語にしばしば出てきます。 強そうな名前の持ち主ですが宦官です。 宦官と言えば卑劣な手口を平気で使うことで有名ですが、この宦官はなかなか立派な人物だったようで生涯を通して玄宗に誠実に仕えました。 立派な人物がなぜ当人の息子の嫁を紹介したりするのか…自分の尊敬する玄宗第一という思いが高じてこういうことをしたのかもしれませんし、玄宗の不品行をかばうために後世こういう話が作られたのかもしれません。 その後、楊玉環は寿王の家を出て出家し女道士になって太真という名を持ちます。 そしてしばらく寿王の母・武恵妃を弔う日々を送ります。 出家はこの世のしがらみから離れますので、楊玉環はこうして寿王の妻としてのしがらみから自由になり、まったくの別人になったという形を取って玄宗の妃となるのです。 天下の皇帝と言えどもやはり世間の評判を気にしないわけにはいかなかったのでしょう。 当時楊貴妃は22歳、玄宗は56歳、この時から16年二人は片時も離れることはなく、楊貴妃は生涯玄宗の愛妃であり続けました。 玄宗は宮廷内の人々に「楊貴妃を得たことは至宝を得たようなものだ」と臆面もなく言っていたと言いますから、その寵愛のほどがわかります。 楊貴妃を喜ばせると玄宗皇帝から褒美がもらえますから、みな争って楊貴妃の嗜好をさぐってはそれを贈り物としました。 たとえば楊貴妃はレイシが大好きでしたが、レイシの産地は長安から遠く離れた南方です。 しかもレイシは摘んでから一週間も経てば味も香りも落ちてしまうのです。 楊貴妃の口に新鮮で香り高い生のレイシを届けるため、何千キロの道を途中何度も交代しながら全速力で馬を走らせ、その途中で民衆を踏みつけようが、田畑を荒らそうがおかまいなしだったと言います。 レイシ。 贅沢ざんまいな暮らしをしたのは楊貴妃だけでなく、その一族も豪奢な暮らしを謳歌しました。 姉の一人は他人の豪華な家が気に入ると、使用人を大勢連れてそこの家に押しかけ「わらわはこの家が気に入った。 いくらで売る?」と聞き、あるじが「この家は先人が遺したものゆえ売りませぬ」と断るまもなく、とっととその家を建て替えはじめ、わずかな田畑で代金としたそうです。 まさに平家にあらずんば人にあらず、楊家にあらずんば人にあらずのやりたい放題でした。 そして16年後、楊貴妃38歳、玄宗72歳の時に悲劇が起きます。 安史の乱という反乱が起き、そこからの逃避行の途中で兵士が騒ぎ出し、玄宗の地位や命も危ないとなったところで、楊貴妃は玄宗の命令で亡くなります。 秦国夫人(楊貴妃の姉)。 悲劇への道 絶対権力者の悲劇はどうして起きたのでしょうか? 政治家としての玄宗皇帝ですが、彼の治世の前半はみごとなもので「開元の治」と称えられています。 唐王朝は彼の治世により経済も文化も発展し絶頂期を迎えます。 ところが武恵妃を失った頃から彼の政治への情熱は失われていくのです。 27歳で帝位に就きそれから30年、国は発展安定し我が世の春を謳歌する。 50代半ばと言えば、日本ではついこの間まで定年の歳でした。 エネルギーにあふれた人だったのでしょうが、長く連れ添った愛妻・武恵妃を失ってガクッと気力を失ったのでしょう。 その時現れたのが生命力にあふれるような楊貴妃でした。 彼女は慎み深い淑女というよりは、機智に富んだ楽しい女性だったようです。 玄宗を何度か怒らせていて、何事もおとなしく耐えるタイプではありません。 それでいてかゆいところに手が届く、人の心理をよむような頭の良さも持っていました。 早くに両親を亡くして叔父の家で育っていますから、人の顔色を見るのもうまかったでしょうし、人の気持ちを汲むこともできたようです。 才気煥発なじゃじゃ馬かと思えば、人の心にそっと寄り添ってくる、多面的な楊貴妃は外見の美しさだけでなく玄宗の心をとらえる魅力に満ちていたに違いありません。 こうして玄宗皇帝はひとりの女性に夢中になり、それまでの勤勉さを失っていきます。 もう余生だと思っていたのかもしれません。 唐はこのままで大丈夫だと油断もしたのでしょう。 息子が30人近くいたのですから皇帝の座を譲ってしまえばよかったのに、譲らなかったのが悲劇の元だったかもしれません。 いったん大きな権力を握りそれを思う存分振るった者がそれを手放すのはきっと恐ろしいことでしょう。 次の権力が自分に歯向かってくる可能性がおおいにあるのですから。 こうして権力の座にとどまりながら政治に関心を失っていった玄宗は、楊貴妃の親族など側近に政治を任せるようになります。 楊国忠と安禄山です。 楊国忠は楊貴妃のまたいとこですが、ばくち好きのならず者、安禄山は中央アジアの民族・胡人で、残忍でずる賢かったが人に取り入るのがうまかったそうです。 いずれにしろろくでもない人物に唐の政治は乗っ取られてしまいました。 この二人はやがて対立し、安禄山は自分への攻撃を恐れて謀反を起こします。 これが「安史の乱」です。 この戦いで唐軍は劣勢、期待する将軍たちは敗北してしまいます。 玄宗は楊国忠、楊貴妃、楊一族らを連れ、一時西の蜀に落ち延びます。 途中自軍の兵士の中に、飢えと疲れから不穏な空気が漂い始めます。 「楊国忠が政治を駄目にしたから俺たちがこんなひどい目に遭うんだ。 楊国忠の命を奪え!」楊国忠はよほど人望がなかったのでしょう、こういう声があがるやたちまちにして亡き者にされてしまいます。 楊国忠の子供たち、楊貴妃の姉たちも次々に亡き者にされていきました。 楊貴妃の最期 やがて「罪九族に及ぶというではないか!楊貴妃をどうして生かしておくんだ!」という声が挙がり始めます。 罪九族とは、謀反など重罪を犯した場合本人だけでなく、その家族も根絶やしにするという刑罰のことです。 九族とはどこまでを指すか、高祖父、曾祖父、祖父、父、本人、子、孫、曾孫、玄孫の9人を指すという言い方もあるのですが、あまりはっきりとはしていません。 兵士たちは殺気立っています。 楊一族を亡き者にした以上、楊貴妃を生かしておいてはあとで必ず復讐されるという恐怖もあったようです。 兵士の要求は執拗で、拒否すれば危険は玄宗皇帝にも及んでくる恐れがありました。 事ここに及んで玄宗も万事休す、楊貴妃も楊一族の元へと送るよう高力士に命じます。 あわただしく長安を立ってわずか二日目のことです。 玄宗はもちろん楊貴妃もこんな事態をまったく想定していませんでした。 つい昨日まで大権力をその手に持ち、あご一つで人の命を左右し、豪奢な暮らしを謳歌していたのです。 楊貴妃はこの事態をどう受け止めたのでしょうか? 詩も文学も演劇も楊貴妃が従容として亡くなった、と描いています。 その後玄宗は再び無事に長安に戻りますが、皇太子が許可なく皇帝の座についており、その後玄宗は軟禁状態に置かれ、それから数年後に亡くなります。 その目は無念さを物語っているかのように閉じることはなかったと伝えられています。 楊貴妃、その後の伝説 さてこうして人生の幕をあわただしく閉じた楊貴妃ですが、彼女が実は生きていたのではないかという説がいろいろあります。 中でも日本人にとって非常に面白いのは、楊貴妃は実はその後助けられてひそかに日本に渡ったという話です。 中国の本によると、山口県の久津と荻町の長寿寺に楊貴妃の墓が残っていると言うのです。 知らべてみると確かに山口県の長門市の二尊院に、昔楊貴妃が小舟に乗って流れてきたという伝説が残っていて、楊貴妃の墓だという五重塔が建っています。 萩町の長寿寺の方にはそうした話は残っていませんでした。 山口県なら日本海伝いに漂流者がいてもおかしくはありませんが…。 もう一つ面白いエピソードとしては、香港の学者が本に「1963年に有名な日本の少女がテレビで『自分は楊貴妃の末代だ』と言った。 また2002年には元有名な歌手・女優の山口百恵が記者会見で『自分は楊貴妃の末代だ』と言い、それを自分はニュースで知った」と書いているのです。 また中国の別の作家も同じ内容を本に書いており、山口百恵のインタビューの年代だけが2003年になっています。 (上記二人のどちらかがどちらかの文章をまちがって書き写したのかも) さらにもう一人中国の歴史学者が「日本には『自分は楊貴妃の末代だ』と言っている人がいる」と言及しています。 これも名前は出していませんが山口百恵を指しているのかもしれません。 いずれも楊貴妃に関する中国の専門書、あるいは準専門書に書いてあった内容です。 山口百恵は日本では70年代に大変人気のあった歌手・女優で、80年代に入る頃人気絶頂の中引退しました。 中国で彼女が主演したドラマが80年代の初めに放映され、改革・解放が始まったばかり、西側の情報に飢え、あこがれていた当時の中国人に「幸子(山口百恵が主演したドラマの役名)ブーム」を巻き起こしました。 その彼女が中国で「楊貴妃の末裔だと言われている」というニュースが日本に伝わってきたのはいつ頃だったでしょうか?日本では引退後いっさいマスコミに登場しなかった山口百恵は中国のインタビューには(私の知る限り)一度は答えています。 その際の話なのかもしれませんが、彼女が中国系だという話は日本ではまったく聞きませんし、彼女が自分で「楊貴妃の末裔だ」と言ったという話も到底信じられません。 通訳による誤訳でしょうか? なぜ中国人が山口百恵という、きれいで魅力的ではあるけれど絶世の美女と言うほどではない一日本人女性を楊貴妃と結びつけたのか、いや、中国人が結びつけたとは限りませんが、だとしてもなぜこの話が笑い話で終わらずに中国で長く語り継がれているのか、とても興味深い現象です。 楊貴妃をテーマとした文学と演劇 楊貴妃をテーマとした文学作品や演劇は数えきれないほどたくさんありますが、ここでは代表的なものをいくつか紹介しましょう。 唐詩『長恨歌』(白居易) 楊貴妃をめぐる文学作品の代表的なものとしては唐代の詩人・白居易(はく・きょい)による『 長恨歌 ちょうごんか』です。 全120句の七言歌行。 玄宗の楊貴妃への想いの深さと彼女を失った痛恨の情を歌ったもの。 戯曲『長生殿』.
次の2020年制作 全16話 脚本:キム・ウンスク 演出:ペク・サンフン、チョン・ジヒョン 出演:イ・ミンホ、キム・ゴウン、ウ・ドファン、キム・ギョンナム他 ザ・キング:永遠の君主 見どころポイント ザ・キング:永遠の君主の見どころポイントを3つ紹介していきます。 異世界を作り上げているのですが、 本当にあるんじゃないか?というくらい詳細に描かれていて、別世界へと連れてこられたチョン・テウル(キム・ゴウン)と一緒に「こうなっているのか・・・」と世界観を理解していくような楽しみ方ができます。 ドラマ「トッケビ~君がくれた愛しい日々」でも感じた映像美が、今作「ザ・キング:永遠の君主」でも健在で、 絵画のような世界観と音楽との絶妙な絡みも見どころです。 パラレルワールドなのでもう一人の自分と出会うことがあります。 ウ・ドファン演じるイ・ゴンを守る皇室近衛隊隊長チョ・ヨンと現代のお調子者ウンソプという 真逆のキャラの一人二役がお見事。 本当に2人いる?というくらい別人に見えるし、同じ画面に映っていても不自然じゃない演出は本当に凄い。 もう一人の自分と出会うシーンは見応え抜群です。 万波息笛があれば、他の人も別世界へと連れていく事ができるので、イ・リムの陰謀で人を入れ替えていたりと、なかなか複雑。 「こういう事?」とストーリーの流れの中で考えて進んでいかなければいけないので、考察好きな方にはたまらないのではないはず。 簡単に理解しがたい点は見どころとも言えるのかもしれません。 ザ・キング:永遠の君主 SNSでの評判 ザ・キング:永遠の君主の評判や口コミを見ていきます。
次の育成のポイント 皇帝は武器のレベルをバランス良く育てる 色々な種類の武器レベルを上げておくとWPが多くなります。 WPが多くなると、普段の戦闘から残像剣などを気兼ねなく使えるため、戦闘をスムーズに進められるようになります。 そういった利点があるので、皇帝は色々な武器のレベルを上げておくといいでしょう。 皇帝の武器レベルを上げるときは、戦闘でその武器を使っていくのではなく、皇帝継承で上げるのが楽です。 次の皇帝を、普段仲間が使っている武器を得意とするクラスにして、レベルを合わせていくといいでしょう。 その後は、そのままそのクラスで進めてもいいし、ルドン高原などにいって、元の武器が得意なクラスにしてもいいでしょう。 火・地・天を優先してレベルを上げる 術は使っていかないと新しい術は覚えられないし、術の合成もできません。 最初の頃(最初の皇帝継承後)から1人は術を専門に使うキャラクターにして、普段の戦闘から使っていくといいでしょう。 レベルを上げる際は5つの属性をまんべんなく上げるのではなく、優先して上げる属性を決めておいた方がいいでしょう。 オススメは火・地・天の3つです。 また、他のキャラクターには生命の水を習得させておき、ボス戦などで使って水の術の経験値を稼いでおくといいでしょう。 術を鍛え、地の術の4つ目「ストーンシャワー」を習得した辺りから、攻撃役として十分に使えるようになってきます。 その後は術を使うキャラクターを1人増やし、2人を術を専門とさせてもいいでしょう。 新しい術の追加について 各属性の新しい術は、術を使って経験値を獲得していくと自然に追加されていきます。 追加されたことが通知されるわけではないので、ある程度経験値を稼いだら術法研究所に立ち寄ってみるといいでしょう。 合成術の開発について 合成術の開発は、術法研究所の研究者に話しかけると50万クラウンで依頼できます。 ただし、最初から依頼できるわけではなく、合成する2つの属性を戦闘で使って経験値を得ていく必要があります。 大体の目安としては、4つ目の術が登場する辺りから、合成できる術が出現し始めます。 3つ目の術が登場してある程度経ったら、こまめに確認してみるといいでしょう。 各属性の組み合わせに対して合成術は2種類あります。 例えば、火と地の合成術には、「炎の壁」と「ヒートハンド」の2種類があります。 これら2つの合成術は依頼できるタイミングが違い、炎の壁の方が早いタイミングで依頼することができます。 ヒートハンドの方は、炎の壁が合成できるようになった後、さらに火と地の術を使って経験値を稼ぐと合成できるようになります。 レベル上げ関連のポイント 逃げれるボスで技を閃く ボスの中には技を閃きやすく、また退却して何回も戦えるものもいます。 そういった戦闘で何度か退却し、強い技を閃いておくと戦闘が楽になります。 特に、はオススメです。 また、七英雄でも退却できる場合があるので、そのような場合は技の閃きにチャレンジしてみてもいいでしょう。 ワイリンガ湖でレベル上げする 戦闘回数をかなり重ねた後、ワイリンガ湖でアルビオンという敵が出現する場合があります。 この敵との戦いでは技が閃きやすいので、後半から終盤にかけて、最強クラスの技を閃きたいときに活用するといいでしょう。 また、経験値(技術点)も多いので、武器や術のレベル上げにも使えます。 武器・防具開発のポイント 手当たり次第に武器・防具を開発しているとお金が足りなくなります。 そのため、優先して開発する武器や防具を決めておくといいでしょう。 武器開発について 武器は大剣を優先して開発するのがオススメです。 大剣は攻撃力が高くて強い技が揃っているので、ゲームの最初から最後まで活躍します。 きちんと大剣を開発していけば、攻撃力不足に悩まされることはほとんどなくなるでしょう。 大剣以外は普段使っているものを開発していくといいでしょう。 例えば、普段は斧と槍を使っているなら、その2つだけを開発していくなどです。 逆に、使っていない武器は開発しなくてもいいでしょう。 防具開発について 防具は戦闘服を優先して開発するのがオススメです。 戦闘服を開発すると、2段階目で「強化服」という防具を開発することができます。 この強化服は、「眠り状態」に耐性があるのでかなり使えます。 開発してから年代が経過して、ニーベルの万屋に並んだら全員分揃えておくといいでしょう。 戦闘服の他は鎧を開発して、後は適当に開発していけばいいでしょう。 武器・防具開発の備考 武器・防具の開発は、依頼してから5回戦闘するとプロトタイプが完成します。 また、年代が経過すると流通し、各地の万屋で購入できるようになります。 同じ種類の武器・防具の開発は、1つの世代に1回しか依頼できません。 例えば、40万クラウンの大剣を依頼したら、次の世代になってから80万クラウンの大剣を依頼できるようになります。 職人が提案してくる武器・防具の種類は、戦闘をするごとに変わります。 などのように変わる規則があるので、それを参考にして戦闘回数を調整してもいいでしょう。 全身鎧は、兜・重鎧・腕・足を開発した後、次の世代になるとミラマーの万屋に並びます。 ダンジョン攻略のポイント 宝箱は開けていく ダンジョン内にある宝箱を開けると、武器や防具を入手できることがあります。 また、中身がお金であったとしても、それは武器・防具開発の原資になります。 このようにパーティーの強化につながるので、宝箱はできるだけ回収していくといいでしょう。 特に、クリアすると二度と入れなくなるダンジョンは、全ての宝箱を回収しておきたいところです。 回復アイテムをどんどん使う 普段の戦闘から技や術を多用すると、WPやJPの消耗が激しくなります。 WPやJPが切れた時にはアイテムをケチらず、どんどん使って回復していきましょう。 なお、アイテムは年代をジャンプしたときに倉庫に補充されるので、引き出しておくといいでしょう。 敵にぶつかるときにダッシュしない 敵にぶつかると陣形が崩れて、フリーファイトで戦うことになります。 フリーファイトだと陣形の効果を得られないので、敵とぶつかるときはなるべくダッシュしない方がいいでしょう。 もし、とっさにダッシュをOFFにするのが難しいなら、デフォルトを「歩く」にするといいでしょう。 そうすれば、敵とぶつかりそうになったら、早めにダッシュのボタンから手を離せば陣形が崩れずに戦えます。 その他ポイント ラピッドストリームを早めに習得する 武装商船団を皇帝にした時に習得できる、ラピッドストリームは非常に使い勝手の良い陣形です。 ザコ敵との戦いは、この陣形を選んでおけばまず間違いないというくらい役立ちます。 この陣形のため、武装商船団を早めに仲間にしておくといいでしょう。 (参考ページ:) 最終皇帝になる前に色々と終わらせておく 最終皇帝になると、殆どの陣形を入手できなくなるなど、色々と制限が生まれます。 また、合成術の開発などを完成させる機会も減ってしまいます。 こういったことがあるため、最終皇帝になる前に色々と済ませておくといいでしょう。 例えば、以下のようなことです。 陣形「ラピッドストリーム」の習得• 合成術「炎の壁」の開発• 合成術「光の壁」の開発• 合成術「エリクサー」の開発• 合成術「クリムゾンフレア」の開発 ちなみに合成術は、最終皇帝になる前に依頼しておけば、最終皇帝になった後に使うことができます。 最終皇帝になるタイミングについて (最初のクジンシーを除く)七英雄を4人以上倒した後に、年代がジャンプすると最終皇帝が登場します。 最終皇帝の登場を遅らせたい場合は、特定の七英雄の撃破を遅らせるといいでしょう。 具体的には、倒しても新しいクラスが仲間にならなかったり、地域の制圧とは関係無い七英雄は残しておくといいでしょう。
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