概要 [ ] に後に衰退したフランス競馬再興を掲げて誕生した国際競走である。 のみならず世界中のホースマンがやと並び憧れ、勝利を目標とする 世界最高峰の競走の1つとして知られている。 ヨーロッパでの競馬シーズンの終盤に開催され、その年のヨーロッパ各地の活躍馬が一堂に会する中長距離 のヨーロッパチャンピオン決定戦とされる。 日本でも近年きわめて知名度や人気の高い競走で、日本国内で最上級の活躍をした競走馬が後半からしばしば参戦している()。 凱旋門賞開催を盛り上げるため凱旋門賞の前日に1つのG1競走と4つのG2競走が、当日に凱旋門賞をメインに6つのG1競走が施行されており、その週末の2日間はと呼ばれている。 解説 [ ] 競走条件 [ ] 創設以来、2400 メートルで行われている。 主催のフランスギャロは、本競走を種牡馬・繁殖牝馬の選定競走と位置付けている。 そのため、出走資格は3歳以上の・に与えられており、生殖能力のないには出走資格は与えられていない。 本競走は定量戦で行われており、以降、本競走におけるは、3歳牡馬は56. 5kg(牝馬は55kg)、4歳以上牡馬は59. 5kg 牝馬は58kg と定められている。 フルゲートは20頭である。 賞金 [ ] 賞金総額は2012年の開催では400万。 優勝馬に57. 2013年の開催は480万ユーロに、には530万ユーロにそれぞれ増額された。 格付け [ ] 1971年に、ヨーロッパで競走の格付け制度()が創設されて以来、最高格のグループ1に位置づけられている。 歴史 [ ] 概略 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2020年1月) フランスでは、19世紀半ばに3歳馬のための国際的なクラシック競走としてが創設され、国外からも一流馬を集めて成功していた。 これにならって古馬のための大競走が企画され、第一次世界大戦終戦直後の1920年に創設された。 これが凱旋門賞である。 しかし初めの30年間は国外(特に競馬先進国のイギリス)からの一流馬の参戦はなく創設の目的を果たせなかった。 1949年に大幅な賞金増によって世界一の高額賞金競走となると徐々に注目を集めるようになり、1965年には世界中から集まった一流馬を相手に圧勝したシーバードが世界史上最強馬と認定されるに及んだ。 その後もミルリーフと言った名競走馬が一流馬を相手に勝つことで、凱旋門賞の国際的な名声はますます高まった。 1986年にはイギリス、フランス、西ドイツ、アイルランドや日本、南米からもクラシックホースが集まり、これらを相手にレコード勝ちしたダンシングブレーヴは世界最高の名馬となった。 凱旋門賞の成功にあやかって、世界各地に国際的な大競走が創設された。 これらの多くは極めて高い賞金を出して凱旋門賞の上位馬を呼び寄せることで権威を高めようとした。 1990年代には、いくつかの競走は凱旋門賞を超える賞金を出すようになった。 一方、凱旋門賞は世界最高賞金の座を奪還するためにと契約し更なる賞金の積み増しを行なっている。 沿革 [ ]• - ロンシャン競馬場開設。 - 創設。 - コンセイユ・ド・ミュニシパル賞創設。 - 終結。 - 凱旋門賞創設。 - - により開催中止。 - - 競馬が再開。 ル・トランブレー競馬場の芝2300mで代替開催。 - 賞金額がパリ大賞を抜いてフランス最高額となる。 - 優勝馬の(Sea-Bird)ヨーロッパ競馬史上歴代1位(当時) の評価を受ける。 - (Mill Reef)がレコード勝ち。 はじめて英国ダービー、、凱旋門賞を勝った馬となる。 - トラストハウスフォート(イギリスの大手旅行会社)がスポンサーとなる。 - 優勝馬の(Dancing Brave)が世界競馬史上歴代1位(当時) の評価を受ける。 - ルシアン・バリエール(フランスの代表的な高級ホテルグループ)がスポンサーとなる。 - 賞金が大幅に増額される。 - に参加。 - カタール競馬馬事クラブがスポンサーになり、賞金が大幅に増額。 芝の競走としては世界一の賞金額となる(全競走では世界2位)。 - - ロンシャン競馬場の改修工事により、で開催された。 - ロンシャン競馬場の改修工事が終了(競馬場名も パリロンシャン競馬場と改称)し、当地で3年ぶりに凱旋門賞が開催される。 勝ち馬のは前年に続き連覇。 なお、異なる競馬場での凱旋門賞制覇(連覇も含めて)は史上初。 - シリーズに参加。 フランス競馬の起源と国際競走の創設 [ ] フランス競馬の成立 [ ] フランスでは狩猟乗馬とが発展したが、競馬に関しては後進国だった。 イギリス風の競馬が持ち込まれたのは17世紀になってから で、ギャンブルを伴う競馬はフランス貴族の間で流行し、彼らはイギリス人を真似て、乗馬服や、さらには乗馬スタイルもイギリス風に変えた。 競走馬は全てイギリスから輸入しており、18世紀半ばには毎年数千頭の競走馬がイギリスからフランスに売られた。 また、多くのイギリス人の調教師や騎手が招聘された。 19世紀にはいると、や、など歴代の王は競馬の制度の整備を行った。 しかし、こうした官製の「競馬」はあまり流行らなかった。 賞金も低く、一般の興味を引くことはなかった。 農民は農業に適したに傾倒していたし、国民の自尊心は敵国であるイギリスの馬産に学ぶことを妨げていた。 フランス国内におけるイギリス純血種(後にサラブレッドとして確立する品種)の生産の起源は1770年代とされているが、19世紀になっても相変わらず毎年15000から20000頭の軽種馬を輸入に頼っていた。 1833年にようやく、フランス馬種改良奨励協会が組織された。 会長にはイギリス人 のが就任した。 協会は、イギリス風の競馬を行い、賞金によってサラブレッド生産を刺激し、フランス産のサラブレッドの資質向上を目指した。 そして翌1834年から、パリ()やで競馬を開催するようになる。 1836年にはイギリスを模倣してが、1843年にはが創設された。 これらの公認競馬に出走できるのはフランス産の競走馬に限られていた。 パリ大賞の創設 [ ] 1857年に新設されたロンシャン競馬場 競馬の人気が定着すると、軍の演習場も兼ねていたシャン・ド・マルスの競馬場の土質が問題となってきた。 1856年にはに43頭もの登録があり、いかにも手狭となった。 こうして1857年にに隣接したロンシャン草原に新しく立派なロンシャン競馬場が新設された。 奨励協会は、さらなるフランス馬の資質向上のために、3歳の一流馬による2400メートルの国際競走を開催することにした。 10万フランの巨額の賞金がパリ市とパリの鉄道各社から提供され、皇室からも美術品が下賜されることとなった。 イギリス競馬界との話し合いを経て、最終的にはイギリスとフランスのダービー馬が集まるように、開催時期はの11日後の5月末とされた。 両ダービーで敗れた実力馬にも新たなチャンスとなるよう、距離は3000メートルで行われることとなった。 こうして1863年に、世界的にみて初の本格的な国際レースとなるが創設された。 市議会賞の創設 [ ] 19世紀の終わり、フランスで「」の馬券が発明された。 すぐに、奨励協会の発売するパリミュチュエル方式の馬券以外は非合法となり、奨励協会は豊富な資金を手にするようになった。 この頃すでにパリ大賞は30年目を迎え国際的な大レースとして名声を確立していたが、パリ大賞は3歳馬しか出走することができなかった。 そこで、1893年の秋に、4歳以上の国際競走として2400メートルのが創設された。 このレースは外国では好評を博したが、負担重量の問題から、フランス国内ではパリ大賞と並ぶような高い権威を得られなかった。 凱旋門賞の誕生 [ ] このため、新たに馬齢重量による2400メートルの国際大レースが秋のロンシャン競馬場に創設されることになった。 競走の目的は外国産馬との対戦によってフランス産馬の優秀さを証明することにあった。 凱旋門賞は、それまで市議会賞(コンセイユ・ミュニシパル賞)が行われていた日程で開催されることになった。 このため市議会賞は1週遅い時期に変更され、さらにそのためにという長距離レースの日程が1日後へずらされた。 フランスでは1914年からはじまった第一次世界大戦のため、1915年から1918年は競馬が行われておらず、ロンシャン競馬場が再開されたのは1919年になってからだった。 このため1920年に創設された凱旋門賞は、フランス競馬と馬産界の復興のシンボルとなることを期待された。 第1回凱旋門賞 [ ] 凱旋門賞の優勝賞金は約17万フランで、パリ大賞の33万フランには遠く及ばないものの、英国ダービー(約16万フラン)やフランスダービー(約14万フラン)を上回る賞金が提供された。 しかしながら、フランス国内の鉄道は第一次世界大戦によって破壊されており、移動に時間がかかりすぎるためイギリスからの一流馬の参戦はなかったし、ヨーロッパの他の国々は戦争で疲弊し競馬どころではなかった。 このため第1回の凱旋門賞は、奨励協会の期待に反し、外国からの出走はイギリスの カムラッド(Comrade)とのヌウヴェラン(Nouvel An)のわずか2頭だった。 このうちカムラッドは春にパリ大賞を人気薄でまんまと逃げ切った 馬で、凱旋門賞では3番人気(4. 4倍)となった。 迎え撃つフランス勢の一番手は、前年の2歳チャンピオンのシドカンペアドール(Cid Cameador)で、3倍の本命となった。 これに続くのが、パリ大賞でカムラッドを短頭差まで追い詰めたアンブリー(Embry)で、直前のを制して3. 8倍の2番人気だった。 このほかにはフランス牝馬二冠のフラワーショップ(Flowershop)が出走した。 レースが始まると、カムラッドは抑えたままの体勢で優位となり、そのまま鞭を使うことなく楽勝 し、もとは25ギニーの安馬だったカムラッドが、7戦全勝で初代凱旋門賞優勝馬となった。 こうして第1回の凱旋門賞は、「外国の一流馬との対戦」も「フランス馬の優秀さの証明」もいずれも果たすことができずに終わった。 第二次世界大戦以前の凱旋門賞 [ ] 第2回凱旋門賞 [ ] 初めて凱旋門賞を連覇したクサール 1921年、2回目の凱旋門賞は賞金が倍になり、優勝賞金は約34万フランとなった。 しかしこの年は、フランスダービー馬の(Ksar)がパリ大賞で英国馬に惨敗 し、前年のフランスダービー馬スールビエ(Sourbier)もでイギリスのハンデキャップホース に敗れ、フランスとイギリスのサラブレッドの間にはかなりの実力差があるとみなされた。 そのためこの年もイギリスから一流馬の参戦はなかった。 クサールは凱旋門賞の直前に復調し、本命(2倍)となった。 これに続いたのがイギリスのスクエアメジャー(Square Measure) だったが、創設間もない大レースのため主催者の不手際があり、出走前に2回もスタンド前を行進させられて興奮し、スタート前に暴走してしまった。 同様にイギリス牝馬のブルーダン(Blue Dun)も騎手の制御が効かなくなって、レースが始まると2400メートルの競走とは思えないスピードで先頭を切った。 ブルーダンは最終コーナーを待たずに失速したが、これにかわって先頭に立ったのはクサールで、そのまま押し切って優勝した。 創設2年目にして初めてフランス産馬が凱旋門賞優勝を果たすことになったが、クサールの生産者は前年の覇者コムラッドの馬主だったサンタラリであり、彼は2年連続で優勝馬の関係者となった。 外国馬の不在 [ ] 3年目の凱旋門賞にはフランス以外からの参戦がなく、クサールが大本命(1. 3倍)、2番人気以降は12倍以上となって、クサールが難なく連覇を達成した。 クサールが引退したあと、4年目の凱旋門賞はイギリスのパース()が優勝した。 しかしながらパースはイギリス国内で最も優れたサラブレッドというわけではなく 、この年のイギリス二冠馬パピルス()は凱旋門賞には目もくれず、アメリカの競走馬と対決するために渡米していた。 5年目・6年目の凱旋門賞も外国からの出走がなかった。 それどころか、前年の覇者パースも同時期のイギリスのジョッキークラブステークスに出走することを選び、凱旋門賞の主催者を落胆させた。 イギリスの一流馬がさっぱりやって来ない理由はいくつか考えられていたが、フランス・フランの相場の下落や、フランスでは奨励協会が馬券を独占し馬主が自由に大金を賭けられる環境がないことが、イギリスの馬主に敬遠されていると考えられていた。 駐フランス大使を務めていたダービー卿はしばしば素晴らしい名馬を凱旋門賞に登録して主催者に期待をさせた が、結局出走することはなかった。 その後もイギリスから本物の一流馬がやってくることはなかった。 一方、国外からやってきたのはイタリアやドイツの活躍馬で、ドイツからは1928・29年にドイツの歴史的な名馬となった(Oleander)がやってきた。 イタリア産馬は1929年の(Ortello)や1933年のクラポム(Crapom)などの優勝馬を出したが、こうした傾向は、イギリスの一流馬との対戦によってフランス産馬の優秀さを証明しようという当初の意図とはそぐわないものとなってしまった。 第二次世界大戦前夜 [ ] 1930年代には世界経済の低迷やスペイン内乱はフランスの経済にも重大な悪影響を及ぼしており、競馬界もその例外ではなかった。 凱旋門賞の賞金は一時期60万フランまで増えていたが、1930年代の半ばには40万フランまで減り、フランス国内の一流馬さえ凱旋門賞に出走しないものも出た。 1937年に1着賞金が100万フランに増額されたが、この頃には既に創設当時と比べてフランの価値は半分以下になっていた。 さらに1938年にはドイツがを行い、秋には対ドイツ開戦目前と考えられた。 実際、1938年の9月後半にはフランス国内に250万人の動員が行われ、競馬どころではなくなってきた。 危機は9月末のによってギリギリのところで回避されたようだったが、10月頭の凱旋門賞は極めて低レベルのメンバー で行なわれた。 結果的にはこれが第二次世界大戦前に行なわれた最後の凱旋門賞となった。 1939年、フランスに名馬が登場した。 ファリスはフランスダービーとパリ大賞で致命的な不利を跳ね返して劇的な勝利を飾ると、無敗のまま、イギリスのでイギリスのとの対決することにした。 ブルーピーターはイギリスに登場した名馬で、この年英国二冠とを制し、9月のセントレジャーで三冠に挑むことになっていた。 セントレジャーの1か月後には凱旋門賞があり、セントレジャーの結果次第では凱旋門賞でも両雄の対決が見られるかもしれなかった。 しかし、9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、イギリスとフランスはドイツへ宣戦布告した。 セントレジャーも凱旋門賞も中止となり、両者の対決は幻となった。 第二次大戦下の凱旋門賞 [ ] 2年間の中断 [ ] 1939年の秋に宣戦布告をしたとはいえ、実際にはほとんど戦闘は行われなかった。 このため1940年の春には例年よりも規模を縮小しながら競馬が行なわれた。 ところが5月になると突如としてドイツ軍はフランスへ進攻し、1ヶ月ほどでパリも占領されてしまった。 走路が軍の飛行場となっていたシャンティイ競馬場はドイツ軍に明け渡されたが、逃げ遅れて見捨てられた競走馬100頭ほどが餓死した。 このなかには1927年の優勝馬モンタリスマン(Mon Talisman)も含まれていた。 ファリスはドイツ軍に接収されて連れ去られてしまった。 1940年の秋に占領軍から競馬再開の許可が出た。 ロンシャン競馬場は使えなかったため、10月にオートィユ競馬場で開催されることとなった。 春に施行できなかった3歳牡馬のためのと3歳牝馬のためのは一つにまとめて「エッセ賞」として10月の末に行なわれた。 本来は夏に行われるフランスダービーは11月に「シャンティイ賞」として行なわれた。 パリ大賞、カドラン賞も代替競走が行われた。 通常であればこれらの勝者が凱旋門賞に集まるところだが、秋の短い期間にクラシック競走と凱旋門賞すべてを連戦するのは明らかに無理であると考えた主催者は、この年の凱旋門賞も中止した。 占領下の凱旋門賞 [ ] 1941年にはロンシャン競馬場が再開され、凱旋門賞も開催されることになった。 占領下で物資統制が行われていたが、パリジャンはカーテンで作ったドレス、木やコルクで仕立てた靴で華やかに着飾ってエレガントな雰囲気を守った。 しかしこの年の凱旋門賞に集まったのはわずか7頭だった。 これは創設以来2011年までの中で最少の出走頭数である。 占領時代の凱旋門賞でルパシャと二強時代を築いたジェベル 本命 になったのはマルセル・ブサックの古馬(Djebel)だった。 ジェベルは前年の英国ダービーで本命になるほどの実力馬だったが、戦局の悪化で渡英が叶わず、秋に代替競走のエッセ賞を勝っていた。 相手は1歳年下のルパシャ()とネペンシ(Nepenthe)で、両者はパリ大賞やロワイヤル・オーク賞で接戦を演じたライバル同士だった。 ルパシャは初出走前に馬主を蹴り殺し、無敗のまま、、を勝ち進んでフランスダービーも勝った。 一方のネペンシはダービー卿の所有馬(ドイツ占領下のフランスではイギリス人馬主が許されないためフランス人の名義を借りていた で、に勝った。 2度目の対戦はロワイヤル・オーク賞で、このときはゴールまであと30メートルのところでネペンシがルパシャをとらえたのだが、そこでネペンシの騎手が鞭を落とすミスを犯し、短頭差でルパシャが勝利をものにしていた。 凱旋門賞のゴール前は、ロワイヤル・オーク賞と同じようにルパシャとネペンシの大接戦となり、短頭差でルパシャが勝った。 ジェベルは離れた3着に終わった。 ルパシャは1926年の凱旋門賞優勝馬ビリビ(Biribi)の子で、凱旋門賞としては初めての父子制覇となったが、ビリビは既にドイツ軍によってドイツへ連れ去られていた。 フランス国内では飼料が不足し、競走馬の生産も大きな規制を受けた。 競走馬には1頭1頭配給票が与えられ、その数はわずか2100頭に限定されたため、ほとんどの競走馬は3歳で引退を余儀なくされた。 しかし、ルパシャ、ネペンシ、ジェベルは翌1942年も現役を続行した。 ネペンシはカドラン賞を勝ち、ジェベルは、ボイヤール賞、アルクール賞、エドヴィル賞を勝った。 ルパシャとジェベルの対戦が実現したのは夏のだった。 この競走はそれまで「共和国大統領賞」の名で行われていたが、ドイツ侵攻で共和国が崩壊したためにレース名が変更になっていた。 ルパシャは残り50メートルまで先頭だったが、ジェベルが最後にこれを捕まえ、レコードタイムで勝った。 ルパシャにとっては初めての敗戦だった。 ルパシャはこのあとプランスドランジュ賞を圧勝し、凱旋門賞で両者の再戦が実現した。 3歳勢ではフランスダービー2着のトルナード(Tornado)とロワイヤル・オーク賞に勝ったティフィナール(Tifinar)が出走してきたが、フランスダービーとパリ大賞を勝ったマジステール(Magister)やダービー卿所有の無敗のアーコット(Arcot)は凱旋門賞には出て来なかった。 本命になったのはルパシャで、2番人気はジェベルだった。 いつも通りルパシャが早めに先頭にたって直線に入ったが、ルパシャはそこで故障を発生して後退した。 これを見たジェベルは楽に先頭に立ち、そのままゴールした。 2着にはトルナードが入った。 ルパシャは引退すると、の考案者であるヴュイエ大佐の未亡人の牧場で繋養された。 一方のジェベルもこの凱旋門賞を最後に引退して種牡馬となった。 ジェベルの子はフランスとイギリスで活躍し、過去の凱旋門賞の優勝馬の中でもっとも成功した種牡馬となった。 ロンシャン競馬場の空爆と競馬の移転 [ ] ドイツ軍は連合軍の反撃を受け、ガソリンや飼料などの物資はさらに逼迫し、競走馬の生産や維持をますます困難にした。 しかしドイツ軍は、平静を装って士気を高めるためには、フランス人の日常生活を維持する必要があると考え て通常通り競馬を開催することを許可した。 結果としてこの時期の馬券の売上は大幅に増え、多くの競走の賞金が増額された。 凱旋門賞の賞金は100万フランに据え置かれていたが、春のロンシャン競馬場で行われるサブロン賞は従前の63万フランから97万フランに賞金が増えた。 このサブロン賞には、前年無敗の活躍をしたアーコットと、凱旋門賞2着のトルナードが登場することになっていた。 サブロン賞当日の第1レースの発走寸前に、ロンシャン競馬場の上空にアメリカ軍の爆撃機が現れた。 競馬場内に設置されていたドイツ軍の高射砲が応戦したが、爆撃機は14発の爆弾を投下し、7名の観客が死んだ。 競馬施設も被害を受けたが、応急処置を施して1時間半後に競馬が再開された。 この日行なわれたサブロン賞は、アーコットとトルナードの同着になった。 しかしこの古馬2強はこのあと引退を決め、秋の凱旋門賞には出走しなかった。 爆撃の結果、ドイツ軍はロンシャン競馬場の開催許可を取消した。 主催者は凱旋門賞を開催するにあたり、パリに近く、馬場が広く、直線に坂があるル・トランブレー()競馬場を選んだ。 1944年には6月にリュパン賞当日のメゾンラフィット競馬場が爆撃されて調教師が死んだ。 フランスの重要な馬産地であるノルマンディーは激戦地となって、1936年と1937年に凱旋門賞を連覇したコリーダも犠牲となった。 8月にはシャンティイ競馬場がたびたび爆撃を受けた。 8月25日に連合軍が入城してパリが解放されると、ロンシャン競馬場の修復が始まった。 9月の半ばには概ね修復がおわったが、ロンシャン競馬場はアメリカ軍に接収されて駐屯地となった。 そのため結局この年も秋競馬はル・トランブレー競馬場で行なわれた。 1945年に凱旋門賞はロンシャン競馬場に戻ったが、戦時中の影響は様々な形で競馬に悪影響を及ぼした。 石炭不足によって散水ができなくなって馬場が硬くなったり、政府がドイツ占領時代に発行されていたすべての新聞を発禁処分とした結果、すべての競馬新聞が姿を消したのがその一例である。 真の国際大レースへ [ ] 競合レースの登場 [ ] 解放によって国外への出走が可能になると、最初に海外遠征を行ったのはマルセル・ブサックだった。 ブサックのプリアム(Priam)はハードウィックステークス()を勝ち、カラカラ(Caracalla)はイギリスで最も重要な競走の一つであったに勝った。 既にコリーダやジェベルなどによって凱旋門賞を4勝していたブサックは、毎年何頭もの有力馬を凱旋門賞に送り込んでおり、1946年の凱旋門賞ではそれが顕著に表れた。 ブサックは本命のカラカラを出走させたが、このときブサックがカラカラのためのペースメーカーとして出走させたのは1944年の凱旋門賞優勝馬のアルダン()だった。 ブサックの競走馬は強すぎて、彼の所有馬が登場すると他の馬は回避するし、馬券の倍率は下がって馬券の売り上げが落ちるのが主催者の「悩みの種 」ですらあった。 しかし、1946年の凱旋門賞の出走メンバーが手薄になった理由はほかにもあった。 この年、凱旋門賞の6日後に、イギリスのアスコット競馬場で新しい大レースが創設された。 3歳馬のために2マイル(約3200メートル)で行われるキング・ジョージ6世ステークスである。 この年のパリ大賞とロワイヤル・オーク賞の優勝馬スヴレン(Souverain)はイギリスの大レースを選んだ。 フランスダービー馬プリンスシュヴァリエ(Prince Chevalier)は凱旋門賞に出てきたが、プリンスシュヴァリエは既にパリ大賞とロワイヤル・オーク賞でスヴレンに敗れており、明らかに3歳馬の中では2番手以下の評価だった。 前年の2歳チャンピオンのニルガル(Nirgal)や、フランスダービー2着のエルスヌール(Elseneur)もキング・ジョージ6世ステークスを選んだ。 英国ダービー馬のエアボーン()やアイルランドダービー馬のブライトニュース(Bright News)も出走したので、キング・ジョージ6世ステークスのほうが凱旋門賞よりも国際的な一流馬を集めることに成功 していた。 これ以降も、セントレジャーで2着になったアルバール(Arbar)や2歳チャンピオンのジェッダ(Djeddah)など、フランスの一流馬にも凱旋門賞よりキング・ジョージ6世ステークスを選ぶものが続出した。 フランスの主催者は、キング・ジョージ6世ステークスの主催者に対し丁重に施行日の変更を申し入れたが、受け入れてもらえなかった。 英国ダービー馬の参戦と失敗 [ ] イタリアからは相変わらずときおり凱旋門賞へ挑戦する馬が出ていたが、久しぶりに本格的な海外の一流馬が凱旋門賞にやってきたのは1948年のパールダイヴァー()とミゴリ()だった。 パールダイヴァーは前年の英国ダービー馬である。 ミゴリはアイルランドに籍をおくの所有馬で、2歳の時には後のフランスダービー馬を破っているし、3歳になってダービーでパールダイヴァーに次ぐ2着になったあと、エクリプスステークスやに勝ち、古馬になっても3勝していた。 この年はソ連がベルリン封鎖を行い、ちょうどパリでは国連安全保障理事会が開催中で、理事の多くが凱旋門賞の見物にやってきて国際色に花を添えた。 とは言え、アガ・カーン3世はこの年の英国ダービーとパリ大賞を制したマイラヴ()も所有しており、マイラヴのほうは凱旋門賞には出さなかったので、アガ・カーン3世としては自身の最良の馬を凱旋門賞に送り込んだというわけではなかったし、パールダイヴァーはダービー優勝後は絶不調で、凱旋門賞でも39倍と全く人気がなかった。 しかしそれでもミゴリはロンシャン競馬場の2400メートルの記録を塗り替えて凱旋門賞に勝った。 凱旋門賞の主催者にとっては残念なことに、ミゴリはこの11日後にイギリスでチャンピオンステークスに出て凡走し、セントレジャーで3着だったソーラースリッパーに大敗してしまった。 結果的には、両馬の参戦は凱旋門賞の価値を高めるという意味ではあまり有効ではなかった。 前年のフランスの2歳チャンピオンのジェッダが、凱旋門賞に出ずにキング・ジョージ6世ステークスに挑んで2着になったという事実も、凱旋門賞をフランスで最高の国際競走にしたいと考える主催者にとっては望ましい状況とはいえなかった。 賞金の大幅増 [ ] ミゴリが勝った時の凱旋門賞の1着賞金は約520万フラン で、第二次世界大戦前に比べると額面では5倍になっていたが、フランス・フランの価値は戦後も下がり続けており、魅力的な額とは言えなかった。 競合するキング・ジョージ6世ステークスはこれよりも賞金が高かった。 晩餐会が開かれたマキシム 凱旋門賞の価値を本来の意図通りにするためには賞金の大幅増が不可欠と考えた主催者は、国営宝くじ()との何ヶ月にも渡る長い交渉の末に、宝くじ馬券を利用して賞金の資金源とすることに成功した。 こうして、1949年7月に発表された1着賞金額は2500万フランで、生産者賞や登録料も合わせると約3000万フラン となった。 この結果、馬齢重量の競走としてはヨーロッパでもっとも高額賞金の競走となった。 この効果はめざましく、条件の発表が遅かったにもかかわらず、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、アメリカ、アルゼンチン、アイルランドから合わせて120頭の出走の登録があった。 この中にはアメリカの三冠馬(Assault)や、アルゼンチンの最強牝馬エンペニョーサ(Empenosa)の名もあった。 イギリスからは二冠馬の(Nimbus)とオークス馬のムシドラ()が登録したし、イタリアやベルギーからも最強馬が登録した。 最終的に出走したのは28頭で、これは過去最多の出走頭数となった。 この年勝ったのはブサックのだった。 主催者は、この世界的な大競走の誕生を内外にアピールするために、レースの前夜にロワイヤル通りの()で「競馬・生産界の晩餐会」を開催した。 創設以来日程が競合して一流馬を奪い合っていたイギリスのキング・ジョージ6世ステークスは、凱旋門賞の賞金増を受けて撤退せざるを得なくなった。 アスコット競馬場はキングジョージ6世ステークスを、夏に行われている1マイル半(約2400メートル)のクイーン・エリザベスステークスと統合することにした。 1951年は大英博覧会開催100周年にあたり、イギリスでは夏に大々的に ()(フェスティヴァル・オブ・ブリテン)を行った。 こうして1951年7月に、フェスティヴァル・オブ・ブリテン・ステークスが行なわれた。 賞金は大幅に増えて、イギリス国内ではダービーに次ぐ高額賞金となった。 この競走は翌年と改称し、以来、夏のヨーロッパを代表する国際大レースとして定着した。 時期的にも競合しない高額国際競走の誕生は、フランスの主催者にも歓迎された。 以前に長距離遠征に失敗して体調を崩したことがあるタンティエーム陣営は、レース当日の早朝にタンティエームをフランスから現地へ直接空輸するという作戦をとったが、不運なことにその日は強風が吹いて飛行機は激しく揺れ、「身の毛もよだつ 」「不快な旅 」となってしまった。 このため明らかにタンティエームは体調を落としており、スタートで後手を踏んだ上に最終コーナーで不利を受けて3着に敗れた。 その後タンティエームはフランスに戻って復調し、記録的な大観衆となった66,840人の有料入場者の前で2度めの凱旋門賞を楽々と制して、フランス競馬史上最良の競走馬の1頭となった。 ワシントン近郊のローレル競馬場が創設した1マイル半(約2400メートル)のである。 この競走ではヨーロッパからの一流競走馬を集めるために、遠征費用を負担し、アメリカでは主流ではない芝コースで行い、スタートの方法をヨーロッパ風に行なった。 各国の競走条件を折衷して採用したこのイベントは、北米大陸や西ヨーロッパのみならず、南米、オーストラリア、冷戦時代のソビエトや、敗戦から復興中の日本からも競走馬を呼び込むことに成功した。 タルヤーも凱旋門賞に出ないとわかったとき、フランスの競馬界は失望の色を隠せなかった。 この年の凱旋門賞に出走した外国馬はわずか1頭、イタリアのオワーズ(Oise) だけになってしまった。 1953年の騒動 [ ] 1953年の凱旋門賞は国際大レースに相応しいメンバーが揃った。 イギリスからはセントレジャーの優勝馬プリモニション(Premonition)がやってきた。 コロネーションカップで前年のワシントンDCインターナショナルの勝馬を破ったズクロもやってきた。 地元のフランス勢ではパリ大賞の優勝馬ノーザンライト(Northern Light)が出走した。 競馬場には10万人の大観衆が集まり、戦後の初代大統領のやドイツの鉄鋼王も観戦にやってきた。 このレースは最終コーナーのあたりで起きたアクシデントで大荒れとなった。 坂下でブサックのジャニター(Janitor)とニーデルレンダーが激しく衝突し、右膝の後ろを大きく切ってしまった。 イギリスのプリモニションは勝負どころで右後肢を蹴られて腱まで達する深い傷を負った。 これらのトラブルを尻目に早めに抜けだしたフランス牝馬のラソレリーナ(La Sorellina)が逃げ切り、その半兄のシルネ(Silnet)が2着に入った。 妹兄での1・2着は凱旋門史上初めての珍事だった。 道中のラフプレーに何人もの騎手が異議を唱え、イギリスのマスコミは主催者を批難した が、主催者は審議の結果、特定の馬に非を認めるのは不可能だと結論づけた。 これがきっかけとなって、フランスではパトロールフィルムが導入されることになった。 パトロールフィルムは6年後の凱旋門賞で、ゴールしたときは同着と判定されたセントクレスピンとミッドナイトサンに決着をつけるのに役だった。 主催者にとって良いニュースは、この凱旋門賞で3着に入ったヴォルデン(Worden)が、その秋にイタリアに転戦してローマ賞を勝ち、さらにアメリカへ遠征してワシントンDCインターナショナルを圧勝したことだった。 この2つの勝利は凱旋門賞の価値を高めることになった。 名馬の時代 [ ] リボーの連覇 [ ] 凱旋門賞連覇のリボー 1955年の凱旋門賞は史上最多となる156頭の登録があった。 この中には、フランス、アメリカ、イタリア、アイルランド、ドイツのダービー馬が9頭含まれており、凱旋門賞の国際的評価が定着しつつあることを示していた。 しかしこれらのほとんどは凱旋門賞の前に引退してしまったり、怪我で休養に入ってしまったりして、実際に出走したのはフランスダービー(ジョッケクリュブ賞)馬のラパスとアイルランドダービー馬のザラズーストラの2頭だけだった。 イタリア三冠馬のボッティチェリ(Botticelli)も登録していたが結局出走は取りやめて、代わりに僚馬の(Ribot)がイタリア代表としてやってきた。 リボーはフェデリコ・テシオの忘れ形見で、クラシックは登録がなく未出走だったものの、無敗であった。 しかし、フランス人もイギリス人も、リボーの実力を計りかねていた。 イタリア三冠馬のボッティチェリに唯一土をつけたイタリア馬は1952年の凱旋門賞にたった1頭の外国馬として出走したオワーズだった。 オワーズはその凱旋門賞で10着だった。 そしてリボーが勝ったことがあるただ1頭の一流馬がオワーズだった。 リボーは馬なりで後続に3馬身差をつけて凱旋門賞に勝ち、イタリアに22年ぶりの栄冠をもたらした。 後になって明かされたが、リボーは最終追い切りで鞭を使わずに三冠馬ボッティチェリを4馬身ちぎっており、関係者はボッティチェリが故障したのかと誤解するほどだった。 リボーは凱旋門賞のあと、ワシントンDCインターナショナルの招待を断って、2週間後のに出走した。 ここでもリボーは15馬身差で圧勝した。 リボーは15戦無敗のまま凱旋門賞を連覇するために登場したが、これに挑戦してきた「向こう見ず 」な19頭の中には、アメリカからやってきた2頭の馬も含まれていた。 2頭はワシントンDCインターナショナルの優勝馬フィッシャーマン()と、この年のアメリカのフリーハンデでトップにランキングされたキャリアボーイ()である。 アメリカ馬がヨーロッパに遠征してくるのは20年ぶりのことで、凱旋門賞の主催者は、「自分たちのチャンピオンの評価が傷つく危険を冒して 」まで大西洋を超えて遠征してきた両馬に対して深い謝意を表した。 レースはスタートと同時にフィッシャーマンが飛び出してペースメーカーを務めた。 キャリアボーイに騎乗した騎手は40歳のベテランで、最終コーナーでは勝利を確信していた。 しかし、リボーはたったの2完歩で抜けだすと、鞭を使うまでもなく6馬身離して勝った。 リボーは「今世紀最高の名馬」との名声を得たが、この凱旋門賞で敗れた馬がイギリスのチャンピオンステークスやアメリカのワシントンDCインターナショナルを勝ったことで、その評価はますます高まった。 凱旋門賞開催日の充実 [ ] 1957年はロンシャン競馬場開設100周年の記念の年となった。 この記念の年に、凱旋門賞をより華やかにするための2つの新しい競走が創設された。 一つは2歳以上のスプリント戦、で、もう一つは3歳以上のマイル戦、である。 どちらも超高額な賞金を用意した大レースだったが、世界を驚かせたのは凱旋門賞の1着賞金で、この年から賞金は一挙4000万フラン に加増された。 高額賞金に惹かれて、イギリス、フランス、アメリカ、アイルランド、イタリア、ドイツ、といったおなじみの国のほか、ベルギー、ノルウェー、アルゼンチン、ベネズエラからも登録があった。 この年の勝者は53倍の大穴、オロソ(Oroso)で、2着には46倍のドニジイ(Denisy)、3着に30倍のバルボ(Balbo)が入って大波乱となった。 オロソに騎乗したのは軍服姿の兵役中の若手騎手で、この騎乗のために特別に1日の休暇を許されたのだった。 オロソは1942年の凱旋門賞でジェベルに惨敗したティフィナールの子だった。 世界最強馬シーバード [ ] 1960年にフランス・フランの切り下げがあり、1着賞金は新しいフランで50万フランとなった。 賞金はその後も右肩上がりで増加し、1965年には100万フランとなった。 この年の凱旋門賞は、望みうる世界最高のメンバーが揃った。 イギリス、フランス、アイルランド、ソヴィエトのダービー馬が集まり、アメリカからも最強の3歳馬がやってきた。 イギリスのダービーを勝ってきたのは(Sea-Bird)で、ライバルはフランスダービー、パリ大賞、ロワイヤル・オーク賞を勝った無敗のリライアンス()だった。 アメリカのも間違いなくこの年のアメリカ3歳馬の中では最良の馬で、アメリカのクラシック競走の一つに勝ち、その後も4連勝でパリにやってきた。 このほかにも、イギリスの前年のセントレジャーの勝馬やフランスのオークス馬など、例年であれば主役になるような競走馬がいたものの、この年に限っては相手が悪かったというほかなさそうだった。 アメリカとソヴィエトからの遠征馬にとっては、レース前にいくつかの不利があった。 トムロルフは芝で走ったことがなかったし、騎乗する騎手はアメリカのトップジョッキーだったがロンシャンでの騎乗経験がなく、事前にロンシャンの経験を積むためにフランスの新聞に騎乗馬を募る広告を出すほどだった。 共産圏のアニリンにとっては国境の通関が難所で、西ドイツからベルギー、ベルギーからフランスと2度の通関に手間取って12時間以上も遅れてしまった。 観客はシーバードとリライアンスの激しい争いを期待していたが、実際にはシーバードのワンサイドゲームとなった。 シーバードが2着リライアンスにつけた着差は6馬身で、これは凱旋門史上最大の着差である。 リライアンスと3着馬の間もまた5馬身の差があったから、リライアンスも強さを発揮したといえる。 敗れた馬たちがこの年の後のレースで活躍したことで、シーバードの勝利はさらに価値が高められた。 アニリンはドイツでを勝ち、シーバードから11馬身差の3着だったはワシントンDCインターナショナルでカナダのチャンピオンとアメリカの最強古馬を下し、シーバードから26馬身離されたドミドゥイユ(Demi-Deuil)はイタリアのを6馬身差で勝った。 イギリスの社は凱旋門賞の勝利を受けて、シーバードに145ポンドのハンデをつけた。 これは史上最高値 であり、これをもってシーバードは世界最強馬と認められたことになった。 この数値は40年以上破られなかった。 詳細はを参照。 ヴェイグリーノーブルとサーアイヴァー [ ] 1968年の凱旋門賞の主役は、(Vaguely Noble)と(Sir Ivor)だった。 2歳の時に馬主の死去によってセリに出されたヴェイグリーノーブルは、従来の高値記録の4倍の値段で買われた。 クラシック登録をしていなかったヴェイグリーノーブルは凱旋門賞を目標とし、前哨戦を勝って本命で凱旋門賞を迎えた。 一方のサーアイヴァーはイギリスの二冠馬だった。 しかし夏に調子を落として休養し、凱旋門賞ではまだ完全に復調しているとは言えない状態だった。 ヴェイグリーノーブルは終始危なげないレースで勝ち、3馬身離れた2着にサーアイヴァーが入った。 ヴェイグリーノーブルはクラシック競走に出られなかったが、凱旋門賞で負かした相手がもっていたクラシックレースのタイトルは11を数えた。 凱旋門賞のあと、サーアイヴァーはイギリスのチャンピオンステークスとアメリカのワシントンDCインターナショナルを勝ち、間接的にヴェイグリーノーブルの強さを証明した。 三冠馬ニジンスキーの敗戦 [ ] 1970年の凱旋門賞の出走馬はわずか15頭だった。 出走馬がこれほど少なかったのはイギリスの三冠馬(Nijinsky)が登場したからで、多くの一流馬はニジンスキーを破る余地はないと考えて、早々に出走を取りやめた。 次の目標は凱旋門賞とアメリカのだったが、その前に一度試走をする必要があった。 どのレースに出ても重いハンデを負わなければならなかったため、ニジンスキー陣営は定量戦のセントレジャーに出ることにした。 ニジンスキーは難なくこれを勝ったが、その結果として35年ぶりにイギリス三冠を達成した。 ニジンスキーは凱旋門賞で本命となった。 ニジンスキーに6回騎乗したリーアム・ウォード騎手は 、「もしニジンスキーが負けたら裸でアイルランドまで歩いてやるよ」と豪語した。 しかし、ニジンスキーは残り100メートルの地点で先頭に立ったものの、苦しがって外へよれ、残り20メートルの地点でササフラ(Sassafras)が頭一つ分だけ巻き返し、そのままゴールした。 ニジンスキーにとっては初めての敗戦で、騎手を非難する者や、ニジンスキーのスタミナを疑問視する者、直前にセントレジャーを使ったことを原因とみなす者や、それ以前の苛酷なローテーションを敗戦の理由とする者もあった。 陣営は体調が万全でなかったと弁明した。 ミルリーフの偉業 [ ] 1971年には、前年のニジンスキーに勝るとも劣らない一流馬がイギリスからやってきた。 ニジンスキーとは異なり、ミルリーフはたっぷりと休養をとって、秋はぶっつけで凱旋門賞にやってきた。 ミルリーフの調教師は、英仏海峡を渡るにあたってミルリーフのストレスが最小限度で済むように、アメリカ大使にかけあってアメリカ空軍基地から空輸する特別な許可を得た。 基地の司令官は輸送に全面的に協力し、厩舎を出発してからフランスに到着して通関手続が済むまでたったの2時間で済んだ。 凱旋門賞当日は、10年ぶりにが臨席した。 大富豪として知られるのオッペンハイマー卿の姿もあったが、これは彼の会社が翌年からのスポンサーになるための下調べだった。 ミルリーフは期待に応え、後続に3馬身差をつけて楽勝した。 走破タイムの2分38秒30は2400メートルのレコードタイムだった。 ミルリーフは翌年も凱旋門賞連覇を目指したが、凱旋門賞の1ヶ月半前、調教中に脚を4箇所骨折をする致命的な怪我を負った。 普通であれば文字通り命にかかわる大怪我だったが、ミルリーフは気性が穏やかで長期間のギプス治療に耐えた。 種牡馬となったミルリーフは大成功をおさめた。 日本人の挑戦 [ ] 1972年の凱旋門賞は、日本人にとって縁の深い開催となった。 初めて凱旋門賞に挑んだ日本調教馬は1969年のだったが、1972年には日本人馬主の所有馬が3頭出走した。 なかでも実業家の(Hard to Beat)はフランスダービーをレコード勝ちした馬で、この年のフランス勢の筆頭として2. 5倍の本命になった。 天皇賞馬のは日本からフランスに転厩して参戦した。 山本慎一のエリモホーク(Erimo Hawk)はアスコットゴールドカップやグッドウッドカップに勝った一流のステイヤーだったが、凱旋門賞は距離が短すぎるとみなされて人気はなかった。 スタートしてすぐに先頭を切ったのは英国ダービー馬の(Roberto)で、レコード決着だった前年よりも5秒も早い超ハイペースをつくりだした。 ハードツービートは絶好の位置取りで直線に入ったが、思ったよりも伸びなかった。 勝ったのは牝馬の(San San)で、勝ちタイムは前年のミルリーフと同じ2分38秒30だった。 サンサンは日本人に買われ、北海道で繁殖牝馬となった。 ハードツービートは8着に敗れたが、翌年も凱旋門賞に挑んで3着になった。 メジロムサシとエリモホークは着外だった。 このレースに出た馬はほかにも、シャラプール(Sharapour)、プルバン(Pleben)、サンシー(Sancy)が日本に種牡馬として輸入された。 イギリス女王の臨席 [ ] 1974年の凱旋門賞には、イギリスのエリザベス女王が有力馬の馬主としてやってきた。 女王の馬が凱旋門賞に出るのは、即位以来初めてのことだった。 この時勝った(Dahlia)は凱旋門賞を避けてアメリカに行く事になったので、ハイクレアにも十分勝機があると思われた。 これを迎えるフランス勢では前年の三冠牝馬(Allez France)で、アレフランスは前年に凱旋門賞でも2着していた。 この頃のイギリスは、いわゆるとオイルショックのダブルパンチで経済的にどん底の状態にあったが、ロンシャン競馬場にやってきたイギリスの大応援団は、そんなことはみじんも感じさせない様子で気前よく馬券を買った。 ハイクレアは、レースの中盤でアレフランスの僚馬パウリスタ(Paulista)の斜行をもろに受け、8馬身の不利を被って後方に下がり、優勝圏外になってしまった。 一方アレフランスは直線入り口で早くも抜けだすと、残り700メートルを懸命に走って後続の追撃を頭差だけしのいで勝った。 アレフランスは1960年に世界最強馬の座を得たシーバードの子で、凱旋門賞父娘制覇となった。 ハイクレアは20頭中最下位に終わった。 2006年に凱旋門賞史上初めての失格馬となった日本のはハイクレアのひ孫にあたる。 アレッジドの連覇 [ ] 1977年と1978年に凱旋門賞を連覇したアレッジド(Alleged)は、1955年と1956年に連覇したリボーのひ孫だった。 アレッジドにとって不運だったのは、シーバード、ミルリーフ、ニジンスキーのような過去の名馬と比べて、対戦相手に恵まれなかったことだった。 それぞれの年にアレッジドの2着に入ったバルメリーノ()とトリリヨン()は凱旋門賞のあとヨーロッパやアメリカを転戦したが、3着や4着どまりだった。 史上最強馬ダンシングブレーヴと新興マネーの台頭 [ ] サウジアラビアの王子の所有馬(Dancing Brave)は、2歳の頃からイギリスで注目されていた。 重賞に出走したことすらないにも関わらず、2000ギニーでは本命になって順当に勝ち、ダービーでも圧倒的な1番人気になった。 ところが、後方に待機したダンシングブレーヴは混戦を抜け出すのが遅れ、猛烈な追い込みにも関わらず半馬身だけ届かず2着に敗れた。 ダンシングブレーヴは凱旋門賞に向かい、前哨戦を10馬身差で圧勝してみせた。 凱旋門賞には、イギリスのシャーラスタニのほか、フランスの(Bering)、西ドイツの(Acatenango)、アイルランドの(Triptych)、日本のダービー馬、チリのオークス馬マリアフマタ(Maria Fumata)など各国のダービー馬及びクラシックホースが揃った。 1960年にシーバードが世界最強と呼ばれた年に匹敵する層の厚い一流馬を相手に、ダンシングブレーヴは直線まで最後方に待機していた。 直線に入るとダンシングブレーヴは並み居る強豪を外から一気に抜きにかかり、最後は1馬身半差をつけてレコード勝ちをおさめた。 この結果、ダンシングブレーヴはで過去最高となる141ポンドを与えられ、世界の競馬史上最強馬として認められた。 ダンシングブレーヴはこの後、アメリカで新しく誕生したばかりのに遠征したが、生涯最悪の成績となる4着に敗れた。 ダンシングブレーヴは引退して種牡馬となったが、すぐに重大な病気にかかっていることが判明し、種牡馬失格となった。 このダンシングブレーヴを購入したのはで、ダンシングブレーヴは日本で治療を受けて立ち直り、多くの活躍馬を出した。 というのも、この年の夏にヨーク競馬場に新設された高額賞金のに対抗するためであった。 この新競走は、タバコ大手の社をスポンサーにして多額の賞金を提供し、初年度から18連勝中の名馬(Brigadier Gerard)とダービー馬ロベルトを呼び寄せるのに成功していた。 両レースの間隔は3週間ほどしかなく、アスコット競馬場では有力馬が奪われることを警戒したのだった。 イギリスの大レースの賞金が引き上げられるのを、世界最高の競走を自負する凱旋門賞の主催者が黙って見ているわけにはいかなかった。 しかしフランスでは、イギリスのように酒やタバコの企業がスポンサーになることは法律で禁止されていた。 数年かけてスポンサーを探したが、フランスの企業はギャンブル業界のスポンサーになることに二の足を踏み、最終的に交渉できたのはイギリスにある国際的な旅行業界の大手、トラストハウスフォート社だった。 1982年の夏、30分の会談の末に同社は毎年10万ポンドを超すスポンサー料を支払うことで合意した。 1984年にはアメリカでブリーダーズカップが創設された。 この新しい競走は、アメリカ国内のすべての種牡馬から1回分の種付料を登録料として集めることで、巨額の賞金を確保することに成功した。 この登録料を納めない種牡馬の子はブリーダーズカップに出ることができないため、ほとんどの種牡馬の所有者はこの登録料を支払った。 この競走は一日ですべてのカテゴリーのチャンピオンを決めるためのレースを続けて行い、なかでも「クラシック」は世界最高額の300万ドル(当時のレートで約7. 5億円)を提供したし、ヨーロッパから一流馬を集めて行われる「ターフ」も巨額の賞金を提供した。 かつて隆盛したワシントンDCインターナショナルはすっかり廃れてしまい、やがて廃止となった。 1981年に日本で創設されたは、圧倒的な資金力を背景にした高額賞金を売りにして、アメリカ、ヨーロッパ、オセアニアから一流馬を集めることに成功した。 アメリカでブリーダーズカップが創設された1984年には、ジャパンカップの総賞金は1億4000万円を超えていた。 ジャパンカップは、かつてのフランスと同じようにパリミチェル方式による馬券の売り上げを資金源としていて、ヨーロッパのようにスポンサーに頼らずとも世界有数の高額賞金を提供することができた。 1988年に創設された香港国際カップや、オーストラリアのコックスプレートも賞金を積み増しして、凱旋門賞に引けをとらない高額賞金を実現した。 しかし、極めつけは1996年に始まったドバイワールドカップで、オイルマネーを背景に、ブリーダーズカップを上回る600万ドルの賞金を出し、他の追随を許さない世界最高賞金の競走となった。 ドバイワールドカップに刺激された日本では、2000年にジャパンカップの総賞金を一挙に2億円以上引き上げて、4億7600万円とした。 1着賞金だけでも2億5000万円である。 凱旋門賞では、1999年から新たに高級ホテルグループのルシアン・バリエール()とスポンサー契約を締結し、2000年には1050万フラン(約1. 7億円)の総賞金を用意した。 しかし各国の高額賞金争いはとどまることを知らず、2006年にはブリーダーズカップの総賞金がドバイワールドカップに迫る500万ドル(約5. 8億円)になった。 2008年、ルシアン・バリエールに替わって新たに凱旋門賞のスポンサーになったのは競馬馬事クラブだった。 カタールは、凱旋門賞当日にアラブ馬による世界最高の競走を開催することを条件に、巨額の資金を提供することに同意した。 この結果凱旋門賞の賞金は従前の倍、400万ユーロ(6. 5億円)になり、ドバイワールドカップには及ばないものの、芝の競走としては世界一位となった。 しかしその後も各国の賞金争いは続いており、2010年にはドバイワールドカップの賞金が1000万ドル(8. 4億円)、オーストラリアのメルボルンカップは620万豪ドル(約5億円)の賞金を出すことになった。 凱旋門賞は、ヨーロッパ経済の不調からユーロ安となり、相場の変動のため一位の座から転落した。 2012年の時点では、芝コースではジャパンカップ、メルボルンカップに次ぐ3位となっている。 これに対抗し、凱旋門賞では2018年までに賞金を530万ユーロまで引き上げると発表した。 凱旋門賞にとって救いだったのは、これらの後発の高額賞金競走が、すべて凱旋門賞とは日程的に競合しない点にあった。 イギリスのイベントは夏に行われるし、アメリカやアジアの高額賞金競走は凱旋門賞よりも何週間かあとに設定され、凱旋門賞の上位馬を呼び寄せることで権威付けしようとしていたし、ドバイワールドカップはヨーロッパのオフシーズンにあたる3月に開催された。 しかし、2011年にイギリスのチャンピオンステークスが従来より施行時期を早めて10月中旬に開催することになると、凱旋門賞の主催者はこれにはっきりと抗議した。 それまで、凱旋門賞に出走したヨーロッパの一流馬は、その後はアメリカのブリーダーズカップへ転戦するか、日本のジャパンカップを目指すか、ヨーロッパにとどまってチャンピオンステークスに出走するか選ぶことができた。 しかし、新しい日程のもとでは、チャンピオンステークスと凱旋門賞の両方に出走することは極めて難しかった。 しかもチャンピオンステークスは、凱旋門賞と同じカタールをスポンサーに据えて130万ポンド(約1. 8億円)の高額賞金を出すことで、ヨーロッパの一流馬を凱旋門賞とチャンピオンステークスとで奪い合いになるのは明らかだった。 2012年のシーズンのはじめに、フランス、イギリス、アイルランドの競馬主催者が協調して大レースの施行日を調整し、アメリカやアジアに一流馬を奪われるのを防ぐとの発表を行われた。 そのため、2013年以降に各競走の施行日が変更になる可能性がある。 2013年には総賞金が480万ユーロになり、2014年には500万ユーロに引き上げられた。 2018年には530万ユーロまでに増額が予定されている。 530万ユーロまで増額されれば、を超える「芝レース最高賞金レース」となる。 シーザスターズのGI年間6連勝 [ ] 2009年は歴史的名馬と呼ばれたアイルランドのシーザスターズがロンシャンに乗り込んできた。 この年の春にシーザスターズは、ナシュワン以来となる英国2冠を達成し、その後も短期間で大レース(、、)を次々に制し、GI5連勝を達成して凱旋門賞へ駒を進めた。 引退レースとなったこのレースで圧倒的1番人気に押されたシーザスターズは、最後の直線で内から鋭く伸びて勝利。 GI年間6連勝という偉業を成し遂げて引退した。 トレヴ・エネイブルの連覇 [ ] 当レースは斤量的にも牝馬が有利 特に3歳牝馬が斤量54. 5kgであり、59. 5kgを背負う4歳以上牡馬と比べて5kg差が発生する であるが、牝馬による連覇は過去1936年~37年のの1例のみであり、コリーダ以外に20世紀中に達成する牝馬は出なかった。 21世紀に入って2013年~14年にかけてが、2017年~18年にかけてが連覇を達成した。 両馬は翌年にも、牡馬も含めて未踏の3連覇に挑むために出走した。 しかし、2015年のトレヴはの4着、2019年のエネイブルはゴール前でに差されて2着に敗れ、3連覇はならなかった。 出来事 [ ]• - 1位入線のカダム(Cadum)進路妨害により2着降着、プリオリ(Priori)が繰上がり優勝。 - 凱旋門賞史上最少の7頭立てのレースとなる。 - 凱旋門賞史上最大の6馬身差で(Ribot)が連覇。 16戦無敗で引退レースを飾った。 - 1位同時入線のミッドナイトサン(Midnight Sun)が進路妨害により2着降着、同時入線の(Saint Crespin)が優勝。 - 1956年のリボーと並ぶ6馬身差で Sea Bird が優勝。 - 凱旋門賞史上最多の30頭立てのレースとなる。 - 無敗で11連勝中の(Nijinsky)が(Sassafras)に敗れる。 - ドイツ調教馬として初めてシュターアピール(Star Appeal)が優勝。 - ニュージーランドからの遠征馬バルメリーノ(Balmerino)が2着。 初の欧州調教馬以外の連対となる。 - リボーのひ孫である(Alleged)が史上6頭目の連覇。 - 史上初めて牝馬が1〜4着までを独占、5年連続で牝馬が優勝。 - 連覇がかかっていた1位入線の(Sagace)が進路妨害により2着降着、被害馬だった2位入線の(Rainbow Quest)が繰り上がり優勝。 - 史上初の母子制覇、1980年の優勝馬(Detroit)の子(Carnegie)が優勝。 - (Peintre Celebre)が2着に5馬身差をつけてレコード勝ち。 - 日本調教馬が2着。 2度目の欧州調教馬以外の連対となる。 - 1956年のリボー、1965年のシーバードと並ぶ6馬身差で Sakhee が優勝。 - 3位入線の日本調教馬が使用禁止薬物検出 により。 - と3着同着とされたイッツジーノを調教しているパヴェル・ヴォヴチェンコ(Pavel Vovcenko)調教師が、自身の馬はソルジャーオブフォーチュンより先着していたとして同着判定に異議申し立て。 結果的に着順は変わらなかった。 - 史上2頭目の母子制覇、1993年の優勝馬(Urban Sea)の子(Sea the Stars)が優勝。 - 日本調教馬が2着。 3 度目の欧州調教馬以外の連対となる。 7位入線のプラントゥール(Planteur)が2頭の進路を妨害したため失格。 - (Danedream)が2着と5馬身差をつけてレコード勝ち。 ドイツ調教馬としては36年ぶり2頭目の優勝。 - 日本調教馬が2着。 4 度目の欧州調教馬以外の連対となる。 - 日本調教馬オルフェーヴルが2着。 5 度目の欧州調教馬以外の連対となる。 - が36年ぶり6頭目の2連覇。 - が4年ぶり7頭目の2連覇。 開催競馬場が異なる凱旋門賞を連覇したのは史上初 2017年は、2018年は。 歴代優勝馬 [ ] 第21回-第22回 1943年-1944年 はル・トランブレー競馬場・芝2300m、第95回-第96回 2016年-2017年 は・芝2400mにて開催。 それ以外は全てロンシャン競馬場 2018年より ・芝2400mにて開催。 回数 施行日 調教国・優勝馬 日本語読み 性齢 タイム 優勝騎手 管理調教師 第1回 Comrade カムラッド 牡3 2:39. 00 F. ブロック P. ギルピン 第2回 Ksar 牡3 2:32. 96 G. スターン W. ウォールトン 第3回 Ksar クサール 牡4 2:38. 78 F. ブロック W. ウォールトン 第4回 Parth パース 牡3 2:38. 26 F. オニール J. クロフォード 第5回 Massine マシーヌ 牡4 2:40. 98 A. シャープ E. カニントン 第6回 Priori プリオリ 牡3 2:33. 96 M. アルマン P. カーター 第7回 10月3日 Biribi ビリビ 牡3 2:32. 96 D. トルテローロ J. トルテローロ 第8回 10月9日 Mon Talisman モンタリスマン 牡3 2:32. 90 C. サンブラ F. カーター 第9回 10月7日 Kantar カンタル 牡3 2:38. 98 A. エスリン R. カーヴァー 第10回 Ortello 牡3 2:42. 94 P. カプリオーリ W. カルテル 第11回 10月5日 Motrico モトリコ 牡5 2:44. 98 M. フリュインショルツ M. ドクイセン 第12回 10月4日 Pearl Cap パールキャップ 牝3 2:38. 96 C. サンブラ F. カーター 第13回 10月9日 Motrico モトリコ 牡7 2:44. 66 C. サンブラ M. ドクイセン 第14回 10月8日 Crapom クラポム 牡3 2:41. 76 P. カプリオーリ F. レゴーリ 第15回 10月7日 Brantome 牡3 2:41. 82 C. ブイヨン L. ロベール 第16回 10月6日 Samos サモス 牝3 2:42. 64 W. シブリット F. カーター 第17回 10月4日 Corrida 牝4 2:38. 72 C. エリオット J. ワッツ 第18回 10月3日 Corrida コリーダ 牝5 2:33. 88 C. エリオット J. ワッツ 第19回 10月9日 Eclair au Chocolat エクレールオーショコラ 牡3 2:39. 82 C. ブイヨン L. ロベール 中止 中止 第20回 10月5日 Le Pacha ルパシャ 牡3 2:38. 26 P. フランコロン J. カニントン 第21回 10月4日 Djebel 牡5 2:37. 96 J. ドワイヤベール C. サンブラ 第22回 10月3日 Verso ヴェルソ 牡3 2:23. 2 G. デュフォレ C. クルー 第23回 Ardan アルダン 牡3 2:35. 0 J. ドワイヤベール C. サンブラ 第24回 Nikellora ニケローラ 牝3 2:34. 82 W. ジョンストン R. ペラ 第25回 10月6日 Caracalla カラカラ 牡4 2:33. 32 C. エリオット C. サンブラ 第26回 10月5日 Le Paillon ルパイヨン 牡5 2:33. 42 F. ロケッティ W. ヘッド 第27回 10月3日 Migoli ミゴリ 牡4 2:31. 60 C. スマーク F. バターズ 第28回 10月9日 Coronation 牝3 2:33. 22 R. ポワンスレ C. サンブラ 第29回 10月8日 Tantieme 牡3 2:34. 22 J. ドワイヤベール F. マテ 第30回 10月7日 Tantieme タンティエーム 牡4 2:32. 84 J. ドワイヤベール F. マテ 第31回 10月5日 Nuccio ヌッチョ 牡4 2:39. 84 R. ポワンスレ 第32回 10月4日 La Sorellina ラソレリーナ 牝3 2:31. 82 M. ラローン E. ポレ 第33回 10月3日 Sica Boy シカボーイ 牡3 2:36. 34 W. ジョンストン P. ペラ 第34回 10月9日 Ribot 牡3 2:35. 68 E. カミーチ U. ペンコ 第35回 10月7日 Ribot リボー 牡4 2:34. 76 E. カミーチ U. ペンコ 第36回 10月6日 Oroso オロソ 牡4 2:33. 42 S. ブーランジェ D. レスカル 第37回 10月5日 Ballymoss 牡4 2:37. 91 A. ブリースリー 第38回 10月4日 Saint Crespin 牡3 2:33. 30 G. ムーア A. ヘッド 第39回 10月9日 Puissant Chef ピュイッサンシェフ 牡3 2:43. 96 M. ガルシア C. バーソロミュー 第40回 10月8日 Molvedo モルヴェド 牡3 2:38. 44 E. カミーチ A. マッギ 第41回 10月7日 Soltikoff ソルティコフ 牡3 2:30. 94 M. デパルマ R. ペラ 第42回 10月6日 Exbury エクスビュリ 牡4 2:34. 98 J. ドフォルジュ G. ワトソン 第43回 10月4日 Prince Royal プリンスロイヤル 牡3 2:35. 50 R. ポワンスレ G. ブリッジラン 10月3日 Sea-Bird 牡3 2:35. 52 T. グレノン C. ポレ 第45回 10月9日 Bon Mot ボンモー 牡3 2:39. 8 W. ヘッド 第46回 10月8日 Topyo トピオ 牡3 2:38. 2 W. パイアーズ C. バーソロミューJr. 第47回 10月6日 Vaguely Noble 牡3 2:35. 2 W. ウィリアムソン E. ポレ 第48回 10月5日 Levmoss レヴモス 牡4 2:29. 0 W. ウィリアムソン S. マグラー 第49回 10月4日 Sassafras 牡3 2:29. 7 F. マテ 第50回 10月3日 Mill Reef 牡3 2:28. 3 G. ルイス 第51回 10月8日 San San 牝3 2:28. 3 F. ヘッド A. ペナ 第52回 10月7日 Rheingold ラインゴールド 牡4 2:35. 8 B. ヒルズ 第53回 10月6日 Allez France 牝4 2:36. 9 Y. サンマルタン A. ペナ 第54回 10月5日 Star Appeal シュターアピール 牡5 2:33. 6 G. スターキー T. グリーパー 第55回 10月3日 Ivanjica イヴァンジカ 牝4 2:39. 4 F. ヘッド A. ヘッド 第56回 Alleged 牡3 2:30. 6 L. ピゴット M. オブライエン 第57回 Alleged アレッジド 牡4 2:36. 5 L. ピゴット M. オブライエン 第58回 10月7日 Three Troikas スリートロイカス 牝3 2:28. 9 F. ヘッド 第59回 10月5日 Detroit 牝3 2:28. 0 O. ドゥイブ 第60回 10月4日 Gold River 牝4 2:35. 2 G. ムーア A. ヘッド 第61回 10月3日 Akiyda アキイダ 牝3 2:37. 0 Y. サンマルタン F. マテ 第62回 10月2日 All Along 牝4 2:28. 1 P. ビアンコーヌ 第63回 10月7日 Sagace 牡4 2:39. 1 Y. サンマルタン P. ビアンコーヌ 第64回 10月6日 Rainbow Quest 牡4 2:29. 5 P. エデリー J. ツリー 第65回 10月5日 Dancing Brave 牡3 2:27. 7 P. エデリー G. ハーウッド 第66回 10月4日 Trempolino トランポリーノ 牡3 2:26. 3 P. エデリー 第67回 10月2日 Tony Bin 牡5 2:37. 3 J. リード L. カミーチ 第68回 10月8日 Carroll House 牡4 2:30. 8 M. ジャーヴィス 第69回 10月7日 Saumarez 牡3 2:29. 8 N. クレマン 第70回 10月6日 Suave Dancer 牡3 2:31. 4 J. ハモンド 第71回 10月4日 Subotica スボーティカ 牡4 2:39. 0 A. ファーブル 第72回 10月3日 Urban Sea 牝4 2:37. 9 J. レボルド 第73回 10月2日 Carnegie 牡3 2:31. 1 T. ジャルネ A. ファーブル 第74回 10月1日 Lammtarra 牡3 2:31. 8 第75回 10月6日 Helissio 牡3 2:29. 9 第76回 10月5日 Peintre Celebre 牡3 2:24. 6 A. ファーブル 第77回 10月4日 Sagamix 牡3 2:34. 5 A. ファーブル 第78回 10月3日 Montjeu 牡3 2:38. 5 M. キネーン J. ハモンド 第79回 10月1日 Sinndar 牡3 2:25. 8 第80回 10月7日 Sakhee 牡4 2:36. 1 L. デットーリ S. ビン・スルール 第81回 10月6日 Marienbard 牡5 2:26. 7 L. デットーリ S. ビン・スルール 第82回 10月5日 Dalakhani 牡3 2:32. 3 第83回 10月3日 Bago 牡3 2:25. 0 J. ピース 第84回 10月2日 Hurricane Run 牡3 2:27. 4 A. ファーブル 10月1日 Rail Link 牡3 2:26. 3 A. ファーブル 10月7日 Dylan Thomas 牡4 2:28. 5 K. ファロン 10月5日 Zarkava 牝3 2:28. 8 C. スミヨン A. 3 M. キネーン J. オックス 第89回 10月3日 Workforce 牡3 2:35. 3 第90回 10月2日 Danedream 牝3 2:24. 49 10月7日 Solemia 牝4 2:37. 68 C. ラフォンパリアス 10月6日 Treve 牝3 2:32. 04 T. ジャルネ C. ヘッド 10月5日 Treve トレヴ 牝4 2:26. 05 T. ジャルネ C. ヘッド 10月4日 Golden Horn 牡3 2:27. 23 L. デットーリ 10月2日 Found 牝4 2:23. 61 R. ムーア A. オブライエン 第96回 10月1日 Enable 牝3 2:28. 69 L. デットーリ J. ゴスデン 第97回 10月7日 Enable エネイブル 牝4 2. 24 L. デットーリ J. ゴスデン 10月6日 Waldgeist 牡5 2:31. 97 A. ファーブル 優勝馬の傾向 [ ] 創設から2019年までの98回中のもの。 調教国 [ ] 最も優勝回数の多い国はフランスである。 - 67回• - 15回• - 6回• ただし、ゴドルフィンが馬主で英国とUAEの2箇所で調教師をしているサイード・ビン・スルール調教馬による優勝例は3回ある。 欧州馬以外の最高着順は2着で、日本から出走した、、 (2回・2012,2013)。 他に、転厩により英国調教馬となっているが、オセアニアの主要な競走を勝利しているニュージーランドからの遠征馬バルメリーノが2着に来ている。 馬齢 [ ] 最も優勝回数が多いのは3歳馬である。 末尾の括弧囲みは牝馬の優勝回数。 3歳 - 60頭(13頭)• 4歳 - 29頭(10頭)• 5歳 - 8頭(1頭)• 6歳 - 0頭• 7歳 - 1頭 主な記録 [ ] 最多勝利 [ ]• 騎手(6勝)• 1995年、2001年、2002年、2015年、2017年、2018年• 調教師(8勝)• (1987年、1992年、1994年、1997年、1998年、2005年、2006年、2019年)• 馬主(6勝)• (1936年、1937年、1942年、1944年、1946年、1949年)• 1985年、1986年、2006年、2010年、2017年、2018年 連覇 [ ]• 競走馬• (Ksar) - 1921年・1922年 初の連覇。 コリーダ(Corrida) - 1936年・1937年 初の牝馬による連覇。 (Tantieme) - 1950年・1951年• (Ribot) - 1955年・1956年• (Alleged) - 1977年・1978年• (Treve) - 2013年・2014年• (Enable) - 2017年・2018年• 2勝した競走馬• モトリコ(Motrico) - 1930年と1932年に優勝。 騎手 同一競走馬騎乗によって連覇を達成している場合、当該年度を太字にし、その後ろに括弧で騎乗馬を記載• パット・エデリー - 1985年から1987年にかけて3連勝。 - 1996年から1998年にかけて3連勝。 シャルル・サンブラ - 1931年・1932年• チャールズ・エリオット - 1936年・1937年 コリーダ• ジャック・ドワイヤベール - 1950年・1951年 タンティエーム• エンリコ・カミーチ - 1955年・1956年 リボー• ウィリアム・ウィリアムソン - 1968年・1969年• - 1977年・1978年 アレッジド• - 2001年・2002年及び 2017年・2018年 エネイブル• ティエリ・ジャルネ - 2013年・2014年 トレヴ 親子制覇 [ ]• 父子制覇• 父ビリビ() - 子ルパシャ()• 父() - 子()• 父(・) - 子モルヴェド()、プリンスロイヤル()• 父() - 子()• 父() - 子()• 父() - 子()• 母子制覇• 母() - 子()• 母() - 子() その他 [ ]• レースレコード - 2:23. 61(第95回優勝馬・ファウンド)• 2着との最大着差 - 6馬身(第35回優勝馬・リボー、第44回優勝馬・シーバード、第80回優勝馬・サキー)• 最高齢勝利 - 7歳(第13回優勝馬・モトリコ) 主なステップレース [ ] 競走名 格付 施行競馬場 施行距離 出走資格 G1 芝11f211y 3歳以上 G1 芝10f 3歳以上 G1 芝2400m 3歳以上 G2 パリロンシャン競馬場 芝2400m 3歳 G2 パリロンシャン競馬場 芝2400m 4歳以上 G1 パリロンシャン競馬場 芝2400m 3歳以上牝馬 その他 [ ] 競走名 格付 施行競馬場 施行距離 出走資格 G3 芝11f5y 3歳以上 日本との関連 [ ] 日本での評価 [ ] 日本では、世界的な国際レースとして紹介されてきた。 その舞台を目指す事こそが大和魂だと思います。 2003年からは出走を促すために褒賞金が設定された(詳しくはを参照)。 その年の凱旋門賞優勝馬がジャパンカップに出走したのは過去7回(下記)。 まだ勝ち馬は出ていない。 その年の凱旋門賞優勝馬のジャパンカップでの人気と着順• 1988年 トニービン(2番人気)5着• 1989年 キャロルハウス(7番人気)14着• 1993年 アーバンシー(10番人気)8着• 1996年 エリシオ(1番人気)3着• 1999年 モンジュー(1番人気)4着• 2011年 デインドリーム(1番人気)6着• 2012年 ソレミア(7番人気)13着 日本からの挑戦 [ ] 詳細は「」を参照 日本人騎手の成績 [ ] 日本調教馬以外での騎乗成績 回数 施行日 騎乗馬名 アルファベット表記 性齢 騎手名 管理調教師 着順 第69回 1990年10月7日 Assatis 牡3 G. ハーウッド 12着 第73回 1994年10月2日 White Muzzle 牡4 武豊 6着 第73回 1994年10月2日 ダンシェンヌ Dancienne 牝4 E. ルルーシュ 20着 第80回 2001年10月7日 サガシティ Sagacity 牡3 武豊 A. ファーブル 3着 第98回 2019年10月6日 ソフトライト Soft Light 牡3 武豊 6着 凱旋門賞優勝馬の輸入 [ ] 日本では、必ずしもヨーロッパで高い評価を得られた場合でなくとも凱旋門賞の優勝馬には大きな注目が集まってきた。 以降、までに15頭が種馬として輸入されている(1年間のみのリース種牡馬1頭、牝馬1頭を含む)。 特に以降は10年間で6頭が種牡馬として日本に輸入される人気だった。 これらのうち1959年優勝のや優勝のは種牡馬としての重大な欠陥 をもって輸入されたが、日本での治療により種牡馬能力を回復して優勝馬を複数出すほどの好成績を残した。 最良の成績を残したのは1988年優勝ので、1994年に日本のとなった。 また、1994年優勝のは日本と南半球を行き来するとなってオセアニアで活躍馬を輩出している。 また牝馬の優勝馬はがただ1頭輸入され、重賞勝ち馬2頭を産んでいる。 一方、ラインゴールド、プリンスロイヤルのように不振だったものもいる。 中でも1995年優勝のは44億円と言う巨額のが組まれて輸入されたものの、大きく期待に反する種牡馬成績に終わった。 このラムタラのほかボンモー、、、が再輸出された。 トピオはもっぱら三冠馬の母の父として名を残すにとどまっている。 テレビ中継 [ ] 日本におけるテレビ中継権は長らくが持っていたが、で後日『』において放送するような扱いだった。 しかし1999年、が出走したことにより、初めての生中継に踏み切った。 2006年にディープインパクトが挑戦した際には日本の放送史上初めて、地上波()での海外競馬の全国生中継が行われた。 2007年以降は再び後日放送となっている。 2007年から、民放で長く競馬中継に積極的に取り組んでいたが中継権を取得。 しかし放送は関西ローカルとなり、放送時間も、時間帯の関係により生中継ではなくレース1 - 2時間後の録画放送となっている。 が出走した2012年以降は、日本馬が出走するレースに限り関西テレビと同じく長く競馬中継に取り組んでいるとの共同制作で全国ネットで放送される。 2012年・2016年からは『』、2013年・2014年は『』の番組内で中継を行う。 実況は2012年が(関西テレビアナウンサー)、2013年が、2014年が、2016年・2018年〜2019年が(以上、フジテレビアナウンサー)、2015年・2017年が(関西テレビアナウンサー)が担当している。 また、BSテレビの中継権はの関連団体が運営するが有しており、海外競馬のインターネット馬券発売も関係していることから、近年はノースクランブル放送を行っており実況はが担当している。 CSではから(2011年までは、2012年は)でも「みんなのフランスKEIBA」と題して中継放送を行っている。 または同年から競馬中継が始まったで『』の枠を拡大、当競走の生中継を行なっている。 参考文献 [ ]• アーサー・フィッツジェラルド、マイケル・セス・スミス『凱旋門賞の歴史 1920〜1951』草野純訳、財団法人競馬国際交流協会、1995年。 アーサー・フィッツジェラルド『凱旋門賞の歴史 1952〜1964』草野純訳、財団法人競馬国際交流協会、1996年。 アーサー・フィッツジェラルド『凱旋門賞の歴史 1965〜1982』草野純訳、財団法人競馬国際交流協会、1997年。 ギイ・チボー『フランス競馬百年史』クロード・ロベルジュ監修、真田昌彦訳、財団法人競馬国際交流協会、2004年。 ロジャー・ロングリグ『競馬の世界史』原田俊治訳、日本中央競馬会弘済会、1976年。 佐藤繁信『ヨーロッパに於ける馬政概況 -フランスの馬政を中心として』社団法人帝国競馬協会〈競馬に関する調査報告〉、1935年。 佐藤繁信『ヨーロッパに於ける競馬事業序説 -英、仏の競馬を中心として』社団法人帝国競馬協会〈競馬に関する調査報告〉、1935年。 大串久美子『華麗なるフランス競馬』駿河台出版社、2011年。 『実戦・名馬の血統』明文社、1970年。 『競馬百科』日本中央競馬会、みんと、1976年。 ケン・マクリーン『クラシック馬の追求』山本一生訳、競馬通信社、1991年。 『海外競馬完全読本』海外競馬編集部、東邦出版、2006年。 岡田大『凱旋門賞とは何か』宝島社新書、2013年。 注釈・出典 [ ] 注釈 [ ]• "The Arc is the race to win in France. Every trainer wants to win it" -• 「国際的にもこの競走の勝馬からは最高の繁殖馬が続出したので、サラブレッドの最高の競走として認知されるに至った」• 一般に、競馬の競走は距離別にスプリント(1200メートル前後)、マイル(1600メートル前後)、中距離(2000メートル前後)、中長距離(2400メートル前後)、長距離(これ以上)の5種類に大別されている。 つまり、「中長距離」は「中距離と長距離」を(必ずしも)意味するものではない。 "Europe's final big championship race of the season" -• "one of the biggest races in the European calendar" -• この距離はでは1半(12)に相当し、英国ダービーをはじめヨーロッパで重要な距離とされてきた。 現代の基準では「中長距離」に分類され、「クラシック・ディスタンス」や「選手権距離」などとも呼ばれている。 このため、から始まったに当初は参加できなかったが、、本競走の主催元のフランスギャロや当時のスポンサーであるルシアン・バリエールの訴えにより、加入が認められた。 なお、が中止されて以降再開されていない。 "dont 4 millions pour la course du Qatar Prix de l'Arc de Triomphe"、L'evenementより - 2013年3月21日閲覧。 2012年に(Frankel)が147ポンドを獲得し、シーバードの記録を更新した。 インターナショナル・クラシフィケーション(2004年にワールド・サラブレッド・ランキングと改称。 いわゆる公式レーティング)により、当時の最高評価である141ポンドを与えられた。 なお、2013年1月のにより138ポンドに引き下げられ、同時にフランケル(140ポンド)に1位を奪われた。 イギリス人といっても国籍だけの話で、彼は生まれも育ちもフランスである。 名目上の父親はイギリス人だが、実父はフランス人だった。 一度もフランスを出ることなく生涯を送った。 陸軍の演習で踏み固められるため、晴天では硬すぎ、雨天では泥沼となって、人馬にとって危険であった。 以前から春の敗者限定競走として「凱旋門賞」という名前の競走が行われていた。 一方、秋のグラディアトゥール賞の開催日には「ナンテール賞」という敗者限定競走があったが、これが春に移動となって、従前の「凱旋門賞」のかわりとなった。 カムラッドはイギリス産のサラブレッドで、馬主もイギリス人の調教師が兼ねていたが、2歳のときに所有権の半分をフランス人のエヴルモン・ド・サンタラリが購入してる。 したがって完全な意味での「外国からの遠征馬」とは言い難い。 この年のパリ大賞には、英国ダービーを制したスパイオンコップ()が出走して人気を集めたが、スパイオンコップが各馬のマークを受けている間に、スパイオンコップと同厩馬で人気薄のカムラッドが逃げ切ってしまった。 英国ダービー3着のレモノラ(Lemonora)が優勝した。 クサールは着外だった。 このパリ大賞には皇太子時代のが臨席している。 マンチェスター・ノベンバーハンデキャップの優勝馬ポムドテール(Pomme de Terre)• ロイヤルハントカップの優勝馬で、倍率は約7倍だった。 パースは英国ダービー3着馬。 馬主はフランス在住のアメリカ人A・K・マコーマーだった。 ダービー卿は第1回に英国オークス馬を含む2頭を登録したが結局出走させず、6年目には英国ダービー馬を登録したが凱旋門賞当日の4日前に取り消した。 正確には、ブサックはもう1頭、ジョック(Jock)を出走させており、馬券は一人の馬主が複数の競走馬をエントリーした場合はこれをセットで発売(カップル)するため(馬主が八百長をやってわざと有力馬のほうを負けさせ、もう一方の馬券で不正に儲けるのを防ぐためである)、ジェベルとジョックのカップル馬券が1. 8倍の1番人気となる。 ジョックはジェベルほどではないものの、この年ロンシャンで開かれたドーヴィル大賞など5勝をあげていた。 ダービー卿の競馬業務責任者であるサンソヴール侯が名義を貸していた。 正確には、ルパシャと同厩舎のマシノールがセットで1. 8倍、ジェベルと同厩舎のティフィナールがセットで2. たとえば競馬日刊紙のパリ・スポールは、従来のコラムをドイツ語で見出しが書かれた予想欄に変えたのだが、これが原因で戦後に廃刊となった。 この第1回キング・ジョージ6世ステークスはスヴレンが勝った。 約20万フランの生産者賞を含む。 登録料は文字通りレースに登録した馬が支払うもので、これを集めて賞金の一部とするものである。 つまり、レースの直前になるまでその総額は確定しない。 1949年の場合、最終的な1着賞金は2985万5000フランだった。 故障やさまざな理由でこれらの多くは最終的には凱旋門賞には出走できなかった。 1949年の凱旋門賞に出走した馬のうち、産地も調教地も外国というのは、結局アイルランドの二冠馬ボーサブルール(Beau Sabreur)とベルギーの二冠牝馬フリネット(Frinette)の2頭にとどまった。 この晩餐会はマルセル・ブサックによって企画された。 イギリスのジムクラック・ステークスには、優勝馬の所有者が年末に開かれる「ジムクラックディナー」という晩餐会でスピーチをするという伝統があり、ジムクラックステークスを勝ったブサックはこの伝統に感銘を受け、これを模して凱旋門賞前夜に晩餐会を開くことを長年夢見ていたのである。 オワーズはこの年のイタリアの競走馬のなかでトップクラスにはいたものの、トップではなかった。 オワーズのこの年の成績は、イタリアダービー、共和国大統領賞、ミラノ大賞、イタリアセントレジャーの全てで2着というものだった。 オワーズは現在では、後にヨーロッパを代表する大騎手となるレスター・ピゴットの凱旋門賞デビューの馬として知られている。 ズクロはレースの2日前にイギリスから飛行機でやってくることになっていたが、空港へ向かう馬運車が交通事故を起こすアクシデントがあった。 幸いにしてズクロには大事なく、プリモニションとズクロを載せた飛行機が2時間出発が遅延するだけで済んだ。 ニーデルレンダーはドイツダービーのほか、ウニオンレンネン、、に勝ち、ワシントンDCインターナショナルでも4着に好走していた。 この年のフランスダービーに勝ったシャマン(Chamant)は「戦後最も凡庸なフランスダービー馬の1頭」 とみなされていた。 ゴール前50メートルでミッドナイトサンがセントクレスピンに体当たりをして妨害していることが確認され、ミッドナイトサンは2着に降着となった。 登録料を含めた1着賞金は約5000万フランとなった。 「ヨーロッパとアメリカの主要な馬主が揃って最高の馬を出走させたのは、この競走の創設以来初めてのことだった」• 36年後の2001年にサキー(Sakhee)がこれと同じ6馬身を記録した。 タイムフォーム社によりレイティングは1947年からである。 凱旋門賞でニジンスキーに騎乗したのはレスター・ピゴット騎手だった。 日本の種牡馬にもこの登録料を納めるものが数頭でた。 2012年1月19日. 2012年10月9日閲覧。 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル 2011年11月18日. 2012年10月9日閲覧。 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル 2012年4月12日. 2012年10月9日閲覧。 当時の日本では禁止薬物ではなかったが、後に日本でも禁止薬物になった。 詳しくは参照。 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル 2008年10月30日. 2013年1月12日閲覧。 その年の凱旋門賞出走馬からのジャパンカップ優勝馬としては1995年、1997年、2002年がいる。 セントクレスピンはインポテンツ、ダンシングブレーヴはマリー病だった。 凱旋門賞の発走時間がの全国ネット番組(『』、『』)の放送時間帯にあたるため。 出典 [ ]• Racing Post 2017年10月4日閲覧• Racing Post 2017年10月4日閲覧• 、p66• 、p103• 、p9• 、p143• 、p160• 、p192• 、p118• 、p218• 、p230• 、p264• 、p262• 、p274• 、pp150-151• 、p25• 、p158• 、p29• 、p30• 、p72• 、p81• 、p200• 、p122• 、p205• - 本競走の名称の由来となる建築物• - 凱旋門賞と並ぶ欧州芝レース最大の競走の1つ。 - 凱旋門賞と並ぶ欧州芝レース最大の競走の1つ。 - の芝の最強馬決定戦。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキニュースには に関連するニュースのカテゴリがあります。 - 凱旋門賞のオフィシャルサイト• - フランス競馬の統括団体.
次の50倍 ジャパン 13. 00倍 ソットサス 15. 00倍 ガイヤース 17. 00倍 ワンダフルムーン 41. 00倍 凱旋門賞2連勝を成し遂げた最強牝馬「エネイブル🇬🇧」が引き続きオッズ1番手評価を受けております。 日本からは海外に拠点をおく「ディアドラ🇯🇵」が参戦! がんばってもらいたいですね!! ちなみに昨年の日本馬の凱旋門賞での成績はこちら。 入金は「入金」ページから指示に従っていけばできると思いますが、入金方法はこちらのページにもまとめましたので参考にしていただければ幸いです。 凱旋門賞への賭け方! ウィリアムヒルへ無料登録・入金を済ませたら、馬券を買ってみましょう! 海外ブックメーカーと聞くとちょっと構えてしまうかもしれませんが、馬券の買い方はとっても簡単です。 説明画面は去年2019年の凱旋門賞で買った時の画面になります。 まずは凱旋門賞のオッズ画面へ移動します。 すると凱旋門賞のオッズが画面に表示されます。 あとは賭けたい馬についているオッズをクリックし、金額を打ち込み、ベットを行えばOK! 00倍 ジャパン 13. 00倍 ロジシャン 15. 00倍 コントレイル 17. 00倍 ソットサス 21. 00倍 パッション 101. 00倍 こちらのオッズは優駿牝馬 オークス ・日本ダービーが始まる前のオッズです。 まだ出走馬は決まっておりませんし、これからドンドンオッズが変わっていくので、ぜひでリアルタイムでチェックしてみてくださいね。 ^^ オッズ1番手評価は凱旋門賞2連勝を成し遂げた最強牝馬「エネイブル🇬🇧」。 3連覇がかかった去年は、9番人気「ヴァルトガイスト🇬🇧」のゴール前強襲に合いまさかの2着に破れる大波乱の結果に…。 競馬に絶対はないのですね😂 今年は雪辱となるでしょうか!? 日本からはなんと「コントレイル」や「サリオス」、「デアリングタクト」など有力3歳馬もオッズに組み込まれております! もちろんまだまだ見込みでのオッズですが…。 なんと「マイラプソディ」も入ってますね💦 凱旋門賞への出走が高く見込まれる日本の馬は、海外で頑張る孤高のお姉さん「ディアドラ」や、2018年有馬記念の覇者「ブラストワンピース」と言ったところでしょうか。 ブラストワンピースは去年も出走しており、11着に敗れております。
次のエネイブルと遜色ない大きな歴史の壁を打ち破り、ヴァルトガイストが優勝 エネイブルの3連覇なるか、否か。 新装2回目の凱旋門賞当日を迎えたパリロンシャン競馬場の雰囲気は、その一点だけに集約されていた。 ただ、パリは前夜から当日の昼前まで、断続的な雨模様。 馬場の含水量を示す数値は不良に近い重(TRES SOUPLE)の4. 第1レースが終わった後のパドックに姿を現した、かつてトレヴで凱旋門賞3連覇に挑んだC. どの馬にも利をもたらさない馬場で、より高いフィジカルを求められるでしょう」 と馬場の傾向を分析していた。 実際、第1レースに騎乗した騎手たちは、口々に 「Not soft, but very sticky」 と印象を話す。 ソフトではなく粘る。 第1レース前に馬場を少し歩く機会を得た筆者も、芝ごとズリズリと脚がずれていくような、「滑る」というより「持っていかれる」という感じを覚えた。 馬場状態を確かめるゴスデン調教師(左)とデットーリ騎手(右)• 3連覇に期待するエネイブルファン 迎えた第4レース凱旋門賞。 パドックに馬が次々と現れる。 そして8頭目がパドックに歩を進めると、そこかしこから応援の声が上がる。 3連覇を目指す5歳牝馬は、その声に少しチャカつくそぶりを見せるも、自分で自分をセーブするように落ち着かせて歩を進める。 騎乗の合図がかかると、歓声はより大きくなり、各馬がコースへと入っていくと、歓声は地鳴りのようにパリロンシャン競馬場全体を包む。 武豊騎手騎乗のソフトライトが最後に枠入りを終えると、すぐさまゲートが開いた。 好スタートから押し出されるように前に出たのは フィエールマン(牡4歳。 美浦・手塚 貴久厩舎)とフレンチキングで、そこへ外からガイヤースがかわして先頭へ。 さらにマジカルもこれを追って先団を形成した。 エネイブルはこの直後を追走し、その後ろにソットサスと、内でじっとしながらヴァルトガイストが続く。 フォルスストレートの終わりで、エネイブルが フィエールマンをかわして3番手に上がると最後の直線へ。 ガイヤースはあっさりと手応えがなくなり、マジカルが早々に先頭に立つ。 そこへ外からエネイブルがソットサスとジャパンを連れて接近。 ヴァルトガイストも内から外へ切り替えてこれを追いかける。 残り400メートルを過ぎたところで、エネイブルが先頭に立つと、後続を引き離しにかかる。 残り200メートルの地点で突き放すと、観衆、そして筆者ももちろん、誰もが3連覇達成の瞬間に胸を躍らせた。 しかし、残り100メートル手前でエネイブルの脚色が急に鈍る。 そこへヴァルトガイストが急襲。 まさかの結末に、ひととおりの悲鳴のあと、場内はシン……と静まった。 しかし、レースを終えたエネイブルが引き上げてくると、暖かい拍手が場内を包み込んだ。 「ゴメンな、ありがとう」 パドックに戻り、エネイブルから降りたL. デットーリ騎手は、そう語りかけるかのようにエネイブルの顔に自分の顔を寄せた。 「スティッキーな馬場で、それでいてペースも速く、結果的に最後は疲れてしまった。 脚元は問題ない」 J. ゴスデン調教師にそう話すのが聞こえた。 足早にその場をあとにしたジョッキーの代わりに、オーナーの代理人であるテディ・グリムソープ卿がメディアに答えた。 「彼女と過ごせた時間、彼女に多くのポジティブなエネルギーが寄せられたことはとても素晴らしいものでした。 今後については、オーナーのアブデュラー殿下が決定します」• エネイブルを差し切り優勝したヴァルトガイスト• 拍手に迎えられるエネイブル(2着) しかし、殊勲され祝福されるべきは勝者であることを忘れてはいけない。 勝ちタイムは2分31秒97。 馬場を考えれば、超絶とも言える走破時計だ。 つまり、それだけ濃密で死力を尽くしたレースだったと言える。 ヴァルトガイストはイギリス生産だが、母系は長く継承されてきたドイツの牝系。 それがフランスで調教され5歳で戴冠となった。 こちらもエネイブルと遜色ない大きな歴史の壁に挑んでいた。 G1・イギリス)、そして成熟ぶりに手応えを感じていました。 ですが、正直なところ、雨については非常に心配していました」 通算8度目の勝利を挙げたA. ファーブル調教師がそう話すと、共有オーナーのディートリッヒ・フォン・ボエティッヒャー氏は、 「ヘヴィでもソフトでもファームでも、どんな馬場でもレースの前は何か不安になるものです」 と心境を語った。 かつてドイツダービー馬のボルジアで2度挑んで敗れたからこその言葉だろう。 手綱を取ったP. ブドー騎手はこれが初の凱旋門賞制覇。 ヨーロッパ年間最多勝利記録をマークしたこともある26歳が念願のタイトルを手にした。 「馬場が粘っこく悪いのに道中はペースも速く、追走に苦労していました。 それでも機をうかがい、直線ではスピードを上げながらうまく外に出せました。 そこからは馬がとてつもないハートを見せました」 新たな壁を打ち破ったヴァルトガイスト。 今後についてはオーナー間で協議が必要とのことだが、引退・種牡馬入りが濃厚とのことだ。 文:土屋 真光• 初の凱旋門賞制覇を果たしたブドー騎手• 新たな壁を打ち破ったヴァルトガイスト 7着 キセキ 角居 勝彦 調教師のコメント 「残念です。 前目での競馬をする作戦だったので、思っていたポジションとは違いました。 馬群に入りましたが、それほどは引っ掛かっていなかったように思いますし、この馬場も苦手ではなかったはずですが、やはり日本馬にこの馬場をこなすのは難しいですね。 ヴィクトワールピサ以来でしたが、凱旋門賞は世界の名馬、名調教師が集うレースで、この挑戦は楽しかったです。 今回は良い結果ではなかったですが、いつか皆さんに喜んでいただけるチャレンジができるように頑張ります」 7着 キセキ C. スミヨン 騎手のコメント 「とても良いレースでした。 ずっとヴァルトガイストの隣を走っていて、3、4コーナーまで順調でしたが、直線はスピードを上げることができませんでした。 パリロンシャンの馬場は特殊で、この粘りの強い馬場はキセキには適していませんでした」 11着 ブラストワンピース 大竹 正博 調教師のコメント 「見てのとおり残念な結果でした。 パドックの周回も少なかったので、テンションも上がらずにいつもより良い状態でレースに向かえました。 馬場は悪かったですが、どの馬も同じなので言い訳にはしたくないです。 騎手との作戦どおり前目につける競馬ができましたが、フォルスストレートですでに手が動いていたので、直線はもう厳しかったですね。 私にとっての初海外挑戦がこの凱旋門賞。 自分のキャリアの浅さが足を引っ張ってしまいました。 しかし、このデータをこれからどんどん蓄積していけば、いつか良い結果が出ると思います。 またチャンスがあればこの舞台で走りたいです」 11着 ブラストワンピース 川田 将雅 騎手のコメント 「ニューマーケットでも良い調教ができたので、良い状態で本番を迎えられました。 レースも流れには乗れましたが、あまりにも馬場が緩すぎました。 こっちはただでさえタフなコースですが、それに加えて今日の馬場は厳しかったです。 日本馬3頭とも結果が出せず残念でしたが、この経験を生かしたいし、また挑戦したいです。 日本に帰ってもみんな頑張ってくれると思いますので、応援よろしくお願いします」 12着 フィエールマン 手塚 貴久 調教師のコメント 「正攻法の競馬で打ちのめされました。 馬場を歩いて、後ろ目での作戦を立てていましたが、思った以上に良いスタートが切れて面食らいました。 レース中はそれでも粘ってくれるかと期待しましたが、やはり難しかったです。 ニューマーケットからの輸送でしたが、状態は良く落ち着いていたし、レースまでの流れは良かったと思います。 馬場の悪さは分かっていたことなので敗因にはできません。 凱旋門賞のような最高峰のレースに、しっかりと調整して本番に向かえたのは良い経験になりました。 これをどこかで生かしたいし、またリベンジしたいと思います。 夜遅くまで応援していただき皆さんありがとうございました」 12着 フィエールマン C. ルメール 騎手のコメント 「残念です。 もっと良い結果を求めましたが、早目にバテてしまいました。 馬場が重すぎて走りにくかったので、加速できませんでした。 馬のコンディションは良かったのですが、パリロンシャンのコースも難しい。 やはりもっと速い馬場が良いです。 前に行ったのは作戦ではありませんでしたが、スタートが良かったのであのポジションになりました。 それでちょっと引っ掛かってしまった。 凱旋門賞を見てくれてありがとう。 また来年以降も頑張りましょう」 6着 ソフトライト(フランスのJC. ルジェ厩舎) 武 豊 騎手のコメント 「前半スピードが足りずついていくのに苦労しました。 馬場が悪いのはむしろ良いと思っていましたし、ラストは良い脚を使う馬なので、諦めずに追いました。 大半の馬が大きくバテていた中で最後までしっかり走れましたし、この馬の力は出せたと思います」• 直線でスピードを上げられず7着のキセキ• 緩い馬場に苦戦し11着のブラストワンピース• 早めにバテて12着のフィエールマン 2019年10月6日(日) パリロンシャン競馬場(フランス) 着順 馬番 ゲート 馬 名 (生産国) 性 齢 負 担 重 量 騎手 タイム ・ 着差 馬 体 重 kg 調教師 (調教国) 単 勝 人 気 1 2 03 ヴァルトガイスト GB 牡5 59. 5 P.ブドー 2:31. 97 A.ファーブル FR 9 2 8 09 エネイブル GB 牝5 58. 0 D.オブライエン 6 A.オブライエン IRE 8 6 11 06 ソフトライト FR 牡3 56. 5 C.スミヨン 8 角居 勝彦 JPN 6 8 7 11 ナガノゴールド GB 牡5 59. 5 川田 将雅 ハナ 大竹 正博 JPN 5 12 6 02 フィエールマン JPN 牡4 59. 5 C.ルメール 15 手塚 貴久 JPN 4.
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