生涯 [ ] 生い立ち [ ] サロット・サル(以下「ポル・ポト」という。 )は、のプレク・スバウヴ(現在のカンボジア王国)で生まれ育った。 父の名はペン・サロット Phen Saloth 、母はソク・ネム Sok Nem。 ペン・サロットは12ヘクタールの土地(9の水田と3ヘクタールの農園)と水牛6頭を所有し、2人の息子と養子にとった甥たちなど約20人で水田を耕作していた。 使用人は雇っておらず、収穫期は村人同士で手伝って作業した。 収穫量は年平均で籾6トンで、20以上の家族を養える量だった。 これはカンボジア全体のレベルから見ると十分富裕な自作農の規模だが、ポル・ポトの兄ロット・スオンの説明では、村には50から100ヘクタールを所有する農家もあり、 その中では中規模の自作農だったという。 ポル・ポトの生家は王宮と関係のある家系で、ペン・サロットの姉ネアク・チェン Neak Cheng が王宮で働き始めたことから始まるようである。 特に、チェンの娘ルク・クン・メアク Luk Khun Meak が王宮舞踊団の踊り手になり、その後王の側室になったことで王宮との関係は強まった。 幼少期 [ ] ポル・ポトの生年や幼少期の生い立ちの説明は資料や文献によって異なる。 生年 については、5月19日と5月19日の2つの説がある。 デイヴィッド・チャンドラーは著書 の中で説をとっている。 一方、B. Kiernanは自身の著書 では説をとっている。 ただし、同著者の別の著書 では、のままになっている。 兄弟の人数 文献 によれば、ポル・ポトは9人兄妹の8番目として生まれたことになっている。 一方、B. Kiernanの著書内 では、7人の子供のうちの末っ子として生まれたと書かれている。 幼少期の生活 幼少期に関しては、「彼は当時の慣例にしたがって幼時に6年間プノンペンの寺院で暮らし、リセから中級専門学校の電気機械科に進んだのちパリへ留学し」と文献 の中で書かれている。 これは、3月にのジャーナリストが初めて民主カンプチアに入国しポル・ポトにインタビューした際、以下のポル・ポトの発言をそのまま書いたもののようである。 「私は、ある農民の一家の出だ。 子供の時分は、両親と一緒に住んで農作業の手伝いをしていた。 だがその後、伝統に従って、読み書きを習うため寺院で生活した。 寺で6年間過ごし、2年間は僧侶になっていた。 」 同文献 は、のロット・スオンとのインタビューの内容を記したことになっているが、7月9日にプノンペンで同氏にインタビューしたB. Kiernanの記述とは異なっている。 文献 によると、サロット・サルは水田で農作業をしたことはなく、6歳 の時にプノンペンへ送られ、タマヨット派の寺院で1年間見習いをしたあと、8歳 の時にカトリックの私立エリート校エコール・ミシェに入学し、そこで6年間過ごした。 入学には、ポル・ポトのいとこで、モニボン王の側室の1人だったルク・クン・メアクの助力があった。 プノンペンでは、ロット・スオン、チア・サミー Chea Samy、ロット・スオンの妻 、ルク・クン・メアクと一緒にトラサク・ペム通り Trasak Paem Street の大きな家で生活していた。 14歳 の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗したため、コンポンチャムのクメール人市場の中にあったノロドム・シハヌーク高校に入学。 以後6年そこで過ごす。 始めにプノンペンへ戻り、郊外にあるルッセイ・ケオ技術学校 Russey Keo Technical Schoolで寮生活をしながら木工を学んだ。 フランス留学から帰国へ [ ] 1年後に奨学金を得て宗主国フランスの首都パリへ留学、の一つであるフランス国立通信工学校(エコール・フランセーズ・ド・ラディオエレクトリシテ、現)に入校して2年間の技術課程を受ける。 フランスには9月に到着した。 留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のグループに参加した。 このグループは、主としてパリに留学した学生が中心となってに内に作られた「クメール語セクション」に形成された。 メンバーは、ラット・サムオン Rath Samuoeun 、、フー・ユオン、ポル・ポト、ケン・ヴァンサク Keng Vannsak 、チオン・ムン Thiounn Mumm 、トゥック・プーン Touch Phoeun 、メイ・マン Mey Mann 、メイ・パット Mey Path 、チ・キム・アン Chi Kim An 、シエン・アン Sien An 、、、、などである。 リーダーは、ラット・サムオンとイエン・サリだった。 チオン・ムンらは活発に活動していたが、この当時は、フー・ユオンやポル・ポトはむしろ目立たない存在だった。 フー・ユオンは勉強に集中しており、ポル・ポトは個性をあらわしてはいなかった。 ただ、この当時から両者の主張には隔たりが大きかった。 彼らは共産主義グループではあったが、その主義・主張はかなり幅広く、全体としては、共産主義というよりもむしろ反王政派、民族主義だった。 また、母国の共産主義活動からは遊離しており 、観念的であった。 このグループの中で民族主義とは一線を画していたのが、ポル・ポトとイエン・サリである。 パリ時代に、謄写版で発行されていた内部機関紙Khemera Nisitの8月号でポル・ポトは「本来の」 khmaer da'em というペンネームで、、とのに関する記事を書いた。 その他のメンバーが「自由クメール」「クメール人労働者」といったペンネームを使っていたことに比べて、これを以ってポル・ポトがこの当時から人種差別的な傾向を持っていたと推測する文献もある。 またこの時期のイエン・サリは、ソ連国内の少数民族政策を論じたの文章に興味を示している。 その他、書類によって共産党組織をコントロールするスターリンのテクニックに引きつけられたとも述べている。 ポル・ポトは試験に3年連続で失敗し、奨学金を打ち切られたため、12月に船でフランスを後にし、1月14日にカンボジアに帰国した。 その後、チャムロン・ヴィチェア Chamroeun Vichea 私立高校で歴史の教師として働き始め る一方、民主党で活動を行っていた。 この時期は、新たにフランスから帰国したシエン・アン、ケン・ヴァンサク、そしておそらくはユン・ソウン Yun Soeun 、チ・キム・アン、ラット・サムオンらと共に民主党をより左傾化させようと工作していた。 8月、兄のサロット・チャイ Saloth Chhay を介して、コンポンチャム州のヴェトナム国境周辺にあったクメール・イサラク連合 Khmer Issarak Accosiation の本部へ行き、独立闘争に加わる。 その後約1年間生産部隊に配属され、食事の雑用や、耕作用のの運搬などに従事していた。 しかし、パリ帰りのインテリでありながら政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部やリーダーとして昇進できなかったことに深い恨みを抱いたようである。 また、この時期にと知り合う。 ポル・ポトは本部でのメンバーだと自己紹介したが、その時会見したチェア・ソット Chea Soth によれば、「彼は、闘争に参加し我々から学びたいと言ったが、本当は、実際にクメール人が革命を実行しているかどうかを探りにきたのだ。 彼は、すべては、自己にのみ頼り、独立と自制にもとづいてなされねばならない。 クメール人は何でも自分自身で行うべきだと言っていた。 」 ということである。 、パリで知り合った夫人と結婚した。 結婚にはフランス革命記念日が選ばれた。 カンボジア共産党 [ ] 「」も参照 1953年当時、のインドシナ支配に対して共産主義者主導の反仏活動が起こっており、この活動は中心であるからとに波及した。 にはフランスがを去り、はジュネーヴ協定に従ってカンボジア国内から撤退し、北緯17度線以北のへ集結した。 このため、カンボジア国内のベトナム人左翼活動家の引き上げが始まった。 カンボジア人左翼活動家の中で、フランスで教育を受けた者の一部はヴェトナムの撤退に合わせてハノイへ逃れたが、ポル・ポトは身分を偽って密かにプノンペンへ戻った。 戻った理由は、ベトナムへ戻るクメール人民革命党の幹部と交代するためであった。 こうして、この頃からポル・ポトとそのグループは、クメール人民革命党のプノンペン支部と関係を深めるようになった。 革命運動の実績がないことを考えると、与えられたポル・ポトの地位は高かったが、これは状況の変化によってクメール人民革命党幹部が手探り状態であったためである。 当時のポル・ポトの仕事はに予定された独立後初の選挙対策で、クロム・プラチェアチョン Krom Pracheachon、クメール語で「市民グループ」の意 と民主党との調整役であった。 また、プラチェアチョラーナ Pracheachollana、クメール語で「人民運動」の意。 右派のソン・ゴク・タンのグループのこと の影響を小さくするために、プノンペン市内の活動グループを人民党に集め、また、人民党内部からソン・ゴク・タンのシンパを排除していった。 プノンペン支部党委員会の学生運動担当委員になったと書く文献もある。 またポル・ポトはこの時期に、共産党員の獲得も行っていた。 12月に、ポル・ポトはピン・トゥオク( Ping Thuok、後にソク・トゥオク Sok Thuokまたはヴォン・ヴェト Vorn Vetとして知られるようになる)を共産党プノンペン委員会に紹介している。 、国王は退位し、後に(人民社会主義共同体)というを組織した。 シハヌークはその威光で共産主義などの反対勢力を一掃し、の翼賛選挙で議席をすべて獲得した。 しかし政界では左右両派の対立が続き、シハヌークは必要に応じて左派への歩み寄りと弾圧を繰り返した。 にカンボジア共産党が配布した党の歴史に関する文書では、終わり頃から政府は農村部での革命運動に弾圧を加え始めたとしている。 、ポル・ポトはカンボジア労働者党中央常任委員に就任した。 ただし、ポル・ポト自身は、にに代わり副書記長に選出されたと主張している。 、シハヌークはプラチアチョンのスポークスマンをはじめ15人の活動家を罪名無く逮捕拘留する。 プラチアチョンの機関紙編集長も逮捕され、これらの活動家達16人は死刑を宣告された。 後に彼らへの死刑は長期刑に減刑されるが機関紙は廃刊となり、表立って活動していたプラチアチョングループは消滅する。 これ以後、都市部の急進的左翼は地下に潜行して秘密活動に傾斜していくようになる。 しかし頃までは、後に重要な役割を示す左翼運動家の多くは、教師として左傾化した学生を生み出したり、またそれが急進的なものでないかぎりは比較的自由に政治活動をおこなっていた。 1960年代半ばに入ると、ベトナム戦争へのアメリカの関与が本格化したことで右派の影響力が強まり、シハヌークの使える政治的裁量の範囲は次第に狭まっていった。 2月、シハヌークの外遊中に市で暴動が発生した。 警官により学生が1人殺害されたことから学生の抗議デモが始まり、地方政府が警官をかばうと、最終的に地方警察本部に対する大規模な暴動へと発展した。 シハヌークはこの暴動を左翼による扇動と考え、帰国後ケン・ヴァンサクとソン・センを非難した。 さらに3月8日には、主要な破壊活動家左翼として34人の名前を公表した。 このリストには、都市部の左派知識人のほとんど全てが載っていた。 キュー・サムファンらは国民議会の非難を受け、ロン・ノルは左派の一掃をシハヌークに求め、1955年以来最大の政治危機となり、左翼にとっては最大の弾圧の危機に見舞われた。 しかし、シハヌークはロン・ノルの提案を拒否し、キュー・サムファンらの辞任も撤回され 、リストに挙げられた34人もシエン・アンを除いて特に処罰されることなく終わり、結局は、都市部左翼の状況に関しては元の状態に戻っていった。 また、この暴動事件の最中の2月20日、21日にプノンペンで第3回党大会が開かれ、ポル・ポトが書記長に就任した。 一方、農村部では弾圧が強化され、左翼活動家の殺害や投獄が行われた。 こうした状況のなか5月ポル・ポトとイエン・サリはプノンペンから消え、コンポンチャム州の国境周辺へ移動した。 ジャングルでの地下活動に入ってからサロット・サルは「ポル」というコードネームを用いるようになった。 (「ポル・ポト」という名が使われるようになったのは、4月14日にの新首相として公式に発表されて以降のことである。 それ以前は「ポル」、「同志書記長」、「オンカー 」として知られていた。 )ポル・ポトは以後12年を地下活動で費やした。 末、ポル・ポトはケオ・メアに伴われて国境を越え、でに入った。 ハノイに数ヶ月滞在した後、ポル・ポトは中国とを訪れた。 シハヌークがに滞在しているのと同じ時期に、ポル・ポトも北京に4ヶ月以上滞在し、やらと仕事をしたが詳細はわかっていない。 その後、へ行ったあと再び北京に戻り、始めにカンボジアへ帰った。 ヴォン・ヴェトによれば、ポル・ポトがから帰国した後の初め、カンボジア労働者党は、都市部の勢力に対する闘争と農村部で武装闘争の準備の方針を打ち出した。 文献 によれば、からカンボジア労働者党はの影響下に入ったのち、からは派のの影響下に入っている。 また同年9月には、党名を カンボジア共産党に改名している。 カンボジア共産党は後に として知られるようになり、同党の武装組織はポル・ポト派と呼称された。 ただし、ポル・ポトが帰国した時期は中国で文化大革命が本格化する直前のことである。 時代のは別として、ポル・ポトが文化大革命から思想的な影響を受けたのかどうかははっきりとしない。 ポル・ポト、、、、その他のクメール・ルージュ幹部が文化大革命に対する共感を示す発言をしたことはない。 また、ジャングル入りした学生の証言によれば、文化大革命前の毛沢東主義のスローガンは好まれていたが、文化大革命は事実上無視されていた。 「ジャングルの中では、北京放送を聞いて流れてくるスローガン(「張子の虎」、「農村から都市を包囲する」、「小から大へ」など)を取り上げてはいたが、文化大革命に関する会話も教育も、毛沢東思想に関する勉強も行われていなかった。 党の方針は、困難で長引くが最終的には確実に勝利するはずだという闘争のことばかりだった。 都市部には毛沢東の翻訳本はあふれていたが、農村部にはなかった」という。 文献 では、ポル・ポトやイエン・サリは、オポチュニストとして、文化大革命の思想とは関係なくむしろ利用されつつ中国を利用したという見方が示されている。 この見方は、他の文献 にも見られる。 、ポル・ポトはカンボジア東北地方のジャングル内にカンボジア共産党の訓練学校を作り9日間の政治レクチャーを行ったが、その間中国についてほとんど言及せず、文化大革命についてはまったく述べなかったという。 この時期、クメール・ルージュの都市部の拠点は壊滅しており、辺境部のジャングルに点々と小さな左翼集団があるだけで、左翼集団間の連絡も容易ではなかった。 ポル・ポトのの発言によれば「連絡のためには徒歩で行ったり、象の背中に乗って行かねばならず、また、連絡用ルートを遮断した敵を避け続けねばならなかったので、1ヶ月が必要だった」という。 4月、の ()で、政府による強制的な余剰米の安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる。 1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナム政府と(ベトコン)に買い上げられており 、シハヌークの外遊中、ロン・ノルにより南ベトナム解放民族戦線への米の供給を止めるために、強制的に余剰米を買い上げする方針が打ち出された。 しかし、政府の買い付け値はベトナム人による買い付け値よりも低く、地元の共産主義勢力は反米反政府のビラを巻き暴動を煽動した。 サムロート周辺の暴動鎮圧作戦は数ヶ月間続き、この後、シハヌークはプノンペンの共産主義者達への弾圧を一層強化した。 同じ頃より、ポル・ポトは中国に支援されてカンボジア政府に対するを始めた。 クーデターと内戦の激化 [ ] は、シハヌークが南ベトナム解放民族戦線を支援していると見なして将軍を支援した。 その結果、1970年3月18日にロン・ノルはクーデターを起こし、シハヌークを追放した。 北京に亡命したシハヌークは、挽回を図りポル・ポトと接触した。 元々クメール・ルージュとシハヌークは不倶戴天の敵であったが、ここに共闘関係が生まれた。 ポル・ポトは元国王の支持を取り付けることで、自らの正当性を主張できると考えた。 同年は、と隣接する解放戦線の拠点を攻撃するためにカンボジア国内への侵攻を許可した。 以後アメリカ軍とカンボジア軍はなどの都市や農村部に激しい空爆を行ったため、農村インフラは破壊され数十万人が犠牲となり、米軍の爆撃開始からわずか1年半の間に200万人が国内難民と化した。 また、ロン・ノル政権は汚職が蔓延し都市部しかコントロールできなかったため、シハヌークの人気と米軍によるカンボジア爆撃は、クメール・ルージュへの加入者を増加させ、ポル・ポト派の勢力拡大に有利に働いた。 また、食糧生産も大打撃を受けた。 には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたカンボジアは、には耕作面積5万ヘクタールとなり28万2000トンの米を輸入し、米の値段は10リエルから340リエルにまで急騰した。 アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している。 こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。 の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア猛爆がなければクメール・ルージュが政権を獲ることもなかったであろうという考察もある(のの著書『Sideshow』がこの点に触れている)。 民主カンプチアの指導者として [ ] 「」も参照 、によって米軍がベトナムから撤退した。 それと同時に南ベトナム解放民族戦線はカンボジアを去ったが、クメール・ルージュは政府軍との戦いを続けた。 、クメール・ルージュは首都を占領した。 ロン・ノル政権は崩壊し、国号がに改名される。 またポル・ポトもこの間に自身の名前を「サロット・サル」から「ポル・ポト」へ改め、暗号名は「 ブラザー・ナンバー・ワン」となった。 1976年、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任する。 民主カンプチアの国家体制はポル・ポトがのモデルと考えたカンボジアの山岳のの生活を理想とする極端な・であり 、中国の毛沢東思想の影響も受けていた。 その実現のために、学校、病院、工場も閉鎖し、銀行業務どころかそのものを廃止する一方、都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させ、中国ののように人々に ()を着用させた。 病人・高齢者・妊婦などのに対しても、オンカーは全く配慮をしなかった。 これは世界でが繰り返されてきたの歴史から見ても例のない社会実験だったとされる。 民主カンプチアの国民の多くはどころか移動手段を所有することも禁じられてを強いられていたにも関わらず、ポル・ポトらは黒い農民服を身にまといつつを公用車に使用していた。 に戻すためにの利器を殆ど一掃したため、手作業でやなどの施設 や、総延長1万5000キロもの巨大な水路が建設された。 更に生産された米の多くは中国からの武器調達のためにに回されたため、国民の多くは飢餓、、過労による死へと追いやられていった。 このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、自身の政策の失敗の原因を政策そのものの問題とするよりも、カンボジアやオンカー内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めた。 このような猜疑心は、後に展開される党内での粛清、カンプチア人民へのの大きな要因の一つとなっていった。 ポル・ポトやの所長だったらオンカーの幹部の多くはで出身だったが、高度なや教養はポル・ポトのの邪魔になることから眼鏡をかけている者(ポル・ポトの右腕は眼鏡をかけていたにも関わらず)、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害しており 、この政策は歴史的にもの最も極端な例とされる。 伝統的なの形態を解体する一方でオンカーの許可がないやも禁止され 、ポル・ポトは親から引き離して集団生活をさせられ、幼いうちからオンカーへの奉仕を強いられた10代前半の無知で無垢な子供を重用するようになったため 、国内には子供の医師までもが現れて人材は払底を極めた。 ポル・ポト政権下での死傷者数はさまざまに推計されている。 カンボジアでは1962年の国勢調査を最後に戦争状態に入り、以後1975年までの正確な人口動態が不明となりこうした諸推計にも大きな開きが出ている。 ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万人とした(これはのちに下方修正された)。 フランソア・ポンショー神父は230万人とするが、これは内戦時代の死者を含む。 イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万人、は140万人、アメリカ国務省は120万人と推計するがこれらの機関は内戦時代の戦闘や米軍の空爆による死者数には全く言及していない。 政府の調査団は内戦と空爆による死者が60万人、ポル・ポト政権奪取後の死者が100万人と推計している。 マイケル・ヴィッカリーは内戦による死者を50万人、ポル・ポト時代の死者を75万人としている。 当事者による推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人である。 、ベトナム国内に避難していたカンボジア人によって構成されるがベトナムの援助を得てカンボジア国内に侵攻、が勃発した。 カンプチア革命軍はの影響による混乱で指揮系統が崩壊しており、わずか2週間でカンプチア革命軍の兵力は文字通り半減する。 、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響の強い政権( )が成立した。 この後、ベトナムはカンボジアを完全に影響下に置き、長い間、その影響力を保持することとなった。 ポル・ポトとその一派はの国境付近のジャングルへ逃れ、採掘される売買の利権を元手に反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けた。 余波 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年10月) ソ連とベトナムに敵対したポル・ポトはタイとアメリカから支援された。 アメリカと中国は、ヘン・サムリン政権をベトナムの傀儡であるとしてカンボジア代表の総会への出席を拒否した。 ポル・ポトが反ソ反越であったので、アメリカ、タイ、中国はベトナム支持のヘン・サムリンよりもポル・ポト派を好ましいと考えた。 9月4日、ポル・ポトとシハヌークおよび右派自由主義のの3派による反ベトナム同盟を結んだ。 ポル・ポトは、この終了を求めて公式にに辞職したが、同盟内の事実上のカンボジア共産党のリーダーとして支配的影響力を維持した。 、ベトナム軍はカンボジアから撤退した。 、国連監視下で自由化されたによりが採択された。 選挙結果は、全120議席のうち、が58議席、が51議席、ソン・サンのが10議席、その他1議席であった。 ポル・ポト派はこの選挙に参加せず、新しい連立政権と戦い続けたがころまでには軍は堕落し規律も崩壊し、数人の重要な指導者も離脱した。 死去 [ ] アンロン・ベン県に建立されているポル・ポトの墓 カンボジア政府との和解を試みた腹心のとその一族をポル・ポトはに殺害。 その後クメール・ルージュの軍司令官がポル・ポトを「裏切り者」として逮捕して終身(自宅監禁)を宣告。 タ・モクは1998年4月に新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。 ポル・ポトはのため1998年4月15日に死去。 しかし遺体の爪が変色していたのでまたはの疑いもある。 遺体は兵士によって古タイヤと一緒に焼かれた後、そのままその場所に埋められた。 ポル・ポトの後妻と後妻との間に生まれた1人娘が火葬に立ち会った。 後妻と娘は「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした」と発言。 埋葬直後には墓は立てられなかったが、のちに墓所が建てられた。 墓碑などはなく、粗末な覆屋の看板に「ポル・ポトはここで火葬された」とのみ記されており、溶けかかったタイヤとともに遺骨が土の上に、むき出しの状態で、置かれている。 以前はここに建物が立てられていたとも言われるので誰かが墓を崩壊したとも見られている。 死後アンロンベンに豪勢なが建てられたタ・モクとは対照的である。 脚注 [ ] []• Brother Number One, David Chandler, Silkworm Book, 1992 p. Notablebiographies. com. 2009年2月27日閲覧。 Kiernan, The Pol Pot Regime---Race, Power and Genocide in Cambodia under the Khmer Rouge, 1975-1979 third edition , Yale University Press, 2008, , Preface to the third edition. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , 2004, , pp. 25-27. ラルース世界史人物辞典• Kiernan, The Pol Pot Regime third edition p. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. kerinan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. Chandler, Brother Number One;A Political Biography of Pol Pot,• 根拠となる資料をはっきりと明示してはいないが、の公式発表による自伝が生年をとしていることと、に表面上リタイアを声明した際に生年をと認めたことによるようである。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. Kiernan, The Pol Pot Regime third edition , p. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 26-27. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 119. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 121. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 121. 井川一久編著「新版・カンボジア黙示録」田畑書店、p. 201• Kiernanm The Pol Pot Regime third edition , p. Keirnan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 120. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 121. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 122• Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 176. 後に重要なポジションにつくことになる左翼主義者ネイ・サラン Ney Sarann 、ヴォン・ヴェト Vorn Vet 、シエット・チェ Shiet Chhe も同じ高校で働き始めた。 井川一久編著『新版・カンボジア黙示録』田畑書店、p. 200. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 122. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 122. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 123. 『新版・カンボジア黙示録』によれば、クメール・イサラクではなくクメール人民革命党になっている。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 124. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 155. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 157. 157によれば、クロム・プラチェアチョンはクメール人民革命党の偽装合法政党のことである。 しかし、井川一久編著「新版カンボジア黙示録」p. 203によれば、クメール人民革命党の偽装合法部分は民主党であると記述されている。 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」p. 200. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 172. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 188. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 193. デービッド・P・チャンドラー著『ポル・ポト伝』めこん、p. 104. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 198. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 199. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 200. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 202. 閣僚だったキュー・サムファンやフー・ユオンの名も載っていた。 ポル・ポトとイエン・サリもリストに挙げられている。 34人の名前全てについては、B. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 242を参照。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 202. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 203. Kiernan, How Pol Pot Came to Power secomd eidtion , p. 200. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 203. Kiernan, The Pol Pot Regime third edition , p. 327. クメール語で「組織」の意味。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , pp. 219-220. Kiernan, The Pol Pot Regime Came to Power third edition , p. 126 によれば、らよりもとの接触が多かった。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , pp. 222-223. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 224. 井川一久編著「新版・カンボジア黙示録」田畑書店、p. 191. Kiernan, The Pol Pot Regime third edition , p. 127. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 260. 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、p. 266• Kiernan, The Pol Pot Regime third edition , p. 127. 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、p. 204. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 290. 清野 真巳子『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行』連合出版、p. 『NAM』同朋舎出版、見聞社編、p. 532• チャンドラー,『ポル・ポト伝』p. 131• チャンドラー,『ポル・ポト伝』p. 131• チャンドラー,『ポル・ポト伝』p. 131• ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房• 「インドシナ現代史」p103,連合出版• 「インドシナ現代史」p104,連合出版• Quoted in David P. Chandler, Brother Number One: A Political Biography of Pol Pot, Silkworm Books, Chiang Mai, 2000. Chandler, David P. 1992. Brother Number One: A Political Biography of Pol Pot. Boulder, San Francisco, and Oxford: Westview Press. Frings, K. Viviane, Rewriting Cambodian History to 'Adapt' It to a New Political Context: The Kampuchean People's Revolutionary Party's Historiography 1979-1991 Wayback Machine in Modern Asian Studies, Vol. 31, No. October 1997 , pp. 807-846. Osborne, Milton E. Sihanouk Prince of Light, Prince of Darkness. Honolulu: University of Hawaii Press, 1994. Jackson, Karl D ed 2014 Cambodia, 1975—1978: Rendezvous with Death, Princeton UP, p. 110• Jackson, Karl D 1989. Cambodia, 1975—1978: Rendezvous with Death. Princeton University Press. 219. Ervin Staub. The roots of evil: the origins of genocide and other group violence. Cambridge University Press, 1989. 202• 1983. Revolution and its Aftermath. 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次のこの記事の目次• プノンペンで一度は見るあのポスター 最近プノンペンにいらっしゃった方はいませんか? もしいらっしゃるなら王宮の外観に飾ってあるポスターを見た覚えはありませんでしょうか? ここ2回の週末をプノンペンで過ごした私は、このポスターを何回も町中でみかけました。 市の中心部、郊外、そして王宮の前でも。 王宮の前に写っているのだから、カンボジアの国王にちがいない。 それはそうだとわかっていたのですか、実際は誰なのか、カンボジアで国王はどのような役を担っているのか、カンボジアはどのように治められているのかが気になってきました。 そこで今回は、カンボジアの国王と政治について言及したいと思います。 カンボジアの現在の国王とは? ポスターに写っている現国王の名はノロドム・シハモニ(65歳)と言います。 ノロドム王は父親である前国王のノロドム・シハヌークが退位した後、2004年に即位しました。 このようにカンボジアの国王は血筋によって決まるのかと思いきや、実際は王室協議会という9人のメンバーで成り立つ議会によって指名されるようです。 現にノロドム王は独身で子供もいないため、次の即位を決めるときに王室協議会は重要な役割を持つに違いありません。 ちなみに、ノロドム王はフランスと深い関わりがあり、パリでバレエを教えたり披露していたりしていたそうです。 フランスで留学している私はノロドム王に親近感を少し抱きました。 カンボジアの国王の役割 では、実際カンボジアの国王はどのような役割を担っているのでしょうか? カンボジアは立憲君主国であり、国王の権力が憲法によって制限されています。 よってカンボジアの国王は実際に国を治める力はありませんが、国の統一性と永続性を象徴する大切な人物として尊敬されています。 カンボジア国王の役目をいくつか挙げるなら、カンボジアの重要な祝日を祝ったり、儀式に参加したり、他国の国王や大使に会って外交を深めたり、、、とかですね。 では、カンボジアの国王が国を治める力を持っていないのならば、一体誰がカンボジアを治めているのでしょうか? それは、カンボジアの首相が率いる政府です。 現首相はフン・センと言い、1985年から現在に至るまで首相として国を治めてきました。 海外メディアでフン首相はよく独裁的だと取り上げられていて、野党のメンバーを逮捕したり、国内のメディアを制限したり、政府腐敗に手を染めたりしていることが書かれています。 丁度カンボジアでは来月の29日に選挙が行われますが、フン首相率いるカンボジア自民党によって党の反対派が弱められているためすでに勝敗が決まっているのではないかとも言われています。 その頃には私はもうカンボジアにはいませんが、カンボジアの今後の選挙風景はとても興味深いです ね。 style. style. style. style. style. focus ; if event. attachE.
次のカンボジアで今年7月29日に実施された下院選挙で、1985年以来政権の座にあるフンセン首相が率いる与党・人民党が9割を超す議席を取って圧勝した。 政党を選ぶ比例代表制の下、最大野党を解党に追い込むなど、強引に批判勢力を抑え込んでの選挙だった。 欧米諸国はその公平性を疑問視する一方、多くのカンボジア国民は不満を口にできない状態にある。 先ずは今回の選挙期間中に現地取材したビデオリポートをご覧いただきたい。 独裁体制が続くカンボジア カンボジアでは2013年の前回下院(国民議会)選で野党・救国党が4割超え、過半数に迫る躍進を見せた。 だが、昨年9月には政府批判も辞さない自由な報道をしていた英字紙『カンボジアン・デイリー』が巨額の納税を迫られて廃刊。 11月には最高裁が最大野党・救国党に「国家転覆を企てた」として解党命令を出した。 救国党初代党首のサムレンシー氏には解党命令の前に帰国禁止令が出され、レンシー氏の後を継いだケムソカ党首は国家反逆罪で昨年9月逮捕され、ベトナム国境に近い拘置所に収容されている。 救国党の議員と党員の計118人は向こう5年間の政治活動を禁じられ、その大半は身の危険を感じて外国へ亡命している。 また、オーガニック農法を広めるNGOが母体の野党、草の根民主党の創設者の一人、ケムレイ氏は一昨年の7月、フンセン首相の家族の収入についてラジオ番組で公言した直後、白昼のプノンペンで銃殺されている。 会合の冒頭、創立者の一人、ケムレイ氏に黙祷を捧げる草の根民主党の党員ら(筆者撮影) 一方、空席となった救国党の議席55は、補欠選挙を行わず、41を前回選挙で1議席も取れなかったフンシンペック党に、2議席を愛国党に、1議席を経済開発党に振り分けた。 そして、民主党連盟と反貧困党が拒んだ11議席は人民党議員で埋めた。 上院(元老院)選が今年2月にあったが、全62議席を人民党議員が占める結果となり、対抗勢力不在の国会は、言論や信条、結社などの自由を制限する法律を次々と通してきた。 今回の選挙を待たずして独裁体制となっていたわけだ。 フンセン首相の飴と鞭 フンセン首相は自党・人民党が確実に絶対多数を取れる状況下では、野党やメディア、NGOにも寛容だった。 だが、支持率が低下して続投が危うくなると、これまでも強権を発動してきた。 救国党の支持者の多くは、150万人はいると言われる工場労働者が主だった。 その救国党を潰した後、フンセン首相は毎週末のように女性や若者が働く工場を視察し、賃金や家賃、出産などの手当で支援を約束し、救国党支持者の反発を和らげ、人民党に転向させようとしていた。 カンボジア公正自由選挙委員会 「まるでUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の前へ逆戻りしたような感じですよ」と、カンボジア公正自由選挙委員会の幹部は嘲笑していた。 今回の下院選で一切の活動ができなかった同委員会だが、実は次のような活動計画があった。 (1)選挙手続きの研究、(2)投票所の設備を調査、(3)投開票の監視チェックリスト作り、(4)特別監視員約1万人の全国投票所への貼り付け、(5)2,000の開票所で独自集計。 しかし、今年の早い段階で、これらの活動を実施できる見通しはなかった。 「どんな場合に中止するのか」という問いに、同幹部は「もうお分かりでしょう」と。 つまり、公正で自由でない選挙ならば、全ての活動が無意味になるということだ。 同委員会が選挙監視を中止した理由を投票日直前、同幹部は改めて挙げた。 (1)市民団体を組織して選挙監視することを内務省が禁止した。 ちなみに、同委員会とかつては協力関係にあった国家選挙委員会は内務省の下部機関である。 (2)協力者たちが当局の取り締まりを恐れて、選挙に関わりたくないと遠ざかって行った。 (3)残った監視員も担当選挙区の役所や警察、それに一般市民に身元を知られたくないと躊躇していた。 政府の弾圧の下、委員長は海外へ避難したまま、公正自由選挙委員会は名ばかりの存在になってしまっていたのだ。 日本のスタンス 公正でない選挙と分かっていながら支援すれば、その選挙結果も認めることになると欧米諸国が選挙制度改革から手を引いた。 ところが、日本政府は国家選挙委員会へ750万ドル相当の投票箱など選挙資材を贈っている。 公正自由選挙委員会の幹部は「国家選挙委員会が今や中立な機関ではなくなっているということを日本は知っているのでしょうか」と苦言を呈していた。 選管委員9人のうち4人は与党から、別の4人は野党から、そして残りの一人がNGOからと当初はバランスが取れた構成だった。 しかし、救国党に解党命令が出された去年11月以降は、野党からだった4人も与党寄りの小党所属の委員となり、今回の下院選挙は委員の9人中8人が現政権支持者だった。 そんな状況も承知していたはずの日本だが、曖昧な対応は今回に始まったことではない。 日本は白黒どちらかといった判定はせず、カンボジア以外の軍事独裁政権にも援助外交を続けてきた国である。 強気の政府 後ろ盾は中国 写真:フンセン首相にも近い内閣府報道官パイシーパン氏(筆者撮影) 内閣府でインタビューに応じたフンセン首相にも近いパイシーパン報道官は「選挙委員会は法の下で選挙を運営し、選挙結果を認めるか否かは、あくまでカンボジア政府が判断することで、欧米など外国がどうこう言うべきことではない」と語気を強める。 旧西側諸国が民主化プロセスに介入して来ることを内政干渉だと嫌う。 だが、その一方で、街中の看板のみならず、この内閣府でもトイレの表記は中国語といった具合で、どちらを向いても中国語が目に入る。 ここは中国の植民地かと思うほどの影響を受けている。 中国との戦略的経済開発協力に調印した2010年以降、中国からの援助に拍車がかかった。 同じ協力関係をラオスとも調印し、メコン川や陸路を南下してカンボジアのシアヌークビル港へという中国のインドシナ版一帯一路を構築するという狙いは明白。 それでも、中国がカンボジアの内政批判をすることはない。 習近平総書記が自ら長期独裁政権を敷いているからだ。 パイシーパン報道官は「日本はアメリカに敗戦し、アメリカの傘下にいるが、日本独自の文化を持ち続けているじゃないですか。 カンボジアと中国の関係もそう。 カネに中国の臭いが付いているわけではないですから」と言ってのける。 政府統計によると、カンボジアの2017年の国家予算は50億4千万ドル。 外国と国際機関への累積債務は62億ドル。 そのうち中国が半分近い47.5%を占め、アジア開発銀行が18%、日本は韓国よりも少なく3.9%に過ぎない。 どこの影響が一番大きいかは、一目瞭然だ。 こうした対外債務も野党の催促で公表されるようになったが、一党独裁が続けば再び統計は入手困難となる。 写真:中国の投資でプノンペン都心の湖を埋め立て進む都市開発(筆者撮影) 投票率82%超え 人民党圧勝 その理由は 今回の投票者数は、18歳以上の674万人だった。 前回選挙で救国党に入れた300万を超す人たちに、同党サムレンシー初代党首らは不公正な選挙をボイコットするよう亡命先から伝えていた。 しかし、投票率は前回を16ポイント上回る82%超えだった。 カンボジアでは二重投票を防ぐ目的からも、投票した人は指先に1週間は消えない青色インクを着ける。 指にインクがないと、違法とされた救国党支持者と見られて嫌がらせを受けると、しぶしぶ投票に行った人が多かったのだ。 また、前救国党支持者の票が他の野党へ流れることも考えられたが、与党・人民党が全125議席の9割以上を占めた。 さすがに秘密投票は守られていたことから、思いを託せる適当な党がなかったと言える。 前回参加した政党は8つだったが、今回は与党を含めた20党が乱立。 野党はどれも弱小でキャンペーンも貧弱で、わずか20日間の選挙期間中には、党名すら多くの有権者に知らせることができなかった。 加えて、政府批判を露わにする野党の党員や支持者は、テロなどの暴力に出なくても、職や土地を失ったり、逮捕・収監されたり、何者かに暗殺されたりするという事実はカンボジア市民の間でも知れわたっていた。 とにかく我が身と家族の平和が一番と、長いものには巻かれろ式に人民党に投票した人が多かったことは想像に難くない。 写真:ダイヤモンド・アイランドへ架かる橋とフンセン首相率いる人民党のポスター(筆者撮影) 日本人ビジネスマンは独裁支持 「日本人商工会のメンバーは安定の方が大事だと思っていますよ」。 カンボジアに暮らして20年以上、現地商社を営む日本人男性は、概ねフンセン独裁を支持していた。 彼が面談に選んだ場所は、フンセン首相の家族が利権を握る『ダイヤモンド・アイランド』と呼ばれる再開発地域。 ここはメコン川の中洲で畑ばかりだったが、中国がテーマパークさながらの欧州風会議場や公園を既に完成させ、何棟もの高層ビルの建設が進んでいる。 彼はネット上の自己紹介でも「カンボジアの経済成長と共に自分も成長できました。 縮小傾向の日本ではなく、高度経済成長の国にいられて本当に良かった」と書いている。 「間違いは間違いとする欧米の考え方も分かりますが、アメリカ一強ではなくなった世界で、そういう白か黒かというのは如何なものでしょうかね。 むしろ、カンボジアは興味深いポジションを取っていますよ」。 日本の大学で開発経済学を学び、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で学生ボランティアの経験もある彼らしく、こうも言う。 「もし今、私が学生でこの国に来ていたなら、憤慨して何らかの行動を取っていたと思いますよ。 ですが、もう立場が違うので…。 それにしても、救国党の議員たちは"腰抜け"ですよ」。 家族や支持者を含め200人以上が外国へ避難しているが、逮捕されても国内に踏み留まっていれば、そんな異常事態に国際社会の耳目がもっと集まり、民主派にとって新たな展開もあったはずだというのが彼の考えだ。 「カンボジアのような小国ではなく、反民主化政策に転じたのが大国ならば、欧米は同じ対応を取っていたでしょうか。 小国を舐めたような上から目線が、カンボジアを中国べったりにさせているんだと思いますよ」。 日本人でありながら、長年この国に暮らす彼はカンボジア人の誇りも代弁する。 制裁の行方 アメリカは一連の反民主化の動きを遺憾とし、カンボジア政府高官へのビザ発給停止に続き、政府間援助のカットや減額を決めた。 それがカンボジアの中国依存をいよいよ高める措置であることを、ホワイトハウスが知らないはずはない。 今回、不公正な選挙を押し通したカンボジアに対して、欧米諸国は経済制裁も辞さないだろう。 無税で欧米へ輸出できていた衣料品や靴などに課税されれば、カンボジアの工場は国際競争に負けて閉鎖に追い込まれ、何十万という失業者が出る。 その工員たちの殆どは地方からプノンペンへ現金収入を求めて出てきている人たちなので、全国の市民の暮らしを直撃することになる。 だが、生活苦から民主化運動が盛り上がることは、あまり期待できないのが現代だ。 不気味な不安 同じ東南アジアの旧ビルマ(ミャンマー)では軍事独裁政権に対して、市民が蜂起してゼネストやデモを起こしたり、ジャングルに立て籠もったりして闘う民主派がいた。 今のカンボジアでそうした民主化運動が起こらないのは、やはり経済が滞ることなく成長し続け、政府に何のツテもない庶民の生活水準でさえ、年々上がって来ているからだ。 野党は腐敗防止のほか、教育や福祉、医療に予算を注ぐといった公約を挙げていた。 しかし、野党が政権を取ったからと、今以上に急ピッチで生活が良くなる保証はないのではと勘ぐり、逆に社会が不安定になったり、ひいては内戦が起きたりすることを危惧する人が少なくなかった。 よく言われる喩えだが、「1カ月先の100ドルより、今日の1ドル」という感覚なのだろうか。 いや、状況はもっと厳しく、甘美な夢より、不気味な不安の方が強かったのだろう。 写真:21年前のクーデター直後、内戦を回避させたまでだと主張したフンセン氏。 その過程を取材しながら、憲法草案を和訳したが、模範的な民主憲法だったことを鮮烈に覚えている。 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が撤収する直前、明石康UNTAC特別代表にインタビューしたことがあった。 「我々は民主主義の種を蒔いただけで、あと水をやって育てるのはカンボジア人の仕事ですよ。 英、仏、米だって民主主義が定着するまでに200年以上かかり、まだ完全なものではないでしょう。 国それぞれのプロセスがあり、カンボジアらしい民主主義で良いということです」。 彼は当時、独立自治の尊重とも、責任を限定した逃げとも取れる言い方で、カンボジアPKOの意義を振り返っていた。 この国の知識人の間では今、民主主義が曲げられても、経済社会が安定している限り、もはや外国が政治介入してくる時代ではないという認識がある。 北隣のタイが軍政下にあっても、東隣のベトナムが共産党独裁を続けていても、外国が民主派を直接大規模に支援したりはしていない。 それはタイもベトナムも安定的な経済発展を遂げ、自由は制限されていても大半の国民が現状に妥協し、欧米や日本など民主国も貿易や投資で利益を上げられているからであろう。 経済が上向いている限り、強権独裁は続きそうだ。 【この記事は、Yahoo! ニュース個人の動画企画支援記事です。 オーサーが発案した企画について、取材費などを負担しているものです。 この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。
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