1756年から1771年にかけて 父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。 3歳のときから クラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行う(『アンダンテ ハ長調 K. 1a』)。 父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷楽師として仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地へのヨーロッパ大旅行を行った。 これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。 1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、 シェーンブルン宮殿でマリア・テレジア御前演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳のマリア・アントーニアのちのマリー・アントワネット マリア・テレジアの娘)にプロポーズしたという逸話がある。 7歳のときフランクフルトで演奏したさいに作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったとのちに回想している。 第1回イタリア旅行。 父と共にミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。 システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。 ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている。 イタリア旅行は三度におよぶが、なかでも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。 教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた。 モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。 1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。 また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。 しかしこうした賞賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王 ミトリダーテ』は大絶賛されるも、報酬はわずかなものであった。 1777 — 1778 パリ旅行 1777年 にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ移る。 同年10月、パリに行く途中、アウグスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従姉妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。 マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だった マンハイム楽派の影響を受ける。 モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた。 モーツァルトは従姉妹に未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーに恋愛し、結婚の計画をたてるが、父レオポルドは唖然としてモーツァルトに「家族がお前に期待しているのは有名になり、お金を稼ぐことだ」といい、1778年 2月にはパリ行きを命じる。 3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった。 受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎも良くなかった。 父への手紙で「通りは言葉にできないほどの糞だらけで」通行不能だったと記している。 また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。 交響曲第31番ニ長調(K. 297)通称「パリ」を作曲する。 7月3日、同行した母がパリで死す。 父はモーツァルトにマンハイムでの軽率な行動のせいだ、この次はお父さんの命を奪うのか、などと非難した。 帰路マンハイムのアロイジアの自宅では冷たくあしらわれ、失恋する。 「僕をほしくないやつは、尻をなめろ!」とモーツァルトはピアノに向かって歌ったといわれる。 ウィーンへの旅立ち 1781年 3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命でミュンヘンからウィーンへ移るが、 5月9日、司教コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。 以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。 翌 1782年、 26歳のとき、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。 コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。 このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。 1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「ハイドン・セット」)。 2月に父レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。 ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。 ハイドンはもし有力者が彼の才能を理解できるのなら「多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した。 1786年 5月1日、オペラ『フィガロの結婚 K. 492』をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。 4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪れたとされるが、記録は無い。 5月には父レオポルトが死去する。 10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ K. 527』を作曲し、プラハエステート劇場で初演。 モーツァルト自らが指揮をとる。 しかしこのころから借金依頼が頻繁に行われる。 翌 1788年 モーツァルトは32歳になっていた。 ウィーンではピアニストとして人気を誇ったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。 モーツァルト自身の品行が悪く,高給な仕事に恵まれなかった事が大きな原因であるが,モーツァルトに怖れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害した為、収入が激減したとする説もある。 1790年 34歳のモーツァルトは 1月、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ K. 588』を初演する。 2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世即位する。 モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調「戴冠式」、同19番ヘ長調「第2戴冠式」などを演奏するも、観客は不入りだった。 1791年 1月、最後のピアノ協奏曲第27番K. 595作曲する。 この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルト最後のステージとなった。 7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。 9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ『皇帝ティートの慈悲』K. 621を初演。 30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール『魔笛』K. 620を作曲、初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。 体調は11月から悪化し、レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に35歳の若さでウィーンにて永眠した。 死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。 妻コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している。 フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った。 成人した2人の男子はどちらも子どもを残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫は居ない。 後期作品と早すぎた死 1791年 1月、最後のピアノ協奏曲第27番K. 595作曲する。 この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルト最後のステージとなった。 7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。 9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ『皇帝ティートの慈悲』K. 621を初演。 30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール『魔笛』K. 620を作曲、初演する など作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。 体調は11月から悪化し、レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に35歳の若さでウィーンにて永眠した。 死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。 症状としては全身の浮腫と高熱であったという。 ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。 実際の死因は「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている。 リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹ったとされている。 また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。 モーツァルトは病に伏す前に、妻に「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。 実際妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。 2002年にイギリスのモーツァルト研究家は、モーツァルトはポークカツレツの豚肉の寄生虫によって死んだとさえ説いた。 また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。 1820年ごろになると、ウィーンではロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中で「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。 老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。
次の【Step1】 Lv. 4 Lv. 1 Lv. 6 まずはスキル1と3。 スキル3はLv1あたり3個と効率よく増やせる。 可能な限りスキルLvを上げたい。 【Step2】 Lv. 6 Lv. 1 Lv. 9 このサーヴァントを運用する上でおすすめのスキルレベル。 スキルLv6になると再使用までが短くなるが、HPが低く再使用までに戦闘不能になることも多い。 Lvの区切りを気にせず倍率を伸ばしていきたい。 【Step3】 Lv. 9 Lv. 4 Lv. 10 スキル3はLv10でスター50個で確定のクリティカルとなる。 Lv9の44個でも十分な効果だが、クリティカル失敗を気にする必要がなくなるのが大きなメリット。 【Step4】 Lv. 10 Lv. 9 Lv. 10 このサーヴァントの理想形。 スキル2は倍率が低くスキルLv上げ自体がおすすめがしづらいが、スキル再使用を狙うのであれば自身の生存に繋がるので上げて損はない。 スキル1は伝承結晶を使用しなくてもスキル3とCTは揃うが、使用タイミングをズラしやすくなる。 自身だけでは不足するが、味方から防御力アップサポートを受ければ宝具対策としても使える。 弱体付与は失敗する可能性がある 宝具による弱体付与は確率成功で、成功率は宝具レベルで変化する。 アマデウスの運用 高難易度のクリティカル編成 前衛 後衛 超人オリオンのクリティカルで大ダメージを狙う編成。 超人オリオンは宝具を使った後の高火力クリティカルが魅力なので、アマデウスのスター獲得はオリオンのNP稼ぎを目的としたクリティカルのために使おう。 戦闘不能前提の運用がおすすめ アマデウスは星1なので最大レベルが低く、ステータスが低め。 自身を守る手段も宝具による攻撃力ダウンのみなので、耐久力が低く長期戦には向かない。 そのためターゲット集中礼装をもたせ、戦闘不能前提の運用がおすすめ。 攻略班 うまく戦闘不能させるためにあえてレベル50で止め、体力を少しでも低くさせるのもおすすめです。 オーダーチェンジとも好相性 アタッカーのカードが多いタイミングにオーダーチェンジを使い、アマデウスを登場させるのもおすすめ。 好きなタイミングでクリティカルが可能なので、 クリティカルの追撃を前提とした周回も可能となる。 超人オリオンの宝具使用のためにスター獲得を使うのもおすすめ。 Busterクリティカルが高火力。 スターを集めにくいクラスなので自身のスター集中だけではクリティカルが安定せず、確定クリティカルが狙えるのは強力。 宝具後のクリティカルが高火力。 Arts主体のアタッカーなので、アマデウスのA強化も活かせる。 等倍前提ではあるが、スキル使用時のクリティカルが高火力。 Arts主体のアタッカーなので、A強化の恩恵も受けられる。 高倍率のクリティカル威力アップスキルを2つ持つ。 自身宝具とアマデウスのスキルで2ターンに分けたクリティカルが狙える。 相性のいいサポーター 英雄作成によるクリティカル威力アップ付与が強力。 アマデウスが退場した後も、宝具でスター供給が可能でクリティカルを連発できる。 Quick限定だが高火力なクリティカルアップを付与できる。 アタッカーがQuick主体なので、アマデウスのスキル使用後も安定してクリティカルを狙いやすい。 Arts編成で好相性。 アマデウスのスター獲得&Arts強化によるNP稼ぎで、玉藻が1度宝具を使うまで長いという弱点を補える。 クリティカル威力アップと毎ターンのスター獲得状態を付与できる。 アマデウスが退場した後もクリティカルが狙いやすく、クリティカル編成で好相性。 小ネタ:サリエリとの相性は?.
次の映画「アマデウス」 1984年 以下は、勤務高校の学年行事で、生徒にこの映画を鑑賞させるにあたり、私が執筆した解説である。 (補筆修正は最小限) この映画は、大作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756-1791 の後半生を、フィクションを織り交ぜて描いたものである。 モーツァルトの死因には謎が多いとされている。 死亡診断書では「急性粟粒疹熱」となっているが、死後まもなく宮廷作曲家サリエリ 1750-1825 による毒殺説がささやかれたことも確かである。 この映画はその説をフィクションであることを承知の上で採用し、晩年のサリエリによる回想という形で話を進行させる。 よって学術的には大変問題が多い映画なのだが、しかし、一方でこの映画の出現は一般の人々のモーツァルト観を激変させた功績があることも確かである。 モーツァルトは昔から「神童」「天才」とされ、その作品は畏敬の念をもって荘重に、あるいは美しく演奏されていた。 しかし、この映画の最初のほうでモーツァルトがオペラ「後宮からの逃走」を指揮する姿に象徴されるように、本来モーツァルトの曲にはジジむさい演奏よりも、若々しいノリのよい刺激的な演奏がふさわしいことが多いのである。 また、モーツァルトが家族や近しい人たちと「下ネタ、放送禁止用語」の連発で会話や手紙を交わしていたことは歴史的事実なのであるが、そのことを広く世に知らしめたという点でも、この映画は画期的である。 モーツァルトはオーストリア西部のザルツブルクの生まれ。 幼少期からその才能をあらわし、父につれられてヨーロッパ中を旅行し、ウィーンの皇帝の宮殿での前でも演奏した。 宮殿のツルツルした床で滑って転んだモーツァルトを助けおこした7歳のマリ・アントワネット(後のフランス王ルイ16世妃)に対して6歳のモーツァルトが求婚した、というのは有名な話であるが、真偽のほどは定かではない。 以下、この映画に登場するモーツァルトの曲とそれにまつわる話を、登場順に紹介する。 最初に鳴り響く不気味な和音はオペラ序曲であるが、このオペラについては後でもう一度書く。 タイトル・バックで流れる曲は、より第1楽章。 この曲は1773年、すなわち17歳(!!! )の時の作品である。 やはり天才は違う。 モーツァルトがコンスタンツェと戯れた後、パーティで指揮する曲は。 この映画だと結婚前の曲のようだが、本当はもっと後の作品らしい。 管楽器アンサンブルによる曲なので、いつか吹奏楽部の諸君に演奏してもらいたいものである。 モーツァルトが皇帝ヨーゼフ2世(マリア・テレジアの息子でマリ・アントワネットの兄)と面会するにあたり、サリエリが作った行進曲をモーツァルトが変えてしまう。 その結果できるメロディは、オペラの最も有名なアリア「もう飛ぶまいぞ」である。 このオペラについても後述。 皇帝と面会したモーツァルトは、宮廷歌劇場用にドイツ語のオペラを書きたいと言う。 それに宮廷歌劇場監督などは反対する。 「ドイツ語は歌には向いていない言語である」というのである。 確かにその通りで、ドイツ語は子音がキツくてとげとげしい。 母音が豊かなイタリア語とは全然違う。 よって、ドイツの皇帝の宮廷作曲家はイタリア人のサリエリだし、その他音楽関係者も皆イタリア人だった。 しかし、ヨーゼフ2世はこうした古い風習を改革したいと考える若い皇帝だった。 そこで皇帝はドイツ語のオペラを許可する。 ここで皇帝はモーツァルトに「ドイツ的美徳とは何か?」と質問する。 モーツァルトは即座に「それは愛です」と答える。 ここはモーツァルトとドイツ音楽のファンにはたまらない名場面である。 モーツァルトは続けて、イタリア・オペラを「男女が騒々しくわめき散らす下品なもの」と吐き捨てる。 これはモーツァルト死後の19世紀のイタリア・オペラに実によくあてはまる批評なのだ。 オペラ「後宮からの逃走」自体について書くスペースがなくなってしまった。 皇帝が「ちょっと音符が多すぎる」と言ったのに対して、モーツァルトが「必要な音符しかありません」と答えたのは歴史的事実である。 またこのオペラの上演直後、モーツァルトが父の許しを待たずにコンスタンツェと結婚するのも事実通りである。 (結婚の所で演奏されるのは「」) 妻コンスタンツェがモーツァルトに無断で楽譜をサリエリに審査してもらいに来た時、「これはオリジナルです」と言う。 この言葉の意味を知るには少し解説が必要だろう。 普通、作曲家は何度も推敲を重ねて曲を完成させた後、総譜として清書する。 だから必然的に、ある曲の楽譜が下書きと清書と複数できる。 しかしモーツァルトは、ほとんど下書きなしで楽譜を完成させるため1回書いた楽譜がそのまま清書となり他にコピーは全くない (だから夫に無断で他人に預けるわけにはいかないのです)、という意味なのだ。 そしてその言葉を聞いて楽譜を見たサリエリの驚きは、そのままモーツァルトの音楽を聴くすべての人々の驚きでもある。 モーツァルトの曲がすべて「一筆書き」だったというわけではない。 何度も推敲した曲だってあった。 しかし、モーツァルトの曲を聴くと、不思議と神がモーツァルトの手を借りて曲を一筆書きしたかのような印象を受けることが多い。 映画のこの場面はそのことを表現しているのである。 次はいよいよ映画の中でモーツァルト自身が「最高の作品」と言うオペラである。 このオペラの原作はフランス革命直前にが書いた演劇である。 これはアルマヴィーヴァ伯爵の召使いフィガロが、伯爵夫人の召使いスザンナと結婚する話である。 伯爵は夫人との仲にあきて浮気したくなり、その相手としてスザンナに目をつける。 それを知ったフィガロ・スザンナ・伯爵夫人の3人が協力して、伯爵を出し抜き、最後には伯爵が夫人に浮気の許しを請う、という筋書きである。 特にたわいもない話であるが、しかし、フランス革命直前のフランスでは、これが「貴族階級をバカにするもの」として上演禁止となってしまった。 そのことがモーツァルトのオペラでも問題とされるわけである。 しかしモーツァルトは首尾良く皇帝の許可を得て曲を完成し、宮廷歌劇場で上演する。 数回で上演は打ち切りとなってしまったが、確かにこのオペラこそモーツァルトの最高傑作といってよいだろう。 だが、確かにこのオペラは長い。 CD3枚組である。 登場人物も多く、CDで音楽だけ聴いてもよくわけがわからないので、やはり字幕付きのビデオディスクで楽しみたい。 彼が父の死を知って書いた作品がオペラである。 ドン・ジョヴァンニとは、女を誘惑する天才ドン・ファンのことである。 女たらしのドン・ファンが、最後には自分が誘惑した女の父親の亡霊によって地獄落ちさせられる、という筋書きだ。 しかし、この作品を心理学的に分析し、モーツァルトは自分のルーズな生活を死んだ父の亡霊によって罰したのだ、とする解釈がかなり有力である。 だからこの映画では、父レオポルドが登場するところで、このオペラの序曲の最初の和音が鳴るのである。 さて、いよいよ死の年1791年となる。 この年の2大作品はオペラと、である。 この映画の最大のフィクションは、サリエリが、モーツァルトに「レクイエム」を注文した上で彼を毒殺し、その葬儀でそのレクイエムを「サリエリ作のレクイエム」として演奏する計画を立てた、ということである。 もちろん史実は全くこれとは違うのだが、しかし、同じくらい奇想天外なものである。 モーツァルトに覆面の使者を使わして「レクイエム」を注文したのは、フランツ・ヴァルゼック・シュトゥパッハ伯爵という貴族である。 彼は1791年2月14日に夫人を亡くしたのだが、彼女を追悼する「レクイエム」をモーツァルトに委託した。 その際、自分の素性をモーツァルトに知られないために、芝居がかった方法でその委託を行ったのである。 なぜなら伯爵はその「レクイエム」を自分の作曲として演奏するつもりだったからである。 さて一方で、モーツァルトは悪友シカネダーのためにドイツ語の歌芝居を1曲書く約束をした。 これが「魔笛」である。 映画では、シカネダー及び彼の劇場は大変品がないもののように描かれているが、実際はそんなはずはなかったと思われる。 なぜならモーツァルトの「魔笛」は大変崇高なテーマをあつかったオペラだからである。 この作品について語るには本当は、モーツァルトやシカネダーや、はたまた文豪ゲーテやアメリカ初代大統領ワシントンなども加入していた宗教道徳的秘密結社について触れなくてはならない。 「魔笛」はこの秘密結社の精神を歌い上げたものなのである。 彼の晩年は、金に困っていたり、コンスタンツェとの仲が悪くなっていた、といった話が広く知られている。 映画でもモーツァルトはずっと金に困っていたように描かれている。 しかし、それはおかしい。 コンスタンツェがモーツァルトの死の年に温泉旅行に行ったのは確かであるが、それは10月であり、モーツァルトが病床につくのは11月末である。 ちゃんと12月5日のモーツァルトの死を彼女は看取っているのである。 また金がなくてどうしてコンスタンツェが旅行に行くことができよう。 モーツァルトは常に先々の収入をあてにしながら前借りで家計を運営していたのだ、という説が書いてある本がある()。 山岸もその説に賛成である。 話を「レクイエム」に戻す。 「レクイエム」はいくつもの部分からなる60分あまりかかる曲だが、モーツァルトは、結局この作品を全部仕上げることはできなかった。 オーケストラ伴奏部分は骨組みだけしか書けずに死んでしまったのである。 死の前日、モーツァルトは「レクイエム」の完成した部分をシカネダーや彼の劇場仲間たちと一緒に歌った。 そしてその晩容態が急変し、日付が変わってまもなくの12月5日午前0時55分に、コンスタンツェと彼女の妹ゾフィとに見守られながら亡くなったのである。 映画では、サリエリが、ベッドに横たわるモーツァルトの指示に基づいて、曲を楽譜に書く作業を手伝う場面がある。 あそこでは「confutatis」という部分を書いているわけだが、その部分もモーツァルトが実際に書いたのは合唱とコントラバスの伴奏だけで、トロンボーンやティンパニの部分は、モーツァルトの死後に彼の弟子ジュスマイヤーが付け足して完成させたものなのである。 また、それに続く埋葬の場面で鳴っているのは「confutatis」に続く「Lacrimosa」という部分であるが、モーツァルトはこの曲を最初の8小節しか書いていない。 その後の部分は完全に弟子ジュスマイヤーが「作曲」したものである。 (ただしこの映画のシーンでは、ジュスマイヤーの作曲は師匠のモーツァルトのやり方からみておかしい部分がいっぱいある、と考えるで演奏されている。 ) モーツァルトの埋葬シーンはかなり歴史的事実に忠実である。 彼が自分専用の墓ではなく共同墓穴に埋葬されたのは有名である。 よって現在は彼の埋葬された正確な位置はわからず遺骨も所在不明なのだ。 現在、ウィーン中央墓地は市街地の中にあるが、当時はウィーン市を囲む城壁の外側にあり、彼の遺体は城壁のところまでしか見送られなかった。 最後に棺桶から遺体だけが墓穴に落とされるのも記録通りで、あの棺桶は何度も使えるようになっているのである。 最後に遺体に石灰をかけるのは伝染病防止のためである。 しかし、何でモーツァルトはあんな惨めな葬式・埋葬だったのか....。 これが最大の謎である。 これについてには興味深い説が書かれている。 実は、この本はモーツァルト・ファン及び研究者の間では大変評判が悪いものである。 なぜなら、この本は、「モーツァルトは梅毒だった」と書いているからである。 愛すべきモーツァルトが梅毒とは!ということで評判が悪いのかもしれない。 しかし、モーツァルトがふしだらな生活をしていたから梅毒になったと書いているわけではない。 1492年、コロンブスの船が新大陸から運んできた性病である梅毒は、瞬く間にヨーロッパ中に広まった。 以後19世紀末ころに抗生物質によって治療できるようになるまで、梅毒は親から子へと母子感染でずーっと受け継がれてきた。 いわばヨーロッパ人のかなり多くがこの病気に悩まされていたのである。 だから、どうもよく死因がわからん、という場合、梅毒を疑うのが当然だと田中氏は言う。 また、モーツァルトの頃は梅毒の治療用にヒ素(和歌山のカレー事件で使われたもの)を含む薬が使われていた、とも指摘している。 だから毒殺説なども出てくるわけだ。 ところで、梅毒は体温40度の状態がある程度長く続くとその症状が治まることは、当時から知られていた。 (梅毒スピロヘータは熱に弱いのだ)。 よって、腸チフス菌をわざと摂取してチフスにかかり高熱を発することで梅毒を治す、というやり方が行われていたらしい。 モーツァルトは小さい頃にオランダで1度このやり方で生まれつきの梅毒の症状をかなり抑え込んだ。 そこで死の年も同じやり方を試みた。 しかし、チフスは1回かかると2回目は症状が軽いため、十分に熱があがりきらず中途半端な状態が続くうちに体力を消耗してしまった。 そこで医者があわてて熱を下げるために瀉血(しゃけつ)、すなわち血を抜くという野蛮な方法をとったために、あっという間に死んでしまったのだ。 コンスタンツェの妹ゾフィーも「もっと熱をあげなくてはならなかったのに医者が反対の事をやった」と証言している、という。 ところが、このやり方は「自殺同然」と周囲から思われていた。 キリスト教では自殺は罪深いことである。 よってまともな葬式を出せなかったのだ・・・・というのが田中重弘氏の説である。 山岸もおおむねこの説を支持するものである。 ちなみにサリエリも晩年、梅毒で脳神経をやられて精神を病み、悲惨な状態で死んだらしい。 だから映画では、あのようなところに収容されているのだ。 もしかしたら「オレがモーツァルトを殺したんだ」などと口走ったこともあったかもしれない...?.
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