略歴 [ ] 永禄3年(1560年)、で生まれた。 4年(1573年)ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、の提案で亀姫と城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、をめぐる戦功への家康からの褒美として4年()、信昌へ嫁いだ。 生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(・・・)と1女(室)を儲ける。 5年()のの戦勝により、慶長6年()夫・信昌が10万石に封じられ、三男・忠政共々、加納に移ったことから、 加納御前・ 加納の方と呼ばれるようになった。 やがて忠政、の嫡男・家昌、信昌と夫子らの相次ぐ死去を受けて、剃髪して 盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。 寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去した。 戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。 墓所は()、()、大善寺(愛知県)にある。 4人いた妹たちには全て先立たれている。 宇都宮城釣天井事件と亀姫 [ ] 亀姫を「」の黒幕とする説がある。 嫡男・家昌の遺児で、わずか7歳で宇都宮藩主となった孫のは、12歳の時にに転封となった。 忠昌の替わりに宇都宮へ入封したのはである。 亀姫は正純を快く思っていなかった。 その理由は、失脚事件である。 信昌・亀姫夫妻の一人娘が、大久保忠隣の嫡子・に嫁していたため、との関係は緊密であった。 だが、娘婿・忠常が早世し、頼みとする忠隣は不可解なとなり、心を痛めていた亀姫は、正純とその父・が奸計で忠隣を陥れた、と見なした。 さらに、忠昌の転封にも我慢がならなかった。 年少ゆえの移封であれば忠昌相続時の7歳の時点で行うべきであるところを、12歳まで成長した後の国替えだったからである。 しかも、それまでの奥平氏が10万石であったのに、正純になった途端15万石というのも承服しかねた。 そこで、異母弟の第2代将軍に、へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、正純には湯殿に釣天井を仕掛け将軍を暗殺するという計画がある、と洩らしたとされる。 釣天井自体は事実無根であったが、正純は配流されることとなった。 その後は、忠昌が再び宇都宮藩へ配されたというものである。 また、下総古河への国替えの引っ越しにまつわる、こんな逸話がある。 本来、私物以外はそのまま新入封の家中のために残して立ち去るように法度で定められているところを、奥平家は障子、襖、畳までも撤去した。 さらに、邸内の竹木まで掘り起こし、一切を持ち去ろうとした。 これを聞きつけた正純の家臣が、慌てて駆けつけて国境で呼びとめ、その非を咎めたため返還したという内容であるが 、真偽は定かではない。 その他 [ ] 4月より、製作の市政番組(にて放映)のナビゲーターとして、亀姫をキャラクター化させたものを登場させている。 また墓所のある大善寺前の通りは新城駅前再開発工事に伴い「亀姫通」として整備されている。 脚注 [ ].
次の六所神社拝殿 1542年12月、家康公誕生の折に産土神として拝礼したという、家康公誕生と関わりの深い六所神社。 慶長7年 1602 には家康公よりご朱印状が下され、石高六十二石七斗を贈られ、同9年社殿造営の上、御神器お品々を下されたと由来にある。 六所神社は、松平初代親氏が六所神明を当地へ移し、国家安全、子孫繁栄を祈願したといわれている。 五万石以上の大名だけが許されたという石段を登ると、極彩色の楼門、その奥に社殿がある。 松平氏の産土神として代々崇敬が厚く、華麗な彫刻や色彩はいずれも江戸時代のもの。 昭和51年に日光東照宮と同じ手法によって修復工事が行われ、建立当時の美しさが再現された。 本殿・幣殿・拝殿・楼門・神供所は国の重要文化財に指定されている。 産湯の井戸 岡崎城は、享徳元年 1452 から康正元年 1455 にかけて三河守護代大草城主、西郷稠頼により築かれ、70年ほど後に家康の祖父・松平清康が入城した。 家康公は、天文11年 1542 、父松平八代広忠、母於大の長男として岡崎城内天守閣西にあった坂谷の産屋で誕生した。 この年が寅年で、生まれた時刻が寅の刻 午前4時頃 であったため、幼名の竹千代とあわせて寅童子という愛称で呼ばれていたという。 産屋に隣接した産湯の井戸が現在も残っている。 家康公が産湯をつかったのがこの井戸から汲み上げた水。 この水と合わせて、松平発祥の地である豊田市松平町の松平郷館 現松平東照宮 からも産湯の水が運ばれた。 その後家康公は、わずか三歳にして母於大と生き別れることになる。 於大の父である刈谷城主水野忠政が病のため逝去すると、後を継いだ兄信元は、今川氏を見切り織田方に転じた。 今川氏から疑念を持たれることを恐れた広忠は、信元と絶交し、於大と離縁しなければならなかった。 そして家康公が4歳の時、父広忠は、今川方に与する東三河の有力大名、田原城主戸田氏の真喜姫と再婚。 竹千代に継母ができた。 その後、三河における織田の勢力が拡大し、松平氏一族にも織田方に通じる者が現れた。 広忠が今川義元に援助を乞うと竹千代を人質に求められ、家康公が岡崎城を離れたのは6歳の時だった。 境内には、六角堂開運勝利観音・東照権現宮・家康ゆかりの御草紙かけ松・おてならい井戸・お手植えの桜などの文化財も多く現存している。 御草紙かけ松は、家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから永く人々に親しまれてきた。 代々受け継がれてきたが、平成17年に虫害により枯れた。 その後、慣れ親しんだ松を後世に伝えようと、地元有志の手により平成18年に四代目の松が植樹された。 桶狭間の合戦後、家康公はこの寺に守護不入の特権を与えるなどして優遇したという。 山腹には新撰組隊長近藤勇のものと伝わる首塚がある。
次の六所神社拝殿 1542年12月、家康公誕生の折に産土神として拝礼したという、家康公誕生と関わりの深い六所神社。 慶長7年 1602 には家康公よりご朱印状が下され、石高六十二石七斗を贈られ、同9年社殿造営の上、御神器お品々を下されたと由来にある。 六所神社は、松平初代親氏が六所神明を当地へ移し、国家安全、子孫繁栄を祈願したといわれている。 五万石以上の大名だけが許されたという石段を登ると、極彩色の楼門、その奥に社殿がある。 松平氏の産土神として代々崇敬が厚く、華麗な彫刻や色彩はいずれも江戸時代のもの。 昭和51年に日光東照宮と同じ手法によって修復工事が行われ、建立当時の美しさが再現された。 本殿・幣殿・拝殿・楼門・神供所は国の重要文化財に指定されている。 産湯の井戸 岡崎城は、享徳元年 1452 から康正元年 1455 にかけて三河守護代大草城主、西郷稠頼により築かれ、70年ほど後に家康の祖父・松平清康が入城した。 家康公は、天文11年 1542 、父松平八代広忠、母於大の長男として岡崎城内天守閣西にあった坂谷の産屋で誕生した。 この年が寅年で、生まれた時刻が寅の刻 午前4時頃 であったため、幼名の竹千代とあわせて寅童子という愛称で呼ばれていたという。 産屋に隣接した産湯の井戸が現在も残っている。 家康公が産湯をつかったのがこの井戸から汲み上げた水。 この水と合わせて、松平発祥の地である豊田市松平町の松平郷館 現松平東照宮 からも産湯の水が運ばれた。 その後家康公は、わずか三歳にして母於大と生き別れることになる。 於大の父である刈谷城主水野忠政が病のため逝去すると、後を継いだ兄信元は、今川氏を見切り織田方に転じた。 今川氏から疑念を持たれることを恐れた広忠は、信元と絶交し、於大と離縁しなければならなかった。 そして家康公が4歳の時、父広忠は、今川方に与する東三河の有力大名、田原城主戸田氏の真喜姫と再婚。 竹千代に継母ができた。 その後、三河における織田の勢力が拡大し、松平氏一族にも織田方に通じる者が現れた。 広忠が今川義元に援助を乞うと竹千代を人質に求められ、家康公が岡崎城を離れたのは6歳の時だった。 境内には、六角堂開運勝利観音・東照権現宮・家康ゆかりの御草紙かけ松・おてならい井戸・お手植えの桜などの文化財も多く現存している。 御草紙かけ松は、家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから永く人々に親しまれてきた。 代々受け継がれてきたが、平成17年に虫害により枯れた。 その後、慣れ親しんだ松を後世に伝えようと、地元有志の手により平成18年に四代目の松が植樹された。 桶狭間の合戦後、家康公はこの寺に守護不入の特権を与えるなどして優遇したという。 山腹には新撰組隊長近藤勇のものと伝わる首塚がある。
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