「モンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンは、実は源義経ではないか」という説は、どこかしらで聞いたことがあるのではないでしょうか? 元々この話は、ドイツ人医師シーボルトにより広まったそうで、その真偽のほどは諸説さまざまですが、もし、これが本当だったら……。 そんな想像でしかなかった話が、『ハーン -草と鉄と羊-』で生き生きと動き出しました。 主人公はもろちん、クロウこと源九郎義経。 1185年の壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、武勇をあげたクロウでしたが、後に鎌倉幕府初代将軍となる頼朝に疎まれ、命からがら蝦夷地に逃げ延びます。 歴史の本によると義経は、1189年に奥州平泉で自刃。 その首は頼朝の元に届けられたことになっていますが、ここに出てくるクロウは船で大陸へと渡ろうとします。 すべてを失い、まさに裸一貫のクロウにとって唯一の持ち物は、平家滅亡の折に失われた三種の神器のひとつ「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」。 こんなところで草薙の剣が出て来るなんて! たいして歴史を知らない私ですら「おう」と、うなってしまいました。 船が転覆し、やっとの思いで大陸にたどり着いたクロウは、こう言います。 当時のユーラシア大陸は、様々な民族が入り乱れ、統一されていませんでした。 金で女真(じょしん)族に拾われたクロウは、遊牧民族タタルに連れ去られ、獄中でモンゴル族のジャムカと知り合います。 そしてジャムカの手引きで、タタル族と敵対するケレイトに加わります。 クロウは、遊牧民族の中でも最強といわれるケレイトの部族長であるオン・ハーンの一番のお気に入りとなり、テムジンという名を授かります。 テムジンとは、「優れた鉄の男」という意味。 大陸制覇の野望を持つオン・ハーンは、「鉄を制する者が天下を制す」と考え、テムジンを絶対的に服従させたいと考えていました。 ところがテムジンは、無謀にも「オン・ハーンの首を獲る」ことを計略。 最大の実力者を殺し、自分がその座に着けば、黙っていても兵士は自分に従い、この大地を手に入れられると思ったからです。 しかし、この計略を察したオン・ハーンにテムジンは敗れ、逃走。 またしてもモンゴル族に助けられます。 そして、こう言うのです。 テムジンったら、すぐトップに立ちたがるんだから! と思わずツッコミを入れたくなるのですが、源頼朝よりも人気があり、朝廷からのおぼえもめでたかった九郎義経としては、鎌倉幕府に代わる天下が欲しかったのかもしれません。 モンゴルを支配するためには、力のある味方が必要と考えたテムジンは、図体が大きく力持ちのカサルとモンゴルの格闘技・ブフで決着をつけようとします。 しかも、かなり姑息(こそく)なやり方で。 それでも悪びれずにこう言うのです。 「勝つためなら手段は問題じゃない」 源義経だったときも、テムジンとなった今も、戦のやり方は変わらないということなのでしょう。 そんな折、今度はタイチウトという違う部族がテムジンたちの村を襲って来ます。 その先頭に立つ男を見て、「あいつも欲しいな!」と言うテムジン。 2000人の兵に対し、わずか2人で敵の野営地に忍び込んだテムジンは、相手の馬を逃がし、兵糧を燃やすという奇襲を仕掛けます。 チンギス・ハーンが義経ではないかと言われる根拠となった、「どちらも奇襲が得意」という話がここに出て来て、思わずニヤリです。 この漫画の面白さは、断片的にしか残されていなかった史実が、壮大なストーリーとして、1つに繋がったこと。 大陸に渡った義経の身に、こんなことが起きていたのではないかと想像を巡らすのは、この上なく楽しいです。 歴史の授業で習った「元寇」(文永・弘安の役/蒙古襲来)は、チンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンが日本を侵略しようとしたものですが、もし、チンギス・ハーンが義経だったら、お爺ちゃんの話を知ったフビライ・ハーンが敵討ちに来たともとれるのではないか? そういえば、義経がやっとの思いで大陸にたどり着いたときのセリフ、「あんなちっぽけな島国は兄上に貸しといてやる」が妙に引っかかったのは、「くれてやる」ではなく、いつか取り返すということなのか? などと、どんどん妄想が膨らんでしまいました。 もし、私が高校生のときにこの漫画があったなら、世界史が苦手な私でも、もっと興味を持てたのに。 今年の4月末に発売された第1巻は、即重版になった『ハーン -草と鉄と羊-』。 野望渦巻く壮大なストーリーは、これからが益々、面白くなっていきそうです。
次の源義経、テレビの大河ドラマや、様々なゲームやアニメでおなじみのキャラ。 兄頼朝に疎まれて非業の死を遂げる、判官贔屓(ほうがんびいき)の語源ともなった人気の武将。 静御前という絶世の美女にも慕われた見栄え(?)も中身もイケメン。 源義経ってそんなイメ-ジの人物ですが、生き延びてチンギス・ハンになっていた、なんて説が明治の時代の知識人の論文として発表されていたんです。 これってホントに可能性アリ?? 画像出典: 源義経とは 出典: 源義経は平治元年(1159)、源氏の棟梁・源義朝の九男、常盤御前の三男として生まれます。 幼名を「牛若丸」 鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟として生まれ、 仮名は九郎、実名は義経。 その波乱の人生とは。 義経の生涯 出典: 平治元年(1159)父・源義朝は平治の乱で謀反人となり死亡。 牛若丸は出家を条件に平清盛によって命を助けられ、母常盤御前は兄・今若、乙若、牛若丸と共に大和国へとの逃れた後、兄2人は出家。 牛若丸11歳の時、常盤は公家の一条長成と再婚。 牛若丸は僧になるために鞍馬寺へ預けられ、稚児名遮那王(しゃなおう)と名乗ります。 この頃弁慶と出会い、鞍馬天狗に武術の指南を受けたとされています。 承安4年(1174)1 6歳の時、僧になることを拒んだ遮那王は鞍馬寺を出て元服を果たし、名を義経と改め、奥州平泉の藤原秀衡の元に身を寄せます。 治承4年、 兄頼朝が平家討伐のための兵をあげると頼朝もその軍門に加わります。 その後後白河上皇を幽閉した木曽義仲を倒し、瀬戸内海に逃れていた平家追討では 一の谷、屋島、壇ノ浦などで正面からぶつかる勇猛さや相手を手玉に取る戦術手腕で、 武将として華々しい活躍を果たし、平家追討の最大の功労者となり、その名を全国に轟かせます。 けれど、後白河法皇から検非違使に任じられたことがきっかけで 頼朝と亀裂が生じてしまいます。 義経は兄・源頼朝にとって、脅威となる存在となっていたのです。 義経は許しを請うための書状・腰越状を兄・頼朝に送り、敵の武将平宗盛、清宗父子の護送のため鎌倉入りをしようとしますが認められません。 そしてついに 兄頼朝は義経の討伐を命じます。 義経も兄の追討を図りますが、大嵐に合うなどの災難もあって敗北。 弁慶らごくわずかな家来ともに奥州衣川へ逃れます。 最後には藤原泰衡に攻められて自害、生涯を終えます。 義経にまつわる様々なエピソード 出典: 鞍馬天狗から武術の修行を受ける 鞍馬天狗は鞍馬山(くらまやま)の奥にある僧正が谷に住む 大天狗。 遮那王11歳の時、東谷の僧とともに花見の出かけた際、見知らぬ山伏(やまぶし)と出会います。 義経の素性を知り、自分の正体は大天狗であると明かし、平家討伐を達せられるよう兵法の秘伝を授けます。 弁慶との出会い 武蔵坊弁慶は紀伊国の僧。 京都で1000本の太刀を奪うことを企て、道ゆく武士から刀を奪います。 あと一本というところで 五条大橋で源義経と出会います。 笛を吹き、歩いていた義経に襲いかかるも、軽く交わされ、 返り討ちに合ってしまいます。 それ 以降弁慶は義経の忠実な家臣として生涯を終えます。 その最期は衣川の戦いで 源義経を守るため、敵の矢を受けながら立ったまま絶命。 後世に忠臣として語り継がれています。 判官贔屓の語源になる 「判官贔屓」(ほうがんびいき)とは、弱者に同情して味方したり、応援することをいいます。 判官とは「九郎判官」と呼ばれた義経のこと。 数々の功績をあげながらも兄に疎まれたためにあえない最期を遂げた義経に人々が同情したことから生まれた言葉です。 静御前 出典: 愛妾「静御前」のエピソードも有名です。 兄の頼朝と対立した義経に同行しますが途中山僧に捕らえられ鎌倉に送られます。 頼朝に白拍子の舞を命じられ、 「 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 (吉野山の峰の白雪を踏み分けて、行ってしまった人が恋しい) と 唄ったことは広く知られています。 義経不死説 出典: 生き延びて蝦夷に渡った? 義経には、実は衣川では死なず蝦夷に逃れたとする「 義経北方(北行)伝説」などが存在します。 衣川で難を逃れた 義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった。 または、アイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるという説があります。 寛政11年(1799年)には北海道沙流郡平取町に義経神社も創建されています。 現在も北海道には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟など義経にゆかりの古跡が点在しています。 源義経 ホントに チンギス・ハン になった? 出典: 清の乾隆帝の文献の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という」との記載があるとか。 幕末以降、義経が蝦夷から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(チンギスハン)になったとする「 義経=チンギスハン説」が出現します。 義経は大陸に渡航し、女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・ハンになったという説が唱えられるようになります。 明治の歴史家 末松謙澄はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗(チンギスハン)は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』として日本で和訳出版され、当時のブームともなっているのです。 大正時代には小谷部全一郎が、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡っています。 彼は 義経がチンギス・ハンであったことを確信し、著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版。 当時の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなっています。 けれど、残念ながら現在では、チンギス・ハンのおおよその生年も父親の名前もはっきりと判っていることから、 源義経=チンギス・ハン説は学術的には完全に否定された説であるとされています。 現代でも爽やかな美少年、源義経 出典: 「 鬼灯の冷徹」での義経は性別の判断が付かないほどの細身の美少年。 「 無双OROCHI」での義経は引き締まった体躯をもつ、爽やかな青年。 生真面目で融通が利かないところがある武将として登場しています。 源義経 まとめ 出典: 義経とチンギス・ハンではイメージがつながらない。 どう見てもチンギス・ハンは殺戮を繰り返す暴君、その子孫は直系だけで1600万人も存在するとか。 もし義経がチンギス・ハンである可能性があるとするなら正直いってイメージダウンです。 報われない最期を偉大なる英雄と変えてあげたいという、まさに『判官贔屓』な期待や願望の成せるワザであるように思います。
次の史上最大のモンゴル帝国の基礎を築いたチンギスハン。 それなのに彼に関しての資料が少なすぎるのはご存知でしょうか? 生年月日さえわかっていないんです。 ただ、これは当時のモンゴルなら普通だったのかもしれませんが。 二人の共通点を見てみましょう。 義経は31歳で死亡17年後にチンギスハンが歴史に登場。 この時41歳と言われています。 大体同年代なんですね。 さらに当時のモンゴルで大型の弓を使っていたのはチンギスハンただ一人。 普通は小型の弓を使うのがモンゴル人なんです。 ちなみに大型の弓を使っていたのは日本人です。 義経がモンゴルに渡ったなら頷けますね。 大河ドラマでやりましたが、義経はこの動画のような鎧兜を着ていたと思われます。 ずいぶん前のドラマですが、石原さとみさん出演されていたんですね。 当時から綺麗。 Sponsored Links それはいいんですが、そもそもこの説、【義経はチンギスハンになった】はヨーロッパから日本に来た医者、シーボルトが言い出したものです。 「歴史を見直したほうがいいですよ〜!」って。 彼は大陸から渡ってきたわけなので、そこの事情に詳しかったのかもしれません。 でも、衣川で自害させられた義経の首は鎌倉にいる頼朝の元に送られています。 これでは言い逃れができそうにありませんが・・・ 鎌倉に義経の首が届いたのは6・13と言われています。 今でいうと真夏です。 当時でも20日でいける平泉と鎌倉の距離。 それにもかかわらず、実は義経の死から鎌倉まで43日もかかっています。 なぜでしょうか? なぜだと思いますか? 真夏なら首が腐らないように急ぎそうなものです。 それにも関わらずいつもよりも倍以上の日数がかかっています。 ここで一つの仮説が浮かんできます。 送られた首って・・義経じゃなかったんじゃないの? 義経じゃないから頼朝が首検分をした時にばれないようにわざと時間を稼いで腐らせたのでは? ではその首は誰のものだったのか? 実は義経の死を境にその記録が途絶えた男がいます。 名を杉妻太郎。 義経の世話役の男性です。 二人は見間違うほど似ていたと言われています。 つまり、 影武者ですね。 彼の首が鎌倉に送られたのです。 一応義経の位牌はあります。 平泉に。 戒名【館を捨て、山を越えた義経】 ん? 「平泉を捨て、山を越えてさらに北へ向かった。 」ということでしょうか? 実はその後北を目指す義経を目撃し、風呂を貸した人物までいるのです。 風呂を貸したことで義経に「風呂」と言う名字まで与えられています。 ただ、兄頼朝もバカではありません。 腐った首では信用できなかったのでしょう。 平泉に刺客(畠山重忠)を向けたようです。 兄弟なのにそこまでしますかね -。-; ちなみに北に逃げて行く義経の痕跡が今でも残っています。 例えば、岩手県石見氏には源義経と弁慶の名が記された木片が残されています。 岩手県普代村には、北を目指す義経一行が不行道(現在の普代村)で道を断たれて一週間ほど滞在したと記録があります。 刺客が迫っていたのです。 つまり、義経の足取りを確実に追っていたことがわかりますね。 義経が生きてることは源頼朝自身が半分証明してくれてるわけです。 なんだか義経が本当は生きていた事に信憑性が湧いてきましたね。 他にも義経は北を目指し、モンゴルにたどり着いた証拠にモンゴルで義経のものとよく似た家紋が見つかっています。 話を日本に戻しますが、義経を追っていた刺客、名前が分かっています。 と言うか結構有名人です。 彼の名は畠山重忠。 源平合戦では義経の腹心だった侍です。 実は岩手で追いついたのです。 で、どうしたか? これは証拠が残っているんですが、畠山重忠は源義経と弁慶の追いつき・・・ 矢を放ちました。 放たれた矢は二人に当たらず、そこにあった木に突き刺さったそうです。 そして矢は岩手県久慈市にある諏訪神社に、今も御神体として祀られています。 畠山重忠は義経を殺したくなかったのでしょう。 そのまま北上した源義経・・・北海道に行き着くわけです。 さて、ここまで源義経=チンギスハン説を検証してきましたが・・ ここからですよね。 北海道、当時でいう蝦夷(えぞ)にたどり着いたはいいですが、モンゴルまでどうやっていくの? と疑問が浮かんできます。 それはないだろ。 しかしよくよく当時のことを調べてみると、なんとあったんです。 12世紀に日本からモンゴルへ行くルートが。 源義経はどうやってモンゴルに渡った? その頃の蝦夷では海洋民族が築いた文明が栄えていました。 船を使って大陸と交流していたのです。 これは仮説ではなく、ほぼ確定です。 もし源義経が北海道までたどり着けていたなら、そこから彼らの力を借りて大陸へいけます。 あとは陸路ですから、モンゴルに行けないとは言い切れないのです。 そもそもこの説を唱えたのはドイツ人医師のシーボルトでした。 義経は、チンギスハンです。 ほぼまちがい無いでしょう。 しかし、それが認められる日は、永遠にやってこないと思われます。 残念ですが。 私は小学生の頃、邪馬台国は、畿内にあると確信しておりました。 当時は九州説が優勢だったのです。 現在は、畿内説で、固まりつつあります。 私はこういった能力が、有り、世間に認められなくとも、私の推測は正解なのです。 大乗仏教は、キリスト教、中国語は、インド ヨーロッパ語族 と、専門家から、一笑に付されてしまう学説を持っております。 これは正解なんです。 わかる人にはわかるのです。 しかし、学会が認めないからという事でキチガイ扱いをされてしまいます。 しかし、つい70年前まで、野球の変化球は、錯覚であると言うのが、学会の常識だったんですよ!血液型と性格の関係は有り得ないとされていたのも、そんなに昔のことでは有りません。 学問の専門家の見解が、絶対では全然無いのか現実なんですけど、仕方ないですね。 義経イコール チンギスハンは、まちがい無いんですけれど、現段階ではとても厳しいですね。 改めて残念です。 Shinさん、時間がありましたらヒットラーとナポレオンも取り上げてみて下さい。 この二人共通点があります。 ヒットラーは生粋のドイツ人とは言えませんし、ナポレオンもまあフランス人ですが実はアイデンティティはかなり希薄、ということです。 ヒットラーは生まれはオーストリアでドイツ国籍を取ったのは10代になってからだったと思います。 ナポレオンはコルシカ島出身で、ナポレオンの誕生前にコルシカ島が当時イタリア半島にあった領主国である王国に対し反旗を翻し、フランス側に寝返ったという経緯があります。 つまりナポレオンがフランス人になったのは結構偶然だったんですね。 本人も生涯自分をコルシカ人と自覚していたそうです、フランス人ではなく。 こういう、外部者がある文化圏でトップに上り詰める事例を外部者の過剰適応というらしいです。 チンギスハンも例外ではないような気がしています。
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