製作年:2017年• 製作国:日本• 上映時間:115分• 公開日:2017年7月28日(日本)• 監督:月川翔 (「君と100回目の恋」「となりの怪物くん」「センセイ君主」)• 脚本:吉田智子 (「アオハライド」「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」「わろてんか」)• 原作:住野よる『君の膵臓をたべたい』• 音楽: 松谷卓、伊藤ゴロー (追加編曲)• 主題歌:Mr. Children「himawari」 キャスト 過去 山内桜良……浜辺美波 僕……北村匠海 滝本恭子……大友花恋 ガム君……矢本悠馬 隆弘……桜田通 現在 志賀春樹……小栗旬 栗山……森下大地 滝本恭子……北川景子 宮田一晴……上地雄輔 あらすじ 高校時代のクラスメイト・山内桜良(浜辺美波)の言葉をきっかけに、母校の教師となった〈僕〉(小栗旬)。 膵臓の病を患う彼女が書いていた「共病文庫」(=闘病日記)を偶然見つけたことから、〈僕〉(北村匠海)と桜良は次第に一緒に過ごすことに。 だが、眩いまでに懸命に生きる彼女の日々はやがて、終わりを告げる。 桜良の死から12年。 (公式サイトより) 感想 主人公は、地味で根暗な図書委員の〈僕〉。 〈僕〉は偶然、クラスの人気者・桜良が膵臓の病気で余命幾ばくもないことを知る。 自由奔放な彼女に振り回され、共に時間を過ごすうちに、互いに大切な存在となっていく2人。 けれど、彼女はある日突然、思いがけない形でこの世を去ってしまう。 はっきり言って、ストーリーは既視感満載です。 多くの人が思い浮かべたように、わたしもすぐに「世界の中心で、愛をさけぶ」や「四月は君の嘘」が頭をよぎりました。 結末が予想できることもあって、前半の1時間 (主人公とヒロインが距離を縮めていく部分)は、かなり退屈でした。 いや、わたしが恋愛モノ苦手というのもあるんですけどね……。 後半は動きがあるものの、やはりお約束の展開で、これといった驚きがないまま幕を閉じました。 (公式サイトより) うーーん。 ヒロインが思わせぶりな態度をとっていたので、最後に「あっ」と驚く展開が待っているのだろう、感動でむせび泣く結末が待っているのだろう、とすごく期待していたのですが……。 本当に予想どおりの結末でした (ヒロインの死因は予想外だったけど)。 映画としては、決して駄作ではなかったです。 浜辺美波さんも北村匠海さんも、とてもよかったです。 12年後の2人を演じた小栗旬さんと北川景子さんも、過去とのシンクロ率が高かった。 だからこそ、何かが腑に落ちないというか、引っかかるんですよねー。 で、原作はどうなのか気になってしまい、少し調べてみました。 それで、ようやく引っかかりの理由がわかりました。 名前です。 教師になった〈僕〉は、図書館で桜良が残した手紙を見つけ、そこで初めて桜良の気持ちを知ることになります。 手紙 (遺書)の中で桜良は、はじめて「春樹」と〈僕〉の名前を呼び、「どうして私を名前で呼んでくれなかったの?」と訊くのです。 映画の中で、ヒロインの桜良はずっと〈僕〉のことを名前で呼びませんでした。 「地味なクラスメイトくん」 「仲良しくん」 自分だって春樹のことを名前で呼ばなかったくせに、なぜいきなりそんなことを言うんだろう? なんかね、名前を持ちだしたことが、すごく唐突に感じたんですよね。 わたしは、ここに重要な意味が隠されていることに、全く気づけませんでした。 原作の【文字による仕掛け】は映像化できない 実は、原作では、実際に桜良が「地味なクラスメイトくん」と呼んでいるワケではないらしいのです。 桜良は実際には名前を呼んでいるけれども、主人公はそれを脳内変換して【地味なクラスメイトくん】というふうに受け取っている、ということらしいのですね。 原作では、ラストまで主人公〈僕〉の名前を隠し続けます。 実はこの名前こそが、物語の途中で仕掛けられた様々な伏線を解く重要な鍵となって、ラストに生きてきます。 〈僕〉の名前は「志賀春樹」。 春の樹は「桜」。 主人公とヒロインが同じ (気持ち)だったことに気づきます。 桜 (良)が春 (樹)を必要としていたこと、この出会いを待っていたことに気づきます。 でも、これは文字を使用する小説だからこそできる仕掛けであって、映像ではできません。 だから映画ではストレートに桜良が「地味なクラスメイトくん」と呼んでいることになっているし、主人公〈僕〉の名前も最初のほうであっさりバラしてしまっています。 「桜良」「春樹」という2人の名前に仕掛けられた、この物語の最大の伏線が、映画ではものすっごく中途半端な形になってるんですね。 わたしが感じた引っかかりは、まさにその違和感でした。 映画で仕掛けた新たな伏線 その代わり、映画では新たな伏線を仕掛けていました。 入院が長引くとわかり、桜良が不安のあまり春樹に電話してしまうシーン。 「桜はね、散ったふりして咲き続けてるんだって。 散ったように見せかけて、実はすぐ次の芽をつけて眠ってる。 散ってなんかいないの。 みんなを驚かせようと隠れてるだけ。 そしてあったかい季節になったら、また一気に花開くの」 この言葉のとおり、桜良はこの世を去って12年も経ってから、春樹を驚かせることになるのです。 あらかじめ図書館に隠しておいた手紙 (遺書)で。 春樹の12年後を描いたストーリーは、映画オリジナルです。 原作には、春樹が手紙を見つけるシーンはないそうです (桜良の気持ちはすべて「共病文庫」と名付けられた日記に記されていました)。 そしてもうひとつは「ガム君」。 春樹は人間関係を否定しているので、クラスメイトの名前を覚えていません。 後半になるにつれ徐々に親しくなるクラスメイト (通称ガム君)の名前も知りません。 それは桜良を失った12年後も変わっておらず、桜良の親友・恭子から結婚式の招待状を受け取っても、恭子の結婚相手「宮田一晴」が誰なのか全く気づかない。 そしてラストでようやく、彼が〈ガム君〉であることに気づきます。 春樹が桜良から名前で呼ばれること。 春樹がガム君の名前を知ること。 いずれも、春樹がようやく他人と繋がったことを意味しているのでしょう。 タイトルの意味 この作品のタイトル「君の膵臓をたべたい」には、複数の意味があります。 ひとつは、冒頭で桜良が語った、病気が治るという言い伝え。 「昔の人は、どこか悪いところがあると、ほかの動物のその部分を食べたんだって」 もうひとつは、福岡旅行中に桜良が春樹に語った「生きたい」という願い。 「人に食べてもらうとね、魂がその人の中で生き続けるんだって」 そして最後は、桜良が手紙の中で打ち明けた春樹への「憧れ」。 「私ね、春樹になりたい。 春樹の中で生き続けたい」 とても印象深いタイトルではあるけれど、ストーリーが平凡だっただけに、わたしにはあざとさ (狙ってる感)のほうが強く伝わってきて、あまり素敵なタイトルとは思えませんでした。 桜良が患っている膵臓の病気も、リアリティなかったですし。 あと、いい年をした大人の男性が、結婚式当日に新婦に向かって「友達になってください」は引く。 しかも新郎の前で。 これは泣けない。 やっぱりヒネクレてるのかなぁ、わたし。
次のまさか、2018年最初に読み終えた本がこれになるとは思いもよらなかった。 こちら2015年に出版された住野よるのデビュー作である。 僕自身はもともと、小説の中でももっと 暗くてひねくれたやつを好んで読む傾向があります。 具体的に何とかはないけど。 そんな僕の好みとは対極に位置する眩しすぎるほどの本書。 話題になったときから本の存在は認知していたけど、どうせ、少女漫画みたいな展開のありふれた 余命青春系ラブストーリーだろ、決めつけてかかりどこかで敬遠していた。 そんな中、たまたま会社の先輩からこの本を借りる機会があって、せっかくなので読んでみたというわけ。 まあ、読後の最初の感想としては、 「なんだこのありふれた 余命青春系ラブストーリーは、、、、」 いえ、別に非難しているわけではない。 ただ、よくある展開の中でも心が温まるというか、いや澄んだ心を持つのは素晴らしいなと。 正直、何番煎じかわからないほどのありがちな恋愛ラブストーリーだとは思う。 それでも、本書ならではの感動と感心する展開があったのは事実。 斜に構えず、純粋な心で読み進めていくと、ちょっと切なく、ほっこりした気持ちになれて心地よい読後感が得られる。 そんなこんなでざっと思うことを書いた。 あらすじ ある日、高校生の僕は病院で一冊の文庫本を拾う。 タイトルは「共病文庫」。 それはクラスメイトである山内桜良が綴っていた、秘密の日記帳だった。 本書引用 冒頭一行目から 「クラスメイトであった山内桜良の葬儀は~」といきなりヒロインの死が確定して物語はスタートする。 病気の秘密を知ってしまったことで、 人との関わりを避けてきた内向的な 僕と、 明るく天真爛漫でクラスの中心的な存在の 桜良が、接点を持ちお互いに心を通わせていく形で物語は進んでいく。 「君の膵臓をたべたい」の意味について 冒頭に「 昔の人はどこか悪いところがあると、ほか他の動物のその部分を食べた」「そうしたら病気が治るって信じられていたらしいよ」と説明がなされている。 ここでタイトルの意味を明かしたかと思いきや、最後にお互いのことを君の爪の煎じて飲みたいとの表現を改めて、 君の膵臓がたべたいと送り合う。 正反対な二人だと認めながらもお互いに自分の欠けている部分を持っているそれぞれに憧れていたという共通の気持ちを示しあい終わる。 つまり 君のようになりたかったということを二人にしか伝わらない方法で表現している。 一見すると、猟奇的な言葉をお互いを尊重しあっている意味に変換して捉えることができるようにした点は素晴らしいと思った。 また恋愛小説とは思わせないギャップのある斬新なタイトルにしたのも惹きつけられる一因かと。 印象的な桜良のセリフ 「私たちは皆、自分で選んでここに来たの。 偶然じゃない。 運命なんかでもない。 君が今まで選んできた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。 私たちは自分の意思で出会ったんだよ」 本書引用 偶然、運命ではなく、自分の意思で選択してきた結果。 そんな考え方は自分の現状を自分の力で引き寄せることもできるという意味が込められていると思った。 主体性を持った行動するものにとって自信に繋がる勇気づけられる一節でないかと思い感銘を受けた。 また、名前の由来の話題になったときの主人公のセリフで 春を選んで咲く花の名前、は出会いや出来事を偶然じゃなく選択と考えてる、君の名前にぴったりだって思ったんだ。 本書引用 と言った返しも秀逸でうまいなと。 んで、 共病文庫の中での 17年、私は君に必要とされてるのを待っていたかもしれない。 桜が春をまっているみたいに。 本書引用 と記されているところにリンクしている点も素晴らしい。 ラストシーンの解釈 もう、怖いと思わなかった。 で締めくくられるラスト。 共病文庫の中の桜良の推測として、 僕が桜良の名前を呼ばない理由について、 「いずれ失うってわかっている私を「友達」や「恋人」にするのは 怖かった のではいないか? 当たっていたら、墓前に梅酒でも置いといて 笑 」 とある。 そして、その後の恭子との墓参りのシーンで 「お供え物はその時に買ったお土産なんだ。 学問の神様がいた場所にできた梅で作られてたものだ。 」 とあるため、桜良の推測は的中していたと考えて間違いないでしょう。 主人公は 人と関わりから逃げることがなくなったということだと思う。 まとめ ちょっと鼻につく会話のやり取りもあるが、比較的読みやすく、素直に感動できる作品だと思った。 その感動は普遍的な恋愛小説のようなお互いの気持ちが通い合うことによる感動と主人公の人間的な成長に対しての感動の二面性が味わえる。 おしまい Advertisement 関連する記事• 2018. 15 こんにちは。 また良書に出会えたので、感想を書きたいと思います。 こちら、ドラマもヒットした陸王です。 陸王 -ディレクターズカット版- Blu-ray […]• 2017. 2019. 12 ほんとに意味わからないくらいに憂鬱になっちゃう夜ってありますよね。 タイトルに惹かれて衝動買いした本書は、作品名通り、何もかも憂鬱な夜に捧げる最適な本[…]• 2018. 2019. 18 「なんかいい本ないかなー」とブックオフを物色していたときに惹かれた一冊。 単にタイトルと表紙がかっこよくてジャケ買いした。 一見、堅苦しそうなタイトル[…]• 2018. 2018. 13 久しぶりに面白い本を読んだ。 読み始めたきっかけとしてはただ面白そうという理由のみで手に取った。 実際、後から思い返してみる[…]• 2017. 2019. 27 あらゆる自己啓発本の頂点に立つ本。 決して誇張ではない。 そう感じざるを得ない本だった。 結構前に話題になっていてドラマ化、アニメ化もされ[…].
次の「選んでくれてありがとう」 <「違うよ。 偶然じゃない。 私達は、皆、自分で選んでここに来たの。 君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。 運命なんかでもない。 君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。 私達は、自分の意思で出会ったんだよ」> 人生に偶然はない。 すべてその人の選択の結果である。 桜良はそのような考えを持っています。 それは「僕」が「春を選んで咲く桜という花の名前は、人生を偶然じゃなく選択だと考えている君の名前にぴったりだ」と指摘するように、「桜良」という名前と密接にリンクしています(このセリフは「春を選んで」というところが「僕」の名前である「春樹」とも関係していますけど、それはまた別の話)。 この桜良の人生観はそのまま受け取ることもできますけど、私は別の意味も含まれているのでは、と思いました。 それは「この本を読むことを選んでくれてありがとう」です。 読書をしていて「この本はすごい。 読んでよかった。 まさに、私のために書かれたものだ」と思う本に出会う機会はまあまああります。 それがよいことかよくないことかはいったん置いておいて、そういう気持ちはたいがい、読者の片想いです。 だって常識的に考えて、私ひとりのためだけに書かれた本は、きっと存在しないからです。 本に対する思いは、たいてい一方通行です。 でも、まれにそんな読者の思い込みと呼応するように、本の側からも「読んでくれてありがとう」というメッセージを発信している本があります(ほんとうに珍しいですけど)。 この『君の膵臓をたべたい』という小説はそんな「珍しい本」です。 「よく選んでくれたね。 ありがとう」のメッセージを読者に向けて掲げてくれている、とてもレアな本です。 私はそう感じました。 私の今までの読書経験を顧みると、小説のほうからメッセージを発してくる作品を書ける作家は、太宰治とサン=テグジュペリしか知りません。 たとえば太宰治は『桜桃』の出だしでこう書いています。 <子供より、親が大事、と思いたい。 子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。 > 第二文の「何」というところが、まさに読者を意識した言葉です。 「だよね? 子供より親が弱いって、君も思ってるよね、きっと」という作者の気持ちがとても伝わってきます。 太宰治とサン=テグジュペリは私が知っている中でこのような「読者に対して語りかけてくれる作品」を書くことのできる特別な才能を持った作家です。 そしてそれは偶然にも、『君の膵臓をたべたい』の作中で名前が出てきた作家のうちのふたりです。 <「ふーん。 一番好きな小説家は名前と一緒?」「違う。 一番は、太宰治」> <「『星の王子さま』、知ってる?」「サン・テグジュペリ?」> 「人生に偶然なんてない」という桜良の言葉を借りると、小説の中に彼らの名前が出てきたのは偶然ではないと考えるべきでしょう。 「あなたが今読んでいるこの『君の膵臓をたべたい』という小説も、太宰治やサン=テグジュペリの本のように、あなたに語りかけていますよ」というメッセージです。 それは「メッセージを発していることを伝えるためのメッセージ」です。 「これからあなたに語りかけるから、聴き逃さないでね。 いい?」というメッセージです。 その直後に、桜良は上に記したような「人生に選択はない」というようなことを言います。 それは「だから、この本を選んでくれてありがとう」というメッセージと受け取るべきだと私は思いました。 私が「この本に出会う選択をしてよかった」と思うと同時に「選んでくれてありがとう」と語りかけてくれる。 『君の膵臓をたべたい』はそんな贅沢で幸福なコミュニケーションができるとてもすばらしい小説です。 (100行,原稿用紙5枚ぴったり) 原稿用紙5枚(2000字,100行)その2 「ガムいる?」が可視化すること 私が『君の膵臓を食べたい』で注目すべきだと思っているのは「ガムをすすめてくる男」です。 このキャラクターは事あるごとに主人公に「ガムいる?」と声をかけます。 私が数えたところによると4回(74頁、137頁、138頁、177頁)。 たった4回ですが、とても私の注意を引きました。 私の経験上、こういう何回も同じ行動をとるキャラクターは、大切な役割を担っていることが多いからです。 案の定、エンディングで彼についても後日談が語られています。 どうしてただの「ガムをすすめてくる男」が『君の膵臓をたべたい』でこんなに重要なポジションを与えられているのか。 それを考えてみたいと思います。 主人公は「ガムいる?」の問いかけに対して何度も「いらない」と答え、ガムをすすめてくる男はめげずに何度もガムをすすめます。 これは主人公が「贈り物を受け入れる準備」ができていなかったことを表しています。 私たちが贈り物を受け取るときに気まずい気持ちになるのは、返礼の準備ができていないときです。 たとえば忙しすぎて「ありがとう」の気持ちを充分に伝える時間・手段がないとき。 人は何かをプレゼントされると、無意識に「返礼の義務感」を抱くものです。 年賀状だって、出していなかった相手から届くと、あわててハガキを買いに走るということがあります。 それと同じです。 振り返ると、ガムをすすめられたタイミングというのは、主人公がなにか「問題」を抱えているときに限ります。 桜良と付き合っていると疑われたとき、上履きがゴミ箱に捨てられていたとき、桜良のストーカーだと噂されていたとき。 主人公はガムを受け取らないことを「選択」します。 でも最後に彼はガムを受け取ります。 直接的な描写はありませんが「あのさ、君達は僕が飴とガムを主食にして生きてるとでも思ってるの?」から推察することができます。 彼は桜良のように「生きる」ために「誰かと心を通わせること」(192頁)をガムを受け取ることを通して「選択」したのです。 言い換えると「ガムをもらうこと」の「返礼」として「彼と友だちになる」ことを選びました。 それは彼が「成熟」した証左にほかなりません。 桜良の言葉を借りるまでもなく、人は独りでは生きていけません。 物語のはじめ主人公は「僕は人に興味がない」と発言します。 彼はこの時点では「独りぼっちでも僕は生きていける」と思い込んでいる「子ども」です。 でも、桜良との触れあいを通して彼は魂ごと「大人になる」ことができました。 <彼女の存在そのものといえる言葉が、視線や声、彼女の意思の熱、命の振動となって、僕の魂を揺らした気がした。 >(192頁) それは志賀直哉が『城の崎にて』で生き物の生死を見せつけられた後で「生きていく」意欲が芽生えなかったことと対照的です。 志賀直哉は「生きていることと死んでいることはそんなに変わりがない」と思いました。 『君の膵臓をたべたい』の主人公は違います。 桜良と出会ったことで「誰かと関わる」という「生きる」「選択」をしました。 そのように彼が「未熟」な状態から「成熟」したことがはっきりわかる効果測定装置として、「ガムをすすめてくる男」は配置されていたのだと私は思います。 彼は「ガム」というアイテムを通して主人公の成長を可視化してくれました。 だから彼は主人公にとって、桜良の次に(恭子と並んで)大事なキャラクターであると断言できます。 (84行,原稿用紙4枚と4行) おわりに.
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