寺院・教会 [ ]• 総本山• 多宝富士大日蓮華山大石寺(たほうふじだいにちれんげざんたいせきじ、• 別名 富士大石寺• 多宝富士山(みょうれんじ、静岡県富士宮市)• (ほんもんじ、)通称:讃岐本門寺• 日知屋山(じょうぜんじ、)• 古刹・名刹• 久遠山(じょうせんじ、東京都墨田区)• 霊鷲山(じょうざいじ、東京都豊島区)• 正栄山(みょうえんじ、東京都墨田区)• 高照山(みょうこうじ、東京都品川区)• (ほうどういん、東京都豊島区)• 大日蓮華山(しものぼう、静岡県富士宮市)• 法栄山(じょうぎょうじ、宮城県登米市)• 良円山(じゅうほんじ、京都市東山区)• 心蓮山(きょうだいじ、徳島県徳島市)• 法泉山(にっしょうじ、札幌市北区)• 玉野山富久成寺 ふくじょうじ、茨城県古河市新和田93番地• 経王山妙本寺 みょうほんじ、埼玉県南埼玉郡宮代町• その他• 基本 [ ] 基本的教義は、宗教の五綱・宗旨の三箇(三大秘法)・血脈相承である。 宗祖を本仏と仰ぎ、本門戒壇の大御本尊を信じ、を唱えるならば、どんな者でも必ずできるとしている。 また、仏教各宗派によってさまざまなが説かれているが、日蓮正宗における戒とは捨悪 と持善 である。 経釈章疏は、・宗祖遺文(『』)・派祖遺文・大石寺第9世遺文・大石寺第26世遺文を正依とし、系統の摩詞止観10巻および弘決・法華玄義10巻および釈籤・法華文句10巻および疏記を傍依としている。 仏教の基礎であるは、以下のように説いている。 「末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳、本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思の境智冥合、事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を随一とする歴代の上人が僧宝である。 や釈迦・、等の仏像の制作・崇拝は一切禁止されている。 沿革 [ ] (5年)に立宗を内示され、に立宗を宣したとする。 近世までは、を参照 明治 [ ] (5年)、明治政府は仏教各派に対し、、、、、、の七宗派に統合して各派から管長一名を設置するよう太政官布告を出した (一宗一管長制)。 以後、大石寺とその末寺は、1872年(明治5年)から(明治7年)には日蓮宗、1874年(明治7年)から(明治9年)には、1876年(明治9年)から(明治33年)には((明治32年)にと改称 )に、それぞれ包括されていた。 この間、大石寺第54世は、(明治6年)にへ「大石寺一本寺独立願い」を提出した が容れられなかった。 また、大石寺第55世は、分離独立をに願い出るが、1884年(明治17年)の布達により取り下げざるを得なくなる。 一方、日蓮宗興門派(本門宗)の管長は八本山が一年任期の輪番制で務める運営形態となり、大石寺第55世日布が(明治14年)から(明治15年)にかけて第4代、大石寺第56世が(明治24年)から(明治25年)にかけては第15代に、それぞれ就任している。 (明治17年)の興門八山会議において、「それ〔総本山〕は大石寺であり、血脈相承の嫡統連綿は大石寺の貫主職以外に無〔い〕」 と大石寺は主張した が、他の七本山に受け入れられなかった。 (明治18年)興門派八山は分離分派願いを内務省に提出するが、数か月後にはこれを取り下げた。 しかしながら、このように数度にわたり政府へ願い出た結果、(明治33年)大石寺第56世日応の代にいたり大石寺の分離独立が認可され、 日蓮宗富士派と公称するに至った。 この直後より、「能く宗旨・宗体を表す」 宗号の再検討が行われ、1912年(明治45年)6月7日、大石寺第57世の決定により、現在にいたる 日蓮正宗という宗号が政府の認可のもと公称されることとなった。 昭和 戦前 [ ] に入り宗教統制が行われる中 、 が(昭和15年)に施行された。 これに対し、日蓮正宗は(昭和16年)3月10日、大石寺御影堂にて『僧俗護法会議』を開き、「本宗六百年来の伝統と信条を生かすために、不純なる合同は絶対に斥(しりぞ)けることで一決した」。 これを受けて、大石寺第62世は文部省宗務局長と面会し、合同反対と単独認可を訴えた。 その結果、3月31日付けをもって単独宗制の認可決定が出された。 解散の覚悟まで迫られた末の独立維持は「日蓮正宗並びに大石寺が持つ底力の強さは、遺憾なく世間に知らしめることができた」 ともいえる。 このことは、昭和16年4月1日付けの朝日新聞「の宗派は半減」「日蓮正宗(略)だけがそのまま一派として残った」からも読み取れる。 しかし宗派存続と引き換えに、遥拝等の容認 やの受け取りなど国家神道への妥協も余儀なくされた。 昭和 戦後 [ ] 一信徒団体であるが急成長し、日蓮正宗の規模もそれに伴って拡大した一方、両者の間には不和が生じ始めていた。 (昭和20年) の指令により宗教団体法廃止。 (昭和21年) 讃岐本門寺(北山本門寺旧末)とその末寺10か寺が、日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流。 (昭和25年) 下条妙蓮寺(旧本門宗本山、の一つ)とその末寺6か寺が、日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流。 (昭和31年) (北山本門寺旧末)が、日蓮宗より離脱して日蓮正宗に合流。 (昭和32年) (旧本門宗本山、興門八本山の一つ)が、第49世由比日光の主導により、本山単独で日蓮宗より離脱し日蓮正宗に合流。 塔中・檀信徒の反対派により、日蓮正宗との合併手続きの無効訴訟が起こされる。 (旧本門宗本山、興門八本山の一つ)とその末寺4か寺、定善寺とその末寺5か寺が、日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流(保田妙本寺は後に離脱)。 (昭和33年) 妙国寺(定善寺旧末)が日蓮正宗より離脱して単立になる((昭和51年)日蓮宗に再所属)。 (昭和35年) 本源寺(経王山、定善寺旧末)、(下条妙蓮寺旧末)が、日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流。 西山本門寺第49世由比日光逝去。 日蓮正宗は由比日光の後継指名に基づき下条妙蓮寺の前貫主吉田日勇を後任に任命。 (昭和49年) を講中解散処分。 (昭和50年) 西山本門寺の裁判で最高裁判決。 信徒側が勝訴し、日勇は西山本門寺より退去。 西山本門寺は日蓮正宗より離脱し単立寺院に。 (昭和52年) 信徒団体である創価学会が、1月の教学部大会で、会長の著作「」を日蓮の遺文に匹敵する御書に位置付けるなど、新たな路線を提示(52年路線)。 これに対し、日蓮正宗側は教義からの逸脱であると批判し、創価学会は翌年に謝罪、和解するが、批判はくすぶり続ける。 (昭和54年) 7月に法主のが死去し、が後を継ぐ。 創価学会との融和路線は継続。 昭和55年 を批判してきた「正信覚醒運動」の僧侶が7月に「」を結成し、8月には日蓮正宗側の中止命令を無視して檀徒大会を開催した。 これ受け、日蓮正宗は僧侶201人を懲戒処分にした 昭和56年 正信会側は1月、日顕が日達からを受けていないことと、その日顕がなした懲戒は無効であるとする通告状を日顕に送った。 さらに同月、僧侶約180人が日蓮正宗と日顕を相手に、日顕が法主の地位を有しないことの確認を求めて提訴 (判決は棄却で確定)。 一方の日蓮正宗側はこの裁判を起こした正信会僧侶を順次、擯斥処分(僧籍剥奪)に付した。 日蓮正宗は擯斥処分した僧侶が住職をつとめる寺院に後任住職を派遣したが、それを拒否した。 正信会住職のもと、日蓮正宗から独立した寺院が約150箇所(日蓮正宗寺院の4分の1に相当)あった。 (昭和57年) (保田妙本寺旧末)は、会員の住職が日蓮正宗より擯斥処分をうけ、日蓮正宗とは絶縁状態に。 平成31年、正信会住職の死去により日蓮正宗に復帰。 住職が正信会会員として擯斥処分をうけた寺院が百数十か寺。 その大部分は大石寺とともに日蓮宗富士派(日蓮正宗)の設立に参加した寺院や、富士派ないしは日蓮正宗の寺院として建立された寺院である。 平成 [ ] 日蓮正宗側は創価学会を破門とし、両者の関係は決定的に悪化、抗争状態となった。 1990年(平成2年)の破門前信徒数は創価学会員を含み公称1,784万人であったが 、2008年(平成20年)宗教年鑑に記載されている信者数は39万6000人となっている。 (平成2年) 創価学会破門。 (平成3年) 11月7日 宗門を誹謗し、また化法・化儀を逸脱したは外護団体の姿を失ったと日蓮正宗が判断。 解散勧告を行う。 11月28日 組織としてのSGIならびに創価学会を破門。 (平成5年) 保田妙本寺とその旧末寺・遠本寺が、日蓮正宗より離脱して単立になる。 (平成9年) 「宗規」一部改正。 創価学会に所属する者を除籍。 大石寺第67世の退座以降、正信会住職死去により25か寺が正信会から日蓮正宗に復帰。 日蓮正宗へ合流・離脱については、、、を、殯斥処分を受けた寺院についてはを参照 5月 創価学会が寄進した解体。 (平成14年) 10月 正本堂に代わるが完成。 宗門の体制 [ ] 法主の地位 [ ] 唯授一人の血脈相承を受けた者が総本山法主(ほっす)として日蓮正宗宗門における僧侶の最高位であり、僧侶の階級は (だいそうじょう)である。 近年の宗規では、法主のみが 管長推戴会議の選定を経て宗務行政の長である管長(宗教法人日蓮正宗の代表役員)の職に必ず就くことになっている。 また法主は大石寺の住職(宗教法人大石寺の代表役員)をも兼ねている。 現在の法主は、第68世早瀬日如である。 法主の位号として「上人」が用いられ、宗内では通常「法主」とは呼ばず「法主上人」としている。 生前に退座して隠居した前法主は「御隠尊上人猊下」または「御隠尊猊下」と尊称される。 法主の権能 法義上 ・権限 組織上 [ ] 次期法主候補者があらかじめ公表されている場合、次期法主候補者は学頭に任じられる。 学頭の僧侶としての階級は 権大僧正(ごんだいそうじょう)となる。 ただし公表されない場合は、学頭は空席のままである。 法主の下には若干名の(のうけ)が、法主に次ぐ高僧衆として存在し、現在はの位にある。 日号・上人号・院号・阿闍梨号の授与権は、 本尊書写権や 教義裁定権と並んで「法主のみの権能」とされている。 このような法義上の重要権能は正宗が認定する重要相伝書の『二箇相承書』及び派祖遺文『富士一跡門徒存知事』『五人所破抄』『日興跡条々事』『日興遺誡置文』等に定められた宗規とされており、750有余年に渡り引き継がれている、とする。 統一的な規律を持たず、住職が個々に文字曼荼羅本尊を書写し、信徒に下賜するとは対照的である。 日号(にちごう)とは、日の字がつく本宗僧侶の実名 じつみょう をいい、僧侶は得度後一定期間ののち、法主より衣を免許される。 さらに一定期間ののち、法主より袈裟を免許されるが、この時に日号も免許される。 ただし能化(権僧正以上)の高僧しか存命中に名乗ることは許されない。 また、まれにみる篤信の在家信徒に対して、存命中に日号が法主より免許されることもある。 死去後、袈裟免許前の僧侶や篤信の在家信徒に法主により戒名中に日号がつけられる場合がある。 上人号は、本宗では高僧の敬称・尊称というより実質的には、法主ないし法主経験者の位号である。 なお、法主の免許により、僧正以上の能化が遷化後に追号、権僧正の能化は追贈されることが通例となっている。 大僧都の者にも、逝去後に追贈されることがある。 院号は、能化補任の際に法主より免許される。 阿闍梨号は、権僧都以上の者が願い出により法主より免許される。 存命中に免許されていなくても大講師以上の者に逝去後に追号されることがある。 宗務行政 [ ] 宗教法人日蓮正宗の宗務行政機関として宗務院があり、その事務を総理する長として、管長の職を置く。 管長は総本山法主・大石寺住職が兼任する。 宗務院は、総本山大石寺境内に置かれている。 管長を補佐する宗務総監の指揮監督の下、庶務部・教学部・布教部・渉外部・海外部・財務部の6部門によって宗務行政が分担される近代的事務機構が構築されている。 なお、管長・総監に次ぐ役職として重役も設けられており、顧問的役割を持つ。 法的に、宗教法人日蓮正宗の代表役員は法主である管長が務め、総監、重役は責任役員となる。 各部には部長、副部長(現在、渉外部、海外部、財務部は空席)、主任、書記が置かれており、特に庶務部長は実質的に総監を補佐する立場にある。 この他に、の中から選挙によって議員が選ばれる宗会、綱紀粛正機関である監正会、管長が任命した権大僧都以上の者5名による諮問機関である参議会などの合議システムも導入されている。 宗務院は全国に大布教区と大布教区に統轄される布教区を敷いている。 総本山大石寺塔中には特別布教区を敷いている。 特別布教区の事務は、大石寺内事部において取り扱われている。 内事部では法主である大石寺住職のもと塔中坊の住職の中から主任理事が1名、理事が若干名、執事が若干名任命され大石寺の寺務の責任者となる。 法的に、宗教法人大石寺の代表役員は法主である住職が務め、主任理事、理事、総代が責任役員となる。 また、主任理事、執事は法主の大石寺住職としての法務を補佐する立場にあり、法主である住職が不在の場合、代理で法要の導師を務めるなどする。 出家制度 [ ] 日蓮正宗寺院の担任教師であるや教会の担任教師である主管、副住職・副主管は僧の妻帯が解禁された明治維新以降よく見られるような世襲制、家族経営ではなく、管長の辞令によりから派遣される中央集権的な制度となっている。 そのため、布教の拡大などにより、短期間で住職が交代したり、2つの・教会の間で住職・主管が入れ替わるということもある。 副住職・副主管に関しては、宗規で、住職・主管が教師の中から選び、管長の承認を得て着任する決まりとなっている。 したがって、住職・主管は寺院・教会の財産を私的に用いる(相続など)ことはできない。 となる場合、かつては宗内の僧侶が弟子をとることもあった。 現在は毎年1月頃に実施される得度審査に合格して法主の弟子となることが通例となっている。 大半の僧侶は少年得度で12歳、小学校卒業と同時に出家する。 それ以外の一般得度者(4月1日現在、18~57歳まで)も募集される。 少年得度の場合、出家得度し高校卒業まで総本山大石寺で修行した後、地方寺院・教会(主に本山格寺院や大都市圏の寺院・教会)で4年程度在勤し、最後に総本山で1年在勤したのち教師に任ぜられる。 その翌年春、教師補任式を経て高座説法が法主より免許される。 管長の辞令があれば地方寺院・教会の住職・主管(副住職・副主管の場合もあり)として派遣される。 一部の僧侶は得度以来総本山で一生を過ごす者もいる。 法衣は全階級とも白五条袈裟に薄墨色の衣(非教師は木綿等、教師は正絹等の素材で僧階が上がると模様が入るなどの違いはある)であるが、袈裟・衣は管長の免許がなければ着用することはできないことになっている。 僧侶の階級 [ ] 日蓮正宗では僧侶の階級(僧階)は次のようになっている。 大僧正(法主及び法主経験者)、権大僧正(学頭 稀に大学頭 =次期法主候補)、僧正(能化)、権僧正(能化)• 大僧都、権大僧都、僧都、権僧都、大講師、講師、少講師、訓導、権訓導 非教師• 一等学衆、二等学衆、三等学衆、沙弥、無階(得度後約3箇月) それぞれの階位の授与等は内部規定による。 能化 [ ]• 藤本日潤…重役 元総監 、東京都常泉寺住職• 八木日照…総監、東京都法道院主管兼住職• 土居崎日裕…宗会議長、東京都妙光寺住職• 佐藤日栄…寺族同心会会長、埼玉県本種寺住職• 秋元日高…庶務部長、東京都宣徳寺住職• 高野日安…総合会会長、京都府平安寺住職• 佐藤日学…主任理事・参議会会長兼議長、總本山大石寺百貫坊住職• 船橋日謙…総合委員会 委員長、東京都宝浄寺住職• 梶原日経…香川県讃岐本門寺貫首• 阿部日明…布教部長兼布教師会会長、常在寺住職• 漆畑日実…海外部長、静岡県多宝富士山住職• 水島日叡…教学部長、住職 宗務役僧 [ ]• 管長 (総本山法主・大石寺住職)大僧正• 総監 八木日照(豊島区・法道院主管、法華講本部指導教師)権僧正• 重役 藤本日潤(墨田区・常泉寺住職、元総監)僧正• 宗会議長 土居崎日裕(品川区・妙光寺住職)権僧正• 庶務部長 秋元日高(世田谷区・宣徳寺住職)権僧正• 教学部長 水島日叡(埼玉県所沢市・能安寺住職、富士学林長、法華講本部指導教師)権僧正• 布教部長 阿部日明(豊島区・常在寺住職、布教師会会長、法華講本部指導教師)権僧正• 渉外部長 梅屋誠岳(横浜市南区・住職)• 海外部長 漆畑日実(静岡県富士宮市・本山妙蓮寺住職)権僧正• 財務部長 森田厚道(大石寺大坊内)• 庶務部副部長 田中導正(大石寺塔中住職)• 教学部副部長 宮野審道(墨田区・住職、(株)大日蓮出版代表者)• 布教部副部長 新井契道(板橋区・住職) 信徒団体 [ ] 法華講 [ ] 法華講は宗祖が命名した日蓮正宗唯一の信徒団体である。 末寺における日蓮正宗の信徒に対し、管長である法主が許可した組織のことを法華講という。 この 全連はに日蓮正宗法華講連合会(略称 連合会)に改称され、現在に至っている。 これは明治時代からの制度であるが、第2祖の「この法門は師弟子をたゞして仏になる法門にて候なり」(佐渡国法華講衆御返事)の伝統と慣習を踏襲したものであり、「組織結成許可書」に類する江戸期の古文書も残っている。 よって「組織結成許可願」と指導教師のない団体は日蓮正宗の正規の信徒団体とはいえないことになっている。 なお法華講では、日蓮正宗法華講連合会発行の大白法(だいびゃくほう)が唯一の機関紙となっている。 毎月1日と16日に発行され、定価は110円 2016年4月1日改訂 である。 役員 [ ] 各末寺の法華講には、講中の代表者の講頭、副講頭、幹事、会計を役員としておくことができる。 講頭は各法華講支部の代表者であるが、必ずしも所属寺院の総代のうちから就任するとは限らず、総代以外の者が就任するケースもある。 法華講の役員はすべて「組世話役」と定義され、寺院に所属する他の講員に対して指導することは指導教師(住職・主管)に対する越権行為に当たるのでしないことになっている。 日蓮正宗法華講連合会には事務機構上、委員長、副委員長、理事、地方部長などの役職があるが、これも「組世話役」と定義され、「連合会」に加盟する各法華講を指導・監督することはない。 また名誉職として総講頭、大講頭の称号があるが、信徒を指導することはない。 大勢の信徒の前でスピーチをする場合には「挨拶」や「激励」の名目で行う。 なお、前総講頭柳沢喜惣次(やなぎさわ・きそうじ)氏が死去して以来総講頭は任命されていないため、現在総講頭は空席である。 法華講連合会役員 [ ]• 委員長 星野浩一郎 大講頭• 副委員長 関野洋夫 大講頭 法華講支部の例 法華講及びその他講中 [ ]• 理境坊所属・ 東京都杉並区• 南之坊所属・蘇生講• ・正道講 東京都品川区• ・法華講 東京都豊島区 から発生• 報恩講• 正蓮講• 正義講• 満師講• 正信講• その他講中10ヶ講中今でも存在してる 信徒の活動 [ ] 信徒の修行としては、本尊に向かって「南無妙法蓮華経」のを唱え、をすること(の題目)と並び、それを他の人に伝えるの修行(化他の題目)が基本となる。 自行としての日常のは、妙法蓮華経方便品・如来寿量品(長行 、自我偈)の読誦、唱題(「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること)を基本構成とし、古来からの朝五座・夕三座の格式を守って行われている。 総本山への「登山参詣」(総本山大石寺に参詣すること)末寺への参詣は重要な修行として、への功徳を積むことができる行為と考えられている。 日蓮正宗の檀信徒名簿へ登録を受けるためには、末寺において授戒を受けなければならない。 授戒のみ受けて本尊未下附の者は内得信仰と呼ばれる。 信徒団体などの処分 [ ] 顕正会については、宗門は(昭和49年)、顕正会の前身の妙信講に対し破門よりもさらに重い講中解散処分を下した。 また、創価学会との関係を巡って結成された正信会の僧侶が宗門首脳と対立し、擯斥処分を受けた。 創価学会については、、、、およびを参照 機関誌紙(教誌) [ ] 大日蓮 [ ] 日蓮正宗唯一の機関誌(教誌)は 大日蓮(だいにちれん)である。 ただし、宗制第四条では「機関紙」との表記になっている。 時局に応じて号外も発行されている。 宗務院録事、総本山録事、宗務広報、法主の説法、布教講演及び論文、総本山の動き、末寺の動き、海外の動き、住職・主管就任の挨拶などが載せられていて、定価は300円である。 宗務院録事には、総本山での法要などの 達示、住職・主管などの 辞令、講中組織結成 許可、末寺の檀家総代(宗教法人の責任役員)の 承認、檀徒団体の法華講の役員の 認証などが掲載されている。 総本山録事には、総本山における人事が載せられている。 総本山の動きには総本山で奉修された法要など、 末寺の動きには末寺で奉修された法要などが掲載されている。 (5年)創刊。 この他、寺報を発行している末寺もある。 大白法 [ ] 信徒団体の全国組織である法華講連合会が月2回発行する信徒向け新聞。 妙教 [ ] 大日蓮出版内の妙教編集室が月1回発行する信徒向け冊子。 定価 400円 慧妙 [ ] 目的とした新聞。 教育・研究機関 [ ] 富士学林 [ ]• (法教院・) - (63年)に開設。 日蓮正宗非教師僧侶の養成機関。 研究科 - 日蓮正宗教師僧侶の研究・研鑽機関。 日蓮正宗教学研鑽所 [ ] (24年)8月18日に開設。 日蓮正宗の伝統法義の護持宣揚、教学の振興および布教の進展に必要な研鑚をおこなう専門機関。 行事 [ ] 年中行事 [ ] 年中行事は以下の通り。 なお、総本山の行事はを参照。 元朝勤行• 1月 成人式• 2月節分• 興師会(派祖・日興上人の祥月命日)• 宗祖誕生会• 3月 春季会• 、 御霊宝虫払大法会• 立宗会• 大行会(大石寺開基檀那・南条時光の祥月命日)• 、 盂蘭盆会• 寛師会(第26世日寛の祥月命日)• 御難会(竜口法難)• 9月 秋季彼岸会• 10月 - 11月上旬 、御正当会、御逮夜(讃岐本門寺が11月23日に行われるなど本山格寺院は日程が決まっている)• 目師会並びに(三祖・日目の祥月命日)• 11月20 - 21日 宗祖御大会 御大会式 恒例行事 [ ]• 毎月1日 御経日(信徒精霊、先祖供養)• 毎月第1日曜 広布唱題会(大石寺では午前8時から、全国末寺では原則午前9時からの1時間唱題会)• 毎月第2日曜 日蓮大聖人御報恩御講(大石寺大坊では13日のみ、一部の寺院では命日にあたる13日にも行われる)• 御経廻り(春秋の彼岸やお盆に僧侶による檀家回りが行われる) 冠婚葬祭 [ ] 日蓮正宗の冠婚葬祭は化儀に則って行われるが、地域の風習などで多少の違いがある。 初参り、七五三祝い、成人式、結婚式、入仏式、地形式、起工式、上棟式、落成式、葬儀、墓石の建立、法事、塔婆供養、永代回向願い、寺院大過去帳記入願い、諸祈念願い 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 三大秘法とは、本門の本尊(本門戒壇の大御本尊)・本門の戒壇(本門の本尊安置の場所)・本門の題目(本門の本尊に向かって題目を唱えること)の3つのことである。 日興門流を自らまたは客観的に認定されるいくつかの宗派の総称。 を捨てること• 三大秘法の受持信行• 類似の記述は , pp. 166-167 にもあるが、ここでは僧宝を一義的には派祖とし、大石寺第26世日寛の文を引用して、歴代も含まれる、としている。 また、 , pp. 18-19 には、引用文同様に「日興上人を随一として、総本山のご歴代上人を僧宝として崇める」とあるも、僧宝は派祖とし、広義では「日蓮正宗の僧俗も含まれます」とある。 , p. 205 , p. 441 には、大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したのは1899年 明治32年 、日蓮正宗と改称したのは大正元年、とそれぞれある。 から天照皇大神を分霊したが日本の占領地の方々に建てられ、満州だけでも500社以上にのぼった。 これは満蒙開拓団の指導者だった加藤完治が天皇中心主義の古神道学者・筧克彦を信奉していた影響が大きいが、俯瞰すれば、この時代の軍部・右翼国粋主義者が戦争による勢力圏拡張によって、【民族神=天照大神=現人神に祭り上げられた天皇】を【世界神】にしてしまおうという野望を抱いていた、との解釈が成り立つ。 1939年 昭和14年 4月8日法律第77号• 創価学会側は、日蓮正宗が破和合僧を行ったとみている。 「法主=管長への過度な中央集権化」との批判があるが、これは法主としての法義上の権能と、管長としての組織運営上の権限を混同した批判である。 ただし、1872年(明治5年)太政官布告133号により妻帯禁止が解除されて以後、僧侶の結婚自体は認められている。 「じょうごう」または「ちょうぎょう」と読む。 , p. 288 には、宗旨建立会とある。 出典 [ ]• 295. , p. 204a-但し、別途出典のある記述は除く。 , p. 141. , p. , p. 184-但し、本迹勝劣を採用していることのみ。 , p. 252-但し、本迹勝劣を採用していることのみ。 , p. 205a-但し、日蓮本仏論を採用していることのみ。 , pp. 97-98-但し、日蓮本仏論を採用していることのみ。 , p. 204b. , p. , pp. 123-136. , pp. 298-299. , p. , pp. 337-338. , p. 317-ll. 3-5• , p. 236-但し、仏像に否定的なことのみ。 , pp. 134-135. , p. 229. , p. 451. , p. 113. , pp. 450-454-但し、本書p. 453には、本門宗への改称が許された1889年(明治32年)時点での興門派は「大石寺を除く」ともある。 , p. 230a-但し、日蓮宗興門派と称していたことのみ。 , p. 458-但し、日興門流が1876年(明治9年)に独立して日蓮宗興門派と称したこと、1899年 明治32年 に本門宗と改称したことのみ。 , pp. 229-230-但し、本書には、「大石寺一本寺独立願」とある。 , p. 453. , pp. 478-479. , p. 479. , p. 230b. , p. 480. , p. 481. , pp. 495-496-但し、複数回の嘆願の結果、1900年(明治33年)に分離独立が認可され、日蓮宗富士派の公称が許されたことのみ。 , p. 224a-但し、1900年(明治33年)第56世日応の代に日蓮宗富士派の公称が認められたことのみ。 , p. 230c-但し、1900年(明治33年)に分離独立が認可され、日蓮宗富士派の公称が許されたことのみ。 , p. 117-但し、1900年 明治33年 に、日蓮宗富士派が独立発表式を挙行したことのみ。 , p. 205b-但し、大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したことのみ。 , p. 441-但し、大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したことのみ。 , p. 510. , pp. 509-510. , p. 224b-但し、1912年(明治45年)6月、大石寺第57世日正の代に日蓮正宗の宗名が認可されたことのみ。 , p. 231-但し、1912年(明治45年)6月7日、大石寺第57世日正の代に日蓮正宗と公称したことのみ。 , p. 191-但し、1912年に、日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称したことのみ。 , pp. 61-62-但し、1872年 明治5年 に不受不施派を除く日蓮系教団一致・勝劣両派が合同したこと、1874年(明治7年)に日蓮宗一致派・日蓮宗勝劣派の二派になったこと、1876年 明治9年 に勝劣派が八品派・興門派・妙満寺派・本成寺派・本隆寺派の5派になったこと、1899年(明治32年)に興門派が本門宗に改称したこと、1900年 明治33年 に大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したこと、1912年(明治45年)に日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称したことのみ。 , p. 63a-但し、1899年 明治32年 に興門派が本門宗に改称したこと、1900年(明治33年)に大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したこと、1912年 明治45年 に日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称したことのみ。 , pp. 550-551. , pp. 515-516. , p. 233a-但し、1941年(昭和16年)3月10日、大石寺御影堂で『僧俗護法会議』が開催され、合同拒否を決議したことのみ。 , p. 516. , p. 233b-但し、大石寺第62世日恭が文部省で合同不承知を訴えたことのみ。 , p. 233c. , p. 517. , p. 234-但し、・は改めた。 昭和16年12月8日付『訓諭』、昭和17年『大日蓮』1月号-戦争布告の大詔を拝して光輝ある元朝を迎ふ-、昭和17年10月10日『院達』、昭和17年11月1日『院達』• 236-但し、「日蓮宗から離脱した」とはない。 , p. 63b-但し、1950年 昭和25年 下条妙蓮寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したことのみ。 , p. 63c-但し、1957年 昭和32年 に西山本門寺が単立になったこと保田妙本寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したことのみ。 , p. 238. , pp. 74-75. , pp. 70-71. , pp. 239-240. , p. 240. , p. 241. , pp. 94-102. , p. 288. , pp. 104-110. 参考文献 [ ]• 有賀要延『日蓮各派の教学:天台法華学からの超絶と流水』、1975年5月23日。 榎木境道『富士門流の歴史 重須篇』妙教編集室、2007年7月22日。 『仏教宗派辞典』、東京堂出版、1979年4月20日、10版。 木村勝行「」 pdf 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次のどっちがホンモノ?似て非なる存在にご注意を 世の中には、未だにとが同じ宗教であるという認識をお持ちの方がいます。 この考えは一昔前の考えで、今現在は全く違います。 どこがどのように違うのか解りにくい方もおられましょう。 一見、同じ様な御経と御題目を唱え、御本尊様も同じ様な御本尊様です。 我田引水でこのことを判断できません。 本質を理解せず自分自身の見解で考えることは避けましょう。 根本的な違いは、宗祖大聖人からの伝統である教えに従うか従わないかです。 更に信心の根本である、本門の大御本尊様と唯授一人の御上人を信じて修行しているかの違いです。 はこの伝統法義に従い、これからの未来の暁までこのまま継続していきます。 しかし、は伝統法義とは違う考え、下種を蔑ろにした、民主主義や政治、世間法に重きを置く考えにすり替え、本来の教えから大きく脱線しました。 一般の員には、から盗んだ非常に難解な教義を巧みに利用して洗脳し、の正当性を裏付け、学会員の組織における結束を固めています。 でも御書を読んでおります。 本来の意味と違う解釈をし、「御」から大きく逸脱しています。 ここがまた根本的に違うところで摧尊入卑しております。 そして信心の基本、七百年来の伝統である「寺院参詣」を否定し、寺院に行けばで主張することとは違う現実を目の当たりにするため、あらゆる情報機関を利用し寺院の参詣を阻止しています。 で流すところの情報と本来のとの実態に天地雲泥の差があるので、寺院の現実を見せたがらないわけです。 組織運営の常套手段となっております。 邪智に秀でたが犇(ひし)めく宗教団体であり、成仏の妨げとなる我慢偏執に汚染された幹部が多い団体です。 において員が寺院に参詣しなくなったことで、非常に有り難いことがあります。 それは本来の姿に戻り「少欲知足」の精神を実践でき、無駄を省き節約する気持ちが養われ、世間の謗法に染まることなく布教できるようになりました。 寺院も荘厳さを増し、本堂では生活や仕事場で失った心の落ち着きや冷静な気持ちを取り戻し、心の汚れを洗い流すことが已前より出来やすくなりました。 この荘厳さと雰囲気を本来のものへと清浄にするため、を破門に伏したのであります。 この以上のことを未だに知らない人がいます。 目先の御利益主義に徹することなく、あくまでも宗祖大聖人の御精神を貫くとこらからの破門です。 つまり現在、とは根本的に違うのであります。 この清浄な雰囲気に目を覚まさせないように、ではの寺院へ行かないよう会員に呼びかけ、様々なにおける誹謗中傷を繰り広げているのです。 幹部は、巧みに会員の心理を情報操作しているのが現実であり、にマイナスとなる不味い情報は即遮断します。 人間は多くの人が信じる情報を鵜呑みにする傾向があり、この点を巧みに上層部は心得て利用しています。 これは一つの魔の働きとなった第六天の魔王の「利根と通力」です。 正しい信心の眼を具えている純真な方は見破り、の寺院へ参詣され日々勤行唱題に精進し成仏を目指しているのであります。 の幹部は、第六天の魔王が用いる「利根と通力」が使えることに酔いしれ、身心が毒され本心を失っています。 その背景には、家族を養い生活を維持していくという自己保身も伺えます。 自己保身は大聖人の御精神「不自惜身命」を忘れた精神腐敗です。 御書根本と主張しながら、御書と矛盾する点が明らかです。 三大秘法の御本尊様から頂く御利益を履き違えている部分です。 の間違いに気付かれ、未だに所属し、のに入講されていない方は、寺院で勧誡式を受け正しい信心をされ、現実を明らかに見ることが大事です。 そこに本当の幸福があります。 以下の資料からと(世界宗)の違いをご確認下さい。 日蓮正宗信徒のポリ銀と申します。 創価学会の家に生まれて、19歳まで創価学会員でした。 高校三年生の時に、池田大作の「11. 16スピーチ」を地元の会館で観まして、創価学会に大きな疑問を持ちました。 20歳の時、創価学会を脱会。 父の勧めで顕正会に入会。 浅井昭衛の国立戒壇論に心酔し18年、38歳の時には罰で心身ともに疲弊しきってしまっていました。 自殺願望が募り、毎日のように「死にたい」と口にするようになる中、ネットで元顕正会員のサイトで顕正会の嘘を知り、日蓮正宗のお寺を訪問しました。 御僧侶の御話を聴き、説得されまして再入信させていただいたのが、2010年。 今年(2020年)は、再入信して満10年の節目となります。 10年間、罪障消滅の苦しみと向き合いながら、一歩ずつ自分の人生を良い方向に導いていただきました。 日蓮正宗に戻れて良かったと、思う人生にたどり着いた状態です。 どうか、一人でも多くの創価学会員・顕正会員が日蓮正宗に戻り、人生の立て直しができますように。 その思いでブログを書いています。 連絡先:porigin yahoo.
次の『法華経』だけが唯一正しい教えである。 そう説いた日蓮は他宗を激しく批判して、他宗からも幕府からも迫害を受けます。 二度も流罪を受け、斬首寸前になりながらも、来世ではなく今を生きることの大切さを説き、法華経への信仰に生涯を捧げた日蓮。 日蓮宗の宗祖・ 日蓮聖人は、末法の世には『 法華経』のみが必要であって、「 南無妙法蓮華経」の 題目を称えるだけで仏になることができると説きました。 密教や禅宗、とくに浄土教の教えを否定する日蓮は、あの世ではなくこの世、つまり、現世における救済を主張したのです。 また、救われるのは個人ばかりではなく、社会も国家も救済されなければならないとし、『法華経』を信仰しなければ国は危機に瀕すると訴えました。 日蓮が晩年を過ごした 久遠寺には日蓮の魂が宿っていると信じられ、「棲神(せいしん)の地」と呼ばれています。 日蓮の教えは、永遠に存在して救い続ける「久遠実成(くおんじつじょう)」の お釈迦様を信じ、現世での救済を願うことに集約されます。 日蓮が亡くなった後、 法華宗、 日蓮正宗、 本門仏立宗などの多くの分派が生まれ、 創価学会、 立正佼成会、 霊友会など多くの在家教団も誕生しました。 日蓮聖人 日蓮は1222(承久4)年2月16日、千葉県の漁民の子として生まれます。 その時、浜辺ではハスの花が咲き、海には鯛の群れが集まったと伝えられています。 16歳で出家し、鎌倉で禅を、比叡山や高野山で諸宗を学び、お釈迦様の真意は『 法華経』にあると確信します。 1253年、「 日蓮」と名乗り立教開宗を宣言。 念仏や禅を間違った仏法とし、正法である『法華経』の信心を説きます。 鎌倉で辻説法をはじめ、末法の世を救う教えを追求します。 日蓮はすべてのお経を調べなおし、『 立正安国論』を著します。 『立正安国論』(りっしょうあんこくろん) この頃、鎌倉を中心に地震など天災が相次ぎ、人々の間に不安が広がっていました。 日蓮は、政治や信仰のあるべき姿を『 立正安国論』としてまとめ、鎌倉幕府の前執権・北条時頼に献上しました。 「災いの原因は人々の信仰の誤りにある」 「このまま念仏などの邪宗がはびこっていては国内に戦乱が起こり、外国の侵略がある」 「法華経に帰依すれば国家は安泰となる」 しかし、臨済宗を保護する幕府はこれを無視。 日蓮は念仏信者らの焼き討ちに遭いますが、めげずに 折伏(しゃくぶく)を続けます。 破折調伏(はしゃくちょうぶく) 折伏とは「破折調伏」の略で、自分の宗教の長所を述べて布教するのではなく、他宗の欠点を徹底的に論破することで人々を正しい信仰に導くことを言います。 日蓮宗では『法華経』の教えを広めることを「 広宣流布(こうせんるふ)」と言います。 日蓮はその方法として、折伏という過激な布教スタイルをとりました。 その批判は容赦なく、次の四箇格言が有名です。 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」 他宗を批判して布教する日蓮は、度々迫害を受け、命を脅かされます。 特に、二度の流罪を含む四つの大きな迫害を「四大法難」と呼び、日蓮宗のお寺では現在でもその日に法要を行います。 なぜ日蓮は迫害を受けても布教を続けたのか。 それは、『法華経』に次のように記されているからです。 『法華経』を広める者は迫害されるであろう。 しかし、その一方で仏の加護があり、 未来には最高の悟りに到達できる。 (『法華経』法師品第十) 日蓮は『法華経』の布教にあたって、命に関わる法難を覚悟していました。 そして、法難に遭うことによって、自分がお釈迦様に布教を託された者であると強く確信が持てたのです。 身延山久遠寺 1274年と1281年、蒙古を統一し、西アジアを制したチンギス・ハンの孫フビライが建国した元が九州博多湾に攻め込みます。 日蓮が『立正安国論』の中で予言していた出来事が的中し、一躍脚光を浴びます。 しかし、三度の諫言も幕府には相手にされず、日蓮は 身延山(山梨県)にこもり法華経の読誦と門弟の育成に専念します。 身延山に 久遠寺を建立した日蓮は、入滅後、この地に埋葬されました。 享年61。 日蓮宗 「 日蓮宗」と呼ばれるようになったのは、実は明治時代になってからのことです。 それまでは「 法華宗(ほっけしゅう)」と呼ばれていました。 日蓮が亡くなった後、六人の後継者による対立や分立が起こります。 さらに『法華経』の解釈をめぐって論争が起こります。 『法華経』二十八品全体を扱う 一致派と、『法華経』の後半部分を重視する 勝劣派に分かれて対立し、教義においても分裂します。 明治維新に行われた 廃仏毀釈運動で仏教は大打撃を被り、再編を余儀なく されます。 この時に一本化するよう迫られた法華宗の分派は、宗祖日蓮の名を冠した『日蓮宗』その名のもとに、一つになりました。 日蓮宗の分派 しかし、すぐにまた分裂します。 身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗は、『法華経』全体を扱う一致派です。 『法華経』の前半を「 迹門(しゃくもん)」、後半を「 本門(ほんもん)」と言います。 迹門より本門に価値があるとしたのが勝劣(しょうれつ)派で、こちらがめまぐるしく分派と独立を繰り返します。 その中で法華宗、法華宗(本門流)、法華宗(陣門流)、顕本法華宗、日蓮本宗、日蓮真宗、日蓮法華宗、本門法華宗、本門佛立(ぶつりゅう)宗、大石(たいせき)寺を総本山とする 日蓮正宗などが誕生します。 日蓮正宗の信者団体が 創価学会で、現在は日蓮正宗から独立しています。 在家教団には他にも 霊友会や 立正佼成会など約20教団あります。 お題目 「 南無」とは、 帰依する(教えを信じ、従う)ことを意味します。 「妙法蓮華経」は、『法華経』の正式名称。 『法華経』は、お釈迦様が自ら永遠不滅の仏であることを明かし、人々を永遠に救い続けることを説いたお経です。 「南無妙法蓮華経」は、「 私は『法華経』の教えを信じ、よりどころとします」という意味です。 この言葉を「題目(だいもく)」と言い、題目を繰り返し唱えることを「 唱題(しょうだい)」と言います。 浄土教の念仏「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依してこの世で命を終えたのち、極楽浄土への生まれ変わりを願う言葉です。 対して日蓮は、題目を唱えれば、あの世はもちろん、 この世でも救われると説きます。 いま生きている世の中で幸せに暮らせるというのが大きな特徴です。 日蓮宗の葬儀 日蓮宗の葬儀の中心となるのは「 引導」の儀式です。 故人が 霊山浄土(りょうぜんじょうど)へ赴くことを導師がお釈迦様と日蓮に報告し、安心して旅立てるように心構えを説きます。 霊山(りょうぜん)とは『法華経』の中でお釈迦様が説法をした場所、古代インドの霊鷲山(りょうじゅせん)にちなみます。 永遠の救いを示すお釈迦様が、 常に説法をしている場所と言われ、大曼荼羅本尊は霊山浄土を表しています。 大曼荼羅(まんだら)本尊 日蓮宗で飾るご本尊を 大曼荼羅と言います。 大曼荼羅は『法華経』の真理を文字で表したものです。 南無妙法蓮華経の題目を中心に、『法華経』に出てくる仏、菩薩や『法華経』を守護している神々の名が記されています。 脇侍は、向かって右側に 鬼子母神、向かって左側に 大黒天を祀ります。 鬼子母神(きしぼじん)も大黒天ももともとはインドの神様で、『法華経』の守護神として祀られています。 日蓮宗の葬儀では、木魚の代わりに 木柾(もくしょう)を叩きます。 日蓮宗はお経のスピードが速く、特殊なリズムを刻むことが多いため、歯切れのいい音がする木柾が選ばたようです。 日蓮宗の焼香回数 焼香の回数ですが、日蓮宗の公式サイトでは「導師は3回、一般参列者は1回」としています。 額にはおしいただきません。 線香の本数は3本、または1本です。 仏・法・僧の三宝への帰依を意味します。 法号と日号 日蓮宗の戒名は「 法号(ほうごう)」と呼び、日蓮聖人の教えに導かれ、法華経を信仰する証として授与されます。 日蓮の「日」の字を法号に付けます。 これを「 日号(にちごう)」と呼びます。 本門佛立宗の葬儀 本門佛立宗では、僧侶のことを「 講師(こうし)」と呼びます。 お寺からご本尊と棺覆いを持参されます。 ご本尊のサイズが大きいので、事前にポールなどで飾る準備をしておきましょう。 また、本骨と仏着をお寺に預けます。 納棺時には納棺経をあげられます。 祭壇で使用するローソクには「佛丸(ぶつまる)」と呼ばれる宗紋を貼ります。 信者は南無妙法蓮華経の題目に合わせて太鼓や拍子木、あるいはひざを叩きます。 日蓮正宗の葬儀 日蓮正宗では、日蓮聖人を 崇拝の対象としています。 日蓮正宗のお葬式は、「日蓮大聖人に故人を迎えに来ていただいて、無事に三途の川を渡る儀式」であり、 正しい作法で行わなければ成仏できない重要な儀式として考えています。 祭壇は華美に飾らず、色花ではなく樒で飾ります(樒祭壇)。 ご本尊はお寺が持参されます。 僧侶を「 ご尊師(そんし)」と呼びます。 死に装束は着せません。 焼香は3回と決まっています。 線香は長香炉で寝かせて供えます。 日蓮正宗のお布施はご本尊へのお供えです。 『 御供養』と呼び、紅白ののし袋で渡すことがあります。 棺覆いは白を使用します。 創価学会友人葬 創価学会の葬儀は「 友人葬」と呼ばれます。 創価学会は 日蓮正宗から分離独立した信者集団で、僧侶は呼ばずに 学会の儀典(ぎてん)部に所属する信者の代表が 導師( 儀典長)を勤めます。 僧侶ではないのでお布施も必要ありません。 戒名はなく、俗名で葬儀を行います。 以前は樒祭壇でしたが、現在は色花で差し支えありません。 ご本尊は自宅、又は会館から借ります。 ご本尊を祭壇に飾る時は樒を口にくわえます。 創価学会より故人の学会内での役職に応じ、 名誉称号が贈られます。 お題目三唱で開式します。 焼香は三回です。 三回とも額に押しいただきます。 線香は長香炉で寝かせて供えます。 ちなみに、 聖教新聞は創価学会の機関紙です。 創価学会を支援団体とする政党が 公明党です。 基礎知識として覚えておきましょう。
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