あわやのりこ。 肩こりに効く 「淡谷のり子」CMのゲルマニウム美容ローラー : Hot'n Cool

肩こりに効く 「淡谷のり子」CMのゲルマニウム美容ローラー : Hot'n Cool

あわやのりこ

昭和・平成期の歌手 生年 明治40 1907 年 没年 平成11 1999 年9月22日 出生地 青森県青森市浜町 本名 淡谷 のり 学歴〔年〕 東洋音楽学校 現・東京音楽大学 声楽科〔昭和4年〕卒 主な受賞名〔年〕 日本レコード大賞特別賞 第13回 〔昭和46年〕「昔、一人のがいた」,紫綬褒章〔昭和47年〕,佐藤尚武郷土大賞〔昭和47年〕,NHK放送文化賞 第27回 〔昭和50年〕,青森市郷土大賞〔昭和53年〕,勲四等宝冠章〔昭和54年〕,芸能功労者表彰 第9回 〔昭和58年〕,日本作詩大賞特別賞 第20回 〔昭和62年〕,青森市名誉市民〔平成10年〕 経歴 生家は青森の呉服店 大五河波屋 だったが、明治43年の青森の大火をきっかけに没落。 大正12年離婚した母と妹とで上京。 学生時代は画家のモデルもして一家を助けた。 昭和4年音楽学校を首席で出ながらポリドールレコードから「夜の東京」を出し流行歌手に。 流行歌を歌ったからとして母校の卒業生名簿から削られたことは有名。 6年コロムビアレコードに移籍。 12年「」が大ヒット。 日中戦争の時代にふさわしくないとして発売禁止となるが、出兵兵士にも愛唱された。 軍隊慰問も自身のバンドで回り、当時は禁止されていたブルースを歌い、担当将校に涙させたこともある。 戦後は、23年「嘆きのブルース」「君忘れじのブルース」などがヒットし、また「枯葉」「愛の」などを好んで歌うようになる。 46年いずみたくと12人の作詞家によるLP「昔、一人の歌い手がいた」を発売。 57年には五輪真弓の「恋人よ」を含む現代曲のLPを出す。 80歳を迎えて、全国80ケ所コンサートに取り組み、85歳の時、現役最高齢で「揺り椅子」を発表。 また歯に衣着せぬ発言で、芸能界の御意見番的存在だった。 11年9月老衰のため死去。 昭和46年日本レコード大賞特別賞、47年紫綬褒章受章。 著書に「老いてこそ人生は花です」「私のいいふりこき人生」など。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊) 20世紀日本人名事典について の解説 職業 歌手 本名 淡谷 規子 生年月日 明治40年 8月12日 出生地 青森県 青森市浜町 学歴 東洋音楽学校 東京音楽大学 声楽科〔昭和4年〕卒 経歴 生家は青森の呉服店・大五河波屋で2人姉妹の長女。 農民運動家で社会党の衆院議員となったは10歳年長の叔父にあたる。 明治43年の青森の大火をきっかけに生家は没落し、大正12年離婚した母と妹とで上京。 東洋音楽学校 東京音楽大学 に入り、学生時代は霧島のぶ子の名で画家のモデルもして生計を援けた。 昭和4年同校初の女性の首席として声楽科を卒業した後、ポリドールに入社して「夜の東京」で流行歌歌手としてデビュー。 流行歌を歌ったからとして母校の卒業生名簿から名前を削られたことは有名。 6年コロムビアに移籍、同年「私此頃憂鬱よ」が初のヒット曲となる。 7年満州、上海と初の海外公演を行った。 「別れのブルース」「雨のブルース」などのヒット曲は哀調で戦時下にふさわしくないと禁止されていたが、戦地では兵隊たちから強いリクエストを受けてそれらの曲を歌い、監視の将校たちは居眠りのふりをしたり、席を外したりして見て見ぬふりをし、担当将校を涙させたこともあった。 20年コロムビアから一方的に契約を解除され、5月の空襲で自宅を失い、8月巡業中の山形県で敗戦を迎えた。 21年コロムビアからの再契約の申し込みを拒否し、テイチクと契約。 23年「嘆きのブルース」「君忘れじのブルース」などがヒットし、また「枯葉」「愛の讃歌」などシャンソンを好んで歌うようになった。 26年ビクター、36年東芝に移籍。 46年いずみたくと12人の作詞家によるLP「昔、一人の歌い手がいた」を発売、日本レコード大賞特別賞を受けた。 47年紫綬褒章を受章。 54年から渋谷のジャンジャンに出演。 62年には80歳を迎えて、全国80ケ所コンサートに取り組み、85歳の時、現役最高齢で「揺り椅子」を発表。 歯に衣着せぬ発言で、芸能界の御意見番的存在としても知られた。 11年9月老衰のため92歳で亡くなった。 著書に「老いてこそ人生は花です」「私のいいふりこき人生」など。

次の

淡谷のり子の写真、名言、年表、子孫を徹底紹介

あわやのりこ

歌手のが、3月8日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演し、芸能界の恩人であるについて語っていた。 以前からステージでシャンソンにも取り組んでいるという美川。 そのきっかけを作ったのが淡谷だ。 2人が出会ったのは、美川の3枚目のレコード『柳ヶ瀬ブルース』の大ヒットを受けた、雑誌での対談企画だった。 「(20歳で)初めてお会いしたときに、『声がシャンソンなのよね』って。 ピンとこなかったけど、『年を重ねたら(シャンソンが)いいわよ。 (人は)必ず年をとって老いていくんだから。 足が不自由になったりして、ピアノに寄っかかりながら歌っても素敵よ。 それに綺麗でいられる。 だからやっていきなさい』って」 その後、美川は大ファンだった越路吹雪を紹介してほしいと相談。 すると淡谷は一瞬顔色を変え「え、ファンなの? じゃあ私はどうなの?」と聞かれたが、「先生は姉のように身内のような存在なんです。 歌の世界では先輩で、大先生です」と応じると、越路を紹介してくれたという。 美川はそんな淡谷からの教えについて、2月20日放送の『スター波瀾万丈列伝』(BS日テレ)でコロッケにこう説明している。 「ラジオのに淡谷さんが出たとき、『今日のこのお洋服、やっとフランスから届いたのよ』って。 『ラジオを聴いてる方たちにも、このは見えなくても、自分がそれを着てステージに立って歌っているんだっていうのが伝わっていくの。 これは自分自身を磨くため。 お客様のため。 ラジオで見えなくても粗末にしないことなのね。 それを忘れちゃダメよ』って」 この話を受けて、コロッケは「僕が美川さんに言われた一言で忘れられないのが『お客様の前に出るんだから、そんな安っぽい衣装じゃダメ』って。 それからは衣装にお金をかけるということをずっと守ってきてるんです」と明かす。 美川は「それは師匠の淡谷のり子さんの(教え)を、そっくりお伝えしてるのよ」と、しみじみ語っていた。 淡谷からの「歌手は夢を売る仕事」という教えは、美川からコロッケへと、世代を越えて受け継がれている•

次の

新谷のり子

あわやのりこ

淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身の女性歌手。 本名:淡谷 のり(あわや のり)。 日本のシャンソン界の先駆者であり、ブルースと名の付く歌謡曲を何曲も出した由縁から「ブルースの女王」と呼ばれた。 叔父は元社会党の代議士・淡谷悠蔵。 身長150. 3cm。 (4尺4寸) 生い立ち 1907年、青森の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。 1910年の青森市大火によって生家が没落。 10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立青森高等女学校を中退し母と妹と共に上京。 東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。 後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。 オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。 しかし家がだんだんと貧しくなったため、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを務めるなどして生活費を稼いだ。 淡谷をモデルにした「裸婦臥像」は二科会に出展された。 その後、復学しリリー・レーマンの弟子である柴田稲子の指導を受け首席で卒業した。

次の