フランス本土と当時は(名目上はではなくフランス本国の一部とされた)であったアルジェリアのであると同時に、アルジェリア地域内で完全なフランス市民権を付与されていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、対照的に抑圧されていたやアラブ系住民などの(indigene,アンディジェーヌ)との及び親仏派と反仏派の先住民同士の紛争、かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもある。 詳細は「」および「」を参照 以降、フランスはアルジェリアを支配下に置き、に3つの直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)を置いて内地、本国の一部としたほか、に東隣をから確保、に西隣を保護領として支配下に組み込むなど、支配の拠点としていた。 その様子は、アルジェリア戦争初期には「 がを横切るように、がフランスを横切る」と称されるほどであった。 ヨーロッパ系コロン()と、同化によってを付与された徒や一部の以外の先住民は差別、抑圧されており、の終結後、などから急激に広がったの流行の中で、反仏抵抗運動が高まっていた。 1月に起こったフランスによるチュニジア民族運動弾圧は、植民地支配に固執するの国際的評価を下げた。 また、のによって4国(南北含む)が正式に独立に至ったことは、フランスの全植民地・に暮らす人々を力づけるものであった。 経過 [ ] 「」も参照 アルジェリア民族解放戦線の軍事闘争と内務省主導の治安維持作戦 [ ] 、(FLN)が組織され、軍事部門である ()(ALN)を設立し武装闘争を本格化させ、11月1日に一斉蜂起した。 内閣はこれを治安上の非常事態とみなし、即応兵力を増強し各地の蜂起を鎮圧した。 4月、フランス国防省はに派遣中の1個師団を引き上げ、アルジェリアに派遣することを決定する。 8月には抽出部隊は2個師団に変更され、10万人を超える規模となった。 1月の総選挙では弾圧政策をとる内閣に対し、融和政策を掲げたが勝利した。 しかし、ピエ・ノワール達の反発に遭い、同年3月には政策を転換、で圧倒的多数の支持で非常大権を与える緊急事態法が公布され、に20万人の予備役の招集が決定された。 一方の民族解放戦線も最初の1年間だけで、フランス人の経営する6,000以上の農場、400の学校を破壊し、数十万の家畜を略奪、他にも道路・橋梁、通信施設を破壊し、フランス軍人、警察官や役人、フランスに協力する現地住民を殺害した。 各地のゲリラはフランス軍を翻弄しつつも、秋ごろまでには指導者層が次々と逮捕され、へ撤退していった。 1955年にはチュニジア・モロッコでも民族運動が盛り上がり、反仏暴動の結果、翌にはチュニジアとモロッコはフランス連合内での独立を達成した。 しかしアフリカ最大の植民地であり、百万人のコロンの存在などの事情を抱えるアルジェリアに関しては、対応をめぐってフランス政府内でも方針が分裂した。 戦争はアルジェリア民族解放戦線によるゲリラ戦と化し、解放戦線によるフランス人経営のやなどを狙った爆弾の頻発、対するフランス軍による対ゲリラ作戦の中で、解放戦線側とみなされた現地住民の即決処刑や、拷問を使った尋問が多発し、泥沼化していった。 国防省主導の平定作戦 [ ] 3月の緊急事態法の成立に伴い、予備役の動員が決定されには兵役期間を28ヶ月に延長し、予備役4万人および予備役将校を召集し同年2月1日には19万1000人の兵力は年末までに25万人に増強された。 さらにアルジェリア派遣軍兼第10軍管区司令官将軍に軍・警察の権限を集中させ平定作戦を強化した。 アルジェリア国民解放軍は本部をに置き、オーレス・カビリーには秘密拠点を設けて戦力の増強と民心獲得を行なっていた。 チュニジアの難民キャンプに避難していたゲリラ部隊は頻繁に越境攻撃を実施するもフランス軍の警戒防御線の前にただ損害を増やすだけであった。 には国境の村サキエトに対する誤爆事件が発生、チュニジアや世界各国はこれを非難しフランスは解決策として国境地帯の無人化を提案したがチュニジアは拒否。 にフランスは親書をチュニジアに渡し、同月17日に紛争処理協定が結ばれフランス軍の越境攻撃は中断、チュニジアとの全面戦争の危機は回避された。 には陸海空軍が51万3000人、補助兵力約13万人にまで拡大した。 戦闘は1958年から1960年半ばまでがもっとも激しく、将軍の指導による(シャール攻勢)では各地のアルジェリア民族解放軍部隊を壊滅状態に追い込んだ。 フランスの政治的混乱 [ ] 「」も参照 フランス本国の世論もアルジェリア民族解放戦線の独立運動を支持する側とフランスの国家的威信を優先させる側に分裂する。 、「フランスのアルジェリア」を支持する現地軍人やコロンたちの暴動は済し崩し的にに発展し、フランス本土侵攻の脅威によって政府は有効な解決策を出せずに危機に追い込まれ、崩壊状態となった。 政府の出馬要請により軍部を抑えることのできる人物としてが首相に就任し、に新憲法を国民投票で承認させ、が開始された。 コロンやアルジェリア派遣フランス軍は当初、第二次大戦の英雄であるド・ゴールが強硬策をとるものと期待した。 しかしド・ゴールは、フランス国内の厭戦気分の蔓延、植民地主義の終焉を告げる国際社会の趨勢、増大する戦費に耐えかねるフランス経済などを総合的に考慮し、同年9月にはアルジェリア独立を容認する姿勢を明確にするに至った。 に人事刷新を図り、自らを担ぎ出したサラン将軍を閑職に追いやり、軍政を廃止して文民である ()に統治をゆだねた。 また、空軍部隊司令官に自らの派閥に近いシャール空軍大将を就任させた。 ただし、現地駐留軍の中核的人物であった将軍はアルジェ地区行政長官に就任させ、駐留軍の動揺を抑えた。 1月、ド・ゴールはに就任し、直ちにを発動した。 「バリケードの1週間」(1961年1月) 、フランスは年頭からアフリカ植民地の独立を次々に承認し、後に「」と呼ばれるようになる。 1月24日、アルジェではマシュ将軍の師団長更迭に端を発する暴動事件である ()が発生、事態は解決したが極右活動家や過激傾向の軍人は逮捕あるいは更迭された。 このような情勢下でド・ゴールは7月に「アルジェリア平和計画」を発表した。 この中で明確にされたドゴールのアルジェリア独立容認方針は、アルジェリアで戦う軍人とコロンの反発を買い、11月にはコロンらの反ド・ゴール暴動を招いた。 しかし、1月にフランス本土で行ったアルジェリア独立をめぐる国民投票では、75パーセントがアルジェリアの民族自決を、つまりはド・ゴールのアルジェリア独立方針を支持した。 一方、フランスではバリケードの1週間の首謀者連に対する裁判が行なわれたが、被告人のほとんどが軽い量刑で済まされ、釈放後は多くが地下活動に転じ(OAS)を結成してフランス軍やフランス官憲に対して反乱を開始した。 彼らはアルジェリアはフランス固有の領土であると信じ、この戦いをヨーロッパ文明と野蛮との戦いと位置づけた。 OASはアルジェリアやフランス本土で、フランス人政治家や警察官僚らを殺害するなどテロ活動を活発化させ、1961年9月にド・ゴールの暗殺を計画するが失敗した。 だが、暗殺計画の発覚でコロンとOASへの支持は失墜して、フランス本国でもアルジェリア独立の支持が高まった。 1961年4月にはが発生、アルジェリア駐留軍から空挺部隊が決起し、OASも参加して1958年5月の危機と同じく内戦の寸前の事態にまで陥ったが、ドゴール大統領の強硬な態度と駐留海空軍の離反、そして混乱のさなかにで実施された核爆発実験の衝撃がクーデターに止めを刺した。 このときフランス国民は空挺部隊が本土を奇襲するのではと大変恐れたという。 この事件以降、アルジェリア民族解放軍の軍事行動は激減し、フランス軍の平定作戦は小康状態となり、軍内部の粛清とOASとの戦いに注力した。 休戦交渉 [ ] OASのフランス軍、アルジェリア民族解放戦線、およびアルジェリア人市民に対するテロが激化する中、ドゴールはアルジェリア民族解放戦線に和平交渉を呼びかけ、3月、レマン湖畔・でを締結。 アルジェリア独立が承認され、フランス軍とアルジェリア民族解放戦線の戦闘は停止する。 一方、OASはますますテロを激化させ、アルジェリア民族解放戦線を襲撃するほか「アルジェリアをフランス統治時代以前の状態に戻してから返してやる」としてフランスがアルジェリアに建設してきた近代的をも破壊し始めた。 アルジェリア民族解放戦線も報復テロを行い、アルジェリアに留まることがエヴィアン協定で認められていた一般人のコロンらはテロの応酬によるを恐れて次々とアルジェリアからフランスへの脱出を開始した。 OASにもさすがに敗北を認めるものが現れ、6月にはアルジェリア民族解放戦線と停戦に至ったが、もはやコロンの大半はアルジェリアを脱出しようとしていた。 、休戦交渉中にフランス軍はNATO抽出の2個師団を西ドイツに帰還させ、では絶対多数で独立が採択され、アルジェリアの独立が決定する。 初代大統領にはアルジェリア民族解放戦線の創設者であるが就任した。 アルジェリア民族解放戦線は以後アルジェリアを主導する政治勢力となったが、長期政権化して次第に国民の不満が高まるようになった。 OASはこの戦争後もフランス本土でドゴール暗殺とクーデターを試みたが失敗し続け衰退した。 アルジェリアに残ったフランス系住民はわずかにとどまり、フランス側に味方して戦った25万のアルジェリア人(、harki)に対してはアルジェリア民族解放戦線などによる報復が行われ、多くが殺され、また多くがフランスへ亡命することとなった。 戦後 [ ] フランス政府は忘却政策を行いアルジェリア戦争に関する報道を規制 [ ]して過去の汚点として忘れ去ろうとした [ ]。 しかし、1990年代に入ると記憶の義務運動が起こり、アルジェリア戦争の記録がマスメディアで報道されるようになった。 拷問やテロなど非人道的な問題が頻繁に取り上げられ、これに(アルジェリアからの引揚者達)による抗議活動が活発化した。 2005年2月には「フランスの植民地支配を肯定する法律」を成立させアルジェリアの支配を正当化しようとしたが、猛反発を招き一年後には廃止されている。 2001年には、アルジェリア駐留フランス軍の指揮官の一人であった将軍がアルジェリア戦争の回顧録を出版、捕虜の即決処刑や、解放戦線シンパと疑われた市民や活動家への拷問や殺害が頻繁であった、自らが指揮した当時の生々しい対テロリズム作戦の実情を暴露した。 オサレスの執筆姿勢はそれらの行為を反省するものではなく、軍人による任務の遂行として肯定するものであった。 オサレスはかつて受章したをフランス政府により剥奪されている。 2014年、ジャーナリストのが戦争中、ら独立運動家がフランス軍のにより殺害されていたこと、それらはフランス軍の命令であったことを明らかにした内容の書籍を出版。 、大統領はモーリスの妻の元を訪れて謝罪するとともに、戦争中に失踪したフランスとアルジェリアの民間人、兵士に関する資料を公開する意向を示した。 関連作品 [ ]• 脚注 [ ] []• , sur www. senat. 永原「植民地責任論」青木書店、P70。 AFP 2018年9月14日. 2018年9月16日閲覧。 参考文献 [ ]• 淡徳三郎『アルジェリア解放戦争 FLNの7年半』青木新書、1962年• アリステア・ホーン『サハラの砂、オーレスの石 アルジェリア独立革命史』北村美都穂:訳、、1994年• 柏木明『フランス解放戦争史』、1995年• 『フランス現代史 英雄の時代から保革共存へ』、1998年• 永原陽子:編『「植民地責任論」脱植民地化の比較論』、2009年• 『フランス政治危機の100年-パリ・コミューンから1968年5月まで』大嶋厚訳、吉田書店、2018年(第7章「1958年5月13日」参照)• Guy. of Algeria• Modern Warfare: A French View of Counterinsurgency Roger Trinquier 1961• Leulliette, Pierre, St. Michael and the Dragon: Memoirs of a Paratrooper, Houghton Mifflin, 1964• Rita Maran, Torture. The role of ideology in the French-Algerian war, New York: Prager Publishers 1989• Jouhaud, Edmond. O Mon Pays Perdu: De Bou-Sfer a Tulle. Paris: Librarie Artheme Fayard, 1969. 『歴史群像No64 アルジェリア戦争』学習研究社、2004年 関連項目 [ ]• - 戦争中にアルジェリアで実施されたフランス初の核実験。 外部リンク [ ]• (日本語)• メディア・アーカイブ [ ]• hundreds of free video: news rushes, interviews, official speeches, retrospectives, etc.
次のカミュ「 」は、1940年代にペストが流行したという設定の物語です。 出版年は1947年(作者34才の若さ! 名著ですが、文学的な言い回しも多く難解で読み進めるのに苦労したので、このブログで分かりやすいよう内容を要約しまとめしました。 後半は結末までのネタバレも含みます。 また、元々のページ数が多い作品なのでまとめた文章も多少長いものになっています。 以下では疫病の流行の段階に分けあらすじをまとめています。 (読みやすいよう独自に分けました) アルジェリアは物語当時はフランスの植民地です。 初期 ベルナール・リウーはアルジェリアの第二の都市オランに暮らす30代半ばの医師です。 1940年代のある年の4月半ば、彼の妻は病の転地療養のため家を離れます。 同じ時期、リウーは自宅周辺や街中で鼠のなきがらを目にするようになり、その後10日あまりでおびただしい数が街に溢れた。 またその頃から、リウーは不可解な症状で命を落とす患者に遭遇するようになり、その数はわずか数日で累増、看過できない人数になった。 各医師が把握する患者数は少なく、この時はまだ市民の間で疫病の流行は認識されていなかった。 (ペストは近世まで流行した伝染病) 翌日、リウーは県庁に保健委員会を招集してもらい、そこではじめて市長や医師の間でペスト発生が共通認識として持たれた。 (市長やメンバーはペストと認識することを渋っていた)翌日の新聞での扱いは小さく、県庁も目立たない所に張り紙をする位の注意喚起だった。 その日リウーに感染者数を報告しに来たグラン(リウーの昔の患者で市役所職員の初老男性)は、自傷騒ぎを起こした隣人で密売人のコタールの変化(急に社交的になった)を話した。 取り寄せ中の血清はリウーの元にまだ到着していなかった。 彼はその日、自分が恐怖に取りつかれていることを認識した。 人の温かさに触れたいと思いカフェに二度も入った。 感染拡大 翌日の診療は、忙しい往診の中、患者の家族と話し合ったり患者自身と言い争ったりすることで日が過ぎた。 リウーは自分の職業をこれほど重苦しいと感じたことはなかった。 (従来なら患者は治療に身をゆだねていたが、疫病の流行で警戒心が増していた) 市が用意した特別病室は、他の患者たちを移転させた分館病棟2つで、窓を密閉し隔離の遮断線を設けた程度のもので、公式発表もまだ楽観的だった。 リウーは病床不足や埋葬の警戒不足など懸念し、オラン医師会の会長リシャールに、徹底的な措置を取った方がいいと電話したが、自分には権限がないという返事だった。 3日後、80床の病床が満杯になった。 その後4日間犠牲者数は増え続け、幼稚園内に病床を開設することが報じられた。 不安を冗談に紛らわしてきた市民たちもひっそりとしてきたように思われた。 リウーは思い切って知事に電話し事態の深刻さを伝えたが、知事は総督府の命令を仰ぐと言った。 リウーは電話を切った後「命令待つんではなく頭働かせる時だ」とそばに居たカステル医師に言った。 知事は 本人いわく 翌日から措置の強化をすることにした(申告の義務制と隔離、患者が出た家の消毒や埋葬を市が営むなど) 翌日飛行便で血清が到着したが、もし疫病がまん延するのであれば数が不十分だった。 (救急用はストックが切れ今新たに製造に着手している状態) その間の街の様子はいつもと変わらず、ペストの患者数はいったん減り衰退したかのように思われた。 しかし突然犠牲者数が激増した。 (犠牲者の数が再び30台に達した) その日知事は、市の閉鎖を宣言した。 都市封鎖 都市封鎖 市門が閉鎖され、この時からこのことが全ての人の事件となった。 家族や愛する人と離れてしまった人は大切な人に思いを馳せ、県庁には自分だけ特別に都市の外に出ることを望む人が押し寄せたが、例外はなかった。 手紙は疫病の媒介となるのを防ぐため禁止、電話も緊急の場合のみに制限、電報だけが通信手段となった。 人々はあてもない散歩で過去を追憶、流通も止まり港の活気は消えてしまった。 人々はまだ疫病を真実には認めておらず、はじめは施政当局に罪を着せ、新聞には措置の緩和を考慮できないかという批判記事が載った。 すると知事はメディアに日々の犠牲者数を通達するようになり、ペストの第六週には犠牲者が345人まで増加したことが確認された。 しかし人々はまだ一時的なものという印象を持っていた。 しかし5月の終わりに食料補給が制限され、ガソリンは割り当て制に、電気代の節約も規定された。 贅沢品の店は次々に閉じ、開いている商店には行列ができた。 やる事のなくなった人が街やカフェに溢れ、アルコールで伝染病が防止できるのではと酔っ払いが街に溢れた。 また、コタールが疫病に関するさまざまな噂を話題にした。 (例えば、ペストの兆候を示した男が錯乱状態の中戸外に飛び出し、「俺はペストにかかった」とわめきながら通行人の女性に抱きついた、等) 市門閉鎖から3週間後、新聞記者の若い男・ランベールが医師リウーを訪れた。 (彼はかつてリウーに取材をしていて面識があった)恋人をパリに残していて何とか出国したいので、自分が罹患していない証明書を書いて欲しいと頼んだ。 リウーが断ると。 ランベールは「あなたには気持ちの通じ合っている二人が引き離されることがどんなものなのか分からないんだ」「あなたの言っているのは理性の言葉だ」と苛立った。 更なる感染者増加・リウーの戦い リウーが任されている分院 3つになっていた では週平均患者数が500に達し、運営は容易ではなかった。 帰宅して手が震えていることもあった。 彼は体が強く健康だったが、往診などは堪えがたいものになってきていた。 家族は患者を引き渡すことに抵抗し大変だったが、そのうち監察員が同行するようになり、医師は1人の患者からすぐ次へ回れるようになった。 往診では患者の家族の嘆きと涙にあい、それが幾週も続きリウーは同情にも疲れてしまっていた。 しかしその心の扉が閉ざされていくことが、唯一の慰めになっていた(毎回辛さを感じていたらとてもペストと戦い続けられないため)。 夜中二時に帰宅する彼を迎える母はそのことを悲しんだ(母は妻が不在の間めんどうを見るため家に来ていた) 教会では著名な神父パヌルーがペストの集団祈祷を主宰し、多くの市民が参加した。 (私達の罪により神から報いが与えられたという論調) 6月も終わりになり、夏が来ていた。 犠牲者は週700名と上昇し街は消沈した雰囲気で、全ての扉は閉じられ、いくつかの家からうめき声が聞こえた。 憲兵は騒動を収めるため武器の使用を許され町は不穏な空気で、夏は疫病を助長するだろうと皆が恐れていた。 海も禁止され夏を楽しむ雰囲気はなかった。 その頃から犠牲者数が週ではなく日で知らされるようになり(見せかけの数字を少なく見せるためと思われる)、感染防止するからとハッカドロップが売り切れになるなどした。 パリから届いた新しい血清は初めのものより効力がない様子で、統計は上昇し予防接種を行える可能性は相変わらず得られていなかった。 また肺臓性のペストもみられはじめていた。 保健隊の結成 その頃、リウーと顔見知りのタルーが、志願の保健隊を組織をリウーに提案した。 (タルー:疫病流行の少し前にオランに来た若い男で素性は謎。 新聞記者のランベールと同じホテルに滞在している)リウーは彼に兄弟のような親しみを感じ、心の内(職務に対する思いや神についての考え)を話した。 医師カステルは血清の製造に尽力した。 また、保健隊が実現し市職員のグランが幹事役的な立場を引き受けた。 (保健隊は、地区の衛生状態を高める活動や往診の手助け、専門職員がいない場合患者や犠牲者の車の運転などを行った) グランは仕事後の時間、活動の統計作業を行い、時々リウーやタルーに趣味の小説の執筆について話し、それがリウーらにとっても息抜きになった。 タルーはパヌルー神父も保健隊に誘い了承を得た。 一方、新聞記者のランベールはつてを頼り必死に出国手段を模索した。 しかしその間、ある意味彼女のことを忘れていたことに気づいた。 ある日リウーはタルーとランベールとの会話の中で、「ペストと戦う唯一の方法は誠実さ」「自分にとっては職務を果たすこと」と話した。 ランベールはその時初めて、彼の妻が離れた療養所にいることをタルーから聞き驚き、町にいる間保健隊で働くことを申し出た。 病疫の絶頂 8月半ばには町をペストが覆いつくした。 同時期、喪失と不幸で半狂乱になった人による火事が頻繁に起きた。 罪を犯すと刑罰を受けるが牢獄ではペストが猛威をふるっていた。 また略奪も発生した。 葬式は簡略化された。 葬るための作業には人員が必要だったが、多数の失業者が出ていたので人手不足にはならなかった。 愛する人との別れに苦しんでいた人々は、この頃には懐かしがる記憶も失った。 また人々は何も選り好みしなくなっていた。 (例えば自分の買う衣服や食料の質など) 5. 足踏み 足踏み 10月まで足踏みが続いた。 リウーと仲間たちはかなり疲労が増していた。 誰かが統計の結果を報告しても、他の人は興味を持つ振りはするが上の空だったり、虚弱なグランはしょっちゅう疲れ切った状態で、突然しんみりして別れた妻の話をし、リウーはそれに対し妻の病状の悪化を話した。 タルーは滞在していたホテルが隔離所に改造された為、リウーの家に住み込んでいた。 カステル医師は血清の準備による疲弊で気づくと眠り込んでいて、その老衰ぶりにリウーは辛さを感じた。 (そのようにリウーも理性がきかなくなっていた) みな疲労困憊で投げやりになっていて、自分達が定めた衛生規則もなおざりになっていた。 (自分自身に行うべき数多くの消毒を忘れるなど)そんな中グランの隣人コタールだけは憔悴した様子もなく、タルーは彼に興味を持っていた。 (コタールは罪をか抱えていたため、今の状況を快適に思っていた)彼ら2人は週一回だけ行われていたオペラを観に行ったが、劇中で主役が疫病で倒れた。 ランベールは待ち望んだ出国のチャンスを得たが、町に残ることを選んだ。 10月下旬、罹患した判事オトン氏の息子に、カステル医師の血清が試された。 その場にいたパヌルー神父は祈った。 しかし苦しみが長引いただけで命を落とした。 リウーは小さな子供の苦しむ姿に耐えられず庭に出た。 引き止めたパヌルーに対し、リウーは「あの子だけは少なくとも罪のない者でした、あなたもそれをご存じのはずです!」と激しくたたきつけるように言った。 パヌルーはリウーの憤りを理解しながらも、「おそらく我々は、私たちに理解できないことを愛さねばならないのです」と言った。 リウーは強く反論、その後怒ったことを詫びた。 保健隊に入ってから、パヌルー神父はつねに疫病に接する最前線で働いた。 (医療従事者は原則的には血清により安全を保証されていた)パヌルーは一見平静を保っていたが、少年が亡くなる場に長々と居た日から、増大する緊張の色が顔に現れていた。 パヌルーは、今度のミサの説教で自分の見解を述べるのでリウーにも来て欲しいと声を掛けた。 神父は2回目の説教をある大風の日に行った。 その後パヌルーは疫病と思われる症状が出て、医者を呼ぶことを拒み世を去った。 しかしみな再反転も警戒していた。 県庁が医師を集めこの問題について意見を求めようとしていたその時、医師会の会長リシャールも疫病に命を落とした。 公共的な建物はほぼ全て病院か検疫所に改造されている状態ではあったが、リウーが予め計画を立てておいた組織はそれで追いつかなくなるほどには至らなかった。 肺ペストが増えていたが、腺ペストが減り均衡を保っていた。 しかし必需品の物価がつり上がり、貧しい家庭が苦しい一方、裕福な家庭はほとんど不自由することはなかった。 また隔離収容所の存在も市民の精神に重くのしかかっていた。 11月の終わりのある日の夜10時頃、くたくたになるような一日の後、リウーは以前からの喘息持ちの患者の爺さんを往診、眺めがいいという2階のテラスに、 往診について来たタルーと一緒に上がらせてもらった。 外の空気を味わいながら、タルーはリウーに自分のことを話した。 (17才の時、次席検事の父が極刑で人を裁く姿を見て以来父を嫌いになり、家を出て貧乏も経験し社会運動にも参加したが、この社会に生きていることで間接的ながら自分も加害者側に立っているという思いに苦しんできた) そして、人を裁き極刑を与える人間になることを、ペストに感染することに比喩し、自分は直接でも間接でも人を死なせたり死なせることを正当化するいっさいのものを拒否しようと決心した、自分は以前からペストに苦しめられていた、と話した。 12月もペストの流行は続いていた。 人々はもう未来というもののない生活をしていた。 病の形態が肺ペストになり、患者たちは当初の頃のような狂乱に陥ることはなくある程度治療に協力的になり、リウーは前ほど孤独な気がしなかった。 ランベールは離れた恋人と文通するルートを得ていて、リウーもそのルートを使うよう勧めた。 リウーは妻にはじめて手紙を書いたが、言葉づかいなど忘れてしまっていて書くのに時間がかかった。 クリスマスの時期になり、市役所職員のグランがペストを発症した。 リウーは看病しながらも今晩中持たないと思っていた。 ところが翌朝グランの症状は改善していて、一命をとりとめた。 同時期、同じような例が4つくらい出ていた。 そして喘息持ちの爺さんが「鼠が走り回っているのを見た」とリウーに話した。 統計の感染者数は下降していた。 収束・結末 疫病の勢いの衰えに市民たちはすぐは喜ばず、解放は今日明日ではないと感じていた。 しかし想定されるより早く疫病は衰退していった。 1月上旬から寒い日が続き、3週間の間患者数は下降した。 犠牲が増えたと思ったら別の日にはほとんど助かったり、血清も連続的に効果をあげた。 この日の晩は市中に浮き浮きした興奮がみなぎった。 そんな中コタールだけは不機嫌さや意気消沈を見せ、以前のように部屋に引きこもったり、ついには行方をくらました。 しかし開門まであと数日の時、タルーが熱を出しペストにかかってしまった。 タルーは2,3日ペストと戦ったが、命を落とした。 リウーは、「友情をともにする間もなくタルーは戦いに負けてしまったが、自分は何をかちえたのか?」と考えた。 それは、ペストや、友情や愛情を知り、それを思い出すということだった。 タルーが苦しむ心の真実は分からなかったが、リウーには彼の面影が心に残った。 そして朝がた、妻が8日前に亡くなったという電報を平静に迎えた。 二月に入りとうとう市門が開かれた。 盛大な祝賀行事が昼夜開催され、汽車や港が動き始めた。 ランベールはオランにやって来た恋人と再会し抱き合った。 (ペストが長すぎて恋人に強く会いたいという気持ちは消えてしまっていて、できればあの時の自分に戻りたい、と思っていた)コタールは激しい抵抗の末、警察に捕まった。 リウーはいつもの喘息もちの爺さんを往診し、遠くで歓呼の叫びが聞こえたのでテラスに上がらせてもらい景色を眺めた。 暗い港から公式の祝賀の花火が上がった。 リウーは、自分が愛した人、死んだ者も罪人も忘れられ、人々は相変わらず同じようだ、そして自分が彼らと同じ側の人間なのだと感じた。 リウーはこの時、ここで終わりを告げる物語を書こうと決心した。 1913年生まれ。 フランス人入植者である父は幼少期に戦争で他界、貧しい中苦労して育つ。 様々な職を経た後新聞記者として活躍、戦争も経験、第一作の「異邦人」で注目を集める。 史上二番目の44才の若さでノーベル文学賞を受賞。 タレントのセインカミュさんはアルベール・カミュの兄の孫にあたるそうです。 また、カミュの作品はいずれも「不条理」がテーマと言われています。 また作品の背景としては世界大戦も大きく影響していると思います。 アルジェリアについて 小説ペストの舞台・アルジェリアはアフリカ大陸の北に位置し、アフリカ内での面積第一位、人口4220万人の国です。 フランスとは地中海を挟んで向かいの位置で、約130年のフランス植民地時代を経て1962年にフランスから独立。 砂漠が国土の大半を占め、石油や天然ガスが主要産業です。 アルジェリアに旅行とかはほとんど聞かないので国のイメージがあまりないのですが、イチジクの産地のようです(小説の中で、無花果の木が街に植わっているというのが時々出てきたと思います)あとわたしは数年前のプラントの事件のイメージがあります。 オランの街の様子は(いつの時代の写真か分かりませんが)文庫本の表紙の感じなのだと思います。 (物語の中で、町は台地の上に建設されていて風が強い時は激しく吹き込むと書いてありました).
次の第二次大戦下のオラン港(1943年) にのイスラム教徒によって商業の拠点として建設された町がオランの始まりである。 オランはイベリア半島への小麦粉の供給地となり、、の時代に繁栄した。 にのに占領され、町は衰退する。 にオランはに征服される。 1732年に再びスペインが奪い返したものの、オランの貿易都市としての必要性が下がったため、時のスペイン王はオスマン帝国に町を売却した。 にオランはオスマン帝国に編入され、オラン州の州都に定められた。 オスマン帝国の支配は1830年にがの植民地の拠点としてするまで続く。 にフランスに併合された後、ヨーロッパからの入植拠点として近代的な市街地が建設され、20世紀後半のアルジェリア独立後の大都市の原型となった。 フランス植民地時代のオランは200,000人のヨーロッパ系入植者が居住する、ヨーロッパ風の近代的な都市として繁栄を享受していた。 時には事実上半ば占領下にある下に置かれ、1942年後半ので軍によって占領されるまでそれが続いた。 の艦隊がドイツの手に渡るのを恐れたイギリス軍がフランスに対して艦艇をイギリスの港に回航すること、自沈すること、英軍と戦闘を交えること(艦隊を壊すため)などの最後通牒を突きつけるが、フランスはこれを拒否したためフランス艦隊が停泊しているアルジェリアので戦闘が始まった()。 オランにも艦艇が10隻ほど存在したため、ここでも戦闘が行われていた。 1954年からが始まるまで、オランはフランス領であり、北アフリカの中でも特に多くのを始めとしたヨーロッパ人()が居住していた。 しかし、アルジェリア独立戦争が終わるまでにほとんどのヨーロッパ人やがフランスに去った。 特にアルジェリア独立時の1962年7月5日にオランで起きたヨーロッパ人の大虐殺は、彼等のアルジェリア外への脱出を促進した。 これによりオランはわずか3ヶ月で人口が半分にまで減少した。 1962年7月5日以降は独立に伴い、アルジェリア領となる。 地理・気候 オランは海と丘陵に囲まれた都市で、南の後背地には平原が広がっている。 ラブランカと呼ばれる旧市街は丘陵地に形成され、オスマン帝国によって建設されたカスバに囲まれている。 他方、新市街は鉄道路に沿って南東に広がっている。 4 79. 5 33. 0 91. 4 36. 6 97. 9 33. 2 91. 8 40. 0 104 39. 5 103. 1 45. 8 114. 4 43. 8 110. 8 40. 6 105. 1 39. 0 102. 2 33. 0 91. 4 30. 8 87. 4 45. 8 114. 6 61. 9 17. 7 63. 9 19. 7 67. 5 21. 5 70. 7 23. 9 75 27. 7 81. 9 30. 5 86. 9 31. 6 88. 9 29. 0 84. 2 25. 2 77. 4 20. 6 69. 1 17. 7 63. 9 23. 48 74. 9 51. 6 12. 1 53. 8 13. 9 57 15. 8 60. 4 18. 6 65. 5 22. 3 72. 1 25. 0 77 25. 9 78. 6 23. 4 74. 1 19. 6 67. 3 15. 1 59. 2 12. 2 54 17. 90 64. 1 41. 2 6. 5 43. 7 8. 1 46. 6 10. 0 50 13. 2 55. 8 16. 9 62. 4 19. 4 66. 9 20. 1 68. 2 17. 7 63. 9 14. 0 57. 2 9. 5 49. 1 6. 7 44. 1 12. 27 54. 0 26. 0 26. 3 29. 7 0. 0 32 3. 0 37. 4 5. 0 41 11. 0 51. 8 9. 0 48. 2 7. 7 45. 9 3. 0 37. 4 0. 1 21 mm inch 43. 6 1. 717 44. 4 1. 748 35. 0 1. 378 29. 6 1. 165 27. 2 1. 071 3. 80 0. 1496 1. 80 0. 0709 2. 70 0. 1063 13. 2 0. 52 24. 8 0. 976 55. 5 2. 185 45. 2 1. 78 326. 8 12. 1 mm 8. 7 8. 5 7. 1 7. 2 6. 9 2. 0 1. 3 1. 8 3. 6 6. 6 8. 4 8. 8 70. 5 76. 5 74. 0 70. 0 68. 0 66. 2 64. 7 66. 5 70. 2 73. 9 76. 3 78. 6 72. 03 出典 1: 出典 2: climatebase. ru extremes, humidity.
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