大雨等によって現在は運転してるが、状況によっては運休となる恐れがあるとき、一部の電車を運休させることになります。 もし、運休になってしまった場合、その時点で走っている電車は安全確認しながら、徐行運転で駅まで走行させます。 もっとも危険な状態だとそこからの運転は出来ませんが。。 その路線の駅の数や駅の線路数にもよりますが、 ダイヤ通りの本数を運転していると、全ての電車を駅まで運転できず、駅の途中で運転を取りやめることになり、乗客は駅でないところで降ろすことになるか、運転再開まで電車内で待つことになります。 有料特急が早々に運休させるのは、その乗客数が他の急行や各停より少ないため、影響を受ける人数が少なくなるのと、乗客の多い電車を安全な駅まで運べる確立が増えるからです。 鉄道会社に限らず、常に安全確保が最優先です。 小田急線の他に、JRの夜行列車や寝台列車や特急なども、 台風の時は運休があります。 今回の台風の場合も、新宿発のJRで真っ先に運休決定したのは、 「ムーンライトえちご」でしたか。 西武線の有料特急なども、運休になりました。 ロマンスカーの行き先は、小田原から先の箱根湯本までの区間 がありますが、この部分は箱根登山鉄道で、午後7時頃以降は、 普通列車も運休していました。 また、江ノ島方面も、藤沢~片瀬江ノ島の区間があります。 どちらも観光地なので、悪天候の時は乗客が少ないです。 他に、「ホームウェイ」と呼ばれる帰宅時間のロマンスカーが ありますが、停車駅が少ないため、悪天候時に運転した場合、 途中でドア閉めたまま立往生しやすい問題もあるのでしょう。
次のホーム上の特急券券売機にみられる「こんどのロマンスカー」の標記 「ロマンスカー」の呼称は戦前から存在し、頃の宣伝のパンフレットに「ロマンスカーは走る」「大東京のセンターから」の文言が掲載され 、電車内の写真にも「小田急のロマンスカー」と説明がつけられた。 ただし、 この際にはロマンスカーとは小田急の専有名称ではなかった。 終戦後の頃に、の映画館「」を復旧改装するにあたり 、同士の鑑賞を企図して2人掛けのを館内2階に設けた ところ、「ロマンスシート」としてマスコミに取り上げられた。 その頃に運行を開始した 小田急の特急車両が2人掛けの対面座席を採用した ことから「ロマンスカー」と称され、小田急「ロマンスカー」が命名された。 しかし、この時期にはを含め他社も同様の車両を有し、一部は「ロマンスカー」を名乗ったため、小田急の特許とはなっていない。 にが引退したのを機に、小田急は「ロマンスカー」を自社で商標登録した。 なお小田急以外で「ロマンスカー」として製造された車両が完全に引退することになるのは、のの運用離脱となる。 「ロマンスカー」はで、の人は解せない。 の受賞表彰式に際し、小田急の担当者が「6両と4両の2編成がをするからロマンスカーなのか」と現地の人から質問されたエピソードもある。 の時点で、小田急で特急列車はロマンスカーを指し 、他社は「つぎ(こんど)の特急」と標記する ところを、ホーム上に設置した特急券券売機で「つぎ(こんど)のロマンスカー」と標記している。 それ以外の旅客上の案内では、小田急と東京メトロともに「 特急ロマンスカー」という表現を用いている。 沿革 [ ] 前史 - 週末温泉急行 [ ] 4月1日に開業当初の小田急は、初期の不況の影響で沿線は一向に発展せず 、もともと過大な初期投資 に加えて乱脈経営が祟った こともあり、厳しい経営状態を余儀なくされていた。 4月1日にが開業してからは夏季の海水浴客輸送の時に運賃を往復で5割引にするなどして増収策を図り 、全車両をフル稼働させて対応していた。 一方、あまり積極的ではなかった ものの、もへの観光客輸送を目的の1つとしており 、増収策の一環として 、週末のみからまでをノンストップで運行する列車が立案された。 小田急ではこの列車の車内では、沿線案内をで流し 、合間に「小田急行進曲」と「小田急音頭」を流すことを発案 、当時新宿に存在した娯楽施設のに「小田急行進曲」「小田急音頭」の製作を依頼し 、沿線案内の吹き込みはムーランルージュ新宿座の看板女優であったが担当した。 78回転盤(SPレコード)6枚組に仕上がったレコードが完成し 、実際に走行中の車内でテストしたがが飛んでしまい 、この試みは失敗であった。 101形 ともあれ、6月1日から、新宿 - 小田原間をで結ぶ「週末温泉急行」の運行を開始した。 この急行には車両はクロスシートを装備した付の車両であったなどが使用され 、新宿 - 小田原間を90分で結んだ。 運行は土曜日の下り列車のみで、帰りとなる日曜日は通常の急行列車が運行された。 これが小田急ロマンスカーのルーツとなる列車であるが、陰では「おしのび電車」などと言われていたという。 しかし、12月にが始まり 、1月から週末温泉急行は運休となり 、同年4月にはダイヤ上の設定もなくなった。 小田急自体も、同年5月には東京横浜電鉄と合併し()となった。 終戦後 [ ] ノンストップ特急運転開始 [ ] 終戦後のには大東急で「鉄軌道復興3カ年計画」が策定された が、この中には小田原線の箱根登山鉄道への乗り入れ計画が含まれていた。 また、終戦の時点では新宿から小田原までは2時間30分もの所要時間を要していた が、は終戦直後にこの所要時間を半分にするように指示していた。 6月1日に大東急から小田急が分離独立したが、小田急は東急と比較すると営業路線長は約2倍あったにもかかわらず、運輸収入は半分に過ぎなかった。 そこで、収入増の方策として箱根への直通旅客増加を図ることとなり 、その一環として新宿と小田原をノンストップで結ぶ特急列車の運行が計画された。 複数車種で試運転などを行った結果、この特急に使用される車両としての中から「復興整備車」として重点的に整備されていた車両が指定され 、特急料金の制定や各種ポスターの製作など準備が行われた。 1600形(写真は戦時中に撮影されたもの) こうして、1948年10月16日から新宿と小田原を結ぶ特急列車の運行が開始された。 土曜日は下り1本のみ、日曜日は下り1本・上り2本のみの運行で、所要時間は100分であった。 使用車両は、朝ラッシュ時の通勤輸送に使用した1600形が入庫した後に、3つある乗降用扉のうち真ん中の扉を締め切った上で補助座席を置き 、ロングシートに白いカバーをかけた上でスタンド式灰皿を並べただけであった が、戦後の復興途上だったこの時期においては精一杯のサービスであった。 当初計画では同年10月9日から運行開始の予定であった が、豪雨の影響でが不通になってしまったために1週間延期されている。 運行開始当初は集客がうまくいかず 、運輸部門では縁故を通じて乗客の勧誘に歩き回り 、駅の出札窓口でも積極的に特急列車の売り込みを行った。 乗客が少ない時には、本社勤務の社員が「」となって乗車したりしたこともあったという が、次第に利用者が増加し、予想を上回る好成績となった。 なおこのころには、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として設置された輸送改善委員会において 、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標が設定されている。 特急車両1910形の登場 [ ] には、小田急が分離独立してから初めて新型電車を製造することになった。 当時の新車製造は割当制であり、小田急には15両が割り当てられた。 割り当てのうち10両がとして発注されることになった が、営業部門からクロスシートを装備した特急車両を要望する意見が強かった ため、このうち4両を特急車両のとして製造することになった。 ただし、朝のラッシュ時には通勤輸送にも使用することになった ので、扉付近をロングシートとした2扉セミクロスシートの車両となった。 また、編成は3両固定編成とし、中間車には(国鉄)の戦災焼失車の台枠を流用した改造車両を連結することとなった。 また、前年にが特急の運行を再開した際に、がレモンイエローと青の2色塗りとしていたものにあやかり 、この特急車両の外部塗色は濃黄色と紺色の2色塗りとすることになった。 1910形は同年7月に入線し 、同年8月から2両編成で営業運行を開始 、同年9月から本来の3両固定編成となって運行を開始した。 1910形を使用した特急では、「」と称した、車内に喫茶カウンターを設け、車内で飲み物を販売するサービスが開始された。 所要時間は90分であった。 また、同年10月のダイヤ改正から、特急は1往復が毎日運転されることになった。 小田急が公式に「ロマンスカー」という愛称を用いたのはこの時からで、ポスターで「ニュールックロマンスカー毎日運転」と宣伝された。 箱根登山鉄道への直通運転開始 [ ] このころ、小田急では箱根登山鉄道箱根湯本駅に乗り入れるための計画が進められていた。 しかし、小田急の軌間が1,067mmであるのに対して箱根登山は1,435mm 、架線電圧も小田急の1,500Vに対して箱根登山は600Vであった。 この対応として、軌道はとし 、架線電圧については小田原と箱根湯本の間は1,500Vに昇圧することになり 、8月1日から小田急から箱根湯本までの直通運転が開始された。 この時に新宿と小田原の間についてもスピードアップが図られ、新宿と小田原は80分で結ばれるようになった。 この直通運転開始後に特急の利用者は急増し 、同年10月からは特急は毎日3往復に増発された。 特急専用車両1700形の登場 [ ] 特急利用者の増加は続き、2000形 が2編成だけでは不足するようになり、「特急券がとれない」という苦情も来る ほどで、営業部門からは特急車両増備の要望が高まってきた。 また、2000形は扉付近の座席がロングシートであり、全ての座席をクロスシートにして欲しいという要望もあった。 しかし、収支面からはラッシュ輸送に使用できない特急専用車の新造を危ぶむ意見もあった。 社内での検討の結果、将来を考えて特急専用車を導入する が、製造コストをできるだけ安価にするため 、はの戦災復旧車や事故焼失車のものを流用することになった。 1700形 こうして2月に登場したのがで、全ての座席が転換クロスシートとなり 、さらに座席数を増やすため、乗降用の扉は3両で2箇所という思い切った設計とした。 この1700形が、小田急ロマンスカーの地位を不動のものにしたとされている。 この1700形の導入後の同年8月20日から 、それまでは座席定員制だったものを座席指定制に変更した。 また、夕方に新宿に到着した特急車両に樽を積み込み、まで往復する「納涼ビール電車」の運行も開始された。 この時点では、検査時や増発時には引き続き2000形も使用されていた。 しかし、設備面の格差が大きいことによる苦情があり 、同年8月までに第2編成が製造された。 また1700形投入後に特急利用者の増加傾向が見られ 、特急の営業的な成功は明らかとなった。 このため、1952年8月に完全な新造車両として第3編成が投入された。 特急の利用者数がさらに増加するのに対応し、には特急の増発が行なわれた ほか、それまで使用されていた2000形を使用した座席定員制の急行列車が運行された。 また、夏からは江ノ島線にも特急料金が設定され 、夏季海水浴客輸送の期間には江ノ島線にも1700形を使用した特急が運行されるようになった。 このころの小田急では、先に述べた「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標に向けて、高性能車の開発に向けた試験を進めていた。 1954年7月には小田急ではじめてを採用した通勤車両としてが登場しており、同年9月11日には「画期的な軽量高性能新特急車」の開発が決定していた。 しかし、予想を上回る特急利用者数の増加があり 、新型特急車両の登場を待つ余裕はないと判断された が、すでに通勤車両がカルダン駆動方式を採用しているのに、今さら特急車両を旧式ので増備することは考えられなかった。 このため、暫定的に2200形の主要機器を使用し 、車体を特急用としたがに登場した。 また、この年の10月からは、御殿場線へ直通する特別準急の運行が開始されている。 高度成長期 [ ] 軽量高性能新特急車SE車の登場 [ ] 3000形SE車 1954年から国鉄の協力を得て開発が進められていた「画期的な軽量高性能新特急車」は、にとして登場した。 この3000形は "Super Express car" 、略して「SE車」と呼ばれる車両で 、数多くの新機軸が盛り込まれ 、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追求された 、低重心・超軽量のであった。 「電車といえば四角い箱」であった時代 において、SE車はそれまでの電車の概念を一変させるものとなり 、だけではなく一般利用者からも注目を集めた。 同年7月6日よりSE車の営業運行が開始された が、すぐにに入ったこともあって 、連日満席となる好成績となり 、営業的にも成功した。 また、これを契機にでは優秀な車両を表彰する制度としてを創設し 、SE車は第1回受賞車両となった。 SE車が運用開始された1957年時点では、新宿と小田原は75分で結ばれていた が、SE車はまでに4編成が製造され、特急が全てSE車による運行となった ため、からは67分で結ばれるようになった。 さらにには新宿と小田原の間の所要時間は64分にまでスピードアップした。 1959年からは、特急を補完するための準特急の運行が開始された。 使用車両は2扉セミクロスシート車で、特急運用から外れた2300形と、新造したが使用された。 前面展望車NSE車の登場 [ ] 箱根ゴールデンコース SE車の登場以後、特急利用者数はさらに増加し、週末には輸送力不足の状態となっていた。 また、にはが完成し 、「箱根ゴールデンコース」と呼ばれる周遊コースが完成した ことから、箱根の観光客自体が急増した。 更に、の開催を控えていたこともあり、特急の輸送力増強策が検討された。 その結果として、にが登場した。 この3100形は "New Super Express" 、略して「NSE車」と呼ばれ 、8両連接車だったSE車に対し、NSE車では11両連接車とし 、さらに編成両端を展望席とする ことによって定員増を図った車両である。 また、SE車と比較すると豪華さが強調される車両となった。 1963年にNSE車が4編成製造されたことによって、箱根特急の30分間隔運行が実現し 、同時に新宿と小田原の間の所要時間は62分にまでスピードアップした。 この時期まで、箱根特急の列車愛称は列車ごとに異なり、するようにNSE登場直前の時点で16種類の愛称が使用されていた が、NSE車の登場後の1963年11月4日からは5種類に整理された ほか、準特急という種別は廃止となった。 その後、NSE車はさらに3編成が増備され、からは箱根特急の全列車がNSE車で運用されることになった。 「あさぎり」の運用に就くSE車 また、3月21日からは、それまで夏季のみ運行されていた江ノ島線の特急が土休日のみであるが通年運行となり 、3月1日からは毎日運転となった。 6月1日からは特急の愛称がさらに整理され、新宿から小田原までノンストップの列車は「はこね」、途中とに停車する列車は「さがみ」、江ノ島線特急は「えのしま」に統一された。 なお、途中駅に停車する特急はこのときの改正で新設されたもので 、元来は沿線在住の箱根観光客を対象としたものであった。 7月1日からは、御殿場線直通列車が気動車からSE車に置き換えられ 、愛称も「あさぎり」に統一された。 列車種別は同年10月から「連絡急行」に変更されている。 1968年12月31日からは、初詣客に対応する特急「初詣号」の運行が行なわれるようになった が、この列車は普段は各駅停車しか停車しないにも停車するのが特徴であった。 しかし、通勤輸送への対応 やそれに伴う新宿駅再改良工事 などの影響で、以降、新宿から小田原までの所要時間は最速でも69分にスピードダウンを余儀なくされた。 線路容量不足のため、上り「さがみ」の一部が新宿まで運行できず、向ヶ丘遊園終着とする措置まで行なわれた。 通勤利用者向け特急の運行開始 [ ] その一方で、通勤輸送に特急を活用する施策も開始された。 1967年4月27日からは江ノ島線特急「えのしま」が新原町田停車となり 、同年6月23日からはを購入すればでも特急に乗車できるようになり 、さらに同年8月からはに停車する特急「あしがら」の新設と増発が行われた。 特に、新宿に到着しての車庫へ回送される列車を新原町田まで客扱いしたところ 、通勤帰りの利用者が多くなった ため、にはの車庫へ回送される車両を相模大野の車庫への入庫に変更するなどして増発が行われた。 同年7月10日からは「さがみ」の停車が開始された。 これは優等列車による通勤・通学対応としては日本では初の事例であり 、この後も徐々に通勤対応の特急が増発されてゆく。 なお、10月1日からは、連絡急行「あさぎり」の新原町田停車が開始された が、「あさぎり」についてはこの時点では定期乗車券での利用はできなかった。 1980年代 - 1990年代 [ ] レジャーの多様化へ向けて [ ] 東海道本線を走行するLSE車 しばらくは特急ロマンスカーについては大きな動きはなかったが、1970年代に入るとSE車の老朽化が進み 、代替を検討する時期となっていた。 このため、SE車の代替を目的として、にが登場した。 7000形は "Luxury Super Express" 、略して「LSE車」と呼ばれる車両で、編成長や定員はNSE車と大きく変わらないものの、デザインや主要機器などが一部変更されている。 LSE車の導入により、特急の輸送力増強が図られた。 12月には、国鉄からの申し入れにより、東海道本線上での走行試験にLSE車が使用された。 国鉄の路線上で私鉄の車両が走行試験を行なった事例は、SE車とこのLSE車だけである。 2月1日からは、連絡急行「あさぎり」の停車駅に本厚木・が追加され 、からは「あさぎり」も定期乗車券での利用が可能となった。 また、10月4日からは、LSE車の車内に公衆電話が設置された。 20000形RSE車 この時期になると、レジャーの傾向は多様化が進んでおり 、ゆとり以外に「一味違ったもの」が求められていた。 また、観光バスや他の鉄道事業者の車両においては高床(ハイデッキ)構造の車両が登場しており 、折りしもは小田急の開業60周年となることから 、これを記念するために新型特急車両としてが登場した。 10000形は "High decker" 、 "High grade" 、 "High level" 、 "High performance" などのキーワードから連想する、上級というイメージを表して「HiSE車」と呼ばれ、客席を高くしたハイデッキ構造とし 、「走る喫茶室」にが採用された ほか、外装も近代的なイメージを意図したカラーリングに変更した。 一方、7月、小田急が(JR東海)に対し、連絡急行「あさぎり」に使用していたSE車の置き換えを申し入れたことがきっかけとなり 、特急に格上げした上で両社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互に変更し 、運行区間も新宿との間に延長することとなり。 1991年にが登場した。 20000形は "Resort Super Express" 、略して「RSE車」と呼ばれる車両で 、と基本仕様を統一したため 、それまでの特急ロマンスカーの特徴であったやは採用されず 、 や(・)を設置するなど 、それまでの小田急ロマンスカーの仕様からはかけ離れた車両となった。 日常利用への対応 - EXE車の登場 [ ] このころになると、小田急ロマンスカーの利用者層にも変化が生じていた。 観光客以外の日常利用が増加していた ほか、1967年から開始された夕方新宿発の通勤用特急は増発が続けられ、当初の「回送列車の客扱い」という思惑を超え、わざわざ新宿まで出庫させる運用まで登場していた が、それでも輸送力の増強が求められていた。 しかし、当時はまだ通勤輸送に対応した複々線化工事は進展しておらず 、これ以上の増発やスピードアップは困難な状況で 、単位輸送力の向上、言い換えれば列車の定員を増やすしか方法がなかった。 また、1963年から導入されているNSE車が置き換えの時期となっていた。 これにあわせて、にそれまでとは一線を画す車両として が登場した。 30000形は "Excellent Express" 、略して「EXE車」と呼ばれる車両で 、それまでの小田急ロマンスカーの特徴であった前面展望席も連接構造も導入されていない。 EXE車の導入後も、日常利用への対応は続けられた。 からは相模大野・にも特急が停車することとなり 、1999年7月からは「あしがら」「さがみ」を統合して「サポート」とした ほか、新宿を18時以降に発車する特急は全て「ホームウェイ」という愛称になった。 こうした施策によって、1987年時点では1100万人だった特急の年間利用者数は 、には1400万人に増加したのである。 2000年代以降 [ ] 観光特急の原点に回帰 - VSE車の登場 [ ] ところが、日常的な特急の利用者数が増加する一方で、箱根特急の利用者数は大幅に減少していた。 1987年の箱根特急の年間利用者数は550万人であった が、2003年の利用者数は300万人程度にまで落ち込んでいたのである。 この理由を調べると、後の景気低迷もあって箱根を訪れる観光客自体も減少傾向にあった ほか、EXE車には「小田急ロマンスカーのイメージ」とされた展望席が存在しなかったことが挙げられた。 また、2001年から運行を開始したの「」もには運行区間が延長され、特急ロマンスカーとあまり変わらない所要時間で新宿と小田原を結ぶようになった。 このような状況下、からは箱根特急へのてこ入れが開始されることになった。 宣伝ポスターも、ロマンスカーを大写しにするのではなく、あくまで風景の一部としてロマンスカーを取り入れる施策に変更した。 この時考案された 「きょう、ロマンスカーで。 」のキャッチコピーは、2018年現在に至るまで使用されている。 また、ロマンスカーの看板車両として、前面展望席のあるHiSE車を再び起用することになった が、そのHiSE車は登場した1987年当時の時点では全く想定していなかった対応が困難であることから、更新は行なわずに小田急は苦渋の決断で新型特急車両で置き換えることになった。 新型特急車両は、「もはやロマンスカーとは名乗らないくらいの覚悟で、新しい発想を取り入れる」か 、「ロマンスカーの原点に立ち返り、ロマンスカーの中のロマンスカーとする」という2つの方向性があった が、後者の方向性で進められることになった。 50000形VSE車 こうして、に「小田急ロマンスカー」ブランドの復権を掲げ 、小田急の新たなフラッグシップモデルとして が登場した。 50000形は前面展望席と連接構造を採用し 、乗り心地向上のためにや台車操舵制御などを取り入れた ほか、「箱根へ向かう乗客にときめきを与え、乗った瞬間に箱根が始まる」ことを目指した車両で 、客室内の様式から "Vault Super Express" 、略して「VSE車」と呼ばれる車両である。 VSE車の登場後、箱根を周遊するための乗車券である「」の販売枚数は、に49万8000枚だった ものが、には74万枚に増加した。 なお、12月には再度ロマンスカーの愛称の整理が行われ、箱根特急は全て「はこね」 、箱根湯本に乗り入れない小田原線の特急は停車駅に関わらず「さがみ」という愛称に変更された。 その影響により、「サポート」の愛称は登場わずか6年ほどですべて廃止されている。 日本初の地下鉄直通有料特急 - MSE車の登場 [ ] 60000形MSE車 に、小田急とでは、ロマンスカーを(湯島駅 - 代々木上原駅間、のちに北千住駅までに変更)に乗り入れる計画を発表した。 これは日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の直通」で 、このためにが登場した。 60000形は「多彩な運行が可能な特急列車」という意味で "Multi Super Express" 、略して「MSE車」と呼ばれる車両で 、3月から営業運行を開始した。 3月17日からは、「あさぎり」の運行区間は新宿駅との間に短縮されることになり 、「あさぎり」全列車がMSE車により運行されることになった。 複々線化完成と長年の悲願の達成 - GSE車の登場 [ ] 3月17日、10年ぶりとなる新型車両が営業運転を開始した。 VSE車以来13年ぶりとなる展望席が設置されたが、「ホームウェイ」などの通勤利用も考慮して連接台車構造は採用されず、20m級車体のボギー台車構造となった。 「箱根につづく時間(とき)を優雅に走るロマンスカー」という意味で"Graceful Super Express"、略して「GSE車」と呼ばれている。 また、この年に長年の悲願であった代々木上原駅〜登戸駅間の複々線化が完成し、GSE車のデビューと同日に行われたダイヤ改正で平日朝の上り列車を増発し、新宿駅・千代田線大手町駅に9時30分までに到着する列車を「モーニングウェイ」「メトロモーニングウェイ」に改称した。 加えて、土休日の一部の「スーパーはこね」が新宿駅〜小田原駅間を最短59分で結ぶようになり、SE車開発当時の悲願であった「新宿~小田原間60分以内」の目標が達成された。 運行概要 [ ] 小田急ロマンスカー運行系統図 詳細は「」および「」を参照 戦前の「週末温泉急行」がルーツとなる、箱根への観光客を輸送するための列車である。 1950年から箱根登山鉄道箱根湯本駅まで乗り入れるようになった。 1950年10月以降は愛称が設定されたが 、列車ごとに異なる愛称が設定されており、毎日運転の列車が「あしがら」「はこね」「乙女」、休前日・休日のみ運行の列車では「明神」という愛称であった。 その後増発されるごとに愛称も増加し、1963年にNSE車が登場する直前の時点では、新宿駅発車時刻順に「あしのこ」「明星」「あしがら」「さがみ」「大観」「仙石」「はつはな」「湯坂」「明神」「はこね」「乙女」「神山」「姥子」「金時」「早雲」「夕月」という16種類に上った。 NSE車の登場後の1963年11月4日から、愛称は「あしがら」「あしのこ」「はこね」「きんとき」「おとめ」の5種類に整理された。 1966年6月1日からは停車駅別に愛称が分けられ、新宿 - 小田原の間をノンストップで運行する列車は「はこね」 、途中向ヶ丘遊園・新松田に停車する列車は「さがみ」 、1967年8月から運行開始された新原町田に停車する列車は「あしがら」という愛称になった。 1996年3月からは愛称ごとの停車駅が変更され、「はこね」の停車駅に町田が 、「あしがら」の停車駅に本厚木が追加され 、新宿と小田原の間をノンストップで運行する列車の愛称は「スーパーはこね」に変更された。 さらに、1999年7月からは、日中の特急は「あしがら」と「さがみ」を統合して「サポート」という愛称に変更された ほか、18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称は全て「ホームウェイ」に変更された。 2004年12月には、箱根特急は「はこね」「スーパーはこね」 、小田原線内のみ運行の特急は全て「さがみ」 という愛称が設定されることになった。 2018年3月17日のから、9時30分までにに到着するロマンスカーは「 モーニングウェイ」に変更され、ロマンスカー全列車の向ヶ丘遊園・新松田停車が終了した。 江ノ島線特急 [ ] 詳細は「」および「」を参照 江ノ島線の特急は、1951年7月に新宿に到着した箱根特急の車両を利用して、「納涼ビール電車」と称する特殊急行を運行したものが始まりである。 1952年夏には2000形を使用して料金不要のサービス特急が設定され、1954年からは1700形が投入されるのに伴い特急料金が設定された。 進行方向が変わる藤沢は運転停車だった。 列車ごとに異なる愛称が設定されており、「かもめ」 、「ちどり」 、「かたせ」 、「なぎさ」 、「しおじ」 という愛称が存在した。 1964年までは夏季のみ運行であったが、1964年から通年運行が開始されて以降、愛称は「えのしま」1種類となった。 1996年3月からは大和が停車駅に追加された ほか、1999年7月から18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称が全て「ホームウェイ」に変更され 、2018年3月から朝方に新宿方面へ向けて発車する上り特急の愛称が全て「モーニングウェイ」に変更された。 平成になると、さまざまな乗客のニーズに応えるためや、海水浴への利便性向上がさらなる課題となり、えのしま号を補完する目的で「湘南マリンエクスプレス」「サマービーチ」、21世紀に入ると「湘南マリン」 前者の湘南マリンエクスプレスとは別 の各愛称で臨時増発が毎年行われている。 前者は主に旧型のNSEを中心に使用されていたが、先述の置換えによる影響、さらにスーパーはこね登場によるダイヤの調整の影響、車内販売「走る喫茶室」廃止の煽りがあり1995年シーズンを持って廃止されている。 現在は箱根運用に重点を置いているが、展望席のある車型での定期運行も存在する。 車内販売は2008年を持って廃止されている。 2018年3月17日のダイヤ改正で、土休日にからの区間に「メトロえのしま号」が新設された。 多摩線特急 [ ] 詳細は「」を参照 御殿場線直通の優等列車は、1950年10月1日から運行が開始された2往復が初で 、1959年7月には1日4往復に増発された。 当初は気動車による片乗り入れであったが、御殿場線電化に伴い、1968年7月1日からSE車による直通運転が開始された。 国鉄線内では準急・急行という扱いであったため、小田急線内では「特別準急」「連絡急行」という種別となっていた。 1991年3月16日からは沼津まで延長されると同時に特急に格上げされ、同時にJR東海との相互直通運転が開始された が、3月17日改正からはこれと同時に運行区間は新宿駅と御殿場駅の間に短縮され 、毎日運行の列車は3往復となり 、前述のようにふたたび片乗り入れとなった。 2018年3月17日のダイヤ改正で、列車名が「 ふじさん」に変更された。 初詣特急 [ ] 詳細は「」、「」、「」、および「」を参照 日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の直通」で 、MSE車が使用される。 停車駅は限られているが、内に待避設備がないため、地下鉄線内で普通電車の追い越しはない。 2008年3月15日より「メトロさがみ」「メトロはこね」「メトロホームウェイ」 が運行開始されたほか、日によっては有楽町線新木場まで乗り入れる「ベイリゾート」も運行された。 「ベイリゾート」については、同線各駅への設置の関連で2011年10月以降運行を休止 、そのまま運転中止となった 2010年元旦からは「メトロニューイヤー」の運行も開始された。 2018年3月17日のから、朝方の行き「メトロさがみ」は「 メトロモーニングウェイ」に変更され、また前述の「メトロえのしま号」もにする。 シートサービス [ ] VSE車のシートサービスの例。 飲料は専用のガラスカップで提供される 編成も乗車時間も短いため 、食堂車などを連結するのではなく、車内にカウンターを設けた上でシートサービスを行うようにした。 しかし、やに打診したところ採算面から断られ 、(日東紅茶)も当初は断った ものの、「紅茶の普及宣伝」という方針で受諾したものである。 その後の特急車両では車内に喫茶カウンターが設けられた。 その後、NSE車が7編成となった時点で、日東紅茶だけでは対応できなくなったことから 、1963年から森永の宣伝を兼ねて森永エンゼルが参入することになった。 1987年に運行開始したHiSE車ではオーダーエントリーシステムも導入された。 しかし、1991年3月から運行を開始した「あさぎり」では、シートサービスではなくワゴンによる販売サービスを行なうことになった。 さらに、1995年までにシートサービスは終了し 、以後はワゴンサービスのみとなった。 2005年に登場したVSE車では、「走る喫茶室」と同様のシートサービスの営業が復活 、飲料はVSE専用のガラスカップによって提供された。 が、2016年3月26日のダイヤ改正においてシートサービスは廃止され、VSE車も含めてワゴンサービスに変更された。 予約システム [ ] 運行開始当初から1979年まで [ ] 出札補充券で発行された特急券 戦前の「週末温泉急行」は座席定員制を導入しており 、「列車指定割引乗車券」という名称の往復乗車券を発売し 、この乗車券の発売によって人員制限を行っていた。 戦後に1600形を使用したノンストップ特急でも初めて特急料金は設定された。 初めて特別急行券(特急券)が発売されたのは1949年の1910形の投入時で 、温泉マークの入った硬券特急券が発行された。 それまでは座席定員制であった が、1700形導入後の1951年8月20日から座席指定制を採用し、特急券に号車番号と座席番号が記入されるようになった。 1966年には途中駅停車の「さがみ」が運行を開始 、1967年4月には「えのしま」の新原町田停車 、同年10月からは新原町田停車の「あしがら」が運行を開始した が、この時から愛称ごとに地紋の色を変え、発売時に一目で分かるように区別できるようにした。 また、上り列車用の特急券には斜線を入れた。 座席予約システムの導入 [ ] 1987年のSRシステム更新後のSR端末発行の特急券 特急の座席については、新宿駅構内に設けられた割当センターで台帳管理されていた が、1970年代後半になると管理する座席数は67万座席となり 、発売窓口と割当センターとの電話連絡の中で重複発行などの誤取り扱いの発生、待ち時間などの問題が発生していた。 これを解決するため、座席予約システム( "Seat Reservation" 、以下「SR」と略す)を導入することになり、2月27日から使用を開始した。 SR端末は特急停車駅や案内所、の主要営業所に設置された。 また、新宿駅当日特急券発売所には、他の端末の7倍の発券速度を有する高速プリンターを設置した。 予約受付は5ヶ月前から 、発売は3週間前から行っていた。 1987年には禁煙席の導入に対応するため、SRシステムの更新が行われた。 更新されたシステムでは、払い戻しや取り消しの際に端末機が発券コードを読み取って上で自動処理を行うことで、誤取り消しによる重複発売の防止が図られた。 また、これと同時に、新宿駅には当日特急券券売機を導入した ほか、予約受付を6ヶ月前から 、発売を1ヶ月前からに変更した。 1991年からはによる空席照会と予約が可能となった。 MFITTシステムと接続された多機能券売機から発券された特急券 1995年にSRシステムのリニューアルを行い、全駅にSR端末を設置した ほか、特急券が磁気エンコード化され、乗車券とともに発券された場合でもを通過できるようにした。 1996年には大手旅行会社の端末とSRシステムのホストを直結し、迅速な発券を可能とした。 1999年7月からは車掌携帯用座席確認システムを導入し、乗車時の特急券確認作業を廃止した。 このシステムは端末を利用して 、回線経由でホストコンピュータにアクセスすることにより、その発売状況を号車別・座席別・区間別に車掌が把握し、その情報を車内での改札業務に利用できるシステムである。 これにより、発売情報とは異なる座席に着席している乗客に対してのみ車内改札を実施することが可能となった。 2001年からはホームページ上からの特急券予約が可能となった。 2003年には座席予約や発売業務を管理するシステムとして、全駅の窓口・・旅行会社のシステムに接続されるMFITTシステム( "Multimedia Future Intelligent Total Traffic service system" の略)を導入した。 2004年からは、多機能券売機の導入により、全駅の券売機で特急券の購入が可能となった。 2012年時点では、予約・発売とも1ヶ月前から開始となっている。 ロマンスカー クラブ [ ] 「ロマンスカー クラブ」で予約・購入した座席の情報 2001年7月から、に対応した携帯電話で特急券を購入し、そのまま乗車可能となるチケットレス乗車システムとして「ロマンスカー クラブ」のサービスを開始した。 このサービスは駅窓口に申し込みすることで会員登録され、当日から利用可能となる。 携帯電話からの特急券購入に使用される「特急ポイント」の積み立ては、クレジットカードと現金が利用可能である。 2009年には携帯電話やパソコンの高機能化に対応し、スマートフォンやパソコンからも特急券を購入することが出来るようにシステムがリニューアルされた。 どこからでも携帯電話を利用して座席を確保することが出来ることによって利便性が向上し 、2010年時点では平日夕方の「ホームウェイ」の乗客の4割が「ロマンスカー クラブ」を利用している。 車両 [ ] 車両の特徴 [ ] 空気ばね位置を高く設定した50000形VSE車の連接構造 1台の台車によって2車体を連結する連接構造は、1957年に登場した3000形SE車において初めて採用された。 曲線の多いの軌道条件において曲線通過を容易にできること 、車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できること 、オーバーハング部分がないため乗り心地を改善できる 、台車配置の平均化により軌道への負担が軽減されること が理由として挙げられており、当時小田急の取締役兼考査局長であったの強い主張により採用されたものである。 この当時、日本の高速電車における連接車の採用実績は、・・の3形式だけであり 、一挙に8車体もの連接車を導入したのは当時としては大英断であったといわれている。 その後、連接構造は1963年に登場した3100形NSE車・1980年に登場した7000形LSE車・1987年に登場した10000形HiSE車においても採用されており 、小田急の特急車両の大きな特徴となった。 日本の高速電車全体での連接車の採用事例の中でも、小田急の特急車両における採用事例が突出して多い。 60000形MSE車 これらの音声や映像がうまく視聴できない場合は、をご覧ください。 しかし、1991年に登場した20000形RSE車ではJR東海との協定によりと基本仕様を統一した ため通常の鉄道車両と同様のボギー車となった が、車内販売のカウンターが車端部のオーバーハング部分に設置されたため、それまで連接車にしか乗務した経験のなかった車内販売の担当者から「RSE車に乗ると乗り物酔いになる」という声も上がった。 さらに、1996年に登場した30000形EXE車においても、定員増のためにはボギー車が有利であると判断され 、連接構造は採用されなかった。 2008年に登場した地下鉄直通用車両の60000形MSE車、2018年に登場した70000形GSE車も通常のボギー車である。 ただし、小田急側では「連接車をやめたわけではない」「連接車はわが社(小田急)だからできること」ともしており 、2005年の50000形VSE車登場にあたっては乗り心地の向上のためには不可欠なものとして連接構造が採用された。 また、VSE車では台車が車体間にあるという連接車の構造を利用して 、空気ばねの位置を車体重心近くの高い位置にする構造となっている。 展望席 [ ] GSE車の展望席 を2階に上げ、最前部まで客室とした前面展望構造とすること自体は、製造のころには既に存在していた構想で、その後も特急車両の設計が行なわれるたびに検討されたが実現に至らず 、1963年に登場した3100形NSE車で初採用となった。 この構造は、乗客に眺望を楽しんでもらうという意図 の他に、輸送力増強策の一つでもあるとされていた。 その後、展望席は「いつか乗ってみたい存在」というステイタスとして定着し 、7000形LSE車、10000形HiSE車にも同様の構造は引き継がれた。 1991年に登場した20000形RSE車では連接車と同様の理由によりこの構造は採用されなかった が、客席をハイデッキ構造にしたため客席からの展望は確保されていた。 しかし、1996年に登場した30000形EXE車では分割併合を行うこととなり、貫通路を設置する先頭車での展望席設置は困難となった。 また、分割して運行する区間が長いため、その際にも違和感のないものとするという理由によって 、非貫通タイプの運転台でも展望席は採用されなかった。 ところが、この構造が、前述したように箱根特急の利用者減少の一因となった。 家族旅行で箱根特急を利用する際に、EXE車を見た子供から「こんなのはロマンスカーじゃない」と言われてしまうことがたびたび発生したのである。 このため、2002年からは広告で使用される車両を前面展望席のあるHiSE車に変更した ほか、2005年に登場の50000形VSE車では再び展望席が採用された。 2008年に登場した60000形MSE車は、地下鉄直通時の非常用通路として前面貫通路設置が必須であったことから 、展望席設置は見送られている。 しかし2018年3月登場の70000形GSE車では復活した。 補助警報音 [ ] 補助警報音は、1957年に登場した3000形SE車において、遠くからでも高速で走る電車の接近が分かるようにするために考案されたものである。 これは西部劇の映画の中で、機関車が鐘を鳴らしながら走行していることをヒントにしたもの であるが、音色の決定に際しては、から「警報装置としての条件を満足させるべき」と 、からは「にならないように」という要望があった。 この相反するようにみえる要望を満たすため小田急沿線在住のであるにも相談 、音響心理学研究所の指導を得て 、最終的にはの音色で 、2km付近まで達する音量となった。 SE車ではエンドレステープが使用された が、営業運行後にテープが伸びたり切れてしまうことが多かった ため、3100形NSE車以降は発振器に変更され 、20000形RSE車まで搭載された。 常時音楽を鳴らしながら走ることから、ロマンスカーは「電車」と呼ばれるようになった ほか、「」というCMソングも作られた など、小田急ロマンスカーのシンボルの1つとなった。 しかし、列車本数の増加などにより騒音とみなされるようになってしまい 、10000形HiSE車が製造された1987年ごろにはほとんど鳴らす機会はなくなっていた。 しかし、50000形VSE車では、通常の警笛(電子笛)と回路を共用するとしてこの音色を復活させ 、60000形MSE車、70000形GSE車でも実装、小田急線とで使用されている (・は、空気笛以外を「警笛」と認めていないJR東海の規定で通常の空気笛が使用される)。 シンボルマーク [ ] ヤマユリをあしらったシンボルマーク ロマンスカーのシンボルマークは、1951年8月に登場した1700形の第2編成で、それまでは社紋が置かれていた側面の中央窓下にアルミ製のの紋章を取り付けたものが始まりである。 ヤマユリは神奈川県の県花であり、相模の山野を走るロマンスカーにはふさわしい花とみられていた。 この紋章は1700形の全編成に設置された が、1700形が一般車両に格下げとなった際に外された。 この紋章が復活したのは1980年登場の7000形LSE車からで、登場後まもなく車内の自動ドアにぶつかる乗客が目立ったこと から、目線の高さに1700形の紋章に準じたシンボルマークをカッティングシートで貼付したものである。 この自動ドアのステッカーは10000形HiSE車・20000形RSE車でも継承され、1996年からは車体修理を受けたLSE車・HiSE車・RSE車の車体側面にも同様のマークが貼られるようになった。 これとは別に、30000形EXE車・50000形VSE車・60000形MSE車、70000形GSE車では、車両愛称のロゴをデザインしている。 ブルーリボン賞 [ ] VSE車のブルーリボン賞受賞プレート が優秀な車両を表彰する制度としての制度を創設した のは、3000形SE車が東海道本線上で当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録を樹立したことがきっかけである。 むしろSE車を表彰するために制度が創設されたという方が実情に近く 、事実SE車は理事会の決定により無投票で第1回受賞車両に選出された。 その後も、30000形EXE車を除く8形式が受賞しており、2019年時点での受賞回数8回はでは近畿日本鉄道とともに最多であった 歴代運用車両 [ ] 特急専用車 [ ] 1949年に登場した、分離発足後初の新車。 6両が特急車両として登場した「初代小田急ロマンスカー」 であるが、1952年を最後に特急運用からは外れた。 1951年に登場した、初の特急専用車である。 1957年に特急運用から外れた。 後述するSE車が登場するまでの「つなぎ役」として1955年に登場 、1959年に特急運用から外れた。 1955年に登場 、1968年の御殿場線電化により運用から外れる。 1957年に登場した軽量高性能新特急車。 1968年には編成短縮の上御殿場線直通にも使用されるようになり 、1991年に運用から外れた。 第1回ブルーリボン賞受賞車両。 前面展望席を設けて1963年に登場 、1999年まで運用された。 第7回ブルーリボン賞受賞車両。 1980年に登場。 2018年に運用から外れた。 第24回ブルーリボン賞受賞車両 展望席以外を高床化して1987年に登場。 2012年に運用から外れた。 第31回ブルーリボン賞受賞車両。 御殿場線直通用として1991年に登場。 2012年に運用から外れた。 第35回ブルーリボン賞受賞車両。 1996年に登場、初めて分割併合に対応した。 2017年より「」に順次リニューアル。 前面展望席と連接構造を復活させて2005年に登場。 第49回ブルーリボン賞受賞車両。 日本初の地下鉄直通有料特急用として2008年に登場。 第52回ブルーリボン賞受賞車両。 付近の複々線化完成に伴う増発用・LSE車の置き換え用として2018年に登場。 前面展望席付き車両では初のボギー車。 第62回ブルーリボン賞受賞車両。 一般車両 [ ] 1948年に6両が戦後初の特急として運用された。 乗車には特急料金が必要だった。 1965年前後の数年間 、特急需要のピーク時や検査入場時などに特急車両が不足するため 、一部の「えのしま」に運用された。 特急料金不要ではあるが座席定員制で 、「サービス特急」と呼ばれた。 1987年1月、NSE車とLSE車が各1編成ずつ工場に入場していた時期に、踏切事故によりSE車が1編成使用不能になった ため、本来はSE車が運用される「さがみ」の一部列車に運用された。 12月12日、本来運用予定の車両の故障が原因で、1051編成+1251編成の10両が「えのしま74号」に充当された。 他社からの乗り入れ [ ] 1991年から小田急に乗り入れ開始。 2012年に乗り入れ運用から外れた。 年表 [ ] 各車両編成の就役日などは、各車両形式の歴史の項を参照。 SE車導入まで(1957年以前) [ ]• (10年)• :土曜・休日に限り新宿駅 - 小田原駅間無停車の「週末温泉列車」の運転開始。 の看板女優・明日待子が吹き込んだレコードで、沿線案内を行う準備をした。 (昭和17年)• :の激化に伴い「週末温泉列車」の運行休止。 (昭和23年)• ・:特急の試運転を実施。 13日はの2両編成が、27日はの2両編成が新宿駅 - 小田原駅間を95分20秒で走破。 同日より特別急行料金制度(新宿駅 - 小田原駅50円)を制定。 当初同月9日からの運転開始だったが、同月7日に「」が箱根地方を直撃したため延期された。 (昭和24年)• :就役。 :新宿駅 - 小田原駅間の特急が毎日運行となる。 (昭和25年)• :まで乗り入れ開始。 (昭和26年)• :装備の専用車である1700形が就役。 :新宿駅 - 片瀬江ノ島駅間で納涼列車「すず風号」「いそ風号」の運転開始。 :座席指定制度を導入。 (昭和28年)• 7月:小田急ロマンスカーのシンボルマークとして「白百合」のマークが1700形に取り付けられる。 (昭和29年)• :江ノ島線に特急料金を制定。 (昭和30年)• :就役。 10月1日:まで乗り入れ開始。 これに充当するためキハ5000形気動車が就役。 同時に連絡準急行料金(新宿駅 - 御殿場駅間70円)制定。 SE・NSE時代(1957年 - 1980年) [ ]• (昭和32年)• :3000形SE車展示会を実施。 :3000形SE車就役。 - :3000形SE車が(国鉄)へ貸し出されて高速走行実験を実施。 (昭和33年)• :3000形SE車が1958年第1回を受賞。 (昭和38年)• :3000形SE車による臨時特急「白銀号」を運行。 :小田急ロマンスカー史上初の展望席設置列車として3100形NSE車就役。 またこれに先立ち同月 - には展示会を実施。 春:の夏の商戦の一環として3100形NSE車車内にてショーを実施。 新宿駅 - 小田原駅間は最速62分となる。 (昭和39年)• ・:・同妃が新宿駅 - 箱根湯本駅間を往復乗車。 - ・ - ・ - :3100形NSE車が6両編成にて運行される(通常は11両編成)。 、新宿駅 - 片瀬江ノ島駅間で「えのしま」が休日に限り定期運行を開始(途中停車駅は藤沢)。 :3100形NSE車が1964年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。 (昭和40年)• :「えのしま」の毎日運転開始。 (昭和41年)• :すべての特別急行列車の列車無線使用開始。 6月1日:新宿駅 - 箱根湯本駅間で「さがみ」運転開始(途中停車駅は向ヶ丘遊園・新松田・小田原)。 同時に新宿駅 - 小田原駅間無停車の特急に対して「はこね」と名付けられる。 (昭和42年)• :特急列車に定期券による乗車を認める。 :3000形SE車の御殿場線乗り入れ用の5両編成化工事実施( - 1968年3月29日)。 10月1日:新宿駅 - 箱根湯本駅間で「あしがら」運転開始(途中停車駅は新原町田〈現・町田〉・小田原)。 (昭和43年)• :特急料金に小児制度が制定される。 :御殿場線の電化に伴いキハ5000形・5100形による連絡準急行廃止。 不要となった両形式はへ売却。 :3000形SE車による御殿場線直通の運転開始。 同時に列車種別が「連絡準急行」から「連絡急行」となり、連絡急行料金制度を制定し、連絡準急行料金廃止。 (昭和44年):新宿駅 - 新原町田駅で臨時特急「初詣号」が1往復運行される(途中停車駅は参宮橋と向ヶ丘遊園)。 以後、毎年初詣客向けの特急が運行されるようになる。 (昭和47年):沿線に居住していた人より「補助警報音は源である」とする抗議を受け、相模大野駅以東での使用が禁止となる。 (昭和54年):特急券の座席予約・販売にオンラインシステムを導入。 LSE・HiSE時代(1980年 - 1991年) [ ] 箱根に向かうLSE車• (昭和55年)• :7000形LSE車完成記念列車が運行される。 (昭和56年)• :7000形LSE車が1981年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。 9月18日 - 12月25日:で『』というロマンスカー・スチュワーデスを主人公としたが放映される。 (昭和57年)• :でのイベントの関連企画として新宿駅 - 向ヶ丘遊園駅間でが車掌となって乗車する団体列車「你好(ニーハオ)つかさ号」が3000形SE車にて運行される。 (昭和58年)• 7月:新宿駅 - 片瀬江ノ島駅間で団体列車「め組EXPRESS」が3000形SE車にて運行される。 (昭和59年)• :臨時団体列車「小田急箱根クイズラリー号」が運転される。 :3000形SE車車体修繕工事実施( - 1985年3月27日)。 12月25日:3100形NSE車車体修繕工事実施( - 1988年10月20日)。 (昭和61年)、7000形LSE車車内に車内電話が設置される。 HiSE車• (昭和62年)• 頃:7000形LSE車が事故に遭遇した影響でロマンスカーの車両数が不足し、急遽、通勤形車両()が特急として運行される。 7月1日:ロマンスカー全列車の1 - 3号車にが設置される(小田急ロマンスカー史上初の禁煙席の登場)。 :10000形HiSE車就役。 (昭和63年)• 1月1日:10000形HiSE車で運行された「初詣号」で「」のサービスが行われる(「初詣号」での「走る喫茶室」のサービスはこの回限り)。 :10000形HiSE車が1988年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。 (2年)• - :多摩線開業15周年を記念し、臨時列車「江ノ島・鎌倉エクスプレス」が唐木田駅 - 新百合ヶ丘駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行される。 7月 - :同区間で臨時列車「湘南マリンエクスプレス」が運行される。 (平成3年)、この日限りで3000形SE車の定期運用から離脱 、新宿駅にて記念式典挙行。 連絡急行料金廃止。 RSE・EXE時代(1991年 - 2005年) [ ] RSE車と371系「あさぎり」• 1991年(平成3年)• 3月16日:20000形RSE車・JR東海371系就役。 「あさぎり」が連絡急行から特急に格上げ、運転区間を沼津駅まで延長。 特別席"スーパーシート・グリーン車"が設置される。 同時に特別席(スーパーシート・グリーン車)料金制定。 同日、ORS()とジェイダイナー東海(現・)が車内販売のサービスを開始する。 7月:臨時列車「ビア・エクスプレス納涼号」が運行される。 (平成4年)• 3月25日:上記の同区間で臨時列車「サンリオピューロランド号」が運行される。 :3000形SE車全廃。 全廃時には「小田急メモリアル」というイベントが展開される。 6月:臨時列車「あじさい号」が運行される。 :20000形RSE車が1992年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。 :第9回の開催を記念し、臨時列車「グリーンウェーブ相模原号」が7000形LSE車で運行される。 :団体列車「カントリーインアサギリ号」が20000形RSE車にて新宿駅 - (御殿場線・東海道本線経由) - 間で運行される。 :大野工場に3000形SE車の記念モニュメントを設置。 (平成5年)• うち2両を竣工当時の「SE」仕様に復元。 :日東紅茶()が小田急ロマンスカーの「」のサービスから撤退。 同日鉄道友の会30周年記念行事として3100形NSE車が小田急多摩センター駅4番ホームに展示される。 同時に1番線にNSE車と同時期に製造された京王帝都電鉄(現・)が展示され、両社の名車が並んで展示された。 (平成7年):一部の「あしがら」が本厚木駅への停車開始。 1995年(平成7年)• 7000形LSE車にリニューアル工事が施される( - 1997年)。 :が小田急ロマンスカーの「走る喫茶室」のサービスから撤退する。 これにより、小田急ロマンスカーの伝統であった「走る喫茶室」のサービスが廃止となる。 1996年から運用開始したEXE車• (平成8年)• :30000形EXE車就役。 「はこね」のほとんどの列車が町田駅に停車するようになったため、町田駅に停車しない「はこね」を「スーパーはこね」に改称。 30000形EXE車就役により一部の「はこね」「あしがら」と「えのしま」の併結運転が開始。 「えのしま」が大和駅への停車を開始。 (平成11年)• :相模大野駅 - 唐木田駅間にて「3100形NSEさよなら走行会」を実施。 :3100形NSE車が定期列車から撤退するにあたり、新宿駅と箱根湯本駅にて記念式典挙行。 :「さがみ」「あしがら」の名称を廃止し、「サポート」「ホームウェイ」の列車愛称が登場。 同日より特急列車の乗車口による検札を廃止。 (平成12年)• :「ゆめ70 さよなら運転」実施。 これにより3100形NSE車全廃。 :多摩線初の定期列車のロマンスカーとして、「ホームウェイ」登場。 開成駅前にて静態保存されたNSE車• (平成13年)• 3100形NSE車3181号車が開成駅前にて静態保存される。 :「ロマンスカー クラブ」の予約開始。 :特急券のチケットレスサービスが開始される。 10月:「ロマンスカー クラブPC」のサービス開始。 :従来「初詣号」として運行されていた初詣客向け臨時特急の列車名を「ニューイヤーエクスプレス」に改称。 (平成14年)• 2月1日:30000形EXE車の1号車にて「 TRAIN」と題して小田急ロマンスカー車内でを用いた接続実験が行われる( - 3月31日)。 3月23日:特急料金の値下げ(10円 - 60円)が実施される。 36キロ以上の特定料金は廃止。 小田急ロマンスカーの新テレビCM「きょう、ロマンスカーで。 」が始まる。 (平成15年):座席番号の表記方法を変更。 従来の連番式(例:101,102・・・)から数字とアルファベットを組み合わせたJR式(例:1A,1B・・・)になる。 (平成16年):「サポート」を廃止し、「さがみ」の列車愛称が復活。 「えのしま」の運転本数を大幅削減。 VSE・MSE時代(2005年 - 2017年) [ ] 新宿超高層ビル群を背景に箱根に向かうVSE車• (平成17年)• :50000形VSE車が海老名電車基地内にて車両見学会を実施。 :50000形VSE車就役。 同日、車内で配布する無料観光情報誌『るるぶFREE ロマンスカー 箱根 小田原』創刊。 4月1日:特急券を購入した際ににポイントが加算されるサービスが開始される。 :小田急ロマンスカーの東京地下鉄への乗り入れと新型車両60000形MSE車の導入を発表。 7月1日:小田急ポイントカードに貯まったポイントで特急券を購入できるサービスが開始される。 10月1日:従来禁止されていた小田原駅 - 箱根湯本駅間の乗車に際して列車に空席があった場合に限り座席指定を行わない「座席券」が発売され乗車可能となる。 なお、「座席券」は当日ロマンスカーの発車直前にホームにて発売。 - :「ロマンスカー クラブ」にて他の利用者のが閲覧できるという事態が起こる。 (平成18年)• :50000形VSE車が2005年度受賞。 :50000形VSE車のグッドデザイン賞受賞を記念し、受賞記念の「G」マークが車体に貼られる。 その際に展望席のフロントガラスが大破し、展望席の乗客9名が怪我を負う。 2月17日:前日の事故を受け、全列車の前展望席の使用を中止とする。 2月24日:展望席のフロントガラスに「飛散防止フィルム」を貼るという安全対策を施したことから、前展望席の使用を再開。 3月19日:50000形VSE車就役1周年を記念して、新宿・町田・小田原・箱根湯本の各駅に到着・発車時に補助警笛(ミュージックフォーン)を鳴らすサービスを開始。 同日、50000形VSE車の就役1周年を記念して「1st ANNIVERSARY」という記念のロゴが車体に貼付される。 3月31日:「ロマンスカーカフェ」が新宿駅の西口地上改札内 に開設され、営業を開始する。 4月8日:はこね14号として運行していた50000形VSE車が、町田駅発車後、展望席にて雨漏り発生。 後日、雨漏り対策工事実施。 :特急券を所持せずに特急に乗車した者に限り通常の特急料金に300円を加算して販売する制度 ができる。 なお、この制度で購入した特急券には座席の指定がなされない。 :50000形VSE車が2006年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。 定期列車である「スーパーはこね13号」の一部を鉄道友の会が貸切にして受賞記念列車を運行。 また、これを記念して「Blue Ribbon ROMANCECAR VSE 2006」という記念のロゴが車体に貼付される。 (平成19年)• :全席終日禁煙化。 同日、小田急ロマンスカーCMソング「ロマンスをもう一度」のCDを発売。 ・:団体列車「ロマンスカー 号」、 - 小田原駅間にて運行。 :60000形MSE車の関係者向けの公開が行われる。 同日、小田急ロマンスカーの東京地下鉄への乗り入れの概要を発表。 ・:両日に海老名電車基地で開催された「2007」において、3000形SE車・3100形NSE車・7000形LSE車による旧塗装車の展示と60000形MSE車の一般向けの初公開が行われる。 地下鉄に乗り入れたMSE車• (平成20年)• :団体列車「号」、 - - 小田急多摩センター駅間にて運行。 :60000形MSE車就役。 東京メトロ千代田線直通ロマンスカーの運転開始。 :60000形MSE車による不定期での東京メトロ千代田線経由有楽町線直通列車「ベイリゾート」の運転開始。 :60000形MSE車車内専用配布無料観光情報誌『るるぶFREE MELLODA』創刊。 - :同期間の平日に限り、「湘南マリン号(臨時51号(片瀬江ノ島行き)・臨時52号(唐木田行き))」を唐木田駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行。 9月30日:60000形MSE車が第10回ブルネル賞車両部門奨励賞を受賞。 10月8日:60000形MSE車がグッドデザイン賞を受賞。 同日より「Gマーク」が車体に掲出される。 (平成21年)• ・・・:「メトロおさんぽ号(臨時メトロ80号)」を町田駅 - 北千住駅間にて運行。 :団体列車「エコロマンスカー号」を新宿駅 - 小田原駅間にて運行。 (当時)・、・らが乗車し、車内で「親子で学ぼう!春の温暖化防止スクール」を実施。 - :同期間の平日に限り、「湘南マリン号」を成城学園前駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行。 また、からまでは「クールビズトレイン」として車内設定温度を1 - 2度上げて運行。 :60000形MSE車の2009年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞式典挙行。 定期列車である「はこね15号」の一部を鉄道友の会が貸切にして受賞記念列車を運行。 また、これを記念して「Blue Ribbon ROMANCECAR MSE 2009」という記念のロゴが車体に貼付される。 :「メトロもみじ号(臨時81号(小田原行き)・臨時82号(北千住行き))」を北千住駅 - 小田原駅間にて運行。 (平成22年)• 1月:7000形LSE車(3編成)と10000形HiSE車(2編成)計5編成の車両の連結部分の金属に複数の傷が見つかり、当面の間LSE車とHiSE車の運転を休止する(長野電鉄に譲渡された元10000形HiSE車の1000形「ゆけむり」2編成も運転を休止)。 節電によるロマンスカー運転休止の告知(左)と、発券中止となった特急券券売機(右)• (平成23年)• :が発生し、ロマンスカー全列車の運転を休止する。 3月14日、などの停止に伴う電力供給の逼迫のため、がを実施。 これに伴い、この日からロマンスカー全列車の運転を休止し、特急券の販売を停止する。 :この日から臨時ダイヤにより運転再開。 ロマンスカー全車両には「がんばろう日本」のステッカーを貼付。 また、4月16日に運転するロマンスカーの全列車(あさぎり号を除く)の特急料金相当額を義援金としてに寄付。 :通常の列車名で運転再開。 10月:ホームドア設置工事のため 、「ベイリゾート」の運転を休止する。 (平成24年)• :10000形HiSE車、20000形RSE車の運行を終了。 JR東海371系が「あさぎり」から撤退。 スーパーシート・グリーン席・セミコンパートメント席の営業を終了。 :「あさぎり」に60000形MSE車が就役。 運行区間を新宿駅 - 御殿場間に短縮。 「メトロはこね」を平日に運行開始。 「ベイリゾート」の運転を中止。 (平成28年)• :新たに海老名駅と伊勢原駅に停車開始。 唐木田行き列車を廃止。 平日の「メトロホームウェイ」を増発。 平日藤沢行き「ホームウェイ」1本に50000形VSEを充当(VSE初の定期「ホームウェイ」、定期の江ノ島線運用)。 、本来運用予定の車両の故障が原因で、1051編成+1251編成の10両が「えのしま74号」に充当された。 (平成29年)• VSE・MSE・GSEの三つ巴時代(2018年以降) [ ]• (平成29年)• :70000形GSE車が報道陣向けに公開される。 映像外部リンク :が2016年10月20日にアップ• (平成30年)• 2月19日:新型車両「」周知のため新宿駅西口構内に、車体を模した飲食店「GSE Cafe」を期間限定(4月1日まで)開業。 3月17日:「70000形(GSE車)」の営業運転を開始。 また同日ので「メトロえのしま」を新設、「あさぎり」を「ふじさん」に、「メトロさがみ」を「メトロモーニングウェイ」に、朝方の新宿方面への「さがみ」と「えのしま」を「モーニングウェイ」にそれぞれ改称。 代々木上原駅~登戸駅間の複々線化完成で、土曜・休日の一部の「スーパーはこね」が、新宿駅~小田原駅間を59分で結ぶようになる。 4月27日:海老名駅隣接地にて、歴代のロマンスカー運用車両の展示を主とする「」を春に開業することが発表される。 イメージソング [ ]• - より使用されている小田急ロマンスカーの。 以降の車両では車内チャイムとして使われている。 - 30年代ごろの。 「ピポー」とは補助警笛音のことであり、イントロに補助警笛音がアレンジされたものが使われている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 第3321840号• デハ1601、デハ1602、デハ1604、デハ1607、クハ1651、の6両()。 ただしデハ1601は代用であった()。 に当時のポスターが掲載されている。 1910形は1950年に改番され、2000形に変わっていた()。 この「納涼ビール電車」は特殊急行という扱いで、特急料金は不要だった()。 当時より早くなったのは、同区間の複々線が完成し、所要時間が59分に短縮された55年後の2018年のことである。 定期列車扱いとなったのは1965年11月15日のダイヤ改正からである()。 このため、「さがみ」という愛称は1963年11月4日から1966年5月31日まで、「あしがら」という愛称は1966年6月1日から1967年7月までは使用されていなかったことになる。 「いそ風」「すず風」という愛称が設定されていた()。 日本の地下鉄で、実際に地下区間で速達運行を行っているのはと、、のみ。 は、待避線があるのは地上区間のみである。 ただし、グリーン車ではシートサービスが行われた()。 1965年に小田急が発行した夏季時刻表では、下り・上りとも「第3えのしま」「第4えのしま」が座席定員制・特急料金不要のサービス特急として記載されている()。 ただし、乗り入れに際しての協定により同線内は料金を徴収しないが乗車が禁じられていた。 新宿方先頭車両の車両番号が「3001」となる5両編成。 当時小田急多摩センター駅の4番ホームと京王多摩センター駅の1番線は並行していたが、2007年に小田急多摩センター駅の4番ホームが撤去されたため現在は並行していない。 新宿方先頭車両の車両番号が「10041」となる11両編成。 新宿方先頭車両の車両番号が「3221」となる11両編成。 新宿方先頭車両の車両番号が「10021」となる11両編成。 新宿方先頭車両の車両番号が「10061」となる11両編成。 競合する(JR東日本)の・の快速・普通列車のグリーン車も類似の乗車後購入の割増料金を採用している。 新宿方先頭車両の車両番号が「7004」となる11両編成。 これに合わせ、7000形LSE車の残る2編成の廃車も予定されている。 出典 [ ]• 鉄道ファン1996年4月号特集小田急ロマンスカー• PDF• 日本語 プレスリリース , , 2009年11月25日 , 2012年5月22日閲覧。 2012年8月11日閲覧。 PDF プレスリリース , 小田急電鉄, 2018年7月18日 , 2018年7月19日閲覧。 鉄道ファン 2016年12月13日. 2016年12月13日閲覧。 ノキア・ジャパン 2002-04-12. 小田急レストランシステム店舗案内(2018年4月1日閲覧)• 朝日新聞 2007年6月16日. 2007年7月15日閲覧。 - 小田急電鉄、2011年3月18日付• - 小田急電鉄、2011年4月7日付• 『鉄道ホビダス』RMニュース 2012年2月20日. 2012年3月17日閲覧。 鉄道ファン 2016年12月13日. 2016年12月13日閲覧。 乗りものニュース、2017年12月5日• 『日本経済新聞』朝刊2018年2月17日(東京面)• PDF プレスリリース , 小田急電鉄, 2017年12月5日 , 2017年12月5日閲覧。 PDF プレスリリース , 小田急電鉄, 2017年11月1日 , 2017年11月2日閲覧。 PDF プレスリリース , 小田急電鉄, 2018年4月27日 , 2018年4月30日閲覧。 参考文献 [ ] 書籍 [ ]• 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』、2009年。 青田孝『箱根の山に挑んだ鉄路 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次の(写真左から運転車両部 課長代理兼渉外主査 稲葉裕行さん、海老名車掌区 指導主任 時田大資さん、運転車両部長 田島寛之さん、喜多見車掌区区長 久保寺巧さん、海老名電車区 指導主任 佐藤栄さん) 花形商品・ロマンスカーの低迷が、クレド誕生のきっかけ 川口大輔さん(以下、川口):「みんなが喜ぶロマンスカーにしていこう」。 2011年12月に誕生したロマンスカークレドですが、この一文ができたことで、運転士や乗務員、アテンダント、ロマンスカーに携わるすべての人々の意識に大きく変化が生まれたと聞いています。 今日は、当時のクレド作りに携わった方々を迎えて、クレドに込められた想いや作るまでの経緯について、伺えればと思っています。 運転車両部長 田島寛之さん(以下、田島): そもそも、クレドを作ろうと考えた最初のきっかけは輸送人員の減少です。 2000年代頃から年々少なくなり、小田急電鉄の花形商品であるロマンスカーでさえも、徐々に低下していました。 2005年に当時の新型車両であるVSEが登場したにも関わらずです。 VSEに乗る人が増えていても、LSEやEXEなどの車両に乗る人が減っていた。 つまり、ロマンスカー自体の価値が大きく低下しており、強く危機感を抱きました。 運転車両部 課長代理兼渉外主査 稲葉裕行さん(以下、稲葉さん): 当時、乗務員やアテンダント、それぞれがサービスへの気持ちは持っていたのですが……。 その目指すべき方向性は結構バラバラでした。 そこで、他社さんで、自分たちの想いを込めたクレドを作り、業績回復に成功した事例を耳にしていたこともあり、私たちにも、 乗務員たちがひとつの方向に向かっていくための指標(クレド)が欲しい と思ったのです。 新型車両を導入してハード面では整ったので、次はソフトにフォーカスするという流れです。 喜多見車掌区区長 久保寺巧さん(以下、久保寺): 乗務員のなかにも、お客様中心のおもてなし心に長けている乗務員もいれば、「言われたことだけやっていればよい」という乗務員、そして「ロマンスカーには全く興味がない」という乗務員がいました。 それぞれ温度感が違う人たちにも刺さるクレドを、どうやったら作ることができるのか。 それが一番の課題でした。 若手からベテランまで。 みんなが納得できるクレドを作るまで (運転車両部部長 田島寛之さん) 川口: 2010年12月にロマンスカークレドを作るプロジェクトがスタートしました。 プロジェクトチームの人選はどのように決めていったのでしょうか? 田島: 「 想いが強すぎる人だけでクレドを作っても意味がないよね 」とは思っていました。 温度感が高い人も低い人も、全員を同じように巻き込んでいく必要がある。 なので、若者からベテランまで幅広い年齢層で、自ら志願した人や運営側が選んだ人など、バラエティに富んだメンバー構成にしました。 川口: クレドをうまく活用している企業さんをピックアップして、フィールドワークに行きましたよね。 海老名車掌区 指導主任 時田大資さん(以下、時田): まずはディズニーランドのオリエンタルランドさんと、JR九州さんに伺いました。 あとは、ホンダカーズ中央神奈川店さん、日本郵政さん、リッツカールトン大阪さん、加賀屋さんなど、自分たちが過去に受けたサービスや人伝えに来て、「良いサービスだな」と思った会社さんを決めていきました。 とても参考になったのがJR九州さんです。 特にアテンダントさんの関わり方が印象的でした。 彼女たちは裁量がすごく広い。 例えば、自分たちが考えて開発したお弁当やグッズをどんどん販売できる。 自分ならではのサービスができるからこそ、さまざまなことを自発的に学ぶ のだそうです。 権限の譲渡と責任のとり方をうまく両立させることで、「お客様に喜ばれるサービスを提供できるのだな」と強く感じました。 田島: ヒアリングに行ったメンバーたちからのフィードバックで思ったのが、 「お客様のニーズに的確にこたえること」と、「ルールを厳守すること」は両立しない ということです。 もちろん安全のためにルールの遵守を徹底することは大事ですが、サービス面については乗務員たちが自分で考えて行動したことが、お客様の評価につながることに気付き始めていきました。 また、会社の上層部が、そうした変化を受け入れ始めたことも重要でしたね。 東日本大震災で、史上初の運休33日間。 その間に再確認できた「ロマンスカーへの愛」 (海老名電車区 指導主任 佐藤栄さん) 川口: いよいよ本格的に始動しようとした矢先、東日本大震災が起きプロジェクトもストップしました。 海老名電車区 指導主任 佐藤栄さん(以下、佐藤): 震災の影響で33日間ロマンスカーは運休していました。 「ロマンスカーへの思い入れは特にない」と語っていたベテランの運転士も、「走ってないと寂しい」と話しているのを聞き、やはり大きな存在なのだなと。 震災は温度感が低かったメンバーの気持ちに変化を生じさせた分岐点だったと思います。 その後、ロマンスカーが運転再開の日を迎えたときの話なのですが、一番列車が箱根湯本駅のホームに近づいたとき、箱根町の旅館の女将や従業員の方たちが手を降って待っていてくれたのだとか。 運転士はその光景を見て 「こんなにも多くの人がロマンスカー再開を待っていてくれたのか」 と思わず涙してしまったそうです。 新型車両のセレモニーでもなければ、終点の箱根湯本駅にたくさんの人が集まっていることはありませんからね。 箱根町にとっても大切な存在なのだと私たちも知りました。 田島: これまで「ロマンスカーは小田急のもの」だと勝手に思っていましたが、 働いている人だけではなく、沿線にお住いの方々にとっての「ロマンスカーの価値」というものもあるんだ 、と改めて認識させられました。 時田: この期間は、改めてロマンスカーを考える時間としても重要でしたね。 クレドの文言をつくるキーワードを探そうと思い、区員全員へのインタビューを実施しました。 川口: 全員へのインタビューはいかがでしたか? 時田: すごく成果がありました。 温度感が低いと思っていたベテラン乗務員に対しても、丁寧にヒアリングしていくと、自然とロマンスカーに対する想いが溢れてきて、最後には「俺、ロマンスカー好きだったわ」という一言が、いろんな人から出てきたのが印象的でした。 久保寺: マインドが高い人から低い人まで、 心の中でロマンスカーというモノを持っているんだな と思いましたね。 川口: 結果的に「みんなが喜ぶロマンスカーにしていこう」というクレドになったわけですが、この文言を決めるだけで、1日以上かかりましたね。 久保寺: そうなんです。 「みんな」を漢字にするのかひらがなにするのか。 「していこう」なのか「する」なのか、議論に非常に時間がかかりました。 小田急電鉄は「石橋を叩いて叩いて渡らない鉄道会社」と社内でも言われていましたが、枠を取り払って、 「いろんな人に受け入れられるものにしたいな」 という気持ちが強かったのだと思います。 「やらされてる感」を防ぐため、渡し方や仕様にもこだわりを (課長代理兼渉外主査 稲葉裕行さん) 川口: フィールドワークの後、半年近くかけて文言を決めて、2011年12月にクレドを完成しました。 ただクレドは、いかに浸透させるかがカギになります。 小田急電鉄さんでは、実現する上で、大切になる想いや行動をまとめた「ロマンスカークレドカード」を作成して全乗務員に配布しているそうですね。 稲葉: カードの仕様はかなりこだわりましたね。 台紙を付けて、取り外しできるような形にしています。 カードは常に胸ポケットに入れたり、台紙はロッカーに貼れたりできるように想定しました。 そして、 クレドへの想いが伝わるように「みんなでロマンスカーの価値を高めていきましょう」と一人ひとりに手渡ししました。 川口: クレドカードを渡したとき、みなさんの反応はいかがでしたか? 時田: 「何かをやらされるのでは?」と危惧する人が多かったです。 「クレドは、ただやらされるものではない」と理解してもらうのが大変でした。 田島: 特に具体的なシチュエーションに関する話を、繰り返しした覚えがあります。 例えば、乗車口の前でカメラを取り出しているお客様がいたら、「お写真をお撮りしましょうか」と一言かけることでOKだよとか。 自発的に動けることが大切ですよという話をしました。 川口: クレドを策定後、7年近くが経過しています。 変化はありましたか? 久保寺:想像していた以上に、楽しんで取り組んでくれています。 年に1回、区員たちがディスカッションをする「クレドミーティング」という場を設けているのですが、十分に理解してくれているし、うまくマインドの伝承もできていると思います。 (喜多見車掌区区長 久保寺巧さん) 久保寺: 全体的に臨機応変に対応できるようになってきたように思います。 私は列車の運行管理をする運輸司令所にいましたが、クレドに関わったことで変化が起きました。 以前は列車遅延があると、定時運行のために各停を待たせて、特急を先に行かせていましたが、「よく考えたら各停停車駅からロマンスカーに乗りたいお客様がいたら乗り換えできないじゃないか」と議論が起こり、安易に各停を待たせることはしなくなりました。 田島: 運輸司令所のように 一見ロマンスカーに関わりのない部署でも、立場によってできることはいろいろあります。 乗務員からアテンダントの女性スタッフに、空席情報を共有したり、整備士もクレドに参加して車両整備もお客様をより意識するようになりました。 久保寺: 乗務員同士で、お互いに良い行いを見たら、それを投書する「グッジョブカード」というものを設置しました。 他部署の人から、おもいかげないようなことを褒められることもあります。 人はちょっとでも褒められるとうれしい気持ちになりますし、仲間内で盛り上がれるのもいい。 褒める文化ができたのも、良い傾向だと思っています。 田島: 本社の指示ではなくて、 自分たちで主体的にやってみようと思ってもらえたのが良かった ですね。 一方、 本社側は裁量で行った部分を許容してくれる。 その土壌を少しずつ作れたのは、クレドの仕組みの流れかもしれません。 「クレド」という後ろ盾を使って、一人にでも多くの人に感動を (海老名車掌区 指導主任 時田大資さん) 川口: 一方、お客様からの反応はいかがでしたか? 時田: 個人的に印象深いのは、クレドをはじめたころに乗車してくれた小さな女の子のエピソードです。 その女の子が初めてロマンスカーに乗った日がお誕生日だったらしく、私が一緒にお祝いをさせていただきました。 それがとても印象に残ったようで、 以来、彼女はお誕生日のたびにロマンスカーに乗って箱根に旅行しているそうです。 乗るたびに彼女は「時田さんはいますか?」と探して下さっているようで私も嬉しい。 彼女が経験したことこそが、まさに小田急のロマンスカークレドを体現したものなのだろうなと。 久保寺: ほかにも以前、高齢のご夫妻がホームで「乗る列車よりもはやく着きすぎてしまった」とおっしゃっていたとき、ちょうど眼の前で停車していた空席ありのロマンスカーに席を振り替えたそうです。 さらに、そのご夫婦は金婚式で箱根に行くとおっしゃっていたことをアテンダントと乗務員に伝え、ロマンスカー内でもお祝いしたのだとか。 大変感動してくださって、後日お褒めの言葉をいただきました。 佐藤: 今年から走っている新型ロマンスカーのGSEのコンセプトにも、ロマンスカークレドが役立っています。 GSE にはWi-fi接続で楽しめる「Romancecar Link」があります。 現在地のマップや展望席からのライブカメラ映像、オリジナル動画など、乗務員やアテンダント、車両整備係などが手作りしたコンテンツです。 これがお客様からも好評で、とても嬉しいですね。 川口: クレドができたことで、乗車率自体など変化はありましたか? 田島: 2008年に初めて東京メトロ千代田線へMSEの乗り入れを開始して本数が増えたことなどもあり、ロマンスカーの乗客数は大きく回復しつつあります。 1日平均乗車人数も 2011年を底に2017年には2割近くも回復 しました。 川口: 最後に、クレドの今後の展望について聞かせてください。 田島: みんなの想いを具現化できたし、経営層にも「小田急のブランド価値はこういう意味だ」と伝えられたのは良かったと思っています。 ただ、 まだまだクレドの浸透もサービスも改良の余地はあるし、終わりはありませんから 、もっともっと化けてほしいなと思っています。 稲葉: クレドは、 目の前のお客様に自分の自由な発想で自由なサービスができる後ろ盾だと私は思っています。 「必ずこうしなきゃいけない」という答えはなく、その時その時に答えはあるはずです。 そう考えると、クレドを基点としたサービスやおもてなしの広がりは、まだまだある。 現状を見ていると、広がり切れていないとも思うので、「クレド」という後ろ盾を使って、自由にいろいろ挑戦して欲しいと思っています。 取材・文:藤村 はるな 撮影:渡辺 健一郎 編集:上野 智 櫛田 優子•
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