ヨルシカ インタビュー。 ずっと真夜中でいいのに。とかヨルシカのような匿名性のあるアーティストの話

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ヨルシカ インタビュー

音楽泥棒の自白 02. 昼鳶 03. 春ひさぎ 04. 爆弾魔 05. 青年期、空き巣 06. レプリカント 07. 花人局 08. 朱夏期、音楽泥棒 09. 盗作 10. 思想犯 11. 逃亡 12. 幼年期、思い出の中 13. 夜行 14. 花に亡霊.

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ヨルシカ インタビュー

About ヨルシカ ヨルシカのブレイクが物語る、想像し、読み解くという音楽の楽しみ方 インターネット上のコンテンツ出身のアーティストたちがリスナーの裾野を広げ、音楽シーンの前線へと躍り出るようになったここ数年。 中でも最右翼といえるのが、VOCALOIDクリエイターとしても活動し、現在は他アーティストへの楽曲提供などもこなすコンポーザー・n-buna ナブナ と、もともとは彼の楽曲のファンであったというシンガーの suis スイ からなるバンド・ヨルシカだ。 その勢いは数字の面でも明らかで、2019年7月現在、「言って。 」と「ただ君に晴れ」が、それぞれYouTubeで4000万近くの再生数を獲得しているほか、今年の4月にリリースされたばかりのフルアルバム『だから僕は音楽を辞めた』からも「藍二乗」「だから僕は音楽を辞めた」の2曲が既に1000万再生を突破。 顔出しをせずロゴのみをアーティスト・ビジュアルとし、TVなどのメディア露出もないにもかかわらず、である。 つまり、ヨルシカの音楽が支持を得ている理由は、楽曲の良さ、ほぼその一点に尽きる。 外連味のないギターロックを軸としながら、音色やバランス面を細部まで突き詰めることで、透明感や奥行き、耳触りの良さを高水準で実現。 変拍子や超高速BPMといったアプローチも少なくないネット発の音楽においては却って珍しいともいえるサウンド感だが、その所以は、ブルースからポップス、エレクトロニカまであらゆる音楽を好むn-bunaが、ヨルシカとして表現したい音とビジョンを明確に定め、そのために必要な手法を豊富な引き出しから適宜セレクトしているから。 そして彼のメロディと言葉が持つ力は、suisが巧みに感情を差し引きしながら歌うことで増幅するのだ。 極めてコンセプチュアルな作品性も特筆に値する。 一本のコンセプトに基づいたアルバム自体は珍しくないが、ヨルシカの場合はこれまで全ての作品が、物語のサウンドトラックのように、あるいは物語の一部であり、作品をまたいで伏線を回収したりすることも多々ある。 ただし、そこに具体的なストーリーは明示されず、聴き手が各自ストーリーを想像したり脳内で補完しながら聴き進めることに。 先行配信された「心に穴が空いた」「雨とカプチーノ」、そして8月28日にリリースが決まった2ndフルアルバムでもその手法は変わらない。 今作のハイライトでありラストを飾るミドルバラード「ノーチラス」へと至る全14曲において、ピアノをフィーチャーしたギターロックという中核はそのままにバリエーションは豊富になり、描かれる心象や情景に滲むメランコリーを、ときに切々と、ときにあえて明るいトーンのサウンドと歌声をもって表現するヨルシカ一流の手つきは、ますます冴えを見せている。 アルバムで描かれる物語の概要やその意図を断定することは、、ここでは避けたい。 n-bunaがインタビュー等で常々発言している通り、ヨルシカの音楽は個々の感性で自由に受け止め、想像を巡らせることで面白みが増すものだ。 ただし、そうするうちに「ノーチラス」(作家・ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』に出てくる潜水艦の名)よろしく、とんでもない深みに潜っていくことにはなるだろう。 文=風間大洋 アルバムの初回限定盤「エルマが書いた日記帳仕様」には、CDに加えて、エルマの旅の足跡を記した日記帳と写真が封入される。 音源やミュージックビデオだけで楽しむこともできるが、その世界に入りこむことで、一つ一つの曲に込められた背景を、より深く味わうことができる。 なぜ、どのようにしてこの作品が生まれたのか? インタビュー前編では、ヨルシカのコンポーザーn-bunaの原風景やルーツから、創作の背景、ヴォーカリストsuisの歌の表現の成長など、様々な切り口から語ってもらった。 『だから僕は音楽を辞めた』で音楽を辞めた「青年」の物語を作って、それと対になるコンセプトを持ったアルバムをもう一枚出そうと最初から考えていました。 『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』のプロットを同時に考えていった感じです。 制作自体は前のアルバムが発売された後に取り掛かったので、だいぶ期間は短かったんですけれど、楽しかったですね。 たしか「ノーチラス」と『だから僕は音楽を辞めた』に入っている「藍二乗」が、ヨルシカを始めて最初の頃に作った曲ですね。 ヨルシカを結成したのは2017年の春なんですけれど、音楽を辞めた青年と、それに影響されて模倣するように生きるエルマという人間の話をコンセプトにした作品は、その頃から作ろうと思っていました。 「ノーチラス」のデモも、その頃から僕のパソコンの中にはずっとありました。 バンド形式というか、そういう形で作品を作りたいという。 あと、昔から、映画や小説のような一つの作品が作りたかったんです。 コンセプトをしっかり固めた上で、その作品の中に音楽というものがあって、それをパッケージして世に出すということがしたかったのが、ヨルシカの始まりですね。 それを人間的なヴォーカルを使って表現したくて、suisさんという人と出会って組んだ感じです。 暗い詩を歌ってもどろっとしなかったというか。 ある種の爽やかさを持っていた人なので。 そこら辺が大きかったなと思います。 ーsuisさんにとっては、n-bunaさんと出会ってヨルシカで歌うというのはどういう体験でした? suis ヨルシカの前に、n-bunaくんのボーカロイド曲を歌うライブのゲストヴォーカルをして、そこで見つけてもらったんです。 もともと彼の描く歌詞や世界がすごく好きだったので、最初に聞いたときには嘘みたいな話だと思ったんですけれど。 『人生って面白いな』って感じでした(笑)。 歌詞にもラップランドやガムラスタンという現地の地名も出てきますが、そのことも最初から明確にあったんでしょうか? n-buna そうですね。 スウェーデンは幼少のある時期住んでいた国で、ガムラスタンはよく行っていた街です。 そういう子供のころ見た綺麗な景色とか、その頃に体験した思い出って、ずっと忘れられないですから。 そうして今も影響を受け続けている僕の原風景の一つを書いたのが「ノーチラス」という曲です。 最初は「言って」と「雲と幽霊」(『夏草が邪魔をする』収録)みたいに曲と曲単位でやっていたんですけれど、次は必然的にアルバム単位でそれをやろうということを考えていました。 n-buna そうですね。 エルマという人間は音楽を辞めた「エイミー」という青年が残した作品に影響を受けて、それを真似るように生きてしまう。 まさに芸術への模倣ですよ。 オスカーの言葉を現代の解釈で、音楽で描こうとしたのがコンセプトの始まりです。 最初は、感情のある声、感情的に聴こえる歌を歌おうって思っていたんです。 『夏草が邪魔をする』と『負け犬にアンコールはいらない』でやってたことはそれに近くて。 ただ、実際、感情のある声って結局テクニックでもあるんです。 感情がこもってなくても出せるというか。 で、今回の『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』では、歌い方も変わりました。 『だから僕は音楽を辞めた』では「青年」に感情移入をするというか、その役に入って、「青年」の気持ちを感じながら歌うという形でやったんです。 で、『エルマ』では、エルマが音楽を始めて、自分の歌、自分の人生を歌った曲なので、感情移入というよりも、suisではなくエルマとしてレコーディングするという風に考えていました。 没入感というよりも、エルマ本人が歌っているという表現にしようと思いました。 元々器用に表現する人だから、ヨルシカというものに適応したと言ってもいいかもしれないんですけれど。 僕が書いた曲に対して、ちゃんと考えてその時々の役に入り込ん で歌ってくれる。 映画における役作りみたいな感覚で歌ってくれているというのは、ありがたいと思っています。 どんなイメージから曲調を組み立てていったんでしょうか? n-buna 『だから僕は音楽を辞めた』の方はそもそもピアニストに憧れた青年の物語なので、ピアノというものが一本の軸になって通っているんです。 『エルマ』も青年に憧れてピアノを始めているので、それは共通していますね。 その上で『だから僕は音楽を辞めた』の方は、言ってみれば全体的に荒々しいロックバンドのスタイルで作っている。 一方で『エルマ』は、「憂一乗」でアコースティック・ギターだけ始まるようなアレンジがあったり、全体的に柔らかいイメージで作っています。 あとは、エルマはエイミーに影響を受けてはいるんですけど、エイミーにはない癖があるんです。 たとえばメロディやリズムで言うと、三連符やシャッフル・ビートを多用している。 歌詞もそうですね。 「声」や「神様のダンス」には、エイミーが使わないような言葉遣いが出てくる。 歌詞を書くときにも「これはエルマという女性が書いた歌詞だ」と思いながら書いているので、ちょっと表現が柔らかくなったりしてると思います。 音楽的なところで言えば、僕はブルースとか、ギターヒーローのようなギタリストが好きなんです。 ジョニー・ウィンター、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、ラリー・カールトンのような人達が好きだし、影響を受けていると思います。 映画だったら、クリストファー・ノーランやデビット・フィンチャー、あとはヒッチコックが好きで影響を受けています。 あと、僕は近代歌人が好きなんです。 名前を挙げるならば、正岡子規、与謝蕪村、種田山頭火の俳句や短歌にはすごく影響を受けています。 作品の中でもいろんな箇所でオマージュしていますね。 あとは、物語の骨格にも井伏鱒二の「山椒魚」からの影響があります。 「山椒魚」は簡単に言えば、どんどん自分の体が肥大していってそれによって岩屋から出られなくなった山椒魚が、ある日迷い込んできた蛙を閉じ込めてしまう話です。 『エルマ』では、エルマ自身の 中で虚無感や焦燥感がどんどん肥大していく。 エイミーの書く詩や文章、曲調やメロディー から、一人称までも真似して、エイミーになろうとする。 ここでいう山椒魚はエルマです。 岩屋は音楽であり、エイミーの残した作品であり、エルマの生き方そのものです。 『山椒魚』を僕なりの解釈で噛み砕いて隠喩にしたものが、今作の骨組みであり土台です。 この作品には二人の関係もなぞらえられている印象もありますが。 n-buna そうですね。 僕は与謝蕪村と松尾芭蕉の関係というものが好きで。 与謝蕪村は、松尾芭蕉が残した作品に影響を受けて、芭蕉が辿った道をなぞるように日本中を旅している。 それは本当に美しい芸術の模倣の仕方だと思うんです。 それこそ、オスカー・ワイルドの言葉が、そのままこの頃の日本でも行われているんですよ。 ヨルシカでエイミーとエルマの物語を作るにあたっても、そういう構造を描きたかったというのがあります。 『山椒魚』も与謝蕪村の話もそうですけど、結局、僕はそのオスカー・ワイルドの「人生は芸術を模倣する」という言葉をヨルシカで表現したかった、そこに尽きるんですよね。 いろいろ話を聞いて、すごくわかりました。 ポップ・ミュージックの歌詞を形容するにあたって「文学的な〜」という言い方をすることはよくあるんですが、ヨルシカの場合は、ちょっと違うなと思いました。 むしろ「音楽的な文学」というほうが近いかもしれない。 n-buna いい表現ですね。 ありがとうございます。 ただ、リスナーには、何も考えずに頭を空っぽにして聴いてもらえたらいいなとも思うんです。 そういうアルバムとしても作っているので。 この曲がいい、この歌詞がいいって、ただ音楽として楽しんでほしい。 で、それもありつつ、その音楽が何故できたのかという背景も日記帳では説明しているので、興味がある人はその根底を知ってもらったらいい。 そういう思いで作っています。 close 閉じる the 2nd volume: 『エルマ』の全14曲からは、主人公「エルマ」が辿った旅の足跡が浮かび上がる。 一つ一つの楽曲は、1stアルバム『だから僕は音楽を辞めた』に収録されている楽曲と対になる構造を持っている。 そして、エルマの旅は、最後に胸に迫るクライマックスに辿り着く。 インタビュー後編では、ヨルシカのコンポーザー・n-bunaにその情景を一曲一曲解説してもらった。 車掌にパスポートの提示を求められて、電車がいつの間にか国境を超えている。 そこで「あ、もう国境を渡ったんだ」と気付く。 そういう旅の始まりを書いた曲です。 n-buna 前作の「藍二乗」は虚数単位のiのことなんです。 虚数単位iの2乗でマイナス1になる。 エイミーが1人になってエルマがいない状態を「藍二乗」と言ったわけなんですけれど、そこから影響を受けたエルマは「i」から連想して「You」という言葉を使ったわけですね。 「憂一乗」は、日記帳の最後の方にある「湖の底に飛び込んだ そこから見る月明かりが綺麗だった」という情景から出来た曲です。 水の中の底から見る景色を曲にした。 僕自身が昔、綺麗だなと思った景色でもあります。 そういうものが書きたかった。 n-buna これは「八月、某、月灯り」と対になっている曲です。 エイミーがロックンロールを書いたように、それにならってエルマはロックンロールを書くわけですね。 「この歌の歌詞は380字」という歌詞も「藍二乗」のオマージュです。 このタイトルのもとになった着想は、東京で見た花火なんです。 東京ってビルが沢山あって、花火が建物の影に隠れて半円のように途切れて見えるんですよね。 風の止んだ夏場にそういう花火が上がっている風景がタイトルの原型になっています。 この曲はエイミーとの思い出を語っている曲です。 日記の終わりの方にもエルマとエイミーが見た花火の話が書いてあるんですけど、それを思い出してエルマが書いている。 過去にエルマとエイミーが出会った時のことを書いている。 雨のカフェテラスで、カプチーノを飲んでいるエイミーをエルマが見ている。 その情景をもとにした曲です。 これは「詩書きとコーヒー」と対になっていて、「詩書きとコーヒー」は詩を書くエイミーの話で、「雨とカプチーノ」はそれを見ているエルマの話ですね。 日記帳の日付では「雨とカプチーノ」を書いているのは9月の初めになっています。 歌詞にある「八月のヴィスビー」というのは、その前にエルマが居たヴィスビーのことを思い出している。 夏が終わる情景を書いています。 日記帳では4月5日にエルマがヨンショーピンに泊まって「白夜から中々沈まない夕陽を眺める」と書いている。 僕自身もそこで泊まったんですけど、本当に綺麗で良い街でした。 砂浜が綺麗だったし、湖も涼しかった。 そこで録った環境音も使っていますね。 ビートに関しては、欧米で数年前から流行り始めていたローファイヒップホップというジャンルから取り入れたりもしてます。 他のインストでもそうなんですが、サブベースという下の帯域のシンセを足したり、僕の好きなタイプの現代的なサウンドを取り入れています。 あともうひとつ、今回のアルバムではインスト曲に共通する一つの楽器を使って、それで流れを作りたかったんです。 けれど、なかなかそれが見つからなくてめちゃくちゃ苦しんだんですよね。 で、楽器屋に行って、マンドリンとウクレレが合体した謎の楽器を見つけたんです。 表がマンドリンで、裏がウクレレみたいになっている。 僕は「マンドレレ」と呼んでいるんですけど(笑)。 使ってみたら気持ちいい音になったんで、最初のピアノソロ以外のインスト3曲では全てその楽器を使っています。 n-buna そうですね。 「踊ろうぜ」という曲は、エイミーが芸術という神様に踊らされる自分のことを書いている曲です。 エイミーにとって神様とは作品の中にいるものなので。 対して、エルマにとっての神様はエイミーのことなので、エイミーが作った音楽を「神様のダンス」と表現したわけですね。 そういう対比があります。 だからこそ、これもシャッフルビートではあるんですけど、ジャジーながらも楽しげなピアノ主役の曲になっています。 「六月は雨上がりの街を描く」は雨上がりの曲じゃなくて、雨上がりの街を描きたいということをエイミーが書いている曲。 そして、実際に、雨が上がって晴れた六月の街の曲をエルマが書いた曲が「雨晴るる」です。 これは山頭火の句から題を取っています。 山頭火は「山は街は梅雨 晴るる海のささ濁り」という歌を旅の途中で詠んでいるんですが、そこからとって「雨晴るる」というタイトルにしました。 そのことによって山頭火へのリスペクトを示しています。 君が旅した街を歩くという、そこに尽きる曲ですね。 これは「五月は花緑青の窓辺から」という曲と対になっていて、だから歌詞の中に「頬を伝え花緑青」と書いている。 「五月は花緑青の窓辺から」で「例う涙は花緑青だ」と、毒性を持った染料に涙を喩えて歌っていているので、それを「歩く」の中でも引用しています。 n-buna これは「夜紛い」と対になっている曲ですね。 「夜紛い」では「人生とはマシンガン」と自分の人生をマシンガンに喩えている。 「ただ一つでいい 君に一つでいい 風穴を開けたい」と、音楽で君に穴を開けたいんだと言っている。 そしてエルマは「だから心に穴が空いた」と返している。 そういう構造ですね。 n-buna 環境音はゴットランド島のヴィスビューからフォーレスンドに向かう途中にある森の教会で録音しました。 すごく静かで、綺麗な教会なんです。 『だから僕は音楽を辞めた』の木箱の中にも教会を撮った写真があります。 それを見てエルマは「写真の場所だ」と思ってその教会に足を運ぶ。 日記の中でも7月4日にそこでお婆さんと再会するという話が書かれています。 「パレード」のリフをそのまま使っているんです。 あとは『だから僕は音楽を辞めた』の手紙の中で「パレード」について「声のことだよ」と書いているんです。 「誰も見たことが無いのに、話をすると顔を見せる」とか「気分によって暖かくもなり、冷たくも成る」と、謎かけっぽくエイミーが書いた詩が「パレード」。 それに応じてエルマが「声」という詩を書いたという形です。 n-buna そうですね。 エルマはエイミーのことを模倣して、エイミーの気持ちになろうと曲を書いているわけですね。 そのうちに、エイミーと同じ行動原理を持つようになって、同じところにまで行き着いてしまう。 その結果、エイミーと同じことを考えて、エイミーの辿り着いた桟橋に向かうという。 エルマという人間がそのまま出ている作品です。 日記帳の文字の筆跡もここだけ字体が違うのは、エルマがもうエイミーの模倣を辞めているからです。 「このまま、何処か遠くの国で」と「エルマ」の詩をそのまま引用しているところもあるんですけれど、エルマ自身が初めて自分の音楽を作りたいと思って書いたという立ち位置の曲です。 これは僕自身の原風景でもあります。 岐阜の山の上にあるプールによく行ったんですけど、底が深いプールで、身体から完全に息を吐き切って沈んで上の方を見ると、日光が綺麗に差している。 口から吹いた泡も綺麗に写って、その景色を今でも鮮明に覚えている。 その原風景が投影されています。 『エルマ』の物語の中では、エルマが湖に飛び込んだ後、月明かりのような日の光が見える。 それを心底綺麗だと思う。 そういう瞬間を切り取ったインストです。 これはとても重要な曲ですね。 n-buna そうですね。 「ノーチラス」という言葉は、ジュール・ヴェルヌの『海底二万マイル』に出てくる「ノーチラス号」からとっています。 潜水艦で世界を旅する話なんですけれど、すごく好きな小説なんです。 あの艦長もエゴの塊みたいな人間ですけど、主人公よりそっちの方に感情移入をしていて。 n-buna アルバムにおいては、海の底に沈んで、そこから潜水艦のように浮上するという曲です。 これは夢の中から目を覚ますということでもあるんです。 深い夢の中、海の底みたいな眠りの中から目を覚ます。 それを潜水艦に喩えたのが「ノーチラス」という曲です。 歌詞でも「眼を覚ます」と書いている。 そして、眠りは死や別れの隠喩でもある。 そういうところから書いています。 物語の中では「ノーチラス」はエイミーが最後に残した曲ということになっています。 エイミーが最後に自分の原風景を書いた。 その曲をエルマが最後に歌って終わるというアルバムです。 きっとMVを見たら、いろいろとわかると思います。 であると同時に、物語がたどり着く場所でもある。 n-buna この曲はヨルシカの到達点だと思います。 僕の個人的な思いもいろいろ詰まっていて。 たとえば、僕は昔から同じ夢を何度も見るんですけれど。 その中の一つで、向こう側が見えない丘の前に誰か人が立っていて、そこに向かって歩いていく夢です。 僕の中では、その丘の向こう側にスウェーデンの景色があったんですよね。 ラップランドの納屋や、ガムラスタンの古通りがあった。 そういう情景も元になった曲です。 こうして聞くと、『エルマ』の14曲と『だから僕は音楽を辞めた』の14曲、それぞれ一つ一つにディテールと奥行きがあることが伝わってきます。 n-buna 無駄な曲は一つもないですね。 構想自体はずっと前からあったんですけれど、それをもとに曲を完成させて、詩を書いて、レコーディングに臨んでいった。 楽しくやれました。 これはどんなイメージで作っていったんですか? n-buna 監督の方と「このMVではこういう場面を描きたい」という話をして作っていきました。 初回盤を手にとった方が「あ、これはこの場面を描いたものだったんだな」と納得してもらえればいい。 ストレートにその場面や心情を描いたMVを作っています。 n-buna そうですね。 映画とか小説と同じように、エルマとエイミーの物語を楽しんでもらえればと思います。 10月に東名阪でツアーが予定されていますが、これはどんな感じになりそうでしょうか? Suis ライブという舞台装置のある場所で、生の音楽でこの2枚のアルバムの世界観を届けられたらなって思います。 n-buna コンセプトを大事にした、コンセプトありきのライブにしたいなと思います。 エイミーとエルマの物語の中に入り込んでもらうような感覚で、一つのライブ作品として徹底してやれたらなと思っています。

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ヨルシカ 2ndフルアルバム 『エルマ』 特設サイト

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