『福翁自伝』を読んでいると、とくにその前半生は、人の運命、巡り合わせの不思議というものを考えさせられる記述が多くある。 中津で漢学を学んでいた福澤先生は、ある日、兄の三之助(さんのすけ)から、長崎でオランダ語の原書を読んでみる気はないかと訊(たず)ねられる。 窮屈な中津を出たいと願っていた先生はそれで長崎へ赴き、そこから蘭学修業の道が開けていった。 また次に長崎を出て江戸を目指した時には、立ち寄った大坂で、この兄から大坂で蘭学を学ぶべきだと論される。 緒方洪庵の適塾で学ぶことになったのはそのためだ。 適塾での猛勉強で頭角を現し、西洋の自然科学にも目を開かれた先生は、安政5(1858)年、中津藩の命により、藩邸で蘭学を教えるべく江戸へ出た。 英学に転じ、3度の西洋体験を積み、著述と教育で知られる人となったのは、江戸に出てからのことである。 もちろん面白いばかりではない。 もし兄が長崎遊学を勧めなければ、大坂で適塾に入らなければ、またこの時期に江戸へ呼ばれなければ、恐らく我々の知る福澤諭吉は存在しなかった。 先生自身の決断とともに、偶然とも必然とも見える無数の縁の積み重なりが、その生涯をつくったのは確かである。 先生は「自伝」の中で既往を振り返ってこう言っている。 …旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰め込まれて、藩政の楊枝(ようじ)をもって重箱(じゅうばこ)のすみをほじくるその楊枝の先に掛かった少年が、ヒョイト外に飛び出して故郷を見捨てるのみか、生来(せいらい)教育された漢学流の教えをも打遣(うちや)って西洋学の門に入り、以前に変った書を読み、以前に変った人に交わり、自由自在に運動して、2度も3度も外国に往来すれば考えはだんだん広くなって、旧藩はさておき日本が狭く見えるようになってきたのは、なんとにぎやかなことで大きな変化ではあるまいか。 (富田正文校注、慶應義塾大学出版会版、317頁) この一節は、そのにぎやかな変化には多くの不思議な巡り合わせが与ったことも、併せて語るかに見える。 ところで、人が巡り会う縁の中には、時に激しい心の動きを引き起こし、自らの使命を悟らせる類のものもある。 …実(じつ)に此(この)書は多年(たねん)人を悩殺するものにして、今日も之(これ)を認(したた)めながら、独(ひと)り自から感に堪(かん)へず。 涙を揮(ふる )ひ執筆致し候(そうろう)。 何卒(なにとぞ)再版は沢山にして、国中に頒(わか) ち度存候(たくぞんじそうろう)。 (『福澤諭吉書簡集』第6巻、番号1466) これは明治23(1890)年4月1日、先生が適塾以来の親しい友人、長与専斎(ながよせんさい)に宛てた手紙の一節である。 先生の心を長年強く揺り動かしてきたとある「此書」とは、杉田玄白(鷧斎(いさい))が遺した回顧録、『蘭学事始』(以下「事始」とも略記)のことだ。 この年設立された日本医学会は、第1回総会を開くに際して、先人の業績を記念して「事始」を再版し、これを会員に頒布することにした。 その序文を先生が認めて長与へ送ったのである。 この時一緒に添えたのが右の手紙で、文中にある「之」は先生の序文「蘭学事始再版の序」を指している。 それにしても先生はこの手紙で、「事始」への強い思いを記すばかりか、その序文を書いているうち感極まり、涙を揮って執筆したとまで言っている。 なぜ「事始」がそこまで先生の心を揺り動かしたのか、実はおおよその理由はこの序文を読むと理解できる。 まずはそれを眺めてみよう。 序文の前段には、先生がこの本と出会った経緯が述べられている。 これによれば、杉田家秘蔵の『蘭学事始』は安政の江戸大地震で焼失し、写本もないと思われていた。 ところが「旧幕府の末年」、先生の友人神田孝平(かんだたかひら)が湯島聖堂裏の露店で偶然1冊の「事始」を発見した。 しかもそれが門人大槻磐水(おおつきばんすい)(玄沢)に贈った玄白の親筆だったので、神田は仲間にそのことを話した。 その結果「孰(いず)れも皆(みな)先を争ふて写取り、俄(にわか)に数本の蘭学事始を得たる其趣(そのおもむき)は、既に世に亡き人と思ひし朋友の再生に遭ふたるが如(ごと)し」、皆亡くなった筈の人と再会したような気持ちで次々に筆写して、忽ち何冊も写本が出来たという。 実際には「事始」の写本は他にも存在していたのだが、先生たちの仲間内では、幻の書として理解されていたようだ。 だから突然実物を手にした驚きや喜びは甚だ大きかったものと見える。 それにもまして先生たちを感激させたのは、そこに書かれた内容であった。 序文はこう記している。 …書中の紀事は字々皆(じじみな)辛苦、就中(なかんづく)明和8年3月5日蘭化(らんか)先生の宅にて始めてターフルアナトミアの書に打向(うちむか)ひ、艪舵(ろかじ)なき船の大海(たいかい)に乗出(のりいだ)せしが如く茫洋(ぼうよう)として寄る可(べ)きなく唯(ただ)あきれにあきれて居たる迄なり云々(うんぬん)以下の一段に至りては、我々は之(これ)を読む毎(ごと)に、先人の苦心を察し、其(その)剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極りて泣かざるはなし。。 迂老(うろう)は故箕作秋坪(みつくりしゅうへい)氏と交際最も深かりしが、当時彼(か)の写本を得て両人対坐(たいざ)、毎度繰返しては之を読み、右の一段に至れば共に感涙に嚘(むせ)びて無言に終るの常(つね)なりき。 (『福澤諭吉全集』第19巻769頁) 『蘭学事始』は、玄白が自身の体験を中心に蘭学の歴史を記したものだが、中でも先生たちが感激した箇所、すなわち明和8(1771)年、千住小塚原の刑場で人体解剖を見た玄白や前野良沢(蘭化)らが、これを契機に「ターヘル・アナトミア」の翻訳に着手し、その難業を進めてゆくあたりの記述は、今読んでも大きな感銘を受ける。 ましてや当時の洋学者は自らも苦労して蘭学を学び、またこの学問の大切さを知っていた。 先人の辛苦に我が身を重ね、またその学恩を深く感じて感激したのは当然であろう。 『蘭学事始』の出版 それから間もなく、日本は歴史の大きな節目を迎えることになった。 慶應3(1867)年10月14日の大政奉還から江戸無血開城までわずか半年、同4年9月には、年の初めに溯って元号を明治と改めることが発表された。 箱館五稜郭の戦いが終わるのは、明治2年5月である。 序文によるとこの変乱の最中、明治元年のある日、先生は杉田の曾孫成卿(せいけい)の娘婿として家を継いだ廉卿(れんけい)の許を訪れると、次のように『蘭学事始』の出版を提案したという。 …天下騒然復(ま)た文を語る者なし、然(しか)るに君が家の蘭学事始は我輩学者社会の宝書(ほうしょ)なり、今是(これ)を失ふては後世子孫我(わが)洋学の歴史を知るに由(よし)なく、且(かつ)は先人の千辛万苦(せんしんばんく)して我々後進の為(た)めにせられたる其偉業鴻恩(こうおん)を空(むなし)ふするものなり、就(つい)ては方今の騒乱中に此書を出版したりとて見る者もなかる可(べ)しと雖(いえど)も、一度(ひとた)び木に上するときは保存の道これより安全なるなし、実に心細き時勢なれば売弘(うりひろめ)などは出来ざるものと覚悟して出版然(しか)る可(べ)し、其費用の如きは迂老(うろう)が斯道(しどう)の為め又先人へ報恩の為めに資(たす)く可し…(同前、770頁) 廉卿はこの申し出を喜んで受けた。 先生の盡力もあり、明治2年正月、杉田家を蔵版者として『蘭学事始』が初めて公刊された。 明治23年に日本医学会が再版したというのはこの版本なのであり、それへ先生が「蘭学事始再版の序」を記すことになったのも、先生自身がその出版に深く関わったからだ。 同年4月16日の『読売新聞』には、この事情を簡潔に紹介した記事が載っている。 (読みやすいよう、表記を若干改めた) なお、この『蘭学事始』という題名について1つ補足しておきたいことがある。 下の写真は版本の元となったと思われる「事始」で、先生が元の『和蘭事始』という書名に筆を入れて、自ら『蘭学事始』と改めたことが分かる。 改題の理由は分からない。 ただ、従来『蘭学事始』『蘭東事始』『和蘭事始』と3通りに呼ばれていたこの著作が、明治以後、先生が直した通りに、専ら『蘭学事始』の名で世に知られるようになっていったことは確かである。
次の『福翁自伝』を読んでいると、とくにその前半生は、人の運命、巡り合わせの不思議というものを考えさせられる記述が多くある。 中津で漢学を学んでいた福澤先生は、ある日、兄の三之助(さんのすけ)から、長崎でオランダ語の原書を読んでみる気はないかと訊(たず)ねられる。 窮屈な中津を出たいと願っていた先生はそれで長崎へ赴き、そこから蘭学修業の道が開けていった。 また次に長崎を出て江戸を目指した時には、立ち寄った大坂で、この兄から大坂で蘭学を学ぶべきだと論される。 緒方洪庵の適塾で学ぶことになったのはそのためだ。 適塾での猛勉強で頭角を現し、西洋の自然科学にも目を開かれた先生は、安政5(1858)年、中津藩の命により、藩邸で蘭学を教えるべく江戸へ出た。 英学に転じ、3度の西洋体験を積み、著述と教育で知られる人となったのは、江戸に出てからのことである。 もちろん面白いばかりではない。 もし兄が長崎遊学を勧めなければ、大坂で適塾に入らなければ、またこの時期に江戸へ呼ばれなければ、恐らく我々の知る福澤諭吉は存在しなかった。 先生自身の決断とともに、偶然とも必然とも見える無数の縁の積み重なりが、その生涯をつくったのは確かである。 先生は「自伝」の中で既往を振り返ってこう言っている。 …旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰め込まれて、藩政の楊枝(ようじ)をもって重箱(じゅうばこ)のすみをほじくるその楊枝の先に掛かった少年が、ヒョイト外に飛び出して故郷を見捨てるのみか、生来(せいらい)教育された漢学流の教えをも打遣(うちや)って西洋学の門に入り、以前に変った書を読み、以前に変った人に交わり、自由自在に運動して、2度も3度も外国に往来すれば考えはだんだん広くなって、旧藩はさておき日本が狭く見えるようになってきたのは、なんとにぎやかなことで大きな変化ではあるまいか。 (富田正文校注、慶應義塾大学出版会版、317頁) この一節は、そのにぎやかな変化には多くの不思議な巡り合わせが与ったことも、併せて語るかに見える。 ところで、人が巡り会う縁の中には、時に激しい心の動きを引き起こし、自らの使命を悟らせる類のものもある。 …実(じつ)に此(この)書は多年(たねん)人を悩殺するものにして、今日も之(これ)を認(したた)めながら、独(ひと)り自から感に堪(かん)へず。 涙を揮(ふる )ひ執筆致し候(そうろう)。 何卒(なにとぞ)再版は沢山にして、国中に頒(わか) ち度存候(たくぞんじそうろう)。 (『福澤諭吉書簡集』第6巻、番号1466) これは明治23(1890)年4月1日、先生が適塾以来の親しい友人、長与専斎(ながよせんさい)に宛てた手紙の一節である。 先生の心を長年強く揺り動かしてきたとある「此書」とは、杉田玄白(鷧斎(いさい))が遺した回顧録、『蘭学事始』(以下「事始」とも略記)のことだ。 この年設立された日本医学会は、第1回総会を開くに際して、先人の業績を記念して「事始」を再版し、これを会員に頒布することにした。 その序文を先生が認めて長与へ送ったのである。 この時一緒に添えたのが右の手紙で、文中にある「之」は先生の序文「蘭学事始再版の序」を指している。 それにしても先生はこの手紙で、「事始」への強い思いを記すばかりか、その序文を書いているうち感極まり、涙を揮って執筆したとまで言っている。 なぜ「事始」がそこまで先生の心を揺り動かしたのか、実はおおよその理由はこの序文を読むと理解できる。 まずはそれを眺めてみよう。 序文の前段には、先生がこの本と出会った経緯が述べられている。 これによれば、杉田家秘蔵の『蘭学事始』は安政の江戸大地震で焼失し、写本もないと思われていた。 ところが「旧幕府の末年」、先生の友人神田孝平(かんだたかひら)が湯島聖堂裏の露店で偶然1冊の「事始」を発見した。 しかもそれが門人大槻磐水(おおつきばんすい)(玄沢)に贈った玄白の親筆だったので、神田は仲間にそのことを話した。 その結果「孰(いず)れも皆(みな)先を争ふて写取り、俄(にわか)に数本の蘭学事始を得たる其趣(そのおもむき)は、既に世に亡き人と思ひし朋友の再生に遭ふたるが如(ごと)し」、皆亡くなった筈の人と再会したような気持ちで次々に筆写して、忽ち何冊も写本が出来たという。 実際には「事始」の写本は他にも存在していたのだが、先生たちの仲間内では、幻の書として理解されていたようだ。 だから突然実物を手にした驚きや喜びは甚だ大きかったものと見える。 それにもまして先生たちを感激させたのは、そこに書かれた内容であった。 序文はこう記している。 …書中の紀事は字々皆(じじみな)辛苦、就中(なかんづく)明和8年3月5日蘭化(らんか)先生の宅にて始めてターフルアナトミアの書に打向(うちむか)ひ、艪舵(ろかじ)なき船の大海(たいかい)に乗出(のりいだ)せしが如く茫洋(ぼうよう)として寄る可(べ)きなく唯(ただ)あきれにあきれて居たる迄なり云々(うんぬん)以下の一段に至りては、我々は之(これ)を読む毎(ごと)に、先人の苦心を察し、其(その)剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極りて泣かざるはなし。。 迂老(うろう)は故箕作秋坪(みつくりしゅうへい)氏と交際最も深かりしが、当時彼(か)の写本を得て両人対坐(たいざ)、毎度繰返しては之を読み、右の一段に至れば共に感涙に嚘(むせ)びて無言に終るの常(つね)なりき。 (『福澤諭吉全集』第19巻769頁) 『蘭学事始』は、玄白が自身の体験を中心に蘭学の歴史を記したものだが、中でも先生たちが感激した箇所、すなわち明和8(1771)年、千住小塚原の刑場で人体解剖を見た玄白や前野良沢(蘭化)らが、これを契機に「ターヘル・アナトミア」の翻訳に着手し、その難業を進めてゆくあたりの記述は、今読んでも大きな感銘を受ける。 ましてや当時の洋学者は自らも苦労して蘭学を学び、またこの学問の大切さを知っていた。 先人の辛苦に我が身を重ね、またその学恩を深く感じて感激したのは当然であろう。 『蘭学事始』の出版 それから間もなく、日本は歴史の大きな節目を迎えることになった。 慶應3(1867)年10月14日の大政奉還から江戸無血開城までわずか半年、同4年9月には、年の初めに溯って元号を明治と改めることが発表された。 箱館五稜郭の戦いが終わるのは、明治2年5月である。 序文によるとこの変乱の最中、明治元年のある日、先生は杉田の曾孫成卿(せいけい)の娘婿として家を継いだ廉卿(れんけい)の許を訪れると、次のように『蘭学事始』の出版を提案したという。 …天下騒然復(ま)た文を語る者なし、然(しか)るに君が家の蘭学事始は我輩学者社会の宝書(ほうしょ)なり、今是(これ)を失ふては後世子孫我(わが)洋学の歴史を知るに由(よし)なく、且(かつ)は先人の千辛万苦(せんしんばんく)して我々後進の為(た)めにせられたる其偉業鴻恩(こうおん)を空(むなし)ふするものなり、就(つい)ては方今の騒乱中に此書を出版したりとて見る者もなかる可(べ)しと雖(いえど)も、一度(ひとた)び木に上するときは保存の道これより安全なるなし、実に心細き時勢なれば売弘(うりひろめ)などは出来ざるものと覚悟して出版然(しか)る可(べ)し、其費用の如きは迂老(うろう)が斯道(しどう)の為め又先人へ報恩の為めに資(たす)く可し…(同前、770頁) 廉卿はこの申し出を喜んで受けた。 先生の盡力もあり、明治2年正月、杉田家を蔵版者として『蘭学事始』が初めて公刊された。 明治23年に日本医学会が再版したというのはこの版本なのであり、それへ先生が「蘭学事始再版の序」を記すことになったのも、先生自身がその出版に深く関わったからだ。 同年4月16日の『読売新聞』には、この事情を簡潔に紹介した記事が載っている。 (読みやすいよう、表記を若干改めた) なお、この『蘭学事始』という題名について1つ補足しておきたいことがある。 下の写真は版本の元となったと思われる「事始」で、先生が元の『和蘭事始』という書名に筆を入れて、自ら『蘭学事始』と改めたことが分かる。 改題の理由は分からない。 ただ、従来『蘭学事始』『蘭東事始』『和蘭事始』と3通りに呼ばれていたこの著作が、明治以後、先生が直した通りに、専ら『蘭学事始』の名で世に知られるようになっていったことは確かである。
次の柳田芽衣(鴎座顧問同人)さんから、 三枝桂子の個人誌「SASKIA」の切抜きが送られてきた。 久しぶりに太穂先生の新しい話題が懐かしい。 ミニエッセイ俳縁(「SASKIA」十号) ロシヤ向日葵の種です古沢太穗居ない 清水径子 この句は、清水径子の句集には収録されていない。 句会に出句されてそのままになった。 句会記録ノー卜には二〇〇一年七月二十日の日付がある。 径子の自宅で開かれていた句会には毎月七句を出句した。 そのうちのごく一部を、径子は誌上に発表していたようだ。 句集に収録される句はさらに厳選される" この句は最初の段階で自選を通過しなかったのだから活字にもなっていない。 口語を重ねた直裁的な句だが、この句は心に残った。 太穗からロシヤ向日葵の種を賞ったことがあるというエヒソードを句会の席で聞いたためかもしれない。 当時、私は古沢太穗についてよく知らなかった。 この句が「ロシア映画みてきて冬のにんじん太し」 という太穗の句を踏まえていること、この句会の前年三月に太穗が世を去っていたことを、後日知った。 太穗への追悼句を作った径子も今はもういない。 師系も句柄も異なる二人はどのような交流があったのだろうか。 九五六年、太穗は径子の義兄秋元 不死男らと共に「横浜俳話会」を発足させている。 三人とも横浜住いだった。 この句を思い出すとき俳縁の不思議を思う。 太穂先生と秋元不死男は飲み友達でもあり親友でもあった。 秋元不死男が生活に困窮していることを慮って太穂先生が「神奈川新聞」の俳句欄の選者を秋元不死男に譲ったこともあったと先生から聞いている。 この三枝桂子さんのミニエッセイは、もHPで書かれている。 なおSASKIAとは小惑星のことらしい。 蟷螂の杖堕ちている古奈落 三枝桂子 三枝桂子については、何も知らないが大井恒行の引用されて句を紹介する。 新作のテレビ朝日「二十四の瞳」は良かった。 大石先生は松下奈緒。 泣けた。 今日の1句 アイスクリーム匙にねばりぬ葬のあと 上野さち子 『水の上』 田上菊舎の研究家でもあった上野さち子(1925-2001)。 「匙にねばりぬ」は屈折した心境。 俳句では「アイスクリーム」よりも「氷菓」の作例が多い。 普通にアイスクリームで作る努力が欲しい。 松田ひろむ千日千句 3776 善人がアイスクリーム舐めている 季語 アイスクリーム アイスクリームを舐めている「善人」。 それがなんだといわれそうだが、この深ーい諧謔が分る人にはわかるはずである。 もちろん「善人」とはなにかとか、親鸞の「悪人正機」まで考えていただければありがたい。 そういえばサーティワンアイスクリーム(バスキン・ロビンズ)が出来たときはびっくりした。 いまでもたまには食べたいが、女子中学生や高校生に混じって食べるのはさすがに違和感がある。 というより針のような視線を感じていたたまれなくなってしまう。 純情だなあ。 今日の1句 福藁や塵さへ今朝のうつくしき 千代女 『千代尼句集』 千代女の俳句は分りやすい。 人口に膾炙する由縁であろう。 松田ひろむ 1日10句 2861 榧飾る大志だんだん薄らいで ------------------ 季語( 榧飾る ) 2862 苗字帯刀搗栗飾る由縁にて -------------------- 季語( 搗栗飾る ) 2863 南高の梅干飾る軽い気持ち -------------------- 季語( 梅干飾る ) 2864 飾昆布祈願のとどくところまで ---------------- 季語( 昆布飾る ) 2865 バツイチでこんどは野老(ところ)飾ります ---- 季語( 野老飾る ) 2866 定めにて穂俵飾る馬籠宿 ---------------------- 季語( 穂俵飾る ) 2867 土佐の高知で梛の葉飾るひとくさり ------------ 季語( 梛葉飾る ) 2868 睨み鯛どこに出掛けるわけでなく -------------- 季語( 掛鯛 ) 2869 倭の国はどこからきたる福筵 ------------------ 季語( 掛筵 ) 2870 福藁を踏んで出てゆく日本海 ------------------ 季語( 福藁 ) 今日は松村酒恵さんの告別式であったが失礼した。 養子の鈴木恒平さんの「母を想う」から、遺影を掲載させていただく。 酒恵さんは本名、鈴木喜恵子、静岡市生まれ。 父、松村三平はフランス料理のコックだった。 その縁で1937年に父のいた満州にわたり、関東軍の和文タイピストとなった。 直属の上司が東条英機(関東軍参謀長)だったという。 戦後は日本鋼管で和文タイピスト、そのころ職場の俳句会の講師が「水明」の長谷川かな女だった。 そこから俳句との付き合いが始まった。 18時から松村酒恵さんのお通夜に参列。 わが家から近い戸田斎場。 石川貞夫、田中千恵子、吉平たもつさんなどの旧友と再会。 息子さんの子供さんもいて、にぎやかなことがなにより。 仏教形式だが、無宗派で読経なしというのも始めて。 酒恵さんの安らかなお顔を拝見。 酒恵さんが旧満州で東条英機とかかわりがあったことも披露された。 一転、戦後は日本共産党員としての人生をまっとうされた。 つくづく人間の一生を考えさせられた。 今日の1句 橙を達磨落しのごと飾る 齋藤朗笛 『ザ俳句10万人歳時記・新年』 正月の飾り物もいまはほとんどみないものになってしまった。 ともあれ季語としてのそれは大切にしたい。 松田ひろむ 1日10句 2851 駿河路の橘飾るいい男 ------------------------ 季語( 橘飾る ) 2852 鵲始めて巣くう日韓それぞれに ---------------- 季語( 鵲始めて巣くう ) 2853 新年の十一日を通夜の席 ---------------------- 季語( 新年 ) 2854 歯朶飾るおちゃめな子供いないから ------------ 季語( 歯朶飾る ) 2855 ぐらぐらと橙飾るその気持ち ------------------ 季語( 橙飾る ) 2856 北限の柑子飾るを鰺ヶ沢 ---------------------- 季語( 柑子飾る ) 2857 柚柑飾る香り千両万両と ---------------------- 季語( 柚柑飾る ) 2858 藪柑子飾るあいまい宿として ------------------ 季語( 藪柑子飾る ) 2859 バー渚蜜柑を飾る元洲崎 ---------------------- 季語( 蜜柑飾る ) 2860 あらたまの串柿飾るニッカバー ---------------- 季語( 串柿飾る ) 拙句の「元洲崎」は、洲崎パラダイス(元赤線)のつもり。 画像は映画の「洲崎パラダイス赤信号」(新珠三千代と三橋達也主演)のポスター。 数年前の「洲崎パラダイス」(現東陽町)の吟行も良かった。 なんといっても旧赤線の大賀楼が建物がそのままに、共産党の区議会議員の事務所になっているのには驚いた。 文化の日。 姉崎蕗子さんの忌日は9月20日だが、マフラーを見てまた思いを新たにした。 今日の1句 金柑は母の木海は雨もよひ 野木桃花 「あすか」 金柑は風邪に効果があるとされていた。 ビタミンCがあるからというが、それも母に繋がる。 掲句の「母の木」はそのこと。 今日の1句 菊人形の心臓に水差しにけり 鈴木節子 『秋の卓』 あちこちで菊人形展の開催が始まっている。 菊人形は擬人法としていろいろな表現が出来る。 なお鈴木節子さんは同姓同名が多い。 今日の鈴木節子さんは「門」の副主宰の方。 拙句の「炭櫃寝て」は曙覧の歌 「たのしみは炭櫃(すびつ)のもとにうち倒れゆすり起すも知らで寝し時」をいただいたもの。 「炭櫃」は辞書によると「角火鉢」となっているが、この歌の場合は炬燵寝と考えていいだろう。 松田ひろむ 1日10句 1811 機織りの女房がいて暁覧の忌 ---------------- 季語( 曙覧忌 ) 1812 炭櫃(すびつ)寝てそのまま覚めず暁覧の忌 -- 季語( 曙覧忌 ) 1813 虫売が鈴虫の真似「上州屋」 ---------------- 季語( 虫売 ) 1814 天才は世に容れられず竹田(ちくでん)忌 ---- 季語( 竹田忌 ) 1815 美しきものに棘なく菊花展 ------------------ 季語( 菊花展 ) 1816 菊人形濡れ場に水を掛けられて -------------- 季語( 菊人形 ) 1817 まだ初心な菊人形を孕ませる ---------------- 季語( 菊人形 ) 1818 御家人の妻女虫籠(むしご)を作るだけ ------ 季語( 虫籠 ) 1819 鴎座の御一行様秋遊 ------------------------ 季語( 秋の野遊び ) 1820 秋遊びもしか水子のはずがいて -------------- 季語( 秋の野遊び ) 2005年で幕を下ろした「ひらかた菊人形」。 静御前の菊を差替える菊師。 今日の1句 泣き顔は似合わないけどサングラス 姉崎蕗子 「鴎座」 鴎座編集長の姉崎蕗子さんが亡くなってもう1年になった。 元気いっぱいだったが、闘病わずか1年半だった。 拙句は大阪で活躍した後藤夜半の忌日に寄せての思い。 「ハシズム」について考えている。 大阪人の東京(中央)への対抗心をくすぐるのは上手いが、中身は弱いもの苛め。 仮想敵国をつくって攻撃するのは、まさに劇場型。 小泉劇場のように郵政を民営化さえすれば世の中が良くなるという、とんでもない錯覚はまだ記憶に新しい。 しかし大阪人は賢明だ。 もうすぐ橋本の化けの皮を見事に暴いてくれるだろう。 「秋晴れやむらさきしたる唐辛子」(後藤夜半)。 ニホンブログ村ランキングで過去最高にならぶ3位となった。 これも相対的なもので、一喜一憂することもなくなった。 今日の1句 秋灯下こまかくつづるわが履歴 鈴木しづ子 『指環』改作 拙句は鈴木しづ子の句を踏まえたものだが、別趣ありとしていただければ幸い。 鈴木しづ子については、川村蘭太『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』(新潮社2011年1月刊)が詳しい。 今日も「鴎座」9月号の編集。 今日の1句 紫陽花に秋冷いたる信濃かな 杉田久女 『杉田久女句集』 久女の父は松本出身だが、久女にとっては異郷だった。 しかしいま久女の墓は松本市の城山公園にある。 「秋冷」は「しゅうれい」か「あきびえ」か。 私は「あきびえ」とした自筆があったように記憶している。 拙句は「秋冷」。 石川桂郎の言葉を借りる。 松田ひろむ 1日10句 1441 みなとみらいは尻落着かず夾竹桃 ------------ 季語( 夾竹桃 ) 1442 向うから九月近づく目高の子 ---------------- 季語( 九月 ) 1443 荒川に近く住む幸秋の暁 -------------------- 季語( 秋暁 ) 1444 竜淵に潜むは力ためること ------------------ 季語( 竜淵に潜む ) 1445 玄鳥帰る帰る帰ると言葉待つ ---------------- 季語( 玄鳥かえる ) 1446 佐久平稲刈時のむらむらと ------------------ 季語( 稲刈時 ) 1447 新宮は極楽の傍露時雨 ---------------------- 季語( 露時雨 ) 1448 秋冷や地獄で待つと言われても -------------- 季語( 秋冷 ) 1449 新北風(みーにし)や島を出て行く神ばかり -- 季語( 新北風 ) 1450 先ず耳が気つく青北風(あおぎた)港町 ------ 季語( 青北風 ) 南風泊漁港(裸の子に注目).
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