言うほど一般的なやり方ではなかったでしょうね。 戦国時代だからと言って、何をやっても許されていた訳ではありません。 家臣団に支持されない時点で暗殺などしたら、逆に自分の身の破滅になってしまいます。 ですから暗殺が成功するための第一条件は、暗殺が実行される以前に殺される側の人間の人望が失われていることでしょう。 『麒麟がくる』の例で言うと、斯波嘉統はすでに実権を失っていましたが、人望はあったようです。 それで、暗殺を行った織田信友、坂井大膳らは逆に立場を失い、失脚していきました。 織田信友は『麒麟がくる』の中では暗殺されていましたが、おそらく実際には切腹を強要される形で死んでいったものと思われます。 斎藤高政が病気と称して兄弟二人をおびき寄せ、これを暗殺した話は、織田信長が弟織田信行をその形で暗殺したと伝えられている話の転用であると思われます。 高政が兄弟二人を殺害した話は残っていますが、病気を装ってとは書かれていなかったと記憶します。 信長が信行を暗殺する以前に、信行は三度に渡って信長に叛逆を企てていました。 その時に信行に味方した者たちを一人倒し、一人寝返られて、信行の味方が居なくなった状態で暗殺したのです。 おそらく信行は、命乞いをするためもあって信長の見舞いに訪れようとしていたのでしょう。 もう一人、叔父の織田信光もおそらく、信長に暗殺されているのですが、この辺りの事情はよく分かりません。 『信長公記』の中には、いかにも織田信長の都合のよいような説明が書かれていますが、ちょっと疑わしい気もします。 話を戻しますが、斎藤高政に孫四郎・喜平次の二人を殺された斎藤道三は、兵を挙げて高政を討とうとしますが兵が集まらず、逆に攻め殺されてしまいます。 孫四郎・喜平次の暗殺が実行される以前に、すでに多数派工作が完了していたということです。 暗殺は、そんなに有効な手段ではなかったと私は思っています。 『麒麟がくる』は暗殺をあまりに安易に用いすぎていますね。 この時代の「武家」の相続はまだ「長子相続」ではなく、「実力主義」の時代ですからねえ。 私も質問を読んで、これから出てくるであろう「信長の弟暗殺」を思い浮かべました。 元々、信長も「三郎」と呼ばれているように、「信秀の3人目の子供」ながら、「母の出自」などで上位にあった訳ですが、「実の弟」はその点でも同列だし、信長より「礼儀正しい」とかあって、支持者も多かった訳です。 当時のレベルでは、「そういう争いに勝ち上がってこその主君」ということだった訳ですが、いわば「一族内の争い」でもあるんで、よそに付け込まれないためにも、「争う方法は小さい方が良い」訳で、そういう一手法が、いろんな方法での「暗殺」だったんでしょうね。 ただ、やっぱり「暗殺」には「卑怯」「姑息」といったイメージがあったんでしょうね。 「麒麟」ではこの後「長良川の戦い」になる訳ですが、この戦い、「17500対2500」などと言われているわけで、よくも戦が成立したものと感心します。 他国戦ならともかく、国内の争いで「2500」が残って戦ったってことは、この暗殺も含めて「義龍には一族を滅ぼしても従わない」という強い意志があったってことでしょうね。 この点、「信長の信勝暗殺」は、「勝者の記録」として割り引く部分はありますが、いくつかの施策、戦いで負けながら抵抗を諦めない弟を最後に「暗殺」したという点で、抵抗も少なく納得されていることが伺えます。 そういう点では、「安易な方法」を安易に終わらせるには、それに相応しい努力が必要だということでしょうね。 「家を継ぐ」にはそれなりの「甲斐性」が求められたってことです。 でも、逆に言えばこれは、まだ「主君の能力」が求められていたってことで、後に「家」が組織となりシステムになっちゃうと、もはや「長子相続」というルール で用は足りてしまうってことです。 暗殺における口実としては、いくつかあるなかの一例ですね。 一方で、「病だから」というのは、あらゆることの理由付けとして多用されてきました。 暗殺につかわれるのは、そうした裏付けがあるためともいえます。 暗殺の例では、すでに回答があるように信長が弟を誅殺したときの口実だったり、最上義光が白鳥氏を滅ぼすのにもつかわれました。 また、織田信秀が那古野城をのっとるために、那古野城に遊びに行ったところで危篤状態になったと偽り、それを口実に家臣を呼び込んで城をとったとされます。 あとは病欠です。 自分が殺されそうだと思った人が、病を理由にして自宅にとどまったり。 宴席から抜け出す理由にしたり。 仕官するよう請われた人が、断りにくいから仮病を使ったりもします。
次のfujimoto 織田信勝 織田信行 とは?生涯や死因、大うつけと呼ばれた兄・織田信長との関係性について解説! 織田信勝とは「大うつけ」と呼ばれていた織田信長の弟です。 2人の父・織田信秀が存命中は織田信長と対立することなく、織田弾正忠家の運営を行っていましたが、父・織田信秀が亡くなると対立関係となりました。 稲生の戦いでは織田信勝が敗北となり末森城に籠城しましたが、2人の母である土田御前が仲介をしこの戦いは終わりを迎えます。 その後も織田信勝は織田信長に対し敵意を持ち続け謀反を企てますが、柴田勝家がこれを密告したため謀反は失敗に終わり、織田信長によって誘殺されることとなりました。 そんな織田信勝の生涯や死因、兄・織田信長との関係性について解説いたします。 兄・織田信長と領地支配を行う 父・織田信秀は尾張国内に勢力を伸ばしていました。 晩年になると美濃国、三河国へと侵攻を開始しましたが、どれも撤退に追い込まれることとなります。 織田家の中で動揺が広がる中、父・織田信秀は天文18年(1549年)当時、15歳で那古野城主であった兄・織田信長に政務に関与させました。 この時は織田信秀と、織田信長による二元体制が行われていたのです。 しかし、天文20年(1551年)前半頃から父・織田信秀は体調を崩すようになります。 そこで父・織田信秀に代わって、織田信勝は兄・織田信長とともに領地支配を行うようになりました。 後に、織田信勝と織田信長兄弟は対立関係となりますが、父・織田信秀が存命中は父・織田信秀に仕える者としてどちらも対等な立場でありました。 父・織田信秀の死 天文21年(1552年)3月、父・織田信秀が42歳で亡くなります。 葬儀には約300人の僧侶が集まったとされ、大きな葬儀となりました。 大うつけと呼ばれた兄 兄・織田信長は少年時代から派手な服装を好み、奇行に走る青年でした。 そのような性格であったため、周囲からは「大うつけ」と呼ばれていたとされています。 そんな兄・織田信長には父・織田信秀の葬式の際、位牌に向かって抹香を投げつけたというエピソードが残されています。 兄・織田信長がなぜ抹香を投げつけるといった奇妙な行動をしたのかは分かっていませんが、父・織田信秀は後継者を決めず亡くなったため、父・織田信秀に対する不満があったのではないかと考えられています。 一方で、弟の織田信勝は正装で礼儀正しく父・織田信秀を供養していました。 兄・織田信長は家督を継ぐ 一方で兄・織田信長は織田弾正忠家の家督を継ぐこととなりました。 しかし、若くして当主となった織田信長には、父・織田信秀が支配していた勢力の維持を十分に行うことができるとは言えませんでした。 天文22年(1553年)7月の段階では、織田信勝は兄・織田信長とともに弾正忠家の運営を行っていたとされ、この時はまだ対立関係ではなかったようです。 独断で判物を発給 しかし、天文22年(1553年)10月、織田信勝は兄・織田信長の承諾なしで判物 将軍や大名などが発給する文章 を発給します。 この頃から織田信勝は独断で行動を起こすようになりました。 天文23年(1554年)4月頃、兄・織田信勝は叔父の織田信光と協力し守護代・織田大和守を滅ぼします。 しかし、同年11月、兄・織田信長に協力した叔父の織田信光は暗殺され亡くなりました。 「達成」と改名 天文22年(1553年)10月から天文23年(1554年)11月22日の間に、織田信勝は「達成」と改名しています。 この名前の「達」の字は織田大和守家の当主の通字とされ、織田信勝は織田大和守家の当主を意識し、改名したと考えられます。 また官途名として「弾正忠」と名乗っていました。 兄・織田信長ではなく自分こそが弾正忠家の当主であるとアピールするためだったと考えられています。 この頃から織田信勝と兄・織田信長は対立を見せるようになりました。 弟・織田秀孝が誤殺される 弘治元年(1555年)6月、弟の織田秀孝が叔父にあたる守山城主・織田信次の家臣によって誤殺されます。 叔父・織田信次が家臣らと川狩りを行っていたところ、織田秀孝がお供を付けずに単騎で乗馬通行していたため叔父・織田信次の家臣・洲賀才蔵が、領主の前で馬から下りずに通行する不届きものと勘違いし、射殺したものでした。 叔父の織田信次は射殺されたのを織田秀孝と知ると、織田信長の報復を恐れたとされています。 兄・織田信長は織田信次の領内を単騎で通行していた織田秀孝にもお咎めがあるとし、織田信次の罪を許しました。 しかし、弟・織田秀孝の死を知った織田信勝は罰として織田信次の居城・守山城の城下を焼き払いました。 暗殺された織田信光に続き、弟の織田秀孝も亡くなったことから織田弾正忠家内での権力争いで生き残ったのは、織田信勝と織田信長のみとなりました。 長良川の戦い 弘治2年(1556年)4月、織田信長の正室・帰蝶の父である斎藤道三が、自身の嫡男である斎藤義龍と美濃国で対立を起こします。 この戦いは長良川の戦いと呼ばれ、多く味方をつけることのできなかった斎藤道三が敗れ亡くなりました。 兄の織田信長は斎藤道三に味方していたため、長良川の戦いに駆けつけましたが、すでに戦は終わっていたとされています。 この頃、織田信勝に味方していた林美作守らが、織田信長を殺害しようとする事件もありましたが、未遂に終わります。 斎藤義龍からの手紙 稲生の戦い以降、織田信勝の勢いは無くなり「弾正忠」と名乗ることを辞めます。 しかし、兄・織田信長に対しては敵意を持ち続けました。 翌年の弘治3年(1557年)4月、織田信勝のもとに美濃国の斎藤義龍から書状が送られてきました。 この書状は再度、織田信長に対し攻撃を始めるよう促す内容であったと考えられています。 謀反を企てるも 永禄元年(1558年)3月、織田信勝は駿河国の戦国大名・今川氏の攻撃に備えるため、竜泉寺城の築城を始めます。 兄・織田信長の攻撃に備えるため築城されたとも考えられています。 同年、『信長公記』によると、織田信勝は岩倉城の織田信安とともに、兄・織田信長に対し謀反を企てました。 しかし、柴田勝家がこれを兄・織田信長に密告します。 織田信勝の最期と死因 この密告を受け兄・織田信長は仮病を装い、11月2日、織田信勝が清須城へと見舞いに来るのを待ちました。 何も知らない織田信勝は見舞いのため清洲城へと訪れ、そのまま誘殺され21歳または22歳で亡くなりました。 まとめ 織田信勝は大うつけと呼ばれた織田信長の弟です。 父・織田信秀が亡くなると2人は対立関係となり、稲生の戦いと呼ばれる戦を起こしました。 この戦いは織田信勝の敗北に終わりましたが、その後も織田信長に敵意を持ち続けます。 遂に謀反を企てた織田信勝でしたが、柴田勝家に密告され、織田信長によって誘殺されました。 現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」では俳優の木村了さんが織田信勝を演じられています。
次の織田信勝はどんな人? 織田信勝の生い立ち 織田信勝は、1536年にの二男といて生まれました。 信勝には、複雑なことに名前がいろいろあります。 信長には、勘十郎・信成・信行と言われていました。 また家臣からは、達成と呼ばれていました。 幼名は勘十郎です。 兄は信長母も同じ土田御前とされています。 兄に暗殺され家臣に裏切られた一生 14歳の時信秀が居城として住んでいた、末森城に土田御前と 住んだいてとされています。 父・織田信秀が亡くなると、信勝は信秀の仕事を受け継いで いました。 家臣の中では、「信長様は嫡男でありながら、うつけもの さらに信行様は信秀様の仕事を受け継いでおられるとなので 当主には信行様がいい」との声が多かったのです。 この時、信長は尾張のうつけものといわれて、家臣は信秀の 跡継ぎを信長ではなく信行を押していました。 さらに、もともとは信長と信秀の家臣であったも 信長を見限り、信行と土田御前のいる末森城に入りました。 しかし勝家が信長を見限ったことを知った信秀の筆頭家老の 林秀貞が信長につきます。 この筆頭家老に分かれた信行と信長の対立は、後に尾張を巻き 込む争いになるのです。 この2人の対立が始まったのは1533年、信長が 叔父というほどの平手政秀が自刃してと 会見してから信長と信勝の対立が始まったのです。 さらに、長良川の戦いで道三が子のに負け討ち死 にしたことを知り、信長の援軍が来なくなったので 信行と家臣たちが協力して信長征伐の準備を始めます。 さらに、1554年2人の叔父である織田信光が亡くなりました。 この時、末森城にいた柴田勝家が信行に謀反を起こしたのです。 信行は勝家が裏切ったことを知り自分の家より位に高い尾張 大和守家の受け継いでいた「達」という字を信行が名乗り 達成と名を改めます。 この意味は、自分こそが信秀の跡継ぎだと示すものでした。 ですが、信長が病にかかったから見舞いに来てくれとうそをつき 勝家に達成を暗殺させました。 木村了のプロフィール経歴主な出演など 木村了プロフィール 生年月日 1988年9月23日 出身地 東京都 三鷹市 血液型 A型 木村了さんは2002年の、第15回ジュノン・スーパー ボーイ・コンテストで審査員特別賞を受賞した日から、 芸能界入りします。 2004年の藤原竜也出演の映画「ムーンライト・ジェリー フィッシュ」で映画に初出演します。 木村了の主な出演作 絶対零度このドラマでは竹林匠役です。 ドラマ「三匹のおっさん」で近藤祥太を演じました。 2017年、「帝一の國」のドラマで堂山圭吾役でした。 映画『帝一の國』撮影時のオフショット映像 大鷹弾役・竹内涼真と堂山圭吾役・木村了との休憩中トークを公開しました。 風林火山では信玄を追放しようと武田二十四将と考えて た武田信玄の嫡男武田義信を演じていした。 2020年大河ドラマ麒麟がくるでは歴史大河ドラマ2回目 になります。 大河ドラマ麒麟がくるでどうやって織田信勝とが絡んでくるのか 楽しみですね!.
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