ベートーベン 本名。 ベートーヴェン『交響曲第5番(運命)』解説と名盤

ベートーヴェンは難聴になっても名曲を生んだまさに「運命」の人だった!

ベートーベン 本名

ボンなんですけどね・・・。 既に回答された方のお答えに、「神聖ローマ帝国、ボン」とありますが、ちょっと正確さを欠いているかも。 ボンは古くから、七大選帝侯の一人でもあったケルン大司教の直轄領に属しており、B氏誕生の時点でも、直接の領主はケルン大司教でありました。 この地は、神聖ローマ帝国の大きな版図の内側ではありますけれど、その帝国の中には、ケルンやマインツなどの司教の直轄領ですとか、ハンブルクやブレーメンといったハンザ都市のように、神聖ローマ皇帝に対して封建的主従関係には立っていない、言わば「飛び地」が数多く存在しておりました。 ボンは、ケルン大司教の領地としてそうした飛び地の一つであったと考えられます。 その意味から、「神聖ローマ帝国で生まれた」との表現は、必ずしも正確ではないんです。 ドイツは、政治的に統一的な国家としての成立を見る1871年以前については、現代の我々が理解しているような国民国家の概念を当てはめるのには少々無理があるんですよ。 当時の「国」といえば、例えばプロイセンだったりバイエルンだったり、或いはワイマール公国だったり、果ては微小な地方領主に至るまで、なんたって、ドイツは何千もの言わば「国」というか「領邦」に分かれていたんですからね。 そしてそれらの領邦の大部分の上に君臨する形で、19世紀の頭頃までは「神聖ローマ皇帝」というものがいて、「神聖ローマ帝国」ってものが、半ば名目的に形作られていた訳ですね。 ですから、B氏の出生地はボンなのであって、「それはどの国に属していたのか?」、という少々無理筋な問いに対しては、現代の概念を援用して、「ドイツ」と答えておくのが最も正しいのではないでしょうか。 こんちは。 出生は、 1770年12月16日頃 出身地は 、「 神聖ローマ帝国、ボン」です。 **神聖ローマ帝国は現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を 中心に存在していた国家。 ** **またボンは、ジーベンゲビルゲ山脈の北部にある、 ライン川沿いのケルンの南約20 km に位置する、 ノルトライン=ヴェストファーレン州に属する ドイツ連邦共和国の(19番目に大きい)都市である。 統一以前の1949年から1990年まで西ドイツの首都でした。 人口310,930人(2002年)。 ** 死没は、 1827年3月26日(満56歳没) ジャンル は、古典派音楽 活動期間 は1792年 - 1827 年 以上です。

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ベートーベンの生涯・年表まとめ【名言や功績、死因、性格についても解説】

ベートーベン 本名

[生]1770. 〈〉 [没]1827. ウィーン ドイツの作曲家。 ウィーン古典派様式の完成者で,西洋音楽の代表的巨匠の一人。 幼少時から父親にきびしいピアノの訓練を受け,1782年にボンの宮廷礼拝堂のオルガン奏者になったが,92年ウィーンに出,ハイドン,J. シェンク,A. サリエリ,J. アルブレヒツベルガーらに師事,またワルトシュタイン伯,リヒノフスキー公,ルドルフ大公ら貴族の後援を得て活躍。 聴覚を失うなど,大きな不幸に遭遇しながら,それらを克服して多くの傑作を残した。 代表作品は交響曲9,ピアノ協奏曲5,オペラ『』,ミサ曲2, 16,用 32。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 ドイツの作曲家。 ボンの宮廷楽団歌手の子に生まれ,才能をあてにした酒飲みの父にピアノを学ぶ。 のちボン宮廷のオルガン奏者C. ネーフェ〔1748-1798〕に作曲をし,J. らの音楽様式を修得。 1782年には最初の作品を書いた。 宮廷楽団でビオラ奏者として活動したのち1792年ウィーンに出,F. アルブレヒツベルガー〔1736-1809〕,らに学び,以後は他に職をもたず作曲とピアノ演奏に専心。 貴族の娘たちとの交際があり,〈不滅の恋人〉あての恋文が残っているが,独身で通した。 盛期古典派から初期ロマン派への転換期に56歳の生涯を送ったベートーベンは、古典派音楽様式を極点にまで高めるとともに、19世紀の音楽家たちにとっての偶像的な存在となり、後世に無限の広範な影響を与えた。 [中野博詞] 生涯フランドルから移住したボンの宮廷楽長ルートウィヒを祖父に、ボンの宮廷歌手の父ヨハンと、母マリア・マグダレーナ(エーレンブライトシュタインの宮廷料理長の娘で、宮廷の召使いを勤める未亡人であったが、1767年ヨハンと結婚)との間に、ボンで誕生した(1770年12月17日洗礼)。 フランドルの重厚な気質、ドイツの厳格な論理、ライン地方の喜怒哀楽の激しい感情、そして第二の故郷となるウィーンのたおやかな雰囲気が、ベートーベン音楽の背景となる。 幼少のころから父親にピアノの手ほどきを受け、7歳にして演奏会でピアノ協奏曲を演奏し、豊かな才能を示す。 ボンにおける少年時代のベートーベンは、父親をはじめ数人の音楽家から個人教授を受けるが、決定的な影響は、10歳のころから教えを受けたネーフェによって与えられる。 第二のモーツァルトになるであろうと彼の才能を絶賛したネーフェは、J・S・バッハとC・P・E・バッハの作品を教え込む。 11歳で最初の作品を出版したベートーベンは、オルガンとピアノの演奏家としても活躍し、13歳でボンの宮廷オルガン奏者助手となる。 16歳のベートーベンは、モーツァルトにあこがれてウィーン留学を試みるが、母の危篤のためウィーン滞在は2週間で終わる。 母の死は、飲酒癖が高じた父を廃人と化し、ベートーベンに一家の家計を担わせる結果となった。 失意の彼を勇気づけたのはブロイニング家の温かい雰囲気であり、娘エレオノーレはベートーベンの初恋の人となる。 彼の後援者となるワルトシュタイン伯爵も、1787年にボンに赴任し、物心ともにベートーベンを援助する。 また、18歳のベートーベンがボン大学で進歩的な学識に接したことも、ボン時代の大きな収穫である。 92年にボンを訪れたハイドンに作曲家としての才能を認められたベートーベンは、ハイドンの弟子となるべく、「ハイドンの手からモーツァルトの魂を」とのワルトシュタイン伯爵の惜別の辞を胸に、21歳でウィーンに赴く。 1792年11月にウィーンに到着したベートーベンは、ハイドン、シェンク、アルブレヒツベルガーなどの下で、まず作曲技法を着実に学ぶと同時に、ピアノの名手として貴族たちの間でしだいに高い評判をかちえてゆく。 そして、ウィーン生活の3年目の95年には、公開演奏会でピアノ奏者として自作のピアノ協奏曲第二番を弾いてデビュー、作曲家としては『ピアノ三重奏曲集』(作品1)を出版する。 翌年にはボヘミアとドイツに演奏旅行するなど、演奏、作曲の両面で順調に成長し、1800年にはベートーベンのための彼自身の指揮による最初の演奏会をウィーンで開き、交響曲第一番を初演する。 翌年にはジュリエッタ・グイチャルディと恋に落ち、ピアノ・ソナタ「月光」を彼女に捧 ささ げている。 ベートーベンが難聴に気づいたのは27歳ごろだが、音楽家にとって致命的な耳の疾患はしだいに悪化し、1802年の秋には自殺をも決意する。 その結果、書かれたのが2人の弟にあてた「ハイリゲンシュタットの遺書」であるが、これはむしろ、ベートーベンが危機を克服した証 あかし となっている。 事実この遺書を契機に、傑作の森ともよばれる名作の数々を矢つぎばやに作曲しており、闇 やみ から光へ、という劇的な音楽の原理が確立される。 交響曲第三番「英雄」、交響曲第五番「運命」、歌劇『フィデリオ』などにその典型がみられる。 ベートーベンの作曲活動は順調であったが、08年にウェストファリア国王のカッセルの宮廷から楽長として招聘 しょうへい されると、その経済的な好条件のために、彼はカッセルに赴く決意を固める。 しかし、彼の音楽を愛し、その才能を尊敬するルドルフ大公をはじめとするウィーンの3人の貴族は、年金を出し合って、ベートーベンを生涯オーストリアに定住させる結果となる。 09年から12年に至る時期には、ピアノ協奏曲第五番「皇帝」、ピアノ三重奏曲「大公」、交響曲第七番と第八番など、多彩な作品が生み出される。 2日間にわたってベートーベンが記した熱烈な恋文(「不滅の恋人への手紙」として有名)の相手であることが判明したアントニエ・ブレンターノ夫人との1812年の悲劇的な恋は、ベートーベンに決定的な打撃を与える。 そのためか、翌13年から16年にかけて、ベートーベンの自主的な作曲活動は停滞するが、実現しなかったイギリス旅行のために作曲した『戦争交響曲』や歌劇『フィデリオ』の最終稿の上演がウィーンで大成功し、称賛に包まれる。 15年の弟カールの死によって、甥 おい カールの後見人になったベートーベンは甥の教育を新たな生きがいとする。 しかし、26年に甥が自殺未遂するように、ベートーベンの盲愛と甥の反抗は悲劇的結果になったにもかかわらず、甥を相続人に指定するなど、甥への愛を貫き通した。 1818年から聴覚をほとんど失ったベートーベンは筆談に頼るようになるが、ピアノ・ソナタ「ハンマークラビア」を皮切りに、至高の世界ともよばれる後期の傑作群を創作してゆく。 音楽的にも思想的にもベートーベンの総決算となった交響曲第九番「合唱つき」は、24年5月7日ウィーンのケルントナートール劇場において、80人を超えるオーケストラ、4人の独唱者、約100人の合唱によって初演された。 ベートーベンは、指揮者の横に立って、各楽章の始まりのテンポを指示した。 熱狂した聴衆はアンコールを繰り返し、五度目には警察官によって制止された、と伝えられる。 1826年12月以来、肝硬変のために手術を繰り返したが、27年3月23日には死期を悟って遺書をしたため、「友らよ、御喝采 ごかっさい のほどを、喜劇は終わりぬ」と語った。 3月26日、激しい雷雨のなか、ベートーベンは56歳の波瀾 はらん に満ちた生涯を閉じる。 29日の埋葬式には約2万人が集まり、巨匠を悼むにふさわしい荘厳な葬儀が繰り広げられた、と伝えられる。 [中野博詞] 音楽ベートーベンの作品は、その様式変遷に従って、一般に次の四つの時代に分けられる。 ベートーベン自身が作品番号を付すウィーン時代の様式変遷は、九曲の交響曲、32曲のピアノ・ソナタ、16曲の弦楽四重奏曲にもっとも明白に跡づけられる。 また、交響曲では奇数番号と偶数番号の作品が性格をまったく異にするように、ドイツ的な音楽とオーストリア的音楽が混在しているのも、ベートーベン音楽の特質である。 なお、WoO番号は、キンスキーとハルムが1955年に『ベートーベン作品目録』を編纂 へんさん した際に、ベートーベン自身の作品番号をもたない曲に付した番号である。 [中野博詞] ボン時代(1782~92)ボンで接し学んださまざまな様式を色濃く反映した学習時代。 クラビアのための三つの選帝侯ソナタ(WoO47、1783)は、C・P・E・バッハとマンハイム楽派の影響とともに、ベートーベンの独自性をも明示する。 モーツァルトへの賛美は、三つのクラビア四重奏曲(WoO36、1785)にみられる。 [中野博詞] ウィーン初期(1793~1802)個人教授による対位法の学習に始まるこの時期は、古典派器楽様式を習得、発展、さらに実験することによって、ベートーベン独自の様式がしだいに鮮明になってくる時代である。 『ピアノ三重奏曲集』(作品1、1794~95)と『ピアノ・ソナタ集』(作品2、1793~95)において、四楽章構成、ソナタ形式の拡大、スケルツォの使用など、ベートーベンの新機軸がすでに打ち出され、『弦楽四重奏曲集』(作品18、1798~1800)では対位法的手法が積極的に導入されている。 一方、『ピアノ・ソナタ集』(作品27、1800~01)は『幻想曲風ソナタ』と題され、新たなソナタ様式が試みられている。 そのほか交響曲第一番と第二番、ピアノ・ソナタ「悲愴 ひそう 」、ピアノ協奏曲第一番と第二番がこの時期に属する。 [中野博詞] ウィーン中期(1803~12)ハイリゲンシュタットの遺書を契機に、ベートーベンが築き上げたきわめて論理的な形式のうちに、感情の流れを劇的に展開する新たな様式によって、傑作がめじろ押しとなる。 交響曲第三番「英雄」から第六番「田園」に至る四曲の交響曲。 『コリオラン序曲』、ピアノ協奏曲第四番、バイオリン協奏曲、『ラズモフスキー弦楽四重奏曲集』、バイオリン・ソナタ「クロイツェル」、ピアノ・ソナタ「ワルトシュタイン」、同「熱情」、歌劇『フィデリオ』などが1808年までに誕生する。 09年ごろ以降、構築的な主題の展開を中心とした様式から、ピアノ三重奏曲「大公」(作品97、1810~11)にみられるような、旋律的な主題による叙情的な様式に変化してゆく。 一方、交響曲第七番(作品92、1811~12)と第八番(作品93、1812)では、リズムが重要な役割を演じる。 [中野博詞] ウィーン後期(1813~26)作曲の停滞期となる1813年から16年の時期は、歌曲集『はるかな恋人に』(作品98、1815~16)をはじめ、器楽作品においてもロマン派的色彩を強めるが、17年に着手するピアノ・ソナタ「ハンマークラビア」(作品106、1818完成)を出発点として、ふたたび巨大な形式に立ち返り、至高の世界ともよぶべき後期様式の高みに登り詰めてゆく。 後期様式の際だった特色は、フーガに代表される対位法的書法ならびに変奏技法の重視であり、密度の高い凝縮された手法によって、時代を超越した多彩な響きの世界が創造されてゆく。 声楽と器楽が一体化された『荘厳ミサ曲』と交響曲第九番、ピアノ・ソナタ(作品106、109、110、111)の四曲と『ディアベリ変奏曲』、弦楽四重奏曲(作品127、130、131、132、135)の五曲と大フーガは、バロック時代から盛期古典派に至る音楽を、ベートーベンが総決算した作品群として、ひときわ注目されなければならない。

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ベートーベン (映画)

ベートーベン 本名

[ スポンサードリンク ] 交響曲第五番「運命」 交響曲第五番は、俗に「運命交響曲」とも呼ばれています。 そもそも「運命」という題名はベートーベンがつけたわけではなく、弟子兼秘書のシンドラーからの「先生、この出だしのダダダダーンっていう音は何を表しているのですか?」という質問に対し、ベートーベンが「それは運命がドアを叩く音だ」と答えたことから「運命」という標題で呼ばれるようになったと言われています。 交響曲第五番制作の背景 交響曲第五番は、1804年に交響曲第三番「エロイカ」が完成した直後から制作に入っています。 しかし、主題である「運命がドアを叩く音」の部分に関しては1798年に既に着想を得ており、交響曲第五番以前にも何度か使用していることがわかっています。 1798年という時期は、ベートーベンが難聴を自覚し始めた時期であり、「運命」にベートーベンがとらわれ始めた時期であるともいえます。 「運命がドアを叩く音」は、ベートーベンにとっては「音楽家生命の終わりが近づく音」であったのです。 この不吉な予感を振り払うべく、ベートーベンは、「運命がドアを叩く音」を自身の楽曲に組み込んで運命に抗う意思を示していたのではないでしょうか。 ベートーベンの交響曲に見られる思想 ベートーベンは「第九」制作までは、交響曲を二曲一セットという形で作曲・発表するスタイルをとっていました。 つまり、交響曲第五番「運命」は、同時に制作されていた交響曲第六番とセットになるのが正しい形であるといえます。 この交響曲第六番は、「田園」というベートーベン自身がつけた標題を持つ数少ない楽曲として知られています。 「田園」はその名の通り、郷愁を思い起こさせる曲調を持つ楽曲です。 ベートーベンは一曲だけでは表現しきれないテーマを完全に表現するために二曲一セットでの交響曲制作を行っていたのです。 交響曲第五番の秘密 ベートーベンが「運命はこのようにドアを叩く」といった、冒頭の「ダダダダーン」の四音は後の歴史で大きな意味を持つことになります。 「V」はローマ数字では「5」を表すので、交響曲第五番にぴったりであり、勝利(Victory)のVに通じるとされ第二次世界大戦下では、まったく別の意味合いを持っていたのです。 しかし、「運命」は本来『交響曲第五番』ではなく『交響曲第六番』であったが、モールス信号との符号から第五番になったという説も存在しています。 交響曲第五番「運命」の曲調 有名な「運命がドアを叩く音」で始まる第一楽章は、強弱と緩急がはっきりと出たメロディを持っています。 この楽曲は運命そのものを表しているのではなく、「運命の荒波に翻弄される人間」を表現しているというのが現在の定説です。 静と動が対比されたメロディは、心の移り変わりそのものをも表現しているのです。 「運命」の聴きどころはどこか 一般的に『交響曲第五番「運命」』といえば、第一楽章がその本質であるように考えられています。 しかし、実際の交響曲第五番は40分前後の長さを持つ一大交響曲です。 10分に満たない長さの第一楽章が交響曲第五番の全てであるように考えるのはそもそも誤りであるといえます。 第一楽章が「抗うことの出来ない運命の到来」を表していると考えるなら、「その運命にどう相対していくのか」が描写される第二楽章以降に注目しなければならないのです。 交響曲第五番「運命」の第二楽章・第三楽章 第二楽章では、「Andante con moto」(気楽に、ゆっくりと)と演奏記号で指示されているように、第一楽章のメリハリの利いた展開から一転した緩やかな流れへと変化します。 それは、運命の困難に直面した人が思考の糸を紡ぎ上げるように冷静に、かつ確実に一歩ずつ積み重ねていくような次なる発展への準備を思わせます。 第三楽章ではチェロ・ホルン・コントラバスの三楽器が、「運命がドアを叩く音」を組み込みながら一つのメロディを折り重ねていきます。 「運命」とは、常に悲運や別ればかりではなく出会いや幸運もあることを示すかのように最終楽章となる第四楽章に向かっていきます。 交響曲第五番「運命」の第四楽章 第四楽章では、この当時の交響曲としては珍しいピッコロなどの管楽器が加わって、メロディをよりいっそう盛り上げていきます。 この第四楽章は「運命」の困難を乗り越えた先の喜びを表現した、まさしくクライマックスとなるのです。 有名な第一楽章が「運命の来訪への怯え」ならば、第四楽章は「運命に打ち勝った人を讃えよ」という意味であるのです。 すなわち、交響曲第五番は、第四楽章がもたらすカタルシスを味わって初めて成り立つのです。

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