「慈しむ」。 素晴らしい言葉だと思います。 ただ、「あまり良い言葉ではない」とおっしゃっている方がおられるようですが、どのような点が「良くない」のか、具体的に分かりませんので、なんとも言いようがないのですが、あえて、という条件付で書かせて頂きます。 ただし、以下に書くことは、その方がこのような理由でそう言っている、ということでは全くありません。 「慈しむ」・・・・この言葉には、「かわいがる」「愛し大切にする」「いとおしむ」などの意味があることは質問者様もお調べになりご存知のことと思います。 さらに、「慈」という漢字の意味を調べますと、 1、いつくしむ。 かわいがる。 親が子を愛する。 情けをかける。 いたわり育てる。 いつくしみ。 なさけ。 2、すべての生物にゆきわたる、広大無辺の愛。 とあります。 おそらく、この「慈しむ」という言葉の意味自体には何の問題もないと考えて良いと思われます。 私も、質問者様に同感です。 ただ、あえて言えば、この言葉には、年上や何らかの力を持ったものが、年下のものや何かの点で力の劣ったものに対して抱く気持ちが込められている、といった感じがするのですがいかがでしょうか。 もしそうだとすると、この言葉を使う「時」や「場所」や対象となる「人」によっては、誤解されてしまうことも無きにしも非ずです。 ただし、繰り返しになりますが、この言葉自体は私は素晴らしいと思います。 たとえば、上に挙げた「慈」という漢字の「2」の意味をみても、それはハッキリしている。 おそらく、仏教的な意味で、釈迦の愛のあり方を示したものだと思われます。 お役に立ったかどうか「? 」ですが、決して悪い意味を持った言葉ではありません。 むしろ超素晴らしい言葉です 笑。 ただ、使い方によっては「? 」かなって、とこですかね。 補足・・・・・補足拝見しました。 「自然を慈しむ」。 良い表現だと私は感じました。 ただ、私が気になるのは、この場合の「自然」という言葉の意味です。 たとえば「草花を慈しむ」「小動物を慈しむ」などという場合、私は不自然には感じません。 しかし、もし質問者様のお書きになられている「自然」という言葉が、スケールの大きなものを指しているとしたら、私は違和感を感じてしまうかもしれません。 それでしたら「自然を愛する」「自然を大切にする」と表現したほうが何の抵抗もなく、良いと思います。 もちろん、これは、この言葉の用法にとらわれた見方で、あくまで私個人の感想ですのであまり気になさらないで下さい。 「自然を慈しむ」と使っても大丈夫かどうかに関して言えば、「慈しむ」という言葉の意味は決して悪いものではありませんので、問題はないと思います。 質問者様は、どういう「自然」を想定して「慈しむ」という言葉をお使いなさりたいのでしょうか、また、どのような意味で「慈しむ」という言葉をお使いになりたいのでしょうか。 もし、質問者様が、「自然をわが子のように、心の底から大切にしたい、また、大切にすることが大事なんだ」という思いからこの言葉を使いたいと考えていらっしゃるのならば全く問題なしと私は考えます。 結局、この「慈しむ」という言葉について言えば、その用法上いささか複雑なものがありますが大切なのは使う人がこの言葉にどのような気持ちを込めて使うのかということのように私は思います。 「慈しむ」には、まったく悪い意味はないのですが、もしひっかかるとしたら、それは、「慈しむ」が目下の者や弱い物に愛情を注ぐ、かわいがって大事にする、という意味があるからではないでしょうか。 対等ではない、というところがあまり良い言葉ではない、という理由かもしれません。 目上から目下、上から下への目線、を感じるからではないでしょうか。 補足読みました。 「自然を慈しむ」と使いたいのですね。 ただ、私の感覚では、「慈しむ」は第三者からみたとき、例えば「誰それが〜を慈しむ姿」「誰それが〜を慈しむ様子」というような感じで使います。 「子を慈しむ母親の姿」とか、こんな感じですね。 「私は〜を慈しむ」「私は〜を慈しみたい」のように、自分を主語にしてはあまり使わないかな、と思いました。 でも、これはあくまで私の主観です。。。 所詮、その方にお聞きしないと真意は分かりませんが、 「慈しむ」は母性的な愛情であり、母親の愛情はしばしば盲目的であり聡明でない(コント55号が昔そんなコントやってましたよ)。 よって、私は「厳父の愛」の方をより望ましいと感じる、場合もありますね。 そのお方にお尋ねください。 <追記> 「自然を慈しむ」ですか。 それでしたら私の最初の回答は少し方向違いでした。 理屈を言いだせばきりがないですが、私は特に使ってかまわないと思います。 「この人、危ない人だな」と思われることはありません。 西洋的な自然への関わりは、人間が神から任され、支配し、管理し、人間の都合のいいように改良し、もって神の偉大さを証明する為のものかもしれませんが、東洋的な自然観は、もう少し人間は自然の一部にすぎないという謙虚なものでしょう。 そのような態度で自然と接していくのが「慈しむ」の内実であるならば、結構なことだと思います。 また、そのようにあまり難しいことを言わずとも、富士登山したらゴミは極力持って帰る、だけでもいいと思います。
次の突然ですが、皆さんは「結婚式」と聞くとどんな光景を思い浮かべますか? 多くの方が、チャペルで執り行われるキリスト教式の結婚式を想像するのではないでしょうか。 聖壇の前で新婦を待つ新郎、お父さんとともにヴァージンロードを歩く新婦、神父・牧師さんの前で二人が永遠の愛を誓う場面等々……。 普段キリスト教とは縁遠い生活を送っている方にとって、「ああ、これは宗教的なイベントなんだ」と特に実感するシーンの一つが、賛美歌を歌う場面なのではないでしょうか。 特に、結婚式においては賛美歌の中でも「312番」と呼ばれている「いつくしみ深き」を歌う場合が多いようです。 今回は、結婚式における賛美歌の定番として歌われている「いつくしみ深き」についてご紹介していきたいと思います。 文字通り神を「賛美」する歌を意味します。 キリスト教の中でもプロテスタントの礼拝等に際して歌われるものです。 似たような言葉として「聖歌」がありますが、こちらは「賛美歌」よりも広い意味で用いられる言葉で、カトリックや正教会における礼拝時の歌も含みます。 賛美歌の曲名は歌詞の最初の行と同じです。 つまり、「いつくしみ深き~」で始まる曲だから曲名も「いつしみ深き」である、というわけなのです。 また、賛美歌に対して割り振られている番号は、賛美歌集に収録されている順番に基づいています。 「いつくしみ深き」が「312番」と呼ばれているのは、日本基督教団出版局が1954年に出版した『讃美歌集』の312番目に載っていることがその理由です。 同じ賛美歌であっても、他の賛美歌集に載っている場合、当然番号は異なります。 では、歌詞についてはどうでしょうか。 前述の通り、この賛美歌は元々英語で作詞されており、結婚式等で歌われる場合は日本語に訳された歌詞で歌われています。 外国語の歌詞を日本語に訳すのは中々大変なことで、訳した歌詞でもきちんと元のメロディーで歌えるように文字数を整える必要があります。 そのため、どうしても内容を省略してしまわなければならないこともしばしば発生します。 そのため、ここではメロディーのことは考えず、意味に焦点を当てて『いつくしみ深き』の元である「What a Friend We Have in Jesus」の歌詞を日本語に訳してみたいと思います。 結婚式で歌われるのは主に1番ですので、ここでは1番のみの和訳とします。 (英語) What a friend we have in Jesus, all our sins and griefs to bear! What a privilege to carry everything to God in prayer! O what peace we often forfeit, O what needless pain we bear, all because we do not carry everything to God in prayer! (日本語・拙訳) なんという(素晴らしい)イエスを私たちは友として持っているのだろうか、 私たちの罪と嘆きを負ってくださるとは! なんという(素晴らしい)恩恵なのだろうか、 祈りによって神に全てを捧げることができるとは! 私たちはしばしば平安を失い、 私たちは不必要な苦しみを受ける。 1番からだけでも少々暗い雰囲気の漂う「What a Friend We Have in Jesus」ですが、作詞者スクライヴェンはどういう経緯でこの歌詞を書いたのでしょうか。 実はこのスクライヴェンという人、67年の生涯において二人の婚約者がいましたが、二人とも彼と結婚することなく亡くなっているのです。 一人目は結婚式の前日に溺死し、二人目は結核で病死しています。 愛する人との離別を二度も経験した彼は、それでも絶望することなく教師として、また奉仕活動家として人々のために尽くし、その人生を終えました。 「いつくしみ深き」は1番、2番、3番…と年を空けて作詞されており、そこにはその時その時に彼が遭遇した苦難、そしてそれを神への祈りによって克服し、前へ進んでいった様子が反映されているのです。 「いつくしみ深き」、通称「312番」は必ずしも結婚式を想定した賛美歌ではありませんが、作詞者であるスクライヴェンが歌詞に込めた思いを知れば、見方は少し変わってくるのではないでしょうか。 キリスト教式の結婚式の定番のフレーズと言えば、誓いの場面での「健やかなるときも病めるときも~」という、神父・牧師さんから新郎新婦への問いかけの言葉です。 これから始まる結婚生活、決して幸せなことばかりではなく、苦しいとき、辛いときが訪れることもあるでしょう。 せっかくの結婚式、今回紹介した「いつくしみ深き」のように、馴染み深いメロディーの賛美歌であれば積極的に歌ってみることをお勧めします。 披露宴で拍手を送るのと同じ感覚で、二人への祝福の気持ちを表したり、明るい未来を祈るために歌を贈るのも素敵なことではないでしょうか。
次のご紹介するのはこちら、 賛美歌312番。 日本語で 【いつくしみ深き】という曲名として挙式で歌われます。 こちらの動画は 森山良子さんの美声と共に・・・ :- シンプルながらも美しく神聖で厳かなメロディーラインが、 挙式の神秘性を引き立てますよね。 worldfolksong. 賛美歌312番の歌詞の意味は? 実はこの曲の作曲者は、 結婚直前にパートナーを亡くしてしまうという悲劇に見舞われているのです。 その際に作曲者は 深い悲しみに打ちひしがれ、失望のどん底に突き落とされ・・・ 苦しみの中で、 イエスキリストに強く祈りを捧げたのです。 worldfolksong. html この賛美歌の歌詞は、 その苦しみをイエスに全て委ねた時に生まれた詩であるとされています。 どんな悲しみや困難が訪れようとも、イエスキリストは全てを見守っている。 そんな想いが込められているのです。 centifolia. 「憧れの結婚式」という通念として、 賛美歌に包まれながらチャペルで式を挙げたいという夫婦が多いことによります。 なので 賛美歌312番においても、 宗教的観念はあまり意識されずに参列者に歌われることが多いです。 「結婚式の彩りとしての要素と形式としての要素」が、強く反映されていると言えます。 fint-shop. html 自分が結婚式を挙げる場合も参列者として行く場合も、多くの場面でこの 賛美歌312番が使われます。 予備知識無しで初めて歌うことになり、全く分からずに戸惑った!という経験がある人も多いのではないでしょうか! 結婚式の参列予定がある人は、 是非事前にこの賛美歌312番をある程度歌えるように覚えておきましょう。 それは即ち、 「祝福のために心を込めて歌う」ということにも繋がるのです・・・! いかがでしたでしょうか?実はあまり知られていることが少ない、 賛美歌312番についてご紹介しました。 知識がある状態で歌えると、より思い入れが深まりますよね。 挙式を挙げる側でしたら、 その歌詞の意味を心に刻むことでパートナーへの愛情を再確認できます。
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