解説 ホウ・シャオシェンのアシスタントを務めた女性監督ホアン・シーのデビュー作で、台北の住宅地を舞台に都市で生活する人びとの孤独が描かれる。 台北でひとり暮らす女性シューは、「ジョニーはそこにいますか?」という同じ男あての間違い電話を何度も受け、心当たりのないジョニーという男が次第に気になっていく。 車で生活をする中年の男フォン、人と混じり合うことができない少年リー、そしてシュー。 孤独に生きる3人がふとしたことから出会い、シューのインコがいなくなったことをきっかけに、彼女の思いがけない過去が明らかとなる。 主人公のシューをモデルなどで活躍し、本作が長編映画初出演となるリマ・ジタン、フォン役をエドワード・ヤン監督作「カップルズ」のクー・ユールンがそれぞれ演じる。 製作総指揮をホウ・シャオシェンが務めた。 2017年・第18回東京フィルメックスのコンペティション部門に出品され、「ジョニーは行方不明」のタイトルで上映されている。 2017年製作/107分/台湾 原題:強尼・凱克 Missing Johnny 配給:A PEOPLE CINEMA スタッフ・キャスト ネタバレ! クリックして本文を読む 観た。 すごくよかった。 しかし時間が経ってみると、本当に断片しか思い出せない。 街を歩くシーンにストーカーのような怖さがあったこと、ハシゴを持ってくるシーンが妙に微笑ましかったこと、ヒロインに動物的な若さがあふれていたこと、高速道路のラストにわけもなく多幸感を感じたこと。 街そのものが主人公、というのは陳腐な表現だし、実際、この映画の主人公は街ではなく人だと思っている。 でも、彼らの人生をドラマとして捉えることはなく、知り合いそうで知り合わなかった人たちの生活を垣間見ただけであり、でも、垣間見たことで、ほのかな希望が自分の人生にも宿ったような気にさせられる。 あの高速道路の車のどこかに、自分も乗っていたかも知れない。 その、一粒に過ぎないという感覚がとても心地いい映画だったと思う。 あんまり覚えてないけども。 いつかまた観たいと思うし、その記憶もさらさらと流れていくのだろうけども。 ネタバレ! クリックして本文を読む 高崎映画祭にて鑑賞。 なのでこの手の作品が一番好き嫌いが分かれるのではないだろうか?自分がどうかというと、実は自分もよく分らないというのが実感である。 決して嫌いではないのだが、しかし自分の読み解き力の貧弱さも又痛感させられるので、感情を上手く飲み込めず口の周りを汚してしまうイメージである。 今作品が決して親切ではないことは充分理解したのだが、だからといって不思議と拒絶感は感じない。 まるで環境映画のようなカテゴリなのかと思ったりしたのだがそれとも違うような・・・ だから、表題の『やおい』が一番しっくりしたのである。 それに引っ張られる様に、この群像劇の他のパートもそれ程猥雑で不衛生な負の部分の台湾の影がみえてこない。 本来ならばもっと多湿な気候がスクリーンに映し出す筈なのだが、まるで日本のようなイメージである。 しかし、台湾の人達の家族主義的行動、占いや儀式を重んじるさりげないシーンや台詞、しかし、そんな古えの迷信と対比するような、近代化される街並、そして崩壊ギリギリの家族といった今の台湾の現状を丁寧に演出している点は興味深い。 鳥と自分の境遇の親近感を抱きながら、急に後半ぶっ込んでくる子供がいる設定等、少々無理矢理感も否めないが、もう一人の主人公である内装業の男の『距離が近すぎると衝突する』という台詞は心に重くのし掛ってくる。 車のエンストも、渋滞の中で起ってしまうことで衝突する危険が出てくる。 しかし、ラスト、カメラがパンした先に、動き始めた車が通りすぎることで、ほんの少しだが希望を観客に抱かせるというニクい演出もクセモノの監督である。 日常は何も変わらないし、益々苛立ちは募る。 それでも希少な希望で人は前に進んでゆけるというメタファーなのであろう。 ちなみに、解説での間違い電話におけるジョニーの件は、ヒロインはそんなに気にしていないので、解説は間違いであり、故に原題もミスリードになってしまうから、邦題に変更したのは正解だと思う。 「恋する惑星」のストーリーを思い出せなくても、エスカレーターのシーンを思い浮かべない人はいないだろう。 素晴らしい映画にはそういう記憶に残る名シーンが必ずあるものだが、この映画では高速道路のトンネルのシーンと歩道橋を走る二人のシーンの疾走感が強く印象に残った。 まるで王菲(フェイ・ウォン)の主題歌が聞こえてきそうな感じだった。 侯孝賢(ホウシャオシェン)と楊徳昌(エドワード・ヤン)の遺伝子を引き継ぐ映画と紹介されているが、私は王家衛(ウォンカーワイ)の遺伝子もちょっと入っているような印象を受けた。 複雑に入り組んだ高速道路。 どう交わっているのかよく分からない高架鉄道。 それらの映像と同じように複雑きわまりない台北の街に生きる人々。 彼らの日常を映画は淡々と描く。 複雑な街を生きる人たちの暮らしは複雑なピースでいっぱいだ。 主人公の女性徐子淇(瑞瑪席丹リマ・ジタン)は小鳥たちと暮らしてている。 1羽は逃げ、1羽は残った。 そして彼女にはしょっちゅう間違い電話がかかってくる。 「ジョニーはいますか?」(映画の原題にもなっている) もう一人の主人公張以風(柯宇綸クーユールン)の車は何度もエンストを起こす。 コミュニケーションの苦手な少年(黃遠ホアンユエン)にはピースがいっぱいある。 壁に貼られた多数のポストイット。 新聞の切り抜き。 水たまりと自転車。 徐々に彼らの現在の家庭環境や背景が明らかになっていくのだが、共通しているのは「離婚」や「別居」ということ。 家族だと思っていた登場人物が他人であったり、他人だと思っていた人が家族だったりする。 この3人の人生はちょっとした偶然から交わり合っていく。 「距離が近づくと愛し方が分からなくなる」とうような台詞が出てくるが、この映画を象徴している台詞だと感じた。 台北という都会で暮らす人たちの家族との微妙な距離感。 それを維持できないのがこの3人だ。 切なく、もの悲しい孤独な魂の姿が、入り組んだ台北の街と雨音を背景に描かれる。 ピースはたくさんあるけれども、私にはそれらのピースを組み立てることはできなかった。 いや、作者はそれを望んでいないのかもしれない。 そんなに簡単に組み立てられるほどこの映画に描かれている人生は単純ではない。 深い哀しみと切なさの残る映画だ。
次の解説 ホウ・シャオシェンのアシスタントを務めた女性監督ホアン・シーのデビュー作で、台北の住宅地を舞台に都市で生活する人びとの孤独が描かれる。 台北でひとり暮らす女性シューは、「ジョニーはそこにいますか?」という同じ男あての間違い電話を何度も受け、心当たりのないジョニーという男が次第に気になっていく。 車で生活をする中年の男フォン、人と混じり合うことができない少年リー、そしてシュー。 孤独に生きる3人がふとしたことから出会い、シューのインコがいなくなったことをきっかけに、彼女の思いがけない過去が明らかとなる。 主人公のシューをモデルなどで活躍し、本作が長編映画初出演となるリマ・ジタン、フォン役をエドワード・ヤン監督作「カップルズ」のクー・ユールンがそれぞれ演じる。 製作総指揮をホウ・シャオシェンが務めた。 2017年・第18回東京フィルメックスのコンペティション部門に出品され、「ジョニーは行方不明」のタイトルで上映されている。 2017年製作/107分/台湾 原題:強尼・凱克 Missing Johnny 配給:A PEOPLE CINEMA スタッフ・キャスト ネタバレ! クリックして本文を読む 観た。 すごくよかった。 しかし時間が経ってみると、本当に断片しか思い出せない。 街を歩くシーンにストーカーのような怖さがあったこと、ハシゴを持ってくるシーンが妙に微笑ましかったこと、ヒロインに動物的な若さがあふれていたこと、高速道路のラストにわけもなく多幸感を感じたこと。 街そのものが主人公、というのは陳腐な表現だし、実際、この映画の主人公は街ではなく人だと思っている。 でも、彼らの人生をドラマとして捉えることはなく、知り合いそうで知り合わなかった人たちの生活を垣間見ただけであり、でも、垣間見たことで、ほのかな希望が自分の人生にも宿ったような気にさせられる。 あの高速道路の車のどこかに、自分も乗っていたかも知れない。 その、一粒に過ぎないという感覚がとても心地いい映画だったと思う。 あんまり覚えてないけども。 いつかまた観たいと思うし、その記憶もさらさらと流れていくのだろうけども。 ネタバレ! クリックして本文を読む 高崎映画祭にて鑑賞。 なのでこの手の作品が一番好き嫌いが分かれるのではないだろうか?自分がどうかというと、実は自分もよく分らないというのが実感である。 決して嫌いではないのだが、しかし自分の読み解き力の貧弱さも又痛感させられるので、感情を上手く飲み込めず口の周りを汚してしまうイメージである。 今作品が決して親切ではないことは充分理解したのだが、だからといって不思議と拒絶感は感じない。 まるで環境映画のようなカテゴリなのかと思ったりしたのだがそれとも違うような・・・ だから、表題の『やおい』が一番しっくりしたのである。 それに引っ張られる様に、この群像劇の他のパートもそれ程猥雑で不衛生な負の部分の台湾の影がみえてこない。 本来ならばもっと多湿な気候がスクリーンに映し出す筈なのだが、まるで日本のようなイメージである。 しかし、台湾の人達の家族主義的行動、占いや儀式を重んじるさりげないシーンや台詞、しかし、そんな古えの迷信と対比するような、近代化される街並、そして崩壊ギリギリの家族といった今の台湾の現状を丁寧に演出している点は興味深い。 鳥と自分の境遇の親近感を抱きながら、急に後半ぶっ込んでくる子供がいる設定等、少々無理矢理感も否めないが、もう一人の主人公である内装業の男の『距離が近すぎると衝突する』という台詞は心に重くのし掛ってくる。 車のエンストも、渋滞の中で起ってしまうことで衝突する危険が出てくる。 しかし、ラスト、カメラがパンした先に、動き始めた車が通りすぎることで、ほんの少しだが希望を観客に抱かせるというニクい演出もクセモノの監督である。 日常は何も変わらないし、益々苛立ちは募る。 それでも希少な希望で人は前に進んでゆけるというメタファーなのであろう。 ちなみに、解説での間違い電話におけるジョニーの件は、ヒロインはそんなに気にしていないので、解説は間違いであり、故に原題もミスリードになってしまうから、邦題に変更したのは正解だと思う。 「恋する惑星」のストーリーを思い出せなくても、エスカレーターのシーンを思い浮かべない人はいないだろう。 素晴らしい映画にはそういう記憶に残る名シーンが必ずあるものだが、この映画では高速道路のトンネルのシーンと歩道橋を走る二人のシーンの疾走感が強く印象に残った。 まるで王菲(フェイ・ウォン)の主題歌が聞こえてきそうな感じだった。 侯孝賢(ホウシャオシェン)と楊徳昌(エドワード・ヤン)の遺伝子を引き継ぐ映画と紹介されているが、私は王家衛(ウォンカーワイ)の遺伝子もちょっと入っているような印象を受けた。 複雑に入り組んだ高速道路。 どう交わっているのかよく分からない高架鉄道。 それらの映像と同じように複雑きわまりない台北の街に生きる人々。 彼らの日常を映画は淡々と描く。 複雑な街を生きる人たちの暮らしは複雑なピースでいっぱいだ。 主人公の女性徐子淇(瑞瑪席丹リマ・ジタン)は小鳥たちと暮らしてている。 1羽は逃げ、1羽は残った。 そして彼女にはしょっちゅう間違い電話がかかってくる。 「ジョニーはいますか?」(映画の原題にもなっている) もう一人の主人公張以風(柯宇綸クーユールン)の車は何度もエンストを起こす。 コミュニケーションの苦手な少年(黃遠ホアンユエン)にはピースがいっぱいある。 壁に貼られた多数のポストイット。 新聞の切り抜き。 水たまりと自転車。 徐々に彼らの現在の家庭環境や背景が明らかになっていくのだが、共通しているのは「離婚」や「別居」ということ。 家族だと思っていた登場人物が他人であったり、他人だと思っていた人が家族だったりする。 この3人の人生はちょっとした偶然から交わり合っていく。 「距離が近づくと愛し方が分からなくなる」とうような台詞が出てくるが、この映画を象徴している台詞だと感じた。 台北という都会で暮らす人たちの家族との微妙な距離感。 それを維持できないのがこの3人だ。 切なく、もの悲しい孤独な魂の姿が、入り組んだ台北の街と雨音を背景に描かれる。 ピースはたくさんあるけれども、私にはそれらのピースを組み立てることはできなかった。 いや、作者はそれを望んでいないのかもしれない。 そんなに簡単に組み立てられるほどこの映画に描かれている人生は単純ではない。 深い哀しみと切なさの残る映画だ。
次の解説 ホウ・シャオシェンのアシスタントを務めた女性監督ホアン・シーのデビュー作で、台北の住宅地を舞台に都市で生活する人びとの孤独が描かれる。 台北でひとり暮らす女性シューは、「ジョニーはそこにいますか?」という同じ男あての間違い電話を何度も受け、心当たりのないジョニーという男が次第に気になっていく。 車で生活をする中年の男フォン、人と混じり合うことができない少年リー、そしてシュー。 孤独に生きる3人がふとしたことから出会い、シューのインコがいなくなったことをきっかけに、彼女の思いがけない過去が明らかとなる。 主人公のシューをモデルなどで活躍し、本作が長編映画初出演となるリマ・ジタン、フォン役をエドワード・ヤン監督作「カップルズ」のクー・ユールンがそれぞれ演じる。 製作総指揮をホウ・シャオシェンが務めた。 2017年・第18回東京フィルメックスのコンペティション部門に出品され、「ジョニーは行方不明」のタイトルで上映されている。 2017年製作/107分/台湾 原題:強尼・凱克 Missing Johnny 配給:A PEOPLE CINEMA スタッフ・キャスト ネタバレ! クリックして本文を読む 観た。 すごくよかった。 しかし時間が経ってみると、本当に断片しか思い出せない。 街を歩くシーンにストーカーのような怖さがあったこと、ハシゴを持ってくるシーンが妙に微笑ましかったこと、ヒロインに動物的な若さがあふれていたこと、高速道路のラストにわけもなく多幸感を感じたこと。 街そのものが主人公、というのは陳腐な表現だし、実際、この映画の主人公は街ではなく人だと思っている。 でも、彼らの人生をドラマとして捉えることはなく、知り合いそうで知り合わなかった人たちの生活を垣間見ただけであり、でも、垣間見たことで、ほのかな希望が自分の人生にも宿ったような気にさせられる。 あの高速道路の車のどこかに、自分も乗っていたかも知れない。 その、一粒に過ぎないという感覚がとても心地いい映画だったと思う。 あんまり覚えてないけども。 いつかまた観たいと思うし、その記憶もさらさらと流れていくのだろうけども。 ネタバレ! クリックして本文を読む 高崎映画祭にて鑑賞。 なのでこの手の作品が一番好き嫌いが分かれるのではないだろうか?自分がどうかというと、実は自分もよく分らないというのが実感である。 決して嫌いではないのだが、しかし自分の読み解き力の貧弱さも又痛感させられるので、感情を上手く飲み込めず口の周りを汚してしまうイメージである。 今作品が決して親切ではないことは充分理解したのだが、だからといって不思議と拒絶感は感じない。 まるで環境映画のようなカテゴリなのかと思ったりしたのだがそれとも違うような・・・ だから、表題の『やおい』が一番しっくりしたのである。 それに引っ張られる様に、この群像劇の他のパートもそれ程猥雑で不衛生な負の部分の台湾の影がみえてこない。 本来ならばもっと多湿な気候がスクリーンに映し出す筈なのだが、まるで日本のようなイメージである。 しかし、台湾の人達の家族主義的行動、占いや儀式を重んじるさりげないシーンや台詞、しかし、そんな古えの迷信と対比するような、近代化される街並、そして崩壊ギリギリの家族といった今の台湾の現状を丁寧に演出している点は興味深い。 鳥と自分の境遇の親近感を抱きながら、急に後半ぶっ込んでくる子供がいる設定等、少々無理矢理感も否めないが、もう一人の主人公である内装業の男の『距離が近すぎると衝突する』という台詞は心に重くのし掛ってくる。 車のエンストも、渋滞の中で起ってしまうことで衝突する危険が出てくる。 しかし、ラスト、カメラがパンした先に、動き始めた車が通りすぎることで、ほんの少しだが希望を観客に抱かせるというニクい演出もクセモノの監督である。 日常は何も変わらないし、益々苛立ちは募る。 それでも希少な希望で人は前に進んでゆけるというメタファーなのであろう。 ちなみに、解説での間違い電話におけるジョニーの件は、ヒロインはそんなに気にしていないので、解説は間違いであり、故に原題もミスリードになってしまうから、邦題に変更したのは正解だと思う。 「恋する惑星」のストーリーを思い出せなくても、エスカレーターのシーンを思い浮かべない人はいないだろう。 素晴らしい映画にはそういう記憶に残る名シーンが必ずあるものだが、この映画では高速道路のトンネルのシーンと歩道橋を走る二人のシーンの疾走感が強く印象に残った。 まるで王菲(フェイ・ウォン)の主題歌が聞こえてきそうな感じだった。 侯孝賢(ホウシャオシェン)と楊徳昌(エドワード・ヤン)の遺伝子を引き継ぐ映画と紹介されているが、私は王家衛(ウォンカーワイ)の遺伝子もちょっと入っているような印象を受けた。 複雑に入り組んだ高速道路。 どう交わっているのかよく分からない高架鉄道。 それらの映像と同じように複雑きわまりない台北の街に生きる人々。 彼らの日常を映画は淡々と描く。 複雑な街を生きる人たちの暮らしは複雑なピースでいっぱいだ。 主人公の女性徐子淇(瑞瑪席丹リマ・ジタン)は小鳥たちと暮らしてている。 1羽は逃げ、1羽は残った。 そして彼女にはしょっちゅう間違い電話がかかってくる。 「ジョニーはいますか?」(映画の原題にもなっている) もう一人の主人公張以風(柯宇綸クーユールン)の車は何度もエンストを起こす。 コミュニケーションの苦手な少年(黃遠ホアンユエン)にはピースがいっぱいある。 壁に貼られた多数のポストイット。 新聞の切り抜き。 水たまりと自転車。 徐々に彼らの現在の家庭環境や背景が明らかになっていくのだが、共通しているのは「離婚」や「別居」ということ。 家族だと思っていた登場人物が他人であったり、他人だと思っていた人が家族だったりする。 この3人の人生はちょっとした偶然から交わり合っていく。 「距離が近づくと愛し方が分からなくなる」とうような台詞が出てくるが、この映画を象徴している台詞だと感じた。 台北という都会で暮らす人たちの家族との微妙な距離感。 それを維持できないのがこの3人だ。 切なく、もの悲しい孤独な魂の姿が、入り組んだ台北の街と雨音を背景に描かれる。 ピースはたくさんあるけれども、私にはそれらのピースを組み立てることはできなかった。 いや、作者はそれを望んでいないのかもしれない。 そんなに簡単に組み立てられるほどこの映画に描かれている人生は単純ではない。 深い哀しみと切なさの残る映画だ。
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