大本山 永平寺 禅宗は、お釈迦さまから28代目の菩提達磨を始祖としています。 達磨は5世紀末、インドから中国に渡り、嵩山少林寺で石窟の壁に向かって坐禅を9年間続けたといわれます。 8世紀の唐の時代、中国禅宗は曹洞宗や臨済宗など分派して発展しました。 その後、宋の時代に中国に渡った日本の僧侶、栄西禅師や道元禅師によって日本に禅宗が伝えられました。 日本における禅宗はいずれも中国禅宗の流れをくみ、曹洞宗のほかに臨済宗、黄檗宗があります。 3宗派とも、坐禅を修行の根本として悟りを目指し、作務(掃除などの日常作業)を尊ぶことは共通していますが、修行法や作法に違いがあります。 嘉禄3年に道元禅師が伝えた曹洞宗は「坐禅こそが仏の姿である」として、ただ黙々と坐ることから「黙照禅(もくしょうぜん)」といわれます。 坐禅は悟りに達する手段ではなく、お釈迦さまに憧れてただひたすらに坐禅することがすべてであるということです。 曹洞宗は、鎌倉時代に台頭してきた武士を中心に、質実剛健の武家文化としてひろまりました。 臨済宗は、道元禅師が師ともされる栄西禅師が建久2年に伝え、栄西禅師没後、鎌倉・室町時代にかけて幕府執権や京都の貴族を中心に公家文化としてひろまりました。 臨済宗は、坐禅を悟りに達する手段と考え、坐禅をしながら「公案」とよばれる教育課題を手がかりとして悟りの境地を目指します。 黄檗宗は江戸時代初期に中国僧の隠元が伝えた宗派で、浄土思想と融合した明時代の中国臨済宗の流れをくんでいます。 厳しい戒律でしられ、当時停滞していた日本の禅宗に新風を吹き込みました 建物や仏具、そしてお経の節回しも中国風で、普茶料理も伝えています。 道元禅師は鎌倉時代前期に中国へ渡り、中国曹洞宗の高僧如浄に師事し、禅を極めて帰国。 ひたすら坐禅に打ち込む純粋禅を提唱し、京都・深草に日本初の禅の専修道場として興聖寺を開き、その後、越前に移り、永平寺を開きました。 螢山禅師は道元禅師からかぞえて曹洞宗第4祖にあたり、能登半島に永光寺や總持寺を開き、北陸を中心に多くの優秀な弟子を育てました。 螢山禅師の弟子たちは全国に曹洞宗のお寺をつくり今日の大教団の礎を築きました。 日本に曹洞宗の教えを伝え、体系づけた道元禅師を高祖(こうそ)、大教団の礎を築いた螢山禅師を太祖(たいそ)と呼んでいます。 そのため、本尊にこだわりはありません。 しかし基本的には、釈迦牟尼仏を本尊としています。 大本山永平寺の仏殿には、釈迦牟尼仏を中心に阿弥陀仏と弥勒仏(弥勒菩薩)を配置した、現在・過去・未来の三世仏がまつられ、大本山總持寺の仏殿には、釈迦牟尼仏を中心に弟子の摩訶迦葉と阿難陀を配置した釈迦三尊がまつられています。 曹洞宗では、釈迦牟尼仏以外の仏像を本尊にしているお寺も多数あります。 それは、全国に広まる過程で、他宗の寺院を曹洞宗に改宗したときに、そのお寺にまつられる仏像をそのまま本尊として残したからです。 また、両祖である道元禅師と螢山禅師を敬愛し、家庭の仏壇には、「一仏両祖」の絵像(釈迦牟尼仏を中心に道元禅師と螢山禅師の姿が描かれたもの)をまつります。 禅宗には「不立文字」という言葉があり「悟りの境地を言葉や文字で伝えることは不可能である」という意味です。 ですから、理論に縛られず、ひたすら坐禅をすることによって、自ら悟りを体得することが重要であるということです。 しかし、曹洞宗では経典類を重視しないわけではなく、さまざまな経典を読みますし、道元禅師禅師や螢山禅師禅師の語録や著作も多く残されています。 禅宗でよく読まれるのは「般若心経」や「観音経」などです。 そして曹洞宗独自のお経といえば、道元禅師の主著「正法眼蔵」をもとに編纂された「修証義」で、日常のおつとめをはじめとしてよく読まれます。 睡眠不足や満腹:空腹のときは避けましょう。 ゆったりとした服装で、時計やネックレスなどの装飾品ははずして、素足になります。 坐禅する場所は、静かで落ち着けるところを選びます。 坐蒲団を二つに折ってお尻の下にくるように置きます。 あるいは、座蒲団を2枚用意し、坐る場所に1枚敷いてもいいでしょう。 坐る時間の長さは自由です。 お寺では一般的に30分程度ですが、家庭で坐る場合は、10~15分からはじめてもかまいません。 タイマーをかけておくと集中できます。 時間は短くても毎日続けることが大切です。 坐禅の一連の流れ 1.坐る前にまず、坐る場所に向かって立ち、合掌したまま頭を下げる。 2.坐禅の姿勢で足を組む 3.坐禅を終えるときは、静かに合掌して体を左右にゆすってから足をとく。 4.ゆっくりと立ち上がり、最初と同様に立拝をして終わる 足がしびれて立てないときは、しびれがとれるまでしばらく坐っていてもかまいません。 あぐらの状態で、二つ折りにした座蒲団の前半分ぐらいに浅くお尻をのせると自然に背筋が伸びます。 足の組み方は「結跏趺坐」と「半跏趺坐」があります。 お釈迦さまが悟りを開いたときに結跏趺坐だったことから、この坐り方が正式ですが、慣れない人は半跏趺坐でもかまいません。 足を組んだら、腰を前に突き出すようにし、同時に背筋を伸ばし、あごを引きます。 そして頭頂が天井から引っ張られているように意識します。 手の組み方は「法界定印」です。 組んだ手は、組んだ足の上に置き、わきを軽く開けます。 口は、奥歯を軽くかみ合わせ、唇を一文字に引き締めます。 舌は上の歯ぐきの付け根あたりにつけます。 目は半眼といって、上まぶたを半分閉じて、視線を1メートル先に落とします。 一点を見つめずに、眉間の力を抜くようにします。 ここまできたら合掌し、よい坐禅であるように念じます。 そして一度、深呼吸して、口を軽く開けて深く息を吸い込み、下腹からゆっくりと吐き出します。 これを「欠気一息」といいます。 次に状態を左右にゆっくりと動かして腰の筋肉を伸ばす運動をします。 これを「左右揺振」といって、大きな揺れからだんだん小さくしていき、真ん中で止めます。 組んだ足が土台となり、そこに腰、胴体、頭がのっているという状態を実現できれば正しい坐り方になっています。 手を法界定印に戻し、調身が完成します。 座禅中の呼吸の基本は「鼻からゆっくりと吐いて吸うこと」と「丹田(おへその下の体の中心部)に意識を集中させること」です。 そのため、調身ができていることが大切です。 肩に力が入ると浅い呼吸になってしまします。 まず、鼻から静かにゆっくりと息を吐きだします。 そして吐ききったら、腹筋をゆるめ自然に下腹をふくらませ、短く吸います。 一呼吸15~20秒前後の長く深い呼吸が理想ですが、息が短いときは短いにまかせ、だんだん調えていきます。 呼吸に合わせて下腹がリズムよくゆったりと動いていれば、調息が正しくできています。 丹田に意識を集中していくと、自然に雑念が取り払われ「無我」の状態がやってきます。 調身と調息を正しく行えていれば、調心は自然にできるものです。 ただし、「無我」の状態を坐禅開始から終了までずっと続けることは難しいです。 座禅中に雑念が生じるのは、丹田への集中がおろそかになっているからです。 その場合には「数息観」といって、一呼吸ごとに「ひと~つ、ふた~つ・・・」と頭の中で数えて精神統一します。 道元禅師は「普勧坐禅儀」で「雑念が生じたならば、これではいけないと思い、目を覚ませ」と述べています。 つまり一度姿勢を正し、丹田に意識を集中させるのです。 螢山禅師は、ゆっくり歩いたり、目を洗ったり、工夫するようにと述べています。 坐禅の作法が難しいと思ったら、お寺などで行っている坐禅会に参加して直接指導を受けるのが良いでしょう。 曹洞宗では、家庭の仏壇の本尊として「一仏両祖」の絵像(掛軸)をまつることをすすめています。 これは、釈迦牟尼仏を中心として、向かって右に道元禅師、左に螢山禅師が描かれたものです。 すでに、木像や銅像の釈迦牟尼仏をまつっている場合は、その後ろに掛けます。 一仏両祖は菩提寺を通して求めることができます。 曹洞宗では仏壇の安置する場所については特別な決まりはありません。 一般的にお寺は南向きに建てられている場合が多いので、これにならうのが良いとされますが、特にこだわる必要はありません。 静かで落ち着いた場所、神棚と向かい合わせにならないようにする、毎日手を合わせることを考えた高さなどの点を注意すればよいでしょう。 これを「荘厳」といいます。 伝統的な3段の仏壇では、上段中央に本尊をまつります。 その左右に位牌を安置します。 位牌は、古い位牌を向かって右に、新しいものを左に安置します。 過去帳があれば、中段の中央に置きます。 中段には基本的に供物をそなえます。 供物の基本は仏餉(ぶっしょう・ご飯)と茶湯す。 仏飯器にご飯をよそって中央向かって右に、茶湯器にお茶やお水を入れて左にそなえます。 その両脇に菓子や果物などを高坏にのせてそなえます。 また、命日などには精進料理の霊供膳をそなえます。 下段には、基本の仏具である「三具足」を配置します。 ロウソクを立てる燭台、線香や抹香を焚く香炉、花を立てる華瓶が三具足です。 三具足は香炉を中心に右に燭台、左に華瓶を置きます。 仏壇の前に経机を置き、数珠、経本、リン、線香立てなどを置きます。 そして木魚があれば、経机の右下に置きます。 住まいの事情で仏壇を置くことができない場合は、低い棚の上などに本尊と三具足を置くだけで立派な仏壇といえます。 礼拝は、背筋を伸ばし、あごを引いくことで姿も美しくなり、気持ちが引き締まります。 座って合掌したまま45度の角度で上体を倒します。 これを「座拝」といいます。 正座が基本ですが、イスの場合も同様に行います。 立ったまま合掌礼拝するときは「立拝」といい、合掌したまま45度の角度で上体を倒します。 法要では始めと終わりに、僧侶のリンの音に合わせて全員で3回続けて礼拝します。 これを「普同三拝」といいます。 ダルマとは梵語で仏法を意味し、お釈迦さまが説法することを「転法輪」と呼ぶところから来ています。 数珠の珠の一つひとつが人間の持つ煩悩を表し、108珠が正式で「本連」と呼ばれ、一般の人用として、半分の54珠、その半分の27珠などが普及しています。 長いものは二環にし、短いものはそのまま一環で用います。 基本的な作法は同じです。 男性用、女性用は房の形が異なります。 1回目は「主香」といい、抹香をつまんで額の高さまで上げて押しいただき、故人の冥福を祈って香炉に入れます。 2回目は「従香」といい、主香が消えないよいうに抹香を補う意味なので、額に押しいただかずに香炉に入れます。 また、日常のおつとめでは、線香は1本だけ立てるのが一般的です。 (出典:うちのお寺は真言宗/双葉社) いかがでしょうか。 曹洞宗の一般的な基礎知識です。 同じ「曹洞宗」であっても曹洞宗各派や地方・地域によっては若干違う部分はあると思います。 その場合は、お近くの菩提寺にご確認ください。 <スポンサードリンク>.
次の曹洞宗のでは、一仏両祖の形式で祀ります。 は牟尼仏で、右に高祖承陽大師禅師、左に太祖常済大師瑩山禅師を飾るか、一仏両祖を一本とした、三尊仏の掛け軸を飾ることもあります。 のは、今の仏式葬儀の元になったとも言われています。 曹洞宗の葬儀では、授戒とが中心になります。 仏前に唱えるは、修証義やが中心です。 また、宗派の日本分布図という観点で見ると、曹洞宗は他の方面に比べて東北方面で多く普及している 檀が多い と言われています。 これはかつての、總持寺に次ぐ第三本山ともいわれた東北地方初の曹洞宗である正法寺 創建は貞和4年(1348年) の建立によるもの。 日常を修行とみなす「禅」の考え方が日々規則正しい生活をくりかえしていた農民にはわかりやすく、浸透していったため。 といくつかの諸説があります。 [PR] 「家の解体を考えているのだけど、どこに相談すればいいの?」 「解体業者を選ぶときに気をつけたほうがいいことは?」 「解体業者ってどうやって探せばいいの?」... [PR企画] 一年中お花の絶えない江戸川区の永代供養墓「久遠廟」 妙泉寺 永代供養墓「久遠廟」... 「ずっと家にいて終活が進まない」 「そろそろ納骨したいのに見学ができない」 そんなお悩みを少しでも解決すべく、青山霊廟 東京都港区北青山2-12-9・外苑前徒歩2... 【PR】不安定な世情の中、終末期について意識させられ、ご不安に思われる方も増えてきています。 エンパークでは、こんな世情だからこそ、心配されている方が増えている「葬儀・... [PR] 葬儀を終えて納骨先を探そうと調べてみると、想像以上に選択肢が多くて悩むことも少なくありません。 墓地や霊園だけでなく、屋内の納骨堂や永代供養墓、樹木... あわせて読みたい 2019. 27 2020. 2 2019. 3 2020. 17 2013. 11 2020. せいざん株式会社 大人のためのbetterlifeマガジン• 解体サポート 解体に関する記事の監修者• 株式会社HOWL ライター・ディレクター• 金子智子建築設計室 一級建築士事務所 家の建築・リノベーションの専門家• 敬食ライター ライター・レポーター• クリエイティブ sai 地味に忙しい幸運体質の編集人• 株式会社 FinCube お金に関する記事の監修者 あなたに おすすめ記事 Recommend.
次の日蓮大聖人が「禅天魔」と破折せられた日本禅宗三派(臨済宗・曹洞宗・ 黄檗 おうばく 宗)の一つで、道元(1200~1253年)が坐禅を中心とする禅法を説いたことに始まり、その教えを信ずる教団を曹洞宗といいます。 永平寺は道元(承陽大師)を開山とし、総持寺は嗣法の第四祖の瑩山(常済大師)を開山として、二人を両祖として 崇 あが め、これらを両本山としています。 禅宗の起こりは、インドの菩提達磨が中国で禅を説いたことに始まり、釈尊から直接「悟り」を受け継いだ禅の第一祖を摩訶迦葉とし第二十八祖を達磨としています。 臨済宗は坐禅と禅問答を合わせ用いますが、曹洞宗は坐禅を中心としています。 日本曹洞宗の開祖は道元です。 道元は十四歳で比叡山の僧となり、その後、日本臨済宗の開祖栄西の直弟子である明全の門に入り、明全とともに宋に渡りました。 その後、日本に帰った道元はひたすら坐る「 只 し 管 かん 打 た 坐 ざ 」の禅を行い、永平寺を建て曹洞宗を開きました。 また「 正 しょう 法 ぼう 眼 げん 蔵 ぞう 」九十五巻(曹洞宗で根本の宗典とする)などの著作を残し、建長五年、五十四歳で没しています。 禅を語るには、達磨が唱えたという「 不 ふ 立 りゅう 文 もん 字 じ ・ 教 きょう 外 げ 別 べつ 伝 でん ・ 直 じき 指 し 人 にん 心 しん ・ 見 けん 性 しょう 成 じょう 仏 ぶつ 」の四つの言葉につきるといわれています。 「 不立文字」とは、仏の悟りは言語・文字で表現できるものではなく以心伝心を基とすることであるとします。 「 教外別伝」とは、仏道を伝えるのに、言語や文字による教説を排して直接心から心へと伝えることであるとします。 「 直指人心」とは、教経を用いずに坐禅の修業によって、じかに自分の心をみつめて悟ることとしています。 「 見性成仏」とは自己の本性が仏性そのものであると知り、悟ることとします。 そして、この四つの句は独立した言葉では なく、四つを兼ね備えることが悟りへの道であるとしています。 偽経といわれている大梵天王問仏決疑経の経文を根拠として、仏法の真髄は一切経(教内の法)の外にあり、それは釈迦から迦葉に文字によらず心から心へひそかに伝えられ、その法(教外の法)を伝承しているとし、「経文を用いず」坐禅をすることによって仏法の悟りを得るべきであるとするのが、禅宗の教義の根本なのです。 しかし、一方では、あらゆる経典を禅者の心境を表現するためなどといって用いているのです。 この正伝の仏法は坐禅を要とするものであり、坐禅によって釈尊の悟りが現実に成就できるとし、『普勧坐禅儀』を著して坐禅をすすめ、『弁道話』を作って、仏教は教理の勝劣を云々するものではなく、また教旨の浅深を論ずるべきものでもないと述べ、坐禅本意の行の宗教を主張して、禅宗も含めた既成の諸宗を批判しました。 道元は自ら得たという法が釈尊体験の正法であり、仏教の本源であるとすることから、曹洞宗・禅宗と自称することを嫌い、『正法眼蔵』(仏道の巻)には、道元が先師(如浄)古仏を礼拝して面授されたのは釈迦から正伝された仏法の精髄である。 したがって、仏法の正脈は道元が面授された「正伝の仏法」だけで、それには仏道のあらゆる功徳がもらさず備わっているから、これを仏法中の一分派の禅宗と呼ぶのは誤りであると言っています。 また『正法眼蔵』(仏教の巻)で、宋以来禅宗に使われてきた「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」の標語を、「正伝の仏法」を誤解させるものとして非難し、(仏経の巻)、(如来全身の巻)では、一切の経典を取り入れ、経巻を如来の全身として礼拝すべきといっています。 さらに『正法眼蔵』(見仏の巻)のなかで、『法華経』には釈尊の教えがもっとも正しく説かれているとして、「法華経者、則見釈迦牟尼仏なるべし」といい、(帰依三宝の巻)でも、『法華経』は釈迦の説いた諸経のなかの大王であり、大師である。 これに対して、外の諸経はその臣民・眷属であって、みな方便にすぎないものであるとし、『法華経』と道元の教えとを帰一させようとしています。 このほか、『正法眼蔵』のなかには、じつに数十カ所も『法華経』を引用しています。 しかし、(出家功徳の巻)においては、「仏祖正伝するは出家成仏なり」と説いて、出家の行法こそ釈迦から正伝している大法であって、『法華経』などに説かれている在家成仏も、女人成仏の説も、釈迦正伝の仏法でない、として否定するにいたっています。 このように道元は自己の悟りを「正伝の仏法」と称して、全仏教を統合しょうと試みました。 そして、その源は霊山の「 拈 ねん 華 げ 微 み 笑 しょう 」、釈尊から迦葉が微笑して法を伝えたという伝承にあるとしています。 この「拈華微笑」のことは自宗存立の典拠をなしているので『正法眼蔵』のなかの『嗣書の巻・伝衣の巻・袈裟功徳の巻』などでも提唱しています。 しかし、この古事は後世の偽経とされている『大梵天王問仏決疑経』に出ている説話で、他にまったく見当らないものです。 またインドの二十八祖説も確実な史伝があるわけではなく、後世の作りごとであることは今日一般に認められています。 したがって道元が「正伝の仏法」の典拠として立てた「拈華微笑」の説話によって、自宗の正法たる所似を立証することはできません。 その悟りは釈尊の悟りの一切としますから、道元の言葉が経典より重視されます。 ですから所依の経典を定めていません。 仏教においては、付嘱の任というものがあり、付嘱を受けた範囲においてのみ法を弘通するのです。 迦葉の弘通した法は小乗教です。 すなわち迦葉が付嘱を受けた法は小乗教です。 ならば曹洞宗は小乗教の宗派であって、末法の我々を救済する教えではないのです。 その禅は達磨によってはじめられたもので、迦葉の弘通ではありません。 たしかに迦葉が付嘱を受けているというならば、迦葉は付嘱の任に背く師敵対の人になります。 曹洞宗は「師敵対単伝の法」です。 道元もこの経の説話を『正法眼蔵』の中に引用し自宗のよりどころとしました。 しかしこの経は唐時代の末の 慧炬 えこ が『宝林伝』を著して、その中で述べているのみであり、古来より偽経とされているもので、日蓮大聖人は『蓮盛抄』において と破折されています。 不立文字とは文字を立てないことですから、当然、経典は用いないということです。 これだけでもおかしいとは思いませんか。 文字を立てずといいながら、あるいは教外別伝といいながらも、達磨は第二祖慧可に 楞 りょう 伽 が 経 きょう 第五巻の 疏 しょ を作って渡し、これを依経とするよう伝えています。 これでは自語相違は明白です。 およそ人から人への意志の伝達に、言葉、文字を使わなくて、いったい何をもって伝えるというのでしょうか。 心から心へというのは聞こえはいいのですが、実際問題としては到底できることではありません。 何もないところで我が心を観じてみたところで、理解できるのは我見だけです。 釈尊は自らの悟りを言葉をもって説き、文字に証されて今日に経典として残っているのです。 その経典を無視するのは、仏説に背くことといわざるをえません。 涅槃経の文を引かれて日蓮大聖人は『義浄房御書』に、.
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