うち で 踊 ろう ピアノ。 星野 源 うち で 踊 ろう 歌詞

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ピアノ• すべて• 弾き語り• 2台4手• 教則・音楽理論• 合奏・伴奏• その他• エレクトーン• すべて• アンサンブル• 弾き語り• メロディ• すべて• メロディ• バンド• すべて• バンドスコア• ドラム• ギタースコア• ベース• ギター• すべて• 弾き語り• コード• デュオ• 教則・音楽理論• ギタータブ• ギターリード• ギターアンサンブル• その他• ウクレレ• すべて• 弾き語り• コード譜• アンサンブル• その他• 合唱/ボーカル• すべて• 合唱(児童合唱)• 合唱(女声3部)• 合唱(女声4部)• 合唱(男声合唱)• 合唱(男声4部)• 合唱(同声3部)• 合唱(同声2部)• 合唱(混声3部)• 合唱(混声4部)• 合唱(混声6部)• 合唱(その他)• アカペラ• ゴスペル• 管楽器• すべて• フルート• オーボエ• オーボエ(二重奏)• ファゴット• クラリネット• アルトサックス• テナーサックス• ソプラノサックス• バリトンサックス• ホルンソロ• トランペット• トロンボーン• チューバ• ユーフォニアム• ヴェノーヴァ• アルトヴェノーヴァ• 弦楽器• すべて• バイオリン• チェロ• 弦楽アンサンブル四重奏• コントラバス• その他弦楽器• 吹奏楽• すべて• フルスコア+全パート• フルスコア• パート• ビッグバンド(スコア+パート譜)• ビッグバンド(スコア)• ビッグバンド(パート)• アンサンブル• すべて• フルスコア+全パート• フルスコア• パート• 器楽合奏• オーケストラ• すべて• フルスコア+全パート• フルスコア• パート• その他• その他• すべて• オカリナ• リコーダー• ピアニカ• ハーモニカ• ブルースハープ• 大正琴• ミュージックベル.

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経歴 [ ] 、を有する両親の元、に生まれた。 崇德高校では演劇部に所属。 卒業後はに行き、で俳優養成所に通いながら、大部屋役者としての生活を始める。 後にに入ると言ってに出る。 2月18日に放送されたフジテレビ「」枠の単発ドラマ「」(主演:)に「速瀬守」名義で出演。 端役のを演じた。 2月、高校時代に出会った3歳年上の女性とし、に転居。 そしてこの頃、知人を通じて「津軽恋女」()などで知られる作曲家で音楽プロデューサーの大倉百人(おおくら もんど) に自分の歌が入ったデモテープを渡した。 大倉はその後2 - 3社に契約を持ちかけたが、ちょうどその頃、佐村河内の弟が事故死したことや、大倉自身が佐村河内の「」に気づいたこともあり、契約を詰めることなく、同年夏頃には事務所を辞めさせた。 1988年5月31日の紙面には、佐村河内の「国内では目標にする人はいません。 いまの日本のロックにないパワーを見せたい」という言葉が掲載されている。 、音楽バンド「Kids」のリーダー、「サミー」という名で活動。 ポータートーンを用いたメロディ作りを始める。 、自伝によればこの頃、左耳の聴力を失ったという。 、この年よりNHKで制作が開始された『山河憧憬』シリーズの中の一話「武蔵野」の音楽を担当した。 文春の記事では1993年に担当して1994年に放送となっている。 、が佐村河内のゴーストライターとして曲を作り始める。 新垣は「佐村河内の曲は、ほぼすべて自分が担当したと認識している」と述べている。 出会いは当時、シンセサイザーを使って簡単な作曲をしていた佐村河内が、映画『秋桜』の音楽の仕事を依頼されたことに始まる。 1996年夏、アシスタントを探していた佐村河内は、自身がシンセサイザーで作った「短いテーマ曲」を新垣に渡して、「これをあなたにオーケストラ用の楽曲として仕上げてほしい。 私は楽譜に強くないので」と頼んだ。 佐村河内は「この作品はぼくの名前で発表したい。 君の名前は演奏家としてクレジットするし、将来必ず引き上げるから、しばらく協力してほしい」と言ったという。 この曲は「佐村河内が制作予算を無視して約二百万円もの自腹を切り」、新垣が「大学で集めた学生オーケストラに演奏させて録音」させた。 「一つの作品ができると、それを持って別の映画会社、ゲーム会社、テレビ局等に売り込む。 取ってくる仕事は、確実にレベルアップしたものになって」いったという。 、音楽を担当した NHK『山河憧憬 武蔵野』が放送される。 5月3日、映画『秋桜』公開。 、ゲームソフト『』の交響曲として「CRIME AND PUNISHMENT」発売。 この際のプロフィールには「5歳から作曲を始める」「クラシック、テクノ、民族、宗教音楽など20を超える音楽ジャンルを自在に操る鬼才」などと表記されている。 1月、ゲームソフト『』の音楽「交響組曲ライジング・サン」の担当が決定。 佐村河内は自らが打ち込みで作曲した8曲入りのデモテープを渡し、新垣に200を超える楽器によるオーケストレーションを担当させた。 しかし自伝によれば、この年の2月に「全聾」となり 、医療検査機関からは「による両耳全聾」「両耳欠落」と診断されたという。 同年4月『鬼武者』製作発表。 販売元であるの関係者によると、この日を境に「(佐村河内は)全聾である設定」にした、彼の耳が聞こえていることは、社内では皆が知っている暗黙の了解事項だった、という。 1月、ゲーム『鬼武者』と、「交響組曲ライジング・サン」を含むサウンドトラックが発売され、17日の完成記者会見に臨んだ。 聴覚障害をはじめ、抑鬱神経症、、頭鳴症、耳鳴り発作、重度のなど、自らの障害や持病について公表。 頭鳴症については「常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り止まない」としていた。 長らく聴覚障害を隠していた理由については「耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。 それだけはどうしても避けたかったのです」「『聴覚障害を売り物にした』という誤解も避けられないだろう」 と説明した。 これについて新垣隆は「これからはそういう形(全聾の設定)でと聞いた」と述べ、「私が録音したものを彼が聞き、彼がそれに対してコメントするというシーンは何度もありました」、「耳が聞こえないということを感じたことは一度もありません」と明確に否定している。 9月、アメリカの雑誌『』に「現代のベートーベン(digitalized Beethoven 」と紹介される。 この取材を仲介したのは親交のあったのだという。 、から(第1種2級)の交付を受ける。 秋、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』が完成。 佐村河内は新垣に200万円の報酬を支払う。 しかし、曲が長すぎたために長い間、どこにも発表されなかった。 また、当時は「HIROSHIMA」の副題はなく、この副題は2011年のCD発売の際につけられたものである。 8月、自伝によれば、『交響曲第2番』が完成。 11月、自伝『交響曲第1番』(講談社)が発売。 、広島市の広島厚生年金会館ホールで行われた「G8議長サミット記念コンサート〜ヒロシマのメッセージを世界に〜」にて交響曲第1番の第1楽章と第3楽章がにより世界初演される。 同年、広島市民表彰(市民賞)を受賞(ゴーストライター問題発覚後取り消された)。 講談社の編集者から紹介を受けたTVディレクターのが佐村河内の取材を行い、『』()で紹介する。 、はの選考過程で審査員であるが推すも最終候補とならなかった。 、指揮のにより、交響曲第1番《HIROSHIMA》(広島初演版による改訂版)の第1楽章と第3楽章がで演奏された。 2010年、指揮のにより、交響曲第1番全曲版がで演奏された。 4月11-12日、交響曲第1番全曲の録音をで行う。 曲が複雑なため、録音にあたってはライブ録音ではなくセッション録音を選択。 クラシックでは近年、コストの少ないライブ録音が主となっており、のクラシック録音としてはこの10年かけたことのない金額が必要だったという。 録音初日の2011年4月11日には東日本大震災の最大級の余震()が発生。 7月にCD「交響曲第1番HIROSHIMA」が日本コロムビアより発売。 、栗村実監督の映画『』の音楽を「佐村河内守」名義で担当することが決定。 1月、CD「シャコンヌ〜佐村河内守弦楽作品集」が日本コロムビアより発売。 6月25日、のらが「無伴奏バイオリンのためのシャコンヌ」を演奏する。 2012年11月9日、NHK『情報LIVE ただイマ! 』で、"日本が涙!耳聞こえぬ作曲家・奇跡の旋律"として佐村河内が紹介される。 この番組が反響を呼び、交響曲第1番のCD売上がオリコン週間総合チャートで9位を獲得。 2012年12月12日のNHK『あさイチ』でも再び紹介され、交響曲第1番のCD売上がオリコン週間総合チャート15位を獲得。 、NHKスペシャルの企画として制作した「ピアノのためのレクイエム」を石巻市立湊小学校の体育館で初披露。 この曲は、津波で母を亡くした石巻市の10歳の女の子のためにつくったもので、佐村河内が女の子のお母さんが消えた女川町の浜辺で明け方までの一晩を過ごしたときに「雨あられのように音が降ってきて」できたものだという。 この経緯は後述のNHKスペシャルで放送された。 このとき、佐村河内に「震災」をテーマに作曲させるために、「震災で親を亡くしたピアノを弾ける子」を番組スタッフがわざわざ探し出したという。 この報道に対し、NHKは「佐村河内氏関連番組・調査報告書」 にて、佐村河内が知人を通じて探したものでスタッフは関与していないと明確に否定している。 2013年、佐村河内を特集した『 』が放送される。 2008年以来の仲であるディレクター古賀淳也の企画である。 番組では『』の成功、聴力を失った「苦悩」(のちに詐称問題へ発展 )、前述のの被災者へ向けたピアノ曲「ピアノのためのレクイエム」制作に至る経緯などが紹介された。 この番組が大きな反響を呼び、交響曲第1番のCD売上がオリコン週間総合チャートで2位を獲得。 2013年、『』で佐村河内守特集が放送される。 CDは売上を伸ばし続け、2013年5月時点で10万枚を記録するヒット作となった。 2013年6月5日、2007年に出版された自伝『交響曲第一番』がから文庫化。 「闇の中の小さな光」なる副題が付けられる。 2013年、被災地に捧げた「ピアノ・ソナタ第2番」完成披露発表会がで開催され、出席した。 演奏は佐村河内自身が白羽の矢を立てた新進ピアニスト。 発表会の模様や作曲の経緯について、同じ日のフジテレビ『』 、日本テレビ『』 、NHK『』 でとりあげられた。 2013年から、「交響曲第1番HIROSHIMA」全国ツアーが開始、全国30か所、各地の12のオーケストラが演奏する。 指揮者などを指名していた為 、佐村河内曰く「亡くなった弟にそっくり」 という指揮者・が殆どのコンサートを受け持つこととなった。 からは「ピアノ・ソナタ第1番&第2番」全国ツアーも始まった。 主催は。 2013年、大友直人指揮の東京交響楽団による演奏会で、交響曲第1番に先立ち「弦楽のためのレクイエム・ヒロシマ」(合唱版を編曲したもの)が世界初演された。 2013年10月9日、の季刊誌『BLACKザ・タブー』VOL. 10に「現代日本にベートーベン現る!? 佐村河内守と怪し〜〜〜〜〜い面々!」と、本人の語る経歴を揶揄する記事が掲載される。 2013年10月18日、の月刊誌『』11月号に音楽評論家のによる「『全聾の天才作曲家』佐村河内守は本物か」と疑問を呈する記事 (2014年1月14日に電子書籍化 )が掲載される。 野口は「音楽専門誌に載せようとしたが、レコード会社の広告も載せる都合上、載せづらかったようで断られた。 たまたま『新潮45』の編集者の目に留まった。 でなければお蔵入りだったかもしれない」と語っている。 2013年10月23日、ピアニストのによるCD「佐村河内守:鎮魂のソナタ」が日本コロムビアより発売。 2013年10月25日、NHKスペシャル『魂の旋律 〜音を失った作曲家〜』のディレクター古賀淳也が、番組の内容を『魂の旋律-佐村河内守』(NHK出版)として書籍化。 、『週刊文春』の暴露記事を送られた佐村河内が弁護士を通じて関係各所に謝罪したことから、が発覚。 2014年2月12日、佐村河内による自筆の謝罪文が弁護士を通じて発表される。 2014年3月7日、佐村河内による謝罪の記者会見が行われた。 を参照のこと。 結果的に交響曲第一番HIROSHIMA全国ツアーは14回を残して中止となり、2014年11月までに主催者のにより訴訟を起こされた。 2016年12月15日、大阪地裁は佐村河内に対して5,670万円の損害賠償を支払うように命じた。 2016年10月、楽曲利用料が未払いであるとして、を提訴。 2017年3月にJASRACが784万2844円の著作権料を支払うことで和解した。 2017年、の入場テーマ「Resurrection」を制作(作曲・演奏)する。 同曲は、2018年にから発売されたCD『みちのくプロレス 旗揚げ25周年記念アルバム』に収録されている。 人物 [ ] 外出時に「光を避けるため」としてつばの広いとを着用していた。 に対して否定的ながら、は例外としている。 作曲歴などについてインタビューでは次のように語っていた。 「17歳から真似事のように作り始めて、12曲交響曲がありましたけど、それをなぜ捨てることになったかというと、耳が全く聞こえなくなって、内側からしか音を見出せなくなって、そのとき初めて自分流の、必然的に内側でしか生まれてこない作曲法を見つけたときに、これは自分にとって真実の音だろうと思ったんです。 いままで作ってきたものは作為くさくてしょうがなくなって、それで破棄して、また1番から出直して、これ(『交響曲第1番』)を書き上げたんです」 「の『』とかは結構音楽にしています。 ピアノ曲ですけど。 美術よりは哲学ですね。 とかあたりはかなり自分の中で消化されて音楽になっています」 「人が持っている苦しみというのは、その人にとっては代えるものがないほど苦しいもので、本当はみんな〈闇〉は持っている。 闇に落ちて初めて小さな尊い光に気づくことってあると思います」 — タワーレコード「intoxicate」のインタビュー記事より プロダクションでのプロフィールは次のようになっていた。 「」の項を参照。 4歳で母親からのピアノの英才教育が始まり、10歳でやを弾きこなして「もう教えることはない」と言われた。 以後は作曲家を志望。 中高生時代は楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。 17歳で原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。 高校卒業後は現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学んだ。 ゴーストライター問題 [ ] 新潮45に全聾への疑惑が掲載 [ ] 10月、発行の『』11月号において、「佐村河内は耳が聞こえているのではないか」という疑惑が出た。 として佐村河内作品の作曲を行っていた(にいがき たかし)は、これを機に佐村河内との関係解消を申し入れた。 佐村河内からは「でしお詫びしようと思います」とが来た。 佐村河内はをほのめかしつつ作曲の継続を訴えたが、新垣は最終的に事実を公表することにした。 選手のがの2014年2月13日に行われるショートプログラムで、作曲者が佐村河内名義だった楽曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」を使用することを知り、「このままでは高橋選手までもが佐村河内の嘘を強化する材料になってしまう」と懸念したからである。 週刊文春で作曲者・新垣隆が告白 [ ] 頃、新垣隆が佐村河内との関係を告白した発行の『』の記事が、佐村河内に送られた。 2月6日、「全聾の作曲家佐村河内守はだった! 」という記事を載せた『週刊文春』が発売された。 これに先立ち2月5日、佐村河内は「交響曲第1番《HIROSHIMA》」や「ヴァイオリンのためのソナチネ」などの主要な楽曲が、別の作曲家によって作られたものだと代理人の弁護士を通じて明かした。 佐村河内自身は実際の作曲者が誰なのかを明らかにせず、「(実際に作曲した)人物の側にも作曲者として表に出づらい事情がある」としていた。 しかしこれは虚偽で、翌日会見を開いた新垣は「(そのような事情は)特段ありません」と語った。 佐村河内は2月5日の取材に対し、「ごろ初めて映画音楽の作曲依頼を受けたが、耳の状態が悪くなり、半分以上を別の作曲家に作ってもらったのがきっかけ」と語っていた。 これについても新垣は、「佐村河内は普通に会話ができ、譜面についてはそもそも書けない」と証言する。 新垣隆の記者会見、および佐村河内サイドからの反論 [ ] 午後 、新垣隆(当時桐朋学園大学非常勤講師)は記者会見を開いた。 新垣は佐村河内の代作を18年間行っていたことを明らかにした。 以下はその要旨。 佐村河内の曲は全て自分が担当したと認識している。 他にゴーストライターはいないと思っている。 佐村河内の耳は聞こえており、通常の会話で自分の要求を新垣に伝えていた。 ときには新垣が作曲し録音したものを佐村河内に聴かせ、やり取りをしていた。 杖は使っていないときもあった。 CDの解説にある佐村河内との出会いのエピソードはほとんどが嘘である。 佐村河内のピアノは非常に初歩的なレベル。 楽譜も全く書けない。 佐村河内は図表 や言葉で曲のイメージを伝えてきた。 図表などの指示がない場合もあった。 後にこの図表については、佐村河内の妻の母が「あれは娘の字です」と証言したが、佐村河内は自分の書いたものであると謝罪文の中で強調した。 佐村河内はプロデューサーのような立場だった。 佐村河内のアイディアを新垣が曲にして、佐村河内は自分のキャラクターを作って世に出した。 報酬は18年間で20曲以上作って720万円であった。 「交響曲第1番《HIROSHIMA》」は、最初「現代典礼」というタイトルで作曲者が書いたものを、数年後に佐村河内が「HIROSHIMA」と名づけた。 この少女と新垣は、少女が4歳の時から知り合いだった。 少女が「佐村河内の愛弟子」としてテレビに出たあと、少女の家族は佐村河内から無理難題を言われるようになった。 このことを少女の両親が新垣に相談したことも、新垣が告発するきっかけになった。 少女の父親が託したコメントによると、ここ1年ほど少女の家族は、佐村河内から「絶対服従」を前提とした従いがたい要求を出されるようになっていた。 2013年11月「服従できぬ」と答えたところ激怒され、絶縁状態になった。 上記の新垣による会見の後、佐村河内の代理人は証言を否定した。 「佐村河内が聴覚障害2級のを持っていることを確認した」「新垣の話す内容は唇の動きを見て理解していた」とし、耳が聞こえているという新垣の証言を否定。 佐村河内本人の会見については、「憔悴しきっていて応じられる状態ではない」とした。 2015年6月3日、の反省自伝本であり初著書となる「音楽という<真実>」(小学館)が17日に出版されることが報じられた。 佐村河内が直筆の謝罪文を公表 [ ] 2月12日未明、佐村河内は代理人の弁護士を通じて、マスコミ各社に直筆の謝罪文を送った。 以下はその要旨。 家族、新垣ら関係者やファンに向けての謝罪。 耳が聞こえなくなって手話サークルに参加し、障害者手帳をもらったのは本当。 しかし、3年ほど前から体調によっては周囲の声や音をある程度聴きとれるようになった。 聴覚障害については再判定を受け、場合によっては手帳の返納も考えている。 佐村河内の両親は本当に被爆者であり、を持っている。 作曲の指示書については佐村河内の直筆であり、「娘(佐村河内の妻)の字」は義母の誤解。 代作についてはあくまで新垣との間の秘密で妻にも明かしていなかった。 新垣隆は『週刊文春』の記事中で「もしこのことが明らかになると私たち夫婦は死にます」という趣旨の手紙が「明らかに奥さんの筆跡」で、「奥さんも全てのからくりをわかっていた」と語っている。 妻が望むなら離婚に応じる。 弁護士にも真実を明かせず、決断に時間がかかり、謝罪が遅れた。 近いうちに公の場で謝罪する。 代理人の弁護士は、2月7日に佐村河内から「実は聴力が回復している」と打ち明けられたという。 代理人が医師に見解を求めたところ、「限定的とはいえ、言葉が聞き分けられるまで回復する可能性は低いのではないか。 原因が精神的なショックによるものであれば、そういう可能性もあるかもしれない」との説明を受けた。 、弁護士の折本和司と若松みずきが佐村河内の代理人を辞任したと明かした。 折本らは辞任の理由について、佐村河内や関係者と「今後の方針に関し、意見の違いが生じ」、更に聴覚障害について説明が首尾一貫しない佐村河内に対し不信感を抱き「弁護できないため」としている。 佐村河内による記者会見 [ ] 2014年3月7日、佐村河内がを伴って記者会見を開いた。 その姿は以前の長髪・サングラスの姿から一変していた。 や、かつて取材を受けたが出席していた。 記者会見の要旨• 再検査の結果はではなく中度のであり、(身体障害者福祉法での)「聴覚障害」には該当しなかったため 障害者手帳は返上した。 はもともと受給していない。 以前は確かに耳が聞こえなかったが、3年前から聞こえるようになった。 横浜市も以前の検査に不正はなかったと公表している。 手話通訳はこれまでもこれからも必要。 今回の検査は脳波を測定する科学的なもので、誤魔化すことはできないので検査結果に間違いはない。 サングラスも杖も包帯もポーズではなく本当に必要としているが、この場では怒られると思ったので外してきた。 鞄の中には入っている。 障害は音が歪んで聞こえるというもの。 補聴器は3つ持っているが、あまり役に立たないので使っていない。 障害に悩んで手話や口話を必死で学んだ(記者の求めに応じて手話を披露して見せる場面もあった)。 絶対音感は持っていない。 代作を頼んだ理由はの世界では下火となってしまったへの憧れからであり、それらの復権がやりたいことだった。 「全聾の作曲家」という肩書きへの執着や自己顕示欲はあまりなかった。 新垣隆に仕事を依頼する以前からプロとして作曲をしていた(NHK『山河憧憬』)。 最近の本宮市歌も自分で作曲した。 その他の曲についても、私が指示書を書いているので、新垣が唯一のとは言いきれない。 新垣は、私が最初に報酬の金額を提示すると表情で難色を示して、金額をつりあげるとOKするなど、報酬の交渉も行っていた。 新垣は『新潮45』の記事が出るまで一度も「やめたい」と言ったことはなかった。 新垣とは口の動きを読んで会話(口話)していた。 耳は聞こえていなかった。 作品のテープも聞いてない。 私が電話したなんてありえない。 自分は聞こえないのに、新垣に「一度弾いてみてくれ」と言ったことがあるのは、作品に対する周囲の反応を見たかったからである。 『週刊文春』の記事には虚偽が多く含まれているから、新垣をで訴える予定がある。 妻は何も知らなかった。 指示書が妻の字であると証言した義母も訴えるかもしれない。 妻には離婚を打診したが拒否された。 「世界的に有名になる前だから国内だけのバッシングで済んでよかったね」と慰められた。 取材が殺到して自宅マンションにいられないため、横浜市内のホテルを渡り歩いていた。 髪はホテルの室内で元美容師の妻に切ってもらった。 妻に対しては、新垣は現代音楽()の先生ということにしていた。 作曲の代金の支払いは、教授の代金の支払いと言い訳していた。 少女に対してはバイオリンの練習と一緒に部活動をしたいと言い出したので、「障害がなくても更に頑張っている子がいるのに」と思って無理難題と取れることを言ってしまった。 確定申告(青色申告)の記録を見ればわかるように、黒字になったのは今年(2013年)が初めてで、収入はそれほど多くなかった。 弁護士が辞任した理由は、選手が曲を使用する前に一刻も早く謝罪を行いたいと主張した私と、会見の時期についての意見が合わなかったためであり、それ以外のトラブルはない。 迷惑をかけたみなさまに謝罪したい。 も考えている。 被災者や障害者に対しては本当に力になりたいとの思いもあった。 これが最後のテレビ出演になる。 同日、横浜市が記者会見を開き、佐村河内の聴覚を再検査した結果、(身体障害者福祉法での)聴覚障害には該当しない感音性難聴であったことを明らかにした。 この事実に基づき、横浜市は佐村河内から障害者手帳と重度障害者医療証、福祉特別乗車券の返納を受けた。 また、佐村河内が重度障害者医療証によって市から受けた医療費は、聴力が回復したとされる3年前からの合計で約24万円になるが、返金を求める法律的根拠がないことから、返金要求はしないことになった。 佐村河内の会見に対して、新垣隆は、佐村河内が電話をかけてきたことや、作品の録音を聞いてコメントしたことなど「私が雑誌や会見で述べたことは全て真実」と反論を発表した。 新垣の言を借りるかたちで佐村河内を糾弾する記事を書いてきたジャーナリストの神山典士も『週刊文春』(2014年3月20日号)にて、「新垣から報酬の金額を口にしたことはない」、「佐村河内から新垣に送られたメールには『二人で視聴して』と書かれている」、「佐村河内を載せたタクシーの運転手は『普通に会話していた』と証言した」、「新垣は『新潮45』の記事が出る以前の7月、文庫になった佐村河内の自伝をたまたま読んでその影響力に怖気づき、やめることを提案している」などとして、記者会見には事実と異なる点があるとの見解を示した。 関係者の証言 [ ] この記事の内容の信頼性について。 確認のための文献やをご存じの方はご提示ください。 、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。 以下は、取材などを通じて佐村河内と直接関わった人々や、音楽・メディア関係者の証言である。 新垣隆は、週刊文春の2015年4月2日号で行われた阿川佐和子との対談で、1996年頃に出会った頃は佐村河内は耳が聞こえており普通に会話ができていた、シンセサイザーで作曲することはできていたが譜面は書けなかった、ギャラは安くほぼボランティアと言える状態であった、二人が「深い愛」で結ばれていると言う噂は誤りでありむしろ面倒臭くておっかない人間であるとみている、1999年に「耳が全く聞こえないと言う設定にする」ことになったがこれは新垣が作った曲についてオーケストラの指揮などができないことを隠すためであろう 指揮は新垣が行った 、佐村河内はアマチュアである、2005年に佐村河内が失敗した時は一人で乾杯した、CDが売れるようになるにつれまずいと思うようになった、などと語っている。 佐村河内の妻の母は、『』などの取材に対し、16年間佐村河内夫妻と音信不通であることを明かした上で、交響曲第1番の指示書について「あれは娘の字です」と語った。 また、「佐村河内は高校時代、娘の弟の友人を騙って娘に近づいた」「(佐村河内は1988年ごろ)通勤途中に自分の不注意でジーパンが破れたのに、会社にお金と代わりのジーパンを請求していたみたい。 やはりあの子(佐村河内)はおかしいと思った」「15年前、(自分の)知人から『佐村河内は今、耳が聞こえない』と聞いた時、また嘘をつき人をだまそうとしているんだと直感した」「佐村河内の家にはがなく、曲を作れる子でもなかった」「違う人が作っていると確信していた。 いつかバレると思っていた」と語った。 娘(佐村河内の妻)に対しては「早く離婚して広島に戻ってきてほしい」、ゴーストライターであることを告白した新垣隆に対しては「感謝しています。 勇気のいることだったと思う。 会ってお礼を言いたい」と述べた。 佐村河内の妻は、幼少期からピアノを弾いていたという。 週刊誌『』は、2013年6月にインタビューの掲載を見送った経緯を明らかにした。 インタビュー取材終了後、帰りのタクシーが到着してインターホンが鳴った際に 即座に立ち上がって「来ましたよ」と言うなどの振る舞いがあったため、取材後に複数の関係者に確認したところ作曲能力や聴覚障害への疑念が生じ、掲載を見送ったという。 映画『桜、ふたたびの加奈子』の音楽を佐村河内にオファーした映画監督の栗村実は、佐村河内とは2000年頃に知り合い、14年にわたるつきあいになるが「長年のやりとりの中で、少なくとも、ゴーストライターの事実に気付くことができなかった」と語っている。 また聴力については「補聴器の助けでわずかに聞こえる状態」と認識していた。 新垣隆と親交のある 音楽評論家のは、2008年に、新垣本人から、佐村河内の曲を作曲していると告白された。 鈴木は、交響曲第1番を賞賛していた とも親交があったため、許にも騒動発覚の2年前に伝えたという。 鈴木によれば、「彼は『作品自体を評価すればそれでいいのだから』というスタンスなので、そういった情報に格別に動揺もなかったようでした」 [ ]とのことである。 新垣隆の知り合いであるのは、「私個人の見解」と前置きしたうえで、番組制作スタッフがまったく気づかなかったはずはなく、聴力については「せいぜい難聴程度の症状をオーバーに言って、そういう商売しているんでしょう…ま、芸能界にはあることだから」、作曲についても「どうせ、例によってアシスタントとか使ってやらせてんでしょ」と見切っていた可能性が高いと述べて、この事件を引き起こしたのは、経歴の脚色やゴーストライティングを許容してきた業界の悪習慣ではないかと批判している。 日刊サイゾーによると、佐村河内を番組で取り上げたテレビマンAは、クラブに飲みに行って酔うと「俺がコーディネーターとして仕掛けた」とホステスに自慢していたが、同時に「佐村河内は、実際には耳が聞こえる」とも言っていたらしい。 また騒動発覚後は、周囲に「俺は何も知らなかったことにしてほしい」と口止め工作をしている。 Aが真実を隠していた理由については「『これがもっと当たれば、映像のシリーズ化だけで食っていける』、『ほかにも障害者の音楽家をそろえて、超人オーケストラとかやったらビッグビジネスになる』なんて言っていましたから、金のためだったのでは」と関係者 [ ]が語っている。 影響 [ ] 代作および聴覚障害疑惑が発覚し、以下の各方面に影響が出た。 この問題が発覚したのち、予定されていたコンサートは全て中止 、インタビュー記事を掲載した月刊誌「」2014年3月号が新規出荷を停止 、レコード会社のがの出荷やを停止 、自伝『交響曲第一番 闇の中の小さな光』も絶版(出荷停止。 書店により回収による発売中止、ないしは発売しても現品在庫限り)となる など各方面が対応に追われた。 前述のように髙橋が「ヴァイオリンのためのソナチネ」を使用していた問題では、オリンピック開幕の約1週間前に対応に追われる事態となったが、髙橋サイドは「ショートプログラムの曲は変更せず、そのまま使用する」ことを決断し、オフィシャルサイトを通じて明らかにした。 なお、この件に関してがに対して「ヴァイオリンのためのソナチネ」作曲者の氏名を削除する手続きを取ったことを公表している。 国際スケート連盟は、「(選手使用曲の)作曲者の氏名を明示しなければならないというルールはない」として、「ヴァイオリンのためのソナチネ」をオリンピックにて使用することは問題ないとしている。 同月6日、広島市が2008年に授与した「広島市民賞」を返上する意向が佐村河内の代理人の弁護士を通し伝えられ、同日、賞の取消が決定された。 翌日、が掲示され、表彰状の返還を求める通知文が送付された。 映画『秋桜』の舞台となったでは、映画の音楽を担当した佐村河内に市民の歌「みずいろのまち」(歌詞は市民から一般公募)の作曲を2013年11月に依頼し、2014年1月中旬に作品を受け取った。 東日本大震災3年の追悼式典で発表する予定だったが、この問題により曲を破棄することになった。 作曲の報酬200万円は支払わない方針である。 新たな市民の歌については、すでに決まっていた一般公募の歌詞にあわせて、別の作曲家に新たな曲を依頼することが検討されている。 ただし、この曲について新垣隆は、自分はかかわっていないと明言し、佐村河内は自分が作曲したと記者会見で述べた。 週刊文春によると、佐村河内がメロディを考えて歌をテープに吹き込み、それを佐村河内のファンであった22歳の音大生に譜面に起こさせたものだそうである。 本宮市に提出した曲には、編曲者としてこの音大生の名前がクレジットされていた。 は2月7日までに「佐村河内守」名義でヒットしたCD「交響曲第1番 HIROSHIMA」について、発売元である日本コロムビアからの申し入れを受け、出荷枚数10万枚を超える作品に与えられる「」認定を取り消した。 過去に遡っても殆ど前例が無く、日本コロムビアは「CDを出荷停止していることに加え、社会的影響の大きさを考慮した」と辞退申し入れに至った理由を説明している。 この曲を初演したは、2014年5月に予定されていたでの演奏を中止することを決定し、同楽団の関係者は「もう演奏できない曲になってしまった」と遺憾の意を表明した。 、厚生労働相は、佐村河内が「言葉が聞き取れる時もあった」と公表したことについて、閣議後の記者会見で「障害者手帳の取り消しも含めて対応する」と述べた。 さらに今後、障害年金支給の有無について調査し、条件を満たしていなければ返還を求めるとの見解を示した。 更に田村厚生労働相は2月18日の・にて一連の佐村河内問題を取り上げた()の質問に対して「今回の件を受けて、事実関係の把握を行った上で、聴覚障害認定のあり方に関する見直しを行うことも検討している」と答弁した。 "HIROSHIMA"全国ツアーメイン指揮者の問題行為 [ ] ゴーストライター問題はこれだけに留まらず、週刊文春2014年12月18日号に掲載の記事において、"HIROSHIMA"全国ツアーで指揮者を務めたが、佐村河内を介してサモンプロモーション代表から借金をした のを皮切りに、佐村河内と"HIROSHIMA"の名を利用してまがいの行為を繰り返していたことが報じられた。 金銭を貸与したのは、楽団員、関係者、ファン、有名人多数を含む200人以上で、借金の総額は2億円を超えると報じている。 佐村河内、金の両名により、合計9100万円の損害を被っているは、産経などの報道によると、佐村河内守に対しては大阪地裁にて6100万円の損害賠償の訴訟を起こしている。 一方の金は、所属事務所サモンプロモーションのマネジメント契約を解除された。 騒動の映画化 [ ] 、オウム真理教を扱った映画「」などの作品で知られるの製作により、一連の騒動が映画化されることとなり、2014年11月ごろより撮影中であることが報道された。 森は、今回の作品について、佐村河内や新垣の見方や関係がひっくり返るかもしれないと話した。 その後、による配給により『』の題でから全国公開された。 森達也にとっては4人の監督の共作である『311』を除くと15年ぶりの新作となる。 は、撮影は山崎裕。 2014年9月から2016年1月まで佐村河内の自宅を中心に撮影されたものが使用され、マスコミ試写は連日満席状態であったという。 民事裁判 [ ] 、佐村河内の作品の全国ツアーを企画していた大阪市内の音楽会社がツアーの中止による6130万円を求めた裁判で、大阪地方裁判所は佐村河内に5670万円の支払いを命じた。 一方で、佐村河内が過去の公演での楽曲使用料の支払いを同社に求めた訴えを認め、同社に410万円の支払いを命じた。 「佐村河内守」名義の作品 [ ] 佐村河内のゴーストライターであった新垣隆は、1996年頃から佐村河内の代作を始め、「佐村河内の曲はほぼ全て自分が担当したと認識している」と述べている。 には佐村河内名義の曲が103件登録されていた が、2月5日、JASRACは「権利の帰属が明確になるまで作品の利用許諾を保留」したため、これが解決するまでJASRAC管理作品については演奏や放送ができなくなった。 JASRACはその後、2014年12月31日付で佐村河内との著作権信託契約を解除している。 JASRACに登録されていた103曲のうち、80件ほどはゲーム音楽2作品の各シーンを細分化したものであった。 他に、ピアノソナタ第2番などJASRAC未登録の近作も数曲あった。 [ — ] [ ]。 自伝の巻末一覧に挙げてある以下の旧作のうち、交響曲第2番など、JASRACに登録されていない曲については、現存するか否か不明である。 鬼武者《交響組曲ライジング・サン》献呈=• 中村鶴城・琵琶リサイタル委託作《詩曲 天の川 琵琶歌と十七弦箏のための》(10分)• と管弦楽による《劇音楽のための主題曲と変奏曲》(17分)• 《子供のためのピアノ小品》(25分)献呈=某障害児施設• 《》(74分)献呈= しおり• ピアノ幻想曲《ジ・エターナル》(27分)• 《ピアノ・ソナタ第1番》(36分)献呈= 持田正樹• オルガン組曲《アシュリー》(14分)献呈=• 和楽と管弦楽のための《死霊I - IX》(全270分)• 《交響曲第2番》(110分)• ピアノのための《死霊・第1章》(13分)• 《無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ 》• 《弦楽四重奏第1番》(32分)• 《弦楽四重奏第2番》• 『五木寛之 21世紀・仏教への旅』献呈=• 二管編成の音楽《ヒロシマ》(22分)献呈=原爆被爆者• 《交響曲第3番》当時制作中• 《CRASH MIND TOWER》• 『』 - (、監督:)• 『六悪党』 - (、監督:、CSテレビ放送のショートフィルム)• 『』 - (4月、監督:栗村実) ゲーム音楽 [ ]• 『』 (バイオハザードシンフォニーOp. 91「CRIME AND PUNISHMENT」、)• 『』(交響組曲「RISING-SUN」、) テレビ音楽 [ ]• NHK『山河憧憬』(チベットゴングと尺八のための幻想組曲Op. 75)• 中国2001年のテレビドラマ『』 (原題:呂布与貂蝉 テーマソング。 監督は、役は(ホアン・レイ)、役は(チェン・ホン) 吹奏楽 [ ]• 《吹奏楽のための小品》(7分)献呈=と、平成20年度佳作• 祈り(委嘱作品・約8分・2012年12月1日、同団第113回定期演奏会にて初演) ディスコグラフィー [ ] CD [ ]• 『バイオハザード・シンフォニー』(セルピュータ、1998年8月21日発売)• 『交響詩「ローマの祭」』(「吹奏楽のための小品」を収録)(指揮:小澤俊朗、演奏:神奈川大学吹奏楽部)(CAFUAレコード、2007年5月23日発売)• 『饗宴XI』(「吹奏楽のための小品」を収録)(指揮:小澤俊朗他、演奏:神奈川大学吹奏楽部他)(ブレーン、2008年5月20日発売)• 『交響曲第1番《HIROSHIMA》』(指揮:大友直人、演奏:東京交響楽団)(日本コロムビア、2011年7月20日発売)• 『シャコンヌ〜佐村河内守 弦楽作品集』(演奏:大谷康子、藤井一興、大谷康子弦楽四重奏団)(日本コロムビア、2012年1月18日発売)• 『「火の鳥」 ・ライヴ』(「祈り」を収録)(指揮:、演奏:)(日本コロムビア、2013年5月22日発売)• 『鎮魂のソナタ』(演奏:ソン・ヨルム)(日本コロムビア、2013年10月23日発売)• 『氷上のクラシック』(「ヴァイオリンのためのソナチネ」を収録)(演奏:大谷康子、藤井一興)(日本コロムビア、2013年10月23日発売) DVD [ ]• 『交響曲第一番』講談社、2007年10月31日。 『交響曲第一番』オフィス・コア、2008年3月。 - を底本とした、朗読• 『交響曲第一番 闇の中の小さな光』幻冬舎〈幻冬舎文庫 さ-35-1〉、2013年6月3日。 - の再刊。 2014年3月20日、講談社は、自伝『交響曲第一番』に書かれている佐村河内の音楽修業経歴は虚偽であったと発表した。 また、音楽修業以外の経歴は事実であり、本についてはゴーストライターを使っていないとのことである。 『REQUIEM"HIROSHIMA" 4声ポリフォニー合唱曲』佐村河内守 作曲、 英訳、全音楽譜出版社、2013年10月。 メディア出演 [ ]• 『』「音をなくした作曲家その闇と旋律」(2008年9月15日、)• 「」(2009年8月8日、、55分)• 『』「の人間一滴」(2010年8月11日、)• 『』「週刊 人物大辞典」(2012年11月23日、テレビ朝日)• 「音を失った作曲家 佐村河内 守」(2013年5月1日)• 他、2013年12月27日• 『』「」 2013年3月31日、NHK総合、49分• 『』「コレぐぅ〜Buzz王」(2013年4月11日、フジテレビ)• 『』「金スマ波瀾万丈 佐村河内守〜全ろうの孤高の作曲家が紡ぐ闇の音。 〜」(2013年4月26日、TBS)• 『』「トレすぽ 」(2013年6月13日、フジテレビ)• 『』「ニュース」(2013年6月13日、)• 『』「ニュース」(2013年6月13日、NHK総合) NHKスペシャル 魂の旋律 〜音を失った作曲家〜 [ ] 詳細は「」を参照• 2013年3月31日、による放送が、ブームの火付け役となった。 企画は2012年頃、フリーのテレビディレクターによりNHKへ持ち込まれた。 2014年2月2日、との「」の記事情報が寄せられ、NHKが4日に本人に確認したところ、事実を認めたため、NHKは2月5日の番組中で「取材や制作の過程で、本人が作曲していないことに気づくことができませんでした」と謝罪した。 これに伴い、での配信も停止された。 2014年2月13日、の会長が、で定例を行い、両耳の聞こえない作曲家として佐村河内を取り上げた昨年3月放送のNHKスペシャルについて「結果としてだまされた。 真実と違う放送になったことはおわびするしかない」と謝罪した。 同局は同番組について現在も調査中とし、籾井会長は「現場ともよく相談して検討していきたい」と検証番組を放送する可能性に言及した。 2014年3月16日、NHKは「佐村河内氏関連番組・調査報告書」 を作成し、なぜ見抜けなかったかを検証した。 結論としては、佐村河内の虚偽に気づいたスタッフは一人もいなかったという。 とある職員ディレクターは、新幹線での移動中に佐村河内と手話通訳を介して会話をするなかで「トンネルに入り、ゴーッという音で声が聞き取りにくくなったが、それでも佐村河内氏は同じ声の大きさで話し続けていた」ために、本当に耳が聞こえないのだと感じたと証言している。 ドキュメンタリー映画「FAKE」 [ ] 詳細は「」を参照• 2016年公開のドキュメント映画。 騒動後、沈黙を守った佐村河内の素顔をとらえるとともに、彼を取材しようとする、国内外のたちの姿も映した。 出演 佐村河内守 スタッフ 監督: プロデューサー: 撮影:森達也・ 編集: 参考文献 [ ]• 、『週刊文春』取材班「」『週刊文春』第56巻第6号、文藝春秋、2014年2月13日、 24-31頁。 神山典士、『週刊文春』取材班『』文藝春秋〈文春e-Books〉、2014年2月13日、Kindle版。 神山典士、『週刊文春』取材班「」『週刊文春』第56巻第7号、文藝春秋、2014年2月20日、 22-27頁。 神山典士、『週刊文春』取材班『』文藝春秋〈文春e-Books〉、2014年2月20日、Kindle版。 神山典士、『週刊文春』取材班「」『週刊文春』第56巻第8号、文藝春秋、2014年2月27日、 24-29頁。 神山典士、『週刊文春』取材班『』文藝春秋〈文春e-Books〉、2014年2月27日、Kindle版。 新垣隆「」『週刊文春』第56巻第9号、文藝春秋、2014年3月6日、 28-31頁。 神山典士、『週刊文春』取材班「」『週刊文春』第56巻第10号、文藝春秋、2014年3月13日、 36-38頁。 神山典士、『週刊文春』取材班「」『週刊文春』第56巻第11号、文藝春秋、2014年3月20日、 22-27頁。 神山典士、『週刊文春』取材班『』文藝春秋〈文春e-Books〉、2014年3月20日、Kindle版。 神山典士、『週刊文春』取材班「」『週刊文春』第56巻第12号、文藝春秋、2014年3月27日、 165-167頁。 神山典士『』文藝春秋、2014年12月。 「佐村河内守と麻原彰晃」『新潮45』第33巻第3号、新潮社、2014年3月、 46-51頁。 「そら見たことか! 佐村河内守はやっぱりインチキだった」『新潮45』第33巻第3号、新潮社、2014年3月、 52-54頁。 「「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か」『新潮45』第32巻第11号、新潮社、2013年11月、 218-224頁。 野口剛夫『』新潮社〈新潮45eBooklet〉、2014年1月14日、Kindle版。 関連文献 [ ]• 佐村河内守「〈インタビュー〉(株)カプコンの新作ゲームソフト「鬼武者(仮)」における交響組曲「RISING-SUN」のxrcdマスタリングについて」『放送技術』第52巻第8号(通号 627)、兼六館出版、1999年8月、 976-980頁、。 「」『月刊致知』2008年11月号、致知出版社、2008年10月。 林田直樹「」『intoxicate』第93号、タワーレコード株式会社、2011年8月20日。 佐村河内守「インタヴュー 佐村河内守(作曲)」『レコード芸術』第60巻第11号(通号 734)、音楽之友社、2011年11月、 79-82頁、。 佐村河内守「独占インタビュー 聴力を失った孤高の作曲家 佐村河内守 「運命」「絶望」そして「祈り」の鐘が鳴る」『サンデー毎日』第92巻第27号、毎日新聞社、2013年7月7日、 159-161頁、。 佐村河内守「インタビュー 聴力を失った「現代のベートーヴェン」 轟音の耳鳴りのなか、真実の音をみつけだす」『婦人公論』第98巻第26号、中央公論新社、2013年12月7日、 52-55頁。 『』NHK出版、2013年10月29日。 神山典士『』平凡社、2015年4月。 関連項目 [ ]• - 佐村河内守をテレビメディアに紹介したフリーランスのテレビディレクター。 佐村河内の家に泊まって取材するなど親交は深かったという。 - 佐村河内守の代作をしていた作曲家。。 - 『週刊文春』にの暴露記事を執筆したノンフィクション作家。 義手のヴァイオリニスト大久保美来(みっくん)の本も書いていて、その縁で新垣隆と知り合った。 - に関する後任の弁護士事務所代表• - 「交響曲第1番《HIROSHIMA》」を芥川作曲賞に推薦。 自身のブログでも当該曲を佐村河内の自伝と共に紹介するなど、(当時)佐村河内名義であった音楽を高く評価していた。 - 交響曲第1番《HIROSHIMA》のCD盤の指揮者。 NHKでも演奏会の模様が放送された。 - 交響曲第1番《HIROSHIMA》のCD盤のプロデューサー。 版元であるの社員であり、佐村河内守の担当者。 - 佐村河内守をレコード会社(日本コロムビア)に紹介した作曲家。 推薦の言葉を書くなど紹介につとめたが、佐村河内との面識はない。 - 「祈り」の作曲を委嘱し演奏。 CD化もされた。 - 下記のアーティストらと共に佐村河内守の全国ツアーを企画した音楽事務所。 - 交響曲第1番《HIROSHIMA》全国ツアー22回のうち18回の指揮担当の指揮者。 吹奏楽曲「祈り」も指揮した。 - ピアノソナタ第1番・第2番の全国ツアーのピアニスト。 『』 - 連載ののノンフィクションコミック。 さまざまな難聴者の世界を取材するうちに、佐村河内と取材がかなうこととなるが…。 脚注 [ ] []• HMV ONLINE. 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星野 源 うち で 踊 ろう 歌詞

うち で 踊 ろう ピアノ

概説 [ ] の裕福な家庭に生まれ、の法科に進むも、をめざして(1785年 - 1873年)に師事する。 しかし、指の故障によりピアニストを断念、作曲家となる。 ヴィークの娘でピアニストの(1819年 - 1896年)との恋愛と結婚はシューマンの創作活動に多大な影響を及ぼした。 への造詣も深く、1834年に「」の創刊に携わり、以後10年間にわたって活動を行う。 このころからの症状に悩まされるようになる。 1844年にからへ、1850年にへと移住してとしても活動する。 この間、子供向けのピアノ曲を作曲するなど教育分野での貢献も残した。 1853年に(1833年 - 1897年)と出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介するが、翌1854年にに投身自殺を図る。 救助されたシューマンは近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去した。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] 幼年時代(1810年-1820年) [ ] シューマンの生家(、現シューマン博物館) シューマンの両親はもともと南の地方の出身であり 、 シューマンの父方の祖父フリードリヒ・ゴットロープ・シューマンは、の南、近くのエントシュッツ地区のだった。 シューマンの父アウグストは、文学者を志しに学んだ。 1795年に の外科医の娘ヨハンナ・シュナーベルと結婚 、1799年にで書店を開業し、1807年にツヴィッカウに移った。 ツヴィッカウでは書店に併せて出版社を設立し、やの翻訳全集などを出版した。 アウグスト自身ものやを題材にした物語を書き、商業的な論文や雑誌の編集もこなした。 事業に成功したアウグストは土地の名士となっていた。 シューマンの母ヨハンナも短いを書いたり、で軽い旋律を弾いたりした。 シューマンの四女オイゲーニエによれば、ヨハンナは歌を歌い、アウグストはのをヨハンナに覚えさせたという。 シューマンの友人でヴァイオリニストの(, 1822年 - 1896年)が1858年に出版したシューマンの最初の伝記によれば、ヨハンナは魅力的で知的だったが広い教養はなく、視野が狭かったとされる。 その他の伝記では、現実的な性格として描かれている。 (1794年 - 1870年) 両親はシューマンのために住み込みの家庭教師を雇い、シューマンは6歳から4年間、私立の小学校で学んだ。 シューマンは7歳のときに父アウグストに連れられてに行き、指揮によるのを聴いて感動している。 シューマンはこのころからピアノで小さな舞曲を作曲し、周囲の注目を集めるようになった。 さらに1819年夏、9歳のときに父同伴でのに出かけ、(1794年-1870年)のピアノ・リサイタルを聴いて圧倒的な感銘を受けた。 この体験は、シューマンがピアニストを目指すきっかけとなった。 また、この年にはで初めての、モーツァルトの『』に接した。 これにもシューマンは強烈な刺激を覚え、モーツァルトのオペラからの抜粋をピアノ用に編曲している。 ギムナジウム時代(1820年-1828年) [ ] シューマンの生家にある音楽室(現シューマン博物館) 1820年、シューマンは10歳でのに入学した。 シューマンにを手ほどきしたのは、聖マリア教会のオルガニストを勤めていたヨハン・ゴットフリート・クンチュ(1775年 - 1855年)である。 クンチュは高度な音楽知識や技能は持っていなかったが、シューマンの音楽に対する情熱を育てた。 シューマンは後に、クンチュについて「(クンチュ)先生は私の音楽的才能を認め、いずれは私の天性がおもむくことになった音楽の道を示唆して下さった唯一の方です」と述べている。 クンチュの指導の下、シューマンは友人で同じくクンチュの弟子だったフリードリヒ・ピルツィングとともにや、らのをピアノ連弾用に編曲して練習した。 父アウグストはシューマンの音楽的才能を認めて高価なのピアノを買い与え 、シューマンはピアノを何時間も即興的に弾いた。 シューマンはギムナジウムで開かれた校内演奏会に出演し、難曲として知られるの『アレクサンダー変奏曲』を弾いた。 また、や合唱を組織して詩や音楽の発表会などを主催した。 両親は、シューマンが友人たちと編成した小さなオーケストラのために、総譜や譜面台など必要な用具のすべてを寄贈するなど、シューマンの活動を支援した。 こうしたもとでシューマンはを始め、1821年、11歳のときに合唱と管弦楽のための『詩篇第150番』を作曲したのをはじめ、ピアノで即興的にやを作っては家族に聴かせるようになった。 しかし、この時代の作品はほとんど失われている。 父アウグストはシューマンが音楽的才能を発揮することを喜び、シューマンが15歳のときにに手紙を書き、息子を弟子にしてもらえないかと頼んだ。 しかし返事はなく、ウェーバーは翌1826年6月に死去する。 その2ヶ月後の8月にはアウグストも世を去った。 父の死の数週間前には、姉のエミーリエが29歳で入水自殺していた。 ギムナジウム在学中、シューマンはツヴィッカウで父アウグストと親交のあった郵便局長ヨハン・ゲオルク・シュレーゲルや製造業者カール・エルトマン・カールス(1780年 - 1842年)などの私邸で開かれる音楽会やに迎えられた。 カールス家でしばしば開かれた室内楽音楽会では、1827年にカールスの甥で の医師エルンスト・カールスとその妻アグネス(1802年 - 1839年)と知り合う。 8歳年上のアグネスは容姿端麗な歌手で、シューマンはののピアノ伴奏を引き受けるなどするうちに彼女に魅せられ、夏休みの間、アグネスについてコルディッツまで行き、そこでまた音楽をともにするほどであった。 シューマンはこの時期、アグネス以外にもナンニ・ペッチュ、リディ・ヘンペルという二人の少女と交際しており、ほとんど同時進行で恋愛を楽しんでいた。 またシューマンは、このころからやを嗜むようになった。 (1763年 - 1825年) 一方、シューマンはにも情熱を燃やした。 シューマンは早くから父アウグストの編集を手伝いながら古今の文学書に親しみ、やを書くようになった。 13歳のときには父が刊行する雑誌に短文を寄稿し、1828年にはシューマンの詩がの夕刊紙に掲載された。 ギムナジウムでは15歳で「」サークルに入り、リーダー的存在となる。 このサークルを通じてシューマンは、、、、らの作品に親しみ、とくにシラーとゲーテは彼にとって偶像的存在となった。 とりわけシューマンに大きな影響を与えたのは、ドイツ・の作家(1763年 - 1825年)である。 ジャン・パウルの空想に満ちた文学的スタイルにシューマンが魅了されたのは1827年ごろで、父アウグストもジャン・パウルを愛読していた。 『巨人』、『生意気ざかり』、『見えない少舎』、『宵の明星』などのジャン・パウル作品をシューマンは精読し、傾倒のあまり、自分より傾倒の度合いの少ないものを敵対者と見なしかねないほどだった。 また、、、、、、などのや、などの外国作品にも接しており、後にシューマンが音楽評論で見せることになる対話体の手法は、プラトンによるところが大きいとされる。 大学時代(1828年 - 1830年) [ ] 「学校はいまや背後となり、眼前には世間が広がっている。 これで学生生活も終わりだと思うと涙を禁じ得ない。 とはいえ、悲しみよりも喜びの方が大きい。 今こそ、真実の魂が前へ進み出て、その何たるかを世に示す時である」 — 1828年3月18日付、友人フレクシヒに宛てたシューマンの手紙 シューマンは法科に進学した。 これは、シューマンの母ヨハンナの意向および父アウグストの遺産を管理しシューマンの後見人を務めたゴットロープ・ルーデル(1776年 - 1859年)の勧めに従ったものだった。 同じライプツィヒ大学の神学科に進んでいたフレクシヒおよび法科のモーリッツ・ゼンメル(1807年 - 1874年)と同居生活を送ることになったシューマンは、ゼンメルの紹介でギスベルト・ローゼン(1808年 - 1876年)と知り合う。 ローゼンはに転校することになっていたが、の崇拝者であり、シューマンとたちまち意気投合した。 4月、シューマンはローゼンをツヴィッカウに招き、5月の新学期を前に二人でへの旅に出た。 、、、、を訪れ、バイロイトではジャン・パウルの未亡人ロルヴェンツェルからジャン・パウルの肖像画を譲り受けた。 ミュンヘンでは詩人の(1797年 - 1856年)に会っている。 ハイネの印象について、シューマンは「ハイネは、人情味のあるギリシャののように、ぼくを親しげに迎えてくれ、友情を込めて僕の手をしっかりと握ってくれました。 (中略)ただ彼の口元には、辛辣で皮肉な微笑がありましたが」と書いている。 5月から学生生活が始まり、の勉強に取り組もうとしたシューマンだったが、大学の講義への出席率は次第に低下していった。 シューマンは母親への手紙に、冷徹な法学を好きになれないと書き送っている。 ライプツィヒの周辺には故郷のツヴィッカウのように森や野の自然がなかったことも失望につながった。 シューマンはピアノを入手し、学生仲間の中から奏者を見つけての演奏に熱中するようになった。 このころ彼らが好んで取り組んだのはのだった。 また、1827年に死去したを記念して、がベートーヴェンの全曲演奏会を催し、シューマンはこれを聞いて強い印象を受けた。 の礼拝ではのなどを聞いた。 このころの習作として、や連弾のための8つの、ハ短調のなどが試みられている。 とくにピアノ四重奏曲は交響曲へ改作しようとした形跡も見られる。 (1830年) ツヴィッカウで交流のあったアグネス・カールスの夫エルンストが1828年からライプツィヒ大学の医学教授となったことにより、シューマンはライプツィヒでカールス家と再会する。 カールス家で催された音楽会で、シューマンはピアノ教師の(1785年 - 1873年)とその娘の(1819年 - 1896年)、の(1795年 - 1861年)、楽譜出版商ホフマイスター(, 1782年 - 1864年)らと出会った。 ヴィークのピアノ授業料は高く、その指導は厳格な上に過酷、残忍とまでの評判を取っていたが、シューマンは母親に手紙を書いて許可をもらい、ヴィークにレッスンを申し込んで承諾された。 娘のクララは当時9歳で、シューマンの前でのピアノ三重奏曲のピアノを担当し、シューマンによると「驚くほど巧みに」演奏した。 クララはこの年の10月20日にエルネスティーネ・ペルトハーラーの演奏会に賛助出演して音楽界デビューを果たす。 こうしてシューマンは1828年の夏ごろからヴィークにピアノを師事し、クララとも親しくなった。 同じころ、シューマンはカールスの友人での楽長ゴットロープ・ヴィーデバイン(1779年 - 1854年)に自作の曲を送り、助言を頼んだ。 ヴィーデバインからは、シューマンには天性多くのものがあるが、専門技術と音楽的要素の用い方がいまだ不十分との返事が来た。 シューマンは1828年8月5日付のヴィーデバインに宛てた手紙に、「いまや作曲法の研究に取りかかるべきときと存じます。 友人ローゼンからの手紙を読んだシューマンはへの転校を思い立ち、後見人のルーデルに相談して賛同を得た。 当時ハイデルベルク大学には(1772年 - 1840年)やミッテルマイアー(, 1787年 - 1867年)ら高名な法科教授がおり 、彼らの講義を聴くというのがシューマンの転校理由だった。 しかし、実際のところシューマンは早朝からピアノに向かっており、頭の中に法律はすでになかった。 また、ティボー教授が音楽サークルを指導しており、『音楽芸術の純粋性について』という著書もあることへの期待もあった。 友人のゼンメルはシューマンに法律か音楽かどちらかを選ぶよう忠告したが、シューマンはこのときは決定できなかった。 「老いて堂々とした父なるラインの初めて見せる光景を、冷静な心全体で受け止めることができるように、ぼくは目を閉じました。 それから目を開いてみますと、ライン川はぼくの前に古いドイツの神のようにゆったりと、音も立てず、厳粛に、誇らしげに横たわり、それとともに、山や、谷のすべてがぶどうの楽園である、花が咲き緑なすのすばらしい全景が広がっていたのです」 — 1829年5月、母ヨハンナに宛てたシューマンの手紙 この旅行では、当時ベストセラー作家だったヴィリバルト・アレクシス(本名ゲオルク・ヴィルヘルム・ヘーリング、1798年 - 1871年)と意気投合し、コブレンツまで同行した。 フランクフルトでは、ベートーヴェンの弟子だった(1784年 - 1838年)に会い、イギリス人のリース夫人に魅せられている。 同年の夏から秋にかけて、シューマンは再び旅行に出かけ、と北を訪れた。 ・ではのオペラを聴いた。 旅行中、シューマンは持ち金を使い果たし、旅先から後見人に送金を催促する手紙を頻繁に出し、ミラノでは借金をしている。 の法科教授、(1772年 - 1840年) ハイデルベルク大学のティボー教授は法律学の権威であるとともに熱心なアマチュア音楽家だった。 彼は合唱団「ジングフェライン」を組織し、自宅では毎週木曜日の夕方に音楽会が開かれていた。 ティボーは自らピアノを弾いてのを演奏した。 シューマンの手紙によるとティボーは、神はシューマンに法律家としての運命を与えていないという見解を示し、シューマンは自分の時間をほとんど音楽に充てるようになった。 シューマンのピアニストとしての評判はハイデルベルクの外にまでおよび、妃(1789年 - 1860年)に招かれてで演奏するほどだった。 こうした時期に、作品1の『』が完成している。 ハイデルベルクでシューマンはシャンパンや葉巻きたばこを楽しむだけでなく、やを飲み歩き、やの大会などにも顔を出して地元の娘たちからも好かれた。 彼は手紙で「ハイデルベルクの人気者」になったと自慢している。 同時に浪費癖が目立つようになり、家族や後見人、友人にも金を無心する手紙を書いている。 「僕の今までの人生は、詩と散文との間であがいてきた苦しみの20年間でした。 (中略)僕はいま、人生の岐路に立ち、どの道を選ぶべきかという問題に直面して、怯えています。 そして、僕の芸術に向かおうとする資質が正しい道なのではないかと考えてしまうのです」 — 1830年7月30日付、母ヨハンナに宛てたシューマンの手紙 父アウグストとは異なり、母ヨハンナにとって音楽は「にならない芸術」であり、息子が法律の道に進むことが彼女の希望だった。 シューマンの手紙にはの指導を受ける旨が書かれていたため、ヨハンナは彼に意見を求めた。 ヴィークはシューマンを弟子として引き受けると回答し、それだけでなく、3年以内にシューマンをや以上のピアニストに育てると約束した。 これにより、ヨハンナはシューマンの意向をひとまず受け入れた。 ただしヨハンナの承諾は、シューマンをヴィークの弟子として6ヶ月間仮採用することが条件だった。 半年後にヴィークは、シューマンの才能と素質は彼が音楽家になるべきことを完全に証明するものであり、無理やり法律家にするのは愚かだと再回答した。 ヨハンナはついに納得して、シューマンが音楽家になることを認めた シューマンは1830年9月24日にハイデルベルクを発ち、10月にライプツィヒに戻った。 シューマン20歳のときである。 ライプツィヒ時代(1830年 - 1844年) [ ] 指の故障によりピアニストを断念 [ ] 20歳のころのシューマン(1830年) 1830年10月にライプツィヒに戻ったシューマンは、の家に住み込みでレッスンを受けた。 また、ヴィークの紹介によりの指揮者ハインリヒ・ドルン(1804年 - 1892年)にもを学ぶ。 しかし、気難しく厳格なヴィークに対して次第に不満を募らせたシューマンは、翌1831年8月に当時名ピアニストとして名声を博していた(1778年 - 1837年)に宛てて手紙を書いてヴィークへの不満を打ち明け、レッスンを受けたいと頼んでいる。 シューマンはこのことをヴィークにも話し、激しい叱責を受けた。 1831年10月にヴィークがクララを連れて演奏旅行に出かけると、シューマンはヴィークの家を出た。 その後もヴィークとのレッスンは続けられたものの、シューマンは再びパーティや社交活動に精を出すようになる。 シューマンは自分の下宿やなど街のコーヒー・ハウスで芸術好きな仲間たちと夜遅くまで音楽論議を交わした。 この集まりは、後の「ダヴィッド同盟」の出発点となった。 このころの作品に、『』(作品2)がある。 1831年、シューマンは「自伝的覚え書き」に「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と述べており、この時期に右手を故障したものと見られる。 故障の原因として、シューマンが独自に工夫した機械装置によってピアノを練習したことが挙げられているが、で述べる。 同じころ、シューマンは目の病気に罹り、失明する恐怖にも襲われている。 思い悩んだシューマンは、一時はに転向することや音楽をあきらめての道に進むことも考えたが、1832年5月にで身を立てる意志を固めた。 いったんピアノを離れての作曲を試みたシューマンだったが、『』は未完に終わり、再びピアノ曲に専心するようになる。 「新音楽時報」の創刊と「ダヴィッド同盟」 [ ] 「」の表紙(1834年) シューマンは1832年、の「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」として(1809年 - 1849年)を紹介する論文を投稿していたが 、で流布している音楽批評の水準に不満を感じていた。 「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノル(1807年 - 1861年)であり、シューマンは編集の手伝いをしていたが、まもなく仕事のすべてを引き受けることになった。 シューマンは「新音楽時報」の中で、「新しい詩的な時代」を準備するために低俗なと戦う「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、「フロレスタン」や「オイゼビウス」といったペンネームにより自身の分身を登場させた。 (詳しくは、を参照のこと。 ) ヘンリエッテ・フォイクト(1808年 - 1839年) 1833年秋に兄ユリウスと兄嫁ロザーリエが相次いで死去したことにより、シューマンは孤独と恐怖感に苛まれた。 この年の日記に、シューマンは次のように書いている。 「これより僕の生涯に、大きい断面。 10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。 気が狂うという固定観念が僕をとりこにした」。 しかし、友人の(, 1810年 - 1834年)や芸術家のだった商人カール・フォイクト(1805年 - 1881年)とその妻ヘンリエッテ(, 1808年 - 1839年)らとの親しい交際が慰めとなった。 シューマンの友人たちの中でも、同じ下宿に住んでいたピアニストのシュンケとはとくに固い友情で結ばれていた。 シューマンはシュンケに「」とあだ名を付け、作品7の『』を彼に献呈している。 二人の友情はシュンケが1834年末にで死去するまで続いた。 また、シューマンはヘンリエッテに心惹かれており、彼女を「の魂」と呼び、を彼女に捧げている。 エルネスティーネとの交際 [ ] エルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816年 - 1844年) 1834年4月、当時18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816年 - 1844年)がの新しい弟子としてヴィーク家に住み込んだ。 シューマンはエルネスティーネと恋愛関係となり、半年経たないうちに彼女と婚約するが、その後数週間のうちに双方の合意によって婚約は解消された。 エルネスティーネはフォン・フリッケン男爵とツェトヴィッツ伯爵夫人との間の私生児であり、の、評論家のによれば、彼女はこうした複雑な家庭事情についてシューマンに率直に語らず、このことを知ったシューマンが傷ついたとしている。 二人の恋愛から生まれたのが、『』(作品9)と『』(作品13)である。 『謝肉祭』の中で、シューマンはエルネスティーネの出身地であるアッシュ ASCH の文字に基づく音型をちりばめている。 また『交響的練習曲』は、エルネスティーネの父フォン・フリッケン男爵が作曲した主題に基づくである。 1835年からシューマンととの恋愛が始まると、エルネスティーネは潔く身を引き、むしろ二人を励ました。 クララとの恋愛とヴィークの妨害 [ ] シューマンとクララははじめ兄妹のような関係だった。 シューマンはクララや彼女の弟アルヴィンと散歩や遊びに興じ、お化けの話をして子供たちを震え上がらせたりした。 しかし、エルネスティーネとの関係が終わると、シューマンの恋愛対象はクララに向かっていった。 1835年秋、(1809年 - 1847年)がの常任指揮者に就任し、10月4日に指揮者デビュー演奏会を開いた。 これを聴いたシューマンは、「」で絶賛する。 クララは1835年12月9日に16歳ででのデビューを飾り、シューマンの故郷でも演奏会を開いた。 このときシューマンはツヴィッカウまで戻ってクララに会っている。 シューマンとクララの関係に気づいたは、1836年1月にクララをからに移り住まわせ、シューマンから遠ざけた。 同年2月4日に母ヨハンナが死去するが 、シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした。 以降、シューマンは一段と強くクララを求めるようになった。 このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵詈雑言を浴びせた。 シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視下に置かれた。 ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会うたびに悪罵を投げつけ、顔につばを吐きかけることもあったという。 さらにヴィークはシューマンに生活力がなく飲酒癖があるなど虚偽・中傷を繰り返し、エルネスティーネとの恋愛事件を蒸し返して彼女の協力を得ようとした。 シューマンを動転させるために、ヴィークの友人でクララの声楽教師だったカール・バンクにクララの恋人を演じさせようと試みてもいる。 ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった。 しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたを弾いてシューマンに応え 、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した。 1837年9月、シューマンはヴィークに手紙を書き、会見に応じてくれるよう懇願した。 数日後にヴィークは会見に応じたが、ヴィークはクララをコンサート・ピアニストとして育てたのであって、主婦にするつもりはないと告げた。 シューマンは9月18日付けでクララに宛てた手紙に「父上との会見は恐るべきものでした。 お父上は冷ややかで、敵意に満ち、混乱し、矛盾だらけでした。 とにかく人を挫くことに思慮をめぐらし、人の胸に柄まで届けとばかりに匕首を突き刺してくるのです」と報告している。 クララはヴィークとともにたびたび演奏旅行に出かけるようになり、シューマンはクララと会うことも手紙のやりとりも禁止されていた。 だが、彼は秘密裏にクララと文通して連絡を取り合いつつ、創作面では優れた作品を次々に書いていった。 クララはコンサートでシューマンの作品を演奏し、音楽によって二人は一体化した。 ヴィークもこれを妨げることはできなかった。 の(1935年 - )は、クララとの結婚をめぐるヴィークとの闘いの年月は、シューマンの内面を危機的な深淵にまで沈めると同時に、そこから立ち上がる決定的な力ともなったとしており、この時期に相次いで成立した(作品11)、『』(作品12)、(作品14)、『』(作品15)、『』(作品16)、『』(作品17)のすべてにわたり、クララへの愛に生を賭した実存的燃焼の表白が、「言葉なき」歌として、詩として劇として展開されていると述べている。 ウィーン滞在 [ ] 滞在中にシューマンが住んだ家(1838年 - 1839年) シューマンは1838年10月から翌1839年4月までに滞在した。 クララがウィーンでの演奏会で大成功を収めたことを知り、クララのピアニストとしての活動と「」の本拠地をウィーンに移せばヴィークの束縛から逃れられるのではないかと考えたのである。 これには、(1781年 - 1838年)の勧めがあったともいわれる。 同時にウィーンは、シューマンが1832年以来めざすべき「との楽都」でもあった。 しかし、ウィーンの出版社はむしろ敵意を持ってシューマンを迎えた。 当時のウィーンはの政治体制下にあり、各地の運動やの波及を恐れて言論や出版の自由を圧迫していた。 このためシューマンは「新音楽時報」が検閲によって押さえつけられることを恐れ、計画を断念する。 ウィーン滞在中、シューマンはベートーヴェンとシューベルトの墓を訪れた。 ベートーヴェンの墓の前でシューマンは1本の鉄製のペンを拾って持ち帰った。 また、帰途にシューベルトの兄フェルディナント(1794年 - 1859年)の家を訪ね、シューベルトの遺稿の中からの草稿を発見した。 この交響曲は1839年3月21日、のでの演奏会での指揮によって初演され、爆発的な成功を収めることになる。 結婚 [ ] 29歳のころのシューマン。 (, 1800年 - 1876年)による。 1839年 もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得てに訴訟手続きを依頼した。 同年7月、シューマンはヴィークと離婚していたクララの実母マリアンネ・バルギールをに訪ねてクララとの結婚の同意を得た。 また、公的な地位を得ることが結婚に役立つかもしれないと考えたシューマンは、1840年2月、と音楽との関係についての論文によっての哲学博士の学位を取得している。 訴訟を知って激怒したヴィークは、クララがピアノを弾くことを禁じて家から追い出した。 クララは、ベルリンから迎えに来たマリアンネとともに暮らした。 ヴィークはクララの相続権停止などで対抗しようとした ものの、法廷では有効な申し立てができず、罵詈雑言をわめきちらして判事からたしなめられる有様だった。 彼は街でシューマンに出くわすと平手打ちを食わせた。 こうしたヴィークの極端な行動は、物笑いの種となった。 形勢不利を悟ったヴィークは1840年1月、今度はクララの動揺を狙い、レーマンという偽名を使ってシューマンに対するありとあらゆる非難を並べ立てた手紙を書き、ベルリンで開かれたクララのリサイタル当日に届けさせた。 この策謀は、クララの弟アルヴィンがシューマンに警告したため、シューマンはあらかじめクララに連絡を取って警戒させることができた。 シューマンはこのことでヴィークを別件ので訴えた。 1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下され、二人は9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。 翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった。 この結婚式には、4月に知り合ったばかりの(1811年 - 1886年)も出席している。 名誉毀損の訴えでもシューマンが勝訴し、1841年にヴィークはシューマンを中傷したことで2週間の禁固刑に処された。 作曲分野の広がり [ ] シューマンは1839年の時点では「声楽曲は器楽曲より程度が低い。 しかし、1840年にクララとの結婚が近づくと、一転して続々とを手がけるようになる。 1840年3月から7月までの間に、シューマンは音楽史に残る5つの優れた歌曲集を作曲した。 二つの『リーダークライス』(および)、『』(作品25)、『』(作品42)、そして『』(作品48)である。 これらを含め、この年に120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている。 これはシューマンが生涯に残した歌曲の大半を超えるものであり、1840年は「歌曲の年」と呼ばれる。 これについてシューマンは、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。 結婚後、シューマンはとともにの『』を研究し、それが終わると、などのを勉強した。 1841年には(作品38)が完成する。 この交響曲はシューマンの「ライプツィヒ時代」を代表する作品であり 、この曲の成功は、シューマンの創作活動においてとから作家への脱皮という画期をなすものとなった。 その後もシューマンは『』(作品52)、ピアノと管弦楽のための幻想曲(後の第1楽章)、ニ短調交響曲(後の)などオーケストラ作品に取り組んだ。 翌1842年には、シューマンはの分野に足を踏み入れ、(、、の作品41)、(作品44)、(作品47)などが生まれた。 これには、の勧めがあった。 リストは、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めていた。 これらにより、1841年を「交響曲の年」、1842年を「室内楽曲の年」と呼ぶことがある。 家庭生活 [ ] ロベルトとクララが暮らしたの家 シューマンとクララは幼いころからを付けており、二人は結婚と同時にそれぞれの日記をひとつに融合させ、互いに日々の出来事を報告し合った。 毎週日曜日に一週間分の日記が朗読され、二人で反省したりコメントを付け合ったりした。 シューマンが家で作曲しているときにはクララはの練習を控えた。 このためにクララは結婚から5ヶ月後の日記に演奏力の低下を嘆いている。 シューマンとクララの間には、8人の子供が生まれた。 長女 マーリエ(1841年 - 1929年)• 次女 エリーゼ(1843年 - 1928年)• 三女 ユーリエ(1845年 - 1872年)• 長男 エミール(1846年 - 1847年)• 次男 ルートヴィヒ(1848年 - 1899年)• 三男 フェルディナント(1849年 - 1891年)• 四女 オイゲーニエ(1851年 - 1938年)• 四男 フェリックス(1854年 - 1879年) シューマンは子供好きで、いくら多くてもかまわないという考え方であり 、子供が増えるに従ってクララは演奏家と主婦、母親の両立に苦心することになった。 また、シューマンの収入だけでは生活費が足りず、クララは家計を支えるために演奏旅行の回数を増やさなくてはならなくなった。 クララの演奏旅行にシューマンが同伴すると、すでにピアニストとしての名声が高かったクララに比べて、シューマンは粗略に扱われた。 1842年の演奏旅行ではでクララ一人が宮廷に招待されたことに傷ついて、シューマンはに戻っている。 屈辱を味わった彼は、一時はへの移住を考えたほどだった。 1844年の旅行でも、シューマンは「ピアニストの夫」として従属的な立場に置かれた。 しかし、シューマンはこうした自分たちの特殊な状況を明確に理解しており、次のように述べている。 「芸術家が結婚すれば、当然そうなるに違いないのだ。 人はすべてを所有することなどできはしない。 結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである。 お互いに所有しあい、心の底から理解し、愛し合ってこそ、私たちは共に幸せになれるのだ」 このように、シューマン夫妻の間には日常の家庭生活の負担から生ずる避けがたい緊張や芸術上の観点の違いによる深刻な対立はあったものの、お互いに相補う夫婦として、しばしば理想的なカップルとして描かれる。 精神障害の発症 [ ] 結婚後、シューマン夫妻が4年間住んだは、急速にドイツ音楽界の中心となっていった。 その中心にいたのは、である。 彼はの常任指揮者を務める傍ら、1843年にを創設し、(ピアノ)、(ヴァイオリン)、(音楽理論)らと並んでシューマンを作曲とピアノの教授に迎えた。 メンデルスゾーンはから、かららをライプツィヒに招き、シューマンも彼らと親交を結んだ。 シューマンは彼らを「」で応援したほか、ベネットに『』(作品13)を献呈しており、『』(作品68)の第42曲「北欧の歌」において、ゲーゼの名前の綴りであるGADEの音名を主題に使っている。 (1850年、による肖像画) シューマンはこの時期二度にわたって病気で倒れた。 最初は1842年で、「」としてクララとともにのに保養に行った。 の、(1924年 - 2001年)は、シューマンが家庭を維持する経済的な重荷を背負いながら、大作を書いても予期した収入をもたらさず、疲労感に襲われて次第に神経衰弱気味になっていったとする。 このため、1842年から1843年にかけて作曲の筆はほとんどすすまず、シューマンは内省的になり、外部との新鮮な接触を嫌悪するようになった。 しかし、1843年1月に(1803年 - 1869年)がからライプツィヒを訪れたことはシューマンに刺激と喜びを与えた。 1843年2月ごろから創作意欲を取り戻してきたシューマンは、の原作に基づく独唱、合唱、管弦楽のための『』(作品50)を完成させる。 『楽園とペリ』の成功は、シューマンの作曲家としての名声を決定的なものとした。 この年、クララの父がシューマン夫妻に和解を求めてきたのも、この曲の成功が理由の一つだった。 シューマンが描いたの宮殿(1844年) 二度目は1844年8月、旅行から帰ってきてまもないころで、より深刻だった。 この年1月25日から5月末にかけて、シューマンとクララはロシアに滞在した。 クララはでロシア皇帝の前で演奏し、ピアニストとして成功した が、5ヶ月間にわたる旅行はシューマンにとって大きな負担となった。 ライプツィヒに戻ったシューマンは、「」の編集主幹を に譲り 、の『』の音楽化の構想を練り始めた。 しかし、夏ごろから体調が悪化し、死を恐れたり、の症状を示すようになった。 シューマンは最後の「神秘の合唱」を作曲したものの、強度の神経疲労のために構想は中断され、この作品の完成は時代を経て時代まで持ち越されることになる。 また、9月にシューマンはライプツィヒ音楽院で教鞭をとろうと試みたが、症状の悪化により断念せざるを得なかった。 10月にシューマンはでの医師ヘルビッヒ博士の治療を受けた。 記録によるとシューマンの症状は、、ひっきりなしの震え、高所や鋭い金属物などに対するさまざまながあった。 とくに幻聴のために作曲もできなくなった。 クララはこのころのシューマンについて、「ロベルトは一晩も眠っていません。 彼の想像力は恐ろしい妄想を描いているのです。 毎朝早く、私は涙にくれている彼を見なければなりません。 彼はもうすっかり諦めているのです」と書いている。 病気の回復には気候条件の変わったところが良いと考えたシューマンは、ドレスデンへの移住を決意する。 この年、メンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を辞任し、シューマンはその後任を希望していたが、デンマーク人のが選ばれたことで落胆し、自己嫌悪に陥ったことも転地の理由となった。 1844年12月、シューマンはライプツィヒ音楽院の職を辞し、クララら家族とともにを去った。 ドレスデン時代(1844年 - 1850年) [ ] ドレスデン時代のシューマン夫妻(1847年) に移ったシューマンはの作品を再び研究し始めた。 1845年4月25日、ピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けたを導入し、バッハのオルガン曲を練習できるようにした。 この年に作曲されたペダルピアノのための『練習曲』(作品56)、『スケッチ』(作品58)、『BACHの名による6つのフーガ』(作品60)などはその成果である。 創作力を徐々に回復したシューマンは、1841年に書いたピアノと管弦楽のための『幻想曲』を改訂し、新たに2つの楽章を追加して(作品54)を完成させた。 (作品61)は、1845年末から約1年間を費やして完成した。 この間、1846年5月には幻聴や耳鳴りのために作曲できなくなり、の症状も現れるようになっていた。 このため第2交響曲は、シューマンが危機を乗り越えて再生した「勝利の歌」ということもできる。 (1811年 - 1885年) 当時のドレスデンは、の首都としての治世下にあった。 芸術家たちは王の雇い人という立場に置かれ、宮廷画家が援助される一方、音楽家は冷遇されていた。 また、交響作品や室内楽よりもが好まれた。 こうした保守的で窮屈な環境にあってシューマンの友人となったのは、アマチュア男性合唱団の指揮者をしていた(1811年 - 1885年)である。 シューマンとヒラーは協力して、ののような会員制の演奏会を企画し、1845年11月10日に演奏会を実現させた。 このとき、出演予定だったが病気のため、代役としてののソリストを務めたのは、当時14歳の(1831年 - 1907年)だった。 しかし、一般大衆に音楽が行き渡っていないドレスデンでの運営は厳しく、活動の継続は断念せざるを得なかった。 また、シューマンはの楽長をしていた(1813年 - 1883年)と出会う。 しかし、この二人の関係は冷ややかで、発展しなかった。 一方、メンデルスゾーンを高く評価していたシューマンはますます親密な文通を続けた。 (1820年 - 1887年) シューマン夫妻にとってドレスデンはライプツィヒと比べて音楽的に遅れており、居心地の良い土地ではなかった。 家計を助ける目的もあって、クララは出産と子育ての合間を縫ってしばしば演奏旅行に出かけた。 1846年11月末から翌1847年1月にかけて、二人はで一連の演奏会を開催し、シューマンのやなどを取り上げたが、失敗に終わった。 の(1825年 - 1904年)は、このとき演奏会終了後の楽屋で「みんな冷たい人なんだわ、恩知らずが」と当たり散らすクララと、「落ち着きなさい。 クララ、10年経てばすべてが変わるよ」となだめるシューマンの姿を書き残している。 二人の窮地を救ったのは、「の」と称されていた、(1820年 - 1887年)で、彼女との共演によって1月11日の最後の演奏会は大成功を収めることができた。 また、リンドを通じてシューマンと(1805年 - 1875年)との交流が生まれた。 1847年からはオペラ『』(作品81)に取りかかるが、に悩まされながらの作曲となった。 7月、生まれ故郷でシューマンを称える記念祭が2週間にわたって開催され 、招かれたシューマンは恩師のクンチュや幼なじみたちと再会を果たした。 記念祭のハイライトはシューマンのの発表であり、この出来事は、シューマン夫妻のウィーンでの挫折を埋めるものとなった。 一方でこの年、長男エミールが早世し、11月4日にメンデルスゾーンが死んだことは痛手となった。 1847年11月、友人のヒラーがの音楽監督に就任し、ドレスデンを離れることになった。 シューマンはヒラーの指名を受けて男声合唱団「リーダーターフェル」のとなる。 シューマンは翌1848年1月にこの合唱団を70名規模の混声合唱団に拡大した。 自作発表の場を得たことにより、シューマンは以降多くの合唱曲を作曲した。 前田昭雄はこの時期、シューマンの様式は円熟の境地を見せ、深みと哲学的な思索性を持つようになったとしている。 声楽曲としては、オペラ『』(作品81)、の詩に基づく劇付随音楽『』(作品115)、『』 WoO 3 第1部の主要部分が作曲され、にはゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター歌曲』(作品98)や『レーナウ歌曲集』(作品90)などがある。 管弦楽作品としては、先に挙げたピアノ協奏曲や交響曲第2番に加え、(作品86、1849年)がある。 室内楽曲の分野では、、のほか、や、、のための作品が書かれている。 また、ピアノ曲では『』(作品82)や『』(作品68)がある。 後者は「楽しき農夫」などの親しみやすい曲が含まれており 、ドレスデンで子供たちに囲まれた暮らしの中で作曲されたことをうかがわせる。 に起こったは、1849年5月にドレスデンにも及んだ。 思想的には・に共感していた シューマンだが、暴力を嫌悪し、ワーグナーのような政治的行動はとらなかった。 シューマンは家族とともに郊外のクライシャに避難した。 1850年、かねてからバッハの作品の多くが出版されずに埋もれてしまっていることに憤慨していたシューマンは、バッハ没後100年を機に「バッハ協会 」の設立に尽力、バッハ作品全集の計画に参加して中心的役割を果たした。 その一方でが悪化し、同年のオペラ『ゲノフェーファ』の公演の際には宿の2階の部屋にいられず、1階に部屋を変えてもらわなければならないほどだった。 このころ、シューマンは音楽界での定職に就きたいという希望を持つようになり、1847年には空席になっていた院長職への就任を打診し、メンデルスゾーンの死後はの指揮者への就任についても探りを入れていたが、これらはいずれも実現しなかった。 1849年の秋、ヒラーからで新しい職に就くため、の音楽監督のポストをシューマンに譲りたいという手紙を受け取った。 シューマンはためらったが 、ドレスデンの旧弊さに嫌気がさしていたクララは定職に就く機会を逃さないようシューマンに勧めた。 シューマンは受諾し、1850年9月、家族とともにデュッセルドルフに向かって旅立った。 デュッセルドルフ時代(1850年 - 1854年) [ ] (1853年、画) でシューマン夫妻は歓迎を受けた。 この地でシューマンは管弦楽団と合唱団の指揮を担当し 、シューマンが指揮した最初のコンサートは成功を収めた。 創作力も旺盛であり、この時期に相次いで書かれた(作品129)と「ライン」(作品97)は、シューマンのデュッセルドルフ時代を代表する作品となった。 しかし、最初のシーズンが終わると、1851年3月に地元の新聞がシューマンの指導力を批判する匿名記事を掲載した。 この年、シューマンは室内楽協会を設立している。 つづくシーズンでは事態はさらに悪化した。 シューマンは右手の不自由のためにしばしば指揮棒を取り落とし、例えばの演奏では曲が終わり、が祈祷を唱え始めたにもかかわらずまだ指揮を続けるなどということが起こった。 また、シューマンの内向的な性格や、とりわけこのころ顕著になり始めていた自閉癖のために、団員たちは困惑させられるようになった。 指揮のテクニック不足や、自分の考えをオーケストラに明瞭に伝える能力にも欠けることが露呈し、シューマンの名声は急速にしぼんでいく。 1852年の冬には、オーケストラの理事会がシューマンの練習方法について批判する書簡を送り、摩擦が表面化した。 書簡は辞任勧告の意味合いが含まれており、シューマンは拒否したが、これに対して理事会は総辞職で応じた。 新しく組織された理事会とシューマンは、(, 1827年 - 1895年)を補助指揮者として合唱団の練習を任せ、シューマンはオーケストラの練習と公開コンサートの指揮を続けることで合意した。 1853年5月に開催された「低ライン音楽祭」では、改訂されたシューマンの(作品120)が初演され、成功した。 5月17日にはのでと共演する。 ヨアヒムはシューマンに対する賛嘆の念を示し 、二人の交流から、2曲のヴァイオリン・ソナタ(、)、(作品131)、(作品番号なし)が書かれた。 しかし同年秋にはオーケストラとの間に新たなトラブルが発生する。 ヨアヒムを招いて開かれた公開コンサートでは、シューマンは演奏を開始することができなかった。 ヨアヒムは、これについて次のように述べている。 「若いころには正確に拍子をとれたのかもしれないが、彼は演奏に注意を与えることは何もしなかった。 『』のリハーサルではクララ(ピアノを弾いていた)が『主人はここは弱く弾いてほしいといっています』と言い、シューマンはかたわらでその通りとばかりうなずくのであった。 演奏がうまくいかないと、ひとり腹を立てていた。 あるとき、自分の交響曲を演奏する際、彼は指揮棒を振り上げたまま立っていて、オーケストラ・メンバーは楽器を構えたまま、いつ弾き始めたらよいかわからないのだった。 そこで、第1プルトに座っているケーニッヒスレウと私が手で合図して演奏を開始すると、シューマンは嬉しそうに笑いながらついてくるという有様だった」 — による回想 ウォーカーは、こうしたシューマンの奇妙な行動について、病気の進行に伴って彼の身体機能が犯され、動作、言葉、聴力などが均衡の取れないものになっていったのだとしている。 これ以降、シューマンに指揮の機会は訪れなかった。 オーケストラの統率を失ったシューマンに対し、理事会はタウシュを正指揮者としてコンサートの指揮もすべて任せることを要求した。 シューマンは受け入れざるを得なかった。 ブリオンによれば、シューマンとクララは経済的な理由のためにこの屈辱に耐えなければならなかったとする。 シューマンの病状は次第に重くなっていった。 1851年6月にはシューマン自身が「神経の発作」に悩まされ続けていることを明かしている。 1852年夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり、医者に勧められてシューマン夫妻は沿岸の保養地に出かけたが、効果はなかった。 シューマンの弟子だったヴァジェレフスキによれば、1853年3月、シューマンはを扱った本を読んでおり、次女エリーゼと二人で霊媒実験を始めたという。 このことをシューマンは5月25日付けのヒラーに宛てた手紙に「実に不思議な現象です」と書いている。 1853年6月にクララが記した日記には、シューマンが目を覚まし麻痺性の発作に襲われたことが記録されている。 シューマンの言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった。 デュッセルドルフ時代の作品 [ ] シューマンのデュッセルドルフ時代の作品は多岐にわたっており、の著述家、(, 1895年 - 1984年)は、実生活上のいざこざがあっても彼の創造力には少しも影響を与えなかったとする。 例えば、は1850年10月10日から24日にかけて、は1850年11月2日から12月9日にかけて、は4日間、は6日間、が7日間と、驚くべき速筆で書かれている。 『ヘルマンとドロテア』序曲はわずか数時間で作曲された。 ドレスデン時代から始まった「文学的音楽」の系列としては、上記の『ヘルマンとドロテア』序曲のほか、の『メッシーナの花嫁』序曲、の『ジュリアス・シーザー』序曲(いずれも1850年)、の『王子』、『歌人の呪い』(1852年)などがある。 シューマン畢生の大作となった『』は、ライプツィヒ時代の1844年に第2部終末の場面を作曲して以来10年がかりの構想となり、最後の序曲は1853年4月13日から15日までの3日間で作曲された。 デュッセルドルフの音楽監督の職務には、の典礼に基づくの実践義務も含まれていた。 このため、シューマンはや、、、らの作品に接しながら宗教音楽の分野に手を染め、1849年に管弦楽伴奏による男声重唱のための『苦しみの谷にあっても絶望することなかれ』(作品93)、1852年には(作品147)、(作品148)などが作曲された。 ブラームスの来訪 [ ] 同じくローレンスによるの肖像画(1853年) 1853年9月30日、当時20歳の(1833年 - 1897年)がヨアヒムの紹介状を携えてシューマン家を訪れた。 ブラームスがピアノの前に座って自作のソナタを弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。 君、もう一度最初から弾いてくれないか」といった。 ウォーカーはこの出会いについて、「二人の出会いは音楽史に残る出来事だった」、「(シューマン家の)暗澹とした日々に、一筋の光を与えた」と形容している。 シューマンはブラームスの作曲家としての優れた才能を認めて「若き鷲」と呼んだ。 「彼が成長するにつれて、私は消えゆくのみ」とも語った。 シューマンはの音楽出版社に手紙を書いてブラームスを紹介するとともに、10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。 シューマンの厚誼に深く感謝したブラームスは、シューマンのもっとも忠実な弟子となり、シューマンが絶望のどん底にあるときも変わらぬ友情を示した。 ブラームスはまた、クララが助力を必要とするときには常に慰め、彼女の心の支えとなった。 ブラームスは10月いっぱいシューマン家に滞在した。 この間ヨアヒムもを訪れ、シューマンはブラームスおよび弟子の(1829年 - 1908年)とともに『』を共作してヨアヒムに贈っている。 自殺未遂 [ ] シューマンはクララとともにたびたびを抜け出して演奏旅行に出かけた。 とくにではシューマンの作品が受け入れられ、高い評価を得た。 1854年のはじめにはヨアヒムやブラームスとともに旅行し、での演奏会を成功させた。 シューマンの日記によると、1854年2月10日の夜に彼は激しい耳の痛みに襲われた。 4日後の2月14日、レストランでヴァイオリニストのベッカーと同席したシューマンは、手にしていた新聞を置いて「とてもこれ以上読んでいられない。 A音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と言ったという。 クララは日記に次のように記した。 シューマンが自殺未遂を起こしたの橋(1850年の版画) 2月17日には、シューマンはたちが歌って聞かせてくれたというの主題に基づく『(天使の主題による変奏曲)』を書くが、この旋律は前年の1853年に作曲したに酷似している。 翌18日になると天使たちはに変わり、やの姿を取ってシューマンをめがけて襲いかかった。 二人の医師が呼ばれ、シューマンを診察した。 19日、シューマンは悪魔の精霊に取り囲まれ、夜まで苛まれた。 20日にはシューマンは罪と悔恨に打ちひしがれ、自分は罪人でに落ちるのだといってを読み続けた。 その後も発作と小康状態を繰り返したが、2月26日夜、シューマンはもはや分別を保てず、このままでは妻や子供たちを傷つける恐れがあるとして自分をに入れるように言い、身の回りの整理を始めた。 翌2月27日、クララと医師が話し合っている隙にシューマンは家を抜け出し、ガウンとスリッパのままの姿でライン橋まで行き、に身を投げた。 飛び込む前に、シューマンは結婚指輪を外して川に投げ込んでおり、これは16年前の1837年11月、クララへの求婚で悩んだシューマンが婚約指輪を深い池に投げ込んだのと同じ行為だった。 シューマンの寝室には、『主題と変奏』の浄書 と「愛するクララ、僕は結婚指輪をライン川へ投げ入れます。 君もそうしてください。 そうすれば、二つの指輪はひとつに結ばれるのです」という走り書きがあった。 シューマンが川に飛び込むところを漁師が目撃しており、彼は救助された。 家に連れ戻されたシューマンは再び精神病院への入院を望み、近郊のエンデニヒにあるゲイムラート・リヒャルツ博士が経営する療養所に収容されることになった。 3月4日、シューマンはエンデニヒに向かった。 このときクララは懐妊中であり 、消耗の極みに達していたために、医師がシューマンに会うことを許さず、彼の自殺未遂についても聞かされなかった。 クララがこれを知ったのは、シューマンが死んで2年後のことである。 終焉(1854年 - 1856年) [ ] シューマン夫妻の墓() シューマンはエンデニヒで2年間を過ごした。 リヒャルツ博士の療養所(現シューマン記念館)は、広い庭園の中に建っており、シューマンは庭を自由に散歩できた。 外出もしており、で記念碑を訪ねている。 部屋にはや、筆記用具が備えられ、もできた。 エンデニヒにおいて、シューマンはの用のピアノ伴奏を補筆しており、ヨアヒムのオペラ『ハインリヒ4世』序曲のピアノ編曲もしている。 クララと家族との面会はシューマンの神経を刺激しないために禁じられたが、ブラームスやヨアヒム、ディートリヒ、批評家のらが面会に訪れた。 シューマンがエンデニヒから出した手紙は、クララ宛が7通、ブラームス宛が4通、ヨアヒム宛が1通、長女マーリエ宛が1通残されており、のちにハンスリックによって公表された。 クララ宛の手紙は子供たちへの心遣いを含めた愛情あふれる手紙となっている。 また、1854年11月27日付けのブラームスに宛てた手紙には、ブラームスが作曲した『シューマンの主題による変奏曲』(作品9)についての批評を書き送っているが、ここには精神錯乱を思わせる箇所は全く見当たらない。 シューマン自身は回復できると考えていたが、しかしその望みは日毎に薄れた。 発音が困難になり、感覚の鈍磨が聴覚、味覚、嗅覚にまで広がった。 シューマンは絶え間なく部屋の中を歩き回り、ときにはひざまずいて手を組み合わせた。 お前の作品は盗作だと非難する声が聞こえ、シューマンは興奮して「そんなことはない、嘘だ!」と叫んだ。 食事を拒否することもしばしばで、次第にやせ衰えていった。 1854年8月14日にシューマンを見舞ったブラームスは、シューマンは突然を飲むのをやめ、毒が入っていると言って床に流したという。 1855年の夏には、シューマンの伝記を書いたヴァジェレフスキがエンデニヒを訪れた。 だれも聴いている者もいないのに、即興でピアノを弾いているシューマンの姿を「それはバネがこわれて、ときどき思い出したように動く機械のようだった」と述べている。 1855年の秋、リヒャルツ博士はもう回復の望みはないと診断した。 1856年6月8日にブラームスがエンデニヒを訪れたときは、シューマンの足は腫れ上がり、ベッドに寝たきりとなっていた。 このときシューマンは、地図帳から地名を拾い出し、正確にアルファベット順に並べる作業をしており、シューマンが好んだ言葉遊びが最後まで残っていた。 7月23日にリヒャルツ博士から危急を知らせる電報を受け取ったクララは7月27日にエンデニヒに着き、2年ぶりにシューマンと再会した。 「それは夕方6時から7時のころのことでした。 私はそれを決して忘れません。 世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」とクララは述懐している。 翌28日、シューマンの手足の痙攣が続き、クララはシューマンにワインを飲ませた。 ワインの一部がクララの手の上にこぼれると、シューマンは嬉しそうにクララの指をなめた。 1856年7月29日午後4時、シューマンは46歳の生涯を閉じた。 シューマンの最後の言葉は、「おまえ、……ぼくは知っているよ……」だった。 遺体は2日後にボンで埋葬された。 ブラームス、ヨアヒム、ディートリヒが棺を担ぎ、グリルパルツァー が弔辞を述べた。 クララが葬儀をごく近しい友人にしか知らせなかったため、クララと以外に参列したのは、6年前にシューマンがデュッセルドルフに到着したとき、歓迎のを演奏した楽団コンコルディア・ゲゼルシャフトのメンバーだけだった。 クララと子供たち [ ] シューマンとの子供たち(向かって左からルートヴィヒ、マーリエ、フェリックス、エリーゼ、フェルディナント、オイゲーニエ。 1854年) シューマンの死後、は子供たちとともにに移った。 1863年からはを本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。 クララは同時代で最高の女性ピアニストとしての名声を築き上げるとともに、シューマンの作品を弾く機会を逃さず、シューマンの曲のもっとも権威ある解釈者として信頼された。 クララは1896年に76歳で没し、のシューマンの墓にともに葬られた。 シューマンの8人の子供は、長男エミールが1歳で亡くなったほかはみな成人した。 長女マーリエは音楽教師として独身で過ごし、インターラーケンで死去した。 次女エリーゼは、ゾンマーホフ(1844年 - 1911年)と結婚し、夫に先立たれた後は17年間独身で暮らした。 三女ユーリエは、1869年夏ごろからから心を寄せられていたが、ブラームスがそれを率直に打ち明けることはなく、イタリアの貴族ラディカーディ・ディ・マルモリート伯爵(1831年 - 1923年)と結婚した。 ブラームスは傷心から『』(作品53)を作曲している。 次男ルートヴィヒは商店で働き、生涯独身だった。 三男フェルディナントは銀行員となったが、シューマンに作曲を学び、作品を残している。 四女オイゲーニエは独身で音楽教師となり、回想記を残した。 末子のフェリックスはを志し、彼の2編の詩にブラームスが付曲している。 作品63の歌曲集中の「青春の歌1(わが恋は緑)」と「青春の歌2」である。 シューマンの病気 [ ] 死因 [ ] シューマンが成人してから体験した症状は、麻痺、言語障害、けいれん、めまい、視力減退、耳鳴りなどがあった。 これらの原因がなんだったのか、100年近くの間、医学界では謎とされていた。 また、シューマンの兄弟たちはみな短命で、シューマンより早く世を去っている。 姉のエミーリエは原因不明のにかかり、19歳の時にで高熱の発作を起こし、川に投身自殺した。 シューマンの祖父のいとこゲオルク・フェルディナント・シューマンも1817年に投身自殺しているが、この二人の自殺とシューマンの自殺未遂との関わりは不明である。 シューマンの伝記を最初に書いたはシューマンの死因についてエンデニヒ療養所のリヒャルツ博士に問い合わせており、リヒャルツ博士は1883年にシューマンの検屍報告書を発表した。 これによると、シューマンのは摘出されて検査を受けており、シューマンの脳は同年齢の一般男子の脳と比べて軽く、萎縮していることが認められた。 リヒャルツ博士は、のについては否定している。 シューマンの精神疾患は原発性の特異なもので、全神経組織を統合する力が徐々に、しかし遅滞なく衰弱していき、ここから心的障害が部分的に現れたとしている。 さらに、その最初の根源はきわめて若いころにあり、それが年月とともに進行していったとしている。 イギリスの音楽学者、評論家のアラン・ウォーカーは、リヒャルツ博士の最終的な診断は、による全身麻痺だったとしている。 しかし、シューマンの病状に関するがエンデニヒの療養所から消えてしまい、この結論は確認できなくなった。 これについてウォーカーは、リヒャルツ博士はクララに恥をかかせないために病院の記録を隠したのではないかと述べている。 この結果、シューマンの病気については、、といったあらゆる病気が当てはめられ、シューマンの伝記作者たちは、あやふやなまま提供されたさまざまな説に翻弄されることになった。 1959年、との専門家、マリオット・スレイターとアルフレッド・メイヤーは共同論文を発表し、医学的な証拠を残らず再調査した結果、シューマンのすべての病状に適合するのは第三期梅毒しかないという結論を下した。 シューマンは1844年に「歌うような雑音」が聞こえると訴えており、これは第二期梅毒の典型的な症状に該当する。 このことから潜伏期間を推定すると、シューマンが梅毒に感染したのは1830年から1831年の間と考えられる。 このころシューマンはで無頼な日々を送っており、1973年に出版されたシューマンの当時の日記には、女性との性的交渉について細かく記録していた。 その後、1994年にリヒャルツ博士によるシューマンのカルテが公開され、シューマンの死因が梅毒による進行性麻痺だったと報道された。 指の故障 [ ] ウォーカーによれば、おそらく1830年にのレッスンを受け始める前からシューマンは右手の不調に気づいていた。 その1年後、1831年の「自伝的覚え書き」にシューマンは「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と記している。 1832年にヴィークがの演奏旅行に同伴してに戻ったときには、シューマンの右手はまったく使えなくなっていた。 シューマンの指の故障について、伝えられているのは、シューマンは指の動きを均等化するために指の1本だけを吊りながら演奏するという機械装置を独自に考案し、右手の第4指ないし第5指の腱を傷めたというものである。 しかし、シューマン自身がこのように説明している記述はどこにもない。 指の訓練機械について最初に触れたのは、ヴィークである。 彼は1853年の著書『ピアノと歌』で「その指の訓練器は私のある有名な弟子が私の意に反して発明し、密かに使っていた。 そして当然のこととして、第3、第4指を痛めてしまったのである」と述べている。 ヴィークはこの弟子がシューマンであるとは述べていないが、後世の解説者たちはこれをシューマンと結びつけた。 さらに、シューマンの四女オイゲーニエが父親が第3指を縛ってつり上げ、他の指で鍵盤を弾いたと述べたことで決定的となった。 1889年、シューマンの研究家フリードリヒ・ニークス がクララに会ってインタビューしたところ、クララはシューマンが故障した指は右手の第2指であり、固い無音鍵盤で練習したのが原因だと語った。 ニークスは、それまで知られていた説と矛盾するクララの証言について、70歳という老齢による錯誤であろうとして信用しなかった。 しかし、80年後の1969年、市の資料室からシューマンと軍司令官との間に交わされた未公開の書簡が発見された。 シューマンは1842年に軍隊入りを志願したものの、手の疾患のために兵役免除となっていた。 書簡にはシューマンの主治医ロイター博士の署名入り診断書が添えられており、右手の人差し指と中指が悪いと記されていた。 これは、クララの証言を裏付けるものである。 1971年、イギリスの音楽学者 は、少なくとも一般的に知られているような形でのシューマンの指の「事故」はなかったとし、シューマンはのために運動機能に回復不能の症状を来したと仮定した。 当時、の治療には広くが使われており 、この間、すでに述べたように1959年にスレイターとメイヤーの共同論文によって、シューマンの死因が第三期梅毒であることが指摘されていた。 音楽 [ ] 評価 [ ] のシューマン像 シューマンと同時代のドイツの作曲家・音楽批評家(, 1825年 - 1884年)は、著作『シューマンとその楽派』(1849年)において、「が古典的時代の芸術の頂点なら、シューマンはわれわれの現代の時代意識を体現する存在になっている。 彼の苦闘が結んだ愛には、必ず優しい、温和な守護神(天才)が宿っていて、われわれは人間的にそこへ惹きつけられる」と述べている。 また、の作曲家(1840年 - 1893年)は、「この世紀後半の音楽は、芸術の歴史の中に、後の世がシューマン時代と呼ぶような、そういう時期として入ってゆくに違いない。 シューマンの音楽は、ベートーヴェンの作品と有機的に結びつきながら同時に決定的にこれから離れ、われわれに新しい音楽形式の全体的な世界を拓き出し、そういう偉大な先駆者たちもいまだ触れたことのない弦を響かせている。 シューマンの創作の重要な時期区分としては、3つの都市名で区切ることができる。 時代(1828年 - 1844年)、時代(1844年 - 1850年)、時代(1850年 - 1854年)である。 この前後に、の幼少年時代、の最後の療養所生活、より短い期間では、とでの生活を挙げることもできる。 ライプツィヒ時代に書かれ、シューマンの名を一般に不朽のものとしているのは、とである。 の1番から23番まではすべてピアノ曲であり、20歳代のシューマンはピアノ作品に集中した。 作品24からは歌曲の創作が続く。 こうして、30代では1840年が「歌の年」、1841年が「の年」、1842年が「の年」、1843年には『』が完成、というように分野が拡大されていった。 ドレスデン時代とデュッセルドルフ時代を通じて、オペラ『』(作品81)、劇付随音楽『』(作品115)、『』 WoO 3 などさらに分野を拡大した。 晩年には『』(作品147)や『』(作品148)なども作曲したが、一般的に評価されていない。 シューマンの芸術の幅が広がり、奥行きと深みを増すにつれて、反面、想像力の鮮やかな直観性、純粋な詩情、天才的なひらめきは重厚な構成に比重を譲っているように見られる。 ブリオンは、的な家庭環境で育ったシューマンの音楽からは、良心も精神も純粋であって、充実して輝かしい人間性が内面的に成熟した場合の、静かな、無言の深い喜びが輝き出ているとし、これをドイツ・ロマン派の牧歌的な側面として位置づけている。 また門馬は、シューマンの作品にのが多く見られるのは、のさなかに生まれたシューマンの幼児体験からの影響とする。 一方でシューマンは技巧的な作品を否定しておらず、このことは幼年時代にを聴いて圧倒的感銘を受けたことやハイデルベルク時代に音楽で身を立てようと決心をしたきっかけがの演奏だったことからもうかがえる。 「技巧」へのロマン的賛美は、への入門を決意した際にも強く意思されていた。 「ライン」より第1楽章第1主題。 シューマンの作品には楽譜に対して実際の音楽の拍節が異なって聞こえる場合がしばしばあり 、日本の作曲家(1943年 - )はこれを「拍節マジック」と呼んでいる。 また、池辺は、シューマンが『』(作品50)においてよりも早くを使用していると指摘している。 シューマンの作品全体の概観からは、作品がグループあるいは組になって作られている傾向が見て取れ、このように同じ分野の作品を立て続けに作曲した後に次の分野に移るという形で作品を残した作曲家は他に例がない。 このことからウォーカーは、シューマンはのいう「循環気質」型の性格であり、彼のすべての業績は、その創造的衝動が潜行しては、また別な分野に再び現れて形成されているとする。 この点、近年の資料研究によって未公開のスケッチや文書資料などが明らかにされ、交響曲をはじめとする大作品への意欲や、最高の普遍性を持った作曲家であろうとする願いが、シューマンの初期のころから根強く存在していたことが判明している。 例えば、1832年に『』(作品4)の着手前にシューマンはト短調のいわゆる『』を試みている。 1838年には2曲の弦楽四重奏曲、1839年にはピアノ協奏曲が試みられた。 これらは完成されなかったが、後の交響曲や室内楽などの分野での成果を予告するものだった。 また、同一分野の作品を短期間に集中して書き上げることも特徴的で、例えば1842年、シューマンは作品41の3曲の弦楽四重奏曲を作曲するのに5週間とかからず、作品44のは6日間、作品47のは5日間で書き上げるなど、超人的な速筆ぶりは晩年まで変わらなかった。 ブリオンは、このようなシューマンの作曲方法について、彼の有機的な創造性が、いわばいっぱいにせき止められた水がひとたび出口を見つけるや、鉄砲水の勢いで一気にほとばしり出るのに似ていると述べている。 批判的見解 [ ] ブリオンは、一方でシューマンのこうした集中的な創作傾向はかえって自分自身を苦しめることにもなったとする。 シューマンがひとつのことにこだわる傾向は作曲分野以外にも見られ、曲の中でリズムパターンに固執する例も多い。 時代以降は精神障害に苦しみ、研究家の中には、これらの病気がシューマンの作曲活動に影響を及ぼし、彼の創造力の衰えとして結論づける論者もいる。 また、以降の交響曲論者によって、シューマンの天才は初期のピアノ曲や歌曲にあり、交響曲その他の後期の作品には否定的な評価を与える見方がある。 例えばは、シューマンの交響曲の音響的な基盤はピアノと室内楽であるとし、楽想的にもピアノ的なものが幅をきかせており、ヴァイオリンの音型などでもむしろピアノ向きだと思えるものが少なくないと指摘している。 また、の文学者(1869年 - 1951年)は、シューマンとのピアノ様式を端的に区別し、「シューマンはであり、ショパンはである」と述べている。 シューマンのピアノ曲には、ときにピアノを逸脱した独自性を示すことがあり、ピアノの鍵盤は詩的な表現のための道具として供される印象を与えるためである。 前田は、これらの見方について「結局、シューマンのピアノ曲はシンフォニックといわれ、シンフォニーはピアノ的といわれ、それぞれ否定的なニュアンスでいわれることが多いという事実である。 しかし、同じことは肯定的にも捉えられ得る」と述べる。 シューマンの『』(作品20)についての文章の中で、前田はシューマンの音楽について、程度の差こそあれ、「欠陥にもかかわらず」ありのままに愛されうる性格が著しく、形式的破綻すらも血の通ったひとつのドキュメントとして愛されることができる、としている。 文学との関係 [ ] 文学における、音楽における「詩的なるもの Das Dichterische, Poetische」のまさに輻合する点に、シューマン芸術は源をもち続けたのだ。 そういう根源的な意味でシューマンは「詩人」であったと思う。 — 前田昭雄『シューマニアーナ』pp. 55-56 シューマンの読書好きは父親譲りで、主としてとを好んだ。 シューマンは13歳のとき、当時興味を持った批評や詩、哲学的著作からの引用や自作の劇『精神』(未完)からの断章、両親の文章などを「スクランダー」というで『美しい黄金色の牧場の葉と花』としてまとめている。 また、1825年から1828年の間に書いた自作の文集を「ムルデ河畔のロベルト」というペンネームで『雑録』としてまとめている。 このころ、シューマンはの『』をほとんど全部暗記し、友人たちからは「ファウスト」または「」などと呼ばれていた。 このほか、シューマンが手がけた文学作品として、を題材にした合唱付きの悲劇『ランデンドルファー兄弟』や喜劇『レオンハルトとマンテリエ』、から影響を受けた『6月の晩と7月の昼間』という小説があるが、いずれも未完である。 シューマンがをめざさずの道を選んだことについて、ブリオンは「シューマンにとって、限界があり、厳密さを欠く文章表現よりも、音楽はずっと豊かで、多様で、陰影があり、緻密な言葉を提供した」と述べている。 初期のにとくに関係が深いのがとの二人である。 例えば、シューマンの『』(作品2)はジャン・パウルの『生意気盛り』から着想された作品である。 また、『』(作品12)、『』(作品16)、『』(作品23)のそれぞれの題名はE. ホフマンの文学作品から採られており、いずれもロマン的憧憬に彩られている。 シューマンは絶えず読んだジャン・パウルの全集の次のような部分にアンダーラインを引いている。 「花は生きていて眠るからには、きっと子供や動物と同じように夢を見る。 結局、生物はすべて夢を見るのだ」 シューマンの文学に対する豊かな素養は、の詩の選択にも反映されている。 彼が選んだ詩人では、が44篇、つづいてが42篇と多い。 これに(, 1815年 - 1884年)がつづく。 と(, 1786年 - 1862年)はそれぞれ20曲ずつとなっている。 については歌曲は18曲とそれほど多くないが、より大規模な合唱作品がある。 このほか、、、、(, 1787年 - 1862年)、などの詩人・作家、の、の、のなどが採り上げられた。 また、読書のほかを好み、散歩をよくした。 や、とくに生まれ故郷には強い愛着を抱いていた。 シューマンは1845年に出版された(1769年 - 1859年)の『』を読んでこれを推奨している。 ブリオンは、者が自然との一致及び事物のほとんど的な幻影から体系を推論するように、シューマンが自然との的な一致から普遍的な魂の表現をつかみ取って作品とりわけへ流入させていると述べている。 作品 [ ] 詳細は「」を参照。 交響曲 [ ] シューマンは生涯に計4曲のを作曲した。 交響曲の創作に本格的に進出したのは1841年からで、前年の1840年にはからへの創作分野の転換があり、と結婚している。 1841年には「春」(作品38)と後に改訂されるが書かれた。 (作品61)はシューマンの時代の作品である。 時代に(作品97)が書かれ 、さらに1841年に書かれたニ短調交響曲が改訂され「第4番」(作品120)として出版された。 なお、第1交響曲に先立つ1832年に『』に取り組み、1841年にはの交響曲の構想もあったが、これらは完成されなかった。 シューマンはを創作するはるか以前から『交響曲』などのスケッチを書いており、1829年にはに宛てた手紙に「交響曲を頭の中で書きました」と報告している。 このように、交響曲への意欲はシューマンのごく初期から彼の中にあり、シューマンのピアノ作品は交響的イメージから発想されたり、交響的な次元に向かって開いていることが多い。 第1交響曲はわずか4日でスケッチが完成されているが、こうした前提をふまえたものであり、霊感のみによって突然成就されたものではなかった。 シューマンの交響曲は、管弦楽編成の点ではの延長線上にあり 、前半の交響曲として、また、ベートーヴェンやシューベルトからブラームスやへの橋渡し的存在として重要である。 これらの影響とは別に、シューマンの交響曲にはシューマンならではの個性や格調、筆致があり 、例えば1903年に古典的なシューマン評伝を書いたヘルマン・アーベルトは、「シューマンの交響曲の際だった特質は、第一に楽想の例外ない独創性と深い真摯さであり、また純粋な熱中の、われわれを抗いがたく引き込む飛翔力である」と述べている。 にもかかわらず、シューマンの交響曲は彼のピアノ曲のようには広く支持されていない。 その理由の一つとして挙げられるのが、シューマンの管弦楽法についてであり、「オーケストレーションがときに鈍重で垢抜けない」 、「色彩的には華麗で明快なものではなく、どちらかといえばくすぶったような、曇りがちの天候のような響きを出す」 、「往々にして暗く重く、3度やオクターヴの平行が多く、楽器の使い方が技術的に問題」などといった批評が多く見られる。 このため、をはじめ、シューマンの交響曲のオーケストレーションに修正を加えて演奏する例が見られたが、近年ではオリジナルを尊重して手を入れない、あるいはリハーサルの段階で各パートのバランスを調整して問題を解決させた演奏が多くなっている。 は、こうしたシューマンの管弦楽の扱い方について、「未熟さがあるからだといわれることが多いが、逆に言えば、そこにシューマンの味があり、特色がある」としている。 また、『西洋音楽史』のドナルド・グラウトは、シューマンの交響曲について次のように述べている。 「彼の交響曲では、ときどき付帯的に絵画的なものを偲ばせることもあるが、彼はを望んだのであり、その理想はベートーヴェンであった。 しかし全体として彼は、古典派の交響曲の様式の大らかさと有機的な統一を創り上げることに成功しなかった。 シューマンの交響曲の美しさは、その細部とロマン主義的な精神の燃焼に在る」 — ドナルド・グラウトによるシューマンの交響曲への論評 これに対して前田昭雄は、グラウトの評価を十分賛同できるとしつつ、「有機的統一に欠ける」という指摘は修正を要するとしている。 すなわち、シューマンの形式は決して新主題の羅列ではなく、形式原理が認識されなかっただけであり 、「人は理解できぬものに対してはさしあたり否定的な評価を下すことになる」と述べている。 協奏曲 [ ] シューマンは早い時期からピアノ独奏と管弦楽のための協奏的作品に取り組んでいるが、変ホ長調(1828年)、ヘ長調(1829年 - 1831年)、ニ短調(1839年)などはいずれも未完である。 完成されたものとしては、(作品54)、『序奏とアレグロ・アパッショナート(ピアノ小協奏曲とも)』(作品92)、『序奏と協奏的アレグロ』(作品134)などがある。 ピアノ以外では、(作品86)、(作品129)、ヴァイオリン独奏と管弦楽のための幻想曲(作品131)及び WoO 23 があり、は、「そんなふうに言われることはあまりないが、シューマンは実は協奏曲作家だ」と述べている。 このうち、ピアノ協奏曲はロマン派時代の最も優れた協奏曲の一つである。 この曲は第1楽章が『幻想曲』として1841年に作曲されており、残りの楽章は1846年、で完成された。 チェロ協奏曲は、シューマンがに移ってまもない1850年10月に完成しているが、なぜ書かれたのかその理由ははっきりわかっていない。 シューマンはかつて右手を痛めてピアニストになることを断念したとき、奏者になることも考えており、ウォーカーはおそらく多分にノスタルジーがあったからではないかとしている。 初演は1860年で、シューマンの存命中には演奏されなかった。 また、ヴァイオリン協奏曲はシューマン最晩年の作品だが、楽譜を贈られたがこの曲を採り上げることはなく、作曲から80年近く経った1937年に初演されている。 室内楽曲 [ ] シューマンはに在籍していた1823年ごろから友人や知人の家でやらの室内楽を楽しみ、ピアノを担当した。 室内楽曲のもっとも初期の試みとして、1828年から1829年にかけてハ短調のやヴァイオリンとピアノのためのソナタがある。 1839年6月にも2曲のを書こうとしているが、最初の部分だけで中絶した。 1840年にとの結婚後、シューマンはの弦楽四重奏曲を熱心に研究した。 本格的に室内楽に取り組んだのは1842年であり、、、などが書かれた。 時代以降にはピアノ三重奏曲(3曲)やヴァイオリンソナタ(3曲)などがある。 シューマンの室内楽曲は独特の幻想味にあふれている。 古典的な伝統に従いながらも自由さを見せる構成の中に、巧妙ながシューマンの幻想の広がりを妨げることなく織り込まれている。 3曲の弦楽四重奏曲のほかは楽器編成にを用いているほか、が愛好されていることが特徴である。 また、的な多楽章形式を基礎に置いたもののほか、ピアノ曲の分野で好んだような小品集や組曲形式も見られ 、これらの作品では、シューマンは趣に富んだ楽器の組み合わせを考え出した。 とピアノのための『』(作品73)、とピアノのための『』(作品70)、とピアノのための『3つのロマンス』(作品94)などは、本来風であるとロマン的なピアノによる対話であり、これらはシューマンがととを調和させ、均衡させることができた例である。 ピアノ曲 [ ] 『』(作品15)のスコア表紙 シューマンの作品23までの曲はすべてである。 ピアニストを目指して訓練したが指を痛めて断念、に転向した経緯から、シューマンにとってピアノはもっとも親しい楽器だった。 最初期には未出版の曲も含めてほとんどばかり書いており、作品1の『』も同様である。 ピアノ書法の面では、ペダルの用法に特徴があり、『』(作品2)の終わりの部分では、属七の和音の構成音を次第に減らしていって最後に属音のみが残って消えるようにフェルマータを置いている。 このようなペダルが不可欠な終わり方は『アベッグ変奏曲』の終曲にも見られる。 『』(作品9)や『』(作品13)において、シューマンは初期ロマン派の作曲家たちが直面していた大曲の音楽構成についてひとつの解決法を打ち出している。 これらは、糸で連ねられた真珠のように、小品が途切れることなく演奏されていくという新しい形式の音楽である。 前半にはや、らもピアノの小品を書いているが、シューマンの場合は小品の集まりが一つの曲として構成されていたり文学的・幻想的な関連で括られており、こうした曲のまとめ方はシューマン独自のものである。 また、シューマンは曲中で気に入ったリズムを導入すると、それにきわめて長く固執する性癖を持っていた。 『交響的練習曲』の終曲や、ピアノソナタなどその他の作品でもそうした傾向が現れている。 クララとの結婚をめぐるとの争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。 すなわち(作品11)、『』(作品12)、(作品14)、『』(作品15)、『』(作品16)、『』(作品17)などである。 は、クララとの結婚までの6年間はシューマンの作品にピアノ史上類のないほどの悲劇的な壮大さを与えており、これらの作品にクララへの思いが喜びや希望や苦痛や悲嘆の形で込められていないものは1小節もなかった、と述べている。 ハンス・ヨーゼフ・オルタイルは、この数年間にシューマンが書いたすべての作品はクララとの関係を題材にしており、それらの核心をなすのが『子供の情景』だとする。 この曲集はシューマン自身が正確に述べているように子供向きのものではなく、クララとのなれそめから1838年春の作曲時期に至るまでシューマンがヴィークの家庭との関わりではっきりと思い浮かべた過去の出来事を、音楽によって再創造した「思い出の対話」である。 シューマンのピアノ曲には曲の開始部と終結部を同じフレーズとしているものが特徴的に見られ、例えば、『』の第4曲「おねだりする子供」や『』(作品82)の第7曲「予言の鳥」がある。 また、を好み、しばしば表記上の拍と耳で聴く拍が違っている。 の影響によって、シューマンの初期のピアノ曲の基調にはの概念があり、『』(作品20)では、この概念がタイトルそのものとなった。 シューマン自身の説明によれば、「フモール」は独自のドイツ的な内容を持つものであり、「夢幻的」かつ「涙の下から微笑む」心である。 は、インスピレーションが詩的な想念となり、ピアノの音に転化していく。 こういったことがシューマン独自の世界なのだ、と述べる。 一般に「シューマンのピアノ曲」として認知されているのは1839年の『4つの小品』(作品32)までであり、時代以降になると、のための『6つの練習曲』(作品56)、同じく『4つのスケッチ』(作品58)、『6つのフーガ』(作品60)、『4つのフーガ』(作品72)といったの研究の成果を示す作品群が現れ、さらに、『』(作品68)をはじめとした家庭向きあるいは教育向きとも見られるピアノ作品も書かれるようになった。 また、1850年にシューマンは「若き音楽家への助言」を発表しており、これは『子供のためのアルバム』の序文としてよく使われている。 声楽曲 [ ] 歌曲 [ ] のの歴史の中で、シューマンはきわめて重要な役割を果たしている。 ブリオンによれば、シューマンはロマン派の憧れそのものを、またそのもっとも本質的な特徴を体現しており、彼の歌曲は、を除いては他のいかなる作曲家も及ばぬこの上ない調和を達成しているとしている。 の(1931年 - 2015年)は、「シューマンの歌曲は詩と音楽の香気あふれる合一である」と述べている。 また、ウォーカーは、「もし、シューマンが歌曲しか書かなかったならば、彼はより大家と目されただろう」と述べている。 シューマンが本格的に歌曲の世界に足を踏み入れたのは1840年で、シューマンはこの年9月にとの結婚を実現させている。 シューマンは30歳であり、クララの存在が彼の想像力の源であった。 それまでピアノ曲を主体に書いてきたシューマンは、1839年にヘルマン・ヒルシュバッハに宛てた手紙に歌曲について「器楽曲と比べて立派な芸術と思っていなかった」と述べている。 しかしこのシューマンの見解はめざましい転換を遂げ、歌曲の創作はシューマンにとって大きな意義を帯びることになった。 これには、友人での教師だったオズヴァルト・ロレンツ(1806年-1889年)からの影響もあった。 1840年だけでシューマンは120曲以上、生涯を通じては270曲以上の歌曲を作曲した。 シューマンの文学に対する豊かな素養が詩の選択にも反映されていることについては、を参照のこと。 形式面では、変化有節形式と通作形式が目立って多く 、いくつかの歌曲集では、テーマ的な関連性を織り込む試みをなしとげている。 また、歌曲において従来は伴奏でしかなかったピアノの地位を向上せしめた。 シューマンの歌曲では、ピアノは歌に対して対等であり、ときには作品を支配する役割を担っている。 例えば、『』(作品48)の終曲は充実した独奏ピアノによって閉じられる。 このため、シューマンの歌曲は「歌声部の伴奏を持つピアノ曲」といわれることもある。 オペラ [ ] シューマンは「」でのを痛烈に批判しており、自分でも優れたオペラを作曲したいと考えていた。 シューマンの日記からは、オペラ化を計画した文学作品が多数挙げられる。 の『海賊』、『サルダナパラス』、(1600年 - 1681年)の『マルティブレの橋』、『魔術師』、の『総督と総督夫人』、の『ララ・ルク』、の『ヘルマンとドロテア』、『ファウスト』などである。 これらのうち、『ララ・ルク』や『ファウスト』はそれぞれ『』及び『』の的作品として結実した(下記参照)。 また、『ヘルマンとドロテア』は、シューマンは友人のユリウス・ハマーに作品の手直しと台本化を依頼したが実現しなかった。 シューマンが実際にオペラとして取り組んだのは2曲だが、このうち『海賊』は未完であり、『』(作品81)のみが完成した。 しかし、唯一のオペラである『ゲノフェーファ』も、優れた場面はあるものの、音楽・台本に一貫性を欠いており、親しまれているとは言い難い。 合唱曲 [ ] 原作による『』(作品50)は、シューマンの出世作となった。 また、後に書かれたバイロン原作による『』(作品115)や『』も、、、、による演奏時間約2時間の大作である。 とくに『ゲーテのファウストからの情景』は、シューマンの全創作のうちでも作曲家の精力が最も集中された作品であり、前田は「作品番号はつけられていない。 これは未完とか遺稿とかいう意味ではなく、シューマンにとって作品とか演奏とか、初演や初版の成功とかいう意味を超えた、芸術的実存を賭けての超作品という存在に、この音楽が育っていったことを意味している」と述べている。 このほか、独唱、合唱、管弦楽のための作品に『夜の歌』(作品108)、『ばらの巡礼』(作品112)、『王子』(作品116)、『うたびとの呪い』(作品139)、『小姓と王女について』(作品140)、『エーデンハルの幸せ』(作品143)などがある。 舞台装置や衣装を必要とする大がかりなでなくこうしたオラトリオ的作品が多く書かれた理由は、シューマンが文学に造詣が深かったことと、彼が生きた時代が「の時代」黎明期であり、アマチュアや市民による合唱団が巷間に生まれつつあったことが背景にある。 宗教音楽 [ ] に対してシューマンが真剣な情熱を注いだことはそれほど理解されていない。 シューマンは、「もしもとシェイクスピアとゲーテを読み、それらを自分の中に取り入れてしまえば、もうその人にはなにも必要はない」と語っている。 また、シューマンがアウグスト・シュトラッカリアンに宛てた1851年1月13日付けの手紙には、「芸術家の至高の目的が宗教音楽に対して創造的な力で貢献することであるのは確かなことです」と述べている。 1852年からは、のやの演奏会も積極的に行っており、このころ『』やの詩による『ドイツ・レクイエム』、の典礼に基づくレクイエムやオラトリオなどの作曲も計画したものの、これらは実現しなかった。 とはいえ、シューマンの宗教音楽について、批評家は概して酷評を下している。 例えば、シューマンのやのテキスト選択についてシュピッタは、ロマン的、神秘的な性格、内密なものへの共感からなされていると述べているが、アウグスト・ライスマン(1825年 - 1903年)はこれらの作品の構成の弱さを指摘している。 ダームスは、シューマンのにおけるの熟達ぶりに比べて教会音楽における声部のポリフォニーが貧弱なのはどうしたわけかと疑問を投げかけ、シューマンのミサ曲とレクイエムは単に音楽的記録としてのみ取り上げるにとどめるべきで、演奏されるに値しないとまで述べている。 シューマン全集の編纂とメトロノーム問題 [ ] (1878年、 画) シューマンの死後まもない1856年、とはシューマンの作品全集の出版について話し合った。 全集の編纂には長い年月を要し、1879年から1893年にかけて全29巻のシューマン作品全集が社から刊行された。 この過程で、クララは1861年4月、シューマンの作品の指定を改訂することでブラームスと相談している。 ブラームスはクララに助言し、自分の演奏スピードを毎回記録し、平均値を取ることにした。 その結果、メトロノーム指定を変更したのは、『』、『』、『夜想曲集』(作品23)、『』の5曲にとどまり、その他のピアノ作品や管弦楽作品ほかについては変更がなかった。 変更された5曲も、数値的にごくわずかなものだった。 一方、指揮者・ピアニストの(1830年 - 1894年)は、自身が校訂したヨハン・クラーマーの1869年版ピアノ練習曲集の序文に「シューマンが創作に携わっていた間、ずっと故障しているメトロノームを使っていたことはすでに広く知られるところである」と述べた。 さらに1886年、シューマンの書簡集を刊行したグスタフ・ヤンゼン(1831年 - 1910年)は、その第1版に、シューマンの死後メトロノーム指定が正確でないことがわかり、シューマンの作品の多くはメトロノーム指定が不適切であるとしてビューローの見解を支持した。 1887年には、クララが自分の個人的な演奏習慣をもとにしたシューマンのピアノ作品の校閲版を同社から出版し、シューマンの与えたメトロノーム指定を大幅に改訂した。 同時代を代表するピアニストであり、生涯を通じてシューマンの優れた解釈者でもあったクララの改訂は、シューマンのメトロノームが壊れていたという見解を公的に承認するものとなった。 もしメトロノームが壊れていたとして、あるときには進み、またあるときには遅れるということは通常考えられない。 しかも、シューマンは1853年に作曲家のフェルディナント・ベーメに宛てた手紙で、時計で自分のメトロノームをチェックして異常がなかったことを報告していた。 ウォーカーは、この問題の発端はクララにあったとする。 彼女はシューマンのメトロノーム表示を随時変更し、時折見られる「突飛な」テンポ指示について、シューマンのメトロノームが壊れていたせいだと口外していたと見られる。 また、門馬も1887年のころまでには、クララはすでにシューマンの意図から離れて自分のテンポで演奏していたとしている。 ウォーカーは、それでもシューマンのテンポ表示はしばしば不自然に速く聞こえるとしており、これについて、作曲家が譜面を見ながら頭の中で「演奏」した場合、実際の演奏よりも速くなりがちであることから、シューマンは頭の中のテンポにメトロノームを合わせたために混乱が起こったとしている。 音楽評論 [ ] 「新音楽時報」の創刊 [ ] のコーヒー・ハウス、 シューマンの音楽評論活動は、1832年にの「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung 」に投稿した「諸君、脱帽したまえ、天才だ」という有名な論文で(1810年 - 1849年)を紹介したことに始まる。 当時で有力な音楽雑誌に「一般音楽新聞」と「音楽芸術の女神 Iris Gebiert der Tonkunst 」の二つがあり 、このうち「一般音楽新聞」は1798年創刊のドイツで最初の音楽雑誌として、作品の普及に大きな役割を果たした。 しかし、1830年ごろには音楽評論の姿勢は保守的な極みにあり 、同紙は以後シューマンの寄稿を不穏当と見なして掲載しなくなっていた。 このころライプツィヒのコーヒー・ハウス「」で交わされる音楽談義には、シューマンのほかやピアニストのユリウス・クノル(1807年 - 1861年)、画家のヨハン・ペーター・リューザー(1803年 - 1870年)、医者のモーリッツ・エミール・ロイター(1802年 - 1853年)、シューマンの友人でピアニストの(, 1810年 - 1834年)らがいた。 「新音楽時報」の意義と目的は、現在と未来を体現している若い音楽家の真価が認められ、耳を傾けてもらえるところまで働きかけて成果を得ることにあった。 シューマン自身の言葉によれば、創造的な芸術家に出番を提供し、「彼自身の実力によるだけでなく、書かれた言葉で自分自身を表現するための機関を与える」ことだった。 このように、前半、で多くの重要な音楽雑誌が出版された中で、1834年に創刊された「新音楽時報」は、革新的であると自認する若い世代の作曲家や批評家たちからの強硬な反撃と見なすことができる。 「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノルで、シューマンは編集を手伝った。 しかし、数ヶ月経たないうちにクノルが病気に倒れ、ヴィークはこの仕事に興味を失い、シュンケが肺結核のために1834年末に死去すると、シューマンがすべてを受け継ぐことになった。 「ダヴィッド同盟」 [ ] 「新音楽時報」の誌面上で、シューマンは「ダヴィッド同盟」と称する架空の団体を創り出し、音楽界の俗物であると戦うというコンセプトをもって評論を展開した。 「ダヴィッド同盟」の構成員にはシューマン自身や友人・仲間たちを想定し、評論の内容によってが付けられた。 例えば「フロレスタン」は行動的な情熱家、「オイゼビウス」は優しい夢想家であり、シューマン自身の性格の二つの側面を代表している。 また、「ラロ楽長(マイスター・ラロ)」は分別をわきまえた調停役であり、そのモデルとしてを想定する説やシューマンとクララの名前をつなげた claRARObert に由来するという推定がなされている。 「リヴィア」、「マリア」、「エレオノーレ」、「エストレリャ」、「キアリーナ」、「ツィーリア」などの女性名は、リヴィア・ゲルハルト、ヘンリエッテ・フォイクト、エルネスティーネ・フォン・フリッケン、そしてクララ・ヴィークら当時シューマンと交流のあった女性たちから採られた。 このほか、「サーペンティヌス(蛇紳士。 クララとの恋愛関係をめぐってライヴァルであったカール・バンクのこと)」や「クニフ(ライヴァル音楽批評誌の編集者フィンク Fink の逆読み)」など、特定の人物を当てこすったものもあった。 この手法は読者の好奇心をそそり、ライプツィヒ市民はこれらのペンネームの正体を自分たちがよく知っている音楽家の中から見つけようとした。 シューマン自身は、死の2年前に次のように意図を語っている。 「芸術について対照的な考え方を表現するために、正反対の芸術的人格を創るのも悪くないと考えた。 中でもフロレスタン、オイゼビウスと中庸を取る人物としてのラロ楽長はもっとも重要であった」 こうしたシューマンの音楽哲学は、彼が傾倒していたから着想を得ている。 小説『生意気盛り』に登場する「ヴァルト」と「ヴルト」が著者ジャン・パウルの性格の対照的な二面を表すことをシューマンは察知しており、彼はを音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだと語っていた。 一方、こうした二面性をシューマンのの初期症状と考える解説者もいる。 「ダヴィッド同盟」はシューマンの作品に実際に現れている。 1835年に完成された『』(作品9)では「オイゼビウス」や「フロレスタン」など同盟の構成員が登場し、終曲は「ダヴィッド同盟員の行進」である。 シューマンはここで低俗なペリシテ人にの「おじいさんのダンス」というメロディーを引用して当て、戯画化している。 同年完成の(作品11)の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず、「に捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した。 1837年に完成された『』(作品6)では、各曲に「E(オイゼビウスの頭文字)」や「F(フロレスタンの頭文字)」または「EとF」といったサインがあり、ところどころに「このとき、フロレスタンは黙っていたが、感情の高まりに唇は震えていた」などのメモが書き添えられている。 シューマンの音楽批評 [ ] 「」に掲載されたシューマンの「新しい道」(1853年) シューマンの音楽批評は、新しいドイツ近代音楽の特性を詩的に明確化するという目的を持っていた。 や、(1816年 - 1875年)、(1782年 - 1837年)ら外国人作曲家も擁護したが、シューマンが意図したのは自分が生きる時代と風土に根ざした音楽固有の要素を明確に表現することであって、ショパンたちの天才も同様に時代と風土の所産だと考えたからである。 一方でシューマンはイタリア音楽の影響をドイツ音楽の発展にとって有害と見なし、を「」に例えて「」の精神を批判した。 (1791年 - 1864年)に対して「虚ろなデクラマツィオン(劇的朗読。 歌において言葉を音楽に優先させること)」とし、ロッシーニのを無用として攻撃した。 また、自作にはの曲名やの音楽用語を与えての概念から逃れようとした。 シューマンは約10年にわたって「」を単独で主宰した。 機知に富み、華麗で想像力あふれる彼の文章スタイルは読者の目を引き、「新音楽時報」は広く読者を増やして、全ドイツでもっとも影響力のある音楽雑誌となった。 シューマンは音楽ジャーナリズムに確たる地歩を築き 、当初は作曲家としてよりもむしろ批評家としての名声を得た。 シューマンの評論活動は、彼が作曲家として自立するまで財政的な安定を与えることにもなった。 シューマンは1844年に「新音楽時報」の編集主幹を(, 1806年 - 1889年)に譲り、に移った。 その後、常勤の編集部員には、カール・バンク(1809年 - 1889年)、ルートヴィヒ・ベーナー(1787年 - 1860年)、それにも加わっている。 1853年、との出会いによってシューマンは10年ぶりに評論の筆を執り、「新しい道」と題する評論を書いてブラームスを世に紹介した。 この評論は、ショパンの天才をいち早く発見したシューマンの最初の評論と呼応して、「天才は天才を知る」の見事な実例となっている。 「新音楽時報」の発行を中心とするシューマンの就筆活動は近代音楽評論の道を開くものとして大いに注目に値する。 その一方で、シューマンの論文は今日ではあまりにも心情的・主観的色合いが濃すぎるとされる。 教授のジークハルト・デーリングによると、シューマンは独自の芸術方針を貫くことに熱心だったが、偏った判断を避けることができなかったし、そうしようともしなかった。 彼は熱狂的な情熱にとりつかれて音楽の進むべき道筋を示そうとしたが、音楽一般の発展を促そうとはしなかった。 このような傾向に潜む考え方は、ロレンツから編集を引き継いだ(, 1811年 - 1868年)が、もっぱら「」だけを引き立てたことでいっそう明確になった。 人物 [ ] シューマンの シューマンは子供のころから晩年に至るまで日記を書き続けており、のシューマンの生家の記念館には1828年から1853年までの旅日記がすべて保管されている。 ブリオンは、シューマンの日記は後世の人に読ませる目的ではなく、彼にとって人間生活という荒れ狂う海を渡りぬくための航海日誌のようなものだったとしている。 シューマンの妻となったも日記を付けており、しかも彼女が生まれた日から父親のがクララの一人称で代筆し、娘が筆を持つことができるようになると自分で毎日書くよう求めていた。 1830年ごろのシューマンについて、友人で楽長兼ピアニストだったトーマス・テークリヒスペックは次のように伝えている。 「体つきはたくましいがすらりとした若者で、ほおはとくに赤いというほどではないが血色のよい、生気あふれた顔をしていた。 耳の横からこめかみにかけて、たっぷり一房になってなでつけられている、少し長めに伸ばしたブリュネットの髪がその顔にたいへんによく合っていた。 彼の目はくぼんでいて黒っぽく、熱狂的な光で輝いていた。 彼の風貌全体が気品そのものだった」 後年のもあって内向的とされるシューマンの性格だが、ブリオンによれば、もともとの人間嫌いではなく、若い娘たちとのつきあいを好み、友情を重んじた。 集まりに招かれると、仲間たちの前で演奏を楽しんだ。 友人のテプケンは青年時代のシューマンの様子を次のように語っている。 単純に、自然に書け。 はつねに良いお手本だ。 正確と簡潔に慣れよ、表現の連続性にも。 意味をぴたりと射当てる言葉を見出すまで、探しつづけること」 — 1831年10月17日付けシューマンの日記 シューマン夫妻には、8人の子供が生まれた。 クララは子供が生まれるたびに演奏活動を中断しなければならなかったが、シューマンは家族が増えることを喜び、子供たちと楽しく過ごしていた。 シューマンの四女オイゲーニエは、父の思い出の中で次のように述べている。 「父が21歳のとき、ゲーテの詩から『黄金の杖』として選び出した銘は、父の性格をよく表しています。 その詩とは次のようなものです。 『広い世界と人生の中で、長い歳月をたゆまず努力し、つねに探求し、かつ創り出し、うちに閉じこもらず、円熟を志す』」。 ブリオンは、シューマンが『』の作者を人生の師として選んだのは正しかったが、彼の生涯がこの銘どおりとなったのはさらに見事だった、と述べている。 バッハ、ベートーヴェン、シューベルト [ ] シューマンは手紙に「私の手本とする双璧はとです」(1838年、ジモーニン宛て)と書き、とくにバッハ(J. バッハ)については「私の確信するところでは、バッハには到底かないません。 彼は桁違いです」(ケーファーシュタイン宛て)、「(バッハは)芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」(哲学者クリューガー宛て)などと記している。 1840年にと結婚したシューマンは、二人でバッハの『』を研究し、それが終わると、などウィーン古典派のを勉強した。 また、1845年にに移ったときにもバッハの曲を研究するためにピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けたを導入している。 時代の1853年には、バッハの全6曲と全6曲のピアノ伴奏部を作曲しているなど、折に触れてバッハ作品に立ち戻った。 ベートーヴェンに関しては、6歳のころからピアノ作品に親しんでおり、1825年ごろからはピアノ連弾で「英雄」を演奏していた。 1828年からはの演奏会でベートーヴェンの交響曲に接しており 、ベートーヴェンの9曲の交響曲の総譜のほか、弦楽四重奏曲(大フーガを除く全曲)、『』、歌劇『』、、、、 - 、序曲、序曲、、「大公」、、ピアノソナタ全曲、『歌唱・ヴァイオリン・チェロ・ピアノのための25のスコットランド民謡集』の楽譜を所有していた。 シューマンの『』(作品17)では、ベートーヴェンの歌曲集『』から「恋人よ、あなたのために歌うこのメロディーを受け取って下さい」の箇所が引用されていることで知られる。 このほか、『』(作品68)の第2曲「兵士の行進」にベートーヴェンの「春」の楽章との類似が見られ、と考えられる。 (作品22)の終楽章でもベートーヴェンの「クロイツェル」の終楽章を意識したと考えられている。 もっとも引用が明確なのは『』(作品10)の終曲「ダヴィッド同盟員の行進」で、ここではベートーヴェンののフィナーレからの引用がはっきりと聴き取れる。 については、ライプツィヒに来て間もないころから友人たちと室内楽を演奏する際のお気に入りがだった。 シューマンはこのころからシューベルトに特別な親近感を抱き、「私だけのシューベルト」などと述べており 、1828年11月、シューベルトの死去が報じられたときには夜通し泣いたという。 1829年5月からの滞在中も、ピアノでもっとも多く演奏したのがシューベルト作品で、この時期に弾いたベートーヴェン作品はピアノ独奏曲ではなく室内楽曲が3曲のみだった。 シューマンは1838年秋からに滞在してのを発見し、1839年3月にの指揮により初演された。 このことは、1841年に「春」が書かれたことと密接に関わっている。 シューマンと同時代の作曲家たち [ ] ベルリオーズ [ ] シューマンの日記に(1803年 - 1869年)の名前が初めて登場するのは1834年5月末である。 1836年6月23日付の手紙では、自作の(作品11)をベルリオーズに送っている。 ベルリオーズはこれに対し、序曲『宗教裁判官』(作品3)のスコアをシューマンに送った。 序曲『宗教裁判官』は、シューマンが四手ピアノ版に編曲しており、これを同年3月の「」で紹介していた。 ベルリオーズの音楽は、その想像力、燃え上がる幻想、情熱の激しさによってシューマンを圧倒し、シューマンは彼を「ダヴィッド同盟」の一員と見なしていた。 とくに『』をベートーヴェンの後継的な価値ある作品と位置づけ 、ベルリオーズの管弦楽法を詳細に研究し、彼の音楽の「」を高く評価した。 1843年1月、ベルリオーズはを訪れ、初めてシューマンと会った。 滞在中、二人はたびたび食事し、顔を合わせた。 しかしベルリオーズはピアノを好まず、シューマンの多くのピアノ作品になじめなかったという。 またクララは1839年2月にに演奏旅行しており、ベルリオーズに会ったが、よい印象を抱かなかった。 メンデルスゾーンもまたベルリオーズに批判的であり、シューマンのベルリオーズ評価は彼らとの議論や口論の原因ともなった。 メンデルスゾーン [ ] 1846年の(1809年 - 1847年) (1809年 - 1847年)に対しては、シューマンはその才能を畏敬の念を持って眺め、「の」と呼んだ。 1835年8月にライプツィヒで会って以降、二人の交際はメンデルスゾーンの死まで続いた。 一般的には、この二人の関係はシューマン側からの一方的・無制限の尊敬、メンデルスゾーン側からは適当な距離を置いた敬意及び度重なる援助と支持という形で了解されている。 しかし、子細に見れば、シューマンのメンデルスゾーンへの態度は無条件の賛美ではなく、メンデルスゾーンの表現の過剰への反発や解釈上の衝突などが含まれていた。 シューマンはメンデルスゾーンが指揮したベートーヴェンのについて、第1楽章のテンポが速すぎると苦情を述べており、メンデルスゾーンの音楽の未来性については、回想録に次のように記している。 「彼は、自分の使命が終わったことを感じているのだろうか。 私はそうだと思う。 『』以後の作品には、ひとはけの憂愁がしばしば尾を引く。 彼の使命は終わった。 彼自身がよく知っていた。 すべて傷ましい」 ショパン [ ] 同年生まれの(1810年 - 1849年)を、シューマンは1831年に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」として紹介した。 これはシューマンが発表した初めての評論である。 ショパンは1835年10月にライプツィヒを訪れ、シューマンはショパンの演奏を聴いて「」で報告した。 その後も1836年から1842年までの間に、ショパンが出版したピアノ曲の大部分を「新音楽時報」で紹介した。 シューマンはショパンをで最高のピアニストであり、作曲家だと考えていた。 ショパンに大曲がないことを嘆き、当初はさらに広範で深みのある音楽を期待していたが、やがてその望みは叶わないだろうと落胆した。 ショパンの(作品35)については全面的には支持せず、とくに終楽章については「これは音楽ではない」と述べている。 一方のショパンは、シューマンの音楽にも批評にもほとんど無関心であり、たまに手紙でシューマンに触れることがあっても綴りを間違えたりした。 リスト [ ] 1846年の(1811年 - 1886年) シューマンととの関係は複雑なものだった。 リストはシューマンをいち早く評価したひとりで、シューマンと共通する音楽観に立ってシューマンの詩的な音楽の理念を支持した。 シューマンもリストも「詩的」という言葉を好んだが、二人においてこの言葉の意味するところは微妙に違っており、リストの場合はより的な指向が強かった。 リストはまた、シューマンの変奏技巧の巧みさにも着目していて、に関してはベートーヴェンの後継者だと位置づけていた。 リストはシューマンの作品の成長発展に深い影響を及ぼした。 シューマンは自作をすべてリストに送って助言を求め、リストがコンサートでシューマンの曲を演奏することに感謝していた。 リストはいずれシューマンにとってピアノはあまりにも物足りなくなると見抜き、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めている。 シューマンが室内楽曲の分野に足を踏み入れたのは1842年である。 こうした経緯から、1840年に初めてリストに会ったシューマンは、「お互いに20年来の知己のように思えた」と語っている。 しかし一方で、シューマンはリストの成金趣味や上流階級志向に困惑を覚えた。 また、によればリストは「スキャンダルと音楽的理想像との間を往復し続ける人物」であり、シューマンの妻はリストを「ピアノの粉砕者」と呼んでいた。 シューマンはリストのあまりに華やかな個性に次第に耐えられなくなっていった。 シューマンの時代、1848年6月に二人の間に有名な諍いが起こっている。 グスタフ・ヤンゼンの伝えるところによれば、リストがシューマン夫妻を突然訪問することになり、シューマンはリストを迎えるために音楽付きの晩餐会を準備した。 しかしリストは約束の時刻から2時間も遅れてやってきた。 音楽家たちがシューマンのを演奏すると、リストは「いかにも『ライプツィヒ流儀』だね」と評し、晩餐会は気まずい雰囲気となった。 やがてメンデルスゾーンとの功績について議論が始まると、リストはマイアベーアを賞賛してメンデルスゾーンを批判した。 メンデルスゾーンは前年11月に世を去っており、怒りを爆発させたシューマンはリストの両肩をつかみ、「メンデルスゾーンのような音楽家をそんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫んで部屋を出て行った。 リストはクララに向き直り、「彼は私にきついことをいわれましたが、彼は、私がそうした言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」と言った。 ウォーカーは、この事件をとのほぼ20年間にわたる音楽界のライヴァル同士の争いの発端ともいえるものだったとしている。 リストは1848年にヴァイマルに居を定め、この地を新しい音楽の拠点にしようとしていた。 的理想を信じ、を守ろうとしたシューマンに対し、リストは標題に基づくを考案し、とともに「芸術の総合」を唱えるようになっていった。 このような文化的分裂は、後のとワーグナーをそれぞれの理論的頭目とする「ロマン派時代の大抗争」へと発展していく。 後にシューマンは長い手紙を書いてリストに送ってこの件を水に流した。 手紙の最後は「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と結ばれている。 事件後もリストはヴァイマルでシューマンの作品を指揮とピアノの両面にわたって積極的に取り上げている。 『』第3部、『メッシーナの花嫁』序曲、劇付随音楽『』抜粋、、、などである。 ワーグナー [ ] 1842年の(1813年 - 1883年) はの生まれであり、シューマンとの知己はワーグナーがまだ10歳代の1831年からである。 後にワーグナーはのの指揮者を務め、シューマンがドレスデンに移ったことで再会するが、この二人が打ち解けることはなかった。 シューマンが交誼を結んだの集いで二人は再三顔を合わせたものの、シューマンはワーグナーのオペラが好きになれず、の影響下にあって、イタリア趣味に毒されていると判断した。 また、「彼(ワーグナー)のおしゃべりの才能には呆れてしまう。 彼の頭の中は、いつも自分の考えでいっぱいなのだ」と語った。 これに対してワーグナーは「シューマンは保守的すぎて、私の考えを受け入れることができないのだ」と非難し、シューマンの傷つきやすい性格を「行かず後家」と称して嘲笑した。 ワーグナーのオペラ『』については、シューマンは故意に沈黙を守った。 1845年10月に『タンホイザー』に接したシューマンは、2年後の1847年8月7日に次のように記した。 「タンホイザー、手短には論ずることのできぬオペラである。 天才的な筆致によることは確かだ。 もし彼が発明の才と同様に旋律の才にも恵まれた音楽家であったら、まさに時の要求する人であったろうに。 このオペラについては多くのことがいわれようし、またその価値のある作品ではあるが、別の機会に譲る」 しかし、シューマンの詳細な評論は最後まで保留された。 シューマンのこのような態度は、後ののワーグナーに対する態度に通じるものがある。 ブラームスはワーグナーに終始距離を置いていたが、ワーグナーのブラームスに対する態度に比較すれば、ずっと公平なものだった。 ブラームスはからに宛てた手紙に、「いまワーグナーが当地にいる。 そして僕はワグネリアンということになるだろう。 もちろんこれは矛盾だが、当地の音楽家が彼に反対する軽率な仕方をみると、思慮ある人間としてはこの矛盾もあえて冒したくなるのだ」(1862年12月29日)と書いている。 年譜 [ ] (以下は著『シューマン』に基づく。 1810年6月8日、にて誕生。 1816年、6歳、デーナー経営の私立学校に入学。 1817年、7歳、このころヨハン・クンチュのもとでピアノの勉強を開始、で指揮のの交響曲を聴く。 1819年、9歳。 での演奏を聴く。 この頃での『』を観る。 1820年、10歳。 ツヴィッカウのに入学。 1822年、12歳。 詩篇150篇。 序曲と合唱(農夫の合唱)• 1823年、13歳。 父の刊行する雑誌に短文を掲載しはじめる。 1825年、15歳。 ギムナジウムで「ドイツ文学」サークルのリーダーとなる。 1826年、16歳。 姉エミーリエが自殺。 父アウグスト没。 1827年、17歳。 この頃からに熱中する。 リディ・ヘンパー、ナンニ・パッチュとの恋愛体験。 アグネス・カールスと出会い、親しく交流する。 1828年、18歳。 3月、ギムナジウムを修了。 法科に入学する。 、、(に会う)などを旅行。 5月、ライプツィヒに到着。 自作の歌曲をヴィーデバインに送る。 の下でピアノを学びはじめる。 1829年、19歳。 5月、、などを旅行し、に到着。 法科に移り、教授のサークルで音楽に親しむ。 8月、、に旅行。 1830年、20歳。 フランクフルトでの演奏を聴き、音楽家になることを決意。 10月、ライプツィヒに戻りヴィーク家に下宿する。 カントールのヴァインリヒに音楽理論を学ぶ。 『』作品1。 1831年、21歳。 ヴァインリヒの元を去り、ハインリヒ・ドルンに師事。 『』作品2。 1832年、22歳。 指を痛めて作曲家への転向を決意する。 11月、『』がで初演される。 の音楽雑誌『』にを紹介する論文を寄稿する。 『』作品3。 1833年、23歳。 10月に兄嫁ロザーリエ、11月に兄ユリウスが没。 神経衰弱の症状が現れる。 『』作品5。 1834年、24歳。 音楽雑誌『』を創刊。 エルネスティーネ・フォン・フリッケンと恋愛。 1835年、25歳。 がの常任指揮者に就任。 ヴィーク家でモシェレスに会う。 の『』についての評論を『新音楽時報』に寄稿する。 12月、がメンデルスゾーンの指揮でライプツィヒでデビュー。 『』作品9、作品11。 1836年、26歳。 2月、母ヨハンナが没。 1837年、27歳。 8月、クララとひそかに婚約する。 9月、クララとの結婚の同意をヴィークに求めるが拒絶される。 『』作品6、『』作品13。 1838年、28歳。 10月から翌1839年4月までに滞在。 『』作品15、『』作品16。 1839年、29歳。 1月1日、の兄フェルディナントを訪問、の草稿を発見する。 『』作品19、『』作品23。 1840年、30歳。 「歌曲の年」 2月、より哲学博士の称号を授与される。 3月、ライプツィヒを訪れたと知り合う。 9月、クララと結婚。 『』作品26、『』作品24、、『』作品25、『』作品42、『』作品48。 1841年、31歳。 「交響曲の年」 9月、長女マーリエ誕生。 11月、クララとともにに演奏旅行。 「春」、(後に改訂)。 1842年、32歳。 「室内楽の年」 2月、クララとともになどに演奏旅行。 3月、一人でライプツィヒに戻る。 弦楽四重奏曲作品41(3曲)、作品44、作品47。 1843年、33歳。 「オラトリオの年」 ライプツィヒにやってきたベルリオーズと知り合う。 4月、教授となる。 次女エリーゼ誕生。 12月、ヴィークと和解。 『』作品50。 1844年、34歳。 クララと5ヶ月間の演奏旅行。 「新音楽時報」の編集主幹を辞任する。 12月、ライプツィヒ音楽院教授を辞職し、へ移り住む。 1845年、35歳。 三女ユーリエ誕生。 作品54。 1846年、36歳。 2月、長男エミール誕生。 クララとウィーン、などに演奏旅行。 作品61。 1847年、37歳。 6月、長男エミール没。 7月、故郷でシューマン音楽祭が開かれる。 11月、メンデルスゾーン没。 リーダーターフェルの指揮者となる。 混声合唱団を創設する。 作品63、同作品80。 1848年、38歳。 1月、次男ルートヴィヒ誕生。 『』作品68。 1849年、39歳。 5月、の騒動を避けてドレスデンから避難。 7月、三男フェルディナント誕生。 オペラ『』作品81、『序曲』作品115、『』作品82。 1850年、40歳。 1月、『楽園とペリ』が上演され、成功を収める。 などへ演奏旅行。 市音楽監督の職を受諾。 6月、ライプツィヒで『ゲノフェーファ』を上演。 バッハ協会設立に尽力。 9月、デュッセルドルフに移る。 「ライン」作品97、作品129。 1851年、41歳。 デュッセルドルフの合唱団と管弦楽団とのトラブルが起こる。 12月、四女オイゲーニエ誕生。 『』作品112、作品111、作品110、作品105、同作品121。 1852年、42歳。 精神障害の症状が悪化。 『』作品148。 1853年、43歳。 低ライン音楽祭にてが演奏され大成功を博す。 9月、と出会い、「新音楽時報」に「新しい道」を寄稿。 『音楽と音楽家についての著作集』をまとめ、出版に向けて準備(翌1854年刊)。 作品147、『』、作品131、。 1854年、44歳。 1月旅行。 2月、幻聴などの精神症状が悪化、に投身自殺を図る。 3月、近郊エンデニヒの療養所に収容される。 6月、四男フェリックス誕生。 1856年、7月29日、46歳で没。 関連項目 [ ]• シューマンを題材にした作品 [ ] 映画• 『』:1947年のアメリカ映画。 クラレンス・ブラウン製作・監督、、ほか出演。 音楽作品• :『シューマンの指』(2010年) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 日本の作曲家、はシューマンをロマン派時代の最もロマン的な作曲家としている。 の、(1935年 - )はヨハンナの母(シューマンの祖母)がドイツの文豪(1729-1781)の家から出ており、シューマンの文学的素養と才能は父母双方から受け継いだと述べている。 後年、1851年11月にモシェレスからチェロソナタを献呈され、その返礼の手紙にシューマンは少年時代に接したモシェレスの演奏会のプログラムを30年以上経っても大事に持っていることを述べている。 ウォーカーによれば、エミーリエの自殺は幼いころからの皮膚病による憂鬱症のためであり、アウグストは娘を亡くした衝撃から立ち直れなかった。 この事件はシューマンの性格に終生影響を残し、彼は死や葬式などについて考えることすらできなくなったとする。 なお、日本の、(1924年 - 2001年)は郵便局長ヨハン・ゲオルク・シュレーゲルの家で催される室内楽の夕べにおいて、シューマンが王子(1772年 - 1806年)とモーツァルトの四重奏曲に親しんだとするが、年代が合わない。 は1826年の姉と父の死もシューマンのジャン・パウルへの傾倒に関係があるとしている。 父親の遺産のうちシューマンの受領分は、資本金の利息から年200ターラー(1ターラーは現在のおよそ300円)および、試験などのたびに100ターラーが支給されるというものだった。 前田は、加えてアグネス・カールスに対する強い慕情のための「前方への逃走」の意味もあったとしている。 なお、ウォーカーはエルネスティーネがヴィーク家に滞在していたのは1834年6月から1835年1月までとしている。 ASCHの文字はシューマンの名前にも含まれている。 なお、ブリオンは、『謝肉祭』においてシューマンがエルネスティーネを象徴するエストレリャに「コン・アフェット(感情を込めて)」と指定しているのに対し、クララを象徴するキアリーナにはアパッショナート(情熱的に)、コン・モルタ・アニマ(大いに心を込めて)と指定しており、彼のうちにクララに対する情熱の芽が育ち始めていたことがわかる、としている。 オルタイルによると、クララのドレスデン行きは演奏旅行だったとしている。 オルタイルは、このときクララが弾いたのは『』だとしている。 ウォーカーによれば、ヴィークにとってクララは娘以上の存在であり、手塩にかけた自慢の創造物、生涯を賭けた作品だったとしている。 シューマンは1840年にシャミッソーの詩による歌曲集『』を作曲している。 のちにこのペンで「春」が書かれることになった。 ブリオンは「法学博士」としているが、ここでは門馬に従った。 門馬は120曲以上、前田は130曲以上、ウォーカーは140曲以上としているが、ここではもっとも少ない門馬に従った。 シューマンの思想が反映されていると見られる作品に『4つの行進曲』(作品76)や男声合唱のための『自由の歌』 Wo0 15 などがある。 がヨアヒムとクララによって演奏された翌日からわずか3日間でシューマンは自分が担当しなかった第1楽章と第3楽章を作曲して第3番のヴァイオリンソナタとした。 6月11日にフェリックスを出産した。 クララによれば、シューマンが死んだのは午後5時で、彼女が30分ほど目を離した間だったという。 ウォーカーによる。 門馬は「市長の一行がともに歩いた」としているが、市長の名前がグリルパルツァーかどうか不明。 あるいは(1791年 - 1872年)か?• 出版社に宛てたブラームスの手紙には、「私はここでシューマンの伯爵夫人のために花嫁の歌を書いた。 ウォーカーは1883年、ブリオンは1873年としており、ここではウォーカーに従った。 あるいは両者は別々のものである可能性がある。 縛った指についてウォーカーは「第3指」、ブリオンは「第4指」とそれぞれ述べているが、ここではウォーカーに従った。 ニークスは、クララやドルンらシューマンと関係の深かった人物へのインタビュー記録を元に1924年に『ロベルト・シューマン、伝記への補足と改訂』を著した。 前田は、シューマンの中後期の作品理解、とくに大作への理解が遅れており、判断と評価の適正な基盤はまだ整っていないとしている。 これはショパンの『』(作品2)についての論文だった。 ウォーカーは、シューマンとヴィークが音楽的に見解の一致を見ることはめったになかったことから前者には無理があるとし、後者の名前の結合は興味深いとしている。 速度や発想標語に母国語を使うようになったのはシューマンからである。 デーリングはブレンデルが編集を引き継いだのはシューマンからとしているが、ここではウォーカーに従ってロレンツとした。 出典 [ ]•

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