イランのTasnim News Agencyによれば、8日未明に行われたイランの革命防衛隊が実施した弾道ミサイルによる攻撃を、米軍の防空システムは阻止することが出来なかったと報じている。 参考: 米国はイランの弾道ミサイルを1発も迎撃できなかったのは何故? イランは米軍がスレイマニ司令官を殺害した報復攻撃の詳細について公表した。 攻撃を実施したのはイラン空軍ではなく、イスラム革命防衛隊が正規軍とは別に組織している空軍によって行われ、攻撃に使用されたのは射程約300kmの短距離弾道ミサイル「Fateh-110」ではなく、同ミサイルを改良して射程を約500kmまで延長した新型の「Fateh-313」と、北朝鮮が開発した短距離弾道ミサイル「火星6号(スカッドCの複製)」をコピーした「Qiam 1」であることを明かした。 0 短距離弾道ミサイル「Fateh-110」 イランが改良した短距離弾道ミサイル「Fateh-313」の性能はよく分かっていないが、旧型の「Fateh-110」よりも速度が早く高度を抑えて発射したため、米国の防空システム=パトリオットは1発も撃墜することが出来なかったとイランは主張している。 高度を抑え、低高度から高速で目標に接近した場合、発見が遅れるため対処時間が短くなり迎撃が難しくなる。 このような手法で有名なのはロシアの短距離弾道ミサイル「イスカンデル」で、昨年、北朝鮮が試射を繰り返した弾道ミサイルもロシアの「イスカンデル」を模倣したもので、米国既存の防空システムを打ち破る手法として流行中だ。 さらに短距離弾道ミサイル「Qiam 1」にはレーダー妨害システムが組み込まれ、搭載された断片化弾頭は米軍基地に着弾した際、数十もの爆発を引き起こすことで被害を拡大させたと言っている。 イランは、このような「高度」な弾道ミサイルを、実際の戦闘で使用したのは初めてだと付け加えた。 硬い岩盤をくり抜いて作られたミサイル貯蔵スペースや、弾道ミサイルの弾頭(恐らくQiam 1の弾頭)を準備する様子が映っているが、この場所がどこかのかについては不明だ。 米国はミサイルの発射を感知する「DSP衛星」を持っているため、当然、イランの弾道ミサイル発射を知っていたはずなのに、1発も迎撃できできず、奇跡的に米国人には死傷者がでなかったというのは話が出来すぎではないだろうか? 要するにイランの報復攻撃を「意図的」に迎撃せず、DSP衛星で攻撃を察知したら人員を避難させ、イランの弾道ミサイルを米軍基地に着弾させることで報復が成功したように演出したのではないかと疑いたくなる。 こうすれば米国は米軍の人命損失を防ぐことでギリギリ踏みとどまる事ができ、イランは報復が成功したと国民にアピールすることができ、一応、双方がスレイマニ司令官殺害問題にケリがつけられると意味だ。 あくまで管理人の妄想なので自信はないが、米国は攻撃を受けたにも関わらず反撃に出る様子がないため、あながち間違っていないかもしれない。 0 短距離弾道ミサイル Fateh-110 直撃コースや致命的な損害が予想されるコース以外は迎撃しないぞ。 そもそも、ミサイルが優秀でも即応弾には限りがあるから、被害が許容できない市街地に損害を出さない為に全てを迎撃する必要がある日本やイスラエルとは違って、軍事基地でしかも損害が軽微と予想される場合は弾道ミサイルを追跡はすれど迎撃はしない。 ミサイルは弾薬であり、高価であるから限りがあるし、即応弾だったらそれ以下。 完全な戦時下なら別だが、イランの核技術では短距離弾道弾に搭載できないので、通常弾かBC弾頭。 今回は損害が大きくないコースだったので迎撃しなかったのは妥当。 北朝鮮がやった手法も理論は理想的だが、現実は射的距離が短くなり、しかもエネルギー損失が大きいので弾頭の速度はpac3どころかpac2で迎撃されてしまう。 短距離弾道弾クラスの燃料搭載料では効果的な運用は難しい。 DF-17も中距離弾道弾クラスの大きさで短距離弾道弾程度の射程しかないし、弾頭搭載量も限定的。 本邦の長距離滑空弾も弾頭はステルス弾にした上で、目標を限定的にしていることから、イランの旧式弾道弾では米軍の防衛網の突破は困難。
次の概説 [ ] 1990年8月2日、は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。 これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた。 はイラクへの即時撤退を求めるとともに、11月29日にであるを米ソは一致して可決し、とともに当時のの終結を象徴した。 翌年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。 諸国政府はこれに応じ、いわゆる多国籍軍が構成され、これは第二次世界大戦以来の連合であった。 アメリカ軍が多くを占めるこの連合軍にはノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将が司令官となり、やなどといったヨーロッパのみならず、の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国()やの盟主といった親米アラブ諸国、さらにイラクと同じ政権ののような親ソ連の国も参加した。 この湾岸戦争に参加したアラブ諸国はシュワルツコフではなく、サウジアラビアの ()陸軍中将の指揮下に置かれた。 国際連合により認可された、34ヵ国の諸国連合からなる、イギリスをはじめとする多国籍軍は、への攻撃態勢を整えていった。 イラク政府による決議履行への意思無きを確認した諸国連合は、国連憲章第42条に基づき 、1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。 イラクのサッダーム・フセイン大統領は開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の母」と称した。 また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれる この戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年の開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた。 このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まった。 これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。 多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。 陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。 空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。 戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた。 湾岸危機(開戦までの経緯) [ ] イラクとクウェートの摩擦 [ ] 1988年8月20日に、イラクはシーア派国家のとの8年間に及ぶのを迎えた。 サッダーム・フセイン。 戦争中にのアメリカ、、、イギリス、フランスや経済的に豊かな岸のアラブ諸国に援助され、をのぞいたでは最大かつ世界的にも第四位の軍事大国となったが、600億ドルもの膨大な戦時債務を抱え、戦災によって回復も遅れていた。 イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農産物の輸出を制限し始めた。 食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。 また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、フセイン大統領は追い詰められた。 フセイン大統領はOPECに対し、原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。 この要求は突然のものではなく、7月10日にサウジアラビアので開かれたサウジアラビア、クウェート、イラク、、の産油5カ国による石油相会議において、原油価格引き上げを希望していたが、OPECは聞き入れなかった。 一方、サウジアラビアとクウェート、アラブ首長国連邦がの割当量を超えた石油増産を行っていた。 サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にの私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。 クウェートとアラブ首長国連邦はOPECを完全無視し大量採掘、原油価格は値崩れし石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。 1990年7月17日、イラク革命記念日での演説においてフセイン大統領は「一部のアラブ諸国が、世界の原油価格を下落させることにより、イラクを毒の短剣で背後から突き刺そうとしている。 彼らが言葉で警告しても分からないのならば、なんらかの効果的手段を取る」と間接的にクウェートとアラブ首長国連邦を非難した。 これを受けて、アラブ首長国連邦は石油増産を一応縮小したが、クウェートはいかなる行動も起こさなかった。 7月18日、イラクの外相は、クウェートとアラブ首長国連邦がOPECの生産協定を破り、生産枠を越えた石油生産により、アラブ全体で5000億ドルもの損失を被ったと主張。 そしてクウェートに限れば、イラクが890億ドルの損害を被ったばかりか、イラクの領土にあるから石油を盗掘しているとし、盗掘が1980年代から続いており、イラクは24億ドルも損をしていると述べた。 さらにクウェートが、国境付近のイラク領内に軍事基地を建設していると非難した。 クウェートはルマイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田は、イラクも領有を主張、過去幾度か帰属を巡って対立してきた歴史がある(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)。 イラクの批判に、クウェートのジャービル首長は、単なる金目当ての脅しと判断し、イラクの主張を否定すると共に、軍を動員した。 また、クウェート国内では石油利益配分を巡って対立が起こっており、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こったため、クウェートはイラクに返済を働きかけたが、当然ながらイラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を要求され、両国は外交的衝突に至った。 この事態に周辺アラブ諸国が仲介に乗り出し、7月20日、サウジアラビアのサウード・アル=ファイサル外相が同国のファハド国王の親書を携えてイラクを訪問。 同日、アラブ連盟のチェディル・クライビー事務総長がクウェートを訪れてジャービルを説得した。 そして、クウェート政府はイラクとの間で盗掘問題を交渉することに合意したと発表し、軍の動員も解除した。 これらの外交交渉は実は、内心イラクの軍事的脅威を恐れるクウェート側がサウジアラビアやアラブ連盟に19日の段階で働きかけていたものだった。 7月21日には、エジプトの大統領が、フセイン大統領と電話で会談し、慎重な対応をするように説いた。 22日にはエジプトをアズィーズ外相が訪れたが、同日、イラク国営通信は、「クウェートは湾岸への外国勢力侵入に手を貸している」というイラク政府報道官の談話を発表し、国営紙「ジュムフーリーヤ」も「クウェートはまだイラクの油田盗掘を止めていない」と、イラクによる激しいクウェート非難は収まらなかった。 事態を重く見たムバラク大統領は、問題解決のためにイラク・クウェート両国を訪問する意思があると表明し、アラブ外相会議の開催を求めた。 一方で、当事者であるイラクとクウェートに対しては非難合戦を止めるよう求めた。 しかし、そんなアラブ各国の動きを横目に、イラクは7月24日、クウェート国境に3万人の兵力を集結。 同日、ムバラク大統領はイラクを訪問し、フセイン大統領に対してクウェートへ軍事行動を起こさぬよう釘をさし、イラク、クウェート、サウジアラビア、エジプトから成る4カ国会議を提案した。 これに対してフセイン大統領は、クウェート側への要求として、石油盗掘分の24億ドルの支払い、国境画定に向けた直接交渉を求め、受け入れられなければイラクは軍事行動を取ると述べた。 ムバラク大統領の提案した4カ国会議は、クウェートに有利なものであったため、イラクが孤立することを恐れたフセイン大統領は、7月25日に4カ国会議を拒否し、あくまでもクウェートとの直接交渉を求めた。 同日、フセイン大統領と会談を行ったアメリカのエイプリル・グラスピー駐イラクが、この問題に対しての不介入を表明したこともあり、ついにイラク軍が動いた。 7月27日にはクウェート北部国境に集結をアメリカ軍のも確認した。 集結した戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。 アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はあくまでクウェートに対する脅しと考え、まるで相手にしなかった。 OPECはフセイン大統領を懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに引き上げたが、フセイン大統領はすでに交渉による解決に関心を示さなかった。 一方クウェートは、充分な防衛体制を敷かなかった。 7月31日のジッダで開かれた両国会談では、イラク側代表の副議長がこれまでの要求に加えて、イラクが長年領有権を主張していた ()とをイラクに割譲せよ、と要求をエスカレートさせた。 これに対してクウェート側代表の首相はイラクの要求を拒否すると共に、話し合いの継続を希望するとだけ答えた。 イラクは、次回協議をで開くことをほのめかし、会議は成果無く終了した。 8月1日に、両国を仲介していたムバラク大統領と PLO の議長は「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。 イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。 イラクのクウェート侵攻 [ ] 詳細は「」を参照 1990年8月2日午前2時(現地時間)、350両を中心とする共和国防衛隊機甲師団10万人はクウェート侵攻を開始。 ムバラク大統領とアラファト議長を完全に出し抜いた格好だった。 なお、イラク軍にすらこの侵攻計画は事前に知らされておらず、参謀総長や国防大臣は侵攻をテレビやラジオの報道で聞かされ寝耳に水の状況だった。 クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにはクウェート全土を占領。 同時にはクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にが、クウェートにおいて革命を起こした暫定自由政府(ほぼ全員の政府閣僚が、クウェート人に知られていないイラク軍人による傀儡政権だったと見られる)の要請により介入したと報じた。 一方、クウェートのジャービル3世首長はサウジアラビアへ亡命した。 異父弟のは少人数の警護隊とともに宮殿内での銃撃戦により死亡した(一説には、乗っていた飛行機がクウェート国際空港で足止めされたところをイラク軍に拘束され殺害されたともいう)。 クウェート暫定政府はアラー・フセイン・アリーを首班とすると名前を変えたが、翌日にはイラクに併合された。 多国籍軍 [ ] の軍事侵攻に対し、同日中に国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求めるを採択、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面の経済制裁を行うも採択した。 この間に石油価格は一挙に高まったものの、決議661の経済制裁によって、イラクは恩恵にあずかることができなかった。 8月7日、アメリカのブッシュ大統領は「サウジアラビアへのイラクによる攻撃もあり得る」と説得し、駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定した。 アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており、サウジアラビアも国内にという聖地を抱え、外国人に対して入国を厳しくしている国であるため、友好国ではあるものの異教徒の国の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事であった。 しかし、サウジアラビアとしても石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていた。 、カタール、、アラブ首長国連邦、といった湾岸産油国も次々にアメリカに同調した。 しかしの編制は政治的に出来ないため、アメリカは「有志を募る」という形での多国籍軍での攻撃を決め、アメリカの同盟国かつクウェートと歴史的につながりの深いイギリスやフランスなどもこれに続いた。 エジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加した。 さらに、アメリカと敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはに関する取引であった。 アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した( 「」作戦 )。 イラクの反応 [ ] イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言、8月28日にはクウェートをの一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「 ()」に再編すると発表した。 8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。 8月12日にイラクは「イスラエルの侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。 10月8日にで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にが国際社会で大きく取り上げられるようになった。 またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後の調印へと繋がる事になった。 「人間の盾」 [ ] さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。 なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、やの乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。 この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。 だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「 対イラク武力行使容認決議」)を採択した。 戦争推移 [ ] に避難するイスラエル市民。 砂漠の嵐 [ ] 1月17日に、多国籍軍はイラクへの爆撃(「 砂漠の嵐作戦」 )を開始。 は行われなかった。 この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく「左フック戦略」と呼ばれるもので、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。 CNNは空襲の様子を生中継して世界に実況報道した。 1月27日に司令官であったのノーマン・シュワルツコフ大将は「絶対」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。 アメリカ空軍はイラク軍防空組織に最初期から攻撃を加えており、イラク軍防空システムは早期の段階でほぼ完全に破壊された。 これによって戦闘開始直後からイラク空軍の組織的な防空戦闘は困難となり、多くの航空機がイランなどの周辺国へと退避した。 ただし開戦初日にはイラク空軍によりが撃墜されている。 また、イラクの防空体制がまだ機能している状況下で、による攻撃を行ったイギリス空軍のは、多国籍軍の攻撃機としては、最も多くの犠牲を出した。 周辺諸国攻撃 [ ] 一方、フセイン大統領は「アラブ()対イスラエルとその支持者(・などの異教徒)」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けスカッドミサイル「」と「アル・ファジャラ」計43基を発射、イスラエル最大の都市などに着弾し、死傷者が出た。 イスラエルは開戦直前になどによりフセイン大統領が攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へ非常事態宣言を出していたが、42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、うち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用(イラン・イラク戦争時に配布したもの)の取り扱いミスで死亡した。 イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することで、「異教徒間戦争」となるというフセインの目論見通りになることを恐れたアメリカや国連の要請によってイスラエル政府は動かず、フセイン大統領のもくろみは失敗した。 続いてイラクはサウジアラビアとバーレーンに対して同数程度のミサイルで攻撃を行った。 これは、「異教徒に加担した裏切り者を制裁することで、アラブ世界の結束を図ろう」という試みであったが、「不法な侵略者イラク対国際社会」の構図は揺らがなかった。 アメリカは急遽イスラエルや湾岸諸国にを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していた。 しかし、本来これは対航空機用の兵器である。 後の研究報告により、それほど役立っていなかったことが判明した(これを受けて、アメリカとイスラエルはの開発を進めることになり、ミサイル対応のパトリオットミサイル PAC-3を開発した)。 塹壕で訓練中のスタッフォードシャー連隊第1大隊C中隊(第1機甲師団)の兵士たち(1991年1月6日)。 1か月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されてしまった。 2月24日に空爆が停止された。 同日、多国籍軍は地上戦( 「砂漠の剣」作戦 )に突入。 クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。 大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く主要のイラク軍は度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるでが無く、また一部ではに火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍はを持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は反撃もできずに一方的に撃破され、また続々と投降した。 イラクは翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の第14補給分遣隊兵舎に命中させ、28人を殺害、100人以上を負傷させた。 しかし、抵抗はここまでであった。 地上戦開始から100時間後にイラク軍は二本の幹線道路に長蛇の列を作って撤退開始、2月26日から翌日にかけてそれを米軍機は猛爆し、死のハイウェイと化し、夜が明けた頃には無数の焼け焦げた車両と焼死体が散乱していた。 2月27日にはクウェート市を解放、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。 2月28日の朝(イラク時間)に戦闘が終結した。 アメリカのブッシュ大統領は記者会見で、「クウェートは解放された。 」「イラク軍は敗北した。 我々の戦闘目的は達成された。 多国籍軍の勝利であり、国連の、全人類の、そして法の支配の勝利である。 」と述べた。 一方で、イラクのフセイン大統領は、「あなたがたは勝利したのだ、イラク国民よ。 イラクこそ勝者である。 イラクは悪とテロと侵略主義の帝国であるアメリカのオーラを破壊するのに成功したのだ」と強弁した。 3月3日には暫定が結ばれた。 停戦協定 [ ] 3月3日に、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れたが、イラク軍の主力は多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった(終戦直後に南部住民と北部が反フセイン暴動を起こしたが、米英の介入はないと見たフセイン大統領は温存した軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数が殺害されたといわれる)。 国連では1ヵ月後の4月3日に「クウェートへの賠償」、「(生物化学兵器)の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とするが採択された。 4月6日にイラクが受諾して正式に停戦合意、4月11日に687号は発効した。 1995年4月に安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたが、イラクは全面解除以外に受け入れられないと拒否した。 また、核開発防止のための(IAEA)査察を拒否し、長期間にわたる経済制裁を受けることとなった。 その後の詳細はおよびイラク戦争を参照。 損失 [ ] 一般市民 [ ] 巡航ミサイル及び航空戦力による、空爆の重要性の増加は、戦争初期段階における一般市民の犠牲者の数をめぐる論争を引き起こした。 戦争開始24時間以内に、1000個以上のが飛行しており、その多くがバグダッドを標的とした。 イラク軍の及びフセイン大統領の権力が座すバグダッドは、爆撃の重要な標的となったにもかかわらず、イラク政府は政府主導の疎開や避難を行わなかった。 これは、市民の多大な数の犠牲者を生む原因となった。 地上戦の前に行われた多くの航空爆撃は、民間人の被害を多数引き起こした。 特筆すべき事件として、ステルス機によるアミリヤへの爆撃が挙げられる。 この空爆により同地へ避難していた200人から400人の市民が死亡した。 火傷を負い、切断された遺体が転がる場面が報道され、さらに爆撃された掩体壕は市民の避難所であったと述べられた。 一方では、同地はイラクの軍事作戦の中心地であり、市民は人間の盾となるために故意に動かされたとみなされ、これを巡る論争は激化した。 カーネギーメロン大学ベス・オズボーン・ダポンテ の調査によると、3,500人が空爆で、100,000人が戦争による影響で死亡したと推定された。 イラク [ ] 正確なイラク戦闘犠牲者数は不明だが、調査によると20,000人から35,000人であると見積もられている。 アメリカ空軍の報道によると、空爆による戦闘死者数は約10,000から12,000人、地上戦による犠牲者数は10,000人であった。 この分析は、戦争報道によるイラク人捕虜に基づいている。 もっとも、捕虜となったイラク軍兵士の中で負傷者が数百名しかいなかったことや、戦後に反体制勢力を迅速に鎮圧した状況を見るに、実際の死者は10,000人以下との見解もある。 フセイン政権は、諸外国からの同情と支援を得るため市民からの死傷者数を大きく発表した。 イラク政府は、2,300人の市民が空爆の間に死亡したと主張した [ ]。 Project on Defense Alternativesの調査によると、イラク市民3,664人と20,000から26,000名の軍人が紛争により死亡し、一方で75,000名のイラク兵士が負傷した。 連合国 [ ] パトリオットミサイルの発射 国防総省は、 () 戦闘中行方不明 と呼ばれるリストを作成し、友軍の砲火による35名の戦死者を含む148名のアメリカ軍人が戦死したと発表した。 なお、このリストには2009年8月に1名の ()が追加された。 更に145名のアメリカ兵は、戦闘外事故で死亡した。 イギリス兵は47名 友軍砲火により9名 、フランス軍人は2名が死亡した。 クウェートを含まないアラブ諸国は37名 サウジ18名、エジプト10名、アラブ首長国連邦6名、シリア3名 が死亡した。 最低でも605人のクウェート兵は未だに行方不明である。 多国籍軍間における最大の損失は、1991年2月25日に起こった。 イラク軍アル・フセインはサウジアラビア・ダーランのアメリカ軍宿舎に命中、からの ()28名が死亡した。 戦時中、合計で190名の多国籍軍兵がイラクからの砲火により死亡、うち113名がアメリカ兵であり、連合軍の死者数は合計368名だった。 により、44名の兵士が死亡し、57名が負傷した。 また、145名の兵士が軍需品の爆発事故もしくは戦闘外事故により死亡した [ ]。 多国籍軍の戦闘による負傷者数は、アメリカ軍人458名を含む776名であった。 しかし2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる183,000人の復員軍人は、復員軍人省により恒久的に参戦不能であると診断された。 砂漠の嵐作戦に参加し、地雷を除去する及び軍事車両。 1991年3月1日、クウェートにて。 イラク兵により190名の多国籍軍部隊員が殺され、友軍砲火または事故により379名が死亡した。 この数字は、予想されたものに比べ非常に少ないものである。 またアメリカ人女性兵3名が死亡した。 これは国別の多国籍軍の死亡者数である。 アメリカ合衆国 - 294名 114名が敵からの攻撃、145名が事故、35名が友軍相撃による。 イギリス - 47名 38名が敵からの攻撃、9名が友軍相撃による。 サウジアラビア - 18名 エジプト - 11名 アラブ首長国連邦 - 6名 シリア - 2名 フランス - 2名 クウェート - 1名 砂漠の嵐作戦下 友軍相撃 [ ] イラク戦闘員による多国籍軍の死亡者数は非常に低く、友軍相撃による死亡者数は相当な数に上った。 アメリカ空軍攻撃機が部隊2個を攻撃したことにより、9名のイギリス軍従軍要員が死亡した。 被害と補償 [ ] クウェートにおける石油火災 [ ] クウェートにおける石油火災(1991年) クウェートにおける石油火災はにより起こされた。 多国籍軍に追跡されていたイラク軍は、焦土作戦の一環として700の油井に放火した。 火災は1991年1月及び2月に始まり、1991年11月に最後の火が消された。 生じた火災は制御できないほど燃え広がった。 これは消火作業員の投入が困難であったためである。 油井周辺にはが設置されており、消火活動の前段階として同地域の地雷除去作業が必要となった。 約6百万バレル 950,000 m 3 の石油が毎日失われていった。 結果、15億の経費がつぎ込まれ、消火作業は終了した。 しかし、火災は発生より10ヶ月が経過し、広範囲にわたる環境汚染が生じた。 ペルシア湾への石油流出 [ ] 詳細は「」を参照 1月23日、イラクは400億ガロンのをペルシア湾に流出させた。 これは当時としては最大の沖合だった。 この天然資源への襲撃はアメリカ海兵隊部隊の沿岸上陸を阻むためのものであると報道された。 戦後補償 [ ] 国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。 フセイン政権は1994年から賠償金を支払い、現在までに301億5000万ドル(2兆6000億円)が支払われた。 しかし、残高が223億ドル(1兆9300億円)も存在し、現行ペースでは完済に十数年かかると見られている。 このため、復興途上にあるイラクにとっては負担が大きく、再三減免を求めてきたがクウェートはこれを拒否。 逆にクウェート側は、イラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁をまだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。 国境画定問題 [ ] 現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、 ()に基づいて画定された。 1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した。 しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された。 クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。 戦費 [ ] アメリカ合衆国議会の計算によると、アメリカ合衆国はこの戦争に611億ドルを費やした。 その内約520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアを含むペルシア湾岸諸国が360億ドル、日本が130億ドル 紛争周辺3か国に対する20億ドルの経済援助を含む 、が70億ドルを支払った。 日本の戦費供出も、当時の自国防衛予算の約3割にあたる多額の支出が行われた。 投入兵器 [ ] 湾岸戦争、。 の、F-15C、(1991年) トマホーク巡航ミサイル、、、パトリオットミサイル、バンカーバスター、 GPS 、など、特にアメリカは数々の新兵器を投入した。 中にはA-10攻撃機の様に、冷戦終結により一度は存在価値(欧州配備)を失ったものの、湾岸戦争での活躍により再評価された物も存在する。 アメリカ空軍のAGM-130誘導ミサイルといったは、他の無誘導爆弾に比べ、実戦経験は少なかったにもかかわらず、過去の戦争と比べ軍事攻撃における市民への被害を最小限にできると評価された。 ジャーナリストたちが、巡航ミサイルが飛び交うのをホテルから眺める中、バグダッド中心部の特定の建造物への爆撃は行われた。 多国籍軍が投下した爆弾のうち、7. を含む複数の子弾を四散させる爆弾 及び15,000ポンド爆弾は、数百ヤードにわたる範囲内の建造物を破壊可能である。 全地球測位システムは、砂漠全域における円滑な部隊運用を可能にした。 AWACS 及び衛星通信システムもまた重要な役割を果たした。 アメリカ海軍及びアメリカ空軍がその一例である。 これらの航空機は作戦範囲における司令及び管制に使われた。 これらのシステムは、陸軍、空軍、そして海軍間の必要不可欠な通信リンクを提供した。 そして、これは多国籍軍が空戦において圧倒的優位に立った多くの理由の内の一つである。 対して、イラク軍は地上戦力では9K52やT-72といったソ連製兵器や中国製59式、69式戦車などを投入した。 ところが、中にはと呼ばれる性能を輸出向けにダウングレードさせた仕様も存在したため、これらは多国籍軍の戦車に相次いで撃破された。 他にも、対地攻撃用にスカッドミサイルやといった装備も投入しており、これらの存在に多国籍軍は苦戦することになった。 航空戦力には、装備していたソ連製・フランス製・中国製戦闘機や爆撃機を投入。 中にはMiG-25のように撃破ないし撃墜に至らせた機体もあった。 しかし、全天候能力を持たない機体も多く大部分は撃墜されているか隣国のイランに退避する事態を迎えた。 現在でも、イラン空軍には当時イラクから逃げてきた飛行機が何機か配備されているが、これはイランも革命後にアメリカから支援を断たれたためやむを得ず使用しているためである。 はフリゲートやコルベット、といった小型の艦艇で構成された艦隊が配備されていた。 海上戦力において重大な脅威とみなされたのは(から鹵獲された物を含む)ミサイル艇のみであったが、これらは多国籍軍の航空戦力によって一方的に殲滅されている。 なお、イラン・イラク戦争後、イラク海軍はイタリアにミサイルフリゲートや補給艦を発注して海上戦力の充実を狙っていたが、フリゲートはキャンセルされている。 また、補給艦はイラクへの回航中に湾岸戦争勃発により引き渡しが禁止され、エジプトの港に留め置かれた。 テロリストへの影響 [ ] サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に、アメリカからなどを導入し、アメリカはイラク監視を名目に在バーレーン軍司令部とともに戦後も駐留を継続した。 同国出身のは、自身のでイラク軍から防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王に断られ 、イスラム教の聖地メッカとを有する同国にアメリカ軍を駐留させたことに反発し、組織によるアメリカへのを実行したと発表されている。 このことからフセイン政権とアルカイダの関連が疑われてイラク戦争の開戦事由となったが、しかし、ビン=ラーディンはサダム・フセインをアラブ世界の汚物と酷評しており 、また、アメリカ上院情報特別委員会 はフセイン政権はアルカイダを脅威と見做していたと結論づけており、フセイン政権とアルカイダを繋げる証拠はなかった。 過激派は数度にわたって中東に在留するアメリカ軍を襲撃したが、1996年のアメリカ軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。 1998年にはなどでを起こし約200名を殺害。 2000年には沖でアメリカ海軍艦を攻撃した()。 これらの事件でアメリカはアルカーイダを非難し、当時でアルカーイダを保護していたにアルカーイダの引き渡しを求めた。 さらに2度にわたるでも引き渡しが要求された。 しかしタリバンは引き渡しに応じず、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した後にもアルカーイダを保護し続けた。 このためが行われた。 レバノン内戦への影響 [ ] 「」も参照 湾岸戦争前に、フセイン政権はレバノンの勢力およびに対して、(対立関係にある)シリア・バース党に対する対抗策として余剰の軍備を供与するなど同内戦に関与を深めていた。 しかし、湾岸戦争の勃発により、これらの支援は途絶。 マロン派キリスト教勢力は外国からの支援が途絶え、さらに民兵組織の処遇を巡って、同派の有力民兵組織と率いるレバノン国軍は軍事衝突するに至った。 また、イラクから支援を得ていた事から、レバノン政府及び軍に対する欧米からの支援も凍結され、レバノンのマロン派キリスト教勢力は深刻な内紛を抱え込み国際的に孤立する事となった。 一方、シリアは多国籍軍への参戦を表明。 アメリカはその見返りとして、(手詰まりに陥っていた)レバノン問題の解決をシリアに事実上一任する形となった。 また、この事態はイラクを支持し、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプを事実上支配地域としていたPLOに対する牽制ともなった。 アメリカの黙認を得たシリア軍は、レバノン国軍に対して、各宗派の民兵組織と連携して大攻勢を仕掛け、これを降伏させた。 レバノン内戦はシリア主導によって終結に向かう事となった。 日本への影響 [ ] 湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対してアメリカ政府は、国として戦費の拠出と共同行動を求めた。 日本政府は軍需物資の輸送を民間の業者に依頼したが、組合はこれを拒否。 さらに当時ののが、外国人の・・をの負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、日本航空のが近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカの機をチャーターしてこれに対応した。 さらに、急遽作成した「国連平和協力法案」は内のや、などの反対によって廃案となった。 なお、時の内閣はであった。 鈴木による立て看パフォーマンス(1991年) また、や などの「」は、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「」を組織して 、、、、らは『』を発表する。 これらの作家や「文化人」の多くは、イラクによるクウェート侵攻については批判するものもいたが、これを「イラクによる正当な領土回復行為」とみなす者 [ ]もいた。 日本政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル、さらに、相場の変動により目減りがあったとして5億ドルを追加する資金援助を行ったが、 人的貢献が無かったとして、アメリカを中心とした参戦国から金だけ出す姿勢を非難され孤立 [ ]。 また、ドイツも同様に非戦協力のみであったが、格別非難はされず、クウェートの感謝広告でも、中央上段に国名が掲載されている。 クウェートは戦後、参戦国などに対して感謝決議をし、またに感謝広告を掲載したが、新規増税により130億ドルに上る協力を行なった日本はその対象に入らなかった。 もっとも、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)の内、クウェートに入ったのは僅か6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカに渡ったことも要因となる。 また、クルド人支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)の内、695億円がアメリカに渡った(いずれも1993年〔平成5〕4月19日決算委員会、北米局長・佐藤行雄の答弁より)。 日本政府の対応が10億ドルずつの逐次的支出で、全体として印象に残らなかったとする意見もある [ ]。 同盟国のアメリカなどから非難された結果、自民党・外務省・保守的文化人などのあいだで「人的貢献がなければ評価されない」とのコンセンサスが形成された。 その後の自衛隊の任務拡張のための根拠にたびたび使われた。 日本政府は(PKO)への参加を可能にするを成立させた。 中山太郎外務大臣は、感謝広告に日本が掲載されなかったことを引き合いに出し「人命をかけてまで平和のために貢献する」ときのみ、「国際社会は敬意を払い尊敬する」旨答弁している。 その後、の除去を目的としてのを派遣し、のを実現させた()。 このPKO協力法が施行されたことにより自衛隊はPKO活動に参加する事が可能となった。 2015年9月10日付では、クウェート側が広告掲載のためにに求めた多国籍軍参加国のリストから日本が漏れていたとする記事を掲載した。 アルシャリク元駐日クウェート大使はインタビューに対し、感謝広告はサバハ 駐米大使 娘のナイラはをしたことで著名 の発案であり、大使の求めで国防総省が示した参加国リストに日本が掲載されていなかったと話している。 同記事はクウェートの湾岸戦争記念館に日本の掃海作業や資金援助についての説明がされていること、2011年3月のを受けて、からまで多くの人々からが寄せられたこと、500万バレルの石油の無償提供が決議されたことを紹介し、クウェート人の間では、湾岸戦争において日本が多額の資金援助をしたことは感謝の念とともに記憶されているとしている。 ただし、前述のように直接クウェートに渡った資金は6憶3千万円程度に過ぎない) 多国籍軍に参加した国一覧 [ ]• 北・南米• アメリカ合衆国、、、• ヨーロッパ• イギリス、フランス、、、、、、、、、ドイツ、、、• アジア• 、、、アフガニスタン、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーン、クウェート、サウジアラビア、シリア、• オセアニア• アフリカ• エジプト、、、、 投入された兵器一覧 [ ] 詳細は「」を参照 多国籍軍 [ ] 陸上兵器• その他• 航空機• (海軍)• (海軍)• (空軍)• (海軍)• (海軍)• (空軍)• (空軍)• ・など• (空軍)• (空軍)• (空軍)• (空軍)• (空軍)• その他• (空軍)• (陸軍)• (陸軍、空軍)• (海軍)• (陸軍)• その他 イラク軍 [ ] 陸上兵器• 航空機• 呼称の変動 [ ] 日本では英語名を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。 ペルシャ湾に面したクウェートが舞台になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。 イラクのクウェートへの侵攻から始まったことから、「イラク戦争」と呼ぶ人もおり、2003年のイラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。 また、2003年のイラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。 一方のイラクでは、多国籍軍が30か国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは、当時のイラクのフセイン大統領が「アラブ イスラーム 対イスラエルとその支持者 アメリカやキリスト教国などの異教徒 」と位置付けたこともあり、当時のアメリカの大統領の名前を取って「ブッシュ戦争」などと呼んでいた。 また、メディアによるリアルタイムの報道映像は、ミサイルによる空爆をテレビゲームのように映し出し、世界的には「戦争」 とも呼ばれた。 日本国内では「テレビゲーム戦争」と報道された。 作戦名 [ ] ほとんどの連合軍諸国は、自らの作戦及び戦闘を様々な名称で呼んだ。 これらはアメリカ軍による「砂漠の嵐」をはじめ、しばしば戦争全体を表す名称として誤って使われる。 - 1990年8月2日から1991年1月16日にかけて行われた、アメリカによる、戦力増強及びサウジアラビア防衛の作戦名。 - 1991年1月17日から1991年4月11日にかけての。 () - フランス軍による作戦名• () - カナダ軍の作戦名• () - イタリアの諸作戦• () - イギリス軍の諸作戦• () - 1991年のクウェート解放後のアメリカ軍部隊および装備のアメリカ合衆国本国への帰還作戦。 しばしば「砂漠の平穏作戦」 と呼称される• - 1991年2月24—28日、「砂漠の嵐作戦」の一部として行われた、アメリカ軍によるクウェート地域のイラク軍への「100時間戦争」。 砂漠の剣作戦の初期においては、デザート・ソード作戦 とも呼ばれた。 これらに加え、各々の戦闘の各段階には、個々に作戦名が与えられた可能性がある。 戦闘 [ ] アメリカは、この紛争を以下のように大きな3つの戦闘に分けた。 「」 - 1990年8月2日から1991年1月16日までの期間。 「」 - 1991年1月17日から1991年4月11日までの期間。 「」 - 1991年4月12日から1995年12月30日までの、 ()を含む期間。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• Jstor Home 1997年9月24日. 2015年2月1日閲覧。 Jstor Home 1991年11月3日. 2015年12月4日閲覧。 Gulf War Coalition Forces Latest available by country• 2010 World Almanac and Book of Facts, Pg. 176, Published 2009, Published by World Almanac Books;• 2009年10月31日時点のよりアーカイブ。 2010年11月15日閲覧。 The Jewish Agency for Israel. 2005年1月24日時点のよりアーカイブ。 2010年6月22日閲覧。 Project on Defense Alternatives. 2009年5月9日閲覧。 ; Gronlund, Lisbeth January 28, 1993. 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次のイラク戦争とは、アメリカを中心とした有志連合軍がイラクへ軍事介入し、当時のサダム=フセイン政権を倒した戦争です。 連合軍の攻撃の理由は「イラクが大量破壊兵器を保有している」というものでした。 2003年3月20日、アメリカ軍によるイラクの首都バグダード(バグダッド)への空爆を皮切りに、戦闘がスタート。 アメリカ、イギリス両軍による陸上部隊の侵攻や、各所への本格的な空爆がおこなわれました。 4月9日にバグダードが陥落。 アメリカ軍とバグダード市民により当時のイラクの指導者、フセイン像が倒されました。 イラク軍は抵抗をやめ、5月1日に当時のアメリカ大統領ブッシュが勝利宣言をしたのです。 フセインはその年の12月に捕捉され、2006年12月に死刑に処されました。 イラク戦争自体は実質50日もありませんでしたが、空爆などによってイラク国内で多くの死傷者が出ています。 日本では、当時の小泉首相がアメリカの支持を表明しました。 2004年には非戦闘地域に限り自衛隊を派遣する「イラク特別措置法」が成立し、人道支援のため自衛隊がイラクに出向いています。 話は1990年にさかのぼります。 この年、イラクは石油輸出国である隣国のクウェートに侵攻しました。 翌年から国連は多国籍軍を結成してイラクを空爆し、多数の死傷者を出しながらもクウェートにいたイラク軍を敗走に追い込みました。 これが湾岸戦争です。 この戦争の停戦協定が結ばれる際、イラクと国連の間には「国際連合安全保障理事会決議687」という決議が交わされます。 この決議には「イラク内にある大量破壊兵器をすべて破棄する」という内容が含まれていました。 ところがその後、査察をおこなおうとすると、イラクは拒否します。 国連に参加する国々は「イラクは核ミサイルや兵器を隠し持っているのではないか?」という不信感をもつようになりました。 2001年9月11日にニューヨークで同時多発テロ事件が発生すると、アメリカはテロ事件の首謀組織であるアルカイダとイラク政府がつながっていると考えるようになります。 2002年にはブッシュ大統領が「イラン、北朝鮮、そしてイラクは悪の枢軸、テロ支援国家である」という演説をしました。 イラクがまだ兵器を持っているとすれば、野放しにすることは危険です。 2003年には新しい国連決議が採択され、あらためてイラクに「大量破壊兵器の情報開示」が求められました。 これにフセインはかろうじて応じます。 査察団はイラク国内に存在すると考えられていた大量破壊兵器を探しますが、そのようなものは一向に見つかりませんでした。 それにもかかわらず、イラクを疑うアメリカは「サダム=フセインはテロ組織アルカイダと関係しているとみられる」という大義も付け加え、武力行使でイラク政府に制裁を与えることを決定したのです。 国連安保理のなかでも、フランス、ドイツ、ロシア、中国らは軍事介入に反対しました。 合意を得られないまま、アメリカやイギリスなどは有志連合を組み、3月17日にフセイン大統領らの即時国外退去を勧告。 これに応じなかったため、3月20日、空爆という先制攻撃に踏み切ったのです。 イラク戦争の結末 2003年の査察で見つからなかった大量破壊兵器は、その後も存在の証明ができないままでした。 この戦争に本当に大義はあったのか?という声も多く、イギリスでは当時のブレア首相が退陣に追い込まれます。 またブッシュの勝利宣言後も、イラク国内ではテロや戦闘が続いていました。 死傷者は増え続け、イラク新政府が樹立してもしばらくは治安の悪いままだったのです。 アメリカやイギリスの軍は治安維持のためにとどまり、イラク国内での活動を続けました。 2009年、イギリスはイラクの治安が回復傾向にあると判断し、軍を撤退させます。 2010年には当時のアメリカ大統領オバマもイラク戦争の終結宣言をして、アメリカ軍の主要戦闘部隊がイラクを去ります。 残った部隊も2011年中に撤退を完了することとなりました。 しかしながら、その後のイラクも、決して平和な国になったとは言えない状況です。 アメリカ軍撤退後もイスラム教スンニ派とシーア派の宗教対立が激化するなど、内戦状態が続いています。 過激派も増え、テロがあちこちで起こるようになりました。 イラク戦争の全貌を知りたい方におすすめ 著者が密着したのはアメリカ陸軍歩兵連隊。 兵士のなかには10代の青年も多くいましたが、彼らがイラクで見たのはまさに地獄といっていいような惨状でした。 相手を殺すということ、殺されるということ、他人を傷つけ、時に自分も痛めつけられるということ……読んでいるうちに苦しくなってくるような場面もあります。 イラク戦争はその開戦理由からしても多くの疑念がありました。 政府の考える大義によって派兵された兵士たちの、心と体への負担は想像を絶するものです。 読後にはイラク戦争に正当性は、必然性はあったのだろうか?と考えずにはいられなくなるでしょう。 2015年には同じ著者によってこの本の続編ともいえる『帰還兵はなぜ自殺するのか』が出版されています。 写真で感じるイラク戦争 著者のジョージ・パッカーはアメリカ人ジャーナリスト。 イラクからの報道で受賞もしています。 この本の特徴は、圧倒的な取材からしか得ることができない貴重な証言や、そこからつながる多様な論点が書かれていることでしょう。 イラク戦争という歴史的事件から見えるひとつひとつの話題について、多様な意見があり、それに対して自分はどのように思うか、ぜひ考えながら読んでいただきたいです。 イラク戦争を深く学びたい方は、ぜひ手に取ってみてください。 近現代の戦争は、今現在の国際情勢や政治に深くかかわっています。 イラク戦争の結末も、多くの国の政治体制に影響を与えました。 すでに終わった歴史としてだけでなく、今なお影響を残している戦争でもあります。 ぜひ今一度、これらの本を読んでみてください。
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