トランプ大統領の側近だったボルトン前大統領補佐官は政権の内幕を描いたとする回顧録の出版を前にABCテレビのマーサ・ラダッツ氏の独占インタビューに応じました。 この中でボルトン氏はトランプ大統領について外交・安全保障の一貫した方針がないとしたうえで、トランプ大統領が『フィンランドはロシアの一部か』と尋ねたという話しに触れ、「そのような質問をしてくる人間を相手にするのは非常に困難だ」として、基本的な知識に欠けると指摘しました。 さらに「職務を遂行する能力があるとは思えない。 自分の再選に有利かどうかだけが彼の指針だ」と述べて、重要な政策をみずからの再選に有利かどうかという基準だけで決定していると批判しました。 ボルトン氏はまたトランプ大統領がいわゆるウクライナ疑惑を否定していることについて「うそをついている。 こうしたことを明らかにすることが大切だ。 大統領は本に書かれたことを国民が知ることを恐れている」と述べました。 一方、議会で行われた弾劾裁判で自身が証言しなかった理由を問われると「召喚されれば証言する準備はできていた。 弾劾の進め方が間違っていた」と答えました。 ボルトン氏はインタビューで繰り返しトランプ大統領の資質や対応を問題視し、秋の大統領選挙については「彼が1期だけの大統領として記憶されることを願う。 1期なら乗り越えられるが2期となると不安だ」と述べて、再選されればアメリカを取り巻くさまざまな問題がより深刻化するという認識を示しました。 ABCテレビは、マーサ・ラダッツ氏によるボルトン前大統領補佐官の独占インタビューの一問一答をウェブサイトに掲載しました。 このなかでボルトン氏は、トランプ大統領がなぜこの本を誰にも読ませたくないのか問われたのに対し、「なぜならば、これが事実が詰まった本だからだ。 この本は告発でも感情的な対応でも理屈でもない。 私が試みたのはトランプ政権と国家安全保障において、どのように決定が下されているのか、その歴史と事実を500ページにまとめて書くことだ」と答えました。 そして、トランプ大統領がなぜ事実を知られたくないと思っているのかという質問には「それが彼が示したいと思っている決断力のある大統領というイメージと正反対だからだ。 そこにはドナルド・トランプの再選によいことかどうかということのほかに、何らの指針もない。 一貫した原則も戦略も哲学もない。 特に致命的になり得る国家安全保障の政策において、決定は無秩序なやり方でなされている。 これは危険だ」と答えました。 さらにボルトン氏は「私が知るかぎり、彼(トランプ大統領)はめったにものを読まず、インテリジェンスに関するブリーフィングは週に1回か2回だった。 本来は毎日、行われるべきで、これは異常だ」と指摘しました。 またラダッツ氏が「本のなかで、あなたは大統領が単に知識がないのではなく、驚くべき無知だと書いているが、どのようなことがあったのか」と質問したのに対し、「何度も何度も議論していることでも、ふに落ちていないように見えることがあった。 例えば、なぜ朝鮮半島が分断されたのかということだ」と述べ、朝鮮半島の歴史への知識が十分ではなかったことを示唆しました。 さらに本のなかで、トランプ大統領がフィンランドはロシアの一部かと質問したという出来事を紹介していることについて「確かにそう言っていた。 政策を議論している時にそのような質問をする誰かに対応して、どのように物事を進めるのか、その方法を見つけることはとても困難だ。 この種の出来事は何度も何度も繰り返された」と明らかにしました。 また、ボルトン氏は「大統領を間近で観察したことがない多くの人は、彼の集中力の欠如に不平を言うが、こと再選のこととなると彼の集中力は無限に続く」と指摘しました。 そして、中国との貿易交渉については「彼は中国がより多くの農産物を購入することに集中し、習主席に直接、手助けするよう話したが、これは私にとっては敵対的な国家の指導者に大統領が語る内容として、非常に驚くべき発言だった」と述べて、トランプ大統領が選挙に向けて農家からの支持を得るため、中国の習近平国家に農産物を購入するよう支援を求めたと明らかにしました。
次の【ご注意】『みんなの株式』における「買い」「売り」の情報はあくまでも投稿者の個人的見解によるものであり、情報の真偽、株式の評価に関する正確性・信頼性等については一切保証されておりません。 また、東京証券取引所、名古屋証券取引所、China Investment Information Services、NASDAQ OMX、CME Group Inc. 日経平均株価の著作権は日本経済新聞社に帰属します。 『みんなの株式』に掲載されている情報は、投資判断の参考として投資一般に関する情報提供を目的とするものであり、投資の勧誘を目的とするものではありません。 これらの情報には将来的な業績や出来事に関する予想が含まれていることがありますが、それらの記述はあくまで予想であり、その内容の正確性、信頼性等を保証するものではありません。 掲載しているFX会社の評価やランキングは、各FX会社の公式サイトの掲載情報や、実際の取引画面の調査、個人投資家へのアンケートに基づいています。 ただし、必ずしもサービスの内容、正確性、信頼性等を保証するものではございません。 また、ランキングの評価項目は各カテゴリの比較ページに掲載しています。 総合ランキングについてはスプレッド比較、スワップ比較、PCツール比較、スマホアプリ比較、取引ルール比較、ニュース・コラム比較の評価をもとにランキングを作成しています。 これらの情報に基づいて被ったいかなる損害についても、当社、投稿者及び情報提供者は一切の責任を負いません。 投資に関するすべての決定は、利用者ご自身の判断でなさるようにお願いいたします。 個別の投稿が金融商品取引法等に違反しているとご判断される場合には「」から、同委員会へ情報の提供を行ってください。 また、『みんなの株式』において公開されている情報につきましては、営業に利用することはもちろん、第三者へ提供する目的で情報を転用、複製、販売、加工、再利用及び再配信することを固く禁じます。
次の来歴 [ ] 生い立ち [ ] 、のでの家庭に生まれた。 本来の姓名は ハインツ・アルフレート・キッシンガー(: Heinz Alfred Kissinger)で、姓は ()に由来する。 父ルイス・キッシンガーは女子高でとを教え、母パウラ(旧姓シュテルン)は近郊出身の富裕な家畜業者の娘。 亡命 [ ] 1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、1933年に、を党首に擁き反ユダヤ人政策を推し進めるが、多くのの支持を受けての末にしたために運命が一変した。 一家は多くのドイツ人が支持した反ユダヤ人政策を嫌って1938年にへ移住し、中の1943年に同国に。 なお、ドイツに残った親類はドイツ人に殺害されたとされる。 親類が本当に存在したか、殺されたかの詳細は不明。 移住後はジョージ・ワシントン高校に3年半通う。 後半2年間は夜間クラスで、昼間は髭そり用ブラシの工場で働き、週約15ドルのが一家のアパート住まいの生活を助けていた。 高校卒業後は、工場で働く一方職場近くにあったニューヨーク市立大学シティカレッジ経営・行政管理学部(の前身)にもパートタイム学生として通い、特に会計学で優秀な成績を修めた。 軍歴 [ ] 中の1943年、大学での学業を中断してに入隊する。 陸軍ではの能力を生かし戦線の対諜報部隊として従軍した。 すなわち、の部下として(後の)に配属されたのである。 ハーバード大学院 [ ] 1946年に復員し、に入学。 1950年、政治学の学位を取得し最優等で同大学を卒業する。 引き続き同大学に進学し、 ()の指導のもとの外交史を研究し、1952年に学位を、1954年にはについての研究で学位を取得する。 この論文では、その後の100年間、欧州で大きな戦争が防がれた国際秩序が、どのようにして作られたかが論じられている。 その要因の一つとして、敗れたのに対して、やらが、懲罰よりも力の均衡の回復を重視したことを上げている。 にはに参加している。 大学院生時には指導教授の庇護を受け、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行うサマー・セミナーの幹事役となり、国内外にその後のワシントン入りにも繋がる人脈を形成した。 日本からの参加者としては、などがいる。 外交問題評議会参加 [ ] ハーバード大学院における博士課程修了後に、同大学で教鞭をとっていたが、への参加を通じて、同時代の外交政策にも積極的な提言をはじめる。 特にキッシンジャーは政権の採用した(「」)の硬直性を辛辣に批判し、のちの政権が採用する「」のひな型ともいえる、・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した。 1960年代にはケネディ大統領の顧問として外交政策立案に一時的に関与することとなる。 しかし、ケネディ政権でに就任したが ()に際してドイツ問題の専門家であるキッシンジャーを遠ざけたため、1年足らずの1961年11月に辞職している。 また、駐在大使の長男がハーバード大学で同僚だった関係で、大使の顧問として1965年から1966年にかけ3回を訪問し、の現実を知った。 この時キッシンジャーがに行った報告が、をベトナム派遣軍司令官から更迭する遠因になったという。 また学者としての情報機関と接触したことから、国務省が行っていた政府との秘密工作のひとつ(「ペンシルベニア」と呼称)と関わったが成果は上げられなかった。 政権入り [ ] ニクソン政権 [ ] と電話で協議するキッシンジャー、1975年 では共和党の大統領候補指名予備選に立候補したの外交政策顧問を務め、1964年と1968年の大統領選でも予備選に出馬したネルソンを支援するなどとの交流が深く、後に3代目の当主は銀行の中国進出を決めた際にキッシンジャーから助言を受けている。 しかしロックフェラーの敗北後、で当選したから直々のスカウトを受け、政権誕生とともにとして政権中枢に入り、ニクソン外交を取り仕切る。 キッシンジャーの大統領補佐官指名は、、の指名の前になされた。 ここにニクソンのキッシンジャーへの期待を読み取る論者も少なくない。 政権までの外交政策は、国務長官が決定権を握り、国家安全保障担当補佐官は調整役とされてきた。 しかしニクソンとキッシンジャーはが外交政策の決定権を握るべきだと考えていた(キッシンジャーは1968年に発表した「官僚と政策立案」と題する論文で、アメリカ外交の機能強化のためジョンソン政権下でほとんど有名無実の存在と化していたNSCの活用を提案している )。 ニクソンの命を受けたキッシンジャーはNSCのスタッフ(特別補佐官)に若手の外交官、軍将校、国際政治学者をスカウトして組織した。 キッシンジャーからNSC特別補佐官にスカウトされた人物には、、、、などがいる。 キッシンジャーは、などと激しい権力闘争を行い、ニクソン政権ではNSCが外交政策の決定権を独占することとなる。 特に国務長官を重要な外交政策から排除してしまった。 キッシンジャーは、NSC特別補佐官のほかに、駐在武官、CIA支局長などをNSCの手足として用いていた。 後述する1971年の極秘訪中の際も、キッシンジャーはロジャース国務長官と国務省に一切知らせずに、、、などに勤務している駐在武官やCIA支局長を利用して秘密裏にに到着した。 北京では、中華人民共和国側の英語通訳に依存して交渉が行われた。 冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な役割を果たした。 にはニクソンの「密使」として、当時でソ連と緊張状態にあったを極秘に二度訪問。 周恩来と直接会談を行い、への道筋をつける。 一方で、この中華人民共和国との和解を交渉カードとして、終結に向けたとの秘密停戦交渉や、ともを締結するなど政策を推進した。 また、同時期のではソ連の影響力を抑えるためにニクソン訪中の仲介国でもあったパキスタンを中国とともに支援した。 には毛沢東はキッシンジャーとの会談で米国、日本、中国、パキスタン、、、欧州によるソ連包囲網の構築を提案した。 このような大国間関係の動きと連動して、ニクソンとキッシンジャーはから初頭のアメリカにとって最大の外交問題であったベトナム戦争の終結にも成果を納めた。 アメリカが中ソと関係改善を行い、その結果、ベトナム戦争において中ソ両国の支援を受けてアメリカと対峙していたを外交的に孤立させ、同時に大規模なの再開や機雷封鎖などで軍事的にも追い込み、アメリカはジョンソン政権時代の1968年5月よりで暗礁に乗り上げてきた和平交渉妥結に成功した。 ニクソンの訪中から3か月後に行われたこの北爆再開と海上封鎖も中国の了解を得たとベトナム共産党書記局員で党機関紙編集長も務めたホアン・トゥンは証言している。 にはが調印され、ベトナム戦争終結への道筋をつけることとなった。 これを功績としてアメリカ交渉団の代表であったキッシンジャーはを受賞する。 また、後は積極的に地域を訪れてとの調停を行う「 ()」を展開し 、にはアラブ諸国の盟主でイスラエルの敵国だったの政権をソ連から引き離して化させて軍事援助および経済援助を与え 、の第二副首相兼内相と会談してを建て決済で安定的に供給するサウジに米国は安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてを確立させてドル防衛に成功した。 でのソ連の影響力排除を目的にエジプトとサウジアラビアなどが結成した同盟 ()も支援した。 フォード政権 [ ] フォード大統領とロックフェラー副大統領とともに(1975年) これら種々の成果を得たキッシンジャーは、1973年には大統領補佐官に留任したまま国務長官に就任し、フォード政権の退陣までの間において外交政策の全般を掌握することとなった(翌1974年、政権の成立に伴い、補佐官職は退任する)。 フォード政権でも外交政策に明るくない大統領を尻目に、補佐官時代の部下であった国家安全保障問題担当大統領補佐官のや、国務省参事官ら側近を活用しながら、フォード政権下でも続いたデタント政策をリードした。 一方でより厳しい対ソ連認識を抱き、ニクソン政権時代から進められていたデタント政策に批判的な(大統領首席補佐官・国防長官を歴任)などとは閣内で対立していた。 利益誘導 [ ] キッシンジャーは国務長官在任中 1973-1977 に、指導者たちを多くの政府機関の役職に就け、ADL ユダヤ名誉棄損防止連盟 支持者を新教系協会団体のなかに導入し、前(IRS)長官シェルダン・コーエンに説いて、ADLや何百というシオニスト機関が永遠に免税措置を受けられるよう、IRSの規則を書き換えさせた。 退任後 [ ] ドナルド・トランプ大統領とともに(2017年) 、キッシンジャーはフォード政権の退陣と共に国務長官を退任した。 から教授就任の誘いを受けたが、学生の激しい反対に会い、就任を断念する。 その後(CSIS)に招かれ、在職中次々と政権時代の回想録を発表し、話題を呼ぶこととなった。 1982年、国際コンサルティング会社「」を設立し、社長に就任。 同社には政権でを務めた(後に国務長官)や、を務めたなどが参加している。 また、政権でに就任したも、一時同社に籍を置いていた。 現在は「現代外交の生き字引的存在」として多くの著書を持つほか、世界各国で講演活動を行っている。 また、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめとする世界各国の指導層と親交を持っており、国務長官退任から30年以上たった現在でもその国際的影響力は「最大級」と評価されている。 最近では、政権において指南役として活躍した。 ブッシュはキッシンジャーとは定期的に会談の機会を設けており、政権外で最も信頼する外交アドバイザーであった。 キッシンジャーはブッシュ政権下で行われているも基本的に支持していた。 また、2007年1月4日には、、らと連名で「核兵器のない世界に( A World Free of Nuclear Weapons)」と題した論文を『』紙上に発表した。 同論文はイラン・などが核開発を試み、また国際テロリスト・グループによる核保有の可能性すら存在する現代において、核兵器に過去のような抑止効果は存在しないとして核兵器廃絶をアメリカが唱道すべきことを訴えており、注目を集めている。 2009年4月20日、にて特別講演会を実施。 この模様は後日でも放映された。 2011年11月11日夜には、を訪問、と会談し、「交渉参加方針を歓迎する」と述べた。 第44代のとはトランプ曰く「政治の世界に入るずっと前からの友人」という旧知の仲であり 、大統領就任前後からトランプはキッシンジャーに助言を仰いできた。 キッシンジャー・アソシエーツに所属した ()国家安全保障問題担当大統領副補佐官やCSISで同僚 だった国務長官の抜擢はキッシンジャーの推薦だったとされる。 12月には、訪中してと北京で会談し、タイミング的に勝利したトランプ新政権の対中外交方針を伝えたものとされている。 には、大統領執務室にて報道陣と応対、トランプが「キッシンジャー氏と議論ができて光栄だ」とコメントしている。 同年7月にティラーソン国務長官に対して「米中は北朝鮮の政権崩壊に向けて撤退を事前合意すればよい」と提言したとされ 、同年8月にはで「北朝鮮問題は専ら米中で解決すべき」とする寄稿を行った。 同年10月10日には、トランプは日中韓3か国への初のアジア歴訪に備えてキッシンジャーと会談した際に「キッシンジャー氏を尊敬している」と発言した。 これらのことから非公式の外交顧問になっていると目されている。 2017年6月29日、を訪問してと会談。 その直後、ホワイトハウスは同年7月に米露首脳会談を実施することを発表したことから、ロシアの報道機関はキッシンジャーが調整役を担ったとの見方を示した。 日本に関して [ ] 日本については、経済大国である以上政治・安全保障両面でも大国として台頭しようとする欲求を持つだろうとの見方を一貫して示している。 特に、1971年の周恩来との会談でに基づくの駐留が日本の「」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論は有名である。 冷戦後間もない時期の著書である『外交』でも将来日本が政治的に台頭するとの予測を示した。 2008年1月の「日高義樹のワシントン・レポート」でも変わらず、「日本は10年後に強力な軍隊を保有しているだろう」と述べ、やについては「日本が決めることだ」と発言している。 首相の密使として交渉に当たったの著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(1994年)によると、キッシンジャーは1969年11月に、「返還後も緊急事態の際に事前通告により沖縄に核兵器の持ち込みおよび通過を認める権利」を要求、若泉との交渉により「事前通告」を「事前協議」とすることで諒解したという。 この条項を含む密約の存在について、1995年にの取材を受けたキッシンジャーは、「お国(日本)の政府に聞きなさい」と返答を拒んだ。 その後、2007年に・教授によるでの機密解除公文書調査で、キッシンジャーが11月19日から21日にかけての日米首脳会談のためにニクソンに宛て作成した、核密約締結手順を記載したメモが発見されている。 にについてインタビューされたことがあり、「あなた方は広島と長崎に原爆を落とした。 そしてまったく何の罪もない一般市民を大量に殺した。 この責任をアメリカはどうとるつもりなのか」と聞いたら、キッシンジャーは「広島と長崎に原爆を落とさなければ日本は本土決戦をやるつもりだった。 本土決戦で何百万人、あるいは一千万人以上の日本人が亡くなるはずだった。 原爆を落とすことでその人数をかなり減らしたんだから、むしろ日本はアメリカに感謝すべきだ」と答えたという。 [ ] 評価 [ ] 大統領とともに(1981年) キッシンジャーがニクソン政権で推進した外交の特徴はその(リアリズム)にあった。 これはの代わりにアメリカの実益としてを外交の中心に据え、世界的なに配慮しつつ、国際秩序をアメリカにとって受け入れられる形の安定へと導くことを目的としていた。 このような国際秩序像の背景にはかつてキッシンジャーが研究し、その安定性を高く評価していたが一つのモデルとして存在していたことが、多くの研究で指摘されている。 キッシンジャーらの発想は時代のという冷酷な現実の中で、従来アメリカが基本的国策としていたとという極端な外交の二分化がもはや機能しなくなったことを端的に表すものだった。 キッシンジャーの推進したデタント政策は、ベトナム戦争からの脱出という短期的な意味と、米ソという二つの超大国間の対立という約20年間継続されてきた従来の冷戦構造に、当時やを経てに基づくという立場で米ソと敵対した中華人民共和国を「第三勢力」として新たなプレイヤーに組み入れること(「米中ソ三角関係」などとも評される)、ソ連が核戦力の面でアメリカと対等な立場にあることを明示的に認めることによって、大国間の勢力バランスを現状に即したものへと安定的に再編成するという、長期的な意味を持った戦略の組み合わせだった。 キッシンジャーは、国家安全保障担当補佐官時代から国務長官(指名)時代に至るまで、その独特な風貌やドイツ風のアクセント、さまざまなパーティで有名女優を同伴して登場するなどの派手なパフォーマンス、日本で「忍者外交」などと形容された神出鬼没の外交スタイル、さらに終結への貢献によるノーベル平和賞受賞などといったさまざまな理由から、歴代の前任者たちとは比較にならないほど目立つ存在だった。 1972年後半には「もしキッシンジャーが今死んだら、ニクソンがアメリカ大統領になるんだ」というジョークが広まったほどだった。 今日では「ドクター・キッシンジャー」は20世紀後半を代表する外政家とする認識が一般的である。 しかし、このような「外交の達人」という一般的な評価は、キッシンジャーが国務長官退任後繰り返し発表してきた著書や回想録に拠るところが大きく、前記の若泉敬は「キッシンジャーの回想録を鵜呑みにするな」と語っている。 近年ではニクソン外交の実態について、公開された文書史料をもとに「外交政策の構想者・決定者は、外交通だった大統領・ニクソンであり、キッシンジャーはそのメッセンジャー・ボーイに過ぎなかった」などとし、ニクソンの比重をより重く見る研究も現れている。 冷徹なリアリストとして軍事介入や秘密工作も辞さなかったことから、時の、の画策、による占領への協力を指揮したキッシンジャーに対して、やらは「」「人」として糾弾した。 家庭生活 [ ] 妻ナンシーとともに 高校時代、アン・フライシャー(Ann Fleischer)と知り合い交際をしていたが、戦争の影響でしばらく疎遠となった2人が結婚したのは1949年2月6日で、ヘンリーが25歳、アンが23歳だった。 結婚式はにあるヘンリーのアパートで行われ、12名ほどが出席した。 に則って式が行われた。 長女が1959年、長男が1961年に生まれたが、1963年別居状態となり、1964年に離婚する。 その後アンは女性解放運動に参加。 1973年に化学者のソール・コーエン(Saul Cohen)と再婚。 一方のキッシンジャーは1974年、ハーバード時代の教え子でネルソン・ロックフェラーの秘書だったナンシー・シャロン・マギネス(Nancy Sharon Maginnes、1934年生まれ)と再婚した。 式には 前妻との2人の子供も出席した。 キッシンジャーは離婚から再婚までの間に少なからぬロマンスを報じられていたこともあり、この際は、「浮名を流したヘンリー年貢を納める( Swinging Henry Ends His Days of Bachelorhood)」と報じている。 逸話 [ ]• の肖像画を省内に飾る予定でキッシンジャーの肖像画をガードナー・コックスに依頼したが、背を低めに寸詰まりに描写されたと本人はいたく気に病み、描き直しの要請までしたが、コックスはそのままでいいと相手にしなかった。 ただしコックスにも製作料が払われず、喧嘩両成敗となった模様。 強い訛りの英語について聞かれた時「私は外国語を流暢に話す人間を信用しない」と切り返したことがある。 のテレビCMでは、ソ連からしたや、同じドイツからの亡命者のとともに、身近にいる(亡命者)の例として紹介されている。 の番組「」に年1回出演し、1月に放送されるのが恒例であった。 愛人としてハリウッド女優の(IQ162、14歳で飛び級でに入学)の名前が挙がったこともある。 の首相の交渉について""の語を用いて批難した。 1972年にチェスプレイヤーのが当時の世界チャンピオンのに挑戦するにあたり、フィッシャーに激励の電話をかけている。 は自ら開発した ()を使いキッシンジャーを騙ってに電話をかけ、当時のを呼び出したところ、担当者から「就寝中なので今から起こす」と言われ慌てて電話を切ったという。 著書 [ ] 単著 [ ]• 訳『回復された世界平和』(, 1976年/新装版, 2009年)• ・訳『』(, 1958年) 訳『核兵器と外交政策』(抄訳版, , 1988年)• The Necessity for Choice: Prospects of American Foreign Policy, Harper, 1961. The Trobled Partnership: A Reappraisal of the Atlantic Alliance, McGraw-Hill, 1965. American Foreign Policy, Weidenfeld and Nicolson, 1969. White House Years, Little, Brown, 1979. ほか訳『キッシンジャー秘録(1-5)』(, 1979-1980年)• For the Record: Selected Statements 1977-1980, Weidenfeld and Nicolson and Joseph, 1981. Years of Upheaval, Weidenfeld and Nicolson, 1982. 読売新聞調査研究本部訳『キッシンジャー激動の時代(1-3)』(小学館, 1982年)• Observations: Selected Speeches and Essays, 1982-1984, Little, Brown, 1985. 監訳『外交(上・下)』(, 1996年)• Does America Need a Foreign Policy? On China, Allen Lane, 2011. Problems of National Strategy: A Book of Readings, Praeger, 1965. 公刊史料 [ ]• The Kissinger Transcripts: the Top Secret Talks with Beijing and Moscow, ed. by William Burr, New Press, 1999. ・訳『キッシンジャー<最高機密>会話録』(, 1999年)• ・監訳『周恩来・キッシンジャー機密会談録』(, 2004年) 対談本(日本語オリジナル) [ ]• ()『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』(, 1987年)• ()『キッシンジャー・世界はこう動く』(, 1991年)• (日高義樹)『キッシンジャー博士日本の21世紀を予言する』(, 2000年)• 11後の世界と日本』(, 2002年) キッシンジャーに関する作品 [ ]• 映画『 ()』 - ()監督のドキュメンタリー。 2002年。 による同名の著作 を原作としている。 - 第5シーズン第10話に登場。 トイレにメガネを落としてしまうが、パリ協定の立役者だからと、落とした事を言い出せず壁に突っ込み病院に収容されてしまう。 参考・関連文献 [ ]• ・編『多極化時代の戦略(上・下)』(, 1973年)• Marvin L. Kalb and Bernard Kalb, Kissinger, Little Brown, 1974. 高田正純訳『キッシンジャーの道(上・下)』(徳間書店, 1974年)• William Shawcross, Sideshow: Kissinger, Nixon, and the Destruction of Cambodia, Simon and Schuster, 1979. 鎌田光登訳『キッシンジャーの犯罪』(パシフィカ, 1980年)• , The Price of Power: Kissinger in the Nixon White House, Summit Books, 1983. Michael Joseph Smith, Realist Thought from Weber to Kissinger, Louisiana State University Press, 1986. ウェーバーからH. キッシンジャーまで』(垣内出版, 1997年)• , Henry Kissinger: Doctor of Diplomacy, Columbia University Press, 1989. Gerry Argyris Andrianopoulos, Kissinger and Brzezinski: the NSC and the Struggle for Control of US National Security Policy, Macmillan, 1991. Walter Isaacson, Kissinger: A Biography, Simon and Schuster 1992. , A Tangled Web: the Making of Foreign Policy in the Nixon Presidency, Hill and Wang, 1998. Christopher Hitchens, The Trial of Henry Kissinger, Verso, 2001. 井上泰浩訳『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』(, 2002年)• Berridge, Maurice Keens-Soper and T. Otte eds. Diplomatic Theory from Machiavelli to Kissinger, Palgrave, 2001. , The Flawed Architect: Henry Kissinger and American Foreign Policy, Oxford University Press, 2004. David J. Rothkopf, Running the World: The Inside Story of the National Security Council And the Architects of America's Power. Public Affairs, 2005. Bruce Kuklick, Blind Oracles: Intellectuals and War from Kennan to Kissinger, Princeton University Press, 2006. Jeremi Suri, Henry Kissinger and the American Century, Harvard University Press, 2007. , Nixon and Kissinger: Partners in Power, Harper Collins, 2007. Holger Klitzing: The Nemesis of Stability. Henry A. Kissinger's Ambivalent Relationship with Germany. WVT 2007. - のキッシンジャーというあだ名があった元。 注釈 [ ]• 日本語訳『回復された世界平和』がこれに該当。 日本語訳『核兵器と外交政策』がこれに該当、当時の代表的な核戦略論文をまとめたアンソロジー『多極化時代の戦略 上』(・編、、1973年)にも当時のキッシンジャーによる論文が複数収録されている。 著(村山章子訳)『キッシンジャー 1923ー1968 理想主義者(2)』(日経BP社, 2019年)。 (同上)。 デイヴィッド・ロックフェラー著、楡井浩一訳『ロックフェラー回顧録』第18章 新潮社 2007年• 著(村山章子訳)『キッシンジャー 1923ー1968 理想主義者(2)』(日経BP社, 2019年)• David J. Rothkopf, Running the World: The Inside Story of the National Security Council And the Architects of America's Power. Public Affairs, 2005 , chap. この際の会談記録を編纂したものが、『周恩来・キッシンジャー機密会談録』。 VSM, Brig Amar Cheema 31 March 2015. The Crimson Chinar: The Kashmir Conflict: A Politico Military Perspective. Lancer Publishers. 281—282• Harold H. Saunders, "What Really Happened in Bangladesh" Foreign Affairs 2014 93 4 d• Alvandi, Roham November 2016. Nixon, Kissinger, and the Shah: The United States and Iran in the Cold War. Oxford University Press. 中华人民共和国外交部. 2019年7月15日閲覧。 『「悪魔祓(あくまばら)い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』 第21章 PHP研究所、2015年2月、• 事実上は単なるアメリカ軍のベトナム戦争からの撤退であり、その後も南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦闘は継続されたため、ベトナム戦争自体は1975年4月まで続いた• 北ベトナム側の代表であるは受賞を辞退した• George Lenczowski, American Presidents and the Middle East, Duke University Press: 1990 , p. 131• Craig A. Daigle, "The Russians are going: Sadat, Nixon and the Soviet presence in Egypt. " Middle East 8. 1 2004 : 1. Moshe Gat 2012. In Search of a Peace Settlement: Egypt and Israel Between the Wars, 1967-1973. Palgrave Macmillan. 256—58. 2016年5月30日. 2019年11月25日閲覧。 Clark, William R. Petrodollar Warfare: Oil, Iraq and the Future of the Dollar, New Society Publishers, 2005, Canada,• "Petrodollar power". The Economist. 7 December 2006. 2019年11月25日閲覧。 FXCM. com. 2019年11月25日閲覧。 Cooley, John. Unholy Wars: Afghanistan, America and International Terrorism. London: Pluto Press, 1999; 3rd edition, 2002. 284 『知られざる世界権力の仕組み』ユースタス・マリンズ• (伏見威蕃訳)『ブッシュのホワイトハウス(下)』(日本経済新聞社、2007年)、248-256ページ。 フーバー研究所による再掲。 2008年1月15日号にも同趣旨の論文を発表した。 2017年10月10日. 2018年1月9日閲覧。 2016年11月17日. 2017年10月12日閲覧。 2016年5月19日. 2017年10月12日閲覧。 2016年12月13日. 2018年1月9日閲覧。 2017年1月6日. 2018年1月9日閲覧。 2016年12月2日. 2018年1月9日閲覧。 2017年8月28日. 2017年10月17日閲覧。 2017年10月11日. 2017年10月12日閲覧。 毎日新聞(2017年5月11日)2017年5月11日閲覧• 産経ニュース(2017年7月2日)2017年7月2日閲覧• 前掲『周恩来・キッシンジャー機密会談録』 を参照。 キッシンジャー『外交(上)』(日本経済新聞社、1994年)、第1章を参照。 NHK取材班『戦後50年その時日本は〈第4巻〉沖縄返還・日米の密約 列島改造・田中角栄の挑戦と挫折』、1996年• 琉球新報2007年10月8日• 関係するエピソードとして、キッシンジャーが大学院生時代のものがある。 キッシンジャーが研究を行っていたからの時点でも、「登場以前の19世紀の外交史を研究することは役に立たない」と一般に認知されていたが、キッシンジャーは「ウィーン体制を理解すれば、現在の国際政治の構造も説明できる」と語っていたといわれる。 アイザックソン『キッシンジャー(上)』。 国際政治を概観した著書『外交』においても、キッシンジャーはウィーン体制を高く評価している。 著(村山章子訳)『キッシンジャー 1923ー1968 理想主義者(1)』(日経BP社, 2019年)• 、井上泰浩訳『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』(集英社, 2002年),映画 2002• ナポレオン戦争によって破壊されたヨーロッパの秩序を再構築し、その後ほぼ一世紀にわたる安定を確保したオーストリア宰相メッテルニヒを中心に描いた力作。 正当性とバランスオブパワーの確保が国際秩序の樹立に必要だという見方を示した。 からソ連崩壊後の時代までの「外交」の歴史を書き記した著作。 リシュリュー枢機卿やメッテルニヒ、ビスマルクなどの現実主義的外交を賞賛しつつも、アメリカの理想主義の持つエネルギーにも触れるなどその考察の深さが際だつ大著。 日本語訳。 井上泰浩訳『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』(集英社, 2002年)。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 Towards the end [55:55], he responds to Hitchens. A Report to the Committee on Foreign Relations, United States Senate, by Senator John Kerry and Senator Hank Brown, December 1992 102d Congress 2d Session Senate Print 102-140. Henry B. Gonzalez speech in Congress, May 2, 1991.
次の