小児科• 皮膚科• 婦人科• 産婦人科• 耳鼻いんこう科• 整形外科• アレルギー科• 泌尿器科• 肛門外科• 胃腸内科• 気管食道内科• 胸部外科• 形成外科• 血液内科• 呼吸器内科• 呼吸器外科• 心療内科• 消化器内科• 脳神経内科• 心臓血管外科• 消化器外科• 小児外科• 循環器内科• 腎臓内科• 精神科• 糖尿病内科• 内分泌内科• 乳腺外科• 脳神経外科• 美容外科• ペインクリニック内科• 放射線科• 麻酔科• リハビリテーション科• リウマチ科• 老年内科• ,Ltd. googletagmanager. html?
次の1977年の南稚内駅と周囲約700m範囲。 左が稚内方面。 国鉄型配線の2面3線と外側に2本の副本線、駅舎横名寄方面に貨物ホームと2本の引込み線を持つ。 左上に稚内機関区の扇型車庫が見える。 を基に作成 南稚内駅は、当初は旭川駅から北上してきた宗谷線の終点として、 稚内駅という名前で1922年(大正11年)11月1日に開業した。 当初の宗谷線は、後に天北線となる浜頓別経由の路線で建設された。 この駅は現在の南稚内駅がある場所からは約1 kmほど北に所在しており、現在の稚内港郵便局のあるあたりであった。 稚内港郵便局の向かいにある「ホテル滝川」は、この駅開業以前から現在地で営業しており、駅がある頃は「滝川旅館」として駅前旅館の機能を持っていた。 駅は頭端式で建設されており、駅構内には機関庫や客車の留置設備なども設けられていた。 翌1923年(大正12年)5月1日に、当時日本領であったと結ぶが開設された。 こうして稚内駅は樺太と連絡するための重要な拠点となり、当時数少ない北海道内の急行列車は函館から稚内まで直通するようになった。 高官の乗車などを考慮して、も連結されていた。 ただし稚泊連絡船の発着する場所までは駅から2 kmほど離れており、その間を旅客は徒歩、貨物は荷車で連絡しなければならなかった。 埠頭には待合所が建設され、後にこの施設が稚内港駅へと発展することになった。 なお、開設された1923年の、が当時樺太にあったの工場に教え子の就職を斡旋するためにこの駅を利用している。 1924年(大正13年)6月25日に、天塩北線の兜沼 - 稚内間が開業した。 さらに延長工事が進められて、1926年 大正15年)9月25日に幌延経由の現在の宗谷本線が開通した。 これにより稚内駅は双方からのルートが合流する地点となった。 そのまましばらくは浜頓別経由の線が宗谷線であったが、幌延経由の線の方が距離が短く勾配も少ないことから、1930年(昭和5年)4月1日付で線名が変更され、幌延経由が宗谷本線、浜頓別経由が北見線となった。 1928年(昭和3年)12月26日には、当駅から稚内港駅まで延伸された。 この際には頭端駅であったためにそのまま延伸することができず、駅の手前のところから分岐させる形で稚内港まで延長された。 このために構造となり、稚内駅に到着した列車は一旦本線上まで退行し、進路を変更して前進していくことになった。 稚内 - 稚内港間は1. 5 と設定されていたが、1930年(昭和5年)4月1日のメートル法移行時に、単純にkmに換算した2. 4 kmにするのではなく1. 2 kmとした。 これは移転などによるものではなく、当初設定のマイルを修正したものであると考えられている。 1939年(昭和14年)2月1日に、南稚内駅へ改称し、従来の稚内港駅が稚内駅となった。 1928年の線路延長以後、スイッチバック形式での運転が続けられてきたが、その手間を解消するためと、稚内駅との距離が近すぎるということから、稚内市の都市計画との関係もあり、現在地点へ移転することになった。 これにより1952年(昭和27年)11月6日付けで現在地に移転し、スイッチバックは解消された。 このときに、南稚内駅以南の各駅との間は、南に移転した分として営業キロが1 km短縮されたが、南稚内と稚内間の営業キロはそれよりも長い1. 5 km増加して2. 7kmとなった。 これは実キロ(2. 5km)よりも長く、廃止されたスイッチバックの往復分を誤って加算したのではないかとの推測があるが、現時点でも稚内までの営業キロは2. 7 kmのままである。 移転後の駅舎は当初はバラック建ての建物であったが、翌年に木造モルタル造りの駅舎が完成している。 年表 [ ]• (11年):宗谷本線鬼士別 - 当駅間延伸開業にともない 稚内駅(初代)として開業する()。 稚内機関庫が設置される。 (大正13年):天塩北線の兜沼 - 当駅間が開業する。 (3年):当駅 - 稚内港駅(現在の稚内駅)間の延伸開業に伴い、途中駅となる。 (昭和5年):路線呼称が変更され、方面が宗谷本線から北見線となる。 メートル法施行時に、稚内港との営業距離を1. 5 から1. 2 kmに修正する。 (昭和14年): 南稚内駅に改称する。 (昭和24年):であるに移管。 (昭和25年)2月1日:名寄客貨車区稚内支区が設置される。 (昭和27年):駅舎が移転し、稚内市街地から宗谷本線・北見線の分岐点近くまで約1 km移動する。 これに伴い、抜海との距離は12. 7 kmから11. 7 kmに、声問との距離は8. 1 kmから7. 1 kmに、稚内との距離は1. 2 kmから2. 7 kmに変更される。 (昭和28年):木造モルタル造りの駅舎が完成する。 (昭和36年):路線呼称が変更され、北見線がとなる。 (昭和58年)4月1日:貨物取扱を廃止する。 (昭和60年):取扱を廃止する。 (昭和62年)4月1日:により、北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる。 (元年):天北線が廃止される。 (平成3年):宗谷北線運輸営業所発足。 稚内運転所・稚内工務所を統合し、当駅所属となる。 (平成16年):稚内駅の管理下となる。 当駅所属の運転士を宗谷北線営業所に統合する。 (平成17年):南稚内駅長が廃止される。 (平成28年)4月1日:当駅所属の工務社員(旧稚内工務所)を名寄保線所稚内保線管理室として分離する。 駅構造 [ ] ・(片面使用)複合型2面2線を有する。 ホーム間の移動は跨線橋を使う。 列車は基本的に駅舎側ホームの1番線に入り、島式ホーム内側の2番線は回送列車を含む列車行き違いがある時のみ使用される。 現在は、当駅から終点の稚内駅線路終端まで棒線化されたため、稚内方面へは2列車以上進入できなくなった(11列車)。 また、、、を設置する駅としては日本最北端となった。 稚内方にある遠方信号機は稚内駅が棒線化された際に設置された。 なお、現在島式ホーム外側の3番線は乗降部が崩され保線車両の留置線となっている。 社員配置駅(稚内駅管理)。 出札・改札業務は日中のみだが、入換作業などがあるため輸送担当社員は終日配置されている。 設置(営業時間は6時10分から18時00分まで)。 近距離区間の自動券売機も設置されているが、稼働時間はみどりの窓口営業時間と同一で、その余の時間は使用できない。 2番線は行き違い時のみ使用• 駅名標(2017年10月) かつての配線 [ ] 稚内駅として開業した当初は、現在地点よりも1 ほど北に所在していた頭端駅であった。 以下に1924年(大正13年)2月5日時点での配線図を示す。 この時点では、経由の後に天北線となる路線が宗谷本線であり、現在の宗谷本線である経由の路線は未開通であった。 幌延経由の路線の第一歩となる、天塩北線の稚内 - 兜沼間が開業したのは1924年6月25日のことであるが、この配線図では既に兜沼への線路も描かれている。 稚内駅1924年2月5日時点配線図 出典: 1928年(昭和3年)12月26日に稚内港駅まで延長されると、この駅は頭端駅であったため構造となった。 稚内駅に到着した列車は、一旦本線上へ退行した後に再び前進して稚内港駅への線路へ進んでいた。 南稚内駅へ改称された後の1941年(昭和16年)3月時点の配線図を示す。 南稚内駅1941年2月時点配線図 出典: 1952年(昭和27年)11月6日付けで南へ1 kmほど移転してスイッチバックを解消した。 これにより駅は現在地となった。 1975年3月時点での配線図を示す。 この時点では側線がまだ多数残存しているが、その後の貨物輸送の廃止などに伴い多くは撤去されている。 南稚内駅1975年3月時点配線図 出典: 旧・稚内機関区 [ ] 1977年の稚内機関区と周囲約700m範囲。 左上が稚内方面。 扇型車庫と転車台。 左上は稚内客貨車区。 を基に作成 当駅と稚内駅の間にある車庫は稚内駅・幌延駅発着の車両を格納する車庫となっているが、かつては「稚内機関区」として利用されていた。 現在は特急列車の折り返しのための清掃および整備作業を行っている。 この車庫は当駅から入線する形となっており、稚内駅到着後に一旦、当駅まで回送運転する。 そのため当駅には終日運転扱いの駅員が配置されている。 旧・稚内機関区には運転士も配置されていたが、のち「稚内運転区」に改称された。 稚内運転区では廃止された「稚内車掌区」の業務を引き継ぎ車掌業務も行っていたが、普通列車のワンマン化のため車掌業務は廃止された(現在、特急列車の車掌業務はが担当)。 その後、稚内運転区が南稚内駅に統合された際に運転士は「宗谷北線運輸営業所南稚内駅」所属となったのち、改正で合理化のため(名寄)に統合された。 利用状況 [ ]• JR北海道によると、特定の平日の調査日に実施した乗降人員調査の数値は以下の通り。 調査対象の5年間 5年間の各調査日における 平均乗車人員 (人) 出典 2012年 - 2016年 97. 4 2013年 - 2017年 83. 4 2014年 - 2018年 75. 稚内市統計書によると、JR北海道提供の窓口乗車券発売人員(周遊券等除く)より算出した近年の乗車人員は以下の通り。 年度 乗車人員(人) 出典 2005年 44,500 2006年 43,800 2007年 43,800 2008年 45,300 2009年 43,800 2010年 43,800 2011年 40,520 2012年 38,690 2013年 36,360 2014年 34,700 2015年 39,100 駅周辺 [ ] かつては稚内市の郊外だったが、市街地の南・東地区への拡大と人口の移動に伴い、駅周辺に市街地の一部が存在している。 大型商業施設(西條百貨店など)や郊外型の商業施設、ホテル、ファーストフード店などが多数立ち並んでおり、チェーン店で日本最北のものも多い。 交通 [ ]• 宗谷合同庁舎• 稚内保健所• 稚内地方合同庁舎• 稚内開発建設部• 稚内税務署• 稚内支部• 北海道立稚内水産試験場• 稚内支所• 稚内農業協同組合(JAわっかない)• 稚内海員会館• 稚内南郵便局• 南支店• 稚内支店• 市立稚内こまどり病院 文教施設 [ ]• 稚内市立図書館• 主な商業施設 [ ]• 稚内店• 南稚内店• 稚内店 宿泊施設 [ ]• さかえホテル• ニューチコウホテル• ホテル奥田屋• ホテル宗谷• ホテル大将• ホテル御園• 旅館いわ木• 日本国有鉄道旅客局 1984 『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。 (国立国会図書館デジタルコレクション)• 三宅 2005, p. 144• 三宅 2005, pp. 150-151• 三宅 2005, p. 152• 日本語 PDF プレスリリース , 北海道旅客鉄道, 2017年12月8日 , の2017年12月30日時点におけるアーカイブ。 , 2017年12月30日閲覧。 日本語 PDF プレスリリース , 北海道旅客鉄道, 2017年7月2日 , の2017年12月30日時点におけるアーカイブ。 , 2018年7月13日閲覧。 北海道旅客鉄道. 3 2019年10月18日. 2019年10月18日時点のよりアーカイブ。 2019年10月18日閲覧。 稚内市 2010年. 2017年11月17日時点のよりアーカイブ。 2017年11月17日閲覧。 稚内市 2012年. 2017年11月17日時点のよりアーカイブ。 2017年11月17日閲覧。 稚内市 2016年. 2017年11月17日時点のよりアーカイブ。 2017年11月17日閲覧。 参考文献 [ ]• 「稚内、南稚内駅の歴史研究」『』第828巻、、2010年1月、 86-95頁。 三宅俊彦 「稚内駅3代記 -さいはての国鉄駅、その歴史の変遷-」 『トワイライトゾーンマニュアル』 14巻 、142-160頁、2005年12月。 (RMモデルズ臨時増刊号)• (監修)『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』20号・宗谷本線/留萌本線、朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)、〈週刊朝日百科〉、2009年11月2日、5-17頁。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]•
次の1973年12月,日本最北端から稚内駅構内の眺め。 1973年12月,日本最北端の駅名板。 1973年12月,キューロクの貨物列車が南稚内から抜海へと向かいます。 1973年12月,同上、南稚内・稚内の町を離れます。 1973年12月,同上、貨物列車牽引機は稚内区の29607です。 1973年12月,同上、貨物列車は抜海へと山並みを越えていきました。 1973年12月,夜の南稚内駅。 1973年12月,夜の南稚内駅下り321列車 C57 87 、C55は不調だったのでしょう。 1973年12月,同上、下り321列車を牽くC57 87、しんしんと冷える夜。 1973年12月,同上、下り321列車は終着駅稚内へと向かいました。 1973年12月,南稚内〜抜海間、吹雪く朝。 機関車の前照灯が見えた時の緊張 324レ。 1973年12月,同上、上り324列車。 1973年12月,同上、上り324列車が驀進します。 1973年12月,同上、上り324列車牽引機はC57 87号機です。 1973年12月,抜海を去ります、利尻富士を背景にC55・・・は露と消えました 車窓から。 1973年12月,ホントに寒いです。 1973年12月,和寒駅のホームです。 1973年3月,残雪の塩狩峠を越えるC55 30牽引321列車。 1973年3月,同上、客車,荷物車2両ずつの4両編成、補機は不要ですね。 1973年12月,旭川発C55 50牽引321列車が真冬の塩狩峠に挑みます。 1973年12月,同上、C55 50牽引321列車6両編成、後補機DD53。 1973年3月,春近い塩狩峠を越えるD51貨物列車。 1973年12月,厳冬の塩狩峠を越えるD51貨物列車。 1973年3月,キューロクはDD53の前補機付で貨物列車を運んでいます。 1973年3月,塩狩駅、単機回送のD51が列車交換待ち。 1973年3月,塩狩駅、C55 47の324列車と単機D51の列車交換。 1973年3月,C55 47の324列車内から。 1973年12月,塩狩駅名板。 1973年12月,宗谷本線の起点旭川駅では、除雪車キ100出動。 ここは 宗谷本線.
次の