平等院は京都府宇治市にある寺院です。 平安時代後期に関白藤原頼通によって創建されました。 平成6年(1994年)に京都の世界遺産17スポットの一つに選ばれています。 10円玉に描かれており身近な存在ですが、ほとんどの人が色やその周りの風景、歴史などについては知らないのではないかと思います。 平安仏教の深層から平等院の歴史にスポットを当ててご紹介しますね。 平安時代初期から貴族の別荘地として栄え、9世紀末頃に左大臣源融(みなもとのとおる)の別荘となり宇多天皇に渡った後、月日を経て、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」になりました。 万寿4年(1027年)に亡くなった後、永承7年(1052年)に子の関白藤原頼通によって寺院に改めています。 名前も平等院と変更され平等院としての歩みがはじまりました。 開山は小野道風の孫で、円城寺の長吏を務めた明尊です。 京都から宇治川を挟んだ対岸にあり、頼通の別業寺院として本堂が建立されました。 本堂は現在の鳳凰堂の北方にあり、大日如来を本尊としています。 翌天喜元年(1053年)3月4日に「西方極楽浄土のような空間を」と、鳳凰堂が建立されました。 平等院鳳凰堂の「鳳凰堂」という言葉は、江戸時代から使われるようになったもので、それまでは阿弥陀堂と呼ばれていたようです。 現在も姿を残しており、浄土式庭園の阿字池にある中島に東向きに建っています。 この鳳凰堂が10円玉に描かれているんです。 実は、10円玉だけではありません。 1万円札の裏に鳳凰が描かれているのをご存知でしょうか?この鳳凰は、平等院の屋根の上にいる鳳凰が描かれているんです。 池に映る美しい姿は極楽浄土を表したものといわれています。 この池の様子を見ながら藤原頼通は死んだ後の幸福を願っていたのではないでしょうか。 末法思想は、一方では極楽往生を願う信仰の隆盛を促したものでした。 しかし、現世においては仏法が廃れるならそれを克服するために多くの造寺・造仏をすれば救われるとの思想もあったようで、末法の世では、釈迦の入滅から2000年経つと仏の教えによる効力が亡くなり、災いが続き、世が乱れると、当時の人々は信じていたのです。 この平等院が創建した時はまさに末法がはじまった年でした。 この頃の平安時代は地球的に寒冷な時期で、疫病や天災が数多く起こったことで特に人々は仏の力に頼っていたからだと思います。 貴族たちは極楽浄土を願っており、各地で阿弥陀如来を祀る仏像が競うように建立され、自ら出家することが当然のようになっていたのです。 実は京都に寺社が多いとはいえ、平安貴族が建てたお寺で仏像、仏画、庭園灯を含めて、今もって現存するのは平等院のみです。 この平等院は仏像や壁が庭園まで残されており、貴重な存在となっています。 平等院の境内が現在のようになったのは、南北朝時代の争乱以降のことだそうです。 宇治という地が郊外にあるとはいえ、この辺りも楠木正成と足利氏の軍勢の戦いをはじめ、色々な戦いの場となり多くの建物は焼き払われたのだから、目立つ風貌の平等院鳳凰堂が残ったことは奇跡に近いといわれています。 他には観音堂や鐘楼も焼けずに残っています。 西方の極楽浄土を観想するために、現世の極楽浄土として造られたことは多くの研究者によって証明されています。 極楽浄土をイメージした大きな池を造ることで、本物の極楽に近づこうとした「浄土式庭園」と呼ばれる庭園がこの時期、平等院をはじめ多くの寺で造られました。 平安時代の本堂には密教の主尊大日如来があり、他にも不動堂、五大堂、愛染堂、多宝堂などの密教関係の堂塔が残されていたのです。 貴族たちはこの汚れた世に生きている自分たちは、地獄に落ちる運命と落胆していました。 しかし、僧の源信(げんしん)が、「往生要集」を書きました。 そこに書いてあったのは、地獄に落ちるようなものでも、浄土教の修行をすれば、西方の極楽浄土で生まれ変わることができると書いていたのです。 その修行にはひたすら念仏を唱え、極楽浄土や阿弥陀如来の姿を心に描くように進めています。 もちろん、世情に不安を持っていた貴族たちの間で、この教えは広がりました。 この浄土教をイメージしやすい様に、建物や絵、彫刻などがたくさん作られました。 病気で苦しんでいた道長も自宅の隣に無量寿院という阿弥陀堂を建て、さらに金堂などの華やかな法成寺(ほうじょじ)を建てたのです。 もちろんこれを見ていた、頼通は平等院鳳凰堂に父道長の建てた法成寺のように、極楽浄土をイメージできるような装飾を施しています。 藤原氏の頃は氏寺としての地位を築いており、栄華を極めていました。 しかし、治承4年(1180年)には源平の乱、建武3年(1336年)の宇治合戦、文明18年(1486年)の山城国一揆という3度の大きな争乱によってかなりの痛手を負い衰退していきました。 その後、明応年間になり浄土宗僧侶の栄久上人が浄土真宗を開き復興に尽力しました。 平等院は創建以来ずっと天台宗寺門派でしたが、浄土宗僧侶の栄久上人が管理するようになり、浄土・真言・天台宗が対立してしまいました。 これにより、浄土宗の浄土院と天台宗寺門派の最勝院の管理となっています。 現在の平等院は天台宗の最勝院と浄土宗である浄土院との2つの寺院が共同で管理しています。 住職は3年交代で務めていますが、特定の宗教に属さない、単立の寺院となっているようです。 また、庭園の発掘が1990年から行われており、この発掘で平安時代に造られた州浜があったことが分かりました。 とっても素敵な発見ですね。 これにより平等院創建当初の姿に復元されています。 また、鳳凰堂への入道も、小橋も創建当時の形式に復元されたようです。 このように創建当時に復元が続くと、今以上に平等院に来れば、当時にタイムトリップした気分になれそうですね。 平成26年10月1日に平等院鳳凰堂の改修工事が無事終わりました。 さらに美しくなった平等院に訪れてみてくださいね。
次のと鳳凰堂 京都南郊の宇治の地は、『』の「」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。 現在の平等院の地は、末頃、のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏のが営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫であるを経て4年()、摂政の別荘「宇治殿」となったものである。 道長は4年()に没し、その子の関白・は7年()、宇治殿を寺院に改めた。 これが平等院の始まりである。 開山(初代執印)はの孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。 創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。 翌元年()には、をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。 鳳凰堂建立の思想的・信仰的背景 [ ] 『』の一節に「若欲至心生西方者、先当観於一丈六像在池水上」(若し至心に西方に生まれんと欲する者は、先ず当( まさ)に一の丈六の像池水の上に在( いま)すを観るべし)とある。 鳳凰堂とその周囲の浄土式庭園は、『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土とその教主である阿弥陀如来を観想(特定の対象に心を集中させること)するために造られたとするのが定説である。 ・・前期に広まった仏教は、での救済を求めるものであった。 平等院が創建された平安時代後期になると、日本ではが広く信じられていた。 末法思想とは、のから2000年目以降は仏法が廃れるという思想である。 しかし、天災・人災が続いたため、人々の不安は一層深まり、的思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的思想として捉えられるようになる。 仏教も現世での救済からでの救済に変わっていった。 平等院が創建された7年()は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽を願い、西方極楽の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。 鳳凰堂とその堂内の阿弥陀仏、壁扉画( へきひが)や供養菩薩像、周囲の庭園などは『』の所説に基づき、西方極楽浄土を観想するため、現世の極楽浄土として造られたことは間違いない。 しかしながら、そうした浄土教、末法思想という観点のみから平等院や鳳凰堂をみることは一面的な理解であるということが、複数の研究者により指摘されている。 平等院の境内が現在のような景観になったのは、の争乱以降、鳳凰堂(阿弥陀堂)のみが焼け残ったことによるものである。 鳳凰堂が主要な堂宇であることは間違いないが、平安時代の平等院では、本堂には密教の主尊であるが安置され、他にも不動堂、五大堂、愛染堂、多宝塔など、密教系の仏像を安置する堂塔が建ち並んでいた。 鳳凰堂の阿弥陀像のは定印(膝上で両手を組む)であるが、これは密教のの阿弥陀如来の結ぶ印である。 阿弥陀像の普段見えない像内は( べんがら)でに塗られている。 これは、両界曼荼羅の金剛界五仏に五色を配当する際、西方阿弥陀を紅玻璃色( ぐはりじき。 赤色)とすることに対応する。 阿弥陀像の像内には阿弥陀の大呪・小呪を書いた月輪( がちりん。 円板)が納入されていたが、これはこの阿弥陀像が密教の修法である阿弥陀法の本尊像でもあることを意味している。 以上のことを踏まえ、建築史家・冨島義幸 は、鳳凰堂の阿弥陀像には密教の阿弥陀如来としての一面があり、鳳凰堂全体が阿弥陀曼荼羅を表しているとする。 平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。 は4年()、無量寿院(のちの)を建立し、また、後半からにかけてはの(を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)が今の京都市あたりに相次いで建立された。 しかし、これらの大伽藍は現存せず、平安時代の貴族が建立した寺院が建物・仏像・壁画・庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一のである。 ただ、平等院も初年にして初年にあたる3年()のとの軍勢の戦いの兵火を始めとする度重なる災害によって堂塔はどれもこれも廃絶の憂き目に遭い、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。 往時の堂塔 [ ] 上述のとおり、かつての平等院には数多くの堂塔が建ち並んでいた。 (ほんどう) の近く、現在の観音堂付近にあった。 非現存。 釣殿(つりどの) 宇治川に突出した形で設けられていて、川から直接舟をつけることができた。 釣殿と本堂は廊で結ばれていた。 非現存。 懴法堂(せんぼうどう) 本堂の南にあった。 非現存。 (あみだどう)、のちの(ほうおうどう) 唯一現存する。 小御所(こごしょ) 東を向いている鳳凰堂のさらに東、池を挟んだ対岸にあった。 小御所はやのための殿舎。 非現存。 法華堂(ほっけどう) 4年()、によって建立された。 非現存。 正確な位置は未詳。 多宝塔(たほうとう) 4年()、藤原頼通の娘である(後冷泉天皇皇后)によって建立された。 非現存。 鳳凰堂の南東、現在は寺域外の公園地になっている場所から塔の遺構が検出されている。 五大堂(ごだいどう) 2年()、・(頼通三男)によって建立された。 非現存。 正確な位置は未詳。 不動堂(ふどうどう) 5年()、右大臣・(頼通養子)によって建立された。 非現存。 記録によれば境内の西南隅にあった。 経蔵(きょうぞう) 宝蔵(ほうぞう)ともいう。 一切経のみならず、代々の重宝が納められ、「宇治の経蔵」としての権威の象徴とされていた。 非現存。 正確な位置は未詳。 平等院領 [ ] 平等院には創建当初から藤原頼通によって寺領が施入されていたが、実質的には平等院の主である頼通の管理下にあった。 3年10月(11月頃)、頼通はが平等院に対して300戸を施入したのを機に、平等院のにを認めて欲しいと願い出て、その要望を認めて平等院領9か所に不輸の権を与えるを得て、官使の検分のもとを行われ、が行われた。 翌年3月(翌年4月頃)、後冷泉天皇が病に倒れると、頼通は()には先の9か所の平等院領荘園に対するの適用を求める申請を行った。 頼通は翌()に改めて9か所の不輸の権・不入の権を認めるの発給を受けた。 そして、()に後冷泉天皇が崩御し、頼通とは疎遠であったが即位して元年()には有名なを出した。 摂関家の荘園も整理令の対象とされたが、頼通が先帝・後冷泉天皇の崩御の直前に駆け込みで得た平等院領の太政官符・太政官牒が荘園のとして有効とされて整理を免れた(延久の荘園整理令は有効な太政官符・太政官牒を持たない荘園を整理対象としていた)。 その9か所の全てについては明らかではないが、、、同国、、、同郡の6か所を含んでいることが知られている。 頼通の没後、平等院領はと並んでの支配する所領の中核として位置づけられ、代々のが継承してきた。 後期の3年()に作成された『摂籙家渡荘目録』(「九条家文書」)によれば、平等院領は12か国に18か所あったという。 近代以降の平等院 [ ] 修理のため仮設素屋根に覆われている鳳凰堂(2012年11月) 現在の平等院は、の最勝と寺院の浄土院が年交代制で共同管理していて、これら2寺は共に鳳凰堂の西側にある。 浄土院はの只中の年間(-間)の、最勝院は初期の3年()の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、元年()、の裁定によるものであった。 平等院の設立は(28年)である。 以降、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のによる再現などが行われている。 (13年)にはそれまでの「宝物館」に代わり、「」がオープンした。 は、鳳翔館(『』2001年〈平成13年〉9月号)の設計で、を受賞している。 (平成8年)から(平成9年)にかけて、鳳凰堂の右後方に15階建ての2棟が建ち、見る方向によっては鳳凰堂の背景になってしまっている。 創建当初からの風致が大きく損なわれ、これが施行前の(平成14年)に宇治市都市景観条例が制定されるきっかけとなった。 当面の対策として平等院境内に楠( )がされており、この木が高さ10メートルまで成長すると、鳳凰堂背景の景観を阻害しているマンションを完全に隠すことが期待されている。 (平成24年)から(平成26年)まで屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理が行われた。 この間、鳳凰堂内部の観覧は出来なくなっていた。 2014年(平成26年)、が行われ修理工事が完了した 鳳凰堂 [ ] 尾廊 平等院 鳳凰堂(ほうおうどう)は、元年()に建立されたであった。 「鳳凰堂」の呼称は後世のもので、の記録では固有の名称ではない「 阿弥陀堂」あるいは「 御堂」となっている。 堂内の格狭間に嵌め込まれた金銅板の8年()の刻銘に「 平等院鳳凰堂」とあり、このことから、初期にあたるこの時期までには「鳳凰堂」の名が生まれ、認められていたことが分かる。 江戸時代中期の地誌『山州名跡志』(元年〈1711年〉刊)にも「鳳凰堂」の名が見える。 である阿弥陀如来坐像()は、稀代の・の確証ある現存唯一の作品である。 定朝は、大陸風を脱して和様の相を具えたを生み出した日本仏教史上の傑物であるが、永い歴史のうちに件の阿弥陀如来坐像以外の作品の尽くが戦火に消えていったと考えられている。 本尊を安置する須弥壇はや飾金具で装飾されていたが、螺鈿は全て脱落している。 現状では剥落が著しいが、堂内の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていた。 ( なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫( すかしぼり)のを吊る。 鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなる。 阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建つ。 中堂は石積の基壇上に建つ。 この基壇は壇上積基壇と称し、地覆石( じふくいし)、羽目石( はめいし)、束石( つかいし)、葛石( かつらいし)からなる格式の高いものである。 中堂の外観は2階建てのように見えるが、建築構造としては一重裳階付( いちじゅうもこしつき)である。 裳階とは、身舎( もや、建物の主要部)の周囲に差し掛けられた屋根の部分を指す。 身舎は、本瓦葺。 組物は三手先( みてさき)、中備( なかぞなえ)は間斗束( けんとづか)、軒は二軒繁垂木( ふたのきしげだるき)とし、棟上に一対の銅製鳳凰を置く。 なお、保存上の観点から、1968年以降、棟上にはレプリカの鳳凰が設置されており、実物は別途保管されている。 垂木は地垂木を円形断面、飛檐垂木( ひえんたるき)を方形断面とする「地円飛角」という、奈良時代以来の形式である。 軒には支輪を設け、支輪部分には宝相華文を描く。 身舎の規模は桁行(正面)3間、梁間(奥行)2間とする(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語。 以下同じ)。 身舎は円柱を頭貫( かしらぬき)と内法長押( うちのりなげし)で固める。 裳階の屋根は本瓦葺、軒は二軒繁垂木で、組物は平三斗、中備は間斗束である。 裳階の垂木は身舎と異なり、地垂木、飛檐垂木ともに面取りの角垂木である。 裳階柱と身舎との間には繋虹梁( つなぎこうりょう)を渡す。 裳階柱は大面取りの角柱とし、これらを頭貫と飛貫( ひぬき)で繋ぐ。 ただし、飛貫は当初はなく、後世補強のために入れたものである。 裳階の正面(東面)中央間は屋根を一段高く切り上げて、外観に変化をもたせるとともに、池の対岸から本尊・阿弥陀如来坐像を拝するように設計されている。 身舎東正面中央間の扉を開けると、その内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。 裳階屋根上には高欄を設けるが、これは実用的なものではない。 日本の一般的な仏堂建築は身舎の前後または四周に「庇」と呼ばれる部分があり、裳階が付く場合は、庇のさらに外側に付けるが、鳳凰堂中堂は身舎と裳階のみで庇のない特徴的な構造になる。 身舎の円柱は径2尺(約60)ある太いものであるが、周囲を裳階がとりまいているため、外観では身舎の太い柱が目立たなくなっており、これによって建物全体を軽快に見せている。 裳階柱も幅8寸5分(約27cm)あるが、大面取りが施され、断面八角形に近い柱形状になっているため、実際より細く見える。 中堂は前述のように身舎と裳階のみで庇を設けない特異な構造であることに加え、屋根の出が非常に大きく、構造的には不安定な建物になっている。 身舎の屋根の先端部は、裳階屋根の先端部や基壇の端部よりもさらに外側に突き出ている。 明治期の修理以前の古写真をみると、中堂には、屋根の垂れ下がりを防止するための突っかえ棒が設置されて、外観を損ねていた。 こうした構造に加え、境内からは創建当初の瓦がほとんど出土しないこともあり、当初の鳳凰堂は屋根に大きな荷重の掛かる本瓦葺きではなく、木瓦葺きだったのではないかと推定されている。 木瓦葺とは、外観を瓦に似せた板で屋根を葺くもので、平安時代の実物としては中尊寺金色堂のものが唯一現存する。 鳳凰堂の修理は、近代以降では(明治35年)から(明治40年)にかけて半解体修理が行われ、(昭和25年)から(昭和32年)にかけて解体修理が行われている。 次に中堂の室内の状況について説明する。 前述のように身舎は正面3間、側面2間であるが、裳階の西側(裏側)部分を室内に取り込んでおり、この部分を含んだ全体を板敷の1室としている。 裳階の東・北・南の3面は吹き放し(建具や壁を入れない)とし、切目縁(簀子縁)を設ける。 すなわち、石積基壇の上に直接、縁を乗せた形になる。 室内は身舎の後寄りに、中央部分を石敷きとした須弥壇を設け、本尊の定朝作阿弥陀如来坐像を安置する。 阿弥陀像の頭上には木造天蓋を吊る。 須弥壇周囲には高欄を設け、後方左右には壇上に上がる階段を設ける。 須弥壇の外面は漆塗とし、で装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。 中堂の柱間装置は以下のとおりである。 身舎正面(東面)は3間とも両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。 身舎側面(北・南面とも)の前間は正面と同様、両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。 身舎側面(北・南面とも)の後間は、外面は腰長押を入れ、それより上を、下を土壁としている。 ただし、この連子窓は見かけだけで、室内側は全面板壁になっている。 前述の腰長押も外面だけに打たれている。 身舎の西側は中央間を板壁、その両脇の間は開放とし、裏手の裳階部分と一体の空間を形成している。 身舎西側中央間の板壁は他の壁と接していない独立壁で、本尊阿弥陀像の背後に位置することから「仏後壁( ぶつごへき)」と称される。 西側裳階部分は、西面中央間のみを両開き板扉(尾廊へ通じる)とし、他の柱間は土壁とする。 身舎の内法長押上の小壁は外見上は土壁に見えるが、実際は板壁に土を塗ったものである。 東西南北各面の内法長押より上、頭貫より下の壁面には計52躯の雲中供養菩薩像を取り付けていたが、うち半数の26躯は平等院ミュージアム鳳翔館に移動している。 室内には前後方向に虹梁を2本掛け渡し、組入天井を支えている。 堂内は、板扉と板壁には『』の所説による『九品来迎図( くほんらいこうず)』などの壁扉画( へきひが)があり、柱、長押、貫、組物、天井などの部材はすべて彩色が施されていたが、現状ではいずれも剥落が著しい。 正面3間の扉(計6面)、側面(北・南面)前間の扉(計4面)、側面後間の板壁(北面と南面の2面)には九品来迎図が描かれ、背面裳階中央扉(2面)には日想観図が描かれていた。 日想観とは、『観無量寿経』の所説によるもので、西方阿弥陀浄土に往生するための16の段階の一つとして、沈みゆく夕陽を観想するものである。 仏後壁(身舎西側中央壁)の前面と背面にも絵画がある。 このうち、背面は九品来迎図の一部であるが、前面の絵は剥落が激しく、主題や制作年代について諸説ある。 板扉のうち、正面中央間のものは傷みが激しかったため、江戸時代初期の10年()に新しい扉に取り換えられ、絵も新たに描かれている。 扉と板壁以外の堂内の部材は、宝相華文を主体とする彩色文様で装飾されていた。 柱は宝相華文の水平の帯で区切り、宝相華文を背景にして菩薩像や童子像を描く。 長押、頭貫などの水平材は、花文を一定間隔で描き、残りの空間は繧繝彩色の条帯文とする。 中堂の柱間装置のうち、正面各間と側面前間は創建当初から板扉であったが、側面後間と仏後壁は以下のような改造を経ていることが解体修理時の調査で判明している。 (当初)側面後間は板扉、仏後壁は土壁であり、背面裳階部分は腰長押から上を外面は連子窓、室内側は板扉としていた。 (第一次改造)創建直後、または創建時の工事途上に側面後間の板扉を、外面連子窓、内面土壁に変更した。 (第二次改造)仏後壁を前面板壁、背面土壁にした。 側面後間と仏後壁に補強のために筋違を入れた。 各面の内法長押上の小壁を土壁から板壁に変えた。 (第三次改造)側面後間の土壁を板壁とし、仏後壁の背面も板壁にした。 側面後間と仏後壁の筋違を除去した。 各面の小壁は、内法長押の上、頭貫の下にあたる位置に飛貫を挿入した。 背面裳階部分の連子窓はこの時に廃されて土壁になったとみられる。 以上の改造がいつ行われたかは正確には不明であるが、建築史家はおおむね13世紀までには第三次改造が終わったとみている。 改造の理由については、前述のとおり、当初の鳳凰堂は木瓦葺( こがわらぶき) であったとみられ、木瓦葺からより重量の大きい本瓦葺きに変更するに際して、補強のために改造が行われたとみられる。 南北の 翼廊( よくろう)は形式が等しいため、まとめて説明する。 北翼廊、南翼廊とも、本瓦葺、一重二階建て。 各翼廊は中堂の側面から南北方向に延び、途中で東方向に直角に折れ曲がっており、平面はL字形を呈する。 桁行は折曲り8間、梁間は1間である(折曲り8間とは、L字形の外側の柱間を数えた数字である)。 直角に曲がる角の部分には隅楼があり、この部分のみ3階建てになる。 組物は1階が二手先、2階が平三斗で、軒は二軒繁垂木とする。 1階柱は頭貫、飛貫、腰貫で固めるが、創建当初は飛貫、腰貫はなく、後から補強のために入れたものである。 1階の頭貫から下は建具や壁を入れず開放とし、床も張らない。 天井は組入天井とし、虹梁と蟇股で支える。 2階は階高が低く、人が立って歩ける高さではないが、儀式等の際に人が立ち入ったことも想定されている。 2階内部の構架は二重虹梁蟇股で、天井は張らず、垂木がそのまま見えている。 隅楼の3階部分は方3間、宝形造、本瓦葺きで、屋根頂部に瓦製の宝珠を乗せる。 組物は出組、軒は二軒繁垂木とする。 東西南北面とも中央間を板扉、両脇間を連子窓とする。 3階部分には下から昇ることはできず、人の入る空間はない。 南北翼廊は修理によって取り換えられた部材が多い。 各翼廊に16本ずつの柱があるが、うち古いものは北翼廊の柱1本、南翼廊の柱5本のみで、他の柱は明治の修理時の取り換え材である。 尾廊(びろう)は中堂西側裳階に接続し、西側に真っ直ぐ伸びる。 切妻造、本瓦葺、平屋建てで、桁行7間、梁間1間とする。 組物は平三斗、内部の構架は二重虹梁蟇股とし、天井は張らない。 桁行7間のうち、中堂裳階に接する第1間は片引戸、以下は第2・3・6・7間を花頭窓、第4・5間を格子窓とする。 尾廊は第5・6間の部分で池をまたいでおり、その部分の柱(西から3本目)は池中に立っている。 尾廊の窓や床は室町時代頃に設けられたものとみられる。 尾廊の柱は大部分が修理によって取り換えられているが、南側の第3間の左右の柱のみは古い。 鳳凰堂の建つ中島と周囲の池については、(平成2年)以降の発掘調査により、拳大の玉石を敷き詰めた平安時代の洲浜が出土し、創建当初の状況が明らかになっている。 近代以降、中島の面積が広げられているが、平安時代には島の面積は狭く、ほとんど堂と同じ程度の大きさで、両翼廊の端は池に突出していた。 翼楼の基壇も当初はなかったとみられる。 池の対岸(東岸)には、鳳凰堂の阿弥陀如来像を礼拝するための「小御所」という建物の存在したことが福山敏男によって早くから明らかにされていたが、発掘調査により小御所の遺構も検出されている。 鳳凰堂には5万2049枚のが使用されており 、建立当時は木製瓦を使った木瓦葺( こがわらぶき) であったが 、約半世紀後の3年()の修理で粘土瓦を使った総瓦葺( そうかわらぶき)に改修された。 は平等院のであった「( たまくしのしょう)」 現在の の向山瓦窯跡で康和2年()初頭に製造されたとされ 、(平成24年)9月に始まった改修作業でも平安時代の陶器瓦がまだ1560枚そのまま屋根に残っていることが確認された。 この時に確認された平安時代の瓦の多くは、正面から向かって左側の中堂の屋根に集める形で再利用されているため、この面だけが他に比べてずいぶんと白っぽく見える。 その他の建物と庭園 [ ]• 庭園 - 中島に鳳凰堂の建つ阿字池を中心とした浄土式庭園。 国指定の。 平成2年()からの発掘調査により平安時代築造の州浜が検出され、現在は創建当初の姿に復元整備されている。 鳳凰堂への入堂も池の北岸から2つの小橋を渡る当初の形式に復されている。 阿字池は極楽の宝池を模し、宇治川や対岸の山々を借景として取り込んでいる。 観音堂 - 境内北側、表門を入って左側に建つ。 初期の建築で本堂跡に建てられた。 国の重要文化財に指定されている。 本尊十一面観音立像(平安時代後期)を安置していたが、現在は鳳翔館に移されている。 鳳翔館 - 境内南側にある博物館で、(平成13年)に開館した。 詳しくは別項「」を参照のこと。 扉画 中品上生図 左扉(部分) 鳳凰堂 「」の節を参照 木造阿弥陀如来坐像 仏師・の確証ある唯一の遺作。 寄木造漆箔、像高284cm。 定朝は和様彫刻様式の大成者、また、寄木造技法の完成者として日本彫刻史上著名な仏師である。 円満な面相、浅く流れる衣文などを特色とする定朝の優美で温和な作風は、「仏の本様」と称されて平安時代の貴族にもてはやされ、以後の仏像彫刻には「定朝様( じょうちょうよう)」が流行した。 定朝が制作した(が建立した寺)などの仏像はことごとく失われ、晩年の作品である平等院像は、彼の作風を具体的に知ることのできる唯一の遺品として、きわめて貴重なものである。 像内納入品の木板梵字阿弥陀大小呪月輪( もくはんぼんじあみだだいしょうじゅがちりん)と木造蓮台は国宝の附( つけたり)指定となっている。 木造雲中供養菩薩像 52躯 鳳凰堂中堂の長押上の壁を飾る浮き彫りの菩薩像。 極楽浄土において阿弥陀を讃嘆する菩薩像とする説もあるが、いずれの像も飛雲に乗ることから、阿弥陀如来と共に来迎する菩薩像を表したものとみられる。 52躯が現存し、すべて(〈平成20年〉に追加指定された1躯を含む)国宝に指定されている。 各像のポーズは変化に富み、琴、琵琶、縦笛、横笛、笙、太鼓、鼓、鉦鼓などの楽器を奏する像が27体あり、他には合掌するもの、幡や蓮華などを持つもの、立って舞う姿のものなどがある。 菩薩形の像が主だが、僧形の像も5体ある。 本尊阿弥陀如来像と同様、元年()の作とされるが、補修はかなり多く、頭部が時代の修理で補作されているもの、像全体が鎌倉時代の補作であるものが各数体ある。 現存52体であるが、当初全部で何体あったのかは定かでない。 52体のうち半数の26体は鳳翔館に移されている。 鳳凰堂中堂壁扉画( ほうおうどう ちゅうどう へきひが)14面• 九品来迎図 旧扉画8面(上品中生、上品下生、中品上生、下品上生)、壁画3面(中品中生、下品中生、中品下生、下品下生)• 日想感図 扉画2面• 本尊後壁画 1面• 附:九品来迎図 扉画(上品上生)2面 中堂の扉10面、壁4面は、国宝建造物の一部であると共に、そこに描かれた絵は絵画部門の国宝にも指定されている。 主な主題は『観無量寿経』に基づく九品来迎図である。 壁画の構成は以下のようになっている。 正面中央扉(2面)上品上生図• 正面北扉(2面)上品中生図• 正面南扉(2面)上品下生図• 北面扉(2面)中品上生図• 北面壁(1面)中品中生図• 南面扉(2面)下品上生図• 南面壁(1面)下品中生図• 仏後壁前面(1面)図様不明、諸説あり• 仏後壁背面(1面)下品下生図・中品下生図• 西面(背面)扉(2面)日想観図 以上のうち、北面壁、南面壁、仏後壁(前面、背面)は当初の土壁を板壁に変更したもので、壁画が描かれたのは鎌倉時代に下るとされていたが、仏後壁前面画については、調査の結果、藤原頼通 在世時(11世紀末)にさかのぼる作とみられている。 2004年(平成16年)に阿弥陀如来像を修理のため堂外に搬出した際に、阿弥陀像の背後にあって観察困難であった仏後壁前面画に対する科学的調査が実施された。 仏後壁前面画の主題については、釈迦八相(阿闍世太子授記説話)説(渡邉里志)、阿弥陀因位譚説()、弥勒下生説(大原嘉豊)、九品往生のうちの中品下生図とする説(富島義幸)などがある。 正面中央の2面の扉は、最も消耗が激しかったためか、江戸時代初期の10年()の修理の際に取り替えた新しい扉になっており、国宝の14面には含まれない「附( つけたり)指定」となっている。 その他の画面も剥落が激しく、画面には末期の落書きも目立つが、後期からにかけての貴重な絵画遺品である。 なお、正面と南北側面のオリジナルの扉は取り外して宝物館に収められており、代わりに復元模写の扉がはめられている。 木造天蓋 本尊・阿弥陀如来像の頭上に吊られた木造で、像とは別個に、彫刻部門の国宝に指定されている。 折上小組格天井形の方蓋と、その内側に吊る円蓋からなり、透彫と螺鈿で装飾されている。 (複製) 鳳凰(鳳凰堂中堂旧棟飾) 阿弥陀堂中堂大棟の南北両端部に設置されていた製の像。 北方像・南方像の一対で、北方像は総高235. 0 、像高 98. 8cm、総幅 34. 5cm、南方像は総高 228. 8cm、像高 95. 0cm、総幅 44. 5cm。 製作は阿弥陀堂の創建と同時期であると考えられているが、日記『』の2年()条に拠れば同年()・()に仏師・定朝に対して龍頭の製作が命じられていることから、鳳凰像も定朝により原型が製作された可能性が考えられている。 また、日記『』の3年条(付の文)の記述から製作は本体部分が鳥羽の、翼や風切羽は鳥羽の鋳物師によって鋳造された可能性が考えられている。 近世には本像にちなんで阿弥陀堂は「鳳凰堂」の通称で呼ばれるようになる。 頭部・胴部・翼・脚部の各部は別々に鋳造され、銅板製のと共にで留められ組み立てられている。 一部に鍍金が残されているが、現在は全体が銅錆で覆われている。 円盤状の台座に立つ鳳凰像で、頭部には鶏冠・冠毛・肉垂が表現され、太い眉と鋭いをもつ。 首から胴体には魚鱗紋が表現され、頚部には宝珠の付いたがはめられている。 風切羽は多くが後補であるが、鋤彫により波並が表現されている。 現在は屋根上に複製像を設置し、鳳凰像は鳳翔館に収蔵されている。 鳳凰堂と同じ11世紀頃の制作と推定される。 全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した、他に例を見ない鐘である。 「音の三井寺」、「銘の神護寺」、「姿、形の平等院」と謳われ、、(三井寺)の鐘と共に、「天下の三名鐘」に数えられ、国宝に指定されている。 現在鐘楼にある梵鐘は複製で、実物は鳳翔館に収蔵されている。 雲中供養菩薩像52躯のうち• 北17号 重要文化財 [ ]• 観音堂• 木造十一面観音立像• 養林庵書院 - 山内寺院の浄土院に建つ。 非公開。 史跡・名勝 [ ]• 平等院庭園 - 浄土式庭園。 (11年)、・に指定。 意匠 [ ] やの意匠に平等院の文物が取り入れられている。 1950年(昭和25年)11月1日発売 24円 鳳凰堂• 1957年(昭和32年)3月19日発売 24円普通切手 銭位省略• 1959年(昭和34年)4月1日発売 30円普通切手 24円の刷色違い• 1971年(昭和46年)3月29日発売 150円普通切手 鳳凰像• 1976年(昭和51年)1月25日発売 150円普通切手 刷色変更• 1980年(昭和55年)11月25日発売 60円普通切手 梵鐘• 1991年(平成3年)5月24日発売 41円 国土緑化運動 ・・鳳凰堂• 1953年(昭和28年)より発行 表面 鳳凰堂 年銘は昭和二十六年より• 2004年(平成16年)11月1日より発行 裏面 鳳凰像• また、それで造った屋根。 残っている1560枚のうち向山瓦窯製は1273枚で、後はで製造された瓦とされている。 菩薩像は本尊の左右(南北)の壁に各26対ずつ懸けられており、北1号 - 北26号、南1号 - 南26号の整理番号が付けられている。 南26号像は長らく「番外」とされ、国宝指定外であったが、2008年(平成20年)に国宝に追加指定された。 北23号と南6号像は作風から鎌倉時代の補作とされている。 出典は、特別展図録『国宝平等院展』、東京国立博物館ほか、2000年(平成12年)。 鳳凰堂内にはレプリカ像も含め30数体が残っている。 出典 [ ]• 平等院の山号は「あさひさん」と読むのではないかという常識的推定はできるが、確証は無い。 小埜雅章「仏とともに観想する景色 平等院阿弥陀堂池庭」『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、p. 198• 冨島 2010 pp. 178-179• 京都大学 教育研究活動データベース(公式ウェブサイト). 2019年6月17日更新. 2019年6月19日閲覧。 冨島 2010 pp. 123-130, 179• 伊藤 1992 pp. 90-91• 杉本宏「12世紀中頃の宇治と平等院の復元想像図」『国宝 平等院展』、pp. 166-167• 杉本 2000 p. 200• 冨島 2010 pp. 18-19• 「中世庄園制の形成過程-〈立庄〉再考」『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会、2010年(平成22年) 所収• 藤本孝一「平等院領」『平安時代史事典』角川書店、1994年(平成6年) )• 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、127頁の年表• (日本語)• :朝日新聞2012年9月3日• :毎日新聞2013年7月10日• :iza2013年7月10日• msn2013年7月10日• 伊藤 1992 pp. 89-90, 128-130• 『国宝 平等院展』、p. 『週刊朝日百科 日本の国宝74』、pp. 8-106, 8-111• 130• 冨島 2010 pp. 24, 30• 冨島 2010 pp. 24-25• 冨島 2010 p. 冨島 2010 pp. 30-31• 伊藤 1992 pp. 96-105• 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、p. 123• 伊藤 1992 pp. 104-106• 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、pp. 28 - 34• 『国宝 平等院展』、p. 215• 伊藤 1992 pp. 107-108• 百橋明穂「鳳凰堂彩色復元」『国宝 平等院展』、pp. 158-160• 伊藤 1992 pp. 108, 113-114• 冨島 2010 pp. 38-39• 冨島 2010 p. 伊藤 1992 pp. 115-117• 『週刊朝日百科 日本の国宝74』、pp. 8-103• 伊藤 1992 pp. 117-118• 吹田直子「平等院庭園発掘調査の記録」『国宝 平等院展』、pp. 162-164• 小埜雅章「仏とともに観想する景色 平等院阿弥陀堂池庭」『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、pp. 90-95• 冨島 2010 pp. 28, 100• 『京都新聞』 2月14日 木 22時49分配信• 冨島 2010 pp. 95, 110• 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、p. 64(執筆は有賀祥隆)• 渡邉 2009 pp. 40-41• 冨島 2010 pp. 70-73 参考文献 [ ]• 東京国立博物館ほか編『国宝 平等院展』(特別展図録)、朝日新聞社発行、平成12年(2000年)• 井上靖、塚本善隆監修、竹西寛子、宮城宏著『古寺巡礼京都8 平等院』、淡交社、昭和51年()• 『日本歴史地名大系 京都府の地名』、平凡社• 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店• 『国史大辞典』、吉川弘文館• 特別展図録『国宝平等院展』、東京国立博物館・仙台市博物館・山口県立美術館、平成12年(2000年)• 杉本宏「平等院伽藍の復元」• 『日本名建築写真選集3平等院』、小学館、1992• 伊藤延男「現世の浄土 - 平等院」• 冨島義幸『平等院鳳凰堂 現世と浄土のあいだ』、吉川弘文館、2010• 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、平凡社、2009• 渡邉里志「浄土への往生が約束された情景 主題、新解釈の可能性」• 『週刊朝日百科 日本の国宝74』、朝日新聞社、1998 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• (日本語).
次の当時の道長は絶大な権力を持っていて、頼通も若くして道長の権力掌握に協力させられています。 元々は兄の影に隠れているような性格だったとされていますが、26歳で道長の後を継ぎいで摂政となり、後に関白に任じられています。 しかし頼通が関白になっても、実権は道長が握っていたため、頼道は思い通りに政治を行うことができず、重要なことは全て道長に相談していたようです。 道長が頼通を公衆の面前で罵倒したという話もあるので、関白とは言っても、実際には権力を持たず、道長の思い通りに動かされていたといったほうが良いのかもしれません。 また、頼通には正妻がいましたが、道長が強制的に他の女性を連れてきて娶らせようとしたという逸話もあります。 最終的に頼通が体を病むほど拒否したことで取りやめになりますが、何事も自分の思い通りにしたい道長の存命中は、頼通も苦労をしたようです。 若年で関白に就任して以来、およそ60年にもわたって権力を掌握し続けた頼通は1074年に83歳で亡くなります。 頼通は政治のリーダーであると同時に文学・芸術の保護者であり、自らも歌を詠むなど、芸術家、文化人としての一面も持ち合わせています。 平等院鳳凰堂を立てた理由 奈良時代に仏教が伝わって以来、日本では独自の発達を遂げていました。 当時、仏教の教えには末法思想というものがありました。 仏教には、正法 しょうぼう ・像法 ぞうぼう ・末法 まっぽう という三時の時期があると考えられています。 末法思想を超簡単に表現するとこんな感じ。 実際に都では災害や戦乱が続き、社会全体を通じて末法思想に満たされていました。 そこで貴族達はせめて来世で極楽浄土に行きたいという気持ちを持ち、それを実現するために仏にすがろうと考えました。 こうして作られたのが平等院鳳凰堂です。 平等院の不思議な形には理由があるの? 平等院は藤原道長時代までは邸宅でしたが、頼道は自分が隠居することを考えて、この邸宅を寺院として改築します。 これが平等院鳳凰堂の始まりで、この寺社全体を平等院といい、鳳凰堂はその中に置かれた阿弥陀如来像の堂を指します。 ちなみに、鳳凰堂は後世の呼び名で、本来の名は阿弥陀如来堂 あみだにょらいどう と言います。 鳳凰堂は中堂と東西に並ぶ翼廊に分かれ、池の中島に東を向いて建てられました。 中堂には本尊があり、翼廊は中堂に向かってL字に曲がるように設計されています。 平等院鳳凰堂はこの翼廊が特徴的な建物ですが、平等院の公式ページによると、阿弥陀如来の宮殿をモチーフにしたデザインというだけで、実用性があってこの作りになっている訳ではないそうです。 頼通は平等院鳳凰堂を建立して、現世に極楽浄土を表現したかったのでしょうね。 10円玉の裏に平等院が描かれているのはなぜ? では、何故平等院鳳凰堂が10円玉に描かれているのでしょうか? 京都は古くから戦乱の土地でもありました。 そのため多くの寺院・宝典がそれに巻き込まれて焼失しています。 実は、平等院も戦の被害を受けて大半の楼閣が焼かれてしまっています。 しかし、そんな中でも鳳凰堂は難を逃れて現存しています。 この平安時代から残る日本の特徴的なの建築物を守っていきたいという願いが込められて、昭和26年に現行の10円玉が発行された際に平等院鳳凰堂が選ばれています。 まとめ 芸術品・建築物というのはその時代を象徴するとても重要なものです。 なぜなら創建者にとってはこれが最大の表現方法であったからです。 これだけ科学が発達した現代でも芸術を嗜む感性を持った我々人間は、やはりかなり特殊な生き物なのかもしれません。 しかし個人的には芸術が発達する時というのは世の中がちょっとおかしい不穏な時期を迎えた時だと思うのです。 それは頼通の頃と同じように、現実世界の中に空想というか頭の中の世界を実現させそこに住もうという思いが現れているからです。 平等院鳳凰堂からは、暗い影が見え始めた摂関政治と世の中に対するせめてもの反抗のような気持ちが見えるような気もします。
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