作家の三島由紀夫は、生涯で何人かの女形役者をひいきにし、 愛してもいました。 昨年の紅白歌合戦に喜寿にして初出場と なった美輪明宏もその一人です。 美輪の生い立ちは割愛しますが、戦後、長崎から東京へ出て 「命がけの自立」を体験します。 今でいうホームレスのような生活を送り、やがて銀座の 「ブランズウィック」という喫茶店で、ボーイとして働くようになります。 これが彼のターニングポイント。 その店は、今のゲイバーの魁となった店で、当時の著名人の江戸川乱歩や 三島由紀夫、さらには高名な歌舞伎役者なども出入りしていました。 美輪はそこで多くの著名人と知りあい、わけても、三島由紀夫の偏愛を 受けながら、成功していったのでした。 それより以前に、三島には思春期から傾倒していた女形がいました。 それは六代目中村歌右衛門。 その前名の時代から、ひいきにしていたことは、 三島の残した「芝居日記」からもわかります。 三島には別に七代目宗十郎という偏愛の女形がいましたが、 この人すでに老優でしたから「恋人」にはなりえませんでした。 さて、歌右衛門です。 彼が歌右衛門をいかに愛したかを知るには、 「女形」という短編小説を読むに限ります。 三島は、「仮面の告白」以来、自身のすべてを、作品でおしげもなく 表した作家だと、見ます。 彼の自己へのすさまじい情熱が、意志とは 関係なく、正直に自己を語らせてしまう。 その頸木から逃れられなくなっていたのだろうとも思います。 作家の韜晦、ということから、実は彼はもっとも遠く離れた 人だったのではないでしょうか。 彼は韜晦から離れていた。 韜晦と世間が思う、そのことを十分計算に 入れて、だからこそあえていつわらざる「自己」を描いたのではないでしょうか。 三島が最後に愛した女形こそ、坂東玉三郎です。 三島45歳、その年自決する 三島は、自作の「椿説弓張月」の舞台で、当時10代の玉三郎を抜擢します。 そしてそれが、三島最後の、「女形役者へのラブレター」となりました。 去年、その玉三郎が人間国宝の指定を受けましたが、 泉下の三島が聞いたらどう思うか。 「おれははじめから、こうなることはちゃーんと、わかっていたんだよ」、と、 テネシー・ウィリアムスの戯曲よろしく(「欲望という名の電車」)、 言い切って、かっかっかっと、快活に笑ってみせるのかもしれません。
次の三島由紀夫と妻の瑤子さん出会い 1958年。 瑤子さんは大学生だった。 瑤子さんの写真を見て、三島はたいそう気に入り友人を介して紹介してもらったそうだ。 銀座で3人で食事の後、青山のナイトクラブへ行った。 そのナイトクラブで、三島は瑤子と踊っている時、瑤子が遊びずれしていないことが判り、翌日14日、「なかなかよろしいではないか」と気に入った、と友人に報告した。 瑤子の方も、「どうにかなってしまいそうでした」と嬉しそうなようすだったそうだ。 1958年。 明治記念館にて挙式。 媒酌人は川端康成。 三島は招待客の間を、「可愛いだろう」「可愛いでしょう」と自慢げに瑤子を紹介しながら巡り歩いていたという 瑤子さんは大学を中退して家庭に入りその後2人の子供をもうける。 三島の瑤子さんへの気持ちがうかがえる手紙 33歳の三島が新婚旅行中に英字で書いたもの。 便箋2枚が使われたその手紙は、『仮面の告白』英語版の出版社・社長に宛てられた近況報告だった。 冒頭「ここ2~3カ月、私の人生において重大なことがふたつ起きました」とし、母の手術と回復、そして以下のようなことを伝えた。 「6月1日に結婚し、今はハネムーン旅行中です。 妻・瑶子は21歳の大学生。 引用元:ダヴィンチニュース 瑤子さんプロフィール ひらおか ようこ 平岡 瑤子 旧姓 杉山 瑤子 生年月日 1937年2月13日 没 1995年7月31日(58歳没) 死因 肺真菌症による急性心不全 学歴 日本女子大学附属豊明小学校 日本女子大学附属中学校・高等学校 日本女子大学英文科中退 子供 紀子(長女)威一郎(長男) 両親 杉山寧(父)日本画家、元子(母) 三島夫妻の変わったエピソード 三島由紀夫と妻の瑤子さんは毎朝5時に起きて、風変わりなあることを仲よく行っていたという。 それは… UFOを探していたそうだ。 実際吉村真理も三島由紀夫に誘われ、浜離宮にUFOを探しに行き 「ベントラ ベントラ スペースピープル」 と唱えたことを覚えている。 (11月24日放映爆笑フライデー) 三島は何でも興味があることにはとことんはまり込む性格でした 三島の割腹自殺後の瑤子さん 三島の割腹自殺。 170112 NEWS23 三島由紀夫の未公開テープ「憲法9条2項がいけない」「日本人はごまかし、ごまかし生きてきた」 — ももじ 慰安婦像立った朝日新聞死ね。 momoji33 日本中が、朝から晩までその話題で持ちきりでした。 当然、家族はマスコミに追われる日々でしたでしょう。 妻の瑤子さんも子ども2人も、報道陣に囲まれ想像できない日々を送ったことでしょう。 「爆笑フライデー」では、当時三島由紀夫が割腹自殺した自衛隊市谷駐屯地の総監室に突入した9人のうちの一人の元自衛官(88歳)が出演しました。 三島と相対s、三島はくーでたーに邪魔なものを追い出したいために元自衛官(88歳)を切りつけました。 当時の傷あと」が背中に23cm、くっきりと残っていました。 瑤子さんの意外な行動 三島由紀夫の割腹自殺のあと、葬儀委員長は川端康成氏。 出席者は8000人でした。 背中を切られた元自衛官(88歳)は2週間入院しました。 そしてある日、官舎に瑤子さんが訪ねてきました。 すみません と、瑤子さんは深々と頭を下げたそうだ。 瑤子さんの後始末 事件の後、瑤子さんは三島由紀夫たちが立てこもってめちゃめちゃにしてしまった自衛隊の総監室を全額弁償しました。 その後、立野会の元メンバーの起こした人質立てこもり事件に、自ら犯人たちを説得して人質を取り戻しました。 夫を失っても悲しんでいる暇はありませんね。 作家でもあった三島由紀夫の遺作の編纂、保持に努めました。 1995年(平成7年)7月311日、肺真菌症の悪化により、東京女子医科大学病院で、急性心不全で死去なさいました。 三島由紀夫の子どもたち 長女 平岡紀子(ひらおかのりこ) 生年月日 1959年6月2日 学歴 学習院女子中、高等科 学習院大学文学部仏文科 職業 演出家 結婚 1990年富田浩司氏(外交官)と婚姻 子ども 2女1男 現在58歳威です。 父である三島由紀夫の没後20年に、三島由紀夫の戯曲『弱法師』と『葵上』の演出を手掛ける。 長男 平岡威一郎 生年月日 1962ねbb5月2日 学歴 御茶ノ水女子大学付属小学校、開成中学校、高等学校 職歴 映画の助監督、宝飾店軽々、作詞家 三島由紀夫は生前長男の威一郎を溺愛していたそうです。 威一郎さん、現在55歳です。 いろいろな職業を転々としていらっしゃいます。 現在の職業はは一般人としてしかわかりませんでした。
次の三島由紀夫の妻 平岡瑤子 三島瑤子 の壮絶人生が凄い!芳村真理と三島由紀夫の関係は?キャンティ CHIANTI で逢引きプロフィールや経歴は? TBS系2017年11月24日(金)19時00分~20時00分爆報! THE フライデー【三島由紀夫の妻…壮絶人生】で三島由紀夫の妻 平岡瑤子 ひらおかようこ さんが紹介されますね。 三島由紀夫氏は有名ですが、その妻 平岡瑤子 ひらおかようこ さんどんな人だったのでしょうか?同性愛者だったと言われる三島由紀夫に近づく女性はもちろん男性や猫にまで嫉妬したという平岡瑤子 ひらおかようこ さんについて調べてみました! 番組内容:三島由紀夫の妻…誰も知らないその後の人生…芳村真理から新事実が! さらに三島に切られ重傷を負った元自衛官が緊急出演! 今年発見された肉声テープの未公開部分を初放送! 12歳下の瑤子は三島好みの「丸顔で可愛らしい」顔だったため三島は会うことを了承した 文学なんかにはちつとも興味をもたず、家事が好きで、両親を大切に思つてくれる素直なやさしい女らしい人、ハイヒールをはいても僕より背が低く、僕の好みの丸顔で可愛らしいお嬢さん、僕の仕事に決して立ち入ることなしに、家庭をキチンとして、そのことで間接に僕を支へてくれる人。 訪れた国はアメリカ、ヨーロッパ、エジプト、香港・・ ドナルドダックの絵葉書を買って長女、紀子宛てに、 「のり子ちゃん元気ですか?お父様とお母様はディズニィ・ランドへ行きました。 とても面白く、のり子ちゃんの喜びさうなものが一杯ありました」「元気でね絵本とお帽子を送りました」 と締めくくっていたそうですが、なかなかハッピーな両親ですね。 当日の朝、三島が髭剃りをしている頃、瑤子は2人の子供を学校へ車で送るために家を出る。 その後、乗馬の練習に馬事公苑に向う途中、用件を思い出した瑤子は家に電話を入れて家政婦にそれを告げた。 家政婦が受話器を置こうとすると、珍しく三島がそれをすばやく横取りし、瑤子から直接内容を聞き「ああ、そうか」と電話を置いた。 それが夫との最後の会話となった。 人に良い事を言いたくないからね。 人が嫌がることを言いたいから。 と答えていた三島由紀夫。 興味があった映画の話やジャズの話などイタリアンレストラン「キャンティ」で楽しんだそうです。 そして、長年封印していた話、それは、三島由紀夫にUFOが来るので浜離宮に一緒に見に行こうと度々誘われていたということ。 へんな呪文を唱えたというから驚きですね・・・ 芳村真理が語る三島由紀夫の仰天エピソードがこちら 没頭すると徹底的にハマるという三島由紀夫 ・俳優業。 主演を務めた 1960年 と言う映画で熱演のあまり勢いよく倒れてしまい気絶、救急車で運ばれる事態に・・・撮影は1カ月ストップ ・三島由紀夫が熱中していたのは、ボディビル。 ジムに通って鍛え上げた身体を惜しげもなく自慢し披露していた ・政治活動家。 1967年自衛隊体験入隊し、1カ月にわたりレンジャー訓練を受けた。 三島が発起人となり民兵組織「楯の会」結成 芳村真理のプロフィールはこちら 名前:芳村 真理 よしむら まり 女優 生年月日: 1935年4月3日 85歳 生まれ: 東京都 東京 日本橋 配偶者: 大伴 昭 1968年から 、 ミッキー・カーチス 1961年 — 1964年 兄弟姉妹: 吉村 実子 子供: 大伴 修 書籍: 一生、美しく。 今からはじめる50の美習慣 芳村 真理は、日本の女優、タレント、司会者。 所属事務所はHIRAKUである。 コケティッシュな顔立ちとグラマラスな肢体で若い頃は有名なモデルであり、芳村真理と同じ顔をしたマネキン人形は数十年にわたって大量に作られ、全国のデパートやブティックで多く見られた。 2人が初めて出会ったのは芳村真理が25歳だったころ、知人のパーティーの席でした。 岡本太郎や大橋巨泉など様々な人がいた中で三島由紀夫を紹介されたそうです。 その10年後、三島由紀夫は壮絶な死を迎えることに・・・ ちなみに、2人が良く訪れていたイタリアンレストランはこちら キャンティ CHIANTI とは? 芳村真理が三島由紀夫と密会していたイタリアンレストランはこちら 裏口から入っていくのがステータスで必ず知り合いが誰かいたとか・・・仲間との密会は何だか楽しそうですね! 三島由紀夫はいつも角の席に座っていたそうです。 まとめ 平岡瑤子 ひらおかようこ さんはお嬢様というタイプではなく、結構豪快な性格と肝っ玉のすわった女性だったそうですね。 西洋文化に敏感で最新のファッションに身を包み海外旅行も三島由紀夫と良く出かけていました。 面白いエピソードがあります。 瑤子は三島由紀夫が単身で自衛隊体験入隊している所を面会で訪れ、崖をロープで渡る訓練を見学し、途中宙吊りになって挫折しそうな三島由紀夫を腕組みして見つめながら、「あなた、頑張りなさい」と厳しく叱咤していたというから豪快ですね。 その時のファッションが真っ白なミニスカートに白のブーツという出で立ちだったことから記憶に残ったのでしょう。 瑤子夫人は、三島由紀夫の死後この様に語っています。 三島が亡くなって15年。 我が家は家具も飾りもすべて昔のままです。 保護者が居なくなった心細さは痛いほど感じます。 裸で世の中にほっぽり出された頼りなさと申せばいいのでしょうか。 三島由紀夫の名誉やプライバシーが損なわれそうになったとき、ようこ夫人は裁判で全力で戦ったそうです。 三島由紀夫を生涯愛し、尊敬していたのが良くわかります。
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