先日、島原と天草に訪問。 都道府県の区割を見るだけでは長崎県と熊本県に別れているものの、歴史的にはキリシタン弾圧やら島原・天草の乱などを経験してきたり、明治時代にはかなり貧しかった地域で人々が出稼ぎに行ったり、島原と天草は色々近い関係にある。 この地域を先日ようやく訪れる事が出来た。 天草の鬼池港から島鉄フェリーに乗って島原半島南部の口之津へ。 この口之津という所、江戸時代には南蛮船渡来の歴史があり、さらに明治時代には三井三池炭鉱の石炭積出港として栄えていた土地。 最近になって市町村合併で南島原市の一部になっている。 港に入る直前、左手に「口之津歴史民俗資料館」と看板が掲げられた洋館が見える。 フェリー乗り場から湾内をぐるっと回って資料館へ。 当然ながら口之津の歴史について扱われているのだが、主に明治時代の日本社会の裏側あたりの結構エグい展示物が見られるオススメスポット。 入館料200円を払いさっさと中に入りましょう。 明治32(1899)年に長崎税関口之津支庁として建てられた洋館が国から払い下げられ、資料館の一部に使われている。 「口之津税関跡」と書かれた石碑が建物の前に立っていた。 さすが貫禄のある建物です。 口之津が最も栄えていたのが明治時代半ば頃。 長崎県と言えば軍艦島(端島)でも知られる通り炭鉱開発がお盛んだった地域で、三菱財閥が端島や高島を開発していた。 それに三井財閥も対抗して開発していたのが福岡県大牟田にある三池炭鉱。 しかし当時の三池には小型船しか接岸できなかったため、三池炭鉱で採れた石炭は有明海の出口であるここ口之津で大型貨物船に移し替えていた。 口之津から運び出された石炭は上海向けに輸出されていたのだ。 中継港として沢山の労働者が住み、この小さな港に最盛期には12000人もの人口があったらしい。 しかし明治41(1908)年に三池港が新しく開港すると、口之津は急激に寂れていった。 資料館内に別館として「与論館」という建物がある。 与論と言えば鹿児島県最南端で、沖縄の方が全然近いよというあの島だ。 明治30(1897)年頃の口之津はとにかく労働者不足で、その供給源を南西諸島に求めていたところ、台風災害で深刻な飢饉に見舞われていた当時の与論島民が生活の糧を求めてとりわけ多く移住してきた。 口之津にあった貯炭場の労働者として暮らしていた与論島民の長屋(与論長屋跡)が与論館の内部に再現されている。 若干小奇麗に作られてるけど実際はかなり壮絶な住まいだったろうな。 言葉や文化の違いから与論島民は差別されたりもしながら過酷な重労働に従事してきたそうで。 それでも移住してきた与論島民はここに第二の故郷を作る覚悟で生きていたのだ。 さらに明治末期に三池港が開港すると口之津を離れて三池炭鉱のあった大牟田・荒尾周辺に再移住するようになった。 そんな与論島だが先日訪問した時に見てきたのが島で最も海抜が高い城跡にある地主神社の一角に建てられた口之津移住開拓民之碑。 約750人の与論島民を率いて自ら移住した当時の村長・上野應介翁を讃える石碑もある。 移住者はその後10年間で1200人余りとなり、この小さな島を飢饉から救ったのだ。 口之津と与論の関係は今も続いていて、南島原市と与論町が姉妹都市だったり双方の学校の交流イベントなど色々やってるらしい。 旧長崎税関跡(長崎県文化財)の建物の中も昔の生活用具なんかとともに税関時代の建物の名残りが留められていて素晴らしい。 最盛期の口之津港は長崎港に凌ぐ輸出高を誇っていた時代もあったのだ。 石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれていた時代な訳だし、当時は凄かったんだろうな。 エリアから記事を探す• 110• 104• 117•
次の明治期の1900年代初頭ごろ、島原半島などから東南アジアに身売りされた女性「からゆきさん」に、長崎県島原出身の作家・故宮崎康平氏が聞き取りをした録音テープがある。 元島原市職員、内嶋善之助さん(67)がこれを戯曲「珈琲とバナナとウィスキー」に仕立て、自費出版した。 3月に同作の朗読劇を上演する内嶋さんは「創作ではない当時の悲話を、一般の人に知ってもらいたい」と話す。 からゆきさんは、主に明治から大正にかけ、売られたり人買いにだまされたりして、売春目的で連れ出された。 多くが島原半島、熊本県天草地方の貧しい農漁村の出身だったという。 戯曲の舞台は、1961年7月の宮崎氏の自宅。 元からゆきさんの女性=当時(74)=と宮崎夫妻、秘書の計4人のやりとりで展開する。 女性は03年ごろ、16歳で石炭船の船底に隠され口之津からシンガポールへ。 女郎屋での生活や英国人男性との恋愛、稼いだ金で買ったゴム園やホテル経営の成功…。 戦争などで国際情勢が刻々と変化した当時、現地での人間関係や生活に悩みながらも懸命に生き抜いた様子が描かれている。 戯曲は12時間の宮崎氏のインタビューを2時間に凝縮。 出来事をありのままに書きつないだという内嶋さんは「からゆきさんが、海外から生きて故郷に帰ってきた事実を伝えたかった」と執筆への思いを語る。 録音テープは、内嶋さんが宮崎氏の著作を音楽朗読劇として上演したことがきっかけで、宮崎氏の妻、和子さんから委ねられた。 内嶋さんは、歴史を語る史料として残したいと、構想から約10年かけ戯曲にした。 「日本人が経営する女郎屋の実態や、海外で懸命に生きたからゆきさんの証言が見どころ」と話す。 戯曲は昨年11月出版。 A5判、86ページ。 300部発行。 島原図書館などに寄贈したほか、希望者には千円(送料込み)で販売する。 朗読劇は3月15日午後2時から、島原市城内1丁目の島原文化会館で上演する。 入場無料。 問い合わせは内嶋さん(電0957・62・2097)。
次の語源 [ ] 明治時代以降、などの貧しい女性が、経済的に繁栄するの港湾都市などに送り込まれ、でとして働き、郷里に送金していた。 九州ではこれらの女性を「」と呼んだ。 の文学『サンダカン八番娼館- 底辺女性史序章』や、その映画化作品である公開の映画『』(東宝、原作山崎朋子)の中で、まずしい田舎の女性がの娼館で働く「からゆきさん」が描写され、よく知られるようになった。 日本から東南アジアへ渡った「からゆきさん」との対比で、アジア各国から日本(Japan)へ出稼ぎに来た女性に対して「ジャパゆきさん」というが生まれた。 背景 [ ] 日本への出稼ぎ女性が増えた背景として、日本の経済が伸び、世界的な経済格差が大きくなったことがあげられる。 日本で半年も働けば国へ帰って家が建てられると言った話が広がり、日本で働くことにあこがれや夢を抱く女性が増えた。 [ ] 日本の水商売にエンターティナーとして女性達を連れて来るプロモータービジネスが、利益の高い商売であったことと合致し、当初はフィリピン、後に東南アジア各国の女性をタレントとして来日させるようになった。 [ ] 社会問題 [ ] 当時はまだ外国人女性がめずらしいこともあり、とまどいと好奇程度であったが、前後から急激に増えた事で、多くの問題が出てきた。 具体的には、風俗への流出、、売春強要、労働、給与不支払い、介在などである。 これらによって、悲惨な状況に追い込まれた女性も多くある。 [ ] こうした被害女性は不法滞在が多く、被害を警察に訴えられないため、潜在的には相当の数に上ったと見られ、こうした人たちの人権を守るため、1980年代以降、多くのボランティア団体が人権保護のために活動している。 現在 [ ] 日本で働く外国人女性の数が非常に増え、すでに珍しい存在でなくなったこともあって、「ジャパゆきさん」という言葉もになりつつある。 また、雇用する側、される側において人権問題への認識が高まり、法体制の変化もあって前述の様な被害に遭うケースは減少してきている。 しかし、不法滞在や差別、法的不備など、解決すべき問題も残されている。 在日外国人の人権活動家(個人・団体) [ ]• アルスの会• カサデアミーゴ• サマハンカプワフィリピノ• FAS• フォーリンワイフアソシエーション• フィリピンデスク• フィリピン人移住者センター 注釈 [ ] [].
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