ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたら、どんどこしょ 俵のねずみが 米食ってちゅう、 ちゅうちゅうちゅう おっとさんがよんでも、 おっかさんがよんでも、 行きっこなしよ 井戸のまわりで、 お茶碗欠いたのだぁれ 意味 [ ] このの意味は、江戸幕府のお茶壺道中 と結びつけて解釈するのが伝統的な見解である。 この騒ぎに、俵から米を取り出し、食べていた鼠が驚いてチュウと鳴いた、喉がかわいた子供達が井戸に集り、争って水を飲んだのでお茶碗を割ってしまった。 』などと解釈する。 他方、歌詞自体はナンセンス、支離滅裂であるなどとして、意味不明のところに意味を認めようとする説もあり、これも一つの通説として認識されている。 この童謡をお茶壷道中と結びつけるのは、「茶壷」という部分のみであるが、古いバージョンの歌詞には、これを「烏坊」として伝えるものがある。 また、お茶壷道中は、江戸時代前期に制度化されたが、この童謡は、江戸時代の文献には記録されていない。 お茶壷道中を離れた解釈としては、これに性的な意味を見出す視点があり、の詳細な論証がある。 しかし、「半信半疑か、触れられることが好まれないからか、一般には普及していない。 」(若井勲夫) とされる。 この視点からは、「茶壷」が、女性器(つび)を意味する近世の隠語として用いられていること、その元の形である「烏坊」も、遊女を意味する隠語であることなどが指摘されている。 遊戯 [ ] 各人が拳を軽く握って輪を作り、一人が「ずい・ずい・ずっころ・ばし」の歌のテンポに合わせて、順繰りに指を各人の輪に指し入れる。 決めや、指遊びに使われる。 みんなのうた [ ] 『』の初登場はで、がし、が歌った。 その後に、編曲・歌唱によりリメイク版が放送された。 双方とも再放送されていない。 楽譜集は、水星社版は第2巻、版は第8巻に、それぞれ収録されている。 脚注 [ ] [] 注釈・出典 [ ]• 『広辞苑 第五版』 岩波書店、1998年11月11日、1407頁。 お茶壺道中とは、現在のの名産品であるのを、を経由して江戸の()に献上するための茶壺を運ぶ行列()のことである。 その性格上、一般のはおろかの大名行列よりも格上とされたこの壺運搬の一行に対して、の時代柄、は粗相の無いように細心の注意を払っており、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。 朝日新聞社DIGITAL. 2019年7月5日閲覧。 若井勲夫 2010. 京都産業大学論集. 人文科学系列 41: 286-283. 若井勲夫 2010. 京都産業大学論集. 人文科学系列 41: 286, 281. 若井勲夫 2010. 京都産業大学論集. 人文科学系列 41: 286, 278-277, 276. 関連項目 [ ]• - テレビドラマ版オープニングにて、この歌の冒頭部分を主人公の鷹(演:)が口ずさんでいる(第13話まで)。 劇中で披露した回もある。 - 当人作詞・作曲で、「ズイズイズッコロ橋」という童謡がある。 豚の親子を手始めに、次々と動物たちが、山の丸木橋から転げ落ちるという内容。 - ステージ6のボス戦BGMでアレンジされたものが使用されている。 - に吹き込み、アルバム『なんなんなんだ!? 』に収録した。 この項目は、に関連した です。
次の(筆者がこの歌の蛇行法則を見出した時期は、西暦1992年4月の事でした。 ) ずいずいずつころばしごまみそずい んやしんぴつとてれはおにぼつやち ぬけたらどんどこしよたはらのねず うゆちうゆちうゆちてつくめこがみ ちゆうおつとさんがよんでもおつか どいよしなこつきいもでんよがんさ のまはりでおちやわんかいたのだれ これを右上から読んでいきます。 いちずみかされずやねがつんだ そつのこおがのみぼらめもよたまにはくでん いごおたつんでかしはよてよもばれしちがい わろてこゆきやことどうさつちつつ ちとこおずぴどゆつなでいんらうおしり ずしたちうよはいやけゆゆいまずんぬうちどの 位置積み重れず屋根が突んだ 帥の公衙の見惚らめもよ たまには功田 移郷経つんでか支派 仍て よもばれし痴がい 悪て此ゆ木屋こと どう察知 つつ ちと高津人 斎つ名で印籠 御知り 図師達 紆余は嫌けゆ維摩順ぬ打殿 意味のわからない言葉を広辞苑で調べてみました。 「もよ」・・・感動の意を表す助詞。 「支派(しは)」・・・本派から分れた別派。 「よも」・・・ 下に打消の語を伴って まさか。 いくらなんでも。 よもや。 「痴がい」・・・おろかなこと。 おろかなさま。 「斎つ(ゆつ)」・・・いわい清めること。 神聖なこと。 清浄なこと。 以下に意味解釈を表示します。 瓦の位置がうまく積み重ねられていないので屋根が突き出ている 大宰府長官の公邸のなんとほれぼれしいことだろう たまには功労者として田を与えてくれてもいいだろうに 移郷されるまでに年月が経っているので 別派はそういうわけで よもや おろかなさまが ばれることはない と思っていることだろう 悪事のせいでこの小屋にいるとは 他人にはどう察知できるだろうか といいつつ ちょっと高津の人は神聖な名で印籠を御知りで 図師達はのんびりすることを嫌がり 維摩会の順番にかかわらず打殿を測っている 移郷とは、奈良・平安時代、殺人犯で死刑を免ぜられた者が強制的に他郷に移住させられることをいいます。 高津(こうづ)は島根県西部の益田市にある地名です。 島根県西部は石州瓦の産地でもあります。 「石州」とは石見(いわみ)の国のことです。 印籠は、江戸時代には薬入れとして用いられましたが、古くは、印や印肉を入れていたそうです。 田畑を測る役人である図師によって朱肉が使われていたことを表わしていると考えています。 維摩会とは、大乗仏教の一つである維摩経を講読する会のことで、その際、寺院に布施する田地を維摩田というそうです。 打殿とは、布を打って光沢を出す仕事をする建物のことです。 奈良・平安時代に布目瓦が多用されていたことを指していると考えています。 解釈した文章内容のように、隠謀に巻き込まれて没落した人を調べたところ、奈良時代末期の藤原浜成(ふじわらのはまなり 西暦724~790年)という人が該当することが分かりました。 この人は、藤原四家の中で最初に没落した京家・麻呂の子(不比等の孫)で、大宰帥の後、員外帥となります。 しかし、娘の夫である氷上川継が謀反を起こしたため、参議・侍従を解任されます。 また、この浜成という人は、日本最古の歌学書である『歌経標式(浜成式)』という著作を残しています。 『歌経標式』の中には浜成の作である次のような謎歌(表向きに歌っていることとは無関係な字句が隠され、その字句をつなげると一つの文句になるような歌)が記載されています。 ねずみのいへ よねつきふるひ きをきりて ひききりいだす よつといふかそれ (33文字) 鼠の家(穴)米つきふるひ(粉) 木を伐りて引き切り出す(火)よつ(四)といふかそれ 浜成は、これが「あな恋し(穴粉火四)」という意味をもつと解説しています。 「俵の鼠が米食って」の部分は、この歌のことを表していると考えています。 この図のとおり、歌詞を蛇行状に並べてできた文章の中に、意味をなさない「ん」の文字が3個あり、その位置が、歌詞を普通に唱えた時に、33文字間隔で並んでいるのです。 暦を概算すると、太陽と月の周期が33年で一巡するのです。 「ずいずいずっころばし」には、「暦・天文」にまつわる謎が秘められていると考えています。 --- 「ずいずいずっころばし」にみられる「蛇行法則」が何を意味するのかと考えを巡らせ、「蛇行法則」は「惑星の逆行」を表わすのではないかと推察しました。 惑星の逆行とは、天空における惑星の見掛け上の位置が、他の恒星に対して逆の方向へ移動しているように見える現象のことです。 この「惑星の逆行」の時期に、歌に表された「事象」が起きたのではないかと推察しました。 実際に、氷上川継の乱の年代の惑星配置を、Stella Theater Proというプラネタリウムソフトを使って、時代をさかのぼって再現してみました。 氷上川継の乱が起きたのは、天応二年閏正月十一日(西暦782年3月3日)ですが、同時期の西暦782年2月1日頃~4月15日頃(閏正月は2月21日~3月22日)に、火星がおとめ座(秋分点方向)からしし座にかけて逆行していることが判明しました。 --- ねずみのいへ よねつきふるひ きをきりて ひききりいだす よつといふかそれ この文字数を数えると33文字となり、これも蛇行状に表示してみます。 火星を漢名では「螢惑」と言い、五行思想では「火」に配されます。 螢惑(けいわく)・・・火星の別名。 わざわいや戦乱の前兆となるといわれる。 この時系列に着目します。 『続日本紀』には、藤原浜成が大宰帥に任ぜられた理由については記されていません。 また、同書には、藤原浜成の人となりの一つとして「術数に習熟していた」と書かれています。 術数・・・陰陽家・卜筮家などの暦数の術。 --- 「おっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしよ」の部分については中国の書物にその手掛かりを求めました。 中国の子供の教育について、朱子学の祖である朱熹が著した『童蒙須知』という書物の中では、話し方や歩き方の具体的な行いとして、 若父母長上有所喚召 卻當疾走而前 不可舒緩 もし父母や目上の人から呼ばれたら、 急いでその人の所へ行き、ゆっくりしてはいけません。 という教えが説かれています。 その、室町時代から江戸時代にかけての陰謀とは、明智光秀の謀反のことです。 その題材として該当するのが、安土桃山時代の武将・細川忠興(号・三斎)です。 忠興の妻は光秀の娘(ガラシヤ)ですが、前述した川継の妻が浜成の娘という関係に似ています。 その他に、題材として該当するのが、忠興の父・細川藤孝(号・幽斎)です。 幽斎は、本能寺の変の際には光秀の誘いを断り、剃髪して忠興に家督を譲っています。 この人は信長、秀吉、家康の三代に仕え、近世歌学の祖とされます。 歌詞の末尾の「井戸のまわりでお茶わん欠いたの誰」については、ひとつの手掛かりがあります。 当時の武将の間で名器とされた朝鮮半島産の「井戸茶わん」について、秀吉に仕えていた幽斎が詠んだとされる歌があります。 筒井筒 五つに割れし 井戸茶わん とがをば 我れが 負いにけらしな 「ずいずいずっころばし」には、この歌が示唆されていると考えています。 --- 「印籠」に入れられた朱肉を示す「朱」という文字は、朱子学の祖である「朱熹」のことを表すこともあるそうです。 前半の「ちと高津人 斎つ名で印籠 御知り」の部分に該当するのが、戦国武将の大内義隆です。 この人は石見を含む七国の守護であり、大宰大弐に任ぜられ、朝鮮から朱子学の書を手に入れます。 また、治安の乱れた京都から多くの公家を迎えますが、領国経営が不安定となり、家臣の謀反を招いて自刃しました。 維摩会は、興福寺で行われるものが最も有名です。 その興福寺の衆徒の長を戦国時代に継いだのは筒井順慶という武将でした。 「維摩順ぬ」とは、「筒井順慶ではない」という意味を表わしていることになります。 「打殿を測っている」とは、秀吉が行った「太閤検地」のことを表していると考えています。 その太閤検地は本能寺の変と同じ時期に始まっています。 以上をつなげてみます。 大内義隆は主君に従うことを知っているけれども 図師たちは主君に従う筒井順慶ではない羽柴秀吉である これは間接的に「羽柴秀吉は主君に叛いた」という意味を表わしていると考えています。 ずいず いづつ ころばし こまみ そ ずい ちゃつぼにおはれて とつ ひしや ぬけたら どんど こしよ たはらのねずみがこめくって ちゆう ちゆう ちゆう ちゆう おっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしよ いどのまはりでおちゃわんかいたのだれ 随ず 井筒 転ばし 高麗見 其 随 茶壷に追はれて 突 ひしや 抜けたら どんど 来しよ 俵の鼠が米食って 知勇 知勇 知勇 知勇 おっとさんが呼んでもおっかさんが呼んでも行きっこ無しよ 井戸の周りでお茶わん欠いたの誰 従わぬ筒井順慶を味方に転じさせ、手に入れた高麗の物を見ている、その人に従うと、 茶会に追われ、突然の災難に遭うが、 過ぎたら小正月が来る。 鼠の家米つきふるいの歌を詠んだ藤原浜成は、 知恵と勇気をもち、 主君に叛いた。 筒井順慶から秀吉に渡った井戸茶わんが割れた歌を詠んだのは誰。 井戸茶わんの元の所有者は筒井順慶でした。 山崎の戦で光秀の誘いに応じず、秀吉にも味方をしなかった順慶が、光秀側の劣勢を察知すると秀吉側に転じ、勝敗が決した後に、その日和見を秀吉にとがめられ、所領を保つために井戸茶わんを献上したという伝説があります。 「ずいずいづっころばし」という意味不明の言葉を「山崎の戦で従わぬ筒井順慶を羽柴秀吉が味方に転じさせた」と判ずることができました。 --- 藤原浜成の「謎歌」、「おろかなさまがばれることはない」、「羽柴秀吉は主君に叛いた」などの、「ないことをあることのように言う」主張など、「ずいずいずっころばし」には、嘘の主張が含まれていると考えています。 --- 戦国時代の「山崎の戦」については、下総国野田ののページでも、題材の後半を成しています さらに、京家・藤原浜成の曾孫・藤原興風(ふじわらのおきかぜ 生没年不詳)が、延喜十四年四月二十二日(西暦914年5月24日)、下総権大掾に叙任されています。 その九年後の延長元年(西暦923年)、下総国野田の愛宕神社が創建されています。 --- 江戸時代、徳川将軍家への献上のために行われた「御茶壷道中」。 その「茶壷」に納めるための茶葉の「茶摘み」の最盛期である「八十八夜」の頃は、太陽暦の5月1日~2日に相当し、「かごめかごめ」の意味付けのページで述べた、ユダヤ暦の「イヤル」の月の頃にあたります。 そして、「ずいずいずっころばし」の文字数「112」から「88」を引くと、同意味付けのページで述べた、「鳳凰山の直線」や「地軸」の傾斜角「24」度が導かれます。 airnet. city. masuda. odn. geocities. dfg. wol.
次のContents• ずいずいずっころばしと性の関係 まずは、一度ずいずいずっころばしの歌詞をご覧下さい。 ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたらどんどこしょ 俵のねずみが米食ってちゅう、ちゅうちゅうちゅう おとっさんが呼んでも、おかっさんが呼んでも行きっこなしよ 井戸のまわりでお茶碗欠いたのだぁれ 歌っていると漢字を思い浮かべにくいですが、実は表記するとこのような歌詞になります。 遊び歌としても知られているこの歌、みなさんも手遊びをして一度は遊んだことがあるのではないでしょうか? しかし、 歌詞の意味がこれだけではよくわかりませんよね。 そこには、こんな 恐ろしい意味があるのです・・・ 最初の歌詞から詳しく解説します。 胡麻味噌をすり鉢で擦っていると、お茶壺道中が来るという情報がまわってきたので、家の戸をピシャリと閉め、そして中で時が過ぎるのをじっと待つ。 通りすぎたら(抜けたら)ホッと胸をなでおろす(どんどこしょ) 江戸時代、お茶は将軍が飲むなど 地位の高い人が飲むものだったのです。 その当時は 「お茶といえば静岡!」 ではなく、京都の宇治から「宇治茶」を取り寄せており、 京都の宇治から東京の江戸城まで、お茶を運んでいたのです。 それゆえに、お茶を運ぶ係(採茶使)が結成され、遣わされていました。 この採茶使の一行を茶壺道中と呼んでいたのです。 その採茶使は、絶対的権威が与えられており、たとえ大名であっても、茶壺道中と出くわすと、道の端に控えて、通行を優先させるという決まりがあったそうです。 では、なぜ、戸をぴしゃりと閉めてまで、家に閉じこもる必要があったのでしょうか? その訳は、俵のねずみが米食ってちゅうの部分は、• 米は女性• ねずみは茶壺道中の男 をそれぞれ指しているためです。 考えただけでも恐ろしいですよね・・・ 確かに、そうなったら最悪ですので、戸を閉めて、やり過ごそうとするのもわかります。 しかし、 恐ろしいのはこれだけではありません。 江戸時代、不貞行為というのは、どんな場合でも処罰の対象となっていました。 しかも女性が特定の男性以外(つまり夫以外の男性)と性行為にいたってしまった場合は、処刑だったのです。 たとえ隠したとしても、未婚の場合は嫁にいけなくなってしまいます。 お父さんとお母さんが心配して呼んだとしても、出て行くことができない(いきっこなし)の歌詞に、この お嫁にいけなくなった娘の不幸が読み取れます。 そして最後の 「井戸のまわりでお茶碗欠いたのだぁれ」 この一文は、お茶碗は女性を表しており、 「かいた」は「描く」ではなく、 「欠く」 そうです。 この歌詞は、 誰にも言えずに井戸で自害してしまったのは、どの子だ? という意味にもとれるのです。 井戸に落ちてしまっては、もはや誰かはわかりませんもんね・・・。 このように楽しい童謡、遊び歌と思っていましたが、実は悲しい女の子の物語がこの歌には込められているのでは?と言われています。 ずいずいずっころばしの考察 もし、上に書いたように悲しい女性の悲劇を表した文章であったなら、 何故ここまでわかりにくい意味の歌詞で、ずいずいずっころばしは伝えられたのか。 その答えは、 当時の女性の地位にあります。 今でこそ、男女平等が叫ばれ、女性の地位向上も当たり前になっています。 しかし、当時の日本では女性の地位が圧倒的に低く、男性に比べたらその評価も差別的なまでに異なっていました。 それこそ、女性が何を言っても聞いてもらえず、 男性の一言で嘘も事実に、また事実も嘘に変わってしまうような時代です。 この時代に女性が何を言っても、誰も信じてくれず、またその身に起きたことを明らかにも出来なかったのです・・・ でも、なんとかして、この女性の不幸を残していきたい。 そう思った方が、作り上げた歌。 それこそが、この ずいずいずっころばしだったのかもしれませんね・・・ まとめ 「ずいずいずっころばし」は• お茶壺道中を恐れた歌• 若い男女や女郎との性的行為について歌った歌なのでは? 等、諸説あります。 本当は、 子供の童謡で楽しく歌うような歌ではないのかもしれませんね。 ただ、一つ気がかりなことがあります。 それは、 この歌を誰が伝えたか。 もし、女性の不幸を伝えた歌ならば、最後井戸に落ちてしまい、その死を誰にも伝えれなかった以上、本来知るはずのない事実です。 にもかかわらず、このことは歌として残り、多くの方に語り継がれています。 もしかしたら、この歌・・・歌ったのは、 女性本人だったのかもしれません。 ずいずいずっころばしの歌に未練を乗せ、今なお語り継がれている… そう考えると、恐ろしいものがありますね。 男性の方、くれぐれもこの歌にはご注意を・・・ きっと 彼女は、男を恨んでいるはずですから。
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