概要 、、とを建造していたであったが、これらは条約によって生産や設計に、何らかの制限が設けられており、軍にとっての行くものではなかった。 そこで、条約の期限が切れた後に、十四隻の内、十隻の建造を変更し、として建造。 しかし、これもを受けて、設計変更を余儀なくされ結局軍としてはが出来なかった。 そして作られたのがこの陽炎型駆逐艦となる。 つまり、この陽炎型駆逐艦で軍はしたわけで有り、艦としての面が強いを除けば、の艦隊の決定版となった。 新鋭として前線に投入され続け、建造当初は考えられなかった機動部隊や輸送船団の護衛、さらにの嶼部への輸送任務に従事したため、艦隊を的として設計、建造されたための対・対潜の低さも相まって、相次ぐ任務の中で次々と失われ、前身の、後継となった、更に発展の含めても、隻いた中で、まで残ったのはただ一隻であった。 ちなみに、第軍備補充計画(通称マル3計画)にて最初予算請したとき、18隻分の予算を承認されたにもかかわらず、そので作ったのは15隻。 残りの三隻分はというと、の不足予算に流用された(厳密にはの予算額を減らすことで、の大きさを隠すためである)。 同型艦 艦名は、気現、潮流、、に由来する。 7のそれと同様の約㎏だが、装弾向上の為に5kgのリッジが付随。 そして何より当たりのがやたら多く(日三年式搭載1門発、1門発) 日三年式12. 76門とべても、は5門でも装の部分でおよそtも計算になる。 結論すると、の構成はやっぱり危なげだよ。
次の改二実装は、陽炎型や夕雲型を中心に予定。 陽炎型1番艦から実装を予定。 今年夏までに、陽炎型3隻規模の改二を実装予定。 陽炎型と夕雲型を合わせて「 甲型駆逐艦」と呼ぶそうです。 参考サイト) 、 、 艦これでの実装状況 陽炎型 01番艦 : 陽炎 改二 実装済み 02番艦 : 不知火 改二 実装済み 03番艦 : 黒潮 改二 実装済み 04番艦 : 親潮 改 05番艦 : 早潮 未実装 06番艦 : 夏潮 未実装 07番艦 : 初風 改 08番艦 : 雪風 改 09番艦 : 天津風 改 10番艦 : 時津風 改 11番艦 : 浦風 丁改 実装済み 12番艦 : 磯風 乙改 実装済み 13番艦 : 浜風 乙改 実装済み 14番艦 : 谷風 丁改 実装済み 15番艦 : 野分 改 16番艦 : 嵐 改 17番艦 : 萩風 改 18番艦 : 舞風 改 19番艦 : 秋雲 改 陽炎改二は情報より確定。 舞風や秋雲辺りも有り得そう。 陽炎・不知火・黒潮に改二が実装されました。 予想通りでした。 改二相当の強さをすでに持っている、雪風などは候補から外れる気がします。 磯風・浜風は実質改二実装なので、無さそうです。 秋雲は陽炎型か夕雲型か、諸説分かれていたんですね。 レア艦の割合も高いですし、候補は絞りにくいです。 未実装艦も多いです。 入手難易度の低さから、 夕雲、巻雲かな?というところ。 浜波は実装されたばかりなので、多分来ない(慢心) 最後に せっかく予告が来ているので、レベル管理しておいたほうが良いですね。 うちは陽炎型を先日まで何人か確保しておらず、霰も慌てて確保するところからでした。 やはり全艦娘所持しておいたほうが良かった、と反省しております。
次の5 最大幅 10. 8メートル 3. 8メートル 3基 主機 2基2軸 出力 52,000 速力 35. 艦歴 建造~第18駆逐隊時代 (昭和9年)12月に日本がの破棄を通告し2年後の失効が決まると、海軍は太平洋広域での活動を想定した大型駆逐艦の整備に着手した。 (昭和12年)からの第三次軍備補充計画 で、新型駆逐艦18隻の建造が承認された(同計画での建造は15隻)。 陽炎は同型艦で3番目となる(昭和12年)9月3日にで起工 し、(昭和13年)4月15日に命名され 、同日附でに陽炎型駆逐艦が新設された。 9月27日に進水。 (昭和16年)8月10日、艤装員長中佐が正式に初代駆逐艦長となった。 11月6日に同型艦で最も早く竣工した。 兵装は朝潮型駆逐艦と同程度ながら、18ノットで航続距離5000カイリの優秀な遠征能力を備えた。 陽炎は朝潮型駆逐艦2隻の第18駆逐隊(、)に編入し、11月15日に同駆逐隊が・に編入した。 12月20日、2番艦が竣工し、第18駆逐隊は4隻体制となった。 1940年(昭和15年)10月11日、沖で行われたに18駆の僚艦と共に参加。 18駆は第三列(金剛、榛名、熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩、《陽炎》、大潮、朝潮、荒潮、満潮、《霰、霞、不知火》、黒潮、雪風、初風)に配置された。 太平洋戦争の開戦が迫った(昭和16年)、航続距離が長い陽炎型2隻を揃えた第18駆逐隊は、に備えて第二水雷戦隊の指揮を離れての警戒隊(第一水雷戦隊司令官少将)に編入された。 警戒隊には他に第一水雷戦隊旗艦の軽巡、第17駆逐隊(、、、)、駆逐艦(所属 )が加わっていた。 (昭和16年)11月26日、機動部隊(、、、、、)の護衛としてを出発し、真珠湾攻撃に参加した。 帰投後、開戦時の艦長だった横井稔中佐が脳溢血で倒れ 、12月22日附で有本輝美智中佐に交代した。 (昭和17年)1月5日に呉を出港し、第一航空艦隊に随行して攻撃に従事した。 1月29日、浜風と共に翔鶴を護衛して横須賀に向かい、2月3日に到着した。 2月には(蒼龍、飛龍)の攻撃を護衛し、南方機動作戦、4月のにも参加した。 4月23日、呉に入港し入渠整備を行った。 5月1日、第18駆逐隊は第二水雷戦隊の麾下に復帰した。 5月下旬、第二水雷戦隊はミッドウェー攻略作戦に参加するために進出し、6月のでは攻略隊の護衛として参加した。 空母4隻を失って上陸作戦は中止となり、第18駆逐隊は6月8日、重巡が沈没した第七戦隊(少将)の指揮下に入った。 大破した重巡を護衛し、同戦隊の重巡、重巡と共にを泊地に寄港した。 6月23日、第18駆逐隊は熊野と鈴谷を護衛して呉に帰投した。 第18駆逐隊は北方海域を担当するの指揮下に入った。 日本軍は、ミッドウェー作戦の陽動作戦として占領に成功したとを維持する方針を決め、第18駆逐隊が呉に帰投した6月23日に輸送部隊(水上機母艦、、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制した。 第18駆逐隊は千代田を護衛して横須賀に寄港し、あるぜんちな丸と合流した。 28日、陽炎を除く3隻が一足先に千代田、あるぜんちな丸を護衛して横須賀を出撃した。 残る輸送船の出発が遅れたため陽炎は対潜作戦を行い、他の部隊と共に米潜水艦を攻撃して損傷を与えた。 7月5日、キスカ島に到着した不知火と霞、霰が米潜水艦に攻撃され、霰が沈没、不知火と霞が大破した。 出港が遅れて難を逃れた陽炎は9日、輸送船菊川丸の護衛として横須賀を出発し 、19日にキスカ島へ到着した。 第18駆逐隊の健在艦が陽炎1隻となったため駆逐隊の編制が変更となり、陽炎は20日に南方に展開する第二水雷戦隊・第15駆逐隊(、、)に編入した。 キスカ島に投錨していた陽炎は28日、駆逐艦が曳航する霞を護衛し、同島を出発した。 8月3日、3隻(陽炎、雷、霞)は片岡湾に到着した。 陽炎は霞と分かれて横須賀に向かい、8日に到着した。 同日附で第二水雷戦隊の指揮下に復帰した。 ガダルカナル島の戦い 1942年(昭和17年)8月7日、米軍はとに上陸し、が始まった。 陽炎は、整備を終えた第二水雷戦隊旗艦の軽巡を護衛して15日にトラック泊地に入り、16日にソロモン海方面を担当する外南洋部隊(第八艦隊司令長官)の指揮下に入った。 18日夜、陽炎は他の駆逐艦5隻(、、、、)と共に陸軍一木支隊をに揚陸させた。 第17駆逐隊の浦風、谷風、浜風がラバウルに戻り、19日昼にの空襲で萩風が大破し、嵐が護衛してトラック泊地に避退したため、同島付近に残る駆逐艦は陽炎1隻となった。 陽炎は米軍機の空襲を受けたがツラギ方面の偵察と対地砲撃を実施した。 第二水雷戦隊から交代の駆逐艦が派遣され、陽炎は21日にショートランド泊地へ向かった。 詳細は「」を参照 8月22日、外南洋部隊は陽炎、、江風、、の駆逐艦5隻にガダルカナル島に対する米軍の補給・増援の阻止を、駆逐艦には日本軍守備隊への補給を命じた。 陽炎は単艦で出撃し、23日深夜にガ島とツラギ島を砲撃するが、敵艦とは遭遇しなかった。 24日午後10時、陽炎、睦月、、江風、の駆逐艦5隻でガダルカナル島を10分間砲撃し、陽炎は潜水艦1隻の撃沈を報告した。 5隻は北上し、25日午前5時40分に陸軍一木支隊第二梯団を輸送する第二水雷戦隊(少将)の旗艦神通、、、4隻、輸送船3隻(ぼすとん丸、大福丸、)と合流した。 直後、とB-17の空襲を受け、睦月と金龍丸が沈没、神通が大破した。 陽炎は涼風と共に神通を護衛して輸送船団から離脱したが、田中少将は陽炎を旗艦として再び船団に戻り、神通を涼風に護衛させてトラックに退避させた。 輸送作戦は失敗し、26日夕、陽炎は燃料不足の海風を護衛してショートランド泊地へ向かった。 28日朝、旗艦は重巡に移った。 同日、ガダルカナル島に陸軍川口支隊の揚陸を目指していた、、、の駆逐艦4隻が空襲を受け、朝霧が沈没した。 陽炎は救援のため出動し、29日昼に無傷の天霧と航行不能になった白雲、小破した夕霧と合流した。 30日朝、陽炎は3隻を護衛しショートランド泊地に戻った。 31日以降、第三水雷戦隊(少将)を中心とする増援部隊に加わり、作戦に従事した。 9月2日深夜、陽炎、駆逐艦、敷設艦、・による輸送作戦が行われ、駆逐艦3隻(、、天霧)が援護と飛行場砲撃を行った。 5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)でガ島揚陸が実施された。 8日、ガ島に増援の米軍が上陸し、から米軍が川口支隊の背後に上陸したと報告が入った。 第三水雷戦隊の旗艦軽巡と駆逐艦5隻(陽炎、吹雪、白雪、天霧、夕暮)が夜に到着したが、上陸船団は撤収しており、掃海艇1隻を座礁させたにとどまった。 13日にはヘンダーソン飛行場への日本陸軍総攻撃を支援するため出撃したが、攻撃が失敗し引き返した。 21日、大江覧治大佐の指揮で駆逐艦4隻(陽炎、、白雪、浜風)が出撃、夜にガダルカナル島揚陸に成功するが、月明下で米軍機の夜間空襲を受けた。 陽炎は機銃掃射をうけて艦首の水線上に穴が空き、浸水して揚錨機が使用不能になった。 この戦闘で、日本は月明下でのを避けるようになった。 22日、損傷した陽炎はいったん増援部隊から外されることになり、25日にトラック泊地に到着。 工作艦で修理した。 10月11日、前線に復帰した。 13日に計画された大規模な作戦では前進部隊に編入し、駆逐艦、と共に第二航空戦隊の空母、空母を護衛した。 10月26日のに参加し、米艦隊を追撃した陽炎と駆逐艦が27日、空母との搭乗員各1名を捕虜にした。 第三次ソロモン海戦 11月3日、第二水雷戦隊(少将)が再び増援部隊の中心となった。 6日、駆逐艦11隻(陽炎、親潮、早潮、海風、江風、涼風、巻波、、、、)がショートランド泊地を出撃しガダルカナル島に輸送し、作戦は成功した。 詳細は「」を参照 11月、再びヘンダーソン飛行場への大規模な艦砲射撃と上陸作戦が計画され、(中将)を乗せた輸送船11隻を、第二水雷戦隊が指揮する駆逐艦11隻(陽炎、早潮、親潮、海風、江風、涼風、高波、長波、巻波、天霧、望月)が護衛し、11月12日にショートランドを出撃した。 しかし13日の第一夜戦と昼間の空襲で戦艦、重巡衣笠、駆逐艦とを失って砲撃が中止となり、船団はいったんショートランド泊地に戻った。 14日に再出撃するがエンタープライズ艦載機やB-17重爆の攻撃で輸送船6隻が沈没、輸送船佐渡丸は天霧と望月の護衛で退避した。 残る輸送船4隻(廣川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)を護衛し揚陸を目指したが、15日に同海戦第二夜戦に遭遇した。 田中少将は陽炎と親潮に突撃を命じ、戦艦と交戦中の米戦艦に遭遇した。 親潮は魚雷1本を発射したが外れ(命中と誤認)、陽炎は夜戦の混乱で敵味方が識別できず攻撃できなかった。 輸送船は15日午前2時頃、ガダルカナル島に座礁させ揚陸をめざしたが、昼間の空襲で全隻炎上し、輸送作戦は完全に失敗した。 陽炎は15日の第二夜戦の混乱の中でらしい艦影に識別信号を送った。 さらに距離1000mで米戦艦(と推量される)が反航しすれ違ったが、攻撃できなかった。 当時の高田俊夫・陽炎水雷長は「魚雷を発射しなくても大砲や機銃を撃てば良かったのかもしれないが、日本海軍は事前にそういう訓練はしてないので、撃つという発想がなかった」と回想している。 連合軍は16日にのに上陸した。 17日夜、駆逐艦5隻(夕雲、風雲、巻雲、陽炎、親潮)で陸兵1000名のブナ輸送に成功した。 別の輸送作戦で海風が空襲で航行不能となり、19日に親潮と陽炎がラバウルから救援に向かった。 24日、第15駆逐隊の僚艦が空襲で沈没し、同隊は3隻(親潮、黒潮、陽炎)になった。 外南洋部隊は東部ニューギニアとガダルカナル島の二正面作戦を強いられることになり、第二水雷戦隊はガ島へのドラム缶輸送計画に参加することになった。 詳細は「」を参照 11月29日夜、田中少将が指揮する第二水雷戦隊の駆逐艦8隻(長波、高波、親潮、黒潮、陽炎、巻波、江風 、涼風)が、第一次のドラム缶輸送のためガダルカナル島ルンガ沖に到着した。 日本の輸送作戦を察知した少将率いる米艦隊は重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻で急襲し、ルンガ沖夜戦が勃発した。 陽炎はこの時、輸送任務のため魚雷16本のうち予備魚雷8本を降ろしていた。 陽炎は攻撃命令を受けてドラム缶投下を中止、魚雷戦を準備した。 しかし後続の巻波と行動中に僚艦を見失ったため、他艦より遅れて米艦隊を追撃し、巻波と共に魚雷を発射した。 このうち2本が重巡に命中し、まもなく沈没した。 日本は高波を失ったが、重巡、 重巡、重巡を大破させ、日本が海戦に勝利した。 ただ輸送は失敗した。 第二次輸送はとが加わった駆逐艦9隻で実施され、12月3-4日にドラム缶1500個を投下したが、陸軍が回収したドラム缶は310個にとどまった。 7-8日、第三次輸送が駆逐艦11隻(親潮、黒潮、陽炎、長波、江風、涼風、嵐、野分、、谷風、)で実施された。 空襲で野分が航行不能となり、長波、嵐、有明と共に撤退した。 残る駆逐艦はガ島付近で魚雷艇と夜間空襲を受け、揚陸を断念した。 11-12日の第四次輸送は野分をに交代して実行されたが、揚陸中に魚雷艇の襲撃で照月が沈没し、投下したドラム缶1200個中220個しか回収されなかった。 16-17日には駆逐艦6隻(長波、巻波、親潮、黒潮、陽炎、谷風)でに輸送を実施、揚陸中の夜間空襲で陽炎は重軽傷6名を出した。 21日には駆逐艦4隻(浦風、谷風、巻波、陽炎)でムンダ輸送を実施した。 (昭和18年)1月2-3日、駆逐艦10隻(長波、江風、涼風、巻波、荒潮、親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)でガ島への輸送し成功した。 この頃、第二水雷戦隊の各艦が激戦で故障を抱えたため艦の交代が行われ、陽炎と親潮、涼風、長波はトラック泊地に戻った。 ガダルカナル島からの撤退が決まり、陽炎は2月上旬、敵艦隊の出現に備える本隊の支援隊として参加した(編制は参照)。 2月8日までに撤退は成功し、トラック泊地の主力艦艇はいったん内地に帰投が決まった。 陽炎と黒潮は悪天候で航空隊の収容が遅れた隼鷹を護衛するため、主力艦艇に1日遅れて2月16日にトラックから内地に向かった。 到着後、陽炎は入渠整備を行った。 沈没 3月22日、陽炎と駆逐艦、駆逐艦、夕暮は、隼鷹、飛鷹、重巡、重巡を護衛して本土を出撃し、28日にトラック泊地に到着した。 4月24日、トラックで合流した第十五駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は外南洋部隊に編入された。 4月26日、に到着。 この頃やコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、この任務に第十五駆逐隊などが投入された。 4月29から5月8日までに6回のコロンバンガラ島輸送を実施することが計画され、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は奇数回の輸送を担当した。 第1回(4月29日)、第3回(5月3日)の輸送は成功したが、毎回ブラケット水道を通過する同じ航路をとったため、日本軍の補給部隊がブラケット水道を通っていることを知ったアメリカ軍は5月6日に敷設駆逐艦「」、「」、「」によりブラケット水道に機雷 を敷設した。 5月7日17時(日本時間)、「親潮」、「黒潮」、「陽炎」はブインから5回目の輸送に出撃した。 「陽炎」は八連特の人員や軍需品などを搭載していた。 5月8日1時ごろにコロンバンガラ島ヴィラ泊地に入泊し、揚陸およに交代人員の収容を終えて3時10分頃に出港。 ブラケット水道を通過し、ファーガスン水道に向かおうとしていたとき、先頭の「親潮」が触雷した。 時刻は3時59分であった。 これを潜水艦の雷撃によるものと判断した「黒潮」と「陽炎」は爆雷を投射。 それから「陽炎」は「親潮」の周囲で潜水艦の捜索を行っていたところ、フェアウェイ島の37度約2000メートル付近で触雷した。 その時刻は4時11分頃 か4時6分 、または「親潮」触雷の11分後 であった。 「陽炎」は第一缶室と第二缶室に浸水し航行不能となった。 この後さらに「黒潮」も触雷し爆沈した。 沿岸監視員から日本駆逐艦が航行不能となって漂流中との報告を受けた少将は19機、3機、32機、を8機攻撃に向かわせた。 F4UとTBFは荒天のため引き返したが残りは攻撃を行い、「親潮」に爆弾1発が命中。 「陽炎」も至近弾や機銃掃射で負傷者を出し、火災も発生したがすぐに消火された。 「陽炎」は北西に流され 、浸水が進んで沈み始めたため18時ごろ艦長は総員離艦を下令。 18時17分、「陽炎」はフェアウェイ島の0度1200メートルで沈没した。 「陽炎」での人的被害は戦死者18名、重傷者11名、軽傷者25名であった。 「陽炎」の生存者はフェアウェイ島に上陸し、5月9日の日没後に救出に着た大発により救助された。 6月20日、陽炎は帝国駆逐艦籍から除籍され、第15駆逐隊も解隊した。 歴代艦長 艤装員長• 中佐:1939年2月2日 - 1939年8月10日 駆逐艦長• 山本岩多 中佐:1939年8月10日 - 1939年11月1日• 天野重隆 中佐:1939年11月1日 - 1940年10月15日• 横井稔 中佐:1940年10月15日 - 1941年12月22日• 有本輝美智 中佐:1941年12月22日 - 1943年6月1日• 11-12『達第六十六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十二年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、掃海艇二隻、敷設艇一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十三年四月十五日 海軍大臣 米内光政|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 陽炎 カゲロフ (略)』• 20『艦名:陽炎 艦種:一等駆逐艦 性能略 製造所:舞鶴工廠 起工年月日昭和12-9-3 進水年月日13-9-27 竣工年月日14-11-6 兵装略 』• 4『艦艇類別等級表 驅逐艦 一等 陽炎型 陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、濱風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲』• 70『昭和十三年四月十五日 内令三〇七 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 驅逐艦一等ノ部朝潮型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |陽炎型 陽炎、不知火、黒潮 掃海艇第一號型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第七號型 第七號、第八號 』• 『』 Ref. C13072076200• 122頁• 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁• 1『記事 昭和一六. 二七 第一航空艦隊第五航空戦隊ニ編入』• 131頁• C13072083500• 5『1月29日 不知火霞秋雲「トラック」着。 浜風陽炎ハ翔鶴ノ警戒艦トシテ横須賀ニ向ケ「トラック」発』• 20-21『三 天候略 一. 伊一八潜、伊二二潜、伊二四潜、翔鶴、濱風、陽炎入港 長官代理トシテ参謀長訪問 以下略 』• 4『 4 18dg 機動部隊ニ編入印度洋機動部隊ヲ終了シ二十三日呉歸着修理整備工事ニ従事 五月一日前進部隊ニ編入ノ豫定 』• 4-5『 ロ 自五月二十日至五月三十一日 五月二十日附GF第二段作戰第二期兵力部署トナリ尓後2sd 早潮欠 ハ攻略部隊護衛隊トシテ早潮ハ攻略部隊航空隊ニ編入MI作戰ニ従事』• 35『四参考 イ 麾下艦船部隊ノ行動』• 16『四. 攻略部隊』• 15『18dgハ六月八日以後7S司令官ノ指揮下ニ入リ行動』• 8『麾下 指揮下 艦船部隊ノ行動 其ノ六 十八駆逐隊 霰 霞 不知火 陽炎』• 271頁• 446-447頁• 53『陽炎ハ自七月一日至七月九日湊町沖又ハ横須賀ニ在リテ敵潜掃蕩作戰竝ニ主要艦船護衛任務ニ従事 七月九日菊川丸ヲ護衛キスカ方面ニ行動七月二十日附18dg 陽炎缺 ハ5Fニ陽炎ハ15dgニ編入セラル』• 88『陽炎駆逐艦長 宛略 陽炎菊川丸ヲ護衛十九日1300「キスカ」着』• 28『内令第千三百二十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年七月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎 第十八驅逐隊ノ項中「陽炎、」ヲ削リ第十五驅逐隊ノ項中「早潮」ノ下ニ「、陽炎」ヲ加フ』• 15『二十八 天候略 三. 陽炎霞ヲ護衛シ「キスカ」發』• 334頁• 287-288頁• 付録1頁• 10『八 天候略 二. 陽炎ヲ原隊ニ復皈セラル』• 38『十一日一〇三五2sd司令官 宛略 神通陽炎「トラック」ニ向ケ横須賀發十五日1600頃到着 北水道ヨリ 予定 通報一木支隊長1000』• 6『四. 参考麾下艦船部隊ノ行動 第十五驅逐隊 キスカ方面行動中 8日 一八〇〇 2sdニ復皈横須賀 11日 一〇〇〇航海中 15日 一五〇〇 トラック 16日 〇五〇〇航海中 外南洋部隊ニ編入「カ」號作戰増援部隊トシテ行動 』• 518-519頁• 534-535頁• 554頁• 554,559頁• 16-17『 20 30dg 卯月望月缺 磯風江風陽炎ハ8月24日2200「ルンガロード」ニ進入飛行場附近ヲ砲撃シタル後北方ニ避退セリ。 陽炎ハ敵潜1隻ヲ砲撃及爆雷攻撃ニ依リ概ネ確実ニ撃沈セリ』『 21 第二梯団ハ8月25日0023月明下ニ船団触接中ノ敵「コンソリデット」1機ヲ認メ而モ既ニ敵航空威力圏内ニ進入シアリシヲ以テ益ヽ厳重ナル警戒ヲナシツツ南下シ0235哨戒艇 4隻 ヲ続イテ0540 30dg 望月卯月缺 陽炎江風及磯風ヲ合同セリ。 右部隊ハ概ネ新編入ノモノナリシヲ以テ警戒航行序列泊地進入揚陸竝ニ出港離脱要領等ヲ下令スルノ要アリ』• 3-4『 一 2sd dg缺 略 八月二十五日神通ハ敵「グラマン」戰闘機四ノ爆撃ヲ受ケ損傷「トラック」ニ回航 同日陽炎ニ将旗ヲ移揚二十八日「ショートランド」ニ於テ衣笠ニ三十一日夕霧ニ夫々将旗ヲ移揚三十一日増援部隊ノ指揮ヲ 将旗 3sdニ引継グト共ニ夕霧「トラック」ニ向ケ「ショートランド」發』• 21-24頁• 25-28頁• 21『八月二十八日一木川口支隊ノ第一回増援隊ハ軽快部隊ニ分乗発進シタル所敵機ノ空襲ニ依リ一木支隊増援隊ノ乗艦セル第二〇駆逐隊ハ朝霧沈没夕霧白雲大破ス此ノ状況ヲ見テ第二十四駆逐隊ハ輸送ヲ断念引返セリ』• 14『吹雪白雪天霧陽炎夕暮 9月5日 RXNヘ陸兵231名弾薬糧秣ヲ揚陸ス』• 91-92頁• 15『川内第十九駆逐隊 2D缺 第十一駆 初雪叢雲缺 陽炎天霧夕暮 9月8日 「タイボ」岬ニ敵巡1駆6輸送船6出現ノ報ニ依リ直ニ進撃同日2130湾外ニ於テ敵駆1撃沈1隻大破ス』• 16『浦波白雪陽炎浜風 9月21日 「カミンボ」ニ糧食ヲ揚陸セリ』• 77『二十一 天候略 六. 陽炎ハ夜間「カミンボ」ニテ揚陸作業中敵機ノ銃撃ニ依ル被弾ノ爲揚鎖機室及糧食庫ニ浸水揚錨機械使用不能トナル』• 4『陽炎 自9月1日至9月24日外南洋部隊トシテ「ガダルカナル」奪還作戰ニ従事 自9月25日至9月30日「トラック」ニ在リテ次期作戰準備竝ニ待機』• 81-82『二十五 天候略 一. 0755陽炎「トラック」着明石ニテ修理ノ爲神通ニ横付ス(略)』• 26『前進部隊指揮官 十二日一八三〇前進部隊 前進部隊信令第二二一號 一. 前進部隊分隊區分中左ノ通改ム イ 挺身攻撃隊兵力ヲ3S. 4S 4S 5Sハ概ネ2Sfト行動ヲ共ニス 略 』p. 40-41『2司令長官 十四日前進部隊 前進部隊信令第二三八號 一. 2sd 15dg《陽炎缺》31dg缺)ハ補給終了次第成ル可ク速カニ4Sニ追及合同セヨ』• 31『2F司令長官 二十六日一八〇五5s司令官 5S陽炎巻波ハ2sdノ南方ニ進出セヨ』• 306頁• 4『 イ 第二水雷戰隊司令部 自11月1日至11月2日「トラック」ニ在リテ整備竝次期作戦準備 自11月3日至11月30日外南洋部隊増援部隊トシテ輸送船護衛揚陸掩護竝ニ増援輸送作戦ニ従事』• 350-351頁• 376,379-382,391-392,397-398頁• 449-450頁• 418-419頁• 36-37『十九 天候略 一. 一〇〇〇親潮陽炎 海風救援ノ爲「ラボール」發』• 431頁『ドラム罐輸送計画』• 451-452頁• 433-436頁• 75-76頁• 3『 ハ 第十五驅逐隊 自1日至13日「ショートランド」ヲ基地トシ第二次 3日4日 第三次 7日8日 第四次 11日12日 「ガ」島輸送ニ従事 自14日至31日「ラバウル」ヲ基地トシ第一回第一次 自15日至18日 第二回第三次 自22日至26日 「ムンダ」輸送ニ従事 但シ陽炎ハ第二回第三次不参加第二回第一次 自20日至22日 「ムンダ」」輸送ニ従事』• 446-447頁• 453-454頁• 510-513頁• 29『一三日一七三八 長官 GF 宛略 GF電令作第四八九號 一. 20『15日1100 3S時雨 佐世保ニ向ケ 鳥海冲鷹嵐大波 横須賀 2sf 飛鷹缺 日進黒潮陽炎 呉 8S 筑摩缺 舞鶴 各軍港ニ向ケ「トラック」発|四. 1700 2sf 飛鷹缺 陽炎黒潮天候不良ノ為Y収容不能ニ付「トラック」入泊』p. 3『 ロ 第15駆逐隊|陽炎1月31日「トラック」発前進部隊警戒隊トシテ「ケ」號作戦ニ従事2月9日「トラック」帰着、同16日隼鷹ヲ護衛シ「トラック」発21日呉着修理ニ従事(略)』• 7『夕暮 略 二十一日同地発佐伯着二十二日同地発陽炎初月涼月ト共ニ2sf及8Sノ護衛ニ任ジツツ GF電令第一三三號KdB電令作第五七號 二十七日「トラツク」着』p. 37『二二 天候略 一. 夕暮一一三〇トラツクニ向ケ佐伯発 一. 五月雨〇五四五第二長安丸救難警戒ニ任ズ』• 16『22日|一. 1200 2sf、8S、61dg 涼月 夕暮15dg 陽炎 「トラック」ニ向ケ佐伯発』p. 6『3月22日-3月28日|使用兵力:陽炎 将旗15dg |被護衛艦艇:2sf 隼鷹飛鷹 8S 利根筑摩 |行動:佐泊-「トラック」』p. 7『行動要覧 斜線部航海中 』• 3『 ロ 第十五驅逐隊 上旬陽炎 将旗15dg ハ「トラック」ニ在リテ警戒待機訓練並ニ整備ニ従事 親潮黒潮修理完成4日横須賀發10日「トラック」着 自12日至21日前進部隊指揮官直率ノ下ニ敵潜掃蕩作戦ニ従事 24日外南洋部隊増援部隊ニ編入主トシテ「ムンダ」輸送作戦ニ従事』• 戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、159ページ• 戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、159-160ページ• 戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、163ページでは250個、日本水雷戦史、310ページでは250個以上• 戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、160、163ページ、日本水雷戦史、310ページ• 戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、162ページ、日本水雷戦史、311ページ• 日本水雷戦史、311ページ• 戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、162ページ、第十五駆逐隊触雷沈没記、93ページ• 日本水雷戦史、312ページ• 日本水雷戦史、313ページ• 第十五駆逐隊触雷沈没記、95ページ• 第十五駆逐隊触雷沈没記、96-97ページ• 14『内令第千二百四十四號 呉鎮守府在籍 驅逐艦 黒潮 驅逐艦 親潮 驅逐艦 陽炎 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル 昭和十八年六月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎』• 13『内令第千二百四十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年六月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎 第十五驅逐隊ノ項ヲ削ル』• 『』 Ref. C13072075400• C13072076600• C13072079000• 『』 Ref. C13072091500.
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