未来 の ミライ ひい おじいちゃん。 未来のミライ

『未来のミライ』謎の男の正体とは?くんちゃんは誰に出会ってどんな影響を受けたの?謎解きしてみた

未来 の ミライ ひい おじいちゃん

解説 「バケモノの子」「おおかみこどもの雨と雪」の細田守監督が手がけるオリジナルの長編劇場用アニメーション。 甘えん坊の4歳の男児くんちゃんと、未来からやってきた成長した妹ミライの2人が繰り広げる不思議な冒険を通して、さまざまな家族の愛のかたちを描く。 とある都会の片隅。 小さな庭に小さな木の生えた、小さな家に暮らす4歳のくんちゃんは、生まれたばかりの妹に両親の愛情を奪われ、戸惑いの日々を過ごしていた。 そんな彼の前にある時、学生の姿をした少女が現れる。 彼女は、未来からやってきた妹ミライだった。 ミライに導かれ、時を越えた冒険に出たくんちゃんは、かつて王子だったという謎の男や幼い頃の母、青年時代の曽祖父など、不思議な出会いを果たしていく。 これがアニメ声優初挑戦の上白石萌歌がくんちゃん、細田作品は3度目となる黒木華がミライの声を担当。 両親役に星野源、麻生久美子、祖父母役に宮崎美子、役所広司。 2018年・第71回カンヌ国際映画祭の監督週間に出品されたほか、第76回ゴールデングローブ賞にノミネートされるなど海外で高い評価を獲得。 アニメ界のアカデミー賞と呼ばれる第46回アニー賞では、日本人監督として初めて長編インディペンデント作品賞を受賞。 第91回アカデミー賞でも、日本作品としてはスタジオジブリ作品以外で初めて、長編アニメーション賞にノミネートされた。 2018年製作/98分/G/日本 配給:東宝 スタッフ・キャスト 宣伝から受けるイメージはダイナミックなアニメ映画だが、実際には非常にミニマムな世界を描いた作品だ。 そのせいで肩透かしを食らう人もいるのかもしれない。 4歳の男の子が初めて覚える嫉妬を乗り越え、お兄ちゃんの自覚を持つ。 この映画はそれだけのことを描いている。 大人からみれば、たんにワガママが収まっただけなのだが、4歳の男の子にとっては親の愛が全て新しく来た新参者(赤ちゃん)に奪われるというのは、大事件だ。 描かれるのは4歳の子どもの空想世界の大冒険だ。 それにしても細田監督は血縁のつながりに強いこだわりを持っているように思える。 主人公のくんちゃんが知らないはずの、お父さんやお母さんの過去に行けるのはなぜなのか。 空想の産物ならくんちゃんの好きなものとかが普通だろうと思うが、時空を超えた血縁の不思議な力を細田監督は感じているのだろうか。 このあたりの家族に対する考え方は、万引き家族の是枝監督とは対照的だ。 くんちゃんに妹ができた! お母さんもお父さんも 赤ちゃんの未来ちゃんにつきっきり! くんちゃんは、寂しくて仕方がない! 妹や弟がいる人なら 誰もが経験したことのあるストーリーを 時空を超えた家族との出会いとともに くんちゃんが成長していく様を描く。 ミライから来た未来ちゃんとの 出会いだけではないのが良い! 子供の頃のお母さんとの出会いは、 ああ、お母さんも子供の頃が あったんだなぁと理解できるし、 若かりし頃のひいおじいちゃんは、 初めてのことに挑戦する勇気をくれる! 思わず「くんちゃん頑張れ!」って、 応援したくなる! ただ、声優の違和感があり、 最後まで感情移入ができなかったのは、 残念…。 「デスカムトゥルー」 C IZANAGIGAMES, Inc. All rights reserved. 「ソニック・ザ・ムービー」 C 2020 PARAMOUNT PICTURES AND SEGA OF AMERICA, INC. ALL RIGHTS RESERVED. 「エジソンズ・ゲーム」 C 2018 Lantern Entertainment LLC. All Rights Reserved. 」 C 2019 Sony Pictures Television Inc. and CBS Studios Inc. All Rights Reserved. 「ドクター・ドリトル」 C 2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.

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「未来のミライ」(細田守監督)のあらすじ・ネタバレありの感想、考察。

未来 の ミライ ひい おじいちゃん

甘えん坊の4歳児「くんちゃん」のもとへ、ある日突然、あかちゃん「未来ちゃん」がやってきた。 甘え盛りのくんちゃんは生まれたばかりの未来ちゃんにお母さんとお父さんの愛情を取られたと思い、反発してしまう。 未来ちゃんをたたいてしまったり、おかしをくっつけていじめてしまうくんちゃん。 誰にもかまってもらえなくて悲しくなった、そんなくんちゃんの前に、女子高生になった未来ちゃんが現れ__ ひいじいちゃん=謎の青年? 『未来のミライ』では 謎の青年が登場します。 彼がいたのはどうやら戦後の日本で、 戦争中に負ったのか右足にけがをしています。 青年はくんちゃんを馬に乗せたり、 バイクに乗せたりしてくんちゃんが今まで経験したことのないようなことを経験させてくれます。 くんちゃんは元の時代に戻ってから、 お母さんとアルバムを見ている際にこの青年を見つけ、 「おとうさん」と指さしますが、 おかあさんはそんなくんちゃんに、 指さした 青年は「この前亡くなったひいじいちゃん」と告げます。 ひいじいちゃんは特攻隊として戦艦に乗ったものの、 その船が沈んでしまい、足をケガしてしまったのだとか。 足のケガと写真の件から、 くんちゃんが旅の途中に出会った青年はくんちゃんのひいじいちゃんだったことがわかります。 関連記事 くんちゃんはひいじいちゃんにどうやって出会ったの? 『スポンサーリンク』 くんちゃんはたびたび過去に戻ったり、未来にいったり、様々な時間軸をトリップをします。 ひいじいちゃんに会ったのは、女子高校生の未来ちゃんや成人姿のゆっこに出会った家の中庭に出た際。 くんちゃんが中庭に出たとたん、モーターの風にあおられて、いつの間にか見知らぬバイク整備場にトリップしてしまいます。 その バイク整備場にいたのが「青年時代のひいじいちゃん」。 突然迷い込んできた幼子に何の不信感も覚えずに、整備していたバイクにのらないかとくんちゃんを誘います。 普通だったら整備場に子供がいるという時点でおかしいので「どこからきたの?」と問いかけるところから始まるかと思いますが、そういったセリフは青年からは出ません。 関連記事 ひいじいちゃんがくんちゃんに与えた影響は? 『スポンサーリンク』 ひいじいちゃんに会う前、くんちゃんは自転車に補助輪なしで乗ろうと必死に練習しています。 しかし、まったくうまくいかず、それどころか自分が自転車に乗ろうと必死になっているところをおとうさんにみてもらえずに拗ねてしまいます。 おとうさんはそんなくんちゃんに「なんにでも初めてはある」といってできないことは当たり前だと暗に言ってアドバイスをしますが、このときくんちゃんはすねていてあまりこの言葉の意味を考えていませんでした。 そんな経験があってから、過去にトリップしたくんちゃん。 過去で青年時代のひいじいちゃんに会い、はじめて馬に乗ったり、はじめてバイクに乗って、最初は怖がってしまいます。 そんなくんちゃんに「なんにでも初めてはある」と、おとうさんがいったセリフを青年が口にし、くんちゃんはこのときに青年をおとうさんだと勘違いするんですね。 おとうさんと同じセリフを口にしたひいじいちゃんは怖がるくんちゃんに「遠くをみるんだ」と、馬やバイクに乗るコツを教えます。 そして元の時代に戻ったくんちゃんは、また自転車に乗ろうと練習を再開。 ひいじいちゃんに教えてもらった通り「遠くを見る」ことで補助輪なしで自転車に乗ることができるようになります。 くんちゃんはひいじいちゃんから「初めてやることに対して失敗をおそれない」教訓を得たのかもしれないですね。 関連記事 ひいじいちゃんとひいばあちゃんのかけっこって? 劇中では、くんちゃんの家には「ひいじいちゃんとひいばあちゃんのかけっこ」という伝承があります。 ひいばあちゃんがひいじいちゃんにかけっこで勝ったら交際してあげると約束し、ひいばあちゃんがかけっこに負けたことから二人は結婚することになったのだという伝承です。 ただ、これについてはひいじいちゃんが足をケガしていたことから「ひいばあちゃんに勝ったなんてうそ」だとして扱われていますが、実際、くんちゃんと女子高生の未来ちゃんが時間軸を旅してまわった際にひいじいちゃんとひいばあちゃんがかけっこをし、ひいばあちゃんが手加減をしてわざと負けたところを見ています。 あのときひいばあちゃんが手加減をしていなかったら今はなかったと未来ちゃんはいっていますが、くんちゃんがトリップした理由は家族の歴史を見ることで家族の絆や家族の在り方を考えるためだったのかもしれないですね。 関連記事 まとめ 以下、本記事のまとめになります。 ・バイク整備場にいた青年はくんちゃんのひいじいちゃん ・くんちゃんは中庭からトリップしてひいじいちゃんに出会った ・ひいじいちゃんのおかげでくんちゃんは自転車に乗れるようになった 『スポンサーリンク』.

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未来のミライ 舞台探訪

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この文章は映画「」の構成、あらすじ等その内容を推察できる要素を含んでいます。 映画を見ていない方は読まないようにしましょう。 「」は、オープニングの天空から俯瞰し家の中心たる木を経てくんちゃんに至るまでのカットで終わっている。 そのあとの部分はすべてその説明に過ぎない。 そして、その説明を見せられるのがまた疲れる。 アニメーションの力で何とか繋ぎ止めている感じがする。 このオープニングは、広大な世界と人の意識という最も小さい世界とは不可分で連続的にそして動的に存在するものだ、という事なのではないか。 その事を4歳のくんちゃんが「家族」と共に自己をおぼろげに確認していく、ということによって物語る。 その自己意識を成すものを ・ゆっこ ・誕生、命名 ・ミライちゃん ・くんちゃん ・未来 ・青年クンちゃん ・おかあさん、おとうさん ・じいじ、ばあば ・ひいおばあちゃん、おじいちゃん という、おぼろげな現実までを含めた「家族」によって構成し「人」の成り立ちを説明している。 そこには当然、その家族が生きた時代の風が含まれている。 ひいおじいさんの「刻」を告げる強烈なエンジン音はその「時」の凄まじさを表している。 (「」を意識していると思う。 )日本人にとってのの呪い。 しかし、その影は「」よりもさらにおぼろげでそのことに主題性はない。 戦争をどう扱うかは本当に難しい。 しかし、これからを生きていく人の現実感としては、このような表現にこそ真実味があるのだと思う。 だからこそ別の表現も必要なのかも知れないが、しかし、にならないで、戦争の本質のほんの一部でも表現できないかという、ぎりぎりの線を狙ったのではないか。 敗戦から復興までの困難と活力の「時」と、子供の小さな挫折と克服の「時」が同列の「刻」として、人間社会で最も大きい問題かもしれない「戦争」と、最も小さい「己」を確立する問題が重なって描かれる。 なんで100分の映画でこんなにも疲れるのか? この映画が疲れるのは、一見クンちゃんの物語のように進むが、実はくんちゃんはナビゲーターでしかない。 くんちゃんの赴く先にはそれぞれが主人公の物語が存在している。 (犬も含めて森羅万象すべて。 樫の木がそれを象徴している)そのショートフィルムを次々に見せれられるので、見ている人のフォーカスがずれまくる。 しかし、現実の世代間や問題認識などによる差異は、得てしてそんな風にして起こる。 この事から考えると、「」へのすべての評価には理があるという事なのではないか。 それを許容する見え方をする映画なのかもしれない。 なにせナビゲーターが4歳の「ガキ」なので、道徳も理念も哲学も思想も宗教も何もない。 やはりつかれる映画なのだ。 そのなかで、ちゃんが度々助け舟を出してくれ、くんちゃんが映画ごと虚無に落ちるのを防いでいる。 ここで厳しいのが、4歳くんちゃんと、青年くんちゃんの部分だ。 4歳くんちゃんの視点で社会的役割の認識と自立と自己認識の確立という青春的な困難が描かれる。 そしてくんちゃんは4歳のまま、青年くんちゃんの影の体験をさせられる。 ここはきつい。 子供にはきつすぎる。 迷子まではいいのだが、どんどん追い落としていく。 子供の理解を超えているところまで落としていく。 あそこに立っているのは本来は青年くんちゃんなのだ。 しかし、映画構成上ここで4歳くんちゃんが青年くんちゃんに置き換わってしまっては困る。 そのために4歳くんちゃんとこの映画を見に来た子供たちは同じようなトラウマ体験をさせられる。 後述する問題点だ。 なんとか虚無から逃れて、4歳くんちゃんがちゃんの「刻」に見る青年くんちゃんは実体で、4歳くんちゃんが影になっている。 この映画では4歳くんちゃんが生命の刻の影としてナビゲートするので、体面を気にしない、素の人間をそれほどの違和感なしに描くことが可能になる。 きわめてリアリティーを持った構成をしている。 しかし、これを見せられるのも中々疲れる。 この事は劇中でもインデックスという事であっさりと説明されている。 (この言葉が出て来た時、僕は「ああ監督だ」とおもってしまった。 ) 上述のように「」はそれぞれのショートストーリーの主題がくんちゃんの自己形成とリンクして描かれていく。 ゆっこ 嫉妬 思いやり おかあさん 衝動 ひいじいじ 努力(諦めない心) 青年クンちゃん 抑制(自我の肥大と抑制) そして、それらが形成する「人」という生命に宿る意識が、思いのほか多くのつながりによって作られ、受け継がれて来たものだという事がオープニングで表されている。 これらの物語を4歳くんちゃんは理屈なしに飲み込んでいく。 ミライちゃんが「家族」として立ちはだかることによって、自分の思い通りにならない世界があると知る。 最後に経験する青年くんちゃんは、そこから先は彼自身が切り開いていかなければならい。 そして、その助けとなるのは人と人のつながりであり、広がる世界とのつながりである。 エンディングに表されているのは、のくんちゃんの世界の、その広がりに対する親の願いなのかもしれない。 この映画の問題点 映画の中身は自己の成り立ちを説明しているので、結構ぎりぎりの要素ばかりで構成されている。 思うに、不意に自宅にが侵入してきたら、自衛を図らざるおえない。 大人はいい「つまらん映画だ」ですむ。 だが子供にとってのそれは泣くことになる。 この映画はサイコホラーだ(児童向け表現の一線を超えている)。 PG12相当。 子供の心に親も不意打ちのホラーを土足で踏み込ませるのはまずいと思う。 現実ではそんなことも多々あるが、それはその時に経験すればいい。 子供の映画体験という現実には相応しくないと思う。 よって、10歳以下の子供は見るべきでない。 来てしまうかもしれない子供たちへの配慮が足りないと感じた。 子供へのだまし討ちが主題なのだったら、騙された親が悪いという事になるが・・・。 感想 疲れた・・・。

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