私 の 決断。 「女医フォスター 夫の情事、私の決断」シリーズ2でもジェマの暴走キャラ健在のネタバレあらすじ|みかねーのシネドラパラダイス☆洋画&海外ドラマ好きのブログ

私の決断おかしいでしょうか?

私 の 決断

【白川優子】さんインタビュー 医療では戦争を止められない。 それでも、そばにいるだけで傷ついた人の希望になれる「看護の力」を信じる 国境なき医師団(MSF)に入りたい。 7歳のころから抱えていたその思いが募っていた20代半ば。 夢はあれど、英語という大きな壁を前に、乗り越えられるのか否か迷っていました。 看護師としては中堅の域に入り、年齢を考えれば新しい道へ踏み出すには勇気がいります。 今のままがラクかもしれないとも思っていました。 その姿を見ていた母が「10年たっても思いは変わらないんだから、行きなさい」とポンと背中を押してくれた。 もしその言葉がなければ、「夢は叶わないんだ」とくじけていたかもしれません。 「人生のピークは40歳あたりに見なさい」とも言われましたね。 それまでは20代が最高でなくちゃいけないと思っていたし、40代なんて余生…くらいの思い込みがあったので、すごく新しい考え方だなと。 焦りがちな私が、しっかり準備して40代で人道支援のプロになれたらいいと思えたきっかけでした(白川優子さん) 留学資金を貯めるために3年間産婦人科で働いた後、29歳でオーストラリアへ。 移民の多い国で、さまざまな民族衣装の人が混在して、差別も偏見もなく共存している。 世界にはこんなところがあるんだと驚きました。 まずは語学学校で学んでから大学に入学しましたが、私には「英語で看護を学び直す」ということに意味があったんですね。 当時は貧乏生活で、たった3ドルのコーヒーを買うか悩む日々。 2年目は少し余裕ができて訪問介護のアルバイトを始め、毎日コーヒーが買えるようになりました 笑。 人には寛容ですが成績には厳しく、留学生6人中、卒業できたのは私ひとり。 後がない…という必死さはだれよりもあったのかもしれません。 就職した後も含めて、オーストラリアでの7年間をひと言で表すなら「愛」。 思い出すだけでも感動で涙してしまうほど、周囲の人に支えられました。 憧れのロイヤル・メルボルン病院で働けるようになっても、英語コンプレックスが消えなくて毎日泣いていた私。 「みんなの迷惑になるから辞めます」と話したら、看護部長が「あなたは英語のハンデがあるかもしれないけれど、私は患者さんへの態度をすごく評価している。 どんなに勉強しても培われないものを持っているの」と。 さらには自分より10歳も年下の同僚が「どんなにバカな質問でもいいから、いつでもなんでも聞いて」と言ってくれて。 「Yukoは俺の英語よりうまいよ!」と笑わせてくれたネイティブの同僚もいました。 できないことを批判するのではなく、私を経験ある看護師として尊重し、得意なところを引き出そうとしてくれていたんですね。 愛あるサポートで働き続けることができ、プロジェクトリーダーを任せてもらえるようにもなりました。 7年目。 ずっとここにいたいと思ったし、オーストラリアに永住する道もありながら、虚無感を感じ始めていました。 こんなに恵まれた環境で満足できないのはなぜかと考えたら、「とき」が来たんだなと。 いよいよMSFへ行く時期だ、と採用面接を受けるべく日本に帰国しました。 36歳でした。 人生のピークは、40歳から。 20代で叶わない夢が、40代で叶うことがある MSF活動を始めて8年。 この1年は4回派遣され、イスラム国(IS)に占拠されていたイラクのモスル、シリアのラッカにも行きました。 安全面には十分配慮した場所を拠点にしますが、ときには病院の間近に攻撃が迫ることがあります。 不思議なもので、空爆や銃撃の音は避難をくり返しているうちに慣れてしまう。 怖さにマヒした者はどんな命取りな行動をとるかわからないため、真っ先に帰国しなさいと言われます。 いちばん苦しかったのは、ラッカの支援のときでしょうか。 7年間も戦争をしている地域で、現地の医療者も疲弊している。 私たちが技術を教えなくてはいけないのに、あっちでもこっちでも人が死にそうで、オペ室をふたつ用意して手術を同時進行するにも人が全然足りない。 ほとんど眠れず体は限界を超え、思考能力がなくなっていて。 休まないと危ないのはわかっていたのですが、休む間もないほどの暴力が発生していたんですね。 ギリギリの私に気づいて、支えてくれた温かな仲間がいなければ、乗り切れませんでした。 どこの紛争地に行っても感じるのは、泣いているのはまったく戦争に加担していない一般市民だということ。 みんな平和を願っていて、私たち日本人となんら変わらない。 ただ普通に暮らしているところに爆弾が落ちてきただけなんです。 なんとか戦争を止めたくて、看護師という夢を捨ててでもこの現実を伝えなくてはと、ジャーナリストになろうと本気で考えたこともあります。 結局今も看護師を続けているのは、シリアのある少女との出会いがあったから。 空爆で足を奪われた彼女は、ずっとふさぎ込んで心を閉ざしてしまっていたのですが、毎日手を握って言葉をかけるうち、帰国直前についに満面の笑顔を見せてくれた。 看護師だったからこそ、彼女の笑顔が見られたと気づいたんです。 私たちはジャーナリストでさえ入れない地帯に行けます。 施設や物資は万全ではないし理想の医療はできないけれど、そこにいるというだけで患者さんやその家族の希望につながるかもしれない。 看護の力をあらためて知り、戦争を止められないというジレンマに苦しむことはなくなりました。 日本で看護師をしていたときは、年功序列でしたし、やはり私自身、日々の業務に追われてしまっていた気がします。 そうすると、失敗しないため、怒られないための看護になっていく。 でも、痛み止めを何度も投与するより、患者さんに寄り添って手を握るほうが痛みを和らげられることがあります。 たとえ自分たちがどんなに忙しくても、紛争地であっても、看護師として絶対に忘れてはいけないこと。 極限での任務で、原点に帰った気がします。 心身ともに過酷な活動ですが、派遣されるときはお肌の基礎化粧品だけは忘れません。 空爆時の避難バッグにも真っ先に入れるくらい 笑。 東京に帰ってくれば、スカートやハイヒールをはいてオフィスで仕事をしたり、友達と食事やお酒を楽しんだり。 平穏で安定した日常があります。 それでも、世界ではこの21世紀にいまだに戦争をして、人間同士がいがみあっている。 空爆が続く限り、私はその空の下で苦しむ人たちのそばにいようと思っています。 そして、今後は自分の経験を伝えていくことにも尽力したいですね。 20 代で叶わない夢があったとしても、40代で叶うことがある。 何か、後輩や将来に迷っている人たちの役に立てたらうれしいです。 白川優子さんの本 世界が知るべき悲しみ、憎しみ、恐怖。 『紛争地の看護師』 紛争地の現場にいた白川さんだからこそ書くことができた、生と死のドキュメントを一冊に。 ジャーナリストが立ち入れない「現場」ではいったい何が起こっているのか。 私たちと変わらぬ人々が今なお抱える痛みに触れ、戦場は決して遠くの世界ではないと気づかされる。 ¥1,400/小学館 Oggi10月号「The Turning Point〜私が『決断』したとき」より 撮影/石田祥平 デザイン/Permanent Yellow Orange 構成/佐藤久美子 再構成/Oggi. jp編集部.

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『女医フォスター 夫の情事、私の決断』シーズン1のネタバレあらすじと感想。嫉妬にかられた女性の豹変をリアルに描く!

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【仲本千津】さんインタビュー やりたいことを先延ばしにはできないと、震災が気づかせてくれた 銀行員だった20代半ば。 丸の内で法人営業をしていましたが、周りはすごく仕事ができるエースばかりで、なかなか環境になじめずモヤモヤしていましたね。 大学院まではアフリカ政治を専攻していたこともあり、ゆくゆくはアフリカでの開発事業に携わりたいと思っていました。 現実はそれを隠して、膨大な量の仕事に死にものぐるいでついていく日々。 大変ながら人には恵まれて楽しかったのですが、東日本大震災が起きて意識が変わりました。 自分もいつ死ぬかわからない。 このままやりたいことを先延ばしにはできないなと。 すぐに転職活動を始め、2011年の年末にはアフリカに関わるNGOに拾っていただくことができました。 NGOでは2年半ほど東京オフィスに配属され、月1回アフリカに出張する生活に。 ただ、定時で終わるので時間がすごく余ってしまって。 本業の傍ら、プロボノスタッフとして、エチオピアでレザーブランドを起業した方のお手伝いを始めることにしました。 アフリカでのビジネスの仕方や、ファッション業界のいろはを勉強させていただきましたね。 20代後半は、人生のテーマを見つけて軌道にのせるため、一生懸命に学ぶ時期でした。 ウガンダに赴任になったのは、30歳のとき。 現地で初めてアフリカンプリントを見て、日本にはない色合わせや柄がすごく鮮やかでワクワクして、「私がビジネスにするならこれしかない! この生地でバッグをつくろう」と直感で決めました。 そうと決まれば現地で製造の体制づくり。 友人に紹介してもらったあるシングルマザーとの出会いで動き出します。 人の子供を抱えて厳しい生活の中、彼女には少しでも状況を変えたいという意志が見えた。 わずかなお金で豚を買って育て、子供の教育費に充てていたんです。 豚は繁殖能力が高く、1頭が現地の学費1学期分で売れる。 投資効率がいいんですね。 そういうことに気づく彼女の視点や、やろうと決めて続ける覚悟がかっこいいなと思い、ビジネスパートナーになってもらいました。 でも、縫製技術はまったくなくて、職業訓練学校に通っても日本で商品として売れるレベルではなかった。 これじゃあ無理かも…とすごく落ち込んでいたら、職業訓練学校に長く通っている女性ふたりが「私たちもやりたい」と声をかけてくれて。 しかも試しにバッグをつくってもらったら、すごく上手。 よくよく考えたら何事も始めて2、3か月でプロ級のものなんてつくれないですよね。 私はそこをすっ飛ばして、ひとりで諦めかけていたんだなと。 すでに技術があるふたりも雇い、4人で製造を始めました。 ただ、課題は販売。 私はウガンダに張りつきだったので、日本でどうやって商品を売ろうかと。 お金もないし人も雇えない…と悩んで思い出したのが母でした。 パートはしていたけれど、ビジネス経験はほとんどない専業主婦。 それでも快く引き受けてくれまして。 大手百貨店でブランドのスタートをきれたのも母のおかげです。 地元・静岡の伊勢丹で催事を見た母は、なんとインフォメーションセンターの方にアポなしで「担当のバイヤーさんを紹介してください」と飛び込み営業 笑。 普通は難しいことだと思うのですが、親切な方で本当にバイヤーさんにつないでくださり、展示販売が実現しました。 迎えた初日は、事前にプレスリリースを配信して新聞やテレビで取り上げていただいた効果か、午前中に在庫がほぼ完売してしまうという事態に。 手応えをつかめたことで、NGOを辞めてウガンダに正式に会社をつくり、本格的に「RICCI EVERYDAY」をスタートしました。 今は、ウガンダと日本を行き来しながら、生活しています。 一年の大半は日本を離れて暮らしていますが、このビジネスを始めて親との距離はグッと縮まった気がします。 私は4人兄弟のいちばん上。 長女というのは子供のときから放っておかれるもので、親との仲は良好ながらも距離を感じていたときもありました。 今は人生でいちばん一緒にいる時間が長いかも 笑。 年に1回、母が出張でウガンダに来ていて、付き添いの父と3人で過ごす時間を楽しんでいます。 自分が始めたことで、不幸をもたらしてはいけない。 生きづらさを、少しでも軽くしたい アフリカの中でもウガンダは、高地にあり気候が穏やかな国です。 今は比較的治安がよく、作物が育ちやすいので食べるのに困ることはありません。 多くは低賃金の劣悪な環境で働いています。 さらに、ウガンダ北部は2006年までは内戦状態で、子供のころに反政府組織に誘拐されて薬や暴力で洗脳され、女性でも兵士として前線で戦わざるをえなかった人がいて。 解放されても差別を受けたり、負傷して農作業ができなかったり。 幸せな暮らしを夢見ることさえできずに、生きづらさを抱えている人がまだまだいます。 そんな背景をもつ女性たちと一緒に働いていて感じるのは、彼女たちが日本のお客様に製品をつくっていることを誇りに、明日も明後日もその先もこの仕事を続けていきたいと思ってくれているということ。 今は20代、30代の女性を中心に18人の仲間がいます。 みんなに継続して仕事を提供できるよう、たとえ細くても、事業を長く続けていくことに意味があると信じています。 そのためにも、自分が始めたことで彼女たちに不幸がもたらされるようなことがあってはいけないと、常に見えないリスクと戦っています。 特に、ウガンダ行政との交渉は難しいですね。 人によって法律の解釈が違ったり、なかなか物事が予定どおり進まないことも。 現地法人設立の手続きをする際は、万が一にも彼女たちが当局に不当に逮捕されてしまうことがないように、念入りに準備しました。 あとはアフリカでビジネスをするなら、大事なスタッフを犯罪者にしてしまうかもしれないリスクを常に認識する必要があります。 日常的に人が亡くなるのでお葬式が多く、家族の事故や病気も隣り合わせ。 私たちの想像を超えた状況で資金ニーズが発生します。 そんなとき目の前にお金があったら、魔が差して盗んでしまうことも「ない」とは言いきれない。 従業員が困ったときに、会社として資金を貸し出せる制度の整備を進めています。 創業から3年、私たちの会社があることで、少しでも生きやすくなる人がいるんだと実感できました。 ここからは着実にブランドを育てていく時期。 ウガンダや日本以外の国でも展開できるよう挑戦していきたいです。 オンラインストア&百貨店で出合える! RICCI EVERYDAY 仲本さんがデザインを担当し、ウガンダの女性が製作。 ポーチや4WAYバッグなど、出張や旅先で便利なアイテムがそろう。 Oggi9月号「The Turning Point〜私が『決断』したとき」より 撮影/石田祥平 撮影協力/西武渋谷店 デザイン/Permanent Yellow Orange 構成/佐藤久美子 再構成/Oggi. jp編集部.

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決断力がない人が失うもの。決断できない理由と鍛え方

私 の 決断

選択の多い女性の人生に、決断は欠かせないもの。 各界の第一線で活躍する先人たちは、どんなターニングポイントを迎えてきたのか。 今回は、日本テレビ『news every. 』のキャスターとして親しみやすい解説で幅広い層から支持を集める小西美穂さんにお話をうかがいました。 【小西美穂】さんインタビュー 壁にぶつかるのは前に進んでいる証。 転ぶたびに、自分を新しくして起き上がる 大阪の読売テレビに就職して、報道記者をしていた20代。 社会部に配属され、情報を得るため警察関係者に「夜討ち朝駆け」の日々。 疲れ果てて、裁判所のトイレで便器のフタの上に座ってこっそり寝る…なんてこともありました 笑。 ハードでしたが、事件や事故を追っていく中で、自分が報道したことが社会を変えるきっかけになるんだという手応えも徐々に感じられるように。 中でも29歳のときに制作した、弁護士の大平光代さんの密着ドキュメンタリーは、大きな転機です。 大平さんは中学でのいじめを苦に自殺を図り、一時は暴力団組長の妻だった時期も。 そこから独学で弁護士になり、非行少年少女の更生に努めていらっしゃって。 彼女の生き様を伝え、視聴者の方から「自殺しようと思っていたけれど、あなたがつくった番組を見て思いとどまった」というお手紙をいただいたときは胸が震えました。 報道の仕事は、だれかの人生を変えてしまう可能性があります。 それに対して臆病であることを忘れたくない。 弱い立場の人を全力で支援するという信条をもちつつ、わかったふりをせず、「これでいいのかな」「ほかにも視点はあるんじゃないか」と自問しながら取材することを心がけるようになりました。 ロンドンへの赴任話が舞い込んだのが32歳のときです。 海外特派員は憧れでしたが、任期は3年。 今後のライフイベントを考えると、今ほど高齢出産の例も聞かなかったので、もし出産するなら35歳での帰国はギリギリかな…という女性としての迷いもありました。 背中を押してくれたのは、旅行業界でバリバリ働く4歳年上の友人です。 「美穂ちゃんが行かなければ、後輩男性が代わりに行くでしょう? 画面でそれを見ていられる? 3年なんて、なんともないよ」と。 日本に残って夢をあきらめたらずっと悔しい思いをする…そんな私の本音を悟った彼女のおかげで、決心することができました。 派員時代は、着任早々「9・11」のテロが起き、ブレア首相やイスラエル、パレスチナの取材に奔走。 まだ日本で一般的には知られていなかったサッカーのベッカム選手に着目し、遠征先に同行してはリポートをお届けしたのもこのころです。 念願のイラク取材は、帰国間近になって実現しました。 武装集団に攻撃されたときのために防弾チョッキを着て、すぐに逃げられるように夜も普段着で寝る生活。 それでも、現地で生の声を聞き、自分の目で自衛隊の活動を見て考えたことは得難い経験となり、のちに防衛省担当記者となった際には自分の強みに。 人生の宝物みたいな3年間でしたね。 ロンドンから戻って受けた辞令は、系列局である日本テレビ政治部への出向でした。 30代半ばにして縁もゆかりもない東京でまた未知の世界に突入です。 政治部は社会部と取材のイロハも違うので毎日が勉強漬けで失敗の連続。 さらにプライベートでは父の急逝と本当に苦しい1年でした。 しかし、その一方で湧いてきたのは、報道の中枢でもっと挑戦してみたいという気持ち。 東京に残れるよう、14年勤めた会社の正社員という立場を捨て、有期の契約社員として日本テレビへ入社しました。 読売テレビでは、僭越ながら社長賞などもいただいていたのですが、それも過去の栄光で社歴はリセットされます。 ある芸人さんが「大阪では売れてたのに、東京来たらノリも扱いも違う。 なんや、2度売れなあかんのか!」とおっしゃっていて、すごく共感 笑。 ただ、こんな私を面白がってくれる上司もいて、夕方の報道番組でキャスターに選んでいただき、現場で取材したニュースを自分の言葉で伝えられるように。 その後日テレで正社員となり、同僚にも恵まれ、40歳までは坂道を駆け上るような、まさにキャリアのキラキラ期でした。 ええかっこ〟しようとする見栄はいらない。 行き詰まったら人に会う、聞く耳をもつ、行動する 「私、このまま必要とされないのかな」という危機感を抱いたのは41歳のころ。 平日に毎日出演していた担当番組が終わり、定期の仕事がなくなってしまったんです。 与えられたのは「企画取材キャスター」という役割。 今思えば自分が取り上げたいテーマの取材に集中できるありがたい立場だったのですが、「いい企画があればいつでも放送するよ」という言葉が、私には「いてもいなくてもいいよ」と聞こえて。 仕事もなければ、恋人もいない。 夜はあてもなく街をさまよい、本屋さんで自己啓発本を買っては心を落ち着かせる。 40歳の誕生日は番組の仲間がお祝いしてくれた華やかな一日だったのに、41歳は定食屋さんでひとり寂しく迎えるというこの落差。 人生どうなっちゃうんだろう…とすっかり自信をなくしていました。 なんとか自分を変えたくて、始めたのが婚活です。 といっても相手を探すのではなく、まずは今まで仕事だけに向けていたエネルギーを、サボっていた自分磨きにシフト。 ファッションやメイクに詳しい友達にとことん話を聞いて、改善点を教えてもらったんです。 関西人の愛のムチで「また不幸メイクしてる!」「ジーンズにパンストはいたらあかん!」と容赦ないダメ出しの連発 笑。 仕事では成果を出していると思っていたけれど、女性としては「私ってこんなにできてなかったんや」と。 そこからは、いかに素直に聞いて実行に移すか。 見た目だけでなく、洗顔方法や家具の選び方までアドバイスをもらいました。 そのうち周りにも変化を褒められだしてうれしくなるし、また新しい自分を見つけたくなる。 1年ほど続けた42歳のときには、11歳年下の今の夫と出会うことができました。 もちろん、いい相手と巡りあうことだけが人生の価値ではないのですが、自分にできることってまだまだあるんだなと。 結婚後は新たな番組や政治部に呼んでもらい、今に至ります。 キャリアが上がれば負荷は増えるし、厳しいことを言われる機会も増えます。 でも、私が画面に出ているのは、決して自分ひとりのパフォーマンスじゃない。 大勢のスタッフが番組を支えているんですよね。 常に「感謝の気持ち」と「謙虚な姿勢」を忘れず、人に対してモヤモヤを感じたときは、「私もそんなたいしたことないやん?」と思えるかどうかが、亀裂を深めないコツだと学びました。 これまではがむしゃらにやってきて、ニュースを伝えることで社会に貢献しているつもりになってしまっていたけれど、振り返れば自分のことばかりだったんです。 「ええかっこ」せずに自分をさらけだす、規格外のキャスターがいてもいい。 もし、読者のみなさんの中に私と似たような経験をしている方がいて、少しでも生きるヒントになったなら幸せだなと思います。 小西美穂さんの本 何度転んだって大丈夫! 新刊『小西美穂の七転び八起き』 小西さんが自らのデコボコ人生を通して導き出した新著には、笑って前を向くための知恵が満載! キャリアで迷ったときの扉の開き方から、チームの力を引き出す方法、成長をうながすノート術、そして女の友情、婚活術まで。 つまずいても学び続ける姿に、元気をもらえる! ¥1,400/日経BP社 Oggi12月号「The Turning Point〜私が『決断』したとき」より 撮影/撮影/石田祥平 デザイン/Permanent Yellow Orange 構成/佐藤久美子 再構成/Oggi. jp編集部 小西美穂(こにし みほ) 1969年、兵庫県生まれ。 日本テレビ解説委員・キャスター。 読売テレビに入社し、大阪で社会部記者を経験後、2001年からロンドン特派員に。 帰国後、政治部記者を経て日本テレビ入社。 BS日テレ『深層NEWS』ではメインキャスターを約3年半務め、現在は報道番組『news every. 』でニュースをわかりやすく解説。 関西出身の明るく気さくな人柄で、のべ1,700人以上と対談した経験をもつ。 著書に『3秒で心をつかみ 10分で信頼させる聞き方・話し方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、日経ウーマンオンラインで『七転び八起きのキャリア美学』連載中。 インスタグラムアカウントは mihokonishi69。

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