軍艦 島 上陸 禁止。 軍艦島上陸および見学に関する条件|【公式】軍艦島上陸クルーズ

「軍艦島」上陸禁止、アスベスト検出の恐れ!影響や期間はいつまで?

軍艦 島 上陸 禁止

軍艦島とは 『軍艦島』は長崎県にある小さな島で、長崎港から南西の海上約17. 5kmの位置にあります。 現在は無人島ですが、かつては炭鉱の島として栄え、多くの人が暮らしていました。 正式名称は端島 軍艦島と呼ばれるこの島の正式名称は『端島』です。 もともとは、草木がほとんど生えない水成岩の瀬で、南北320m、東西120mほどの大きさでした。 端島の名がいつ頃つけられたのかは定かではありませんが、江戸時代に幕府が諸大名に命じてつくらせた国絵図『正保国絵図』には、『はしの島』と記されており、その後の『元禄国絵図』には『端島』と明記されています。 一部では『初島』とよばれていた記録も残っていますが、『軍艦島』と呼ばれるようになった1921年前頃までは、『端島』という名称が一般的でした。 軍艦島の由来 『端島』はいつ頃から『軍艦島』と呼ばれるようになったのでしょうか? 端島で石炭が採れることが分かったのは江戸時代で、明治に入ると本格的に竪坑が掘られるようになりました。 出炭量の増加に伴い、端島に移住する人が増加する中、1921年に地元・長崎日日新聞の紙面で端島がクローズアップされることになります。 その際、海上から写した端島の全景が、三菱造船長崎造船所で建造中だった戦艦『土佐』にそっくりだったのです。 記事の中でもそれが話題になり、端島は『軍艦島』と呼ばれるようになりました。 当時の軍艦島では、コンクリートの箱のような鉄筋造りの高層アパートが次々と建設されていました。 そのため、島を遠くから見たときに、まるで島全体が大きな軍艦のように見えたのです。 2015年に世界遺産として登録 軍艦島は2015年に『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』として、福岡県、山口県などの23施設とともに世界遺産に登録されています。 この遺産群は、1850年代から1910年の間、製鉄・製鋼・石炭・造船業において、西洋の技術が非西洋の国に波及し成功したことを証明するものです。 軍艦島の場合、島全体が世界遺産に登録されたわけではありません。 明治時代につくられた『石炭の掘削坑』の部分のみが世界遺産となっています。 その周りを囲む廃墟群は、大正・昭和にかけて建てられた比較的新しいものなので、世界遺産には含まれていないと覚えておきましょう。 軍艦島の歴史 江戸時代に石炭が発見され、そして廃墟になるまでの軍艦島の歴史をたどってみましょう。 開坑と島の拡張 島で石炭が発見されたのは江戸時代後期で、当時は佐賀藩が採炭を行い、規模は小さなものでした。 しかし、明治時代に入ると、三菱合資会社が島全体と鉱区の権利を買収します。 島の海底1000mには良質の石炭が眠っていて、主に九州の八幡製鉄所で製鉄用原料に用いられました。 その後、島は『海底炭鉱』として採掘を本格化し、炭鉱マンとその家族が移り住むようになります。 炭鉱以外の居住地が少なかったため埋め立てを行い、現在の面積まで拡張されました。 最盛期の1960年には5200人以上の人が暮らしており、人口密度はなんと東京の約9倍だったそうです。 これは世界一の記録で、今現在も破られていません。 高層住宅がひしめき、海底水道や屋上庭園など、当時の日本にはなかったスタイルが取り入れられて、『未来都市』と呼ばれるほどでした。 エネルギー革命と閉山 軍艦島の状況が暗転しはじめたのが、1950年代のエネルギー革命からです。 主要エネルギーが石炭から石油に移行すると、出炭量と人口は徐々に減少していき、1974年に、端島炭鉱は閉山となりました。 住民は島を離れ、同年の4月には、無人化しています。 軍艦島の特徴 現在は、島に上陸できるツアーも組まれています。 軍艦島の特徴や見どころを把握しておくとよりツアーが楽しめるでしょう。 完全な都市として機能 『廃墟』や『ゴーストタウン』というイメージが強い軍艦島ですが、最盛期は多くの人々が暮らし、完全な都市として機能していました。 病院、学校、映画館、商店街、寺院、パチンコホール、スナックなどが存在し、島だけで何一つ不自由ない暮らしができたのです。 島の半分以上は鉱場だったため、一般人が暮らす場所は限られていましたが、生活面ではかなり充実していたことがうかがえます。 現在もそのまま残る 1974年に炭鉱が閉山し、無人島となりましたが、新たな操業主を待ち続けた軍艦島は、設備の解体がなされませんでした。 この解体の遅れが、世界でも稀に見るゴーストタウンを生み出したのです。 現在も、社宅、神社、映画館、体育館、プール、桟橋、共同浴場など、当時の建物がそのまま残されています。 軍艦島に行ってみよう 軍艦島は、建物の老朽化が進んでいることから、長い間立ち入りが禁止されていました。 しかし、2008年に長崎市が条例を制定し、見学道路の整備を始めます。 そして2009年より、一般観光客の島への上陸が解禁となりました。 各旅行会社では、『軍艦島上陸クルーズ』や『軍艦島上陸ツアー』と称するツアーを提供しています。 見学できる場所は、桟橋、見学広場(第一見学場・第二見学場・第三見学場)、見学通路(約220m)のみで、島を自由に歩き回ることはできません。 波や風が強いときは上陸できない可能性があるので、天候に気を付けてスケジュールを組みましょう。 軍艦島と文化 外周約1. 2kmという小さな離島で、人々はどのような生活を送っていたのでしょうか?軍艦島の文化や人々の生活について解説します。 テレビ普及率 軍艦島は日本の近代化を支えた島で、人々の暮らしはとても裕福でした。 炭鉱での労働は過酷なものでしたが、高収入が約束されており、1950年代後半でテレビの普及率はほぼ100%だったそうです。 全国の一般的な家庭にはまだテレビが普及していなかったことを考えれば、かなり優遇されていたことが分かるでしょう。 日本最古の鉄筋コンクリートアパート 軍艦島には、日本最古の高層鉄筋コンクリートアパートがあります。 『30号棟』は島を象徴する代表的な建物で、1916年に建設されました。 30号棟は7階建てで、建物の中が吹き抜けになっているのが特徴です。 ここには鉱員やその家族が住み、1階には郵便局、公衆電話、理美容院、地下には公衆風呂などの設備がありました。 現在は老朽化が激しく、屋内への立ち入りは禁じられています。 長崎市にある『軍艦島デジタルミュージアム』には、30号棟を30分の1サイズに縮小した模型が展示されているので、立ち寄ってみるとよいでしょう。 日本で最初の屋上庭園 鉄筋コンクリートアパートやテレビなど、軍艦島には当時最先端の技術や生活様式がもたらされていました。 しかし一方で、軍艦島はもともと草木があまり育たない岩礁のような地で、植物や畑をするスペースがありませんでした。 水の確保が難しいという理由も相まって、植物や緑が著しく欠けていたのです。 そこで考え出されたのが『屋上庭園』です。 島に水道管が完備された1957年以降は、アパートの屋上に土を運び、花や野菜を育てる『屋上緑化』が進んでいきました。 収穫を目的にするというよりも、植物がどう育っていくかを子供達に観察させる意味もあったようです。 軍艦島の歴史について書かれた本はある? 軍艦島についてもっと深く知りたいという人は、写真付きの解説書や本を探してみましょう。 ここでは、軍艦島の歴史や文化、人々の暮らしぶりが理解できるおすすめの本を2点紹介します。 豊富な写真とともに解説 軍艦島 全景 『軍艦島 全景』は、軍艦島の過去と現在をビジュアルで楽しめるオールカラーの写真集です。 巨大な鉄筋コンクリートアパート群や謎に包まれた鉱業所など、普段は立ち入ることができない島のさまざまなエリアが映し出されています。 廃墟と化した街に迷いこんだようなリアルさが感じられるでしょう。 また、過去の写真も随所に織りまぜられているので、最盛期の人々の暮らしぶりも確認することができます。 マップや解説も充実していて、この1冊があれば軍艦島に詳しくなれることは間違いないでしょう。 商品名:軍艦島 全景• 価格:2,484円(税込)• 廃墟というと、寂しさや哀れさといった感傷がつきものですが、この写真集では、感傷とは無縁の新たな視点で捉えたありのままの軍艦島に出会うことができます。 新潮社86年刊の収録作品がベースとなっていますが、論文、年表資料などが加わり、内容は非常に充実しています。 著者の雑賀雄二氏は、端島炭鉱が閉鎖される前に島に上陸し、島の人々と会話を交わしながら写真を撮り続けました。 この写真集に収められているのは廃墟後の姿のみですが、巻末には島が捨てられるときの様子や炭鉱で生きる人々の話が文章で載せられており、軍艦島の背景を知るのに役立ちます。 価格:3,240円(税込)• Amazon: 軍艦島の歴史を知り、理解を深めよう 世界遺産に登録されてから、観光地として広く知られるようになった軍艦島ですが、どちらかというと『ゴーストタウン』というイメージの方が強いのではないでしょうか? しかし、そこには多くの人々が暮らし、1つの完結した社会を作っていました。 日本の近代化を支えた軍艦島をより深く知りたい人は、実際にツアーに参加してみるとよいでしょう。 長崎市内にある『長崎市軍艦島資料館』に足を運ぶのもおすすめです。

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【2018年版】軍艦島ツアーで上陸が不可能になっていた!

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Contents• 軍艦島到着 初見は東側から 冒頭でお話した通り、一般ツアーでの上陸は叶いませんでしたので、今回は周遊船からの撮影です。 Googleマップと合わせて各角度からの写真をどうぞ。 最初に軍艦島の姿が見えると、これまで映像や写真で知っていて、自分の頭の中でイメージしていたものよりもより鮮明に感じます。 やっぱり生は迫力が違う! 軍艦島で亡くなった人を火葬していたという「中ノ島」 こちらの島では火葬のみで、埋葬はそれぞれの出生地だったらしい。 有名な中学校跡の建物から回り込み、船は南側へ。 軍艦島 南側からの撮影 ツアー船はまず島の南側に着けて周遊します。 周遊船に乗る前に、右舷側か左舷側のどちらにスタンバイすればいいの?と迷ってましたが、どちらも一周づつ回ってくれます。 が、じっくりと撮りたいなら最初に回る 左舷側がオススメ。 まずは左舷側から周遊がスタート。 筆者はというと、船の中央位置にいた為、どうしてもファインダーに人影が入ってしまう…。 「今回は撮影はダメか・・・」と諦めかけていると、前にいらっしゃった老紳士が『写真撮るか?』とお声かけくださり、前のフェンスに移動できた!ありがとうございました! 2018年の度重なる台風により倒壊してしまったドルフィン桟橋! 無残!!! シーズン中に何度か修復作業がされたようですが、修復するたびにまた倒壊してしまったのだとか。 台風シーズンが終わるまでは上陸禁止にしておかないと今年の台風は異常だったので追いつかないですよね。 まず、南側は軍艦島を象徴する「トロッコ橋」と廃ビルという景色から始まります。 EOS Kiss MのEF-M18-150mmで撮影してますが、やっぱり上陸しないとしっかりと臨場感のある写真は残せません…。 いつか、完全立入禁止となる前に取材上陸したいものですが…。 船は徐々に南側から東側へと回り込み、学校跡まで戻ってきます。 軍艦島周遊 東側から撮影 再度、東側に回り込み。 やっぱり学校後は有名な建物だけあって、フォトジェニック。 撮りがいがあります。 朽ちてる感じが独特。 というか、個人的にこれほどの廃墟はこれまでに見たことがない。 船は徐々に北側へ周ります。 軍艦島 北西側から撮影 北側は、あまり見たことがない景色でした。 個人的には有名な南側よりも北側の方が建物が多くて好きです。 中から見るとまたさらに細かいディテールが確認できて良さそうです! あぁ…直接潜入してみたい!!! こちらの3連の建物は有名ですね。 廃墟感が増してきます。 軍艦島が軍艦島という異名を取ったのは、その見た目が軍艦に見えたことからというのは有名ですが、有名な南側からのアングルではなく、こちら側 西側 からのアングルとのこと。 ラストは西側から再度南側へ! 軍艦島は陽の当たり方によっても、大きく表情を変えるんだな、と気づきました。 行く時間帯もそうですが、季節によっても写真の雰囲気は大きく変わるでしょう。 西側から南側へ戻ってくると、こちら側は開けているせいか、施設への塩害の影響がどれほど大きいのかを見て取ることができます。 この日の海は台風一過後とは言え、比較的穏やかだったのですが、それでも軍艦島の防波堤に当たる波は力強いものがありました。 実際に住人がいらっしゃった時代。 台風直撃なんかすると、津波のような波が防波堤を超えて押し寄せてきたことでしょう。 子供なんかが興味本位で出て、波に攫われた…なんてことがあったかどうかは不明ですが、あっても全く不思議ではありません。 ちょうど西陽が当たり初めて、建物のコントラストが際立ちます。 やっと撮影のコツがわかってきた頃に、周遊は終わりました。 ダメ元ですが、長崎市へ立ち入り許可申請を出してみようと思っています。 はじめての軍艦島へ行ってみた感想 実は、筆者は10年以上前の2000年代初頭に軍艦島の存在を知り、絶対に行ってみたい場所リストに加えていました。 福岡市内住みで、長崎市の軍艦島は割と近そうだと思われるでしょうが、なかなか行かないのが長崎市なのです 笑 今回、世界から実家の長崎へと戻った後輩に会いに行こうと思い立ったこと、そのタイミングが「長崎くんち」と重なったこと。 さらには7年に一度しかないという「コッコデショ」なるものがあるという情報があり、前日に長崎入りが決定しました。 そして、念願だった軍艦島行きは、なんと当日の思いつき!で、チケット取れないだろうなと思いつつもダメ元でキャンセル待ちしたら入れちゃった…という感じ。 昨日のコッコデショ! 肝心の神輿投げるシーンは撮れなかったけど、これだけでもすごい迫力ある! 長崎の祭り、あなどれん! — ユウ トコトコ研究所 toko2lab 軍艦島をリアルに目の当たりにした筆者は、軍艦島熱が再燃!!! どうしても建物内を撮影したく想いが募ってしまいました…。

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軍艦島で基準値超アスベスト検出か 長崎市、上陸禁止に:朝日新聞デジタル

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端島(軍艦島)の位置 長崎港から南西の海上約17. 5キロメートル の位置にある。 旧の中心であり同じくで栄えていた (の南端)からは南西に約2. 5キロメートル の距離にあり、からは約4. 5キロメートル離れている。 端島と高島の間にはという小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。 そのほか端島の南西には「 三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。 端島は本来は、南北約320メートル、東西約120メートル の小さな瀬であった。 その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、(明治30年)から(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張した。 その大きさは南北に約480メートル 、東西に約160メートル で、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸で覆われている。 面積は約6. 3ヘクタール 、海岸線の全長は約1200メートル。 島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。 年間平均気温は15から16。 平均は2000ミリメートル 、冬は比較的雨量が多い。 夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い (いずれも旧についてのもの)。 端島を舞台とした(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れているが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもをはじめ観葉植物をおくところが多かった。 また、主婦にはが人気であったという。 も草木はほとんどないと述べているが、これについては誇張的という指摘がある。 閉山後の調査では二十数項目の植物が確認されており、特に()、()、()の3種が端島の主な植物として挙げられている。 歴史 [ ] 端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期 1810~1889年 、第二期・納屋制度期 1890~1914年 、第三期・産業報国期 1914~1945年 、第四期・復興・近代化期 1945~1964年 、第五期・石炭衰退・閉山期 1964~1974年 、第六期・廃墟ブームと産業遺産期 1974年~ に分けられる。 第一期・原始的採炭期 1810~1889年 [ ] 端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている。 『天保国絵図』にも「端島」とある。 端島でのの発見は一般に(7年)のこととされる(発見者は不明) が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、(10年)に深堀領の(旧・現)と幕府領の・(旧・現)が端島・・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり 、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張 、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている。 なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)。 明治後期の端島 (明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)がへ10万円で譲渡。 端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。 譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって 端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年) までに成長した。 この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年。 1935年に廃止) 、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、(1897年から1931年)島の周囲が段階的に埋め立てられた。 1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていた。 高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった。 納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通り。 端島における納屋制度の廃止は高島よりも遅かったが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となった。 長崎で建造された戦艦「土佐」 納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、(大正5年)には日本で最初のの集合住宅「30号棟」が建設された。 この年にはが端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道 しており、5年後の(大正10年)にも、当時で建造中だったの「」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる ことから、「軍艦島」のは大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。 ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(とのみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。 RC造の30号棟が完成した1916年までに、まず世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止されたが、1930年の直営合宿所の完成以降には、単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止され、1941年にはついに端島から納屋制度が全廃される。 しかし、代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も、劣悪であった。 例えば1916年に建設された30号棟は、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居がロの字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くなかった。 一方で、後に建設された坑外夫向けの16号~20号棟は、6畳+4. 5畳というやや広めの間取りで、端島における坑内夫と坑外夫の差別がそのままRC化されていた。 昭和初期の端島 端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接するとともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。 それを支える労働者のための福利厚生もすごい勢いで整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていた。 一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。 陽の光に当ることがない」 との言葉がある。 1916年(大正5年)以降から少年及び婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される。 1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された。 朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという。 戦後、高島・端島・崎戸の3鉱のやその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定した。 には坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34名を出した。 戦時中の1941年から始まった「」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた(昭和16年)には約41万トンを出炭 (端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2062トンを出炭した。 この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年~1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる。 (昭和20年)にアメリカの潜水艦「」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物のと勘違いしてを撃ち込んだ」という噂話になった。 1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没する。 1945年(昭和20年)に完成した65号棟(報国寮)北棟の防空用にこの時期の記憶が残る。 第四期・復興・近代化期 1945~1964年 [ ] 労働者に給与として「日本円」の代わりに支払われた、端島の「」(1961年発行)(図書館所蔵)。 現金を支払わないことで、会社の運転資金の節約と、労働者の移動(「島抜け」「ケツワリ」「ヤマカエ」)を制約する役割がある。 1916年施行の工場法で禁止されたが、現実には1960年代まで行われた 終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減するが(なお、1945年当時の端島の人口データは、終戦の混乱期と言うこともあり、国勢調査のデータで1656人、高島町端島支所のデータで4022人と大きな乖離があり、あまりあてにならない)、1945年10月の石炭生産緊急対策要綱による復興資金の供給、さらに1948年にによって輸入砂糖の出炭奨励特配が行われ、また復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加する。 同時に住宅不足が深刻化する。 この時期には設備の近代化と同時に、労使関係の近代化が行われた。 1946年には端島炭鉱労働組合が結成され 、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えた。 賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えた。 遊び場にブランコも設置され、住みやすくなった。 特に1955年の海底水道開通 で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善した。 島内には3つの共同浴場が存在し、職員風呂と坑員風呂の区別があったが、これも労働組合結成直後に起こった差別撤廃闘争で解消するなど、戦前からあった職員と坑員の差別は戦後から閉山期にかけて段階的に解消されていった。 しかし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の坑員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請け労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれる、と言う区分は労働組合に黙認された。 住宅規模は住人の家族数にはあまり考慮が払われておらず、勤続年数や職階など住人のランクに応じたものがあてがわれており 、住宅に関しては歴然とした階級社会であった。 海が荒れると潮が建物を乗り越えて上から降る「塩降街」の狭い坑員合宿で単身坑夫らが共同生活をしている一方で、砿長の自宅(5号棟)は波のかからない高台の一軒家にあり、全ての一般坑員が3つの浴場を共同で利用している一方で、砿長の自宅には個人用の風呂があった。 (1952年当時の端島における風呂の数は、一般坑員・職員向けの共同風呂が3か所、上級職員・来客向けのクラブハウス(7号棟)の風呂、砿長の自宅の風呂、計5か所) また、会社の立場からは、稼働率の低さ、労働者の流動性の高さ、出炭量の低さが問題となった。 労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、戦時中と比べて人口が急激に増加したにもかかわらず、石炭の生産量は大きくダウンした。 「食ったり遊んだりする分しか働かない単身者ではなく、家族持ちを多く採用する」「掛売制の採用(商品の代金を後払いとすることで、代金を払いきるまで半永久的に島外に出られなくする、納屋制度期の手法)」「設備の機械化による合理化」などの対策が提案されたが、労働組合との関係もあり、この時期はあまりうまくいかなかった。 ただしと、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にあるに(端島の住民のためのものが)建設された。 には坑内でガス突出事故が発生している。 第五期・石炭衰退・閉山期 1964~1974年 [ ] 1960年以降は、主要エネルギーの石炭からへの移行()により衰退。 特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、炭鉱の規模が縮小される。 これ以降人口が急速に減少する。 しかし端島炭坑は(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準となった。 さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善した。 この時期の端島の住民にアンケート調査を行った長崎造船大学のによると、住民の充足度も高く、この時期の端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、「 の完全充足期」と評される。 しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表。 その後数百万トンの石炭を残したまま (昭和49年)1月15日に閉山した。 閉山時に約2000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、4月20日の連絡船の「最終便」で退去した総務課のN氏、端島の最後を見届けるべく乗船していた研究者の、、片寄の友達である作家のらの離島をもって、端島はとなった。 しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた。 片寄俊秀は、「職住近接」、「シビル・ミニマム充足」、「住宅問題解消」の3つの実現をもって、この時期の端島を「理想郷」とも評しているが、最終的に鉱山は閉山となり、少しの退職金を手に全国に散らばった老齢の元坑員の再就職の苦労という現実も取材していることから、「端島において外見的に実現していた『理想郷』そのものが、真に人間が要求するものではなかったことを証明しているのではないか」と、一方でやや批判的な見方もしている。 いずれにせよ、同時期の殺伐とした本土とは全くかけ離れた社会であるこの時期の端島も、日本の一部であり、日本の一つの尺度とみている。 ドルフィン桟橋から端島に上陸する観光客(上陸解禁2日目の2009年4月23日) 閉山前よりや、片寄俊秀をはじめとする西山研究室の人々によって、主に「住まい」の方面からの調査が行われていたが、島全体が三菱の私有地であり部外者に対しては「外勤」と呼ばれる監視が付くのはともかく、調査を行う西山研究室の人々の後を総務課のN氏が密かに付けているなど、会社に常に監視されており、調査は限定的にならざるを得なかった。 また、住人らは戦時中の「闇」の部分を語ろうとはしなかった。 長崎造船大学の教授として、京大の西山夘三に代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて端島の生活を詳細に調べ上げた片寄は、軍艦島の充足した生活と言う「光」の部分だけでなく、戦時中の「圧制ヤマ」と呼ばれる奴隷労働や、中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった「闇」の部分も明らかにし、論文『軍艦島の生活環境』(1974年)としてまとめ上げ、雑誌『住宅』(日本住宅協会、1974年5月号-7月号)に掲載された(この論文は西山研究室の研究の一環とみなされ、 西山の撮影した閉山前の写真・西山の論文とともに『軍艦島の生活:住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』としてまとめられている)。 しかし、「これ以上暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい」と言う元住民のまなざしと板挟みとなり、片寄は研究を中断するに至る。 閉山後より阿久井喜孝の調査によって、建築の方面からも光が当てられた(端島の建築には鉱山の技術が使われていることが明らかにされた)。 また、高浜村端島支所の跡地から戦時中の日本人・中国人・朝鮮人の死亡者が記された『火葬認可証付申請書』が発見され、の調査によって、端島炭坑の「闇」の部分にも光が当てられるようになった。 奴隷労働があったとする片寄は、この調査に対して「その努力を決して無駄にしてはならないと思う」としている。 2000年代より、として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。 ブームの一環でもしばしば話題に上る。 無人化以来、建物の崩壊が進んでいる。 ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。 島はが所有していたが、(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡された。 所有権は、(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承された。 建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。 2005年(平成17年)、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各で紹介された。 島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止 )。 解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸した。 その後も、半年間で34,445人 、1年間で59,000人 、3年間で275,000人 と好調である。 なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる。 軍艦島上陸ツアーによる経済波及効果は65億円に上る。 一部でへの登録運動が行われ、2006年8月にはが端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。 2008年9月に「」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり 、(平成21年)1月に記載された。 軍艦島を国の文化財に指定する動きは、2013年11月5日の参議院内閣委員会にて参議院議員が未だ国の文化財ではなかった軍艦島に国の財政支援を求める質疑 を行い、国が必要な予算の確保に努める意向を示したことで 、2014年1月に長崎市は文化財指定に向けて意見具申を行い、2014年6月20日に文化審議会が軍艦島 =端島炭鉱跡)を含む三つの炭坑跡で構成される「高島炭鉱跡」を史跡に指定するよう文部科学大臣に答申して、2014年10月6日に軍艦島は国史跡として文化財指定された。 これで軍艦島が世界遺産登録へ向けて、非稼働遺産に必要な要件である国の文化的価値づけが明確になった。 しかし、2015年3月31日に韓国政府が端島の世界遺産登録に反対を表明し 、元大統領、外交部長官が陣頭指揮を執り、ユネスコ、国際記念物遺跡会議、世界遺産委員国などに端島を世界遺産登録として認めないように外交活動を行っており 、日韓の外交問題となっている。 長崎市の協力のもと、立入禁止区域や屋内を含む島内全域を撮影した端島のが、2013年6月28日に公開された。 インフラ長寿命化センターは2009年度より軍艦島のによる記録・保存管理に取り組んでおり、2014年には長崎市の委託を受けて、3D・・ ドローン 、水中などを用いて、全島の3次元データでの記録化を行った。 人口の推移 [ ] 端島の人口の推移 (大正9年) 3,271 による推計人口 (大正14年) 2,750 (昭和5年) 3,290 (昭和10年) 3,231 (昭和15年) 3,333 (昭和20年) 1,656 4,022 端島支所による人口 (昭和25年) 4,600 (昭和30年) 4,738 (昭和35年) 5,151 (昭和40年) 3,391 (昭和45年) (昭和48年) 2,150 (昭和50年) 0 行政区域の変遷 [ ] 江戸時代は幕府領の高浜村に属していた。 ただし前述のように境界をめぐる争論があり、(2年)に「幕府領・佐賀領とも端島に干渉しない」とされ、帰属先は定められていない。 (明治22年)の施行により 端島名となる。 (昭和30年)4月1日に高浜村が・・と合併して(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入され西彼杵郡高島町端島となった。 (平成17年)に高島町がに編入され、長崎市高島町字端島 となる。 島内の建築物 [ ] 1930年代の端島の集合住宅 端島に残るの中には、保存運動で話題になったより古いものがいくつか含まれている。 7階建のは(大正5年)の建設で、日本初のの高層アパートである (ただし1916年の竣工時は4階建て)。 を皮切りに、長屋を高層化したような(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設された。 前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工のは端島で最大の集合住宅である。 なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたため であり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅はであった。 高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。 また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。 どの建物にもは設置されておらず (1945年建設のに計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。 なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけであった。 トイレも多くがであった が、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていた。 炊事場は閉山まで共同のところが多かった。 岩山の南端、貯水槽の隣にがあるが、これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年(1975年)建てられ、同年12月29日に初点灯した もので、正式名称は『肥前端島灯台』。 灯台は、1998年12月17日に強化プラスチック製の「2代目」に建て替えられた。 やで建設された建物は、元から荒波に晒され続けた(酷い時には島全体を波が覆う事すらあった)上に、風雨のほか、防水技術の問題 や無人化によって維持管理がなされなくなったこと から急速に劣化しており、1号棟(端島神社)のをはじめ完全に崩壊したものが多い。 なお、潮害対策として、建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどなかった。 鉄筋コンクリート造の場合も、その技術が未熟な時期のものも多く、配筋計画の問題 のほか、建材の入手難から海砂を混ぜていたこと もあり劣化が進んでいる。 56・57号棟に設けられた(張り出しベランダ)は、その設計に不備があったため亀裂が入り、鉄パイプの支柱で補強されていた が、閉山後その支柱も消失し、キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられる。 70号棟(小中学校校舎)は波で土台の土が浚われ杭が剥き出しになっている。 30号棟を筆頭に古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊される事無く手付かずのまま放棄されているため、の観点からもなどの貴重な資料として注目されている。 建造物(住宅等)の一覧 [ ] 「建設年代」は、大正時代を赤、昭和(戦前・戦中)を緑、昭和(戦後)を青で色分けしている。 「構造・階数」の背景色はを赤、(RC造)を青、その他を緑とし、「建物用途」は上記の図に同じ。 幹部用。 内風呂あり。 1階に老人クラブ。 1階は社宅、2階が泉福寺。 2階に宿泊所。 竣工時は4階建て(その後まもなく7階建てに増築)。 1階に端島郵便局、地下に共同浴場。 地下にパチンコ屋・雀荘など 50号棟 1927年 (昭和2年) 鉄骨レンガ造2F 映画館 (昭和館) 閉山までの数年間は卓球場。 昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。 昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。 昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。 竣工時は北側の棟のみ、7F建て(1947年から1958年にかけて増築)。 屋上に幼稚園。 木造2Fとする資料も 1号棟(端島神社) [ ] 30号棟 30号棟は、(大正5年)に建設された日本初のアパートである (日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートとも)。 のと関わりがあるという説があり、通称 グラバーハウスと呼ばれる。 当初は4階建てであったが、完成後まもなく7階建てに増築されている。 島の南西部、岩山の南端の山麓に位置する。 中央に吹き抜けをもち、上から見るとほぼ正方形に近い「ロの字形」をした建物である。 吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があり、階段も吹き抜けに面している。 その周囲に巴形に住居が配置されている。 鉱員社宅として建てられたが、閉山時には下請飯場として用いられていた。 7階建てだが部分的に地階もあり 、閉山時は売店が入っていた。 戸数は140戸 、総床面積は3808. 0平方メートル。 基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と1K(4畳)が1戸と共同トイレ。 25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路で繋がっている。 建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口がある。 当時はまだ技術的に未熟であり、また材料や環境の悪さゆえ、最初に造られた下層階の劣化が速かったため、(昭和28年)、上層階をそのままに下層階の鉄筋を取り替え、コンクリートを打ち直して改築している。 日給社宅 [ ] 日給社宅とは、(大正7年)に建設された鉱員社宅、16号棟から20号棟の通称である。 「日給社宅」という名前は、当時の鉱員が日給制だったことによる(職員は当時から月給制だった)。 30号棟に続いて建てられた、島内でも特に古い住宅である。 同じ向きに並んだ各棟の西側(海側)が「防潮大廊下」と呼ばれる連絡通路で繋がっており、全ての階が一体となっている。 地下には店舗が、屋上には公園や農園があった。 トイレは各棟の大廊下側に共同トイレが設置されていた。 この住宅の特徴は、大廊下があったこともあって、戸外床面積の割合が約4割も占めていたことである(同時期の同潤会アパートや戦後の公団住宅では最大で2割ほど)。 23号棟(泉福寺) [ ] 正面が泉福寺、左が昭和館 23号棟は1921年に建設された2階建て木造建築で、1階が社宅、2階が寺となっている。 住職は禅宗だったが、島唯一の寺として全ての宗派を扱うため、「全宗」と称していた。 島における死亡者はここに保管された後、火葬場と墓がある中ノ島に送られる。 50号棟(昭和館) [ ] 1927年(昭和2年)に建造された、アールデコ風の映画館。 社経営で2階席を完備し、平日は6時から2回上映していた。 端島においては福利厚生が重視され、映画が福岡から直送されて長崎市内よりも早く封切されることから、映画を見るために島外から訪れる者もいた。 演劇やコンサートなども行われた。 炭鉱は24時間の3交代勤務で日中は暇な人も多いため、非常ににぎわったが、テレビの普及後は衰退し、成人向けのポルノ映画の上映が増えた後、1970年に閉館した。 端島炭坑は賃金が高いこともあって、テレビなど家電製品の普及が早く、狭い部屋の中にオーディオセットを備える家すらあった。 コの字型をしており、最初に建設された北側の7階建て『報国寮』は、第二次世界大戦中にも関わらず建設が進められ(昭和20年)に完成した。 その後8階・9階部分を増築(1947年)、東側を9階建てで増築(1949年)、東側に10階部分(屋上保育園)を増築(1953年)、南側を10階建てで増築(1958年)と、段階的に拡張している。 最終的には317戸、総床面積16895. 5平方メートル(屋上・地下含む) となった。 計画時は北側の棟にエレベーターが設置される予定だったが、中止となりそのスペースは住居に転用された。 上層階には、1941年完成の中央住宅(14号棟)で本格的に採用されたカンチレバー(張り出しベランダ)が設けられている。 基本的な部屋の構造は2K(6畳2間)。 4階と7階には緑道(山通り)への連絡通路が 、地下1階には理容室がある。 (昭和33年)に完成した南側の棟は「新65号」と呼ばれていた。 端島では最も高い建物(10階建て)で、各戸に水洗式のトイレが完備されていた(北側・東側の棟は共同トイレ)。 世界遺産 [ ] 端島では、明治期に作られた岸壁と海底坑道のみが、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部として、世界遺産のコアゾーンに指定されている。 これらの世界遺産(コアゾーン)は保護の義務が課されるが、これ以外の他の近代に建築された建築物などは世界遺産を保護する「バッファーゾーン」に指定されているため、保護の義務が課されず、多くは崩壊するままとなっている。 なお、海底坑道は非公開であり、岸壁はコンクリートの補強で覆われているため、軍艦島では、岸壁の表面のコンクリートが崩落した部分からのみ、世界遺産である石組を見ることができる。 岸壁 [ ] 明治時代に建造された、「工法」と呼ばれる伝統的な石組で組まれた護岸。 コンクリートで補強されて現代まで使われているが、波が激しいためコンクリートがしょっちゅう剥がれ、補強工事が行われていた。 波が特に激しい外洋に面する北西面は15mの高さがあり、さらに波返しもついているが、時化の時はその上に建っている4・5階建ての建物すら乗り越え、上から潮が降る「塩降街」となる。 世界遺産。 坑道 [ ] 明治時代に開発された、端島の地下に広がる端島炭坑の坑道。 この時代としては世界でも珍しい海底坑道である。 世界遺産。 その他の建築物 [ ] 道路 [ ] 島内の道路は、30号棟と病院を結ぶ商店街(南部商店街、端島銀座、潮降街)のある街路、岩山の尾根付近を30号棟から65号棟の屋上を繋ぐ山道、岩山の東の中腹の緑道の3本が並行して走っていて、屋内外の階段、スロープ、廊下、連絡橋、屋上などで各棟と接続していた。 交通はほとんど徒歩のみで自転車は無く、もが2台あるのみであった。 端島公園 [ ] (右から)第二竪坑坑口、命の階段、総合事務所(旧第三竪坑捲座) 第二竪坑坑口桟橋にかかる階段。 坑内はとても危険で死ぬこともあるため、ここを歩くたびに命のありがたさを感じるため「命の階段」と言う。 坑員は「命の階段」を通って坑口桟橋からエレベーターで坑道に入る。 総合事務所(第三竪坑捲座) [ ] 第二竪坑坑口の横のレンガ造りの建物。 元々は1935年まで第三竪坑の捲座として使われていたが、廃坑後、資材置き場や風呂などがある「総合事務所」に転用された。 坑道から上がってきた坑員は「命の階段」を通って「総合事務所」で風呂に入る。 ドルフィン桟橋 [ ] 初代は1954年完成。 それ以前は連絡船は直接接岸できず、艀に乗り換えて端島に上陸していた。 現在使われている3代目は1962年に完成。 メガネ [ ] 防波堤にある穴で、そこから高島を見ると近くに見えるので「メガネ」と呼ばれていた。 端島で発生したゴミはここから捨てられる。 端島の周辺の海はゴミの他にも糞尿などが垂れ流しで、衛生状態が非常に悪かったが、多くの人が気にせず泳いでおり、感染症にかかる人も多かった。 感染症にかかった人は、68号棟(隔離病棟)の世話になる。 閉山直前の1973年1月に、ゴミの廃棄中に女性が高波にさらわれる事故があり、ここからゴミを捨てることが禁止され、島内で焼却することになった。 端島は釣りを趣味とする人も多く、釣りスポットの一つとなっていた。 現在も端島の各所は釣りスポットとなっており、世界遺産に指定されてクルーズ船が就航する以前より、漁船をチャーターして上陸する釣り人がいる。 このあたりでチヌが良く釣れる。 遊郭 [ ] 南部商店街に存在した。 往時は前に列をなしたというが、常連と次第に顔なじみになって公娼としての性質が失われることから、流行らなくなり、若い人は金をためて長崎まで行くことが多くなった。 1952年時点で商店となり、その後火災で焼失し、その跡地に31号棟が建てられた。 肥前端島灯台 [ ] 端島公園 条例 [ ] 長崎市は「長崎市端島見学施設条例」で、端島に「長崎市端島見学施設」を設け、桟橋、見学広場、見学通路を設けると定める。 また、見学施設を利用することができる者を、原則として許可事業者及びその係員並びに許可事業者の船舶により運送された者に限定している。 また、長崎市は「端島への立ち入りの制限に関する条例」により安全確保のため、端島の区域のうち、長崎市端島見学施設条例で定められた見学施設の区域以外の区域への立ち入りを市長が特別の理由があると認める者を除いて認めていない。 交通アクセス [ ] 端島には飛行場がなく、また別の陸地とをつなぐ橋梁もないため、端島へ至る交通機関は船舶に限られる。 一般開放されている範囲では、観光ツアー船での上陸が可能。 かつては三菱が社船「夕顔丸」を運航していた(1962年まで)ほか、がより、、を経由して端島に至るを運行していた。 の時点では1日12往復、長崎までの所要時間は50分であった。 距離は長崎港から約20㎞。 これらの航路は島の無人化により廃止され現存しないが、廃墟や近代化遺産として端島が注目されるようになると、島の周囲を巡るがなどから運航されるようになった。 上陸は禁止されていたが、それでも上陸を試みる無法者は多く 、その場合はなどが利用されていた。 長崎市の「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」により、見学可能エリアは一部に限られるものの、2009年4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった。 旅行会社や海運会社が上陸ツアーを行っている。 2010年8月にはからの上陸ツアーも開始された。 ただし悪天候の場合、すなわち風速が秒速5メートル超、波高が0. 5メートル超、視程が500メートル以下のいずれかに該当する場合には、ドルフィンが利用できず上陸できない。 そのような場合でも、欠航でなければ、施設使用料300円以外の料金の払い戻しはない(やまさ海運では1割返金)。 なお、「軍艦島クルーズ」はやまさ海運が商標登録している。 世界遺産登録に関する経緯 [ ] 国内における世界遺産登録の動き [ ] 国内では民間によるへの登録運動が行われ、2006年8月にはが端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。 2008年9月に「」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり 、(平成21年)1月に記載された。 一方、軍艦島を国の文化財に指定する動きは、2013年11月5日の参議院内閣委員会にて参議院議員が未だ国の文化財ではなかった軍艦島に国の財政支援を求める質疑 を行い、国が必要な予算の確保に努める意向を示したことで 、2014年1月に長崎市は文化財指定に向けて意見具申を行い、2014年6月20日に文化審議会が軍艦島 =端島炭鉱跡)を含む三つの炭坑跡で構成される「高島炭鉱跡」を史跡に指定するよう文部科学大臣に答申して、2014年10月6日に軍艦島は国史跡として文化財指定された。 これで軍艦島が世界遺産登録へ向けて、非稼働遺産に必要な要件である国の文化的価値づけが明確になった。 韓国による世界遺産登録反対運動 [ ] 2015年5月5日、の諮問機関「」(国際記念物遺跡会議)が端島を含む幕末から明治の重工業施設を中心とした「明治日本の産業革命遺産」の全23施設を世界文化遺産に登録するよう勧告すると、は「かつて日本が軍艦島で朝鮮人を強制労働させた過去」を理由に官民を挙げて、端島の世界文化遺産登録を阻止する運動を開始した。 2015年5月11日に韓国・で開催されたの合同幹事会で「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録に韓国政府が反対していることについて、政治問題化しないよう韓国側に理解を求め、22日に継続して協議することを確認した が、翌日、韓国国会は本会議で、日本政府が「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録を推進していることを糾弾する決議を可決、採択した。 2015年5月20日、韓国大統領の大統領は、ユネスコのボコバ事務局長と会談し、「歴史に背を向けたままの世界遺産登録の申請は、国家と国家の不必要な分裂を招くことだ」と述べ、登録反対を直接伝えた。 6月11日には外交部長官が登録阻止のためユネスコ委員国を歴訪した。 民間では、主要なの指導者たちが会見を行い、に働きかけ「日本の帝国支配に関連する世界文化遺産を登録する日本の試みを非難する共同声明」と題した日韓の共同声明を発表。 これに対して、日本の推進派は超党派の世界遺産議連を結成して登録実現に向けて働きかけを強めるよう政府に求める決議を採択した。 この問題について、日本のと韓国のによる外相会談が開かれ、日本が韓国の「百済歴史遺跡地区」を世界文化遺産に登録することを支援する代わりに、韓国も「明治日本の産業革命遺産」の登録を支援することで合意したが、韓国の「百済歴史遺跡地区」の登録が採決された翌日、韓国は合意を反故にし、「明治日本の産業革命遺産」の登録に反対を表明。 最終的に日本政府は韓国政府に譲歩し、「日本が徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる」ことを約束し、端島の登録が採決された。 この結果について、韓国は日本が「韓国人を強制労役させた事実を認め、韓日和解ムードが形成されるきっかけになった」と評価し、両国で韓国人の被害者を慰めて、「未来志向の韓日関係」を築くように日本に求めている。 韓国による世界遺産撤回運動 [ ] 2017年7月、軍艦島の案内情報に朝鮮人強制徴用に関する記述がないことを理由に、韓国の教授のらにより、ユネスコに軍艦島を世界遺産撤回するように求める運動が展開されている。 舞台とした作品 [ ] 映画• 『緑なき島』(公開)の舞台。 『純』(公開、主演)では主人公・純の出身地となっており 、端島でのシーンもある。 『』(1981年、主演) - ビル間をロープで綱渡り・爆破・海中へダイブするなど、クライマックスの中心となる舞台。 『』(1992年公開、主演)のロケ地。 『』(2012年12月1日公開、主演) - 本編に登場する廃墟の島、デッド・シティのモデル。 2011年7月にスタッフが端島にをしたが、安全性を考慮して現地でのロケ撮影は実施せず、ロケハンで撮影した写真をもとに作られた郊外のセットで映画撮影がなされた。 『』実写映画版での撮影ロケ地の一つとなった。 『』(2017年公開、) - で軍艦島に強制徴用された400人の朝鮮人が脱走をするというストーリー。 「軍艦島を世界遺産にする会」は「端島の歴史を全否定する内容」「捏造と間違った歴史認識には両国の溝を深めるだけである。 」と批判している。 『』()の、撮影のロケ地。 『』()、撮影のロケ地。 『Rock on. 』()、撮影のロケ地。 『フロンティア』 、を軍艦島で撮影• 『』()、撮影のロケ地。 『』 2017年 のアルバムジャケット撮影、『青空』(2017年)、ミュージック・ビデオ撮影のロケ地 ドラマ• 放送の制作連続ドラマ『』の主なロケ地ともなった。 2011年放送の制作ドラマ『』の第40弾『棄霊島』の舞台であり、ロケ地。 2009年4月に観光客の上陸が解禁されて以降、テレビドラマの撮影が行われたのは初• 2011年放送の・制作ドラマ『サスペンス 15「長崎・軍艦島の殺意」』の舞台であり、ロケ地。 『モンタージュ』 2016年放送の制作ドラマ 主演:福士蒼汰, ヒロイン:芳根京子, 西田敏行ほか その他テレビ番組• 2015年7月10日 - 2015年9月25日、)第一回、第二回、第三回 - 第三回では端島に隣接するにあったかつての島民たちの憩いの場を訪ねている。 (2015年7月5日 - 2015年9月27日、)第一話、第四話、第十四話 - 主人公の暗闇三太が人間界に初めて降りてきた場所が端島でありメインの舞台になっている。 制作という設定の白黒アニメのため60年代当時の実写映像が背景に使われている。 『』(1997年)の舞台。 『棄霊島』(2006年)の舞台。 『端島の女』(受賞)の舞台。 『聖女の島』の舞台のモデル。 『海と月の迷路』(2013年)の舞台(作中では九州N県のH島、通称「軍艦島」)。 『迷宮猫』の舞台である団地のモデル。 『モンタージュ』。 ゲーム 』 2015年、任天堂)-イカやタコが地面をぬった面積を競い合うゲーム。 ステージのひとつに軍艦島をモチーフにした『』がある。 『』(2002年、) - 18禁ゲーム主人公が親友に誘われたミステリーツアーで応化島に訪れることになる。 舞台である応化島は端島がモデルとなっており、住居や施設も3Dで表現されている。 『』(2003年、Pleiades Company) - 無人島からの脱出ゲーム。 舞台である隅島は端島がモデルとなっており、背景にもその写真素材が多く用いられている。 『』(2006年、) - 物語の舞台は、端島をモデルとした『』。 プラモデル• 『集める軍艦シリーズ No. その他• にTV-CMや新聞広告等で公共広告機構(現:)が端島を題材にした問題キャンペーン(「人影なし(軍艦島)」)を行い、反響を呼んだ。 放送の『』では、が元島民(島生まれ、閉山まで坑夫として産炭に従事)や長崎市の関係者とともに立入禁止エリアに分け入り、崩壊が進む島の現状を調査した。 その際、元島民が暮らしていたアパートの部屋にも入っている。 またで30号棟内部の撮影も行なっている。 virtual trip ヘリテージジャパン 軍艦島 廃墟の迷宮(2015年7月15日)。 貴重な写真や映像とともに島の建造物や歴史を紹介している。 で、2016年6月26日に放送された。 脚注 [ ] []• 『軍艦島実測調査資料集 追補版』626頁。 (2015年7月5日)2015年8月20日閲覧• (2015年7月6日)2015年8月20日閲覧• 『軍艦島の遺産』13頁。 『軍艦島の遺産』33-34頁。 「」『月刊地域づくり』2001年4月号。 「」、2009年4月22日。 NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫 『軍艦島の生活:住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』創元社、2015年、ISBN: 978-4422700991、7頁• - デジタルギャラリー• 『長崎県大百科事典』 長崎新聞社、1984年、700-701頁。 『軍艦島の遺産』35頁。 長崎県評『長崎県同労運動史年表』、1972年• 『『軍艦島の生活』123頁• 『軍艦島の生活』105頁• 「中国人強制連行訴訟 長崎地裁も賠償認めず 不法行為は認定」読売新聞 2007年3月27日 西部夕刊 1面。 「強制連行、長崎も賠償認めず 地裁判決、時間の壁を理由に」朝日新聞 2007年3月27日 西部夕刊 11面。 『軍艦島の遺産』51頁。 『軍艦島の遺産』52-55頁。 - 福岡大学図書館• 『軍艦島の生活』130頁• 『軍艦島の生活』109頁• 『軍艦島の生活』128頁• 『軍艦島の遺産』61-62頁。 『軍艦島の遺産』83頁。 『軍艦島の遺産』81頁。 角川日本地名大辞典 42 長崎県(1987年7月8日発行)770ページ• 「軍艦島あす閉山 エネルギー危機のさ中 数百万トンを残して」朝日新聞 1974年1月14日 東京朝刊 3面。 『軍艦島の遺産』172頁。 『『軍艦島の生活』151頁• 『『軍艦島の生活』153頁• 「[アングル]軍艦島再び脚光 炭鉱遺産-廃虚ブーム」『西部本社版』2002年9月27日付夕刊、3面。 - YOMIURI ONLINE() 2009年4月23日付• 「軍艦島の姿、2005年夏 長崎市の無人島・端島」『西部本社版』2005年8月24日付朝刊、1面。 「軍艦島:公開 炭鉱閉山、無人31年-長崎」『西部本社版』2005年8月24日付朝刊、1面。 YOMIURI ONLINE. 2010年4月23日. 2010年4月23日閲覧。 YOMIURI ONLINE 読売新聞社. 2012年6月13日. 2012年10月5日閲覧。 「」、2008年9月27日。 西日本新聞、軍艦島保全 国が支援へ 2013年11月6日• 西日本新聞、軍艦島 国史跡へ 2014年6月1日• 中央日報 2015年03月31日 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12 - 13頁。 「内田裕也の都知事選映画『魚からダイオキシン! 』 グローバルに自画像を描く」『東京本社版』1991年11月26日付夕刊、9面。 「007最新作 悪の本拠地のモデルは長崎県の軍艦島だった」『』2012年11月22日号、p. 162• 「007最新作に軍艦島」『』2012年12月17日号、p. 2016年8月13日• NPO 軍艦島を世界遺産にする会 公式 WEB• BARKS 2009年9月1日. 2009年9月1日閲覧。 WHV Japan・KOTOKO『Light My Fire』Music Video making(2011-11-16)• ナタリー 2014年12月19日. 2014年12月26日閲覧。 tametabi1 2016年3月2日. 2016年3月3日閲覧。 「哀愁の軍艦島 かつての炭鉱、TVドラマ舞台に(報! )」『西部本社版』2001年3月8日付夕刊、1面。 九州物語委員会「」、2008年。 大沢在昌『海と月の迷路』560頁の「後記」に、N県H島のモデルは長崎県長崎市の端島とある。 実業之日本社『』(日本語)。 SCE監修 『サイレン2 オフィシャルアートブック』 、2006年、。 ACジャパン「」 参考文献 [ ]• 後藤惠之輔・坂本道徳 『軍艦島の遺産 : 風化する近代日本の象徴』 、2005年、• 阿久井喜孝・滋賀秀實 『軍艦島実測調査資料集 追補版』 東京電機大学出版局、2005年、• 阿久井喜孝 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 岩波書店、1995年、• 軍艦島を世界遺産にする会 『軍艦島 : 住み方の記憶』 軍艦島を世界遺産にする会、2008年、• 高島町役場総務課企画振興班編 『高島町の足跡 高島町閉町記念誌』 高島町、2004年。 関連項目 [ ]• 端島出身の人物• 外部リンク [ ]• - 長崎市• - 長崎市松が枝町5-6。 電鉄「大浦天主堂駅」徒歩1分。 - NPO軍艦島を世界遺産にする会• - 端島の歴史、建築物、施設配置図、建物の個別データベース、軍艦島百景等。 - FLASHによる長崎県端島の紹介。 - 軍艦島クルーズ案内• ウィキメディア・コモンズには、 に関するカテゴリがあります。

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