中国 ペスト 流行。 【感染経路】中国で肺ペスト発生!症状や治療方法は?

新型コロナウイルスの流行で露わになった「世界の人種差別」:朝日新聞GLOBE+

中国 ペスト 流行

10 コロナウイルスが世界で猛威をふるっています。 、中国以外の感染者数も300人を超え、中国では900人以上の死亡者が確認されています。 コロナウイルスの流行が終わることは誰もが望むところですが、今回はこのウイルスの流行をきっかけに各国であらわになった排他主義や人種差別に目を向けてみたいと思います。 差別対象がどんどん広がる ウイルスの発祥地として当初、武漢という特定の町の名前が出てきたときから嫌な予感はしていましたが、案の定、数日後には温泉地の箱根で「中国人お断り」とが登場したり(現在、貼り紙は外されました)、札幌市でも「中国人入店禁止」の貼り紙を掲げたラーメン店が物議を醸しました。 いうまでもなくこれらの貼り紙は人種差別的であり、場合によって民法の不法行為が成立する可能性がありますし、国連の人種差別撤廃条約にも違反しています。 それにしても興味深いのは「中国国内では武漢出身者が差別され」「日本国内では中国人が差別され」「ヨーロッパではアジア人が差別されている」という点です。 つまり地域によって、差別される対象の人々はどんどんひろくなっていっており、もはや合理的なウイルス対策とはいえない類の「対策」が目立ちます。 直訳すると「お大事に」という意味)と声をかけてコミュニケーションを図る習慣があります。 同氏がパンダの赤ちゃんの取材のためにベルリンの動物園に行き、動物園の職員から話を聞こうとしたところ、職員の人が後ずさりをし、明らかに遠ざかろうとしたエピソードがに書かれています。 彼はその後、同園の別の職員に話しかけるも、その人は返事をせず無言で立ち去ったそう。 Ku氏は動物園で職員同士が「お前はやっぱりコロナが怖いのか」とからかうような口調で会話している様子も目撃しています。 このようにコロナウイルスの登場によって、ヨーロッパではアジア人への差別行為が起きていますが、前述のMartin Ku氏は記事を「中国人に見えるからといって、中国人だとは限りません。 また中国人であっても、直近で中国を訪れた人ばかりではありません。 尚、実際に中国を訪れた中国人であっても、全員が感染しているわけではありません。 やはりコロナウイルスの対策として一番有効なのは手洗いとデリカシーです」と皮肉たっぷりに締めくくっています。 問題は「元からあった人種差別」 この流れを見ると、コロナウイルスのせいで人種差別が起きていると思ってしまいそうですが、は元からあったものです。 コロナウイルスの流行を受けて、フランスでは地方紙の「クーリエ・ピカール」が表紙に「黄色いアラート」というタイトルをつけ、批判を浴びましたが(同誌は後に謝罪)、とっさに「黄色」という言葉が出てかつ印刷してしまうのは、元から東洋人に対する人種差別的な考えがあったと考えて良いでしょう。 そんななか、フランスでは JeNeSuisPasUnVirus (私はウイルスではありません)というハッシュタグがSNSで多く使われるようになり、ドイツ語 IchbinkeinVirusやイタリア語 NonSonoVirusでの投稿も目立ちます。 先週フランス旅行をした筆者の日本人の知人は、現地のタクシーで乗車拒否をされたそうです。 日本へ帰国してから「日本で『外国人には家を貸さない』としている大家さんについて報道があっても、今まで他人事だと思っていたけれど、コロナが流行っている時期にフランスを旅行して、国や出身で差別されることがどんなに理不尽なことか身に染みて分かった」と話していたのが印象的でした。 は欧州の社会に元からあるものでしたが、現在は「コロナウイルスという大義名分のもと」堂々と差別行為が行われているというのが現状です。 ただ「大義名分」に関しては、日本においても「元から中国人を快く思っていなかったところを、コロナウイルスという大義名分ができたから堂々と中国人をお断りするようになった」という側面もあるようです。 歴史に学ぶべきこと 日本政府によるチャーター便で、武漢在住の日本人が4回に分けて帰国しました。 チャーター機の第4便には、日本人と共に中国人配偶者や中国籍の子供も乗っていましたが、インターネットでは「なぜ中国の人も、日本政府のチャーター機に乗せるのか」という声も多く見られます。 しかし人道的観点から家族なら一緒に行動をするのは当たり前です。 単なる「ネットの声」だとはいえ、国籍を理由に「家族であっても、引き離すべき」と考える人が少なからずいるということは、社会として危険な兆候ではないでしょうか。 日本では大正12年9月1日に起きた関東大震災の際「朝鮮人が井戸に毒を入れている」などと噂が飛び交い、これを真に受けた住民たちが自警団を結成し、多くの朝鮮人や中国人が殺されました。 14世紀にヨーロッパでペストが流行した際にはドイツなどで「ペストが流行っているのは、ユダヤ人が井戸に毒を入れていたからだ」との噂が飛び交い、これが各地でユダヤ人のポグロム(殺戮、虐殺)へと発展しました。 国と時代が全く違うのに、自然災害が起きた時や病気が流行った時に、それをマイノリティーのせいにし、「彼らが井戸に毒を入れたからだ」という展開になるのはなんとも恐ろしい偶然です。 いつの時代も、どの国でも人間の本質はあまり変わらないのかもしれません。 だからこそ「博愛精神は平常時や平和な時だけ」なんていうことにならないように、非常事態の際の人間性が問われているのではないでしょうか。 でも、何もそんなに難しく考えることはありません。 ウイルスを憎んで、人を憎まず、ということです。

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ペストに襲われた中世のヨーロッパ、人々と教会はどうなった?

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Credit:ハ Rocky Mountain Laboratories, NIAID, NIH Scanning electron micrograph depicting a mass of Yersinia pestis bacteria the cause of bubonic plague in the foregut of the flea vector 「ペスト」とは、ペスト菌への感染によって起こる感染症です。 別名「黒死病」とも呼ばれますが、これは感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来しています。 この記事の目次• ペストの流行 第一次流行(6世紀から8世紀) この第一次流行は、6世紀の「ユスティニアヌス 東ローマ帝国 のペスト」に始り、8世紀末までつづいたものをさしますが、これ以前にもペストの流行はありました。 第一次流行以前 古代ギリシャでの流行 ペロポネソス戦争 紀元前429年に、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア全域を巻き込んだ大戦争 のさなか、篭城戦術をもちいてスパルタ軍と対峙していた、ギリシャ最大のポリス・アテナイを感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出したのですが、現在では、症状などの分析により、ペストではなく「天然痘」もしくは「発疹チフス」だったのではないかと言われています。 これは、生物兵器としてペストが使用されたということになります。 これは「アントニヌス帝のペスト」と呼ばれています。 「ユスティニアヌス 東ローマ帝国 のペスト」 記録されているヨーロッパの歴史のうち、ペストと同じ症状と推定される感染症の最初の流行は、541年から542年、あるいは542年から543年にかけてユスティニアヌス1世 在位527年~565年 統治下の東ローマ帝国で発生しました。 「コンスタンチノープル市内では、毎日1万人が死んだ。 」ともいわれいて、流行の最盛期には、毎日5千人から1万人もの死亡者が出て、製粉所やパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥りました。 当時の東ローマ帝国は、かつての領地の再征服を目指して、東ゴート王国と「ゴート戦争」を戦っていましたが、ペストの流行によって大混乱に陥りました。 そして、ユスティニアヌス1世も感染したのですが、快復したとされています。 第二次流行(14世紀から17世紀末) 14世紀に発生した「ペスト 黒死病 」によるパンデミック 14世紀には、世界規模でペストが大流行し、約8千万人から1億人ほどが、死亡したと推計されています。 当時の世界人口は、推計が難しいので、学者によってのバラつきはありますが、約4億人とされています。 アジアからヨーロッパへ 472年以降、ペストは西ヨーロッパから姿を消していました。 しかし、当時ユーラシア一帯を支配していた、モンゴル帝国の中国大陸雲南省で、ペストの大流行が発生します。 それが中央アジアや中東、北アフリカにも拡大していきました。 ヨーロッパへは、1347年10月に、イタリアのシチリア島のメッシーナに上陸しました。 ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされています。 流行の中心地となったイタリア北部では、住民がほとんど全滅しました。 謎の疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会では「ユダヤ人が雑居しているからだ」として1万人以上のユダヤ人を虐殺しました。 1348年には、アルプス以北のヨーロッパにも伝わってしまい、14世紀末まで、3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るいつづけました。 1349年イギリスでは、労働者の不足に対処するため、エドワード3世が、ペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めたほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀物の栽培から、人手のいらないヒツジの放牧への転換が進むことになりました。 イングランドの総人口400万人の3分の1が死んだとされ、当時のイングランドで通用していた、フランス語や、聖職者が使用していたラテン語の話者の人口が激減し、英語が生き延びました。 この疫病が、ヨーロッパに到達してから数か月たった頃、ローマ教皇クレメンス6世は、当時のカトリック教会の総本山のあったアヴィニョンより逃亡しました。 また、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったことから「ユダヤ教徒が、井戸へ毒を投げ込んだ」等のデマが広まり、迫害や虐殺がおこなわれました。 この迫害では、キリスト教徒がユダヤ人を捕まえて処刑し、そのユダヤ人の財産をキリスト教徒たちで分配しました。 ユダヤ教徒に被害が少なかったのは、「戒律にそった生活のため、キリスト教徒より衛生的であった」とか「キリスト教徒と隔離されて生活していたため」との考え方があります。 ポーランドでは、アルコール 蒸留酒 で食器を消毒したり、ワキや足などを消臭する習慣が、国民に広く定着していたので、ペストの発生が抑えられていたといわれています。 その後も、ペストは流行と終息を繰り返しました。 1630年3月、カーニバルのためにミラノでの検疫条件を緩和したため、ペストが再発しました。 ピーク時の死亡者数は、1日当たり約3500人にのぼりました。 ピューリタン革命のあと、王政復古したイギリスのロンドンでは、1665年に流行してしまい、約7万人が死亡しました。 そしてこの流行は、1666年にロンドン大火 大規模な火災 が発生し、全市が焦土と化したことで、ノミやネズミがいなくなり終息を迎えました。 第二次流行の影響のまとめ 元寇 モンゴル帝国と、その属国である高麗による対日侵攻 で日本を襲ったモンゴルが、3度目の遠征をできなかった要因ともいわれています。 1377年には、ヴェネツィアで海上検疫が始まりました。 当初は30日間でしたが、後に40日に変更されます。 これにより、イタリア語の「40」を表す語「quaranta」から「quarantine 検疫 」という言葉ができました。 フランス王国内では、大規模なユダヤ人への迫害が発生し、ユダヤ人共同体は、ほぼ消滅しました。 キリスト教に改宗しなかったユダヤ人家族は、集団自殺の契約、また殉教者としての固い決意があったので、火刑台の火が見えてくると皆で歌いだして、歌いながら火に飛び込んでいったといわれています。 人々は「疫病はユダヤ人がキリスト教世界に、毒を行き渡らせるために流行させた」と信じられていたので、ユダヤ人虐殺事件が、ヨーロッパ各地で発生しました。 当時のエジプトを支配し、紅海と地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が、衰退へと向かう一因となりました。 文学者ジョヴァンニ・ボッカッチョにより、人文主義の傑作とされている「デカメロン 十日物語 」が生み出されました。 デカメロンは、ペストの恐怖からの心理的逃避を背景に、ペストを逃れて郊外に住んだ、フィレンツェの富裕な市民男女10人が、10日間にわたり、1日1話ずつ語り合うという設定で著されています。 ロンドンでは、人が多く集まる大学が閉鎖され、学生はペストを避けるために疎開させられました。 その影響で、当時ケンブリッジ大学で、学位を得たばかりのアイザック・ニュートンは、故郷に疎開することになります。 それまでニュートンは、大学で雑用的な仕事をして生活費を稼いでいたのですが、疎開により雑務から完全に解放されて、思索にあてる時間をえたことで、微積分法の証明や、プリズムでの分光の実験などをおこなうことができました。 1681年には、ロンドン大火の影響で、世界初の火災保険がロンドンで誕生しました。 第三次流行(19世紀末から現在) 19世紀末、中国を起源とするペストが世界中に広がりました。 これは、雲南省で1855年に大流行した腺ペストを起源とするもので、1894年 明治27年 の香港での大流行をきっかけとして、台湾、日本、ハワイ諸島をはじめ、さらにアメリカ合衆国、東南アジアから南アジアの各地にも広がっていきました。 ロベルト・コッホに師事した北里柴三郎は、日本政府によって香港に調査派遣されました。 そして、腺ペストの病原菌を共同発見しました。 同じ年のほぼ同時に、パスツール研究所の細菌学者で、スイスとフランスで活躍した医師アレクサンダー・イェルサンもペスト菌を発見し、これを発表しました。 こうして、ようやくペストの原因が、はじめて確定されたのです。 この後、北里の研究によって、腺ペストを治す方法は抗血清によって確立されたましたが、出血熱に関しては、いまだ有効な治療法が確立されていません。 第三次流行で、最大の被害を受けた国はインドでした。 第二次世界大戦までに、死亡者は千二百万人以上に達したといわれています。 そしてインドでは、1994年にもペストが発生し、パニックが起こっています。 日本での流行 日本では、明治になって国外から侵入したのが、初のペスト流行であるとされています。 日本においてペストは、明治以前の発生は確認されていません。 最初の報告は、1896年 明治29年 に、横浜に入港した中国人船客で、同地の中国人病院で死亡したというものでした。 1899年 明治33年 11月が最初の流行で、台湾から門司港へ帰国した日本人会社員が、広島で発病し死亡、その後の2週間で、神戸市内、大阪市内、浜松で発病、死者が発生しました。 こうして、45人のペスト患者が発生し、40人が死亡しました。 翌年より東京市は予防のため、ネズミを1匹あたり5銭で買い上げました。 この時のネズミの霊を供養するための鼠塚が、渋谷区の祥雲寺境内にあります。 最大の流行は、1905年から1910年の大阪府で、958名の感染者が発生し、社会的に大きなインパクトを与えました。 この際、紡績工場での患者発生がつづいたことから、ペスト流行地のインドから輸入された、綿花に混入したネズミが感染源というのが通説になりました。 日本人のペストによる被害者数は、最初の日本人被害者がでた1899年から最後の感染者が確認された1926年までで、感染者数が2905人、死亡者数が2420人となっています。 1990年代の発生 WHOの報告によりますと、1991年以降は増加していて、1996年の患者数は3017人で、死者数は205人。 1997年には患者数が5419人で、死者数は274人でした。 しかし、WHOに報告された被害者数は、過小にされていて、実態はさらに深刻だったといわれています。 主な感染地域は「アフリカの山岳地帯および密林地帯」「東南アジアのヒマラヤ山脈周辺ならびに熱帯森林地帯」「中国、モンゴルの亜熱帯草原地域」「アラビアからカスピ海北西部」「北米南西部ロッキー山脈周辺」「南米北西部のアンデス山脈周辺ならびに密林地帯」などです。 このほとんどは「マダガスカル」「コンゴ民主共和国」「タンザニア」などのアフリカ諸国でした。 マダガスカルでは、2017年にも流行が発生し、感染者2348人、死亡者202人が確認されています。 まとめ このように、紀元前から私たち人間に感染し、中世のヨーロッパを中心に、甚大なる被害をもたらせたペストは、未だに終息にはいたっていません。 日本では、ペストの被害は約百年間ありませんが、今までの流行の傾向ですと、これはあくまでも、たった百年間感染者がでていないだけです。 ペストの流行の歴史を振り返ってみると、千年とかの間に数回のパンデミックを起こしています。 たまたま、私たちがそのはざまに生きているだけではないでしょうか? もちろん、現在の日本にペスト患者が出たとしても、医療技術や衛生面での進歩から、昔のようなパンデミックになることは考えにくいかもしれませんが、2000年代以降でも、死亡率が8.2%もあり、ワクチンもありませんので、パニックが起こるのは必然でしょう。 新型肺炎でもそうですが、感染症は外からやってくる場合がほとんどです。 日本は島国ですので、政府には水際対策を、責任をもって果たしていただきたいですね。

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黒死病/ペストの流行

中国 ペスト 流行

【11月3日 AFP】疫病のペストは2600年前の中国で初めて発生し、シルクロードを経て欧州にもたらされたとの国際研究チームによるDNA研究結果が前月31日、米科学誌「ネイチャー・ジェネティクス()」(電子版)に発表された。 中世の欧州で全人口の3分の1が死亡したとされるペストは中国を起源とするとの説を、裏付ける結果だ。 研究チームはペスト菌17株のDNA配列を解析し、共通の祖先から変異した病原菌の遺伝子系統を調べた。 その結果、ペスト菌は2600年以上前の中国で初めて出現したことを示唆する結果が得られたという。 その後、約600年前からペストは中国からシルクロードを通じて西ヨーロッパに伝わり、さらにアフリカへと拡がった。 15世紀に通商貿易航海で活躍した明王朝(1368~1644)の鄭和()も、ペスト菌の拡大に「貢献」したとみられる。 さらに19世紀末、ペスト菌は中国からハワイ()に伝わり、サンフランシスコ()やロサンゼルス()などの港町からカリフォルニア()に上陸。 米本土全域へと広まっていった。 今回の発見は、ペストだけでなく、炭疽症や結核など感染性の病原菌の起源解明にもつながると期待されている。 ペスト菌は元来、ネズミなどの齧歯(げっし)類の体内に潜伏しているが、感染した動物の血を吸ったノミを媒介としてヒトに感染する。 ペスト菌がリンパ腺に伝播すると、腺ペストを発症する。 研究は アイルランドのコーク大学()のマーク・アフトマン()教授が主導し、米国、英国、中国、フランス、ドイツ、マダガスカルなど、多くの国の科学者が参加して行われた。 c AFP.

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