1951年夏の時点で対日講和条約をめぐって揺れたのは、自由党、民主党だけではない。 より深刻だったのは社会党である。 ソ連、中国も含めた全面講和を求めた社会党は、多数講和が有力となった現実を受け入れるべきかどうかで講和条約反対の左派と賛成の右派が対立した。 右派の河上丈太郎の追放解除は、社会党内の力学に少なからざる影響を与えた。 鈴木は講和3原則を唱えていた。 全面講和、中立堅持、軍事基地反対がそれである。 3原則に従えば、サンフランシスコで結ばれる講和条約に賛成するわけにはいかない。 一方、右派は講和には賛成し、安保条約には反対するという考え方だった。 民主党と同じである。 であれば、民主党がそうするように、サンフランシスコに社会党を代表する全権を派遣することになる。 「挙国一致」をめざすとすれば、それが望ましい。 しかし社会党内の合意づくりは簡単ではなかった。 左右両派の主張は水と油ほどに違ってみえた。 それは当然である。 右派の目指す社会主義は英国労働党のような姿であり、左派にとってはソ連、中国のような体制が社会主義だった。 冷戦下である。 対日講和は日本全体にとり、自由主義陣営に入るという体制の選択を意味した。 社会党右派にとってそれはさほどの抵抗はなかったのかもしれないが、左派にとっては絶対に認められない話だった。 1951年8月7日付日経は「注目される社会党の態度」と見出しをつけた社説を掲げた。 見出しだけみると、主張を前面に出すのではなく、解説に重きを置いたようにもみえる。 が、実は相当激しい内容である。 当時もいまも2本の社説を掲げるのが普通だが、この日はこの社説1本で通している。 このテーマを論説陣が重要と考えているとのメッセージである。 まずこう迫る。 「左派がもし三原則を絶対のものとするならば、右派とは根本的に相容れないであろう。 その場合は分裂も避けられない。 一番悪いのは分裂を避けるために、あいまいな態度を続けて国民を迷わすことである。 (中略)左右の対立もここまで来ればもはや党内派閥の争いとしてだけ見るわけにはいかない」 要するに社会党分裂の勧めである。 このような中身ならば、いまなら「社会党は分裂を恐れるな」といった見出しがつくのが普通だろう。 あえてそれを避けた、一見穏健な主張にみせるのも、当時の「社説文学」だったのだろう。 さて追放解除が社会党に投じた一石はどんな波紋を広げるのだろう。 実は投じられたのは一石ではなかった。 追放解除された社会党の大物は、河上のほかにも河野密、松本治一郎がいた。 河野は河上と同じ知識人型社会主義者だった。 一高・東大法学部卒で朝日新聞記者も経験し、旧日本労農党出身の右派の有力者だった。 松本は部落解放運動の指導者であり、左派だった。 後任にリッジウェー中将 4月16日 ダレス特使再来日 6月20日 日本政府、第1次追放解除を発表 8月6日 日本政府、第2次解除を発表。 鳩山一郎ら追放解除される 9月1日 米、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋安保条約に調印 9月4日 サンフランシスコ講和会議始まる 9月8日 吉田首相、対日講和条約、日米安全保障条約に調印 12月24日 吉田首相、ダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」) 当時の社会党の基礎にあるのは労働組合などの組織であり、人が大きな要素を持つ自由党とは違った。 自由党では鳩山一郎の復帰が吉田体制に揺さぶりをかけると予想されたが、それに似た影響があるとは思われていなかった。 しかし政界とは人の世界である。 河上、河野とも政治家として一定の器量のある人物だったから、右派と中間派とをまとめる役割を期待された。 同時に、大政翼賛会参加などの前歴があったのだから自重すべきだとの党内世論もあった。 大物の追放解除、講和条約……。 分裂を前にした不気味なうごめきが社会党内では始まっていた。 野党である社会党の動きは、日米関係に直接関係がないように思われがちだが、そうではない。 質問内容や審議拒否などの国会での社会党の戦術は、政府・与党が特に日米安全保障関係を考えていく上で大きな要素だった。 憲法9条を掲げた社会党は様々な政策について事実上の拒否権を持っていた。 そこをどうかいくぐるか、自民党政府と外務省は腐心した。 それは例えば2010年の外務省の密約調査で当時の外交文書が明らかになって裏付けられる。
次の以下の資料に記述があった。 『戦後日本政治史』(中村菊男、上条末夫著 有信堂 1973) p143に全権委員の名前あり。 首席全権 吉田茂(首相) 全権委員 星島二郎(自由党常任総務)苫米地義三(民主党最高委員長)徳川宗敬(緑風会議員総会議長)池田勇人(蔵相)一万田尚登(日本銀行総裁) 『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約調印・発効』(外務省 2009) p27-29に「わが方全権団に関する対米通報」August 20,1951 本文英文)英語表記の代表団の参加(予定)名簿あり。 p29「Yohei HIROSE Member,House of Councillors 」の記述あり。 国会派遣議員団の一人として「参議院(自由党)広瀬与兵衛」の名前あり。 p195-196「付録10 1951年8月20日付次官発シーボルト大使宛全権団通報」にも39名の名前がローマ字表記で掲載あり。 「Yohei HIRASE Member,House of Councillors 」の記述あり。 姓が「HIRASE」となっている。 『昭和史の瞬間 下』(朝日ジャーナル編 朝日新聞社 1969) p280に「日本全権団は吉田首相兼外相を首席に池田蔵相、民主党の苫米地義三、自由党の星島二郎、緑風会の徳川宗敬の各議員、一万田尚登・日銀総裁の六名であった。 」との記述あり。 『サンフランシスコ講和』(佐々木隆爾〔著〕 岩波書店 1988) p49 「1 講話会議 議事はじまる」に「日本側代表は吉田茂・池田勇人・苫米地義三・星島二郎・徳川宗敬・一万田尚登の六全権をはじめ全権代理・随員あわせて二七名、国会派遣の議員団は衆議院六名 自由党三、民主党二、社会党一)、参議院五名 自由党二、民主党一、緑風会一、社会党一)であった。 」とあり。 議員団の名前なし。 「特集 サンフランシスコ講話五十年」(『月刊 自由民主 583』 自由民主党 2001) p55吉武惠市著「講話条約・日米安保条約の調印」の論文中に、全権団及び全権代理11名の名前の記載あり。 回答プロセス Answering process インターネット情報を検索する 《Google》で〈サンフランシスコ & 平和条約 & 全権団〉を検索すると、以下の情報が該当する。 《Wikipedia 日本国との平和条約》 「本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ条約・サンフランシスコ平和条約・サンフランシスコ講和条約などともいう。 1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。 翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。 講和会議に出席した全権団は首席全権の吉田茂(首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登(日銀総裁)の6人。 」とあり。 新聞記事を調べるが、該当の記述なし。 『新聞集成昭和編年史 昭和22年版 2』(明治大正昭和新聞研究会編集製作 新聞資料出版 1999) 『新聞集成昭和編年史 昭和26年版 5』(明治大正昭和新聞研究会編集製作 新聞資料出版 2002) 事前調査事項 Preliminary research.
次の単独講和は、アメリカなど一部の対戦国と講和を結ぶ方法です。 いっぽう、すべての対戦国との講和を求めるのが全面講和になります。 日本国内は単独講和派と全面講和派に二分されていましたが、吉田茂はアメリカに使者を送るなどして、単独講和を押し進めていきました。 全面講和を結ぶことはできないと悟っていたからです。 第二次世界大戦が終結した後も、アメリカを筆頭とした西側諸国と、ソ連を筆頭とする東側諸国は対立を深めていました。 全面講和を望むのであれば、西側諸国と東側諸国、双方と講和を取りつけなくてはなりません。 両者が冷戦状態にある限り、同時に講和を進めることは不可能だったのです。 どちらか一方しか選べない状況で、吉田は西側諸国の中心的存在であるアメリカとの講和成立のために尽力します。 日本は形式的に連合国軍の支配下ということになっていましたが、実際に日本を占拠していたのはアメリカでした。 日本を支配していたアメリカと講和を成立させることが主権回復への最短ルートだと、吉田は判断したわけです。 アメリカと講和を結べなければ、日本が国家として完全に独立することはできなかったでしょう。 アメリカと思惑が一致 吉田茂がアメリカとの講和を画策するいっぽう、実はアメリカでも日本と講和を結ぼうとする動きがありました。 前述のとおり、アメリカ側とソ連側は冷戦状態です。 勢力を拡大していた東側諸国に対抗するための拠点として、アメリカは日本を利用しようとしていたのです。 講和を結び日本とアメリカが友好関係を築けば、日本は自然と西側諸国の仲間になります。 主権を取り戻した日本が国力を高めていけば、ソ連らを牽制するうえで大きな力になるとアメリカは考えたのです。 主権回復を求める日本と、独立国家としての日本を利用したいアメリカの思惑が一致しました。 吉田はこれをまたとないチャンスと捉え、講和成立に向けて話を進めます。 1951年9月4日、日本の全権を委任された吉田は講和会議の行われるサンフランシスコへと渡りました。 そして同年9月8日、アメリカを含む48か国が署名した文書に吉田が調印したことで、サンフランシスコ講話条約が締結されたのです。
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