榎本 れ み。 榎本牧場

「榎本」さんの名字の由来、語源、分布。

榎本 れ み

その他の職歴 第3代 ( - ) 総裁 ( - 1869年) 榎本 武揚(えのもと たけあき、〈7年〉 - 〈41年〉)は、の()、、、。 最終は。 は 釜次郎 、は 梁川(りょうせん)。 榎、釜を分解した「 夏木金八(郎)」というも用いていた。 世間では俗に「ぶよう」とも呼ばれた。 の元であった幕臣・(箱田良助)の次男として生まれる。 、で学んだ後、幕府の発注に伴いへした。 帰国後、のとなり、では旧幕府軍を率いてを占領、いわゆる「」の総裁となった。 で敗北し、東京の牢獄に2年半投獄された。 敵将・の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。 での資源調査を行い、駐としてを締結したほか、、、駐特命全権公使を務め、制度開始後は、・・・などを歴任、子爵となった。 また、を創立し、にを送ったほか、の前身である徳川育英会育英黌農業科や、、など数多くのを創設した。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] (7年)、柳川横町(現在の付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御・榎本武規の次男として生まれる。 近所に住んでいた に入門し儒学を学んだ 後、(4年)、に入学。 (嘉永6年)に修了するが、修了時の成績は最低の「丙」であった。 (元年)、・の従者として箱館(現在の北海道)に赴き、蝦夷地・巡視に随行。 (安政2年)、昌平坂学問所に再入学する(翌年7月退学) が、同年の聴講生となった後、(安政4年)に第2期生として入学。 海軍伝習所では、やらから機関学、などを学んだ。 カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた。 翌(安政5年)海軍伝習所を修了し、江戸の教授となる。 また、この頃、の私塾でを学び、後にをともに戦うと出会う。 オランダ留学 [ ] 1864年オランダのハーグにて (元年)11月、幕府はに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・・・・・・をアメリカへ留学させることとした。 しかし、の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった。 同年6月18日、留学生一行はで品川沖から出発。 途中、榎本・沢・赤松・内田がに感染したためで療養し、8月23日長崎に到着。 9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、へ向かう。 北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える。 での寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・に到着した。 オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。 榎本はで下宿し、船舶運用術、、学、化学、を学んだ。 1864年(元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともにをとして見学した。 ・軍の戦線を見学した後、に渡り、同軍の戦線を見学した。 その後、の本社を訪れ、と面会した。 また、が幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受け、内田とへ赴き、フランス海軍と交渉した ほか、赤松とを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した。 1866年(2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・港を出発、・を経由して、(慶応3年)3月26日、に帰着した。 5月10日に幕府に召し出され 、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる。 7月8日に軍艦頭並 となり、を許される。 9月19日に軍艦頭となり、和泉守 を名乗る。 同年、オランダ留学生仲間のの妹(・の長女)・たつと結婚した。 戊辰戦争 [ ] 阿波沖海戦・大坂撤退 [ ] 「」も参照 1867年末には幕府艦隊を率いてへ移動しており、での軍議にも参加していた。 翌(慶応4年)1月2日、大坂湾からへ向かっていたの平運丸を攻撃した。 薩摩藩の抗議に対し榎本は、以来、薩摩藩とは戦争状態にあり港湾封鎖は問題ないと主張。 更に1月4日には、兵庫港から出港した薩摩藩のほかを追撃、で勝利した。 での旧幕府軍敗北を受けて、榎本は軍艦奉行・ともにと連絡を取った後、1月7日にへ入城した。 しかしは既に6日夜に大坂城を脱出しており、7日朝、榎本不在の開陽丸に座乗した後、8日夜に江戸へ引き揚げていた。 榎本は大坂城に残された銃器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両 を勘定奉行並・とともにとに積み、自身はや旧幕府軍の負傷兵らとともにに乗り、12日に大阪湾を出発、15日、江戸に到着した。 1月23日、海軍副総裁に任ぜられる。 榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した。 旧幕府艦隊の脱走 [ ] 後列左から、、、、前列左から、榎本武揚 同年4月11日、新政府軍はに伴い降伏条件の一つ である旧幕府艦隊の引渡を要求するが、榎本は拒否し、やが率いるを乗せ、悪天候を口実に艦隊8隻で品川沖からに脱走した。 の説得により4月17日に品川沖へ戻り 、4隻(富士山丸・・・)を新政府軍に引渡したが、開陽等の主力艦の温存に成功した。 榎本はなおも抵抗姿勢を示し、閏4月23日には勝に艦隊の箱館行きを相談するが反対される。 5月24日にの駿河・遠江70万石への減封が決定。 榎本は移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦で、遊撃隊や主・に協力しての陣屋を砲撃した上、方面へ向かう彼らを館山からへ輸送したほか、や脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援した。 7月にはの密使(仙台藩・、・、・)と会い、7月21日、列藩同盟の参謀を務めていた・宛に支援に向かう旨の書状を出した。 8月に入ると密かに脱走準備を進め 、8月4日、勝に軽挙妄動を慎むよう申しわたされる が、8月15日にがに移り移封が完了する と、榎本は8月19日、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、、、、、、、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった。 この艦隊には、元・、陸軍奉行並・、や遊撃隊の生き残り、そして、の一員だったとなど、総勢2,000余名が乗船していた。 江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託している。 檄文 王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。 然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。 王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。 其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。 又甚しからずや。 これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。 我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。 故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。 それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。 之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。 廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。 房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、8月下旬頃から順次仙台に到着した。 9月2日、榎本、ブリュネ、カズヌーブはでに謁見する。 翌日以降、の軍議に参加する が、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日に仙台藩も降伏を決定した。 これを知った榎本とは登城し、執政・とに面会し、翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた。 旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、を艦隊に加え、桑名藩主・、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣の、、仙台藩を脱藩したなど、計約3,000名を収容。 新政府軍の仙台入城を受けて、10月9日に仙台を出航し石巻へ移動した。 このとき、新政府軍・口総督宛てに旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出している。 10月11日には横浜在住のアメリカ人で総領事であったから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている。 その後、幕府が仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪われ海賊行為を行っていたをで拿捕し、で補給の後、蝦夷地へ向かった。 箱館戦争 [ ] 五稜郭 蝦夷地に着いた旧幕府軍は、10月20日に箱館の北、に面する鷲ノ木(現在の)に上陸した。 二手に分かれて箱館へ進撃、各地で新政府軍を撃破し、10月26日にを占領、榎本は11月1日に五稜郭に入城した。 その後、を攻撃するが、開陽丸を攻略に投入した際、座礁により喪失する。 12月15日、蝦夷地平定を宣言し、士官以上のにより総裁となった。 この間、とは状況把握と自国民保護のため軍艦を箱館に派遣、榎本は11月8日に両国の艦長および在箱館領事と会談した。 イギリス公使とフランス公使(Maxime Outrey)は、旧幕府軍を「」として認めず、日本の内戦には「中立」ではなく「不干渉」とするという訓示を出していた。 しかし艦長らは口頭で英仏両国の意思を伝えたものの、榎本らから文書にして欲しいと求められ、翌日、「厳正中立を遵守する、旧幕府軍については英仏国民の生命・財産・貿易保護のためにのみ限定して『 事実上の政権( Authorities de facto)』として承認する」という、先の訓示とは異なる内容の覚書を手渡した。 それを知ったパークスらは、この覚書を否認する文書を作成し11月30日に旧幕府軍へ渡したが、榎本らは事実上の政権として認められたと「喧伝」した。 また、榎本は12月1日に新政府宛の嘆願書を英仏の艦長に託すが、12月14日、新政府に拒絶される。 12月18日、局外中立を宣言していたアメリカが新政府支持を表明。 幕府が買い付けたものの戊辰戦争の勃発に伴い引渡未了だった・が、翌1869年(明治2年)1月、新政府に引き渡された。 旧幕府軍は状況を打破すべく、3月25日早朝、宮古湾に停泊中の甲鉄を奇襲し、(アボルダージュ)で奪取する作戦を実行するが失敗に終わる()。 4月9日、新政府軍は蝦夷地・に上陸し、旧幕府軍は5月初めには箱館周辺に追い詰められた。 5月8日早朝、榎本自ら全軍を率いて大川(現在の)の新政府軍本陣を攻撃するが撃退される。 新政府軍は5月11日の総攻撃で箱館市街を制圧した後、箱館病院長・の仲介で五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告の使者を送る が、5月14日、榎本らは拒否。 榎本は拒否の回答状とともに、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた『』が戦火で失われるのを避けるため新政府軍海軍参謀に贈った。 これに対して新政府軍は海軍参謀名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容の書状 と酒と肴を送っている。 5月15日にが降伏し、16日にが陥落すると、同日夜、榎本は責任を取り自刃しようとするが、近習のに制止された。 17日、榎本ら旧幕府軍幹部は近くの民家でらと会見し降伏約定を取り決め、18日朝、亀田の屯所に出頭し降伏した。 投獄 [ ] 榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左) 榎本ら旧幕府軍幹部は、兵の護衛の下、5月21日に箱館を出発し、東京へ護送された。 6月30日に到着し、辰ノ口(現在の1丁目)にあった糾問所の牢獄 に収監。 榎本らは一般の罪人と同じ牢獄に一人ずつ入れられ、それぞれ牢名主となった。 政府内では榎本らの処置に関して対立があり、ら長州閥が厳罰を求めた一方、榎本の才能を評価していた黒田清隆、福沢諭吉らが助命を主張。 糾問正・らによりフランス軍人の参加とに関する尋問が行われた 以外、何も動きがないまま拘禁が続いた。 後年榎本を批判するも助命活動を行っている。 榎本の母と福澤の妻は遠縁ながら本人同士はさほど面識がなかったが、榎本の妹婿であり福澤の元上司であった元・から榎本の状況把握を依頼された福澤は糾問所に掛け合っている。 そして、静岡にいた榎本の母と姉を江戸に呼び寄せ、榎本の母のために面会請願文を代筆した。 なお福澤から化学の本を借りているが、日本一の化学者だと自負していた榎本は家族への手紙に、福澤の本は幼稚なもので、大勢の弟子を抱える福澤も大したことが無いと書き残している。 獄中では、洋書などの差し入れを受け読書に勤しみ、執筆や牢内の少年に漢学や洋学を教えたりしていた。 また、兄の家計を助けるため、や、など様々な物の製造法を手紙で詳細に教えている。 開拓使 [ ] 榎本農場跡(江別市)の騎馬像。 (北海道産馬)をモデルにしているため、馬が小さめになっている。 (明治5年)1月6日、特赦により出獄、親類宅で謹慎する。 3月6日に放免となり、同月8日、黒田が次官を務めていたに四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。 5月末、らとともに海路北海道に向かう。 翌月から函館周辺を手始めに日高、十勝、釧路方面の資源調査を行い帰京。 石炭隗を開拓使に持ち込んだ札幌在住のの情報を元にに関心を示す。 (明治6年)1月、中判官に昇進。 同年1月から3月にかけ、東京ので黒田・榎本・ケプロンは地質調査方針策定のために三者会談を行う。 榎本は調査を進めるため、黒田がアメリカから招聘したとともに来道したが、ケプロンに更迭されていたを再登用しようとした。 しかし、別途、に地質調査を行わせていたケプロンに反対される。 同年夏、榎本は再度北海道に行き、(現在の)の石炭山を調査した後、に入りを発見、良質な炭層であると分析結果を出した。 しかしケプロンは、榎本の調査結果を認めず、「未熟の輩」と誹謗した。 が制定されると、1873年、早川長十郎に案内された沿いの(ついしかり。 現在の)の土地10万坪、それと小樽(現在の周辺)の土地20万坪を北垣国道とともに払い下げを受けた。 対雁には「榎本農場」を開き 、小樽は「北辰社」 を設立し土地を管理した。 駐露特命全権公使 [ ] 「」も参照 との樺太の国境画定交渉と、がすることとなったに対処するため、駐露に決まったが10月に病死。 榎本が代役として(明治7年)1月10日の閣議で領土交渉使節に決定し、18日、駐露特命全権公使に任命された。 併せて1月14日、日本最初のに任命された。 同年3月10日に横浜を出発、パリ・オランダ・ベルリンを経て、6月に着任。 6月18日、アレクサンドル2世に謁見し、20日には軍港を視察した。 領土交渉については、交際の広いポンペを日本公使館付属医師の名目で顧問に招きロシアの内部情報を探り 、ロシア外務省アジア局長 ()との交渉の末、(明治8年)5月7日、外務大臣とを締結した。 また、マリア・ルス号事件は同年6月13日、アレクサンドル2世の裁定が下り、日本が勝訴した。 その後、同年8月から9月にかけて西欧を視察。 ドイツでクルップの工場と鉱山を見学した後、パリ、ロンドンを訪問した。 またロシア滞在中、幕末の遣日使節であったらと親睦を深めた。 シベリア横断 [ ] (明治11年)7月26日、サンクトペテルブルクを出発し帰国の途に向かう。 榎本は当時日本に広まっていた「恐露病」を克服するため、ロシアの実情を知ることを目的にを横断した。 を経てまで鉄道で行った後、船と馬車を乗り継ぎ、9月29日にに到着。 そこで黒田清隆が手配していた汽船・函館丸に乗船し、10月4日小樽に帰着。 札幌滞在の後、10月21日に帰京した。 このとき、とともに小樽の手宮洞窟にあるを調査し報告している。 帰国後 [ ] (明治12年)2月12日、条約改正御取調御用掛を命じられ、同年9月10日に外務省二等出仕、11月6日に外務大輔となる。 さらに11月18日、を兼任した。 (明治13年)2月28日、海軍卿に就任。 海上法規であるを作成する が、海軍人事に介入したため薩摩出身者の怒りを買い 、(明治14年)4月7日、海軍卿を免ぜられ 、同年予備役へ退いた。 当時、政府はの建設を計画しており、榎本は公使時代のロシア宮廷での経験を買われ 、1881年5月7日に皇居造営御用掛、翌(明治15年)5月27日、皇居造営事務副総裁 に就任。 このときから、皇室との関係が他の顕官に比べてより深いものとなった。 同年8月12日、駐特命全権公使となり、妻子を連れてへ赴任。 (明治16年)末にとで会談、親交を深める。 (明治17年)にでが発生すると、日本側全権のを支え李鴻章と度々会談し、締結に貢献した。 (明治18年)10月、清国駐在を免ぜられ帰国した。 大臣を歴任 [ ] 逓信大臣 [ ] 1885年12月22日、内閣制度が発足。 の逓信大臣に就任する。 (明治20年)5月24日、勲功をもってに叙される。 (明治21年)4月30日にが誕生すると、逓信大臣に留任するとともに、それまで黒田が務めていた農商務大臣をが後任となる7月25日まで臨時兼任した。 同年、を設立、初代会長となる。 文部大臣 [ ] (明治22年)2月11日の発布式では儀典掛長を務めた。 同日暗殺された文部大臣・の後任として、3月22日、逓信大臣から文部大臣へ横滑りする。 で留任し、の希望であった策定を命じられる。 大臣親任式で天皇から特に希望されたにもかかわらず、積極的に取り組まなかった。 そのため(明治23年)2月の地方官会議で知事たちから突き上げられ、5月17日に更迭 、となった。 また、同年開催されたの副総裁を務めた。 育英黌農業科の開校 [ ] 東京農業大学開校の地(東京都飯田橋) 1885年、榎本とらが中心となり、旧幕臣の子弟に対する支給のため徳川育英会を設立。 この徳川育英会を母体に、(明治24年)3月6日、東京・に「育英黌」を設立し管理長に就任した(校長は)。 育英黌は、農業科(現在の)、商業科、普通科の3科があった が、の飯田橋延伸に伴う敷地の買収話が持ち上がり、農業科は翌1892年10月23日、大塚窪町(現在の大塚三丁目)に移転し、育英黌分黌農業科と改称した(校長は伊庭想太郎)。 更に1893年、私立東京農学校と改称し、榎本は校主となった(校長は伊庭)。 1894年に徳川育英会から独立した が、毎年の入学者が50人を超えず 生徒が集まらない状況に榎本は廃校を決意。 しかし農学校の評議員であったが反対し運営を引き継ぐ。 榎本は手を引き、(明治30年)、農学校はに移管された。 外務大臣 [ ] 1891年5月11日にが発生すると、榎本は、5月15日、ロシアへの謝罪使節・の随行員を命じられた が、17日にロシア公使が使節派遣は不要と表明したことから中止となる。 但し外務大臣・が引責辞任すると、5月29日、榎本が後任に任命され 、義弟のを次官とした。 青木が取り組んでいた交渉を継続し、(明治25年)4月12日、条約改正案調査委員会を立ち上げ 、同年、が経費削減のため総領事を廃止したのを機に同国のを撤廃した。 また、以前から私的に取り組んでいた海外殖民を政策として進めた(の項を参照)。 1892年8月8日、総辞職に伴い外務大臣を辞任、枢密顧問官となる。 農商務大臣 [ ] (明治27年)1月22日、の農商務大臣に就任する。 当時、日本は鉄鋼需要の大半を輸入に依存しており 、政府は新たに製鉄所(後の)の建設を計画していた。 製鉄所は民営とすることで1893年に閣議決定していたが、榎本は大臣に就任すると官営を主張し先の閣議決定を覆した。 (明治29年)、製鉄所建設の予算が成立し、3月29日に製鉄所官制が公布。 榎本は製鉄所初代長官に腹心の山内堤雲を就けた。 なお、によるの設立((明治30年))を後援している。 足尾鉱毒事件 [ ] 「」も参照 かねてよりの鉱毒被害は問題となっており、(明治28年)には、知事・と知事・は連名で政府に足尾銅山に関する要望書を提出するが、榎本はこれを放置。 1896年9月の大洪水で鉱毒被害が拡大・激化。 翌1897年2月、が国会で鉱業停止を命じない理由の回答を求める質問書を提出し、政府の取り組みを非難する演説を行った。 これに勢いづいた被害農民は1千名を超える陳情団(第1回大挙東京押出し)を上京させ、榎本は3月5日、被害農民と面談した。 3月18日、先の田中の質問に対して、政府は榎本と内務大臣・の連名で、「示談契約は古河鉱業と被害農民の民事上の問題であり政府は関与しない。 鉱業停止も鉱業条例に適合するか断言できない。 但し政府は黙視していたわけではない」という回答書を出した が、この回答は被害農民の反発を招き、第2回大挙東京押出しを引き起こす。 3月23日、榎本はやの助言を受け入れ、津田の案内で現地を視察。 同日夜、に相談し、24日に鉱毒調査委員会を設置した。 27日に再度陳情団と面談 の後、29日に大臣を引責辞任、を受ける。 なお辞表では「脳症に罹り激務に耐えがたい」ことを辞任理由としている。 メキシコ殖民 [ ] メキシコにおけるエスクイントラの位置 榎本は長年、海外殖民への関心を抱き、駐露特命全権公使時代には、に日本領が確定したばかりのへ罪人を移住させたり、スペイン領のとを購入し、更にの一部となどを日本領として、それらを拠点に貿易事業を推進することを建言していた。 1879年、らとを立ち上げ、とニューギニア島を買収し、日本人を移住させることを発案する。 1891年、外務大臣に就任すると「移民課」を新設し 、ニューギニア島やなどに外務省職員や移住専門家を派遣し、植民地建設の可能性を調査させた。 そこへからメキシコ政府が開発のため外資と移民を歓迎している話が入り、在米特命全権公使のにメキシコ殖民の可能性を調査させた。 建野がメキシコの地代は安く日本の農民を送って事業を興せば莫大な利益が得られるとの報告を上げると、榎本はメキシコ殖民に傾き、早速、メキシコに中南米初の領事館を開設した。 外務大臣辞任後の(明治26年)、榎本が会長となりを設立。 をメキシコに派遣し、生産が期待できるという報告を受けた。 続いて、アメリカ留学帰りのをメキシコ南部のへ派遣し、 ()が入植に最適との報告を受けた。 殖民団の資金集めのため、の墨国移住組合設立に続き、12月、榎本が社長となり日墨拓殖株式会社を設立したが、1株50円で4,000株、20万円の資本金を集める計画に対し、1,919株しか売れなかった。 榎本は資金調達が不調であるにもかかわらず、1897年1月、メキシコ政府とエスクイントラ官有地払下げ契約を締結。 3月24日、36名の殖民団が横浜を出発した。 殖民団は5月19日にエスクイントラに到着する が、が蔓延したことに加えて、に入っていたための伐採が進まず、入手したコーヒー苗も現地の環境に合わないものであったことなどで資金が尽き、逃亡者が発生して僅か3ヶ月で殖民地は崩壊した。 榎本は(明治33年)、事業を殖民協会会員で代議士のに譲渡し手を引いた。 晩年 [ ] 榎本武揚の墓(吉祥寺) (明治31年)、富山県で発見された隕石から製作させた・「」をに献上。 流星刀の製造技術を論文『流星刀記事』として発表した。 また同年、の初代会長となる。 、盟友・黒田清隆が死去した際、葬儀委員長を務めた。 1905年(明治38年)10月19日、海軍中将を退役となる。 1908年(明治41年)7月から病気となり、10月26日 、腎臓病で死去。 享年73。 同月30日、海軍葬が行われた。 墓所は東京都のにある。 栄典 [ ] 位階• 明治5年 -• 1874年(明治 07年)2月18日 -• 1880年(明治13年)5月24日 -• 1886年(明治19年)10月19日 -• 1896年(明治29年)10月10日 - 勲章等• 1878年(明治11年)2月6日 -• 1886年(明治19年)3月11日 -• 1887年(明治20年)5月24日 -• 1889年(明治22年)11月25日 -• 1890年(明治23年)10月11日 -• 1905年(明治38年)1月20日 -• 1908年(明治41年)10月26日 - 外国勲章佩用允許• 1878年(明治11年)11月24日 - :神聖スタニスラフ第一等勲章()• 1879年(明治12年)12月3日 - :マウリシオエラツァーロ勲章グランオブヒシアル• 1881年(明治14年)7月29日 - :オンエチエソレール第一等勲章• 1884年(明治17年)5月15日 - :二等第一双竜宝星• 1887年(明治20年)10月3日 - :サンベノァダウィ勲章コマンデール• 1888年(明治21年)1月28日 - ロシア帝国:神聖アンナ第一等勲章()• 1892年(明治25年)• 3月14日 - :カラカウワ勲章ナイトグランドクロス• 6月29日 - ロシア帝国:白鷲大綬章()• 1893年(明治26年)6月21日 - :龍星第一等勲章• 1894年(明治27年)3月7日 - オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章 人物 [ ] 榎本武揚像(墨田区梅若公園) に「の代表的人物 」と評されたように、執着心に乏しく野暮が嫌いで、正直で義理堅く、涙もろい人間であった。 親交のあったの孫を引き取り学校に通わせたり、困っている人がいれば気軽に金を貸していたが 、林董は「一度人を信用すれば何でも信じてしまうため、友達としては最高だが、仕事仲間としては困る人だ」と評している。 投獄されていた際、市井無頼の徒と交流したこともあり、気軽で無頓着、やなど粋な趣味を持った。 晩年も力士を座敷に招いて相撲を取らしたり、を玄関先に呼び入れたりしていた。 酒豪で日本酒を「米の水」と呼んでいた。 洒落っ気があり、戊辰戦争のときの心境について明治になってから聞かれた際、「今ならあんな幼稚なことはしないが、帰国したばかりで良く判らなかったし、長州人といっても当時はどこの馬の骨だか判らないので抵抗してみた」ととぼけている。 また投獄中、重罪人であるにも関わらず、当時の政府を批判する「ないない節」という戯れ歌を作っていた。 堂上たちには腹がない にはしまりがない の者にはいくぢがない そこでなんにもしまらない 今度のご処置はたわいない 官軍朝敵差別ない 死んだ者には口がない 攘夷々々ととめどない 開港してもしまりない 大蔵省には金がない 弾正無茶には仕様がない することなすことわけがない 所々の恋女はつまらない 盗人年中たえがない 世上安堵の暇がない そこで万民命がない とんと日本もおさまらない ないない節 一くだり 榎本武揚酔墨 に屋敷を構えていた榎本はを気に入り、晩年、朝夕の散歩がてら訪れては四季の草花を眺めていた。 植物、特に外国の花については非常に博識で、百花園の主人に教えていたこともあるという。 また、将軍家のために造られた御成座敷で酒を飲むのを好んでいた。 園内には俳人・の「闇の夜や誰れをあるじの隅田川」という句碑があるが、榎本はこれを見て、拙い句だとして「朧夜や誰れを主(あるじ)と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直している(燗酒の歌)。 政治家としては、実務的大臣を歴任し「明治最良の官僚」と評され 、明治天皇からも信頼を得て、大津事件の謝罪使節派遣に際しては一旦辞退したものの、天皇・皇后から役目を受けるよう御諚を賜っている。 しかし一方で、幕臣ながら薩長の政府に仕えた「帰化族の親玉 」や、藩閥政治の中で名ばかりの「伴食大臣」という批判も受けた。 瘦我慢の説 [ ] 榎本を大々的に批判した人物に、福澤諭吉がいる。 1887年、榎本はらとともに清水・に咸臨丸の慰霊碑を建て、列伝の一節「食人之食者死人之事(人から恩を受けた者は、その人のために死ぬ)」を碑に記した。 1890年、清見寺を訪れた際に碑を見て憤慨した福澤は、翌年、「幕府の高官でありながら新政府に仕えとなった榎本と勝海舟は、本来徳川家に殉じて隠棲すべきであった」と批判する『 』を書いた。 福澤は榎本と勝に本書を送り意見を求めたが、当時、外務大臣であった榎本は、「多忙につき、そのうち返答する」という返事を出した。 瘠我慢の説は1900年(明治33年)12月、世間に公表されたが、翌年2月に福澤が死去し、榎本は返答しないまま終わった。 逸話 [ ]• オランダ留学中にを学び、帰国時にフランス製のディニエ電信機を持ち帰った。 箱館戦争で倉庫に預けたまま失われていたが、明治に入り、が古道具屋で購入した。 榎本が電気学会会長であった1888年に電気学会講演会の場で紹介され、偶然にも再会することとなった。 この電信機は現在、に収蔵されている。 逓信大臣のとき、の「徽章()」を決定。 1887年2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示した が、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」 と変更した。 その事情として、徽章が万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明したため、榎本が「Tに棒を一本加えて「」にしたらどうだ」と提案し、変更したという説がある。 郵便記号誕生に関する諸説のうちのひとつ。 徳川慶喜がとなったとき(1902年)、旧幕臣が集まり祝宴を開いた。 その際、慶喜一家とともに榎本も加わって写真を撮ることになったが、榎本は主君と一緒の写真など失礼なことはできないとして遠慮している。 系譜・親族 [ ] 榎本家の先祖はから武蔵国へ移り住んだであり、江戸時代は代々御徒士として仕えた家柄であった。 は丸に梅鉢。 父:((2年) - 1860年(万延元年)8月6日 ) 旧名は 箱田真与(しんよ)、通称・ 良助、源三郎。 榎本家に入婿した後の通称は円兵衛、左太夫。 箱田村(現広島県箱田)の庄屋・の次男。 の廉塾に学び、数学を得意としていた。 17歳の時、江戸に上り、兄・右忠太(うちゅうた)とともにの弟子になる。 1809年(文化6年)の第1回九州測量以降、実測に随伴し、の作成に貢献した。 伊能の死後、1818年(元年) に御家人の榎本家の株を買い、の娘みつと結婚して婿養子となり、武規と名乗る。 1826年(文政6年)12月1日、に出仕。 1833年(天保4年)7月23日に西丸御徒目付、1840年(天保11年)5月17日に右大将御付、同年8月8日に本丸勤務、1844年(元年)に勘定となり、1846年(弘化3年)に小普請入りとなった。 母:琴(? - 1871年(明治4年)8月26日 ) 武規の後妻。 一橋家馬預・の娘。 妻:たつ(多津、1852年(嘉永5年)6月1日 - 1892年(明治25年)8月2日 ) とつる(の長女)の長女で、の妹。 妹に赤松則良の妻となった貞、弟にの養子となった、母方の叔父に、および林洞海の養子となり弟となった林董、叔母に(山内提雲の兄)の妻となったふさがいる。 長男:(1873年(明治6年)1月1日 - 1924年(大正13年)11月6日 ) 幼名・金八。 黒田清隆の長女・梅子(1882年(明治15年)1月24日 - 1934年(昭和9年)2月26日 )と結婚。 2人の娘・千代子(1905年(明治38年)1月5日 - 1969年(昭和44年)11月7日 )は、黒田清隆の養子・に嫁いでいる。 1908年(明治41年)11月10日に子爵位を継承、貴族院議員。 客員教授のは武憲の孫。 長女:きぬ - 幼少時に死亡。 次男:(1880年(明治13年)1月20日 - 1966年(昭和41年)6月21日 )• 三男:(1883年(明治16年)11月8日 - 1954年(昭和29年)11月25日 )• 次女:不二子 - に嫁ぐ。 三女:多賀子 - 幼少時に死亡。 長姉:端清 - 母は武規の最初の妻・みつ。 御徒・に嫁ぐ。 次姉:らく(観月院) - 鷹匠・に嫁ぐが若くして未亡人となる。 武揚が慕っていた。 兄:(與)(たけとも、1832年(天保3年) - 1900年(明治33年)7月13日 ) 幼名・鍋太郎。 通称・勇之丞。 大番格歩兵指図役を務めた。 妹:歌 - 目付、外国奉行等を歴任したに嫁ぐ。 著作 [ ]• 『渡蘭日記』 オランダ留学時のからまでの日記。 同島で榎本が破棄しようとしたものを澤太郎左衛門が貰い受けた。 『獄中詩』 投獄中の日記。 『開成雑爼』 投獄中に執筆した、油、石鹸、蝋燭などの製造法を記した書。 『北海道巡回日記』 開拓使で北海道の資源調査を行った際の記録。 『西比利亜日記』 シベリア横断時の日記。 大小の冊子2冊に記された。 長らく存在は知られていなかったが、で倒壊した榎本の屋敷を整理していた同家の執事・(の孫)が1935年(昭和10年)、武揚の次男・に見せ、世間に明らかになった。 1939年(昭和14年)、により出版された。 『記事』 翻訳 [ ]• 『朝鮮事情』 フランス人著『朝鮮教会史』のうち国内事情を記した序論を、駐露特命全権公使時代にポンペとともに翻訳。 『千島誌』 ロシア人・(A. Polonsky)の著作を駐露特命全権公使時代に・らと翻訳。 1845年に初版が発行され、榎本留学中の1864年に第4版が出版されている。 上下2冊で構成され、第1冊は総論、序論と平時法規、第2冊は戦争状態を扱っている。 日本では、1899年(明治22年)に海軍参謀本部により『海上国際条規』として和訳された。 榎本が所持していた「本」は、化学の師であるハーグ大学教授が蘭訳し自筆筆写したもので、オランダ語で"Diplomatie der Zee"(「海の外交」)という題名が付けられていた。 なおオルトランの原書の完全訳ではなく、榎本用に内容を取捨かつ判りやすくしたものであり、後に榎本により原書と対比した書き込みがなされている。 箱館戦争の際に榎本から受け取った黒田清隆は、維新後、本書を海軍省に納めたが、榎本は海軍卿時代に本書を海軍省の書庫で発見し、再び自分の蔵書とした。 その後、孫・武英が1916年(大正5年)にに献上、現在はに保管されている。 なお、榎本の投獄中に福沢諭吉が本書の翻訳を依頼されている。 福澤は本書の序文4-5頁だけ翻訳して、これは貴重な本だが講義録であるから講義を聞いた本人でなければ判らないとして、暗に榎本の助命を求めていた。 榎本武揚を題材とする作品 [ ] 文学作品• 『』(1964年。 長編小説と戯曲がある。 舞台では、らが演じた)• 『かまさん』• 『武揚伝』• 『生きゆきて峠あり』• 『航-榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』• 『小説 榎本武揚』• 『榎本武揚シベリア外伝』 テレビドラマ• 『』(1980年、、演:)• 『』(1988年、、演:)• 『』(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:)• 『』(2004年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(2006年、、演:) ゆかりの地 [ ] 北海道江別市工栄町 1873年(明治6年)に10万坪の払下げを受けて造った「榎本農場」の跡地に整備された。 作の銅像がある。 北海道小樽市3丁目 榎本が北垣国道と共同で払下げを受けた地所の一角に建立された。 榎本の銅像がある。 梁川公園 北海道函館市梁川町 榎本の銅像がある。 なお、函館市には榎本町、梁川町と由来する町名が2つある。 梅若公園 東京都2丁目 である都営白鬚東アパートの一角にある。 元は榎本がよく散策していたがあった場所であり、1913年(大正2年)に建てられた榎本の銅像がある。 兄・鍋太郎()とともに、とがあれば食うには困らないという意味で名づけられた。 出生地である「柳川横町(近所に邸があった)」にちなむ。 但し柳川ではに通ずるため、梁川としたとされる。 本名・村瀬誨輔。 幕臣、儒者。 外交官・の父。 「甲」「乙」は名前が公表されるが、榎本の名前が無かったことから、「丙」とみられている。 榎本は入学願を出したが却下され、昌平黌の学友・の父である大目付・に頼み込み、伝習所頭取となった勤吾の同行者として入学を許された。 なお赤松則良は、榎本は矢田堀景蔵の従者扱いで員外の者として講義を受けていた、と記している。 カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』「榎本釜次郎氏のごとき、その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来一介の火夫、鍛冶工および機関部員として働いているというがごときは、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。 これは何よりも、この純真にして、快活なる青年を一見すれば、すぐに判る。 彼が企画的な人物であることは、彼が北緯59度の地点まで北の旅行をした時に実証した。 同行のオランダ軍士官から洋服ではインド人と間違われる可能性があると指摘され、打裂(ぶっさき)羽織・裁付(たっつけ)袴に二刀差しの姿で観戦した。 当時、榎本はに屋敷があったことから、和泉守としたといわれる。 榎本は大坂城への登城途中に、負傷兵を保護していた公使から、負傷兵の面倒を見ることを要請されている。 うち3万両は榎本に下賜され、オランダに残った留学生(、林研海、赤松則良)の滞在費に充てられた。 「軍艦・銃砲を引渡し、追ってふさわしく(相当)差し返すこと」と定められていた。 新政府は榎本の脱走を忠義によるものと賞して、開陽ほかを榎本に預けたままとした。 回答状の追伸にある『海律全書』の贈答に関する部分は以下の通り。 「別本二冊、釜次郎和蘭留学中、苦学致候海律、皇国無二の書に候へば、兵火に付し、烏有と相成候段痛惜致候間、「ドクトル(注:高松凌雲のこと)」より海軍「アドミラル」へ御贈可被下候」。 なお、陸海軍参謀のや海軍参謀のではなく、交渉相手であった陸軍参謀・黒田清隆が本を受け取った。 糾問所の建物は幕府の大手前歩兵屯所として使用されていたものであり、牢獄は大鳥圭介が歩兵頭のときに歩兵取締のため建てられた。 黒田は箱館総攻撃直前の時点で既に、知人宛の手紙で「榎本は得難き非常の人物で驚かない者はなく、彼と生死を共にすべしと一同が奮発している」と記し、増田虎之助、とともに敵が降伏してきたら助命しようと約していた。 このとき榎本は薩長が支配する政府に仕えることに難色を示したが、大鳥圭介らが薩長ではなく朝廷に仕えるのだといって榎本に仕官を促した。 開墾の際、樹木に火薬を付けて爆破する「爆破開墾」を行っている。 なお、榎本農場は(大正7年)、長男・により小作人に解放された。 北辰社は土地管理のほか、東京・飯田橋から九段にかけての土地で牧場を経営していた。 当時の外交慣例で公使の方が交渉上有利と判断されたためで、の建言によるものといわれる。 総裁は。 このとき、榎本は山縣に「自分を罷免するのは、職務不十分なためか、それとも閣内人事の事情からか」と質したのに対し、山縣は後者だと言い放ち、榎本が憤慨している。 移民課長(兼通商局長)は。 移民課は榎本の大臣退任後の1893年、通商局長・の主張により廃止された。 官報では10月27日薨去。 榎本家に入婿したのは1822年(文政5年)との説もある。 近代日本の万能人・榎本武揚, p. 331によれば明治41年 1908年 となっているが、これは「昭和41年」の誤記と判断される。 榎本隆充編「榎本武揚未公開書簡集」p225、榎本家家系図(2003)による。 海軍大佐。 フランスの法学者の弟。 出典 [ ]• , p. , p. , p. 210. , pp. 136-137. 「」『漢字文化研究』第7巻、2017年、 21-41頁。 、32-33p• コトバンク. 2015年8月13日閲覧。 , p. 141-143• , pp. 1-4. , p. , p. , p. カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』水田信利・訳、平凡社〈東洋文庫 26〉、1964年、85頁。 , p. , pp. 91,94. , p. , pp. 95-100. , pp. 118-120. , pp. 123-124. 『赤松則良半生記』編、平凡社〈東洋文庫 317〉、1977年、177頁。 , pp. 176-184• , p. , 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榎本喜八

榎本 れ み

来歴・人物• 実家は東京都港区の米屋。 2人姉妹の次女。 父親は出身。 小学2年生から4年生まで、喘息を治す目的もあり、水泳、ピアノ、日本舞踊を習っていた。 ピアノは練習が嫌いだった為、途中で辞めたが日本舞踊はずっと続けていたと述べている。 小学4年生から中学2年まで、塾に点々と通い、家庭教師も3人、頼んでいたが本人は「わたしには勉強は合わないみたいですね 笑 」と述べている。 小学6年生のときにスカウトをされてモデル活動を始める。 中学2年生のときに本格的に芸能界デビュー。 1995年、テレビドラマ『』に出演。 同ドラマでは演じる主人公・相沢すずをいじめる裕福な家のお嬢様・木崎絵里花役を演じ、劇中の「 エリカがたとえてあげる」というセリフで一躍注目を浴びた。 悪役ではあるものの、その特徴的なキャラクターが受け、結果的にこの役が榎本のブレイクに繋がった。 また同年、にも選ばれる。 奔放で強気なキャラクターで、それゆえに「無神経」「はすっぱ」と言われることもあり、トークも毒舌、下ネタ交じりということもあったが 、 スタッフには大変礼儀正しいと言われている [ ]。 のテレビ番組で、巨大に沈んでいる正解の物を潜ってとってくるというコーナーに参戦。 「 プライベート・アクトレス」の衣装であるを着用のまま、出題と同時にいち早く巨大水槽に潜った。 水中でミニが捲くり上がり、黒の(黒パン。 下着が見えるのを防ぐ為に穿いていた)が露出してしまったが恥ずかしさよりも勝ち気さが勝った故のプレーだった。 」の撮影時、主題歌・音楽を担当したから歌手デビューを勧められたが断ったというエピソードを持つ [ ]。 小室は当時の番宣などで、榎本の仕事のプロとしての信念の強さに驚かされた旨を語っていた [ ]。 なお榎本はにCDデビューを果たしている。 2004年には機「シンドバッドアドベンチャーは榎本加奈子でどうですか」という本人をモチーフにした台が発売された。 2004年に衝突事故を起こしされる(処分)。 2004年春、「ハマの大魔神」こと選手・佐々木主浩との不倫交際が発覚する。 佐々木は3月18日に前妻・との離婚が成立。 同年4月29日に佐々木との間にできた男児を出産(7ヶ月の早産のため1,000gの未熟児)、5月9日に入籍。 6月29日には2,290gの男児を出産、佐々木と前妻との間に生まれた子供2人(女と男)を含め4児の母となった。 放送・司会の『』に以来2年ぶりに夫の佐々木と共にテレビに出演。 放送『』にも佐々木と夫婦でテレビに出演。 佐々木との結婚とほぼ同時期に、女優業からは一線を退いた。 、自らプロデュース・経営しているスープカレー屋「Kandy Spice Poya」が、『kanakoのスープカレー屋さん』に店名変更。 店のロゴを夫の縁でがデザインした。 現在生活の拠点を置いているにも出店している。 『家なき子2』で演技自体ほぼ初めてだったため長いセリフが覚えられず、滑舌もよくなかったため、口パクで演技をし撮影後にをしたこともあるという。 出演 テレビドラマ• (1995年4月-7月、) - 木崎絵里花 役• (1995年4月-9月、)• しんドラ・卒業旅行 〜忘れものみ・つ・け・た(1995年9月12日・19日・26日、日本テレビ)• 日本一短い「母」への手紙2 (1995年10月14日、日本テレビ)• (1995年10月-12月、)• ・午前0時の血(1995年10月19日、フジテレビ) - まなみ 役• ・七瀬ふたたび(1995年10月-1996年1月、フジテレビ) - しずか 役• (1996年1月-3月、) - 鶴岡真弓 役• (1996年4月-6月、) - 青島まみ 役• (1996年7月-9月、テレビ朝日) - 緑川園子 役• (1996年10月-12月、日本テレビ) - 神楽坂佐織 役• (1997年1月-3月、TBS) - 大滝恵 役• (1997年4月-6月、日本テレビ) - エリ 役• 3話(1997年10月27日、読売テレビ) - 須藤早紀 役• (1998年1月-3月、テレビ朝日) - 主演・音無可憐 役(連続ドラマ初主演)• (1998年10月-12月、日本テレビ) - 主演・小早川志緒 役• (1999年1月-3月、テレビ朝日) - 主演・杉山ゆうこ 役• (1999年4月-6月、) - 桜井レナ 役• (1999年7月-9月、フジテレビ) - 紺野珠子 役• ・超ド迫力! 秋の2時間スペシャル(1999年10月、TBS) - 末永美々 役• (2000年1月-3月、日本テレビ) - 主演・早川リサ 役• 2(2000年4月-7月、TBS) - 末永美々 役• 最終話(2000年9月、テレビ朝日) - 榎本加奈子 役• スペシャル(2000年9月24日、日本テレビ) - 西沢真紀 役• (2000年10月-12月、テレビ朝日) - 主演・栗田桃 役• (2001年8月-12月、テレビ朝日) - 咲山ひとみ 役• (2001年7月-9月、日本テレビ) - 深田美奈子 役• 〜深夜特急死闘編〜(2001年9月29日、日本テレビ) - 水島ちひろ 役• (2001年10月-12月、日本テレビ) - 正木有紗 役• (2002年4月-7月、日本テレビ) - 屋代みどり 役• Pな彼女・第2シリーズ(2002年8月-9月、TBS) - 主演・石沢友菜 役• (2002年9月-11月、) - 辻川清美 役• (2002年10月-12月、関西テレビ) - 田代ミキ 役• (2003年7月、NHK) - 加原律子 役• 第6話(2003年8月、TBS) - 清美 役• 31 四国連絡特急殺人事件(2004年3月29日、TBS) - 伊吹君子 役• 二通の手紙(2004年4月27日、日本テレビ) - 伊織永遠子 役• (2004年8月-10月、) - 主演・小川ちひろ 役(帯ドラマ初出演) 映画• (1997年) - 西村小麦 役• (1999年)• (2004年) - ヨーコ 役 VHS・DVD• 榎本加奈子 〜Fourteen(1995年)• 加奈子のヒミツ(1997年)• ゆりかちゃん(1997年) 劇場アニメ• - ホラ・ホラコ 役 ゲーム• (1998年) - 田宮京子 役• (1999年)• (1997年1月-1998年10月、) バラエティ• ムキムキ! たまご(1995年、テレビ朝日)(MC)• (1996年4月-9月、フジテレビ)(MC)• おまねき猫(1999年10月-2000年3月、テレビ朝日)(MC)• 名神集中工事(旧)• …事業者• Ban()• … 書籍 写真集• (1996年3月、、撮影:永利隆之)• edge(1996年12月、ワニブックス、撮影:永利隆之)• 映画「」PHOTOBOOK SUMMER MEMORY (1997年7月、ワニブックス、撮影:)• michi(1998年7月、ワニブックス、撮影:)• ENOMOTO 祥伝社ムック Boonフォトマガジン Vol. 3 (1998年11月、)• 美麗 メイライ (2002年9月、ワニブックス、撮影:)• シンドバッドアドベンチャーは榎本加奈子でどうですかVSボンバ PEACE MOOK 115 (2004年9月、) 単行本• あそこ。 (1999年11月、)• かんたん! おいしい! かわいい! 好きになっちゃった(2002年6月19日発売・)オリコン49位• 好きになっちゃった[5:13] 作詞:/作曲:日下賢司/編曲:• 「ゼスプリ・ゴールド」CMソング• ありがとう[4:52] 作詞:秋元康/作曲・編曲:• 好きになっちゃった オリジナルカラオケ [5:13]• ありがとう オリジナルカラオケ [4:49]• オムニバスアルバム「千枚谷」(2002年10月02日発売)に収録。 受賞歴• 1998年• 第16回 ベストドレッサー賞(『』)• 1999年• 第20回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 ベストドレッサー賞(『』) 脚注 [].

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大船榎本クリニック|【精神科・心療内科】榎本クリニック|池袋 新大塚 飯田橋 御徒町 大森 小岩 大船

榎本 れ み

その他の職歴 第3代 ( - ) 総裁 ( - 1869年) 榎本 武揚(えのもと たけあき、〈7年〉 - 〈41年〉)は、の()、、、。 最終は。 は 釜次郎 、は 梁川(りょうせん)。 榎、釜を分解した「 夏木金八(郎)」というも用いていた。 世間では俗に「ぶよう」とも呼ばれた。 の元であった幕臣・(箱田良助)の次男として生まれる。 、で学んだ後、幕府の発注に伴いへした。 帰国後、のとなり、では旧幕府軍を率いてを占領、いわゆる「」の総裁となった。 で敗北し、東京の牢獄に2年半投獄された。 敵将・の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。 での資源調査を行い、駐としてを締結したほか、、、駐特命全権公使を務め、制度開始後は、・・・などを歴任、子爵となった。 また、を創立し、にを送ったほか、の前身である徳川育英会育英黌農業科や、、など数多くのを創設した。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] (7年)、柳川横町(現在の付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御・榎本武規の次男として生まれる。 近所に住んでいた に入門し儒学を学んだ 後、(4年)、に入学。 (嘉永6年)に修了するが、修了時の成績は最低の「丙」であった。 (元年)、・の従者として箱館(現在の北海道)に赴き、蝦夷地・巡視に随行。 (安政2年)、昌平坂学問所に再入学する(翌年7月退学) が、同年の聴講生となった後、(安政4年)に第2期生として入学。 海軍伝習所では、やらから機関学、などを学んだ。 カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた。 翌(安政5年)海軍伝習所を修了し、江戸の教授となる。 また、この頃、の私塾でを学び、後にをともに戦うと出会う。 オランダ留学 [ ] 1864年オランダのハーグにて (元年)11月、幕府はに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・・・・・・をアメリカへ留学させることとした。 しかし、の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった。 同年6月18日、留学生一行はで品川沖から出発。 途中、榎本・沢・赤松・内田がに感染したためで療養し、8月23日長崎に到着。 9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、へ向かう。 北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える。 での寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・に到着した。 オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。 榎本はで下宿し、船舶運用術、、学、化学、を学んだ。 1864年(元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともにをとして見学した。 ・軍の戦線を見学した後、に渡り、同軍の戦線を見学した。 その後、の本社を訪れ、と面会した。 また、が幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受け、内田とへ赴き、フランス海軍と交渉した ほか、赤松とを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した。 1866年(2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・港を出発、・を経由して、(慶応3年)3月26日、に帰着した。 5月10日に幕府に召し出され 、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる。 7月8日に軍艦頭並 となり、を許される。 9月19日に軍艦頭となり、和泉守 を名乗る。 同年、オランダ留学生仲間のの妹(・の長女)・たつと結婚した。 戊辰戦争 [ ] 阿波沖海戦・大坂撤退 [ ] 「」も参照 1867年末には幕府艦隊を率いてへ移動しており、での軍議にも参加していた。 翌(慶応4年)1月2日、大坂湾からへ向かっていたの平運丸を攻撃した。 薩摩藩の抗議に対し榎本は、以来、薩摩藩とは戦争状態にあり港湾封鎖は問題ないと主張。 更に1月4日には、兵庫港から出港した薩摩藩のほかを追撃、で勝利した。 での旧幕府軍敗北を受けて、榎本は軍艦奉行・ともにと連絡を取った後、1月7日にへ入城した。 しかしは既に6日夜に大坂城を脱出しており、7日朝、榎本不在の開陽丸に座乗した後、8日夜に江戸へ引き揚げていた。 榎本は大坂城に残された銃器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両 を勘定奉行並・とともにとに積み、自身はや旧幕府軍の負傷兵らとともにに乗り、12日に大阪湾を出発、15日、江戸に到着した。 1月23日、海軍副総裁に任ぜられる。 榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した。 旧幕府艦隊の脱走 [ ] 後列左から、、、、前列左から、榎本武揚 同年4月11日、新政府軍はに伴い降伏条件の一つ である旧幕府艦隊の引渡を要求するが、榎本は拒否し、やが率いるを乗せ、悪天候を口実に艦隊8隻で品川沖からに脱走した。 の説得により4月17日に品川沖へ戻り 、4隻(富士山丸・・・)を新政府軍に引渡したが、開陽等の主力艦の温存に成功した。 榎本はなおも抵抗姿勢を示し、閏4月23日には勝に艦隊の箱館行きを相談するが反対される。 5月24日にの駿河・遠江70万石への減封が決定。 榎本は移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦で、遊撃隊や主・に協力しての陣屋を砲撃した上、方面へ向かう彼らを館山からへ輸送したほか、や脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援した。 7月にはの密使(仙台藩・、・、・)と会い、7月21日、列藩同盟の参謀を務めていた・宛に支援に向かう旨の書状を出した。 8月に入ると密かに脱走準備を進め 、8月4日、勝に軽挙妄動を慎むよう申しわたされる が、8月15日にがに移り移封が完了する と、榎本は8月19日、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、、、、、、、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった。 この艦隊には、元・、陸軍奉行並・、や遊撃隊の生き残り、そして、の一員だったとなど、総勢2,000余名が乗船していた。 江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託している。 檄文 王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。 然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。 王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。 其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。 又甚しからずや。 これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。 我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。 故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。 それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。 之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。 廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。 房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、8月下旬頃から順次仙台に到着した。 9月2日、榎本、ブリュネ、カズヌーブはでに謁見する。 翌日以降、の軍議に参加する が、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日に仙台藩も降伏を決定した。 これを知った榎本とは登城し、執政・とに面会し、翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた。 旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、を艦隊に加え、桑名藩主・、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣の、、仙台藩を脱藩したなど、計約3,000名を収容。 新政府軍の仙台入城を受けて、10月9日に仙台を出航し石巻へ移動した。 このとき、新政府軍・口総督宛てに旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出している。 10月11日には横浜在住のアメリカ人で総領事であったから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている。 その後、幕府が仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪われ海賊行為を行っていたをで拿捕し、で補給の後、蝦夷地へ向かった。 箱館戦争 [ ] 五稜郭 蝦夷地に着いた旧幕府軍は、10月20日に箱館の北、に面する鷲ノ木(現在の)に上陸した。 二手に分かれて箱館へ進撃、各地で新政府軍を撃破し、10月26日にを占領、榎本は11月1日に五稜郭に入城した。 その後、を攻撃するが、開陽丸を攻略に投入した際、座礁により喪失する。 12月15日、蝦夷地平定を宣言し、士官以上のにより総裁となった。 この間、とは状況把握と自国民保護のため軍艦を箱館に派遣、榎本は11月8日に両国の艦長および在箱館領事と会談した。 イギリス公使とフランス公使(Maxime Outrey)は、旧幕府軍を「」として認めず、日本の内戦には「中立」ではなく「不干渉」とするという訓示を出していた。 しかし艦長らは口頭で英仏両国の意思を伝えたものの、榎本らから文書にして欲しいと求められ、翌日、「厳正中立を遵守する、旧幕府軍については英仏国民の生命・財産・貿易保護のためにのみ限定して『 事実上の政権( Authorities de facto)』として承認する」という、先の訓示とは異なる内容の覚書を手渡した。 それを知ったパークスらは、この覚書を否認する文書を作成し11月30日に旧幕府軍へ渡したが、榎本らは事実上の政権として認められたと「喧伝」した。 また、榎本は12月1日に新政府宛の嘆願書を英仏の艦長に託すが、12月14日、新政府に拒絶される。 12月18日、局外中立を宣言していたアメリカが新政府支持を表明。 幕府が買い付けたものの戊辰戦争の勃発に伴い引渡未了だった・が、翌1869年(明治2年)1月、新政府に引き渡された。 旧幕府軍は状況を打破すべく、3月25日早朝、宮古湾に停泊中の甲鉄を奇襲し、(アボルダージュ)で奪取する作戦を実行するが失敗に終わる()。 4月9日、新政府軍は蝦夷地・に上陸し、旧幕府軍は5月初めには箱館周辺に追い詰められた。 5月8日早朝、榎本自ら全軍を率いて大川(現在の)の新政府軍本陣を攻撃するが撃退される。 新政府軍は5月11日の総攻撃で箱館市街を制圧した後、箱館病院長・の仲介で五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告の使者を送る が、5月14日、榎本らは拒否。 榎本は拒否の回答状とともに、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた『』が戦火で失われるのを避けるため新政府軍海軍参謀に贈った。 これに対して新政府軍は海軍参謀名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容の書状 と酒と肴を送っている。 5月15日にが降伏し、16日にが陥落すると、同日夜、榎本は責任を取り自刃しようとするが、近習のに制止された。 17日、榎本ら旧幕府軍幹部は近くの民家でらと会見し降伏約定を取り決め、18日朝、亀田の屯所に出頭し降伏した。 投獄 [ ] 榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左) 榎本ら旧幕府軍幹部は、兵の護衛の下、5月21日に箱館を出発し、東京へ護送された。 6月30日に到着し、辰ノ口(現在の1丁目)にあった糾問所の牢獄 に収監。 榎本らは一般の罪人と同じ牢獄に一人ずつ入れられ、それぞれ牢名主となった。 政府内では榎本らの処置に関して対立があり、ら長州閥が厳罰を求めた一方、榎本の才能を評価していた黒田清隆、福沢諭吉らが助命を主張。 糾問正・らによりフランス軍人の参加とに関する尋問が行われた 以外、何も動きがないまま拘禁が続いた。 後年榎本を批判するも助命活動を行っている。 榎本の母と福澤の妻は遠縁ながら本人同士はさほど面識がなかったが、榎本の妹婿であり福澤の元上司であった元・から榎本の状況把握を依頼された福澤は糾問所に掛け合っている。 そして、静岡にいた榎本の母と姉を江戸に呼び寄せ、榎本の母のために面会請願文を代筆した。 なお福澤から化学の本を借りているが、日本一の化学者だと自負していた榎本は家族への手紙に、福澤の本は幼稚なもので、大勢の弟子を抱える福澤も大したことが無いと書き残している。 獄中では、洋書などの差し入れを受け読書に勤しみ、執筆や牢内の少年に漢学や洋学を教えたりしていた。 また、兄の家計を助けるため、や、など様々な物の製造法を手紙で詳細に教えている。 開拓使 [ ] 榎本農場跡(江別市)の騎馬像。 (北海道産馬)をモデルにしているため、馬が小さめになっている。 (明治5年)1月6日、特赦により出獄、親類宅で謹慎する。 3月6日に放免となり、同月8日、黒田が次官を務めていたに四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。 5月末、らとともに海路北海道に向かう。 翌月から函館周辺を手始めに日高、十勝、釧路方面の資源調査を行い帰京。 石炭隗を開拓使に持ち込んだ札幌在住のの情報を元にに関心を示す。 (明治6年)1月、中判官に昇進。 同年1月から3月にかけ、東京ので黒田・榎本・ケプロンは地質調査方針策定のために三者会談を行う。 榎本は調査を進めるため、黒田がアメリカから招聘したとともに来道したが、ケプロンに更迭されていたを再登用しようとした。 しかし、別途、に地質調査を行わせていたケプロンに反対される。 同年夏、榎本は再度北海道に行き、(現在の)の石炭山を調査した後、に入りを発見、良質な炭層であると分析結果を出した。 しかしケプロンは、榎本の調査結果を認めず、「未熟の輩」と誹謗した。 が制定されると、1873年、早川長十郎に案内された沿いの(ついしかり。 現在の)の土地10万坪、それと小樽(現在の周辺)の土地20万坪を北垣国道とともに払い下げを受けた。 対雁には「榎本農場」を開き 、小樽は「北辰社」 を設立し土地を管理した。 駐露特命全権公使 [ ] 「」も参照 との樺太の国境画定交渉と、がすることとなったに対処するため、駐露に決まったが10月に病死。 榎本が代役として(明治7年)1月10日の閣議で領土交渉使節に決定し、18日、駐露特命全権公使に任命された。 併せて1月14日、日本最初のに任命された。 同年3月10日に横浜を出発、パリ・オランダ・ベルリンを経て、6月に着任。 6月18日、アレクサンドル2世に謁見し、20日には軍港を視察した。 領土交渉については、交際の広いポンペを日本公使館付属医師の名目で顧問に招きロシアの内部情報を探り 、ロシア外務省アジア局長 ()との交渉の末、(明治8年)5月7日、外務大臣とを締結した。 また、マリア・ルス号事件は同年6月13日、アレクサンドル2世の裁定が下り、日本が勝訴した。 その後、同年8月から9月にかけて西欧を視察。 ドイツでクルップの工場と鉱山を見学した後、パリ、ロンドンを訪問した。 またロシア滞在中、幕末の遣日使節であったらと親睦を深めた。 シベリア横断 [ ] (明治11年)7月26日、サンクトペテルブルクを出発し帰国の途に向かう。 榎本は当時日本に広まっていた「恐露病」を克服するため、ロシアの実情を知ることを目的にを横断した。 を経てまで鉄道で行った後、船と馬車を乗り継ぎ、9月29日にに到着。 そこで黒田清隆が手配していた汽船・函館丸に乗船し、10月4日小樽に帰着。 札幌滞在の後、10月21日に帰京した。 このとき、とともに小樽の手宮洞窟にあるを調査し報告している。 帰国後 [ ] (明治12年)2月12日、条約改正御取調御用掛を命じられ、同年9月10日に外務省二等出仕、11月6日に外務大輔となる。 さらに11月18日、を兼任した。 (明治13年)2月28日、海軍卿に就任。 海上法規であるを作成する が、海軍人事に介入したため薩摩出身者の怒りを買い 、(明治14年)4月7日、海軍卿を免ぜられ 、同年予備役へ退いた。 当時、政府はの建設を計画しており、榎本は公使時代のロシア宮廷での経験を買われ 、1881年5月7日に皇居造営御用掛、翌(明治15年)5月27日、皇居造営事務副総裁 に就任。 このときから、皇室との関係が他の顕官に比べてより深いものとなった。 同年8月12日、駐特命全権公使となり、妻子を連れてへ赴任。 (明治16年)末にとで会談、親交を深める。 (明治17年)にでが発生すると、日本側全権のを支え李鴻章と度々会談し、締結に貢献した。 (明治18年)10月、清国駐在を免ぜられ帰国した。 大臣を歴任 [ ] 逓信大臣 [ ] 1885年12月22日、内閣制度が発足。 の逓信大臣に就任する。 (明治20年)5月24日、勲功をもってに叙される。 (明治21年)4月30日にが誕生すると、逓信大臣に留任するとともに、それまで黒田が務めていた農商務大臣をが後任となる7月25日まで臨時兼任した。 同年、を設立、初代会長となる。 文部大臣 [ ] (明治22年)2月11日の発布式では儀典掛長を務めた。 同日暗殺された文部大臣・の後任として、3月22日、逓信大臣から文部大臣へ横滑りする。 で留任し、の希望であった策定を命じられる。 大臣親任式で天皇から特に希望されたにもかかわらず、積極的に取り組まなかった。 そのため(明治23年)2月の地方官会議で知事たちから突き上げられ、5月17日に更迭 、となった。 また、同年開催されたの副総裁を務めた。 育英黌農業科の開校 [ ] 東京農業大学開校の地(東京都飯田橋) 1885年、榎本とらが中心となり、旧幕臣の子弟に対する支給のため徳川育英会を設立。 この徳川育英会を母体に、(明治24年)3月6日、東京・に「育英黌」を設立し管理長に就任した(校長は)。 育英黌は、農業科(現在の)、商業科、普通科の3科があった が、の飯田橋延伸に伴う敷地の買収話が持ち上がり、農業科は翌1892年10月23日、大塚窪町(現在の大塚三丁目)に移転し、育英黌分黌農業科と改称した(校長は伊庭想太郎)。 更に1893年、私立東京農学校と改称し、榎本は校主となった(校長は伊庭)。 1894年に徳川育英会から独立した が、毎年の入学者が50人を超えず 生徒が集まらない状況に榎本は廃校を決意。 しかし農学校の評議員であったが反対し運営を引き継ぐ。 榎本は手を引き、(明治30年)、農学校はに移管された。 外務大臣 [ ] 1891年5月11日にが発生すると、榎本は、5月15日、ロシアへの謝罪使節・の随行員を命じられた が、17日にロシア公使が使節派遣は不要と表明したことから中止となる。 但し外務大臣・が引責辞任すると、5月29日、榎本が後任に任命され 、義弟のを次官とした。 青木が取り組んでいた交渉を継続し、(明治25年)4月12日、条約改正案調査委員会を立ち上げ 、同年、が経費削減のため総領事を廃止したのを機に同国のを撤廃した。 また、以前から私的に取り組んでいた海外殖民を政策として進めた(の項を参照)。 1892年8月8日、総辞職に伴い外務大臣を辞任、枢密顧問官となる。 農商務大臣 [ ] (明治27年)1月22日、の農商務大臣に就任する。 当時、日本は鉄鋼需要の大半を輸入に依存しており 、政府は新たに製鉄所(後の)の建設を計画していた。 製鉄所は民営とすることで1893年に閣議決定していたが、榎本は大臣に就任すると官営を主張し先の閣議決定を覆した。 (明治29年)、製鉄所建設の予算が成立し、3月29日に製鉄所官制が公布。 榎本は製鉄所初代長官に腹心の山内堤雲を就けた。 なお、によるの設立((明治30年))を後援している。 足尾鉱毒事件 [ ] 「」も参照 かねてよりの鉱毒被害は問題となっており、(明治28年)には、知事・と知事・は連名で政府に足尾銅山に関する要望書を提出するが、榎本はこれを放置。 1896年9月の大洪水で鉱毒被害が拡大・激化。 翌1897年2月、が国会で鉱業停止を命じない理由の回答を求める質問書を提出し、政府の取り組みを非難する演説を行った。 これに勢いづいた被害農民は1千名を超える陳情団(第1回大挙東京押出し)を上京させ、榎本は3月5日、被害農民と面談した。 3月18日、先の田中の質問に対して、政府は榎本と内務大臣・の連名で、「示談契約は古河鉱業と被害農民の民事上の問題であり政府は関与しない。 鉱業停止も鉱業条例に適合するか断言できない。 但し政府は黙視していたわけではない」という回答書を出した が、この回答は被害農民の反発を招き、第2回大挙東京押出しを引き起こす。 3月23日、榎本はやの助言を受け入れ、津田の案内で現地を視察。 同日夜、に相談し、24日に鉱毒調査委員会を設置した。 27日に再度陳情団と面談 の後、29日に大臣を引責辞任、を受ける。 なお辞表では「脳症に罹り激務に耐えがたい」ことを辞任理由としている。 メキシコ殖民 [ ] メキシコにおけるエスクイントラの位置 榎本は長年、海外殖民への関心を抱き、駐露特命全権公使時代には、に日本領が確定したばかりのへ罪人を移住させたり、スペイン領のとを購入し、更にの一部となどを日本領として、それらを拠点に貿易事業を推進することを建言していた。 1879年、らとを立ち上げ、とニューギニア島を買収し、日本人を移住させることを発案する。 1891年、外務大臣に就任すると「移民課」を新設し 、ニューギニア島やなどに外務省職員や移住専門家を派遣し、植民地建設の可能性を調査させた。 そこへからメキシコ政府が開発のため外資と移民を歓迎している話が入り、在米特命全権公使のにメキシコ殖民の可能性を調査させた。 建野がメキシコの地代は安く日本の農民を送って事業を興せば莫大な利益が得られるとの報告を上げると、榎本はメキシコ殖民に傾き、早速、メキシコに中南米初の領事館を開設した。 外務大臣辞任後の(明治26年)、榎本が会長となりを設立。 をメキシコに派遣し、生産が期待できるという報告を受けた。 続いて、アメリカ留学帰りのをメキシコ南部のへ派遣し、 ()が入植に最適との報告を受けた。 殖民団の資金集めのため、の墨国移住組合設立に続き、12月、榎本が社長となり日墨拓殖株式会社を設立したが、1株50円で4,000株、20万円の資本金を集める計画に対し、1,919株しか売れなかった。 榎本は資金調達が不調であるにもかかわらず、1897年1月、メキシコ政府とエスクイントラ官有地払下げ契約を締結。 3月24日、36名の殖民団が横浜を出発した。 殖民団は5月19日にエスクイントラに到着する が、が蔓延したことに加えて、に入っていたための伐採が進まず、入手したコーヒー苗も現地の環境に合わないものであったことなどで資金が尽き、逃亡者が発生して僅か3ヶ月で殖民地は崩壊した。 榎本は(明治33年)、事業を殖民協会会員で代議士のに譲渡し手を引いた。 晩年 [ ] 榎本武揚の墓(吉祥寺) (明治31年)、富山県で発見された隕石から製作させた・「」をに献上。 流星刀の製造技術を論文『流星刀記事』として発表した。 また同年、の初代会長となる。 、盟友・黒田清隆が死去した際、葬儀委員長を務めた。 1905年(明治38年)10月19日、海軍中将を退役となる。 1908年(明治41年)7月から病気となり、10月26日 、腎臓病で死去。 享年73。 同月30日、海軍葬が行われた。 墓所は東京都のにある。 栄典 [ ] 位階• 明治5年 -• 1874年(明治 07年)2月18日 -• 1880年(明治13年)5月24日 -• 1886年(明治19年)10月19日 -• 1896年(明治29年)10月10日 - 勲章等• 1878年(明治11年)2月6日 -• 1886年(明治19年)3月11日 -• 1887年(明治20年)5月24日 -• 1889年(明治22年)11月25日 -• 1890年(明治23年)10月11日 -• 1905年(明治38年)1月20日 -• 1908年(明治41年)10月26日 - 外国勲章佩用允許• 1878年(明治11年)11月24日 - :神聖スタニスラフ第一等勲章()• 1879年(明治12年)12月3日 - :マウリシオエラツァーロ勲章グランオブヒシアル• 1881年(明治14年)7月29日 - :オンエチエソレール第一等勲章• 1884年(明治17年)5月15日 - :二等第一双竜宝星• 1887年(明治20年)10月3日 - :サンベノァダウィ勲章コマンデール• 1888年(明治21年)1月28日 - ロシア帝国:神聖アンナ第一等勲章()• 1892年(明治25年)• 3月14日 - :カラカウワ勲章ナイトグランドクロス• 6月29日 - ロシア帝国:白鷲大綬章()• 1893年(明治26年)6月21日 - :龍星第一等勲章• 1894年(明治27年)3月7日 - オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章 人物 [ ] 榎本武揚像(墨田区梅若公園) に「の代表的人物 」と評されたように、執着心に乏しく野暮が嫌いで、正直で義理堅く、涙もろい人間であった。 親交のあったの孫を引き取り学校に通わせたり、困っている人がいれば気軽に金を貸していたが 、林董は「一度人を信用すれば何でも信じてしまうため、友達としては最高だが、仕事仲間としては困る人だ」と評している。 投獄されていた際、市井無頼の徒と交流したこともあり、気軽で無頓着、やなど粋な趣味を持った。 晩年も力士を座敷に招いて相撲を取らしたり、を玄関先に呼び入れたりしていた。 酒豪で日本酒を「米の水」と呼んでいた。 洒落っ気があり、戊辰戦争のときの心境について明治になってから聞かれた際、「今ならあんな幼稚なことはしないが、帰国したばかりで良く判らなかったし、長州人といっても当時はどこの馬の骨だか判らないので抵抗してみた」ととぼけている。 また投獄中、重罪人であるにも関わらず、当時の政府を批判する「ないない節」という戯れ歌を作っていた。 堂上たちには腹がない にはしまりがない の者にはいくぢがない そこでなんにもしまらない 今度のご処置はたわいない 官軍朝敵差別ない 死んだ者には口がない 攘夷々々ととめどない 開港してもしまりない 大蔵省には金がない 弾正無茶には仕様がない することなすことわけがない 所々の恋女はつまらない 盗人年中たえがない 世上安堵の暇がない そこで万民命がない とんと日本もおさまらない ないない節 一くだり 榎本武揚酔墨 に屋敷を構えていた榎本はを気に入り、晩年、朝夕の散歩がてら訪れては四季の草花を眺めていた。 植物、特に外国の花については非常に博識で、百花園の主人に教えていたこともあるという。 また、将軍家のために造られた御成座敷で酒を飲むのを好んでいた。 園内には俳人・の「闇の夜や誰れをあるじの隅田川」という句碑があるが、榎本はこれを見て、拙い句だとして「朧夜や誰れを主(あるじ)と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直している(燗酒の歌)。 政治家としては、実務的大臣を歴任し「明治最良の官僚」と評され 、明治天皇からも信頼を得て、大津事件の謝罪使節派遣に際しては一旦辞退したものの、天皇・皇后から役目を受けるよう御諚を賜っている。 しかし一方で、幕臣ながら薩長の政府に仕えた「帰化族の親玉 」や、藩閥政治の中で名ばかりの「伴食大臣」という批判も受けた。 瘦我慢の説 [ ] 榎本を大々的に批判した人物に、福澤諭吉がいる。 1887年、榎本はらとともに清水・に咸臨丸の慰霊碑を建て、列伝の一節「食人之食者死人之事(人から恩を受けた者は、その人のために死ぬ)」を碑に記した。 1890年、清見寺を訪れた際に碑を見て憤慨した福澤は、翌年、「幕府の高官でありながら新政府に仕えとなった榎本と勝海舟は、本来徳川家に殉じて隠棲すべきであった」と批判する『 』を書いた。 福澤は榎本と勝に本書を送り意見を求めたが、当時、外務大臣であった榎本は、「多忙につき、そのうち返答する」という返事を出した。 瘠我慢の説は1900年(明治33年)12月、世間に公表されたが、翌年2月に福澤が死去し、榎本は返答しないまま終わった。 逸話 [ ]• オランダ留学中にを学び、帰国時にフランス製のディニエ電信機を持ち帰った。 箱館戦争で倉庫に預けたまま失われていたが、明治に入り、が古道具屋で購入した。 榎本が電気学会会長であった1888年に電気学会講演会の場で紹介され、偶然にも再会することとなった。 この電信機は現在、に収蔵されている。 逓信大臣のとき、の「徽章()」を決定。 1887年2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示した が、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」 と変更した。 その事情として、徽章が万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明したため、榎本が「Tに棒を一本加えて「」にしたらどうだ」と提案し、変更したという説がある。 郵便記号誕生に関する諸説のうちのひとつ。 徳川慶喜がとなったとき(1902年)、旧幕臣が集まり祝宴を開いた。 その際、慶喜一家とともに榎本も加わって写真を撮ることになったが、榎本は主君と一緒の写真など失礼なことはできないとして遠慮している。 系譜・親族 [ ] 榎本家の先祖はから武蔵国へ移り住んだであり、江戸時代は代々御徒士として仕えた家柄であった。 は丸に梅鉢。 父:((2年) - 1860年(万延元年)8月6日 ) 旧名は 箱田真与(しんよ)、通称・ 良助、源三郎。 榎本家に入婿した後の通称は円兵衛、左太夫。 箱田村(現広島県箱田)の庄屋・の次男。 の廉塾に学び、数学を得意としていた。 17歳の時、江戸に上り、兄・右忠太(うちゅうた)とともにの弟子になる。 1809年(文化6年)の第1回九州測量以降、実測に随伴し、の作成に貢献した。 伊能の死後、1818年(元年) に御家人の榎本家の株を買い、の娘みつと結婚して婿養子となり、武規と名乗る。 1826年(文政6年)12月1日、に出仕。 1833年(天保4年)7月23日に西丸御徒目付、1840年(天保11年)5月17日に右大将御付、同年8月8日に本丸勤務、1844年(元年)に勘定となり、1846年(弘化3年)に小普請入りとなった。 母:琴(? - 1871年(明治4年)8月26日 ) 武規の後妻。 一橋家馬預・の娘。 妻:たつ(多津、1852年(嘉永5年)6月1日 - 1892年(明治25年)8月2日 ) とつる(の長女)の長女で、の妹。 妹に赤松則良の妻となった貞、弟にの養子となった、母方の叔父に、および林洞海の養子となり弟となった林董、叔母に(山内提雲の兄)の妻となったふさがいる。 長男:(1873年(明治6年)1月1日 - 1924年(大正13年)11月6日 ) 幼名・金八。 黒田清隆の長女・梅子(1882年(明治15年)1月24日 - 1934年(昭和9年)2月26日 )と結婚。 2人の娘・千代子(1905年(明治38年)1月5日 - 1969年(昭和44年)11月7日 )は、黒田清隆の養子・に嫁いでいる。 1908年(明治41年)11月10日に子爵位を継承、貴族院議員。 客員教授のは武憲の孫。 長女:きぬ - 幼少時に死亡。 次男:(1880年(明治13年)1月20日 - 1966年(昭和41年)6月21日 )• 三男:(1883年(明治16年)11月8日 - 1954年(昭和29年)11月25日 )• 次女:不二子 - に嫁ぐ。 三女:多賀子 - 幼少時に死亡。 長姉:端清 - 母は武規の最初の妻・みつ。 御徒・に嫁ぐ。 次姉:らく(観月院) - 鷹匠・に嫁ぐが若くして未亡人となる。 武揚が慕っていた。 兄:(與)(たけとも、1832年(天保3年) - 1900年(明治33年)7月13日 ) 幼名・鍋太郎。 通称・勇之丞。 大番格歩兵指図役を務めた。 妹:歌 - 目付、外国奉行等を歴任したに嫁ぐ。 著作 [ ]• 『渡蘭日記』 オランダ留学時のからまでの日記。 同島で榎本が破棄しようとしたものを澤太郎左衛門が貰い受けた。 『獄中詩』 投獄中の日記。 『開成雑爼』 投獄中に執筆した、油、石鹸、蝋燭などの製造法を記した書。 『北海道巡回日記』 開拓使で北海道の資源調査を行った際の記録。 『西比利亜日記』 シベリア横断時の日記。 大小の冊子2冊に記された。 長らく存在は知られていなかったが、で倒壊した榎本の屋敷を整理していた同家の執事・(の孫)が1935年(昭和10年)、武揚の次男・に見せ、世間に明らかになった。 1939年(昭和14年)、により出版された。 『記事』 翻訳 [ ]• 『朝鮮事情』 フランス人著『朝鮮教会史』のうち国内事情を記した序論を、駐露特命全権公使時代にポンペとともに翻訳。 『千島誌』 ロシア人・(A. Polonsky)の著作を駐露特命全権公使時代に・らと翻訳。 1845年に初版が発行され、榎本留学中の1864年に第4版が出版されている。 上下2冊で構成され、第1冊は総論、序論と平時法規、第2冊は戦争状態を扱っている。 日本では、1899年(明治22年)に海軍参謀本部により『海上国際条規』として和訳された。 榎本が所持していた「本」は、化学の師であるハーグ大学教授が蘭訳し自筆筆写したもので、オランダ語で"Diplomatie der Zee"(「海の外交」)という題名が付けられていた。 なおオルトランの原書の完全訳ではなく、榎本用に内容を取捨かつ判りやすくしたものであり、後に榎本により原書と対比した書き込みがなされている。 箱館戦争の際に榎本から受け取った黒田清隆は、維新後、本書を海軍省に納めたが、榎本は海軍卿時代に本書を海軍省の書庫で発見し、再び自分の蔵書とした。 その後、孫・武英が1916年(大正5年)にに献上、現在はに保管されている。 なお、榎本の投獄中に福沢諭吉が本書の翻訳を依頼されている。 福澤は本書の序文4-5頁だけ翻訳して、これは貴重な本だが講義録であるから講義を聞いた本人でなければ判らないとして、暗に榎本の助命を求めていた。 榎本武揚を題材とする作品 [ ] 文学作品• 『』(1964年。 長編小説と戯曲がある。 舞台では、らが演じた)• 『かまさん』• 『武揚伝』• 『生きゆきて峠あり』• 『航-榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』• 『小説 榎本武揚』• 『榎本武揚シベリア外伝』 テレビドラマ• 『』(1980年、、演:)• 『』(1988年、、演:)• 『』(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:)• 『』(2004年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(2006年、、演:) ゆかりの地 [ ] 北海道江別市工栄町 1873年(明治6年)に10万坪の払下げを受けて造った「榎本農場」の跡地に整備された。 作の銅像がある。 北海道小樽市3丁目 榎本が北垣国道と共同で払下げを受けた地所の一角に建立された。 榎本の銅像がある。 梁川公園 北海道函館市梁川町 榎本の銅像がある。 なお、函館市には榎本町、梁川町と由来する町名が2つある。 梅若公園 東京都2丁目 である都営白鬚東アパートの一角にある。 元は榎本がよく散策していたがあった場所であり、1913年(大正2年)に建てられた榎本の銅像がある。 兄・鍋太郎()とともに、とがあれば食うには困らないという意味で名づけられた。 出生地である「柳川横町(近所に邸があった)」にちなむ。 但し柳川ではに通ずるため、梁川としたとされる。 本名・村瀬誨輔。 幕臣、儒者。 外交官・の父。 「甲」「乙」は名前が公表されるが、榎本の名前が無かったことから、「丙」とみられている。 榎本は入学願を出したが却下され、昌平黌の学友・の父である大目付・に頼み込み、伝習所頭取となった勤吾の同行者として入学を許された。 なお赤松則良は、榎本は矢田堀景蔵の従者扱いで員外の者として講義を受けていた、と記している。 カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』「榎本釜次郎氏のごとき、その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来一介の火夫、鍛冶工および機関部員として働いているというがごときは、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。 これは何よりも、この純真にして、快活なる青年を一見すれば、すぐに判る。 彼が企画的な人物であることは、彼が北緯59度の地点まで北の旅行をした時に実証した。 同行のオランダ軍士官から洋服ではインド人と間違われる可能性があると指摘され、打裂(ぶっさき)羽織・裁付(たっつけ)袴に二刀差しの姿で観戦した。 当時、榎本はに屋敷があったことから、和泉守としたといわれる。 榎本は大坂城への登城途中に、負傷兵を保護していた公使から、負傷兵の面倒を見ることを要請されている。 うち3万両は榎本に下賜され、オランダに残った留学生(、林研海、赤松則良)の滞在費に充てられた。 「軍艦・銃砲を引渡し、追ってふさわしく(相当)差し返すこと」と定められていた。 新政府は榎本の脱走を忠義によるものと賞して、開陽ほかを榎本に預けたままとした。 回答状の追伸にある『海律全書』の贈答に関する部分は以下の通り。 「別本二冊、釜次郎和蘭留学中、苦学致候海律、皇国無二の書に候へば、兵火に付し、烏有と相成候段痛惜致候間、「ドクトル(注:高松凌雲のこと)」より海軍「アドミラル」へ御贈可被下候」。 なお、陸海軍参謀のや海軍参謀のではなく、交渉相手であった陸軍参謀・黒田清隆が本を受け取った。 糾問所の建物は幕府の大手前歩兵屯所として使用されていたものであり、牢獄は大鳥圭介が歩兵頭のときに歩兵取締のため建てられた。 黒田は箱館総攻撃直前の時点で既に、知人宛の手紙で「榎本は得難き非常の人物で驚かない者はなく、彼と生死を共にすべしと一同が奮発している」と記し、増田虎之助、とともに敵が降伏してきたら助命しようと約していた。 このとき榎本は薩長が支配する政府に仕えることに難色を示したが、大鳥圭介らが薩長ではなく朝廷に仕えるのだといって榎本に仕官を促した。 開墾の際、樹木に火薬を付けて爆破する「爆破開墾」を行っている。 なお、榎本農場は(大正7年)、長男・により小作人に解放された。 北辰社は土地管理のほか、東京・飯田橋から九段にかけての土地で牧場を経営していた。 当時の外交慣例で公使の方が交渉上有利と判断されたためで、の建言によるものといわれる。 総裁は。 このとき、榎本は山縣に「自分を罷免するのは、職務不十分なためか、それとも閣内人事の事情からか」と質したのに対し、山縣は後者だと言い放ち、榎本が憤慨している。 移民課長(兼通商局長)は。 移民課は榎本の大臣退任後の1893年、通商局長・の主張により廃止された。 官報では10月27日薨去。 榎本家に入婿したのは1822年(文政5年)との説もある。 近代日本の万能人・榎本武揚, p. 331によれば明治41年 1908年 となっているが、これは「昭和41年」の誤記と判断される。 榎本隆充編「榎本武揚未公開書簡集」p225、榎本家家系図(2003)による。 海軍大佐。 フランスの法学者の弟。 出典 [ ]• , p. , p. , p. 210. , pp. 136-137. 「」『漢字文化研究』第7巻、2017年、 21-41頁。 、32-33p• コトバンク. 2015年8月13日閲覧。 , p. 141-143• , pp. 1-4. , p. , p. , p. カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』水田信利・訳、平凡社〈東洋文庫 26〉、1964年、85頁。 , p. , pp. 91,94. , p. , pp. 95-100. , pp. 118-120. , pp. 123-124. 『赤松則良半生記』編、平凡社〈東洋文庫 317〉、1977年、177頁。 , pp. 176-184• , p. , 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