かたくな る 合戦。 加治木くも合戦

ドリームメール合戦

かたくな る 合戦

敵味方の両軍が軍場 いくさば (戦場)に出合って戦闘を交えること。 合戦の語は、すでに『将門記 しょうもんき 』にみえるが、戦闘の規模や方式は、武器・武具の発達や時代の進展に伴って大きな変化を遂げた。 古代軍団制時代の戦闘法は、剣矛弓箭 きゅうせん を携行する兵士らの歩兵密集戦法が主体で、一部に騎兵や弩手 どしゅ が配備された。 8世紀末、騎兵制の健児 こんでい が設置されたが、平安中期以降、律令制 りつりょうせい の崩壊とともに有名無実となり、やがて、兵馬の権は武士階級の掌握することとなる。 11世紀のなかば、前九年、後三年の両役に騎馬に優れた東国の武士が活躍し、さらに12世紀の中ごろ、保元 ほうげん ・平治 へいじ の乱を経て、源平合戦の時代には、騎射戦中心の時代に入った。 当時の戦いは、騎士相互の個人戦が主体で、敵味方が対陣して、まず鬨 とき の声をあげ、ついで主将が名のりをあげ、鏑矢 かぶらや の応酬によって矢戦を開始し、ころあいをみて一騎駆けでよき相手をみつけ、射合って相手を射落とすか、馬上の太刀 たち 打ちから組打ちに転じ、敵の首級をあげることを武士の名誉とした。 しかし一部では、木曽義仲 きそよしなか の倶利伽羅 くりから 峠の戦いや、源義経 よしつね の鵯 ひよどり 越えの戦いなど、騎馬の集団的機動力を活用した例もみられた。 [渡邉一郎] 元寇以降鎌倉中期、1274年(文永11)の元寇 げんこう に際し、西国の武士は伝統的な懸合 かけあ い戦法でこれに対抗しようとしたが、蒙古 もうこ 軍の集団戦術の前に、人馬ともに大打撃を受けた。 この経験を通して、鎌倉末期から南北朝の動乱期には、これまで補助的な戦闘員であった所従 しょじゅう ・下人 げにん らに長刀 なぎなた 、槍 やり などの武器を持たせた徒歩兵の集団戦法も登場し、戦闘は一段と激烈な様相を示すようになった。 また腹巻一つの軽武装で機敏に行動する足軽が出現し、その機動性が注目された。 さらに、室町中期、10年余にわたった応仁 おうにん ・文明 ぶんめい の乱(1467~77)では、戦闘の長期化とともに兵員が不足し、あぶれ者や野伏、近世の郷士らを大量に動員し、長柄 ながえ 槍を持たせて、槍衾 やりぶすま をつくって突撃させたり、ゲリラ行動で後方を攪乱 かくらん させるなど、足軽歩兵の集団攻撃が決勝要因の一つに数えられるまでになった。 戦国時代に入ると戦闘法はいっそう多様化し、めまぐるしい変化を遂げたが、三大奇襲作戦といわれる16世紀前中期の北条氏康 うじやす の川越 かわごえ の夜戦、毛利元就 もうりもとなり の厳島 いつくしま の戦い、織田信長の桶狭間 おけはざま の戦いは、それぞれ戦国大名としての地位を決定づける重要な一戦となった。 [渡邉一郎] 鉄砲の伝来戦国時代の中心武器は、まず前代以来の槍が多用されたが、1543年(天文12)鉄砲が種子島 たねがしま に伝来すると、諸大名は競ってその獲得に努め、1575年(天正3)織田信長の鉄砲足軽隊が長篠 ながしの の設楽原 しだらがはら の決戦で、武田勝頼 かつより の勇猛な騎兵隊に壊滅的な打撃を与えるや、一躍戦場の花形兵器となった。 この新兵器の普及は、軍隊組織と戦術および築城法の一大変革をもたらし、やがては信長、秀吉による天下統一事業を推進させる大きな力となった。 戦国末期から近世初頭にかけて諸大名の家臣団の統制と組織化は一段と進み、士卒の区分が明確化し、行軍(押 おし )の隊伍 たいご はそのまま戦場における陣立 じんだて になるように編制された。 こうして兵員および武器・兵糧の確保と隊伍の運用や駆け引きの巧拙が、全軍の勝敗に直結することとなり、戦時には領内あげての総動員体制がとられるようになった。 [渡邉一郎] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について の解説.

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国性爺合戦(こくせんやかっせん)とは

かたくな る 合戦

テレビ局あっての芸能人なわけですが、時にはやりすぎなどでトラブルとなり、そのまま出入り禁止となってしまうこともあります。 そんな、 テレビ局出入り禁止処分を受けてしまった芸能人特集です! サザンオールスターズ 82年、2度目の紅白歌合戦出場を果たしたサザンオールスターズ。 「 チャコの海岸物語」のイントロに乗って現れた 桑田佳祐さんは、 和服姿に白塗り顔で登場。 歌い方や振り、「神様です」の台詞まで三波春夫さんのモノマネを披露しました。 サザンの直前の白組歌手が三波さんであったこと、大物歌手を茶化しているとしか思えない過激演出は物議を醸し、 NHK出入り禁止状態になってしまいました。 一説によると、 コケにされた形の三波さんへの体裁を繕うため、NHK側が桑田さんに詫び状の提出を求めたといいます。 しかし、桑田さんは 「 詫び状を書くぐらいなら出ない」 と逆切れしたとか。 その後、 84年の紅白出場オファーをNHKが直前にキャンセルしたため、サザンはその後かたくなに紅白出場を拒否するようになったとの説も…。 土屋アンナ 08年、土屋さんはNHKのドキュメンタリー番組のロケ中に同行ディレクターに暴行を働いたと報じられました。 目を負傷したディレクターは病院へ直行し、撮影は即刻中止。 番組はお蔵入りとなり、土屋さんへのギャラは支払われないまま、土屋さんはNHK出禁状態に…。 視聴者から多数のクレームを受けたNHKは、 「 打ち合わせにはなかった」 と、責任をすべてOZMAさん側に押し付けました。 同局の 橋本元一会長も、年明けの定例記者会見において 「現状では(OZMAを)使いにくい状況」 と実質上の出禁通達。 対するOZMAさんは、自身のブログ上で 「 NHKには頭にきてた。 (番組チーフプロデューサーを)男だって信じてたのにな。 ばっくれてもいいことないよ」 と発言。 事前に打ち合わせがあったことをほのめかしています。 DJ OZMA公式ブログ該当記事『A HAPPY NEW YEAR!! 江頭2:50 01年7月30日の「 笑っていいとも!」で、 放送禁止寸前のキスシーンを演じたという江頭さん。 大物脚本家の 橋田壽賀子さんから 「 トルコに行ったら、あなたのせいで被害を受けた」 とクレームを受けた江頭さん。 すると江頭さん、 「 橋田ーっ、俺は昔からお前が好きだった!」 と絶叫。 それでも橋田さんがしゃべるのをやめないと、江頭さんはその口をふさぐかのように自分の唇をおしあてました。 橋田さんの激怒と視聴者からの苦情により、江頭さんにはいいとも出入り禁止の処分が下されました。 ちなみに、この時暴走する江頭さんを止めたのは、いまや芸能界全体から出禁になっている 極楽とんぼの 山本圭一さんだったとか。 やしきたかじん 92年、テレビ朝日の深夜番組『 M10』の料理コーナーで、打ち合わせでは用意することになっていた 味の素がないことに激怒。 番組スタッフや料理助手の服部栄養専門学校生徒に暴力を振るい、セットを次々破壊するなど大暴走。 この一件で、『M10』から降板したたかじんさん。 怒りの矛先は東京へと向き、 他の在京キー局ともすべて断絶。 いわば出禁状態となりました。 ちなみに、 いい宣伝となった味の素社からは、後日たかじんさんに1000本の味の素が送られたそうです。 大竹まこと 88年、日本テレビのバラエティ番組『 タモリのいたずら大全集』で、 山瀬まみさんの ショートパンツをカメラの前で引き裂いた大竹さん。 号泣しながら抗議する山瀬さんに逆切れした大竹さん、その後は セットを蹴り壊すなど大暴走しました。 山瀬さんとの共演NGも08年10月まで続いたといいます。 現在はもう山瀬さんとも日テレとも和解済みのようですね。 たまにはそういうのも小気味いいですけどね。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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合戦(カッセン)とは

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壮絶な最期を遂げた武将 壮絶な最期を遂げた武将 TOP3 戦国時代にはつきものの合戦。 すさまじい死に方で世を去った武将もたくさんいます。 ここでは壮絶な最期を遂げた武将たちの中から、特に3人を選んで紹介します。 第1位 高橋紹運 (たかはし じょううん) 正しくは高橋鎮種(しげたね)といい、居城の筑前岩屋城は太宰府天満宮の近くにある山城である。 彼の妹は大友宗麟の嫡子義統の妻で、したがって彼は大友一族の一人である。 メインページにも書いたが、紹運を語るとき忘れてはならないのが立花道雪と嫡子宗茂である。 道雪は当時の日本全国を見渡しても五本の指に入る(と私は思っている)名将である。 その道雪の一人娘に宗茂(当時は統虎といった)を入り婿させたわけだが、 ここに大友家の双璧とも言える二人を父に持つ立花統虎が誕生したのである。 嫡子を婿にと所望されたときはさすがの紹運も悩んだ。 しかし、大友家筆頭の名門立花家を断絶させるわけにもいかず、高橋と立花の両家で大友を最後まで支えようという道雪の私利私欲のない懇願の前に、ついに縁組みを承諾する。 しかし、世にいう耳川の合戦で島津軍に大敗を喫してからというもの、大友氏は衰退の一途へと向かっていた。 島津軍の攻勢は日に日に増大し、1586年についにその矛先が岩屋城へと向けられた。 島津軍の総数約五万。 これを紹運はなんと千にも満たない寡兵をもって迎えたのである。 家臣たちは口々に紹運に援軍を求めるよう迫ったが、紹運は頑として受け付けなかった。 少々の援軍などかえって相手の餌食になるだけの大軍なのである。 加えて島津軍は勇猛果敢で知られる薩摩の精鋭である。 そう、この時紹運はすでに玉砕を覚悟していたのである。 開城を勧告する島津の軍使に対しても紹運はかたくなに首を振り続けた。 かくして、壮絶な岩屋城攻めが始まった。 【Photo: 紹運激闘の地・岩屋城本丸跡。 太宰府市 】 五十倍以上の敵に一歩も引けを取らず、紹運は半月以上も持ちこたえた。 ある時は果敢に城を打って出、ある時は石や火矢を降り注ぎ、鉄砲玉を浴びせ、それこそ死にものぐるいの防戦抵抗であった。 しかし所詮は多勢に無勢の悲しさ。 とうとう城兵は一人残らず玉砕し、紹運も切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げた。 島津の兵たちは皆、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したという。 島津は勢いに乗って立花山城の統虎を攻めるが彼の強力な抵抗に遭い、奪取はできなかった。 そこへ宗麟からの援助要請を受けた秀吉の援軍が迫ってきたため、島津軍はとうとう退却する。 統虎はこれを追い、何と岩屋城まで取り戻したのである。 この功により統虎は秀吉から筑後柳川領主に抜擢され、これを機に名を宗茂と改めた。 凛々しい青年大名の誕生である。 紹運もこれにはきっと喜んでいたことだろう。 第2位 山県昌景 (やまがた まさかげ) 武田騎馬軍団最強といわれた「赤備え」(鎧甲や馬具などをすべて朱色に統一)で有名な彼は、武田家の重鎮飫富(おお)兵部虎昌の弟である。 「飫富(おお)」は「飯富(おぶ)」と書くものもある。 もともとは飫富源四郎と名乗っていたのだが、兄の虎昌が信玄の嫡子義信の謀反事件に加担した(虎昌が張本人とされている)罪で捕らえられ自害したことをきっかけに山県昌景を名乗った。 その後彼は順風満帆の昇進を果たし、武田家猛将筆頭にあげられるほどになるのだが、実際のところ彼はどのような風貌をしていたのだろうか。 彼は意外にも、非常に小男であった。 その上当時の言葉でクチスサミ(欠唇)であり、風采ははなはだ良くなかったらしい。 しかし信玄は人を外見だけで判断するようなちゃちな人間ではない。 昌景は信玄の期待通りに活躍した。 そして昌景の武名をさらに高める、徳川軍との三方ヶ原の戦いが起きる。 昌景は逃げる家康を浜松城まで追いつめた。 まさにあと一歩で家康の首を取れる状況であった。 しかし彼は引き返してしまうのである。 ここで私の脳裏に一つの光景が浮かぶ。 古く中国の三国時代、蜀の名軍師・諸葛亮孔明がこれも魏の名将・司馬懿仲達と戦ったとき、仲達は孔明の裏をかいて本城へ一直線に攻め寄せた。 守る兵はほとんどいない。 孔明は大手門を開放し、きれいに清掃させた上で高楼へ上り琴を弾じたという。 これを遠くから見て不気味に思った仲達は「敵は孔明、退くに如くはない」と退却していった。 いわゆる「高楼弾琴」である。 昌景はこのときの司馬懿仲達と同じような感覚を持ったのではなかったろうか。 どうも私にはそう思えてならない。 さて信玄が亡くなり勝頼の代になると彼は次第に遠ざけられていった。 かの長篠合戦時にも、信長との正面対決を回避するよう進言し続けた彼の言はついに採り上げられず、両軍は激突した。 結果は歴史が示すとおりであった。 彼は死を覚悟し(突撃直前に勝頼にそう告げている)無謀を覚悟で馬防柵めがけて突撃していった。 一斉射撃が起こる度に彼の周りがバタバタと倒れていく。 また一斉射撃が起こった。 彼は両腕に銃弾を受け采配不能になったが、死力をふりしぼって軍配を口にくわえて采配をふるった。 と、その時、彼にとって最後の一斉射撃が起こった。 頭に銃弾を受けた彼はどうと馬から転げ落ち、「赤備え」で敵を震え上がらせた武田家の名将が戦場の露と消えた。 【Photo: 長篠古戦場跡に再現された馬防柵の一部。 新城市 】 さぞ無念であったろう。 しかし先君信玄からもその死の際、意識朦朧とする中で「昌景、明日は瀬田に旗を立てよ」とまで信頼されていたという。 昌景、もって瞑すべし。 第3位 大谷吉継 (おおたに よしつぐ) 彼は元大友家の家臣だとする説もあるが、定かではない。 名前も「吉隆」が正しいらしいのだが、広く知られている「吉継」で書くことにする。 秀吉の小姓からスタートした彼は当時紀之介と名乗っていたが、親友の石田三成の推挙もあり、着々と昇進を重ねていった。 やがて彼は越前敦賀城主となり、その娘は真田幸村の室となる。 幸村も温厚堅実な義父吉継を非常に尊敬していた。 夫婦仲もよく、この時期が幸村にとって一番幸せな時期だったろう。 しかし、時代の流れが風雲急を告げた。 関ヶ原合戦の勃発である。 吉継は最初東軍 家康方 につくべく敦賀を出て大垣まで来たところ、そこへ三成からの加担要請の使者が来た。 前もって知らされていなかった彼は、「こんな重大事を水くさい」と思った。 しかし吉継には断れない理由があった。 ある時秀吉の前で諸将が居並び、茶を回し飲みした。 その頃すでに今で言うハンセン氏病に冒されていた吉継は、茶を飲もうとしたとき鼻汁を椀の中に落としてしまった。 それを見た諸将は気持ち悪がって飲んだふりだけして次々と椀を回していったところ、三成はそれを知っていたが何喰わぬ顔をして飲み干した。 この時吉継は、三成のためには全力で協力しようと心に誓ったという。 彼は三成の居城・佐和山城で色々説得を試みたが無駄であった。 「もはやこれまで」と、ついに吉継は三成軍に身を投じる決意をしたのである。 周知の通り、関ヶ原の戦いはあっけなく終わった。 彼の周りが皆一瞬のうちに寝返ったのである。 小早川秀秋の裏切りには「やはり」とばかりに驚かなかった吉継も、すぐ隣に陣する脇坂ら四将の裏切りには呆然としたことであろう。 この頃にはハンセン氏病も悪化して目も不自由になっていた彼は、輿に乗って奮戦したと伝えられる。 彼の家臣たちも必死で戦った。 しかし、所詮は無駄な抵抗であった。 大谷隊全滅。 吉継は輿の上で切腹し、家来の湯浅五助がその首を土中深く埋めたという。 「智将」と呼べる数少ないタイプの名将の最期であった。

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