詳細は「」を参照 日本レコード大賞は、大手レコード会社の寡占状態にあった戦後日本の音楽界を広く開放し、多ジャンルの中から新しい日本の歌を生み出してゆくという試みから生まれ、その推進力となったのはレコード会社所属の作曲家による親睦団体『』であった。 創設の経緯から音楽界の主流派に対する挑戦という意味合いが強く、レコード会社や大手メディアの協力が得られず、運営費の一部は実行委員長のの持ち出しで賄われた。 審査員は音楽ペンクラブから5名、NHKから3名、各放送局から1名、『』と『』の編集長、作曲家協会の会員代表であった。 審査員が1人1曲をエントリーし、12月14日の第一次予選で20曲、第二次予選で6曲まで候補が絞られた。 15日に6曲の中で決を採った結果、「黒い花びら」との「」の間で決選投票となり、「黒い花びら」が1票差で大賞に選出された。 フランクは歌唱賞を受賞、また新人の水原が大賞を受賞したため、新人賞は受賞者なしとなった。 後年、作曲家協会で理事長を務めていたが選考にまつわる裏話を披露しており、それによると審査の最中に「黒い花びら」を作曲したが作曲家協会に所属しておらず、ノミネートの基準を満たしていないことが発覚した。 そこで急遽、中村を加入させることにより体裁を整えたとのことである。 服部は「われわれとしては『黒い花びら』みたいな歌に第1回大賞を上げたかった」と語っており、受賞資格を緩和させてまで同曲を受賞させた経緯がうかがえる。 審査中も、「黒い花びら」はロカビリーだから外すべきだ、という意見が出て侃侃諤諤の議論になったことが明らかになっている。 結果として、受賞曲はロカビリーの「黒い花びら」、歌手はジャズ喫茶やキャバレーで下積みを積んだ水原弘、作曲はジャズマンから転身したフリーランスの中村八大、作詞は本職が放送作家の永六輔といういずれも本作デビューの3人という、音楽界の主流とは程遠い面子が第1回の大賞に輝いた。 ただし、レコード大賞自体は当時知名度が余りにもなく、受賞の報せを受けた水原は「レコード大賞? なんだい、そりゃあ」という言葉を残している。 中村は名古屋への演奏旅行の最中で「おめでとう、と言われても何だかわからなかった」という。 発表会は12月27日の午後3時からで行われ、ラジオ東京テレビ(KRT。 現:)で生中継された。 放送時間はわずか30分で、司会のアナウンサーの紹介と表彰、受賞曲の披露が淡々と進むだけの構成であった。 受賞曲は審査翌日に新聞に掲載されていたため演出上盛り上がる要素が皆無で、収容2000人の会場には観客は200人しか入らず、作曲賞を受賞した渡久地政信までが往来で客引きに駆り出されたという。 終了後の祝賀会は会場前の喫茶店の2階で行われ、一同紅茶とケーキで歓談したという。 司会 [ ]• 受賞作品・受賞者一 [ ] 日本レコード大賞 [ ]• 歌手:• 作詞:• 作曲:• 編曲: 歌唱賞 [ ]• 歌手: 作曲賞 [ ]• 「」(歌:)• 作曲: 作詩賞 [ ]• 「」(歌:)• 作曲: 童謡賞 [ ]• 「」(歌:と) TV中継スタッフ [ ]• プロデューサー:• 総合演出:• 舞台監督:• 編成担当:• 製作著作:• 主催:社団法人 日本作曲家協会、日本レコード大賞制定委員会、日本レコード大賞実行委員会 脚注 [ ].
次の第61回日本レコード大賞(日本作曲家協会など主催)の発表会が30日、東京都渋谷区の新国立劇場で開かれた。 同大賞は5人組小中学生ユニットのFoorin(フーリン)が「パプリカ」で初受賞。 史上最年少での受賞となった。 小学生のため、発表時にはすでに帰宅していたもえの(小6=11)は、安住紳一郎アナから受賞を告げられ、電話越しに「ありがとうございます。 すごくうれしいです。 本当に皆さんに感謝の気持でいっぱいです」と涙声で喜びを語った。 同曲はシンガー・ソングライター米津玄師が作詩、作曲、プロデュースを手掛けた。 メンバーはメインボーカルのひゅうが(中1=13)、もえの、コーラス&ダンスのたける(中1=13)、りりこ(小4=10)、ちせ(小3=9)。 「パプリカ」を歌い踊る5人の姿を、米津が「風鈴」に例えて命名。 photo• 芸能 山田涼介が刑事ドラマ主演 田中圭の「懐に入って」 []• ジャニーズ [6月15日 4:00]• 音楽 [6月15日 4:00]• 音楽 [6月15日 4:00]• 芸能 [6月15日 0:36]• 音楽 [6月14日 22:28]• AKB48 [6月14日 21:35]• 芸能 [6月14日 21:30]• 音楽 [6月14日 19:33]• ハリウッド [6月14日 19:26]• シネマ [6月14日 19:24]• AKB48 SKE3カ月ぶり劇場公演 SNS声援システム導入 []• AKB48 [6月14日 21:35]• AKB48 [6月13日 22:21]• AKB48 [6月13日 22:06]• AKB48 [6月13日 10:18]• AKB48 [6月11日 22:30]• AKB48 [6月11日 21:06]• AKB48 [6月8日 20:27]• AKB48 [6月8日 16:20]• AKB48 [6月8日 10:00]• AKB48 [6月5日 15:27]• ジャニーズ 山田涼介が刑事ドラマ主演 田中圭の「懐に入って」 []• ジャニーズ [6月15日 4:00]• 芸能 [6月14日 18:33]• 芸能 [6月14日 10:02]• ドラマ [6月14日 5:00]• 芸能 [6月11日 21:03]• ジャニーズ [6月10日 6:00]• 芸能 [6月9日 20:30]• ジャニーズ [6月9日 5:00]• 結婚・熱愛 [6月7日 6:19]• ジャニーズ [6月6日 17:03]• ハリウッド 小栗旬のハリウッドデビュー作、来年5月に公開決定 []• ハリウッド [6月14日 19:26]• シネマ [6月14日 19:24]• ハリウッド [6月12日 9:42]• ハリウッド [6月11日 9:24]• ハリウッド [6月11日 6:15]• コラム [6月9日 14:35]• ハリウッド [6月9日 9:30]• ハリウッド [6月9日 9:30]• ハリウッド [6月8日 14:42]• ハリウッド [6月7日 12:56]• 映画 小栗旬のハリウッドデビュー作、来年5月に公開決定 []• シネマ [6月14日 19:24]• シネマ [6月14日 15:02]• シネマ [6月14日 8:00]• コラム [6月13日 13:00]• シネマ [6月12日 4:01]• シネマ [6月12日 0:38]• シネマ [6月11日 11:28]• シネマ [6月9日 17:45]• シネマ [6月9日 5:00]• 坂道 [6月8日 20:07]• ドラマ 山田涼介が刑事ドラマ主演 田中圭の「懐に入って」 []• ジャニーズ [6月15日 4:00]• ドラマ [6月14日 5:00]• ドラマ [6月13日 12:01]• 芸能 [6月13日 8:00]• ドラマ [6月13日 5:27]• ドラマ [6月13日 5:02]• ドラマ [6月13日 5:01]• ドラマ [6月12日 17:45]• ドラマ [6月12日 10:10]• ドラマ [6月12日 5:00]•
次の「 Sing Out!」 乃木坂46• 「 純烈のハッピーバースデー」 純烈• 「 サステナブル」• 「 片隅」 三浦大知• 「 ドレミソラシド」 日向坂46• 「 黒い羊」 欅坂46• 「 P. ~ユニバース・フェスティバル~」 DA PUMP(ダ・パンプ)• 」 三代目 J Soul Brothers from EXILE TRIBE 2013 「 EXILE PRIDE ~こんな世界を愛するため~」 EXILE 2012 「 真夏のSounds good! 」 AKB48 2011 「 フライングゲット」 AKB48 2010 「 I Wish For You」 EXILE 年 受賞曲 受賞者 動画 1999 「 Winter, again」 GLAY 1998 「 wanna Be A Dreammaker」 globe 1997 「 CAN YOU CELEBRATE?」 安室奈美恵 1996 「 Don't wanna cry」 安室奈美恵 1995 「 Overnight Sensation ~時代はあなたに委ねてる~」 trf 1994 「 innocent world」 Mr. Children 1993 「 無言坂」 香西かおり 1992 <歌謡曲・演歌部門> 「 白い海峡」 大月みやこ <ポップス・ロック部門> 「 君がいるだけで」 米米CLUB 1991 <歌謡曲・演歌部門> 「 北の大地」 北島三郎 <ポップス・ロック部門> 「 愛は勝つ」 KAN 1990 <歌謡曲・演歌部門> 「 恋唄綴り」 堀内孝雄 <ポップス・ロック部門> 「 おどるポンポコリン」 B. クィーンズ 年 受賞曲、歌手 解説 1989 「 淋しい熱帯魚」 Wink(ウィンク) バブル時代を象徴する曲。 1980年代末に流行していたユーロビート歌謡の代表作。 当時ヒットを連発していたWink(ウィンク)にとって5枚目のシングル。 それまでの洋楽のカバー曲でなくオリジナル曲で勝負をかけた。 シンセサイザーを駆使し、きらびやかな音になっている。 オリエンタルなメロディラインの2種類のサビを巧みに交差する。 そんな手のこんだ楽曲を、「笑わないアイドル」「無表情なアイドル」と言われたWink(ウィンク)がドライに歌い上げるのが魅力となった。 この年のレコード大賞では、 同じ年の6月に他界したばかりの美空ひばりの遺作「川の流れのように」も候補となった。 川の流れのようには、後にの一つと称えられるようになるが、 この時点ではそうした評価が定まっていなかった。 そして、ひばりはノミネート(金賞受賞)にとどまった。 このころから、レコード大賞の長期的な凋落が顕著になっていった。 1988 「 パラダイス銀河」 光GENJI ジャニーズ事務所のアイドル軍団・光GENJIが、新人ながら大賞を受賞した。 ローラースケートを履いて歌い踊るという衝撃的なスタイルで登場。 デビュー曲「スターライト」で1位に輝いた。 続く次作「ガラスの十代」も1位になった。 3曲目のシングルとなったのが本曲「パラダイス銀河」。 思いっきり明るい歌。 メロディもサウンドも、 スケールとゴージャス感をアップした。 舞台は宇宙。 テーマパーク的なアトラクション性を感じさせる。 1987 「 愚か者」 近藤真彦 1986 「 DESIRE -情熱-」 中森明菜 中森明菜が女性歌手として初めて2連覇を果たした。 アイドル系の歌謡ロックを代表する曲。 節回しで聴かせる中森の歌唱力が光る。 作詞は阿木燿子(あき・ようこ)。 「まっさかさまに堕ちて、デザイヤー」「恋もダンス、ダイス、ダンスほど夢中になれないなんてね、さみしい~」といったフレーズが、 中森の陰りと迫力のあるボーカルによって、 スリリングに展開される。 ボブ・カットの髪形と着物をアレンジした衣装も話題となった。 なお、この年のレコード大賞では、 後に名曲として語り継がれることになるテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」もノミネート(金賞受賞)された。 1985 「 ミ・アモーレ Meu amor e…)」 中森明菜 1980年代を席けんしたアイドル歌手、中森明菜の11枚目のシングル。 ラテン調のドラマチックな歌である。 中森は当時19歳。 デビューから4年目だった。 松田聖子の登場を一つの起点として、 1980年代は空前のアイドルブームに沸いていた。 その中で、中森明菜はダークな雰囲気と、旺盛な創作欲により、際立った存在になっていった。 80年代半ばになると、聖子と並ぶ双璧になった。 表現の幅を広げる中で、 作曲家として起用したのが、 ラテン・ヒュージョン系のピアニスト、松岡直也だった。 情熱的な曲を、中森がダイナミックな歌唱で見事に表現した。 1984 「 長良川艶歌(えんか)」 五木ひろし 一夜の恋がテーマ。 いわゆる「旅情演歌」の代表的な作品として知られる。 岐阜県の長良川を舞台にした「ご当地ソング」でもある。 五木ひろしは1973年の「夜空」以来、二度目の大賞となった。 二度目の大賞は、橋幸夫、細川たかしに続いて3人目。 オリコンの週間チャートでは最高10位にとどまった。 しかし、聴けば聴くほど味が出るという特質から、 ロングセラーを記録する。 歌番組「ザ・ベストテン」が12年間の順位を集計するランキングをつくったところ、 歴代の1位に輝いた。 1983 「 矢切の渡し」 細川たかし 細川たかしが、レコ大で史上初めての2連覇を達成した。 石本美由起作詞、船村徹作曲。 歌詞の舞台は、東京・矢切(やぎり)と、江戸川を挟んで向かい側にある千葉・松戸である。 矢切では江戸時代から、東京と千葉を結ぶ水上交通として「渡し船」が発達した。 この渡し船を使って駆け落ちをする男女が描かれる。 故郷を捨てて向こう岸に渡る2人は、川の向こうに希望を見いだしている もともとは、歌手ちあきなおみが1976年に別の曲(酒場川)のB面として発表していた。 B面だったこともあり、その時は世間に注目されなかった。 それから7年後、細川たかしがカバーする。 細川が所属する芸能事務所「バーニング」の社長で、後に芸能界のドンと呼ばれるようになる周防郁雄(すほう・いくお)の提案だったという。 ちあきが唄ったバージョン()は、 暗く切実なイメージで、 専門家の間では高く評価されていた。 これに対して、細川バージョンは軽い。 前年に大ヒットした細川の「北酒場」のイメージも引き継いでいる。 細川は「親の心にそむくという話だから、感情を入れると暗くなる。 感情を入れずに歌う」ことを心がけたという。 これによって、カラオケで歌いやすい曲になり、北酒場に続く大ヒットになった。 なお、矢切は、映画「男はつらいよ」の舞台である葛飾区柴又にある。 渥美清演じる寅さんも、映画の中でこの曲を口ずさんだ。 1982 「 北酒場」 細川たかし 明るいリズム演歌の傑作。 ノリが良く覚えやすいメロディーと歌詞。 子供からお年寄りまで、みんなが唄える曲である。 当時のカラオケブームの波に乗り、演歌というジャンルを超えて、一大流行歌になった。 作詞をなかにし礼、作曲を中村泰士が手掛けた。 このコンビは、 細川のデビュー曲であり、レコード大賞新人賞を受賞した「」(1975年)と同じ。 心のこりで大成功した後、細川はヒットから遠ざかっていた。 さらに、1981年にはテレビ番組のコントで右足アキレスけん断裂するケガを負い入院。 3か月間仕事ができなかった。 復帰後に仕事がもらえず困っているときに、 超大物コメディアン萩本欽一がコント番組に出演する場を与えてくれた。 演歌歌手にはやや場違いな番組だったが、 親分肌の萩本は「ギャグは難しいだろうから、何か歌ってくれ」とリクエスト。 発売される前の新曲の候補を聴かせたところ、萩本は北酒場を選んだ。 番組で披露すると、人気が沸騰した。 歌詞は、北の酒場での男女の恋模様を描写している。 「からめた指が運命(さだめ)のように 心を許す」「やぶれた恋の数だけ人に やさしくできる」などの名フレーズが並ぶ。 細川は北海道出身である。 そして、彼自身、 札幌の飲み屋街「すすきの」のクラブ歌手時代に妻と出会い、22歳で結婚した。 レコード大賞では、受賞後の歌唱の際に、1コーラスを歌い終えた時に萩本欽一がステージに登場。 細川はそこから泣き出して歌えなくなった。 1981 「 ルビーの指環(ゆびわ)」 寺尾聰(あきら) 歌謡曲の全盛時代を象徴する曲の一つ。 歌手の寺尾聰が自ら作曲した。 作詞は松本隆。 この年のレコード大賞では、 大賞のみならず作曲賞(松本)、作詞賞(寺尾)、編曲者(井上鑑)も受賞した。 史上初の4部門制覇を果たした。 寺尾聡はそれまで、戦後最大の人気俳優の一人、石原裕次郎率いる石原プロモーション(石原軍団)に所属する俳優として活躍していた。 テレビの刑事ドラマ「西部警察」「大都会」でお馴染みだった。 しかし、もともそ学生時代からベーシストとしてバンド活動をしており、 1966年にはグループ・サウンズ系のバンド「ザ・サベージ」のメンバーの一人として、 ヒット曲「」を出した。 音楽への熱い思いを抱き続けながら、 自ら作曲したのがルビーの指環だった。 そこに、一流の音楽家であり作詞家の松本隆がクールな詩をのせ、 抜群にかっこいい曲ができあがった。 やや暗くて抑揚のない歌ながら、 じわりと大ヒット。 サングラスをかけて歌う寺尾の姿も、老若男女を魅了した。 国民的な歌番組だったTBS系『ザ・ベストテン』で、歴代最長となる12週連続1位に輝いた。 (目黒隆史郎) 1980 「 雨の慕情」 八代亜紀 別れた恋人を、「憎い、恋しい」と思慕する。 情念の女の歌である。 その一方で、 サビの「雨々ふれふれ」というフレーズがキャッチーで、だれにも親しみやすい。 「雨々ふれふれ」の部分は、手のひらを上に向け空にかざすような振り付けで歌う。 これは八代が舞台で歌っているときに自然に出たしぐさだという。 童謡「あめふり」にもある一節だ。 ふだんあまり演歌を聴かない子供たちが、「雨々ふれふれ」の振りをしながら歌った。 作詞・阿久悠、作曲・浜圭介。 前年に大ヒットした「舟唄」と同じコンビである。 「しみじみ呑めば、しみじみと~」という歌詞でおなじみの舟歌は、当初からレコード大賞を狙っていた。 しかし、ノミネートはされたものの、大賞は逃していた。 「舟唄」はじわじわと長く売れたが、この曲は発売と同時に火がついた。 この年の賞レースでは、五木ひろしさんの「ふたりの夜明け」の下馬評が高く、マスコミは「五八戦争」とあおった。 また、都はるみの「大阪しぐれ」も高い評価を得ていた。 受賞が発表されると、ふだんはステージで決して涙を見せない八代亜紀が泣き出した。 声が出ない八代にかわって、客席から「雨々ふれふれ」の大合唱が起こった。 年 受賞曲、歌手 解説 1979 「 魅せられて」 ジュディ・オング 台湾出身の歌手ジュディ・オングが、可憐に歌ったゴージャスな曲。 200万枚売れた。 下着メーカーワコールのとして企画された。 電通からCMのイメージ映像を見せられたレコード会社ソニーのプロデューサー、酒井政利は「このイメージにあうのはジュディ・オングしかいない」と思ったという。 当時、ジュディは主に女優として活躍していたが、ジョディの持つ神秘性が、頭の中で見事にマッチしたという。 作詞は、超売れっ子だった阿木燿子(あき・ようこ)に依頼。 阿木は「女性のエロス、たおやかさ、優しさを表現した」という。 CM放送の直後から爆発的に売れた。 この曲が成功したことで、 ジュディは米ハリウッドのドラマ「将軍」のヒロイン役を断念。 歌手活動に専念し、 年末にレコード大賞を獲得した。 1978 「 UFO」 ピンク・レディー 20世紀最大の女性アイドルとも言われるピンク・レディーの最大のヒット曲。 全国の少女たちがダンスの振付を覚え、そこらじゅうで踊りまくった。 アイドルのレコード大賞獲得は当時はまだ珍しかったが、 ピンクレディーは社会現象になっていたこともあり、とくに目立った異論は聞かれなかった。 この年のレコード大賞では、 2連覇を狙う沢田研二の「LOVE(抱きしめたい)」と山口百恵の「プレイバックPart2」も有力視されていた。 このため、2回目の決選投票が行われ、ピンクレディー29票、沢田研二18票となったという。 この曲の受賞により、作詞家の阿久悠(あく・ゆう)は、3年連続でレコード大賞を獲得した。 1977 「 勝手にしやがれ」 沢田研二 1970年代から80年代にかけて、日本の歌謡界のトップに君臨した沢田研二(愛称:ジュリー)の代表曲。 この年のレコード大賞は、山口百恵の「秋桜(コスモス)」、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」などの名曲もノミネートされ、注目を集めた。 歌の途中で、かぶっているパナマ帽子を客席に向けて投げ飛ばすパフォーマンスが大ウケで、当時の小学生はこぞってマネをした。 別れを告げて部屋を出て行こうとしている恋人。 残された男は、寂しさを押し殺しながら寝たふり。 タイトル通り「お前の好きなようにしなよ」と突き放しているけれど、行き場のない恋心を持て余し、夜中に部屋で1人で空騒ぎして…。 この曲は後に、山口百恵のヒット曲「プレイバックPart2」(1978年)の歌詞(かし)の中にも引用された。 サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」(1978年)は、「勝手にしやがれ」とピンクレディーの「渚のシンドバッド」(1977年)のタイトルを組み合わせたもの。 1960年代に「グループサウンズ」が大流行。 沢田は「ザ・タイガース」のボーカルでデビューした。 タイガースを離れソロになった沢田研二は「危険なふたり」「時の過ぎゆくままに」と甘くけだるい色気を歌っていた。 「下世話っぽすぎるので書き直してもらう」ことになったが、念のために歌ったところ、新たな味わいが出てわずか2回でOKとなった。 この後も、沢田研二は「TOKIO」「サムライ」など大ヒット曲を連発することとなる。 1976 「 北の宿から」 都はるみ 昭和を代表する演歌歌手、都はるみの27歳のときの傑作。 別れた人に未練を抱き、「あなた変わりはないですか」と呼びかける。 1964年に16歳の若さでデビューした都はるみは「アンコ椿は恋の花」をいきなり100万以上売り、レコード大賞の新人賞を受賞した。 その後も「涙の連絡船」などのヒットを連発。 うなり声のような力強いこぶし回しや、波打つような深いビブラートからなる歌唱が絶大な支持を得た。 しかし、1968年の「好きになった人」以降は、大きなヒット曲に恵まれなかった。 10代~20代前半のころの威勢のいい「うなり節」とは違う面を出さねば、と悩んでいたという。 威勢のいい少女から大人の女性へとイメージを変えるべく、 時代をうまくとらえた作詞で歌謡界を席巻しつつあった阿久悠(あく・ゆう)に作詞を依頼。 それに小林亜星(あせい)が曲をつけた。 阿久さんには歌詞の書き直しを依頼したほどの勝負作。 「自分が変わりたいと思っていた頃。 1975 「 シクラメンのかほり」 布施明 「真綿色(まわたいろ)したシクラメンほど」で始まる静かでしっとりとした歌。 布施明(ふせ・あきら)は1965年にデビュー。 カンツォーネ的な熱唱に変えて、「おもいで」「霧の摩周湖」「恋」「愛の園」…と連続ヒットを飛ばす。 「シクラメンのかほり」は、オリコン1位を獲得し、布施にとって唯一のミリオンセラーとなる。 日本レコード大賞では、前年に「積木の部屋」で、森進一「襟裳岬」に敗れた雪辱を果たした。 作詞・作曲は、エリート銀行マンのシンガー・ソングライター、小椋佳(おぐら・けい)。 会社のアメリカ研修に旅立つ直前に、初めて他人に書いた。 それまでは、甘いメロディーをためて歌う絶唱型が布施の特色だった。 それが本曲との出合いでガラリと変わる。 細かい音程に多くの言葉が重なるニューミュージック型の曲に、「僕の世界ではない」と布施は演奏録音の途中でスタジオから出てしまった。 「布施らしい歌があるはずだ」という意見もあったが、説得を重ねて発売した本曲は新しい布施の世界を切り拓いた。 (naoyakiyohar5) 1974 「 襟裳岬」 森進一 フォークソングと演歌が結びついて生まれた傑作。 当時、超売れっ子のフォーク歌手だった吉田拓郎が作曲し、 若手演歌歌手の森進一が歌った。 母子家庭で育った森は、 この曲を発表する前年、 大切な母を自殺で失っていた。 悲しみが消えないときにこの曲を受け取り、 「日々の暮らしはいやでもやってくるけど、静かに笑ってしまおう・・」といった前向きな歌詞に勇気づけられたという。 それまで酒場のホステスらを中心に支持されていた森のハスキーボイスは、 より幅広い層に親しまれるようになった。 (高鳥孝貴) 1973 「 夜空」 五木ひろし 五木ひろしが唄い、 五木が恩人と仰ぐ作詞家の山口洋子がプロデューサーを務めた。 作曲は平尾昌晃。 1965年にデビューした五木ひろしは、 レコードが売れず鳴かず飛ばずだった。 背水の陣で「全日本歌謡選手権」に出場。 10週連続で勝ち抜き、グランドチャンピオンになった。 そのときの審査員が山口洋子。 山口は1971年に「よこはま・たそがれ」を作詞して、五木に提供。 大ヒットとなり、一躍人気歌手となった。 1973年は、麻丘めぐみの「わたしの彼は左きき」、沢田研二の「危険なふたり」という伝説的な名曲もリリースされた。 しかし、この2曲は「大衆賞」にとどまった。 (前川原悠子) 1972 「 喝采(かっさい)」 ちあきなおみ 唯一無二の独特のムードを持つ名曲。 心にしみる。 レコ大の最有力候補と見られた小柳ルミ子の大ヒット曲「瀬戸の花嫁」を抑え、大賞を獲得した。 歌は「いつものように、幕が開き」で始まる。 主人公は、地方から出てきた女性歌手。 彼女のもとに、訃報が届く。 3年前に田舎の駅で別れたかつての恋人が亡くなったのだった。 作曲:中村泰士、作詞:吉田旺(おう)。 冒頭の歌詞のとき、 ちあきはゆっくりと手を下から上へとあげる独特なポーズで歌った。 無表情とも、涙をこらえているようにも見える顔。 そして、何より歌唱力。 やがて忽然と芸能界から姿を消すことになるちあきは、 「伝説の歌手」として後世に語り継がれた。 1971 「 また逢う日まで」 尾崎紀世彦 1970 「 今日でお別れ」 菅原洋一.
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