出典: 「舞鶴女子高生殺害事件」は、京都 府立東舞鶴高校浮島分校1年生・小杉美穂さんが、同年の5月6日の午後10時以降に実家から外出をした後、行方不明となったことから始まります。 2008年5月6日、15歳の女子高生・小杉美穂さんが夜午後10時以降に自宅を出た後、翌5月7日午前0時50分頃友人に「国道沿いのドラッグストア付近にいる」と携帯電話で話し、その直後に東京に住む兄に携帯メールを送信したのを最後に行方が途絶えた。 引用: 翌日の午前9時になっても自宅に戻って来ない娘を心配した母親が、警察に捜索願を提出したところ、同年の5月8日になると、 舞鶴市内の雑木林で小杉さんの全裸遺体が発見されることになりました。 小杉さんの死因は、バールのようなもので顔面や頭部を殴打されたことによる失血死だったと言われており、鼻がひしゃげるくらいに潰れていた他、頭蓋骨も割れて中身が飛び出しているような惨状でした。 中勝美、舞鶴女子高生殺害事件犯人として逮捕 出典: 中勝美が「舞鶴女子高生殺害事件」の犯人と疑われた理由については、件の防犯カメラの男に背格好が似ていたことに加えて、事件当日の深夜に現場付近で目撃されていたことも大きかったようですね。 中勝美は5月6日夜から7日未明に市内の飲食店二店を自転車で訪れ、帰途のコースと時間帯が女子高生が通過したものと重なり、 中勝美は防犯カメラに映った「自転車の男」と体格で同一人物とみて矛盾しないとの鑑定結果も出て、さらに男は当日は黒い服を着ていたことも判明した。 引用: その他にも、この頃になるとすっかり私生活もやさぐれていた中勝美は、鉄パイプを持って近所を徘徊していたり、無銭飲食や窃盗、賽銭泥棒などを繰り返すような問題人物へと変貌していました。 そのため、女性の下着や神社のお賽銭を盗んだ容疑にて、2008年11月15日に別件逮捕されることとなった中勝美は、2009年1月に懲役1年の実刑判決が下り、京都刑務所で服役しています。 その後、2009年4月7日になると、小杉美穂さんに対する殺人罪や死体遺棄罪で再逮捕された中勝美でしたが、家宅捜索を行っても凶器などの物証が発見されなかったため、警察側は目撃情報などを積み重ねて有罪を立証するという難関に挑むことになりました。 「舞鶴女子高生殺害事件」被害者・小杉美穂さんの生い立ちと人物像 被害者・小杉美穂さんは複雑な家庭環境に育つ 出典: 「舞鶴女子高生殺害事件」の被害者となる小杉美穂さんについては、複雑な家庭に育った少女だったと言われております。 幼少期に両親が離婚したため、母子家庭で育つこととなった小杉さんですが、小学2年の時に母・春美さんに恋人が出来たことにより、以降は事実上の義父となるAさんと同居して暮らすことになりました。 小杉さんは、Aさんとの仲は悪くなかったと言われておりますが、中学時代に不登校になってしまい、進学した先の 府立東舞鶴高校浮島分校も定時制だったようですね。 高校進学後の小杉さんについては、2008年4月8日にAさんが亡くなってしまったショックもあり、学校の方にはほとんど登校していない状況でした。 被害者・小杉美穂さんには深夜徘徊グセがあった 出典: 不登校児であった小杉美穂さんですが、引き籠り体質ではなかったようで、気が向いた時に近所の友人宅に遊びに行くこともあった他、ギター好きでバンドを組む仲間を探していたそうですね。 また、本人が運営していたブログによると、 深夜に徘徊する癖があって警察に補導されてしまった経験もあったとか。 そのため、事件当日の深夜徘徊についても、小杉さんにとっては特別なイベントというわけではなかったようで、移動中に工事現場の赤色灯を見つけた際に「イェイ!発見」との記事を更新していました。 その後、薬局や自衛隊基地の防犯カメラなどに、自転車を押す男と2人で歩く姿が確認されている小杉さんでしたが、2008年5月7日の午前2時頃に事業所の防犯カメラに映った姿を最後に消息が途切れており、以降に殺人事件に巻き込まれたことになります。 出典: 「舞鶴女子高生殺害事件」に関しては、第一審では警察側が積み重ねた状況証拠が認められ、中勝美に対して無期懲役の実刑判決が下ったものの、第二審では「疑わしきは罰せず」の原則が適応された結果、逆転無罪判決が下っています。 大阪高裁はこの日の判決文で、目撃証言が変遷していて「信用できない」とした。 犯人だけが知るという内容も、 「検察の示唆・誘導の可能性」があると退け、「明らかな事実誤認がある」と逆転無罪となった。 引用: その後、2013年5月28日になると、移住先の大阪市内のコンビニでセクシー雑誌を万引きした容疑で逮捕された中勝美は、今度は懲役1年2ヶ月の実刑判決が下り、再び刑務所へと逆戻りになりました。 そのため中勝美は、2014年7月に最高裁で無罪が確定した際も別件で服役中の身の上だったことになり、完全に自由の身となったのは、刑期があけた同年の9月以降になってからだったそうですね。 中勝美、拘置所仲間に小杉美穂さん殺害を仄めかしていた 出典: 「舞鶴女子高生殺害事件」では、形式上は冤罪被害者となった中勝美ですが、現在も犯人説が根強い状況となっています。 中勝美に犯人説が根強い理由については、「舞鶴女子高生殺害事件」の裁判のために大阪拘置所に収監されていた時期に、拘置所仲間に小杉美穂さんの殺害を仄めかしていたことが大きかったようですね。 「オレがあいつに『本当はどうなんだ、やったのか』って聞いたんだ。 最初は否定していたけど、あるとき夜中に布団をこそっと上げて話しだした。 『 本当はオレが殺ったんや。 ほんまは殺っとんねん。 オレはあの子に顔見られたからな。 (凶器の)バールを埋めたのは警察が捜索した場所とは山ひとつ違う場所やから、捜しても絶対わからんよ。 それに(DNA鑑定しても)何も出てこん』とね。 小声で話したんだよ。 同じ房のもう1人も聞いとった。 やっぱりなと思ったね」 引用: 中勝美、同じ舞鶴市内で起こった「舞鶴高3女子殺害事件」にも関与? 出典: 中勝美に対しては、2001年11月に同じ舞鶴市内で起こった「舞鶴高3女子殺害事件」の犯人ではないかと疑うネットユーザーたちもいます。 「舞鶴高3女子殺害事件」とは、2001年11月17日、府立海洋高校3年の新谷茜さんが自宅から北西3. 5km水深約60cmの志楽川で遺体で発見された事件のことを指す。 首に鋭利な刃物で切られたような跡があったことから、府警は殺人事件とみて捜査を始めたものの、犯人は逮捕されていない未解決事件となっている。 引用: とはいえ、「舞鶴高3女子殺害事件」に関しては、被害者・新谷茜さんの遺族や友人たちは地元の不良グループの関与を疑っているらしく、犯人一味の中に地元の有力者の息子がいるため、警察も手出し出来ないのではないかとの憶測が存在するようです。 また、事件の取材を重ねた記者なども遺族たちと同じ見解を抱いているため、 中勝美が関与している可能性は低いと言えます。 中勝美の生い立ちと家族情報…在日説浮上も国籍は日本だった 中勝美、複雑な家庭に育ち母親が警察官と再婚 京都府舞鶴市出身の中勝美ですが、寝たきり状態の父親が母親に虐待される光景を見ながら育った幼少期だったと言われております。 結局、程なくして両親が離婚したため、母子家庭で育つこととなった中勝美ですが、高校時代に 母親が警察官と再婚したことをきっかけにグレてしまい、高校も中退してしまいました。 中勝美がグレてしまった背景には、母親と一緒に義父の家に引き取られたものの、1人だけ離れで暮らすことを強いられるなど、理不尽な扱いを受けたことも大きかったようですね。 その後の中勝美は、地元でも札付きの不良少年に成長してしまい、脅迫や恐喝の罪で少年院へ送致されてしまうことになりました。 中勝美、国籍を疑う声もあった 出典: 少年院から出所後の中勝美に関しては、暴力団員になることもなく、地元京都や大阪にて自動車整備士や警備員として働いており、職は転々としていたものの勤務態度は真面目だったと言われております。 10代後半頃には、恋人と同棲生活を送るようになるなど、不良少年の王道のような更生ルートを歩んでいた中勝美でしたが、24歳の頃に出会ったホステス・林好子さんとの交際が転落のきっかけとなりました。 当時、飲食店で働いていた中勝美は、舞鶴市内で林さんと同棲生活を開始することになりますが、林さんの家族からは交際を反対されていたそうで、25歳の時に林さんが実家に連れ戻されてしまいました。 激昂した中勝美は、滋賀県にある林さんの実家へ向かうと、林さんとその兄を出刃庖丁で刺殺したうえ、人質を取って近所の民家に立て篭もるといった大事件を起こすことになります。 6時間の籠城の末に警察に逮捕された中勝美は、裁判の結果、 懲役16年の実刑判決を受けることとなり、残りの青年期を丸々刑務所の中で過ごす羽目になっています。 中勝美、出所後に結婚するも43歳の時に強姦未遂事件で再逮捕 出典: 「林好子さん兄妹殺害事件」で服役することとなった中勝美ですが、模範囚だったためか、 12年程度の刑期で仮釈放されることになりました。 仮釈放後の中勝美は、地元である舞鶴市に戻り工場で働いていたらしく、1990年には、20歳年下の女性と結婚までしたそうですね。 とはいえ、あまりに年の差夫婦過ぎたためか、2人の結婚生活は上手く行かずに、すぐに離婚の憂き目となってしまいました。 その後、1991年9月に、いたずら目的で21歳の女性を襲い逮捕されてしまった中勝美は、傷害と強制わいせつの罪で 懲役6年の実刑判決を受けています。 調べでは、男は同市朝来西町、グラインダー工員・中勝美容疑者 43 で、同時刻ごろ女性の自転車に後部から体当たりして転倒させた。 自転車で通りかかった吉開3佐が悲鳴を聞いて駆けつけ、あわてて逃げる中勝美容疑者を40メートルほど追跡、騒ぎに気づいた吉田海士長とともに現行犯逮捕した。 引用: こうして、2度目の刑務所生活を経験する羽目になった中勝美ですが、1998年に出所した後は再び舞鶴市に戻り、生活保護を受けながら府営住宅で暮らしていたそうですね。 中勝美のその後現在…2016年7月に刑務所で獄中死していた 中勝美、2014年に殺人未遂罪などで再逮捕 出典: 2014年9月に出所した後の中勝美に関しては、同年の11月5日に、知人女性に対する殺人未遂事件を起こしてしまったため、再び刑務所の中へと舞い戻っています。 11月5日、その中容疑者が新たな殺人未遂事件を起こし逮捕された。 大阪・JR梅田駅から1キロほどの繁華街。 朝8時過ぎ、ラブホテル街にある雑居ビルで中容疑者は、 知人のホテル店長・吉留博美さん(38)の顔や首、胸など11カ所をナイフでメッタ刺しにして、重傷を負わせた。 引用: 被害者となった吉留博美さんは、事件現場となった雑居ビル内にあるラブホテルとスナックの店長だったそうで、出所後の中勝美は、ラブホテルの方で受付や清掃員として働いていた時期がありました。 とはいえ、長年の刑務所暮らしが祟ったのか、接客業務をまともにこなすことが出来なかった中勝美は、すぐにラブホテルを首になってしまうことになりました。 その後は、市役所の方で生活保護の申請をしていたとの情報もある中勝美ですが、持ち合わせのお金が少なかったためか、吉留さんの元へ度々お金の無心に訪れており、念書を書かされて追い出されるなどトラブルになっていたそうですね。 この時の事件では、2016年3月になると、中勝美に懲役16年の実刑判決が下っています。 中勝美、死因は病死と発表される.
次の舞鶴高1女子殺害事件という未解決事件がありますが、元容疑者で無罪の判決を受けていた中勝美が「自分が殺した」と拘置所の仲間に告白していたと言う話が出てきました。 事件発生から11カ月後に逮捕された中勝美容疑者 66 は一審で無期懲役の判決。 このとき同容疑者は涙を流して感謝の言葉を語っていた、はずだった。 11月5日、その中容疑者が新たな殺人未遂事件を起こし逮捕された。 大阪・JR梅田駅から1キロほどの繁華街。 朝8時過ぎ、ラブホテル街にある雑居ビルで中容疑者は、知人のホテル店長・吉留博美さん 38 の顔や首、胸など11カ所をナイフでメッタ刺しにして、重傷を負わせた。 今回の事件取材を進めるなかで、『舞鶴の事件は、オレがやったんや』と中容疑者の告白を聞いたというA氏に会うことができた。 「あいつとは5カ月間一緒にいたよ。 8人部屋で、勝美はいつもオレの隣に寝ていた。 右足首の内側に、般若と女性器の刺青があったな。 般若の鼻が女性器に入っていて、そこから愛液が3滴出ていた。 それに、あいつはよく夜中にうなされていた。 突然『オレは殺しとらん』と言い出すんだ」 舞鶴事件の核心に触れたのは、中容疑者に無罪判決が出される直前だった。 「オレがあいつに『本当はどうなんだ、やったのか』って聞いたんだ。 最初は否定していたけど、あるとき夜中に布団をこそっと上げて話しだした。 『本当はオレが殺ったんや。 ほんまは殺っとんねん。 オレはあの子に顔見られたからな。 凶器の バールを埋めたのは警察が捜索した場所とは山ひとつ違う場所やから、捜しても絶対わからんよ。 それに DNA鑑定しても 何も出てこん』とね。 小声で話したんだよ。 同じ房のもう1人も聞いとった。 やっぱりなと思ったね」 A氏は同じ房で過ごすうち、中容疑者に異常なところがあると思っていた。 「あいつには何か異常なところを感じてたんよ。 当時は内縁の妻の親が、無理やり別れさせようとしたことに腹を立てての犯行と報じられていた。 一方、まだ犯人が特定されず苦しんでいるのは殺害された美穂さんの母親だ。 今回の事件について母親は「驚きとともに怒りを感じた。 いちばん恐れていたことが現実となってしまった」とコメントしている。 今年7月、最高裁で無罪が確定したものの、舞鶴事件は何も解決していない。 週刊FLASH11月25日号 もしこれが本当の話なら、とんでもない話です。 裁判所は、人を惨殺した犯人を無罪放免にしていたことになります。
次の歴史 [ ] 発祥には諸説があり、陶師(すえし)の中ノ子家、の小堀流山笠人形の流れを汲む白水家、瓦職人の正木宗七(惣七)の3説が有力とされていたが、現在では学術的研究が進み、に博多の町で陶師を営んでいた中ノ子家より転業した中ノ子安兵衛・吉兵衛親子と、小堀流山笠人形の流れを汲む白水家との複合的要因が最も有力とされている。 「中ノ子」の苗字由来にはこれまで諸説あり、「源氏の流れをひく残党の一部に3人の兄弟がおり、この兄弟の真ん中の子が中ノ子を名乗った伝説による」等としている書籍や、それに準じた引用を行っているWebサイトがあるが、これらは歴史的根拠も無く、間違った記述である。 中ノ子家の歴史は古く、にの豪族である越智・(おち・こうのみちつぐ)の四男・通成(みちなり)の子で、母方の「中ノ子」姓を名乗ったことを祖とする。 「中ノ子」は本来「仲子」と書き、「なかのこ」という苗字はそれより以前の800年代より、の歴代宮司である「仲子」氏として知ることができる。 この宮司系である仲子が越智・河野家に嫁ぎ、その子が人偏の取れた「中ノ子」を名乗ったというのが、現在の通説とされている。 中ノ子・仲子・中野子・中子・中之子といった、読みが「なかのこ」になる苗字は、一類同属であると古文書に記されている 築山本 『河野家系譜』 大山積神社古文書。 1400年代~1500年代の記録は少ないが、1600年(5年)からの記録が、檀家である博多・宗玖寺の過去帳に残されている。 それによれば、「初代陶師」として中ノ子長右衛門がに住んでいたことが記録されており、陶器等を作っていたものと思われる 宗玖寺 『過去帳』 宗玖寺。 に住んでいた8代陶師中ノ子長右衛門 安兵衛 が、幕府の規制により長男・9代長右衛門 長伝 に家業の陶師を継がせ、次男・長四郎 吉兵衛 には土産品向け土人形の制作を行なわせた事が、博多人形の祖である博多素焼人形の起こりである。 その後、安兵衛・吉兵衛親子が制作した土産品向け土人形は広く博多の町に広がり、諸国貿易(全国流通)も盛んに行なわれるようになり、師弟関係による同業者が増えていった。 1821年頃(4年頃)のことである。 1890年(明治23年)に、第3回が行なわれ、その際に出品していた博多素焼人形が好評を博し表彰されるが、この表彰状に「博多人形」とだけ記されていたため、これが公に広まり博多人形の誕生となる。 よって、博多人形の誕生は1800年代であり約200年の歴史がある。 また、中ノ子家の陶器制作までを含めると、約400年の歴史ということができる。 1976年に人形の部で伝統的工芸品として通商産業大臣の指定を受ける。 中ノ子家直系の人形師は現在、現代博多人形作家の中ノ子富貴子、基高 親子 、古形博多人形作家の中ノ子勝美、佳美(親子)がいる。 他に、中ノ子家には博多人形とは異なる独自の色焼込人形である「中ノ子焼人形」が中ノ子吉三郎の時代より伝わっているという。 色焼込人形は、人形が生地の状態(焼く前の状態)においてすべて彩色されており、素焼温度(800度~850度)よりも遥かに高い温度で焼き付けることによって、焼き上がりの状態で完全な発色が完了するものという。 年間1本~数本の供給しかなく、非常に価値の高い作品であるという。 正木家は1600年(慶長5年)に正木宗七が御用瓦師として、博多の地に移り住んでいる。 中ノ子安兵衛・吉兵衛の住む下祇園町とは隣同士の町に住むなど、技術協力があったかのように推測できるが、正木家は瓦土を使用した瓦及び焼物を作っており、その技法は「宗七焼」(惚七焼とも)と呼ばれる一子相伝の技を妙とするため、近似である博多素焼人形との技術協力があったとは考えられない。 よって現在では、正木家及び宗七焼は、博多人形に多少の文化的影響力を持っていたと推測されるものの、交流は全く無かったと考えられている。 正木家及び一子相伝の宗七焼は、1873年(明治6年)に没した6代目弘茂によって、途絶えている。 現在の博多人形作家の師弟関係の中に、正木家の流れを汲むものは居らず、また正木家において博多素焼人形及び博多人形が焼かれたという記録・作品も無い。 白水家は小堀家の流れを汲む家である。 小堀家は京都の細工人形師であり、現在より500年以上前に博多境内に移り住み、山笠人形の制作を代々行っていた。 櫛田神社に移り住んでから代々、小堀家は山笠人形の独占制作を行ってきたが、明治維新と共にその制作権も自然消滅し、13代目善之助の時、山笠人形の制作を廃業 して貸家業に転業した。 なお、博多祇園山笠で用いる山笠人形は博多人形師が代々制作していたものと思われているが、実際には 少なくとも明治以前では 小堀家のみが独占的に制作を許されたもので、他のものによる制作は許されなかった。 その小堀家細工人形の流れを汲むのが初代白水仁作で、白水家直系の人形師は現在、現代博多人形師の白水英章が居る。 師弟系譜に見る白水六右衛門・白水栄蔵・白水六三郎系とは別系統。 世界人類風俗人形 [ ] 博多人形は、1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会と(明治33年)のに出品され、その名は国内のみならず、海外でもたいへん話題となった。 現在、には、パリ万博で話題を集めた博多人形の技法を用いた「世界人類風俗人形」が収蔵されている。 これは、(明治43年)から(大正2年)にかけて製作されたもので、かつては開発者であるの名を付して「井上式地歴標本」とよばれていた。 井上は、東京帝国大学の人類学教授やなどの当時の第一級の学者をに仰ぎ、のやの差異を学ぶやなどのとして人形を開発した。 同種のものとしては、「日本帝国人種模型」がある。 「世界人類風俗人形」は、きわめて彩色豊かに精緻につくられており、当時の売価は1体あたり1円50銭ほどであったという。 井上清助には、中ノ子家より中ノ子吉兵衛の孫、中ノ子キクが嫁入りしており、この際に中ノ子家から多くの人形型や技法が井上清助に渡った。 製法 [ ] 博多人形は、である。 古い時代の博多人形は、以下の工程である。 粘土で原型を作り、原型を乾燥させる(場合によっては焼成する)• 乾燥した粘土を、板状にした柔らかい粘土で覆い、型を取る• 型の粘土を焼成する• 焼成した粘土型に柔らかい粘土を押し込み、複製を作る(人形内部は中空)• 複製を焼成する• 貝殻を細かく砕いて作ったの中に漬ける• 彩色し、完成 一方、現代の博多人形は、以下の工程である。 粘土で原型を作る• 生乾きの状態の原型に石膏を掛け、石膏型を取る• 石膏型に粘土を押し込み、複製を作る(人形内部は中空)• 複製を焼成する• 胡粉、または化学塗料にて白く着色し、その後、彩色をして完成。 上記5の中で、化学塗料を使う工程は本来禁止されていたが、昭和初期に主に輸出用として人形を作り始めた際、大量生産をする過程でどうしても胡粉彩色が不可能になり、工程として許可された経緯がある。 現在では主に、数百円 - 数万円程度の博多人形には化学塗料が、数万円 - 数十万円の博多人形には胡粉彩色が行われているが、伝統を守るという意味では、胡粉彩色の博多人形こそ本来の形と言える。 博多人形の代表的なジャンル [ ]• 美人もの• 博多人形を代弁するジャンルとして知られるが、時代の美人の移り変わりによって、人形の表現も大きく変化している。 武者もの• 縁起もの• 、などの。 、などが有名。 童もの• 美人ものと並んで、時代の変化をとりいれた表現がためされているジャンル。 が代表的。 などもある。 道釈もの• や、にまつわる説話に題材をとる。 になぞらえた牛乗りの少年など。 箱庭道具、おはじき、土笛など。 もの その他にカテゴリー別けとして、「古形博多人形」と「現代博多人形」の2つがある。 古形博多人形は主に、中ノ子吉兵衛時代の面影を残す「中ノ子型」と呼ばれる伝統的な造形を特徴とするもので、中ノ子型から派生したやもこの形を基本としている。 土型が主流であり、一部は「博多人形祖型」として福岡県民俗文化財()に指定されている。 現在では中ノ子勝美が制作した人形が一部で流通している。 現代博多人形は、中ノ子吉三郎が初代組合長を務めた現・博多人形商工業協同組合の組合員で構成される人形師が制作する人形で、石膏型を用いた造形を特徴とする人形である。 師弟関係 [ ] 博多人形は前述の通り、直系としての中ノ子家、及び白水家の2つから起こっており、その他に師匠を持たない傍系がある。 白水家は初代白水仁作を祖として現在7代目(英章)である。 なお、人形師系譜を見ると10代陶師長四郎(吉兵衛)の弟子に白水六右衛門という名を見るが、これは中ノ子家の弟子であり、ここに記している小堀流細工人形の流れを汲む白水家とは関係がない。 関連項目 [ ]• -福 岡県指定、博多人形師(中ノ子家直系)• - 博多人形師(小島与一の御師匠であり、中ノ子吉兵衛の弟子)• - 福岡県指定• - ~博多へ来る時ゃ一人で来たが 帰りゃ人形と二人連れ~• 博多人形に寄せて(作詞: 作曲: 歌:)• - 各地の土人形の説明• 「博多人形の絵付け体験」 1991年(平成3年) 博多人形会館 松月堂が開始• :の漫画。 主人公こまわり君の意味不明一発ギャグに「はがゆい、はがゆい、博多人形」というフレーズがある。 周りのギャグ調に対して博多人形は優美精巧に描かれておりギャップもギャグのひとつだった。 脚注 [ ] []• 中ノ子家系譜、中ノ子富貴子への聞き取り調査[1999]、及び博多人形商工業協同組合『博多人形沿革史』2001年3月P116• 大山祗神社資料館展示室内・系譜掛軸• 中ノ子家陶師人形師系譜• 一旦途絶えた宗七焼はその後、安河内福岡県知事の命によって中ノ子市兵衛が宗七焼を復刻制作し、中ノ子市兵衛・勝美系統に製法が伝えられている• 博多人形商工業協同組合『博多人形沿革史』2001年3月P162• 博多人形商工業協同組合『博多人形沿革史』2001年3月P2-3 参考文献 [ ]• 三島敦雄著 『三島大祝系譜資料』 大山祗神社• 景浦勉著 『河野家譜』『大山祗神社関係文書』 伊予資料集成会• 景浦勉著 『河野氏の研究』 参考資料 [ ]• 『麟翁寺関係資料』 麟翁寺(福岡県嘉麻市大隈。 を開基とする母里家菩提寺)蔵• 『宗玖寺過去帳』 宗玖寺(福岡県福岡市東区。 1600年開基。 中ノ子家菩提寺。 『広島県山県郡史の研究』 広島県立古文書館蔵• 『山口県風土記』 山口県立古文書館蔵• 『山口県文化史年表』 山口県立図書館• 『母里家関係資料』 母里市兵衛忠一(母里友信の傍系)蔵 外部リンク [ ]• - 学問のアルケオロジー 明治37年の坪井正五郎 この項目は、に関連した です。 などしてくださる(・)。
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