東京・高輪の閑静な住宅街に、3階建ての家を千秋(せんしゅう)与四夫は構えている。 夫人はベテラン歌手の畠山みどりで、千秋はフジテレビ開局からの花形プロデューサーとして鳴らした。 「これは3階の和室で撮った写真だけど、おそらく小百合ちゃんも持っていないはず。 40年目に初めて公開する貴重な写真だよ」 花柄模様のワンピースを着た吉永が、年上の男性と左手の薬指に指輪を交わしている。 結婚式のハイライトシーンであることは間違いないが、新郎新婦ともに平服であり、床の間然とした場所は大スターの挙式には不似合いだ。 その日から3日前、フジテレビの同期入社で、ドラマ班の看板ディレクターだった岡田太郎の申し出が始まりだった。 「千秋君の家で僕たちの結婚式をやらせてくれ」 千秋は驚き、いったんは断ったが、岡田の懇願に了承することにした。 当時、芸能マスコミを騒がせたように、岡田は離婚歴があって吉永とは15歳の年齢差だ。 そのことが吉永の両親を、親子の断絶も辞さないほど激怒させた。 その日の披露宴と会見こそ公の場で行うが、挙式だけは簡素に済ませたいという両人の願いだった。 「新郎新婦に、立会い兼仲人の形で僕とみどり、それに小百合ちゃんの母親代わりの介添人として先輩女優の奈良岡朋子さんに来てもらった」 たった5人の挙式だった。 これに岡田と吉永が密会に使っていた新宿の寿司店の大将が料理を振る舞いにやって来ただけ。 吉永が28歳、岡田は43歳であったが、千秋は吉永の心底嬉しそうな表情が忘れられない。 「常々、30歳までには結婚したいと言っていた。 女優業が壁にぶつかっていたこともあり、吉永という姓を変えたかったみたいだ」 千秋が音楽番組の演出家として吉永に出会ったのは、歌手デビュー間もない63年のこと。 看板番組の「スター千一夜」で歌ってもらえないかと打診した。 当時は「五社協定」の影響で映画スターがテレビに出ることは少なく、日活専属の吉永も同様だった。 また当初は吉永の母親にも「小百合は映画女優なのよ」と却下されたが、粘り強く交渉を重ね、吉永家の信頼を得るようになる。 そして「歌謡大全集」という30分番組に出演を取りつけた。 「小百合ちゃんに『セリフのように歌い、歌うように語れ』なんて生意気なことを言っていたけど、あの日の歌唱は、まさしくすばらしい表現力だった」 千秋が吉永に歌ってもらったのは、祖母との思い出を歌った「 おばあちゃん」という6分ほどの大作。 フジテレビの最も大きなスタジオを使い、背景は影絵だけで時間軸を表す。 そして千秋は、吉永にこんな注文を出した。 「最後に『おばあちゃ~ん! 』と呼びかけるところでポロッと泣いてほしい」 吉永は了承し、撮影まで5分だけ時間をくださいと申し出た。 さらに、どんな涙がいいのかと聞き、千秋は「一滴だけこぼれる涙がほしい」と言った。 「それはもうみごとに一滴だけ涙が流れ、忘れられない場面になりましたね」 やがて吉永を「スター千一夜」の司会に抜擢し、海外の大物たちにインタビューしてもらった。 石川さゆりの歌手デビュー時には「小百合さんにあやかった」という芸名秘話に協力してもらっている。
次の東京・高輪の閑静な住宅街に、3階建ての家を千秋(せんしゅう)与四夫は構えている。 夫人はベテラン歌手の畠山みどりで、千秋はフジテレビ開局からの花形プロデューサーとして鳴らした。 「これは3階の和室で撮った写真だけど、おそらく小百合ちゃんも持っていないはず。 40年目に初めて公開する貴重な写真だよ」 花柄模様のワンピースを着た吉永が、年上の男性と左手の薬指に指輪を交わしている。 結婚式のハイライトシーンであることは間違いないが、新郎新婦ともに平服であり、床の間然とした場所は大スターの挙式には不似合いだ。 その日から3日前、フジテレビの同期入社で、ドラマ班の看板ディレクターだった岡田太郎の申し出が始まりだった。 「千秋君の家で僕たちの結婚式をやらせてくれ」 千秋は驚き、いったんは断ったが、岡田の懇願に了承することにした。 当時、芸能マスコミを騒がせたように、岡田は離婚歴があって吉永とは15歳の年齢差だ。 そのことが吉永の両親を、親子の断絶も辞さないほど激怒させた。 その日の披露宴と会見こそ公の場で行うが、挙式だけは簡素に済ませたいという両人の願いだった。 「新郎新婦に、立会い兼仲人の形で僕とみどり、それに小百合ちゃんの母親代わりの介添人として先輩女優の奈良岡朋子さんに来てもらった」 たった5人の挙式だった。 これに岡田と吉永が密会に使っていた新宿の寿司店の大将が料理を振る舞いにやって来ただけ。 吉永が28歳、岡田は43歳であったが、千秋は吉永の心底嬉しそうな表情が忘れられない。 「常々、30歳までには結婚したいと言っていた。 女優業が壁にぶつかっていたこともあり、吉永という姓を変えたかったみたいだ」 千秋が音楽番組の演出家として吉永に出会ったのは、歌手デビュー間もない63年のこと。 看板番組の「スター千一夜」で歌ってもらえないかと打診した。 当時は「五社協定」の影響で映画スターがテレビに出ることは少なく、日活専属の吉永も同様だった。 また当初は吉永の母親にも「小百合は映画女優なのよ」と却下されたが、粘り強く交渉を重ね、吉永家の信頼を得るようになる。 そして「歌謡大全集」という30分番組に出演を取りつけた。 「小百合ちゃんに『セリフのように歌い、歌うように語れ』なんて生意気なことを言っていたけど、あの日の歌唱は、まさしくすばらしい表現力だった」 千秋が吉永に歌ってもらったのは、祖母との思い出を歌った「 おばあちゃん」という6分ほどの大作。 フジテレビの最も大きなスタジオを使い、背景は影絵だけで時間軸を表す。 そして千秋は、吉永にこんな注文を出した。 「最後に『おばあちゃ~ん! 』と呼びかけるところでポロッと泣いてほしい」 吉永は了承し、撮影まで5分だけ時間をくださいと申し出た。 さらに、どんな涙がいいのかと聞き、千秋は「一滴だけこぼれる涙がほしい」と言った。 「それはもうみごとに一滴だけ涙が流れ、忘れられない場面になりましたね」 やがて吉永を「スター千一夜」の司会に抜擢し、海外の大物たちにインタビューしてもらった。 石川さゆりの歌手デビュー時には「小百合さんにあやかった」という芸名秘話に協力してもらっている。
次の芸名:吉永小百合(よしなが・さゆり) 本名:岡田小百合(おかだ・さゆり) 生年月日:1945年3月13日(2019年10月現在74歳) 出身地:東京都渋谷区 身長:155cm 血液型:O型 職業:女優、歌手、ナレーター 活動期間:1957年~ 吉永小百合さんはご両親と 3人姉妹で、 次女として生まれました。 父親の吉永芳之さんは鹿児島県出身で学歴は東京大学法学部卒。 父・芳之さんは九州耐火煉瓦、外務省嘱託を経て、知人らと映画のファン雑誌となる出版社 「シネ・ロマンス社」を立ち上げました。 しかし売上は振るわず事業を撤退したため、吉永小百合さんご家族は 貧しい生活を強いられ小学時代には借金取りが取り立てに来て、お米を買うお金もなかった程だったようです。 家計が大変苦しかったためそれを支えようと吉永小百合さんは新聞配達をすることをすることを提案しますが親に止められてしまったというエピソードがあります。 母親は和枝さんと言い、実家は東京都の山の手にある 名家出身でした。 短歌結社誌「潮音」に所属していた歌人でもあり、ピアノの教師もしていました。 母親からは女優を目指すべく育てられ、小学校の学芸会での演技が好評で、 1957年(小学校6年生)にラジオ東京でラジオドラマ 『赤胴鈴之助』で声優デビューします。 この声優出演で手当がもらえ、家計を支えたそうです。 同年10月にテレビドラマ『赤胴鈴之助』のヒロインで 女優デビューし、美少女として注目されます。 高校入学と同時に石原裕次郎さんなど銀幕スターで有名な日活映画に入り、1962年(17歳)で映画『キューポラのある街』のヒロイン役を演じると史上最年少でブルーリボン賞に輝き、その後多くの映画に出演して清純派女優の大スターへの階段を駆け上がっていきました。 吉永小百合さんは同時に 歌手デビューも果たします。 橋幸夫さんとのデュエット 『いつでも夢を』は30万枚の大ヒットを飛ばし、現在も歌い継がれる昭和歌謡の名曲になっています。 出典:アマゾン 女優として多忙だったため高校は中退しましたが、大学入学資格検定を受け高卒と同等以上の学力があると認められ、 早稲田大学第二文学部に 入学し、きちんと4年間正規で通い1969年にはなんと 次席で卒業します。 父親に似たのか、かなり優秀だったのが伺えますね。 『サユリスト』という吉永小百合さんの熱狂的なファンも生まれました。 タレントの タモリさんもその1人で、吉永小百合さんを追って一浪の末に早稲田大学第二文学部に入学しているんです! その他にも学食で吉永小百合さんが食べ残したものを食べようか迷った末に思いとどまったエピソードや、学食のおばさんにどうしたら吉永小百合さんに会えるのかリサーチしてもらったけど会えなかったといったエピソードが語られています。 そんなサユリストのタモリさん、 『笑っていいとも』の 最終回ゲストに吉永小百合さんを読んで夢を叶えています。 もしかしたらタモリさんが芸能界に入ったのも吉永小百合さんを追っての行動かもしれませんね。 笑 Sponsored Link 吉永小百合の元カレは渡哲也! 1966年(昭和41年)に吉永小百合さんは映画 『愛と死の記録』で渡哲也さんと初共演し、 恋仲に発展します。 ちなみに吉永小百合さんにとっては 初めての恋人でした。 出典:soma-kaeru. com 2 人の出会い 当時、吉永小百合さんは映画デビューから13年経っていましたが働き詰めの毎日で東京と京都でドラマを掛け持ちして移動時間に休むという多忙な日々を送っていました。 忙しすぎてストレスもたまり心身ともに疲弊していたそうです。 ですが所属事務所で働く20人のスタッフのことを思うと、疲労困憊していても 「休みたい」と言い出せず・・・。 するとストレスが原因で、女優の生命線でもある 「声」が出にくくなり、 「声を出しているつもりでもスースー音が抜ける感じ」になってしまうという 病気を患ってしまいました。 そんな辛い時に支えてくれたのが、19歳の時から親交のあった15歳年上のフジテレビ社員の 岡田太郎さんでした。 出典:hachibachi ものすごい報道陣の数ですよね?! 吉永小百合さんの ご両親は15歳も年上の上にバツイチの岡田太郎さんとの結婚には 大反対したそうです。 当時岡田太郎さんはご自身の経験からも「結婚は大変だよ」と消極的だった岡田さんとは対称に吉永さんは積極的だったと言います。 当時吉永小百合さんは父親が社長を務める所属事務所に唯一の所属タレントとして在籍しており、いつも一緒にくっつき娘を溺愛していました。 ですがご両親のことが苦痛で、両親から離れたいとも思っていたため結婚に踏み切ったようです。 結婚を機に所属事務所からも離れたそうです。 子供の時は良いとしても、大人になってまでも親が近くにいるとちょっと鬱陶しく感じると思います。 ある時期を境に子は親離れも必要ですし、親は子離れが必要な時がきますよね。 そして結婚後は 「完全に行き詰まっていた状態から自由になり本当の第一歩を始めることが出来た。 」 「結婚していなければ、女優をやめていただろう。 」 と振り返っています。 結婚後 吉永小百合さんは結婚後、1年間お仕事を休まれ充電されたようです。 それまで周囲の人が全て身の回りの世話をしてくれていましたが、結婚して初めて自分で銀行の預金の引き出し方を覚えたり、家事・料理をしたり、今までしたくても出来なかった普通の暮らしができ、それが新鮮で楽しかったと言っています。 ちなみにお料理は料理学校をしている親戚から教わって覚えたようですよ。 夫の岡田太郎さんはフジテレビの一社員から共同テレビの社長、会長、相談役まで出世された凄い方でした。 退職後はテレビ『おとこの台所』を見て、大好きなワインに合う料理を始めたそうです。 2014年夏、岡田太郎さんが84歳の時に思い肝臓の病気で厳しい溶体の時もあったようですが、今は無事に退院され元気にしているようです。 そしてこの病気をきっかけに吉永小百合さんは自宅をバリアフリーにしたそうで、現在岡田太郎さんは奥さんの手料理を食べるのが楽しみで、特にかつお出汁のお味噌汁は欠かせないのだとか。 なんだか夫婦円満なのが伝わってくるエピソードですね。 子供を作らなかった理由は? 吉永小百合さんと岡田太郎さんの間には子供はいません。 子供を作らなかった理由は色々とあるようですが、一番は吉永小百合さんと 母・和枝さんとの確執にあるようです。 吉永小百合さんは親に溺愛されて育った分、自分の主張を尊重してもらえず、子供時代から結婚されるまで散々 母親から価値観を押し付けられて育ってきました。 このことは吉永さんご自身も、 「子供の頃、自分は両親からまともな教育を受けていない」 と語られています。 確かに吉永小百合さんの生い立ちを見ると、父親は事業に失敗し貧乏になったためラジオドラマに出演し家計を助けた経緯があります。 そして母親からは女優になるために育てられているのでまさに価値観の押し付けです。 渡哲也さんとの恋愛についてもご両親から反対され破局し大失恋されています・・・。 また、結婚翌年の1976年に母親は随筆集を出版し、娘を奪い去った岡田太郎さんへの怨嗟を綴っています。 今で言う アダルトチルドレンというところでしょうか。 親子なのにこのシチュエーションはかなりキツイものがあります。 吉永小百合さんの子供を持たないという決断はご自分の子供時代のルーツにあり、過干渉だった自分の母親のようにはなりたくなかったからなのでしょうね。 なんだか 切ないですね。 まとめ 国民的大女優の吉永小百合さんの経歴から元カレと旦那様との馴れ合い、子供を作らなかった理由についてまとめてみました。 元カレが渡哲也さんだったというのはかなり驚きですが、当時世間は15歳年上のバツイチ男性であった岡田太郎さんと結婚された方が驚きだったのでしょうね。 そして子供を作らなかった理由が母親との確執にあったというのは何とも切ないなと感じました。 恐らく吉永小百合さんが良い子過ぎて親は甘えてしまったのでしょうね。 子供は居なくても吉永小百合さんには様々な映画に出演した作品が残っています。 そしてこれからも沢山の作品に出て後世の人々にも感動を与え続けていって欲しいですね。 最後までお読み頂き、ありがとうございました。 Sponsored Link.
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