明智 光秀 越前。 明智光秀、美濃を追われ、越前で過ごした「謎の十年間」

明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト

明智 光秀 越前

0Km 1582年6月2日、明智光秀軍が三軍に分け、本能寺へ攻め込んだとされるひとつの道が明智越である(前回の唐櫃越もそのひとつ)。 2年前に歩いた牛松山と同じく西友亀岡店駐車場に車を止め、亀岡から保津峡を目指した。 一つ目の信号を右へ曲がれば良かったのだが、少し行きすぎてしまった。 戻って、「明智越ハイキングコース」の道標に従い集落の中を進む。 のんびりと町並みを眺めながら、進む。 約20分で「明智越ハイキングコース」の登山口に到着。 案内図が表示されている。 木々に囲まれ展望はないが、「保津百景道しるべ」という案内板が設置され、その場所の所縁が紹介されている。 ここから平坦な道となり、木々の間から牛松山が見えている。 新明峠への分岐を過ぎると下りとなり、鉄塔下に到着。 愛宕山と水尾の集落が見えている。 下山路は、V字に道が掘り削られ、所々水がたまりぬかるみ、歩きづらかったが、15分ほどで水尾集落への道へ出る。 ここから駅までは舗装路を下る。 水尾から駅へ向かう人が多く見受けられたが、駅に到着し、JRのイベントが開催されていたことが分かった。 9:21 JR亀岡駅 今年10月に歩いた半国山が見えている 保津川下りの船着き場・少し下流側に移動したようだ。 左岸の工事はまだ続いている。 保津橋の正面は牛松山。 9:52 行き過ぎて遠回りしてしまった。 保津橋を渡り、一つ目の信号を右折すれば、すぐこの標識がある。 しばらく、町並みを楽しみながら舗装路を進む。 10:00 この分岐は右へ。 10:04 登山口に到着 登山口には、コースの案内図と明智越の説明板がある。 コースには言い伝えの表示がある 歩き込まれて削られ、多く岩が露出している。 1021 大見晴らしと標識があり、上へ登るが、倒木で無残な状態、何も見えない。 10:45 登山口から40分で「峯の堂」(むねんどう)に到着。 峯の堂を過ぎると、平坦な道になった。 ずっと登りが続いていた。 11:13 「土用の霊泉」、土用の頃でも水が湧き出ていたという。 馬の水やり場になっていたらしい。 11:23 ようやく、展望が開けるところに出た。 鉄塔と水尾へ分岐。 古い石の道標。 「左 さがへ」しか読めなかった。 11:42 鉄塔下に到着。 北側に愛宕山と水尾の集落が見えている。 南側の展望。 唐櫃越の方向。 下山路は、水がたまり、ぬかるみ、歩きづらい。 水尾から保津峡へ向かう人が多かった 休憩した鉄塔が見えている 舗装路は車道と合流する。 保津川沿いのハイキングコースの入口だが、通行止めとされている。 JRのウォーキングイベントがあり、水尾から人が多かったようである。 保津峡駅ホームからの保津川、先々週、車窓から多くのカメラマンで賑わっていたのを見たが、今日は1人もいない。 亀岡から車で京都・烟河へ。 前回よりも空いていた。 2011年12月11日編集.

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明智光秀が織田信長に仕えるまで

明智 光秀 越前

麒麟がくる 2019. 12 2020. 14 monster. cat611 大河ドラマ明智光秀の前半生 織田信長に出会うまで 将軍足利義輝に仕えたのも束の間。 将軍義輝が討たれたことで、またも負け戦となり逃げる事を余儀なくされた明智光秀。 その後、三河牛久保の牧野氏に仕えていたという記録があります。 しかしここでは目立った動きはなく、三度浪人となり家族や一門を連れて、朝倉義景に仕えたとされます。 朝倉家では鉄砲の腕を見込まれ、鉄砲隊の指揮者となったと記録されています。 さて、ここからが明智光秀の大きな転機となる出来事がやってきます。 足利義昭越後に来る! 越前にやってきた足利義昭の供をしてきたのが、将軍の足軽として勤めていた時代に一緒だった細川藤孝(のちの幽斎)でした。 足利義昭は、亡くなった前将軍義輝の弟にあたり、実際は将軍を継ぐことのできる立場にはありませんでした。 実際義輝存命中は、奈良一条院で覚慶(かくけい)と名乗り僧侶として暮らしていました。 しかし義輝が亡くなると、一転して自分こそが次期将軍だと考えたのです。 当時の将軍は、義輝を殺害した三好三人衆と言われる三好長逸、三好政康、岩成友通らに擁立された義栄(よしひで)が就いていました。 我こそは正式に将軍を継ぐものだと思った義昭は、最初は甲賀の和田氏を頼り逃げました。 そこで還俗し僧衣を脱ぎ捨てたのです。 将軍になるための後ろ盾を求めて、近江の六角氏、若狭の武田氏に働きかけましたが誰も首を縦に振りませんでした。 仕方なく足を延ばしたが、越前の朝倉氏だったのです。 ここでも特に興味を示されなかったことで、義昭は不安になります。 どこかに後ろ盾になってくれる武将はいないだろうかと細川氏が光秀の相談したところ、上がったのが織田信長という名前でした。 織田信長の妻「濃姫」は、幼名を帰蝶(きちょう)といい、光秀の伯母の娘です。 光秀とはいとこ同士という関係になります。 当時一番勢いがあったのが織田氏だということも、光秀が名前を上げた要因の一つではないかと推察します。 義昭は朝倉氏に、光秀を借りたいという旨と自分の代理として織田に向かわせたいという話をし快諾されています。 こうして明智光秀は、足利将軍家の代理人として織田信長と始めての対面をすることになりました。 なぜなら、当時は田舎侍が京に登ることは恐れ多いことで、正当な大義名分が必要だったのです。 京に行く名分が無いかと探しあぐねていた織田に、次期将軍の後ろ盾という願ってもない好都合の大義名分がやってきたのです。 光秀の申し出は即刻了承され、義昭は駆けるように織田に向かったのです。 織田信長は、私たちがよく目にする日本画の通り、小柄で細面。 目も細ければ唇も薄いという能面のような容姿だったそうです。 一方明智光秀は、織田の家臣にはいない優雅な物腰を備え、言葉の端にも教養と雅さが表れるという武人でした。 織田は光秀を家来にと望みましたが、光秀はここではそれを受けず、足利将軍家お供衆という身分を手にしました。 慎重な光秀のことですから、この時期は足利家と織田家を天秤にかけていたのかもしれません。 京都への道すがら、土地土地の戦国大名たちと争う事無く京に入りたかった信長ですが、足利将軍家を奉っているにも関わらず逆らう者たちもいました。 敵対してくる武将に対し、信長が取った戦略とその決断の速さには、光秀も一目置いたと伝えられています。

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明智光秀、美濃を追われ、越前で過ごした「謎の十年間」

明智 光秀 越前

明智光綱 あけち-みつつな の兄弟には、 がおり、斎藤道三の正室になっています。 この明智光綱の別名が明智光国、明智光隆ともされますが、1535年に討死したともされます。 この時、明智光秀はまだ子供だったと言われており、隠居していた祖父・ の命にて、 あけち-みつやす が明智城に入って後見したともされます。 その明智光安 は、斎藤道三の子・ と対立し、1556年に明智城が陥落し討死しました。 このとき、明智光安の子とされる は、明智光秀と共に城から脱出したと言われていますが、不明瞭な点が多いです。 お牧の方 は、通説では明智光秀の母親であり、若狭・武田氏の娘、 の娘とも伝わります。 明智光秀が老母を人質として敵に出と言う話が江戸時代の軍記などで記載されていますが、事実だったかどうかは不明と言ったところです。 なお、お牧の方は、母親ではなく、明智光秀の最初の正室であるとする説もあります。 千草 明智光綱の弟である山岸光信(進士光信)の娘・千草がいます。 明智光秀は、この千草に庶子を産ませたとする説があります。 なお、千草とは結婚しておらず、側室にもしていませんので、未婚のまま子を産んだと言う説もあります。 ただし、1546年、明智光秀 明智十兵衛光秀 が18歳のときに、千草 山岸光信の娘、16歳 と結婚して最初の妻にしましたが、のち死別したとする場合もあります。 子の山岸光重は、母方の山岸家の養子となり、のち明智家の家臣に加わり、明智光重と称したともされます。 もちろん、諸説ある話ですので、どれが間違えで、どれが正しいとも言えません。 妻木煕子 つまき-ひろこ と、明智煕子 あけち-ひろこ とも言いますが、美濃・妻木城主とされる妻木範煕 妻木勘解由左衛門範煕 の娘と考えられます。 一説によると1530年頃に生まれており、 の娘とする説もあります。 有名な話としては、妻木煕子が明智光秀に嫁ぐ直前「疱瘡」 ほうそう=天然痘 にかかり、左の頬 ほほ に、ぶつぶつの跡が残ってしまったと言います。 そのため、妻木煕子は、嫁ぐのを辞退したとも、父が別の娘をと申し出たともされます。 一説では、煕子に姿が似ていた妹・芳子 よしこ を代わりに嫁がせようとしたとも・・。 しかし、明智光秀は、煕子が芳子に知らない間に変わっていたのを見抜いたとも、そんな容姿の事は気にしなかったともされます。 容姿は年を取ったり病気をすれば変わるが、不変なのは心の美しさであるとして、いずれにせよ妻木煕子と結婚しました。 1556年に、明智城が斎藤義龍によって攻められた際には、身籠っていた明智煕子を背負って、明智光秀は越前の のもとまで逃れたとされます。 越前で 主の に仕えたとも客将になったともされますが、明智の屋敷は少し離れた西側にあります。 要するに、優遇されていたとは言えず、生活は苦しかったと言います。 ある日、朝倉家にて連歌会の催しを明智光秀が行う事になり、酒宴の出費に苦労している明智光秀を見て、明智煕子は、自分の黒髪を売ってお金を用意したと伝わります。 当時の女性にとって、長い髪の毛は、身分の高い女性としての証でもあり「髪は女の命」ともされましたが、そのようなプライドにこだわらず、夫を支えた良妻でした。 そのため、二人の夫婦仲はとても良かったと言われています。 1563年には、3女 4娘 ・ のちの が越前にて生まれました。 1571年、 のあと、明智光秀は宇佐山城主となり、近江・ が築城されると、明智煕子も転居したことでしょう。 1575年、明智光秀は、惟任の姓と日向守の官位を から賜わります。 しかし、 との の戦いで、おもいっきり大敗した際に、明智光秀はそれまでの疲れが出て発病します。 このとき、明智光秀は京の医師・曲直瀬道三正盛 まなせどうさんまさもり の屋敷にて療養しました。 死の境を彷徨ったとも言われていますが、明智煕子の献身的な看病にて救われたとされます。 その疲れのせいか、明智煕子は病気になったようで、明智光秀が平癒祈祷を にお願いしています。 また、吉田兼見が明智煕子の病気のお見舞いで、 の宿所も訪問した記録が残っています。 しかし、1576年11月7日に、明智煕子は死去しました。 享年46 享年36、享年42 ともされます。 戒名は福月真祐大姉。 墓所は、 からほど近い明智家の菩提寺「 」にあります。 それら妻木煕子に関して詳しくは下記でも解説させて頂いております。 本当に申し訳ないのですが、色々な説があります。 伏屋姫は、服部鳥羽守の長女で、美人のほまれ高く16歳で明智光秀に嫁ぎました。 服部鳥羽守は、鳥羽城主・服部保益と考えられます。 しかし、伏屋姫は疱瘡にかかって亡くなったため、妻木煕子が後妻 継室 として入ったする場合もあります。 別の話では、伏屋姫が嫁ぐ直前に疱瘡にかかり、服部鳥羽守は次女を代わりに嫁がせようとしたが、明智光秀は疱瘡にかかって容姿が醜くなった伏屋姫と結婚したともあります。 この疱瘡の話は、明智光秀の正室とされる上記の妻木煕子 明智煕子 の話でも同じく出てきますので、話が伝承されるうちに、混同したようですので、今となっては、どっちが最初の話なのか、確認は困難です。 また、伏屋姫は明智煕子が亡くなったあとに迎えた後妻 継室 だとする説もあり、1582年1月に坂本城にて内治麻呂を出生したともあります。 そして、 のあと、 が伊賀越えをした際には、服部鳥羽守が命を狙ったとも言います。 色々な話がありすぎて、もはや解明は不明といったところです。 ただ、継室にする場合には、そのとき、すでに明智光秀は織田家の中でも相当の地位ですので、伏屋姫を迎えたとした場合には、妻木煕子の前と考えるのが妥当なような気がいたします。 側室・喜多村保光の娘 明智光秀は側室を持たなかったとするのが一般的ですが、逆に側室は2人いたとする説もあります。 その一人が、喜多村保光の娘ですが、この女性は、上記でご紹介した伏屋姫であるともされます。 喜多村保光の娘は、1582年に明智光秀の3男を産んだともされます。 その子が、上記でもご紹介した内治麻呂です。 この幼子は坂本城から脱出して、母の実家である喜多村家に逃れたともあります。 そして、成長すると喜多村保之と称しました。 1635年に妙心寺の住職・玄琳が「明智系図」を喜多村保之に送り、その系図が現代に伝わると言う事になります。 この喜多村家は、服部一族とする説もありますので、そのように考えますと、伏屋姫の服部家=喜多村家と言う可能性もあります。 側室・原仙仁の娘 原仙仁の娘ですが、肥後・細川家 の嫁ぎ先 にゆかりある安国寺の「土岐系図」に掲載されています。 父・原仙仁は公家とされますが、そもそも、公家に原氏は存在していませんので、違った名前があった可能性もあり、どのような人物なのか全く不明です。 また、原仙仁の6男は浅野内蔵助、すなわち で有名な大石良雄 の祖父というので、信憑性の問題はありそうです。 なお、原仙仁の娘は1女を儲けたようで、その娘は、川勝丹波守の妻になっています。 この川勝丹波守ですが、室町幕府の奉公衆で、織田家に従っていた川勝秀氏の子・川勝広綱の可能性があります。 ただし、川勝広綱の正室は織田家の末流にあたる藤掛永勝の娘ですのです。 よって、川勝丹波守の妻になった明智光秀の娘に関しても資料不足でよくわかりません。 この原仙仁の娘の姉が、美濃・佐藤一族の恩田氏に嫁いでおり、その子が「 」として明智光秀の与力を務めていますが、 の変にて討死しました。 御ツマキ 御ツマキ おつまき は、この女性も諸説ありますが、下記の通りです。 明智光秀の実の妹 妻木煕子の妹 いずれにせよ、織田信長の近くにいるようになった女性 女中?側室? です。 1577年11月には、惟任妹御ツマ木が、明智光秀と共に東大寺と織田家の調停を行いました。 1580年5月、上洛した織田信長に、山科言経が進物を献上した際、その近所女房衆の「ツマキ」らにも帯を献上したとあります。 ここで女房衆と記載されていることから、ご婦人、すなわち側室であった可能性が指摘されています。 また、1580年9月、吉田兼見の日記「兼見卿記」には、在京していた「惟任姉妻木」に酒と食物を持参したとあります。 この「姉」と言うのは恐らくは、妹の勘違い・誤記と考えられますが「妻木」と明記されていることから、御ツマキは「 」、すなわち妻木煕子の妹である可能性があります。 この御ツマキを通じて、明智光秀は、織田信長の言動を入手したり、時には織田信長を説得するようなことも、依頼していたとも考えられます。 しかし、1581年8月、奈良・興福寺の多聞院日記に「去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」とあります。 惟任ノ妹ノ御ツマキ死了は、御ツマキが亡くなったことを示しています。 その翌年、本能寺の変となりました。 御ツマキの死が、織田信長と明智光秀の関係に影響を与えた可能性も無きにしも非ずです。 なお、明智光秀自身は、土岐明智氏ではなく土岐妻木氏が出自で、明智氏の家督を継ぐことになったとする説もあります。 そのように考えますと、御ツマキは、明智光秀の実の妹とも考えられるのです。 明智光秀の子供 明智軍記 3男4女 長女:明智光春の妻 の正室から、明智秀満の正室 次女: の妻 三女: の妻(細川ガラシャ) 四女: の妻 長男:明智光慶 次男:明智光泰 明智十次郎 三男:明智乙寿丸 鈴木叢書 そうしょ の中にある明智系図 側室の子も含めると6男7女 長女 養女 :菅沼定盈の妻 三宅長閑の娘) 次女 養女 :桜井家次の妻 三宅長閑の娘) 三女: の妻 四女:細川忠興の妻(細川ガラシャ) 五女: の妻 六女:川勝丹波守の妻 長男:玄琳 妙心寺の僧侶 次男:安古丸 で討死 三男:不立 天龍寺の僧侶 七女:井戸三十郎の妻 四男:十内 坂本城落城のときに自刃 五男:自然 坂本城落城のときに自刃 六男:喜多村保之 江戸町年寄 不明:定頼 上記の2つの史料にて一致する子供は下記の通りです。 織田信澄の妻 細川忠興の妻 織田信澄の妻 明智光秀の娘 の名前は不詳ですが、嫁いだのは間違いありません。 なお、細川忠興の妻は皆様もよくご存じの細川ガラシャ 明智玉 と言う事になります。 細川ガラシャに関しては下記にて詳しく記載させて頂いております。 明智光慶 明智光慶(あけち みつよし)は明智十五郎 明智十兵衛 とも言い、妻木煕子が産んだ長男とされます。 が築城された頃から、史書に名前が見られますが、初陣した形跡はないため、年齢は低かったものと推測されます。 本能寺の変の直前に、愛宕山で開催された威徳院連歌で結句を詠んでいますので、13歳前後であったとは考えられます。 この明智光慶もたくさんの説があります。 本能寺の変のときには、丹波・ にいたとも、坂本城にいたともされます。 明智光秀が に味方するように書いた手紙には「近畿を平定した後は十五郎に天下を譲り、自分は隠居する」と記されてもいます。 明智光秀が襲われて命を落とすと、明智光慶は自刃したとも、坂本城から脱出したあと自害したとも、生き延びて妙心寺 京都市右京区花園 の住職・玄琳になったとも色々な話があります。 千葉県市原市不入斗 いりやまず には「明智光秀側室の墓」と伝わる墓石があります。 この側室と言うのは「ふさの方」と言う名前で、明智十五郎と共に、不入斗まで逃れて生涯を送ったとも推測されています。 齋藤利満・ の親子が同行したともあり、墓には土岐重五郎と言う名が刻まれているそうです。 なお、成人した明智十五郎は、つね子と言う女性を妻に迎えたようです。 桔梗の家紋とともに、側室・重五郎・つね子 ツ子 の3名の名がひとつの墓石に刻まれているそうです。 千葉と言えば、万喜城主・土岐為頼 万喜頼春 がいますので、同じ土岐氏と言う事で、頼ったのかと思いました。 しかし、南北朝で戦功があった土岐頼貞の子・土岐頼重 明智頼重 のときの所領のひとつに武蔵国荏原郡大井郷不入斗村があります。 そのため、明智一族の親戚が不入斗 いりやまず にいたと考えるのが自然でしょうか? 明智自然 明智光慶と共に存在が確実視されている明智自然 あけち-じねん は、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場しました。 明智軍記では明智光秀の次男・明智十次郎光泰の幼名が自然だと記されているようです。 鈴木叢書や明智系図では、坂本城落城の際に自刃したとあります。 また、別の説では、明智光泰 あけち-みつやす は、一時は、大和・ 主である の養子・筒井定頼 自然丸 になったともあります。 ただし、その説の場合には、筒井定次が織田信長の娘を正室に迎えて、本家の跡目となったため、明智自然は明智家に戻っていたようです。

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