彼を怒らせたのは、この街、これらの住民たちの何だろう? 彼らが他の共同体とちがうのは、二つの点だけだ。 美しさと孤立。 共同体の中で、自分が生きやすいように変化をうながす。 共同体を出て、別の共同体に所属する。 共同体を出て、新しく自分たちのための共同体を作る。 個人の場合は「共同体を出て別の共同体に所属する」がいちばん楽だが(転職などはまさにそうだ)、ある規模の集団になると、最初か最後の選択肢を選ぶことが多いように思える。 『パラダイス』の登場人物たちは、最後の選択肢を選んだ人たちだ。 彼らは黒人で、白人が優位に立つアメリカの町を離れて、自分たちだけの楽園を作ろうとした。 黒人による黒人のための町。 皆が幸せで争いがなく、平等で平和なパラダイス。 パラダイスはパラダイスでなければならない。 だから異端者は排除しなくてはならない。 舞台は黒人たちが作り上げた架空の町「ルビー」。 『パラダイス』というタイトルから想像しうる平穏さとは無縁な、暴力と不信と殺意に満ちた男たちの登場によって物語は幕を開ける。 彼らが襲撃しようとしているのは、町の外れにある「修道院」である。 この襲撃は正当であり、歪みつつある町を立て直すために必要なことだ。 楽園はきちんとした男たちによって治められていなくてはならない。 これが男たちの論理である。 次は、修道院に住む女たちの暮らしと、これまでの人生にスポットライトが当てられる。 彼女たちはそれぞれが、彼女たちを苦しめるものから逃れて修道院に流れ着いた「はぐれ者」だ。 修道院の女たちは自分たちで畑を耕しているため、ほぼ自給自足の生活をしている。 だから、流れ者でも住み着ける。 誰も彼女たちがそこにいることを拒まない。 かといって滞在を強要もしない。 つかず離れずの、ゆるい原始的共同体を営んでいる。 「ここじゃ、毎日がこんなふうなの?」パラスは彼女に訊いた。 「いいえ、とんでもない」メイヴィスは傷ついた肌を撫でてやった。 「ここは、地球上でいちばん平和なところよ」 彼女たちが営む生活はまさに平穏そのものだ。 確かに、女たちならではのとんでもない罵り合いも、めんどうくさいどろどろした感情もある。 だが、彼女たちは誰かを攻撃しようとも、傷つけようともしていない。 傷ついた人間を受け入れ、適度に癒やし、適度に放置しているだけだ。 牧歌的なパラダイス。 一方、男たちのパラダイスは「楽園! 楽園! 楽園を維持しなければ!」と叫んでいて、よほど生きづらそうに思える。 実際に、男たちのほうが生きづらかったのだろう。 だから彼らは、平穏な修道院を襲撃した。 彼はいま、彼らの無益な死にのどを詰まらせているのだろうか。 それが、この暴力をふるいたい切望の発端なのか。 あるいは、ルビーが原因か。 彼らを悩ますものはみんな、女から来るにちがいない。 本書は「共同体がうまれて自壊するまで」というライフサイクルのえげつなさを描き出している。 問題は襲撃そのものではない。 男たちを暴力にはしらせた「種」はなにか、どうやってその種が楽園だったはずの町で育ってきたのか、ということだ。 読み進めれば進めるほど、男たちの襲撃はただの八つ当たりでしかない。 ルビーの象徴とも言える、始祖が作った巨大なオーブンに刻まれた文字の解釈が世代によって異なり、町が変わりつつあることは、修道院のせいではなく、ルビーの内奥からうまれた変化だ。 だが、変化を恐れる人たちは抵抗する。 そして、わかりやすく「自分たちとは異なる者」を血祭りに上げる。 古今東西ではこれまでに、腐るほど「楽園」「桃源郷」が作られ、そのほとんどが腐り落ちてきた。 作った当時は斬新で完璧で理想的なはずなのに、やがて不信と敵意がうまれ、彼らが忌み嫌っていた「自分たちを阻害してきた加害者」と同じことをするようになる。 十世代というもの、彼らは、これまで無くそうと戦ってきた差別は自由対奴隷、金持ち対貧乏人の差別だと信じていた。 つねに、ではないが、ふつう、白人対黒人の差別。 ところが、いま、彼らは新しい差別を見た。 肌の色の薄い黒人対黒い肌の黒人。 おお、白人の頭のなかでは違いがあると知ってはいたものの、これまで、黒人自身にとってそれが重要であり、重大な結果を招くとは考えたことさえなかった。 『パラダイス』は、たとえどんなに理想を共有する共同体であっても、分裂がうまれ、分断し、差別がうまれることを容赦なく描く。 不信と不満を栄養にして敵意は育ち、大義名分という隠れ蓑を経て、暴力として花開いて墜落する。 もう何百回、何千回、何万回と人類がくりかえしてきていることを、ルビーの住民も、現実世界の私たちもまだ繰り返している。 『パラダイス』を読むと「人類……」と頭を抱えてげんなりしてくる。 なじめない者どうしが集まって、最高にクールな仲間たちだけの楽園を作ろうとしても、それは規模が小さい場合の話であり、あるていど規模がスケールすれば、なじめない者は出てくるし、時が経てば環境もルールも変化していく。 人間はちょっとの差異を見つけて、区別し、差別する。 区別と差別が、もはや人類が避けられない業なのだとしたら、戦争などなくなるわけがない。 こう書くと、とにかく悲惨な物語のようだが(実際に悲惨ではある)、モリスンはところどころに幻想を織り交ぜてきており、それほどいやな後味は残さない。 これだけタイトル詐欺な鬱話を展開しておいて、最後はなんだかんだパラダイスっぽく終わっているのもいい。 「男のルビー」と「女の修道院」、「男が夢想する楽園」と「女が夢想する楽園」という二項対立が明確すぎるきらいはあるが、人類はすでに「魔女狩り」という燦然たる黒歴史を持っているので、やむなしという気もする。 永遠のパラダイスは実現しない。 だからこそ、人類が何度も夢を見ては、自分たちはこれまでの人たちとは違う、と言いながら、挑戦し続けるのかもしれない。 Recommend:アメリカ、生きづらい修羅の国 8月だからといって安直に『八月の光』を読むと文学熱中症になって頓死するから気をつけよう。 黒人の血が入っているらしい徹底的に生きづらい男と、未婚なのに妊婦という同じぐらい生きづらいはずなのに超然としている女の、えげつない差。 生きづらいアメリカ ベスト不動の1位「南部」の中でも、えげつないベスト3に入る本作は、読了後の衝撃をいまだに忘れられない。 これはすごいよ。 あまりにクラシックすぎて皆さん忘れているかもしれないが、『緋文字』もまた、生きづらいアメリカ小説である。 「プロテスタント怖い」と心の底から思った。 上述した修羅の国に比べるとだいぶマイルドな、ちょっとだけ生きづらい町、ワインズバーグ。 田舎らしい閉塞感を味わいたい人に。 アメリカはアメリカでも、北米ではなく南米。 「俺はあの男を殺す」と予告されているにもかかわらず、殺人は行われた。 皆が、加害者と被害者を知っていた。 にもかかわらず、なぜ誰もとめなかったのか。 共同体の恐ろしさを驚異的に描いている。 Toni Morrison "Paradise", 1997.
次のあらすじ 「 青い眼がほしい」と 黒人の少女ピコーラは祈った。 そうしたら みんなが愛してくれるかもしれないから。 同じく黒人の少女である「 わたし」が 語り手となり、 日常を少しずつ語っていく。 周囲に生きてる黒人たちの人生とともに。 最後にピコーラに戻っていくが…「青い眼がほしい」と祈ったピコーラは…。 読んでみて 差別について 差別って徐々に 浸透していくものなんだな、っていうことを真先に感じた。 分かりやすいような差別主義者じゃなくても 多くの人たちの中に差別は根付いている。 普段は表面に出ていないだけで 差別主義者だとは思っていない人であっても。 そしてそれは 当事者であっても。 すごく根深いと思う。 黒人の少女が「 青い眼がほしい」と願うことはその差別を体現していることに他ならない。 青い眼に白い肌、ブロンドの髪でなければ認められない世界に生きているからこそ、 自分自身を否定するしかなくなってしまっている。 黒人差別ってほんの少し前まで 公然と起こっていたことであって、そしてほんの少し前までの彼らの社会が こんなにも理不尽だったなんてとてつもなく辛くなる。 自己肯定感とか自分に誇りを持つなんてことが この社会ではできない。 黒人よりも白人の方がどんな場面でも 優遇され褒められ愛される。 そんな社会で黒人として生まれ、大人たちもそんな社会を受け入れるしかなく暮らしているところで 子どもが自分を誇りに持つなんて本当に難しい。 色々な人生 ピコーラや「わたし」だけでなく、 周囲の大人の色々な人生も辿っていくのが特徴的。 どの大人の人生にも 差別が出てくる。 彼らにとっては 生きることが差別されることであり、 差別が社会構造のなかに組み込まれてしまっている。 「 黒んぼやーい」と 黒人の子どもが黒人の子に対して言う醜悪さ。 なんとも言えない 後味の悪さ。 そんなことを子どもに言わせてしまう 社会構造。 差別されている人たちがみんな手と手を取り合って励まし合うわけではない。 黒人の間でもランクができる。 生き方や考え方や感じ方やお金やありとあらゆることで。 だって人間だから。 黒人っていうカテゴリーに無理やり押し込められているだけで、それぞれは違う人間だから実際の考え方や捉え方は千差万別なのは当たり前だ。 ピコーラの母、ポーリーンの人生はとても悲しくなる。 彼女の家庭は崩壊しているのにも関わらず、 他人の白人の家庭をとても素敵に保っているのも彼女だ。 現実の自分の世界よりも 仕事であるそちらの世界を選んだ。 彼女はそのことで満足しているのだけど、 満足していること自体がとても辛い気持ちにさせる。 白人の子どもはポーリーンにとても懐いていて、彼女の愛情を受けている。 でもピコーラは?白人の子どもには得られるものがどうしてピコーラには得られないのか?ただ肌の色違うということがそれほど大事なことなのか?それによって人生がまったく変わってしまうほどのものなのか? こういう社会の中では 白人に気に入られるようにするのも一つの生きる術だけれど、結局 他の黒人と分断されてしまい、 白人側、差別する側の思惑通りになってしまうような気がする。 こういう構造って「 夜と霧」を読んだ時に、 同じ囚人でも階級ができるっていうのを知ったけれどそれを同じように感じる。 体制自体を変えるのに力を合わせるのではなく、その中で生きることに焦点を当てることになる。 決してその構造自体を崩さないことを非難しているわけではない。 構造自体はどうしようもできないことであると差別する側から徹底的に恐怖や学習性無力感などを埋め込まれた結果だと思うから。 「年」で最終的には彼らが諦めてしまったのと同じだと思う。 その構造を維持したい側からすると、その構造の中で反抗せずに生きようとする人たちは歓迎される。 モリスンは丁寧に 一人一人の人生を描いていて、とてつもない大惨事が起こるところだけじゃなく、 本当に日々の日常、 些細な出来事を描くことで差別を表現している。 分かりやすい差別だけが差別ではなく、 差別が浸透している社会で生きることの窮屈さ、 息苦しさ、 そういうものを描いている。 あとがきにも書いてあるのだけど、彼女がこういう作品を描くまでは分かりやすい差別についての作品しかなかったらしい。 それもそうなのかも、と思う。 たぶんこの本を読んだ人々はみんなが全ての人が例外なく差別に加担していることを自覚させられたと思う。 そんな本を白人側はもちろん描かないだろうし。 例えば 差別を批判して協力的な人でも内面には差別があったりする。 爆然と下にみてたり。 日本でも外国人っていう括りでバカにしたりするけど、 私自身も相手が片言だと無意識に下にみてしまっていた。 それが分かったのは、ネットで「 日本語に来て日本語を話して働いている人は二カ国語以上話せている人」「 しかも日本語という難しい言語を話せている人」みたいなのをみて、「 全然自分より賢いんじゃん!」って思ったから。 そこまで自分で考えれなかったのもどうなのって感じだけど。 そもそも知らない国に来て働いてるとか普通にすごいし。 そういうのも差別だったんだな、と思う。 私が何か言動に表してなくても 相手は薄々気付いてたりする。 作中でもピコーラのことを あんまり触りたくないなって思う店主が出てくるんだけど、 それをピコーラは感じ取っている。 それがあまりにも辛い。 でもきっと私たちにも 無意識に思っていることがあるかもと感じる。 (中略)それには刺があり、まぶたの底には嫌悪がある。 彼女は、これがすべての白人の眼に宿っているのをみてきた。 そのとおり。 嫌悪感は、自分に、自分が黒人であることに向けられたものにちがいない。 差別をなくすのは差別を広めるよりもよほど手がかかる。 長い年月をかけて一人一人の人間の中に少しずつ蓄積されていくもので、 身体のどこかに少しずつ浸透していってそこで同化してしまっているから、 差別っていう何か一つをなくせばいいわけでもない。 差別はあるもの。 目にみえなくても、自分にも。 そしてそう簡単には消えてなくらないもの。 自分そういうとちゃんと向き合っていくしかないのだろうな。 「青い眼がほしい」 主題となっているこの「青い眼がほしい」、読んだあとはとても重い主題だと思うのだけど、日本だとけっこう頻繁に見聞きする。 「ハーフ顔」「」とかそういうのが多くて、 ピコーラの願いの本質とは違うのだけど、 結局白人を優位に感じているからこど出てくるものなのだと思う。 美の基準も白人文化から来たものだからそうなってしまうのも仕方がないのかもしれないのだけど。 美しい人は万国共通とか言ったりもするけれどそれもどうなの?と思う。 こんなに人間がいてこんなにいろんな文化があるのだから、美の基準も色々あっていいのに、全体的に白人の文化によっていっているように思う。 「青い眼」じゃなくてもいい世界に住みたい。 全ての人がありのままで自分を愛せるような世界になりますように。 私のように黒い夜 あとこの本を読んでいて以前読んだことのある「 私のように黒い夜」を思い出したりした。 この本も すごく心に残っていて本当に読んでよかった本なのでぜひ読んで欲しい。 作者は 白人なのだけど、 薬品で肌を黒人のようにして黒人社会に入っていくのね。 そこで初めて 黒人たちが受けている差別を体感するのだけど、 今まで親切だった人たち(白人たち)に全く違う対応をされたり、 距離があった黒人たちから親身に話しかけられたり、 白人でも気さくに話しかけてくると思ったら自分を人間としてみてなかっただけだと分かったり...。 上で引用した ピコーラへの目と一緒。 彼は本来は黒人じゃないのだけど、そういう対応をされるうちに 今まで白人としてならできていたことがにもできなくなってくる。 結局はそういう 社会構造が問題なのだと思う。 肌の色は区別するのに分かりやすいから使われているだけで。 いつの時代も階級社会を作りたいんだろうね。 似てるなぁと思ったのは、「 英国メイド マーガレットの回想」での 主人と召使側の関係。 英国メイド マーガレットの回想 かわいい絵だけど 描いているのはなのでけっこうヘビー。 そこでも 主人は 使用人には裸を見られても平気だし恥ずかしい話もなんだもできるのね。 同じ階級の相手には決してしないことを使用人相手にはするのだけど、それも 結局同じ人間として見てないからなんだよね。 そう思うと 同じ人間として考える、 同じ立場として考えることができるかどうかが差別しているかどうかなのか。 少しずつ蓄積した差別はすぐには消せないけど、 相手を違う人間としてみないようにするのが差別をなくす一歩なのかなあ。 あと作中に クリスマスに使用人たちにプレゼントをくれる主人が出てくるのね。 そういう主人は稀だったらしいのだけど 使用人側は不満なのね。 一見すると「なんで?」って思うじゃん。 でも親切な主人も「召使い」に親切にしているだけで、実際には「人間」として親切にはしてないのね。 使用人たちは信じられないくらい働いていて(いや、本当に信じられないよ!びっくりするよ!自分が当時に生きてたら早く死んでたと思うもん!)、上流階級との人間の差は永遠に埋められないようになっている。 でもそういう部分をどうにかしようとは思ってなくて、ただプレゼントをあげるだけ。 しかも 自分たちが「親切」にしていることを自覚した上で。 同じ人間ではなく、「使用人」として親切にしているのを使用人側は分かっているから「 押し付けられている」と感じる。 この感覚はマジョリティ側にいる時に注意しないといけない感覚だと思う。 他にも思い出した作品があって(どれだけ思い出すんだって感じだけど笑)、 ジェーン・エリオット先生の「青い目と茶色の目」という授業のこと。 調べたら動画が出てくるはず。 ジェーン・エリオット 青い目と茶色の目 学生時代に授業でみたのだけど、すごく 衝撃的だった。 クラスの子どもたちを青い目と茶色い目に分けて、ある日 は「青い目が優位」ある日は「茶色の目が優位」ってするのね。 そうすると子どもたちの行動が変わるの。 優位と言われた方はそうじゃない方をバカにしだす。 優位じゃないと言われた方も自分自身がそうだと感じる。 これをみると差別がどれだけバカバカしいかが分かる。 黒人差別は国民のほとんどがこれをやっているのと同じだからね。 この最初の映像が有名だけど、子どもたちが大きくなってからエリオット先生に会う映像や、 大学の学生相手に行う映像もあるのね。 特に大学の学生に対して行った映像は普段差別にさらされていない人種の学生に対して けっこう辛辣なことを言っていて、「 ちょっとひどくない?」って観たときは感じたし 自分がやられたら辛すぎると思うのだけど、「 行動する」ために 当事者意識を芽生えさせる必要があったのだろうな、とも感じる。 別に彼らだけのせいではないのだけど、 特権を持っている側もその特権を持っていることを自覚してそれを問題にしていかないと差別に加担することになってしまうんだと思う。 傍観者は加害者に加担してるっていうのと一緒で。 違いを認めた上で同じ人間だと考えていけるといいのかなあ。 長くなっちゃったのでここら辺で終わります。 お付き合いありがとう。 oljikotoushi.
次の人生取り戻す「故郷への帰還」トロイア戦争から帰還する英雄の遍歴を歌った古代ギリシアののように、文学は〈故郷への帰還〉を好んで描いてきた。 ノーベル賞にも輝いた黒人女性作家が、80歳を越えたいま、選んだのがまさにこの主題だというのは興味深い。 主人公の黒人青年フランクは、朝鮮戦争での兵役を終えて帰国後、愛する妹シーの消息を伝える一通の手紙を受け取る。 「遅れたら、彼女は死んでますよ」。 妹を取り戻し、彼女を故郷ジョージア州ロータスに連れて帰るためのフランクの旅が始まる。 モリスン版『オデュッセイア』? だが叙事詩の英雄とはちがい、フランクは戦争で心に癒やしがたい傷を負っている。 ともに従軍した幼なじみたちの最期、戦場で犯した忌まわしい暴力の記憶が不意に甦(よみがえ)っては彼を混乱させる。 この故郷への帰還が、フランクだけでなく、女性たちの視点からも描かれた物語でもあるところは、さすがトニ・モリスンである。 自分の家を持とうと奮闘する、フランクの元恋人リリーや、ロータスに生きる女たちの姿が読者の心を強く打つのは、彼女たちが人種差別や貧困のなかでも、己の人生に、そして自分を必要とするものすべてに、責任を持とうとしているからだ。 兄に救出された瀕死(ひんし)のシーは、ロータスの女たちのおかげで回復するが、子供を産めない体になる。 彼女がその悲しみを受けとめ、自立した女性として覚醒していく光景は神話の一場面のように美しく、兄にもまた己の過去と直面することを促す。 物語の最後、兄と妹は幼い頃に目撃した暴力の犠牲者の骨を探しあて、シーの作ったキルトに包み、一本の木の根元に埋葬する。 そう、そこからなら二人は人生をもう一度生き直すことができる。 〈死者〉と〈未(いま)だ生まれぬ者〉とが〈生者〉によって結ばれる場所。 そここそが文学がつねに立ち返るべき〈ホーム〉なのだ。
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