前回に引き続き、"夏の終わり" に関して、ネタを引っ張らせてもらう。 つい先日、ラジオ番組で、の『少年時代』が流れた。 「夏が過ぎ 風あざみ~」 夏の終わりに流れる、まさに定番曲である。 なんとなく聞いてる僕。 すると、が、「風あざみって、そんな日本語はないんですよね~。 造語なのを皆さんはご存じですか?」と。 えっ!そうなの?? 笑 本当に!? 一度、気になり出すと止まりません。 ボクちゃん。 電子辞書で調べてみると、確かに「風あざみ」では検索できない。 「風」と「あざみ」では検索できる。 ちなみに、「あざみ」は春から夏にかけての植物の名前らしい。 ではでは、今度はネットで調べてみると... やはり、の少年時代の歌詞、という類の項目ばかりの検索結果。 がインタビューで「響きのよさで作った言葉で、意味ないんだよ。 」と答えていることからも事実である。 とある。 そうだったんだぁ。。。 このホームページの中で、これら造語の解釈が載せてあり、言葉を噛み砕いて解説してくれている。 ここで、その一部を紹介してみることにしよう。 〇「風あざみ」 夏が過ぎ去った少年時代の虚無感。 子どもの頃の夏の想い出は、大人になっても楽しい想い出として記憶させる。 『青空に残された 私の心は夏模様』も、夏休みが終わったあとの、あの虚しい感情を表しており、青空という記憶装置に子どもの頃の楽しかった夏の想い出(=夏模様)を残している。 う~ん、分かったような分からないような・・・ 笑 僕の「風あざみ」という言葉からイメージするのは、 黄金色に変化した水田の稲穂が、青空の下、風でサラサラとなびいている風景そのものなんだけどなぁ。。。 でも、風あざみという言葉の解釈はさておき。 少年時代の夏の想い出の感情を、『夏模様』という言葉で表現しているとの解釈は、納得できるし分かりやすい。 他にも、 〇「夢花火」 夢のような八月の楽しかった想い出を、花火の儚さにかけている。 これは、なんとなく理解できる。 夢って、そもそもはかない一面があるし、それを実現するには相当の努力と労力を要するものだ。 夢って自分にとっては、煌びやかで憧れでもあり、、、 そんな「夢」のような楽しかった夏の時間・想い出は、あっという間に過ぎ去っていくもので、それを花火の美しさと儚さにかけている造語という解釈は、もはや "言葉の芸術" であると言えるだろう。 〇「夢はつまり 想い出のあとさき」 夢とは、想い出の延長線上にあるものと考えており、夢は想い出の一つ これはもう、令和最初の夏に僕が経験した出来事を考えてみても、非常に共感せざるを得ない 笑 「あの子とデートしてみたかったなぁ」 なんていう願望も、僕のように女性慣れしていない人間にとっては、『夢』の一種と言える。 そんな願望・夢というのは、実現できなくても "想い出" として記憶され、けっして苦い想い出ではなく青春の1ページのような甘酸っぱい記憶として残ることだろう。 夢は、煌びやかで憧れでもあり、それだけ実現も難しく、結局は儚いものである。 だからこそ、現実に実行がなされなかったとしても、想い出の一つとしては記憶されるのだ。。。 こんな風に、の造語の解釈をしていて気づくのは・・・ "日本人の想像力の果てしなさ・素晴らしさ" そんなことを、皆さんも感じませんか?? 最後に、この『日本人の想像力』について、僕からプレゼンさせてもらうことにする。 一人称。 自分自身を指す言葉。 英語では、アイ。 アルファベットの「アイ I」という一文字。 多分、口語でも文語でも、これ以外に自分自身を指す言葉ってないですよね!? 「セルフ self」だと、「自分自身で何かをやる」みたいな、動詞的な要素が加わる気がするので。。。 純粋に、自分自身を指す言葉で考えたとき、日本語って凄いよね? って話です。 私、僕、俺、あたし、わし... 上記それぞれの自分を指す言葉で、対象となる人物像がイメージできる。 「私」だったら、女性もしくは、オフィシャルな場面での男性。 「僕」だったら、男性もしくは、アイドルグループの若いお姉ちゃんが歌詞の中で自分を指すとき使ってる 笑 「俺」だったら、男性で、自分が相手より社会的立場が上だったり歳上だったりするとき。 「あたし」だったら、女性で、自己主張が若干強めの若いお姉ちゃんが使ってる 笑 「わし」だったら、日本昔話に出てくるような、長老的なイメージの人。 どうですか? 僕の解釈は、あながち間違ってないよね?? まだまだある。 「我輩」だったら... の『』の猫、もしくはの 笑 とかね。 上の話は口語だけど、文語ならではの一人称なんてのもある。 「小生」だったら、自分をへりくだって使う言葉でありながら、同等以下の相手に対して使う言葉。 よって、大学教授が学生に対し使っていたのを記憶している。 「本職」だったら、警察官が供述調書をとるとき、自分を指すときに使っている。 うーん。 日本人って、なんという想像力の深さ! そして、相手より上とか下とか... すげー気にする人種なのね 笑 武士道とか公家とかの世界は、現代でもこういうところで、知らずと受け継がれているんですねぇ。。。 bartender-yagi.
次の前回に引き続き、"夏の終わり" に関して、ネタを引っ張らせてもらう。 つい先日、ラジオ番組で、の『少年時代』が流れた。 「夏が過ぎ 風あざみ~」 夏の終わりに流れる、まさに定番曲である。 なんとなく聞いてる僕。 すると、が、「風あざみって、そんな日本語はないんですよね~。 造語なのを皆さんはご存じですか?」と。 えっ!そうなの?? 笑 本当に!? 一度、気になり出すと止まりません。 ボクちゃん。 電子辞書で調べてみると、確かに「風あざみ」では検索できない。 「風」と「あざみ」では検索できる。 ちなみに、「あざみ」は春から夏にかけての植物の名前らしい。 ではでは、今度はネットで調べてみると... やはり、の少年時代の歌詞、という類の項目ばかりの検索結果。 がインタビューで「響きのよさで作った言葉で、意味ないんだよ。 」と答えていることからも事実である。 とある。 そうだったんだぁ。。。 このホームページの中で、これら造語の解釈が載せてあり、言葉を噛み砕いて解説してくれている。 ここで、その一部を紹介してみることにしよう。 〇「風あざみ」 夏が過ぎ去った少年時代の虚無感。 子どもの頃の夏の想い出は、大人になっても楽しい想い出として記憶させる。 『青空に残された 私の心は夏模様』も、夏休みが終わったあとの、あの虚しい感情を表しており、青空という記憶装置に子どもの頃の楽しかった夏の想い出(=夏模様)を残している。 う~ん、分かったような分からないような・・・ 笑 僕の「風あざみ」という言葉からイメージするのは、 黄金色に変化した水田の稲穂が、青空の下、風でサラサラとなびいている風景そのものなんだけどなぁ。。。 でも、風あざみという言葉の解釈はさておき。 少年時代の夏の想い出の感情を、『夏模様』という言葉で表現しているとの解釈は、納得できるし分かりやすい。 他にも、 〇「夢花火」 夢のような八月の楽しかった想い出を、花火の儚さにかけている。 これは、なんとなく理解できる。 夢って、そもそもはかない一面があるし、それを実現するには相当の努力と労力を要するものだ。 夢って自分にとっては、煌びやかで憧れでもあり、、、 そんな「夢」のような楽しかった夏の時間・想い出は、あっという間に過ぎ去っていくもので、それを花火の美しさと儚さにかけている造語という解釈は、もはや "言葉の芸術" であると言えるだろう。 〇「夢はつまり 想い出のあとさき」 夢とは、想い出の延長線上にあるものと考えており、夢は想い出の一つ これはもう、令和最初の夏に僕が経験した出来事を考えてみても、非常に共感せざるを得ない 笑 「あの子とデートしてみたかったなぁ」 なんていう願望も、僕のように女性慣れしていない人間にとっては、『夢』の一種と言える。 そんな願望・夢というのは、実現できなくても "想い出" として記憶され、けっして苦い想い出ではなく青春の1ページのような甘酸っぱい記憶として残ることだろう。 夢は、煌びやかで憧れでもあり、それだけ実現も難しく、結局は儚いものである。 だからこそ、現実に実行がなされなかったとしても、想い出の一つとしては記憶されるのだ。。。 こんな風に、の造語の解釈をしていて気づくのは・・・ "日本人の想像力の果てしなさ・素晴らしさ" そんなことを、皆さんも感じませんか?? 最後に、この『日本人の想像力』について、僕からプレゼンさせてもらうことにする。 一人称。 自分自身を指す言葉。 英語では、アイ。 アルファベットの「アイ I」という一文字。 多分、口語でも文語でも、これ以外に自分自身を指す言葉ってないですよね!? 「セルフ self」だと、「自分自身で何かをやる」みたいな、動詞的な要素が加わる気がするので。。。 純粋に、自分自身を指す言葉で考えたとき、日本語って凄いよね? って話です。 私、僕、俺、あたし、わし... 上記それぞれの自分を指す言葉で、対象となる人物像がイメージできる。 「私」だったら、女性もしくは、オフィシャルな場面での男性。 「僕」だったら、男性もしくは、アイドルグループの若いお姉ちゃんが歌詞の中で自分を指すとき使ってる 笑 「俺」だったら、男性で、自分が相手より社会的立場が上だったり歳上だったりするとき。 「あたし」だったら、女性で、自己主張が若干強めの若いお姉ちゃんが使ってる 笑 「わし」だったら、日本昔話に出てくるような、長老的なイメージの人。 どうですか? 僕の解釈は、あながち間違ってないよね?? まだまだある。 「我輩」だったら... の『』の猫、もしくはの 笑 とかね。 上の話は口語だけど、文語ならではの一人称なんてのもある。 「小生」だったら、自分をへりくだって使う言葉でありながら、同等以下の相手に対して使う言葉。 よって、大学教授が学生に対し使っていたのを記憶している。 「本職」だったら、警察官が供述調書をとるとき、自分を指すときに使っている。 うーん。 日本人って、なんという想像力の深さ! そして、相手より上とか下とか... すげー気にする人種なのね 笑 武士道とか公家とかの世界は、現代でもこういうところで、知らずと受け継がれているんですねぇ。。。 bartender-yagi.
次の井上陽水さんの『少年時代』の冒頭部分の歌詞です。 曲とともに聞いたことがない人はいないはずの歌詞なんですが、この中で、意味の分からない言葉が入っていませんか? …そう、以下の言葉です。 「 風あざみ」 この「風あざみ」って、言われてみればよくわからないですよね。 なんとなくわかるような気がするけど、いざ説明を求められると答えられない…そんな人が多いのではないでしょうか? まあ答えられないのは当然です。 実は「風あざみ」という言葉…、 存在しないみたいです(笑) 「どぉーーーーい!! 」って感じですね。 実はこれ、井上陽水さんが何となく雰囲気で勝手につくった言葉なのです。 「風あざみ」なんていう言葉自体、本来存在しないのです。 この事実を知った当時、私は衝撃を受けました。 まず第一に、意味のない言葉を勝手につくり、歌詞のこんな冒頭に持ってくる井上陽水さんの神経に驚いたというのがあります。 ただ一応、彼はもともと探し物をしている人に対して「探し物は何ですか?」と尋ねた後、すぐに「それより私と踊りませんか?」とわけのわからない誘いを仕掛け、最終的には「夢の中へ」といざなおうとする変人です。 「探すの手伝ってやれよ!」とも思いますが、それが常人を超越する井上陽水ですので、これはこれで受け入れるしかありません。 私がそれ以上に衝撃を受けたのは、意味の分からない言葉を含む『少年時代』という歌が、一般大衆に「いい曲」として受け入れられていることです。 一部言葉の意味が分からなくても、その音楽が醸し出す全体の雰囲気を感じ取り「いい曲だな~」と思ってしまう…これは言い換えれば、本来意味のないものにすら価値を感じてしまうということになります。 人間はどのような時に価値を感じるのか? これを考えることはビジネスに限らず、あらゆることにおいて重要であると思いますが、人に価値を感じてもらうために、どうやら「言葉で説明する」ということは必須ではないようです。 「風あざみ」からわかる論理的説明を凌駕するもの 私は過去のこちらの記事「」において、ソシュールの言語論的転回を取り上げました。 ここでの理論を簡単におさらいすると、 「私たちは言葉を用いることによって初めて、世界を理解することができる」 というものになります。 何かを理解しようとする時、人間はそのモノを言語化することではじめて理解したことになります。 言葉に表すことによってのみ、そのモノをプラス・マイナスのニュアンスを含んだ、理解できるものとして脳の中におさめることができるのです。 しかし、音楽の世界においては一概にそうとも言えないようです。 先ほどの「風あざみ」の例のように、意味不明な言葉が入っていたとしても全体として「いい曲」として受け入れてしまうことがあります。 理解不能な言葉すらそうとは感じさせずに肯定的に受け入れてしまう、そのような力が音楽には備わっているのでは…と考えられます。 人が価値を感じるのに、論理的な言葉による説明は究極的には不要なのかもしれません。 そしてそれを考えるにあたり、「音楽」というのは一つのヒントになると言えるでしょう。 ではここで少し、音楽と脳科学について触れておきましょう。 音楽と脳科学 「音楽は人に快感や勇気を与える」ということには、脳内の快感作用の仕組みが関係しているようです。 これは一部脳科学的にも明らかになっています。 音楽にはリズムというものがあり、そのリズムは「音域の高低」「音の強弱」等を組み合わせることで作られます。 この「音域の高低」(キーが高くなったり低くなったりすること)と、「音の強弱」(音が大きくなったり小さくなったりすること)とが、一種の振動波を生み出すのです。 人はこの振動派を、聴覚や体の振動で感じ取り、それが感覚神経によって脳に集められ、脳の神経に興奮や安らぎ等の快感をもたらすとされています。 この時、脳内で働いている主な神経伝達物質には、 ・ ドーパミン(やる気とともに快楽・喜びの感覚を引き起こす) ・ ノルアドレナリン(緊張や恐怖とともに覚醒を引き起こす) ・ セロトニン(バランスを整え、精神の安定をもたらす) があります。 一般的に「テンポが早く、音量の大きい曲」は、神経の覚醒・興奮を伴った快感を引き起こしますが、この時脳内では快感物質ドーパミンやノルアドレナリンが分泌されていると推測されています。 逆に「テンポがゆっくりで、音量の小さい曲」は神経の興奮を鎮め、気分をリラックスさせてくれます。 この時、脳はノルアドレナリンやアドレナリンの分泌を抑え、セロトニンを分泌して休息状態を作っていると考えられます。 また、音楽を聴く際は上記三つ以外にも、アセチルコリン等の脳内の神経伝達物質は少なからず作用しているでしょう) そして、年代の特性に関していえば、一般的に若い世代の人は、覚醒興奮作用を持つ快感物質ドーパミンやノルアドレナリンの分泌量が多い傾向にあるため、その分泌速度に合った興奮・覚醒を引き起こす「テンポの速い、音量の大きな曲」を好むことが多いです。 逆に年配層の人は、脳や体が疲労しやすい状態であるため、疲労を和らげるような「テンポのゆっくりした、音量の小さい曲」を好むようになると考えられています。 たしかに、アップテンポの曲を好む年配層は少ないですよね。 当然個々人で差はあるので年代だけを取り上げて一概に言えることではありませんが、この傾向は脳科学的に説明ができるものなのです。 このように、音の振動波が脳の神経に快感をもたらします。 さらに、その音に乗せられた歌詞が人に具体的な共感をもたらすことで、音楽は人の心を揺さぶる強力なものになるのでしょう。 どうやら、音楽には意味不明な言葉をも覆いつくして人に共感を与える力が備わっているようです。 「風あざみ」のように、一部知らないはずの言葉が出現しても、その音楽全体が作り上げた世界観という強い魔力によって、人の脳はそれを肯定的に受け入れてしまう…。 そんな音楽に支配された、 私の心は夏模様 早稲田大学商学部卒。 大学卒業後、進学塾の講師として大学受験指導に携わり、東大・早稲田大・慶應義塾大等の難関大学合格者を多数輩出。 しかし長年続けていくうちに、次第に現代の教育産業のあり方に疑問を持ち始め、このまま塾講師だけを続けていくことの意義が薄れ始める。 その後、進学塾の現場を離れ、さまざま模索している中で、教育産業の負の側面の突破口としてインターネットビジネスに大きな可能性を感じる。 そして2013年からは「ピオリム」というハンドルネームで個人でビジネスを展開し、メディア構築・コミュニティ運営・個別コンサルティング・リアルセミナーなど様々な活動を実施。 そのまま事業を軌道に乗せ、2015年に法人化。 現在は「塾講師としての活動」と「インターネットビジネスでの活動」を通じ、そこで培った経験・スキルを統合させて教育分野に変革を起こすという思いから、心理学・脳科学・言語学等の様々な視点を取り入れた体系的・実践的講義を展開。 主にオンラインのコンサルティングやオフラインのセミナー及び通信制高校のサポート校の運営などを通して、インターネットで独自の価値を創造して社会の中でお金を生み出す力を発揮できる人間の育成に携わる。
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