横浜 隼人。 花巻東・水谷、横浜隼人・水谷監督親子の巡り合わせ

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花巻東(岩手)の水谷公省内野手(2年)は試合後「3年生と…」と声に出すと、一気に感情がこみ上げた。 涙が止まらない。 しばらく黙した後に「もう少し一緒にやりたかった」と泣きながら続けた。 泣き顔がそっくりだった。 父は横浜隼人(神奈川)の水谷哲也監督(54)。 09年、神奈川大会で優勝し号泣。 初めて甲子園に出場したその夏の、2回戦の相手が花巻東。 当時も今も、花巻東を率いるのは佐々木洋監督だ。 水谷監督の下、横浜隼人でコーチをしていたことがある。 その教え子に、次男の成長を託した。 「横浜隼人が初めて甲子園に出場してから10年。 まさか息子が花巻東に進んで、甲子園に出るとは。 すごい巡り合わせですよ」と水谷監督も驚く。 しかもその2回戦を、当時6歳の公省少年はスタンドで見ていた。 数奇な巡り合わせはこれだけではない。 水谷監督は徳島出身。 幼少期から、年末年始には家族で帰省してきた。 1回戦の相手はその徳島代表・鳴門。 「野球の神様がくれたことなのかな、と思います」と公省は感慨深げに話す。 「8月9日、野球の日の第1試合にできることに感謝します」とうれしそうだった水谷監督はこの日、甲子園にはいなかった。 息子には「全国はそんなに甘くないぞ」とだけメッセージを伝え、新チームの育成に心血を注ぐ。 今夏神奈川大会は3回戦で敗退し、7月末から北海道で合宿。 そこからフェリーで東北に渡り、9日はちょうど花巻東のライバル・盛岡大付(岩手)と練習試合をしていた。 「うちも3対5で負けました」。 公省(こうしょう)の名は父が付けた。 甲子園で優勝、字は違うけれど略して公省。 3打数無安打に終わった次男は「4番なのにふがいない結果で本当に申し訳ない気持ちです」と唇を震わせ「どんな相手が来ても動じないチームになりたい」と、二度のチャンスが残る甲子園優勝への思いを口にした。 地球とボールとご縁はまるい-。 父が好む言葉通りなら、来年の夏も、水谷親子には神懸かった巡り合わせが訪れるかもしれない。 【金子真仁】.

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横浜隼人が自主性促し頭髪自由 水谷監督は成長期待

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父親は横浜隼人の水谷監督。 現場でプレーを見るのは、2度目だった。 初めて見たのは、昨年夏の甲子園。 内野にゴロを3つ。 自分のスイングはさせてもらえなかった。 名実共に「4番」になってほしいから4番で使っている。 そういう4番なのかなと思った。 そこから、およそ10カ月。 花巻東高・水谷公省は押しも押されもしない、立派な「4番打者」になっていた。 彼が、横浜隼人高・水谷哲也監督の息子さんであることは、すでにいく度かメディアでも紹介されていて、ご存じの方もおられるかもしれない。 花巻東高・佐々木洋監督は国士舘大を卒業してからしばらく、横浜隼人高の野球部コーチとして、指導者修行をしていた。 その時の「師匠」にあたるのが、大学の先輩である水谷監督であり、プライベートでは結婚した時の仲人さんでもある。

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概要 [ ] (昭和52年)に高等学校設立。 中学校は(昭和54年)設立。 当初は男子校であった。 初代校長である大谷卓郎の方針から、男子校時代にはに近い厳しい教育で知られ、教師は「教官」、教頭は「学監」と呼ばされていた。 生徒は中学1年生を1号生、順に高校3年生を6号生と呼ばれていた。 4クラス名は中学1年生のクラスを「11ルーム」(いちいちるーむ)、高校3年生のクラスを「61ルーム、62ルーム」(ろくいちるーむ、ろくにぃるーむ)と呼称していた。 しかも「四大行事」と呼ばれた各行事(春は一日がかりの箱根行軍、夏は二泊三日の野戦訓練に近いキャンプ、秋は二泊三日の徒歩一周、冬は二泊三日の寒稽古)は過酷で、特に校内宿泊の寒稽古では、教官や上級生によるを逸脱した一方的な虐待行為により合宿中に複数の脱走者(ほとんどはそのまま「自主退学」)が出る程であった。 校風や四大行事の厳しさもあり、卒業時の一学年生徒数が入学時の半分以下になる事(ほとんどは退学によるもの)もあった。 (昭和60年)の中学校男女共学化前後より教育方針は変化し、現在では一般的な男女共学の中高一貫校となった。 隼人幼稚園運動会と新幹線 系列校として(通信制)、(通信制)、横浜隼人幼稚園(隣接しておりグランドのすぐ横を東海道新幹線が通過する)、大谷学園幼稚園がある。 高等学校の普通科は3コース(特別選抜、特進、進学コース)に分かれており、それぞれ公立上位校、中堅校の併願校のひとつであり、卒業生の大半が四年制大学に進学している。 ちなみに、特別選抜コース(以下、特選コース)は国公立大学入学を目標としており、特進コースはMARCH、進学コースは日東駒専レベルを目標としている場合が多い。 また、「横浜隼人BBS」という大手衛星授業配信予備校の映像を駆使して、私学ならではの学習方法を開拓している。 火・木・金の朝8:10〜8:25には「早朝テスト」というマークシート方式の小テストを行い、昼休みにはランキング方式でそれぞれの点数がフルネームで廊下に掲示される。 校歌の作詞は、作曲は。 設置形態 [ ]• 中学校• 高等学校• 全日制課程• 普通科• 進学コース• 特進コース• 特選コース• スポーツクラス• 国際語科 沿革 [ ]• (52年)4月 - 男子校として、隼人高等学校開校。 (昭和54年)4月 - 男子校として、隼人中学校開校。 (昭和60年)4月 - 中学校が男女共学化 (女子生徒募集開始)。 (昭和62年)4月 - 高等学校が男女共学化 (女子生徒募集開始)。 (昭和63年)4月 - 隼人高等学校国際語科開設。 (5年)4月 - 現学校名に変更。 (平成21年)8月 - 硬式野球部が初出場。 施設 [ ]• 普通教室• 選択教室• 校長室• 職員室• 事務局• 理事長室• 第1・2音楽室• えるえる教室• 第1・2コンピュータルーム• 被服室• 美術室• 第1・2調理室• 理科室• 図書室• 進路指導室• 4階講堂• 保健室• 風呂場• エレベーター• 新1号館• 普通教室• 選択教室• 特別教室• 職員室• 面談室• エレベーター 1号館は、2014年3月から4月にかけて解体され、跡地には本館と一つの建物になる新1号館が2015年に竣工した。 2号館• 普通教室• 理科室 2号館は、2015年11月からの工事によって解体された。 3号館• 体育館• 柔道場• 4号館 前校舎• 体育館• 講師室• 5号館 改装• 6号館 2015年改装• 第1グラウンド• 第2グラウンド• プール• 部室棟 部活動 [ ]• 硬式野球部のユニフォームはとそっくりの縦じまのユニフォームで、1991年から監督を務める水谷哲也が熱烈なであることに由来する。 応援団も阪神と同じ(「チャンスわっしょい」「チャンス襲来」など)を使用している。 2009年夏の決勝でに延長11回の末6x-5でサヨナラ勝ちし、創部32年目で春夏通じて初の出場を果たした(2回戦でを擁するに敗退 )。 また、毎年7月上旬にベンチ入りできない3年生の引退試合をとで行っている。 県内唯一の女子野球部は8月に行われた第8回で初優勝し、全国制覇を果たしている。 軟式野球部も神奈川県では強豪で、2016年春は関東大会出場。 夏はと決勝で15回引き分けで再試合も接戦の末4-5で敗れ準優勝。 2017年の夏も決勝でと最後まで熱戦の末、2年連続の準優勝と常に上位を占める。 女子バレー部はに出場した(1回戦敗退)。 サッカー部は2016、2017、2018年の代は年々力をつけている。 夏の選手権大会では一次予選決勝、二次予選出場、二次予選1回戦突破と結果を伸びていき、2018年の代は春のインターハイで当時k1リーグに所属しているを激闘の末、PKで勝利。 当時k3リーグに所属していた横浜隼人からしたら大金星を飾る。 その後、に先制点を取ったものの激闘の末PK戦で2回戦敗退。 春のインターハイ神奈川県ベスト16、k3リーグ優勝、夏の選手権神奈川県ベスト16とサッカー激戦区の神奈川で弱小校にしては輝かしい成績を残した。 交通 [ ]• より、徒歩25分。 相鉄各線 より「希望が丘駅」・希望が丘駅より同系統「二俣川駅南口」行きにて善部第2で降車徒歩7分。 各線・ よりで、阿久和、中村、湘南泉病院 下車、徒歩10分。 著名な出身者 [ ]• ()2年次の修学旅行後、に転校• (モデル)• (声優)• (漫画家)• (俳優・映画監督・脚本家)• (元)• (プロ野球選手)• (プロ野球選手)• (プロ野球選手)• (プロ野球選手)• (サッカー選手)• (写真家) 脚注及び参照 [ ] []• 」と掲載されている。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• この項目は、のに関連した です。

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