生涯 [ ] 生い立ち [ ] 、の系の裕福な家に生まれた。 父はスラム育ちの煉瓦職人であったが、上流階級の競技であるボート競技で頭角を現し、ボート関係者の嫌がらせにもめげず、において1920年ので2個の金メダルを獲得し一躍国民的英雄になった。 そして1924年のでも金メダルを1個獲得した。 その後、彼は煉瓦製造会社を立ち上げ億万長者になった。 母マーガレット(1898年 - 1990年)はで元モデルであり大学講師だった。 父方の叔父はを受賞した劇作家の ()。 兄は1956年ののオリンピックボート競技で銅メダルを獲得したジョン・ブレンダン・ケリー・ジュニア(1927年 - 1985年)。 少女時代はおとなしく、赤い頬の人前に姿を現すのが苦手な子供で、3人姉妹の中でも真ん中のグレースが1番不器用であったという。 その一方、ダンスやピアノを学び、やがて演技に興味を示すようになる。 女優時代 [ ] ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志す。 でモデルのアルバイトをしながら演技を学び、に舞台『父』でデビューした。 グレース自身は舞台女優を目指していたが、その後、舞台の出演中にハリウッドから誘いがかかり、、22歳で映画に出演しデビュー(『 Fourteen Hours』)。 この作品を見た製作者のが『』での相手役に抜擢した。 映画監督のお気に入り女優で『』『』『』などの作品でヒロインをつとめている。 彼がグレース・ケリーを評して"Grace Kelly is a snow covered volcano"(雪に覆われた活火山)と述べた逸話はあまりにも有名。 に『』でにノミネートされ、には俳優の妻役でシリアスな演技を見せた『』でを受賞。 非常に恋多き女性として有名で、、、、、、、などの、主に自分より年長の男性と浮名を流した。 父親が彼女に冷淡な癖に、異性との交際には異常なほどうるさかったことも、背景にある。 結婚・公妃として [ ] グレース・オブ・モナコ(1981年) で知り合った大公(在位 - )と結婚した。 はがデザインしたものであった。 公妃となるため女優業を引退、1956年の『』が最後の作品となった。 の麻薬撲滅キャンペーン映画『悪のシンフォニー』にはグレース妃として特別出演している 挙式は、カトリックの伝統に沿い、グレースの出身地であるアメリカ合衆国で行われることも検討されたが、最終的にはモナコで行われることになった。 、婚約を発表。 同年、にて法的な結婚式が行われた(The Civil Wedding)。 翌、(サン・ニコラ大聖堂)にて、カトリック式の挙式が行われた(The Cathedral Wedding)。 これらの模様は、ヨーロッパ諸国で生中継された。 結婚後は3人の子どもに恵まれ、公妃としても観光立国モナコのPRに大きく貢献し、病院を設立したり、自身の名前を冠したバレエ学校を支援するなど精力的に活動した。 、自らのハンドルを握り南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞を発症。 そのまま急カーブの坂道でガードレールに激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。 事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡(52歳)。 この事故死を受けてモンテ・カルロでは1日全てのカジノの営業を中止して喪に服した。 同乗していた次女のステファニー公女(当時17歳)は軽傷であり、 に退院した。 現地報道では、一時情報が錯綜し、ステファニー公女が運転していたとも報道された。 、モナコ大聖堂にて葬儀が行われ、各国の王族・要人の他、らハリウッド俳優も参列した。 子女 [ ] バラ「プランセス・ド・モナコ」(1982年)メイヤン作。 彼女に献呈されることになっていたバラ(発表前に他界)。 ピンクと白の2色は、をイメージしている。 に長女の妊娠をマスコミに悟られないよう、カメラを向けられた際、の「サック・ア・クロワ」で腹を隠した。 この事でバッグが有名になり、商品は「 」と改名された。 の小説『』にがあるが、これは、彼女が初めて作った陶製のの置物を題材にした作品の執筆をギャリコに依頼しており、それを受けたもの。 を愛好し、特にをはじめ植物に関するものが大好きで、モナコにを造営することを希望していた。 死後、レーニエ3世の指示によって、設計による本格的な日本庭園がつくられた。 1994年に開園。 庭園内の茶室「雅園」は、訳すると"Jardin de Grace"すなわち"グレースの庭"の意となる。 (元国連大使)・(令嬢で後の創設者)とは澤田夫妻のニューヨーク駐在時から家族ぐるみの親交があり、王妃になったのちも美喜の慈善活動を支援した。 また澤田家長女恵美子は、親友として日本人ではただひとりモナコでの結婚式に招待を受け、モナコ公子出生時にはモナコ宮殿に手助けで滞在、1982年グレースの来日時には案内役を務めた。 出演作品 [ ] 公開年 邦題 原題 役名 備考 1951 ルイーズ・アン・フラー 1952 エイミー・フォーラー・ケイン 1953 リンダ・ノードリィ 受賞 ノミネート 1954 マーゴット・メアリー・ウェンディス リサ・キャロル・フレモント ジョージー・エルジン 受賞 受賞 キャサリン・ノーランド ナンシー・ブルーベイカー 1955 フランセス・スティーブンス 1956 アレクサンドラ姫 トレイシー・サマンサ・ロード その他 [ ] 日本では「グレース 」の呼称が用いられることもある。 しかし、レーニエ3世はモナコ大公(Prince of Monaco)であり、グレースは王妃(Queen)ではない。 脚注 [ ] []• www. philamuseum. org. Philadelphia Museum of Art. 2020年1月16日閲覧。 1982年9月28日 朝日新聞「モナコ王女が退院 負傷の王女」• 1982年9月16日 朝日新聞「華麗な生涯、悲劇の別れ 女性の夢を独演」 評伝 [ ]• Spada, James 1987. Grace: The Secret Lives of a Princess. ジェームズ・スパダ『グレース・ケリー:プリンセスの素顔』(訳、、1989年) 関連文献 [ ]• 『グレイス・ケリー:グレイスフルビューティ』(シネアルバム54、、1977年)• Balaban Quine Judith 1989. Bridesmaids: Grace Kelly, Princess of Monaco, and Six Intimate Friends. ジュディス・バラバン・キーン『ロイヤル・ウェディング : モナコ王妃グレース・ケリーと6人の女友だち』(高橋寿美江訳、、1989年)• - のバッグの一つ• 『』 - の伝記的映画 外部リンク [ ]• - (英語).
次のちばわん預かりっこから2014年6月うちの子に。 ココ姫のコロナウィルスが3200倍とわかり、 詳しい説明を受ける前で、 ココ姫死んじゃうかも、と落ち込んでいた時。 いつものコンビニ に寄ったら、 ドアの前に猫がいてすり寄ってきたんですよ。 こういうシチュエーションはろくなことがないわ と思いながら 中に入って店長さんに聞くと、 5日前に突然現れて、 それ以来1日中ずっと店の前にいるのだと。 「首輪してるから 近所の飼い猫で、ふらっと来たんじゃないですかね?」 「お店でも猫が来るなんて初めてのことだし、 お客さまも誰も見たことがないと言っているんです」 と困り顔。 田舎の地域密着型のコンビニで 誰もこのコを知らないということは 別の地域の猫なのかなあ・・。 この時点で、 私はこのコを保護することになるんだろうな と思うわけですが、そんな簡単には・・ね 今はココ姫にストレスをかけるわけにはいかないんだし。 とりあえず猫缶を買ってあげながら観察してみる。 怪我をしている様子はなく肉付きよし。 お尻に立派なタマタマ持ちです。 横に張った大きな顔。 百戦錬磨の強者って感じじゃないですか。 メスを求めて遠征しているうちに迷子になったん? それとも、 他のお客さんが言うように、 ここに捨てられたん・・? 猫さん、なんとか言っておくれよ。 理由は喋ってくれないけれど、 こんな顔してとっても懐っこいです。 首輪の裏も見ることができました。 連絡先が書いてあるかなって思ったんだけど・・ さかりのオス猫の移動距離は半径2キロくらいだとか。 まだ5日だし、 自分で帰るかもしれないし、 飼い主が探しに来るかもしれないし。 餌やりに通いながら様子を見ようと思いました。 次の日も行ったら キャットフードをあげているおばさまがいました。 話しかけてみたら、 「かわいそうでしょう。 連れ帰りたいけど、 うちの猫とケンカになるからダメと娘が反対してる」 たしかに・・。 おばさま宅には 8匹いるんですって。 うちは 10匹だけど。 「お姉さん(ワタシ)連れ帰って。 飼ってあげて」 と懇願されたものの、 うちも同じ事情があるわけで。 「娘さんがいいと言ってくれないですかね~」 「もう一回娘に相談してみる」 なんてやりとりがあって、おばさまから 「とにかく交代で餌やりに通わない?」 と提案されそうすることに。 おばさまが引き取ってくれないかなーなんて。 交代とはなったけど、 やっぱり気になって猫缶持って毎日通いました。 そのおばさまにはそれから会うことはなかったのですが 猫がいる場所には餌がたくさん置いてあるようになりました。 ドライフードや水、 開けたままの猫缶とか レトルトのパッケージが捨てられていたり、 さきイカやソーセージや チョコレートまで。 このまま居つかれたら困るんだけど・・ 」と。 餌やりさん、後片付けはちゃんとしましょうね。 結局猫が悪者になってしまうから。 私がそのゴミを掃除しましたけどね・・。 去勢して、ここで餌やりを続けさせてもらおうとも考えましたが、 うちの庭みたいに猫が次々にやってきたら もっと困る事態になってしまう。 猫がコンビニに来て10日が過ぎ、 いよいよ保護するしかないと決心しました。 実は、そう決心できたのは 猫を預かりましょう、と言ってくれた人がいたからです しみゃおさんがそう言ってくれなかったら まだまだ迷っていました。 感謝! しみゃおさんに預かってもらいながら 飼い主と里親さんを同時に探そうと思いました。 まずは去勢手術の予約をして。 人目のある場所での保護で不安があったので tomotenkuriさんを応援に呼んで。 キャリーを持っていざ。 ところがいつもいる駐車場に猫がいないんです。 餌も置いてない。 あれ?? 店長さんに「猫、どうしました?」と聞いたら・・ 「それがね、 昨夜遅く若い女性が二人で来て、 猫をもらっていいですかと断って 連れ帰ったんですよ」 って! おおおおおおお 一瞬、悪い人じゃないよね・・と疑ったけど、 わざわざ許可をとったんだもの、 絶対いい人ですよね! きっと私のように毎日猫を心配していたんですよね。 お嬢さん、猫を連れ帰ってくれてありがとう。 ちゃんとお店に断ってくれてありがとう。 猫さん、良かったねえ。 そんなわけで ハッピーエンド・・かな? それにしても 飼い主はどこで何をしているんでしょうかね。 愛護センターに問い合わせたり ネットの迷子掲示板をチェックしたりしたけれど、 該当する迷子猫はいませんでした。 探し方がわからない飼い主もいるだろうけど どんな方法でもいいから必死に探してくださいよ。 あなたが迷子にした猫を見つけて たくさんの猫好きがどんなに心を痛めていることか。 そうそう。 店長さんが話していたんですが、 この猫さん、 お客さんの車の屋根に乗っていて、 ドライバーは知らずに発進し、 気が付いた別のお客さんが止めた、 ということもあったんだそうです。 猫さん、 車に乗って移動してきたのかしらね!? 「オイラみたいに迷子札をつけるんだぜぇ」 しみゃおさんは、 預かるにあたって悩みがあったんだそうです。 その内容が、私にはまったく想像出来なかったんですけどね~ それが何かはブログに飛んでみてくださいね!.
次の松居一代の捨身の暴露にはあまりのまがまがしさに言葉を失った。 彼女たちだけではない、このところ暴走妻がやけにニュースを賑やかしている。 スキャンダルでも犯罪でも、彼女たちはもはや夫に引けを取らない。 帰宅恐怖症の夫が現れるのも宜なるかな、だ。 ではいったい妻たちは何を求め、どこへ向おうとしているのか。 壊れゆく妻たちの研究。 全く異なる政党を同じ人々が支持してきた。 なぜ劇場型政治に左右されるのか、その人間心理を解き明かす。 【特集】語ると危ない社会への「劇薬」 モノを言うのがずいぶん窮屈になった。 政治家への「失言狩り」はもはや難癖のレベルではないのか。 良識や社会的立場を気にして本質的病因から目をそらし、語られるベきが語られない。 ゆえにさまざまな問題はよけいに深刻化する一方である。 ならば、あえてそこに切り込む必要があるだろう。 ここに危険で挑発的で建設的な暴論7本をお届けする所以である。 暴走妻の時代 豊田真由子議員の罵声は強烈だった。 女優松居一代の捨身の暴露のまがまがしさには言葉を失った。 彼女たちだけではない。 このところやけに暴走する妻たちがニュースを賑やかす。 もはやひとつの社会現象といってもいいだろう。 安倍政権は「すべての女性が輝く社会づくり」を進めるが、6月に発表された重点方針2017の一番目は「あらゆる分野における女性の活躍」。 ちょっとしたブラックジョークである。 今月はその「怖い妻たち」を特集した。 実際の殺人事件から芸能界の暴走妻騒ぎ、いま広がっているという妻が怖くて家に帰れない夫の「帰宅恐怖症」などなど、危ない妻の実態をさまざまにレポートした。 特集はもうひとつあって「語ると危ない社会への『劇薬』」。 いわゆる暴論特集である。 「北と共催なら平昌五輪はボイコットせよ」「女性皇族のお相手には外国王室を」「成人した子どもと同居の親は所得税二倍」など、挑発的な提言が並ぶ。 新潮45編集長 若杉良作(2017年9月号より) 「新潮45」の創刊は1982(昭和57)年3月で、創刊当初は「新潮45+」(シンチョウヨンジュウゴプラス)という誌名でした。 その名の示すとおり、もともとは45歳以上の中高年層を読者対象に想定した雑誌であり、新潮社にとっては初の総合雑誌への挑戦でもありました。 3年後の1985年より「+」が取れて、誌名は現在の「新潮45」に変わります。 内容も「日記と伝記」を軸にした新たな教養雑誌へとリニューアル。 以来、その時々の編集部の方針によってノンフィクションや事件への志向が強まったり、独自の言論に力点を置いたり、誌面は変わり続けてきました。 しかし、一つだけ変わらない「芯」のようなものがこの雑誌にはあります。 それは「人の生き死に」について考えるということです。 扱うテーマや素材は、政治経済から殺人事件、芸能スキャンダルやスポーツ・ドキュメントに至るまで多岐にわたります。 叙述の仕方も、論考あり、エッセイあり、重厚なノンフィクションありとさまざまです。 けれども雑誌の真ん中には、尽きることのない「人間への関心」がある。 これからも「新潮45」は変わり続けるでしょう。 時代に向き合いながら、新しいテーマに挑み、表現の幅も広がっていく。 しかし、その「芯」の部分は変わりません。 ネットの時代になっても、いやネットの時代だからこそ、「新潮45」は「人間」を書き続けていきます。 ちょっと危険で、深くて、スリリング。 死角を突き、誰も言わないことを言い、人の生き死にを考える。 一度読むとクセになるような「毒にも薬にもなる雑誌」。 「新潮45」はそんな雑誌であり続けたいと思っています。
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