亨徳4(1455)年、・らが、 足利成氏に荷担した一族の・に討たれたとき、胤直の弟・に従った 粟飯原右衛門尉がいた。 胤賢は兄・ 千葉介胤直入道とともに志摩城に篭城し、 志摩落城時に南の 小堤城へ逃れて馬加・原勢に抵抗して自害したが、このとき胤賢の子、・兄弟は千葉宗家の直臣である 曽谷氏や 大野氏らのいる八幡庄へと落ち延びた。 そして 八幡庄市川城にこもって馬加・原勢に対抗し、その落城後は上杉氏を頼って武蔵へわたった。 このとき、・らには重臣の 木内・円城寺・粟飯原・鏑木氏などが従ったという (『応仁武鑑』)。 粟飯原氏は平安末期からの本拠地・ 下総国香取郡小見川の領主として大きな勢力を持っており、千葉介の重臣としても活躍していた。 が庇護した歌人・ 衲叟馴窓の私家集 『雲玉和歌集』{永正11 1514 年編纂}には、 幡谷加賀守胤相・ 円城寺道頓・ 海保丹波守幸清とならんで 粟飯原民部少輔信尊が名を連ねる。 粟飯原豊後入道浄泉が 印東庄伊篠北方村(酒々井町伊篠)を菩提所とした 周心院などの扶持とする旨を、明応4(1495)年11月9日、 (千葉介孝胤)が認可した (『浄泉寺文書』)。 浄泉寺は、この 粟飯原豊後入道浄泉の法名にちなんで建立された寺院である。 また、永正6(1509)年9月28日には (千葉介勝胤)が、 粟飯原右衛門三郎の 「実父左近将監遺跡」である 「下金山并松崎郷神宮寺(成田市下金山・松崎玉造)」を先例の通り知行を認め、 広倉寺領である 印東庄伊篠北方村(酒々井町伊篠)については、周心院に寄進することを認めた (『浄泉寺文書』)。 ここに見える 粟飯原右衛門三郎の父・ 左近将監とはどのような関係にあるかは不明だが、ともに 伊篠村北方を周心院に寄進しているところから、かなり近い親族にあたると思われる。 天正17(1588)年には 「粟飯原豊後入道浄永」の名が見えるが (『木内文書』)、 粟飯原豊後入道浄泉の末裔であろう。 天正8(1580)年正月28日、古河公方・ 足利義氏のもとに年頭の挨拶に訪れた 「粟飯原孫二郎」がいた。 同日、 「千葉邦胤」も 「太刀」と 「白鳥」を持って義氏のもとを訪れており、孫二郎は邦胤とともに古河を訪れたか。 この翌年の天正9(1581)年正月19日、同様に 「粟飯原孫二郎」が義氏を訪れ、翌天正10(1582)年正月18日、 「粟飯原左衛門大夫」が邦胤とともに古河を訪れている。 この 「粟飯原左衛門大夫」は前年、前々年の 「粟飯原孫二郎」と同一人物であろうと思われ、 粟飯原左衛門大夫保宗であろうと思われる。 芳泰寺(森山城麓) また、伝説では室町時代後期、 粟飯原胤次( 源公入道)が活躍したとされ、その子・ 粟飯原常次は父といさかいを起こし、従弟の 金田弥三郎正興とともに 相模国に出奔してしまった。 胤次はやむをえず天文16(1547)年、 北条氏康の九男・ 粟飯原出雲守光胤を養子に迎えたという。 ただし、光胤のことは北条氏のどの系譜にも記されていないため、伝承か。 その後、常次が胤次に謝罪したため、光胤は自ら相模国へ戻っていくが、常次は光胤を呼び戻して養子として家督を譲った。 光胤はの重臣として活躍していたが、天正16(1588)年、急病に倒れた光胤はの次男・を養子に迎えて家督を譲り、5月5日に病死。 通性院芳泰寺(が妻・通性院芳泰を弔った寺。 また、東胤頼夫妻が葬られていると伝わる)に埋葬された。 俊胤は粟飯原家の家督をついで 「粟飯原孫平」を名乗り、小見川城から 東庄森山城に移ったという。 ただし、森山城に関する文書には、 原若狭守親幹・ を筆頭に海保・石毛・岡野氏といった名は見えるものの、粟飯原の名は見えないことから、が森山城に移ったというのは伝承か。 天正19(1590)年の小田原の戦い当時、母や兄・とともに小田原城に人質として入城したとされ、小田原落城と同時に城も領地も失い、佐倉城下に母子で隠棲したと伝えられる。 その後、母・岩松氏が秀忠夫人に仕えることになったため、岩松氏は江戸城に出仕するが、・は佐倉に住み、慶長3(1598)年、二十一歳になったは佐倉城主・ 武田信吉に仕えることになったという。 信吉が常陸国水戸藩主として水戸へ移封となると、これに従った。 の娘は 粟飯原常宣( 助右衛門)に嫁いでいるが、彼女は粟飯原氏没落ののち、領地の 小見川郷に住み、寛永3(1626)年10月23日に83歳で亡くなった。 法名は 新福院梅林清香大姉。 彼女は没年から逆算すると天文3(1534)年生まれということになるが、彼女の弟・ 千葉介親胤の老臣には 「粟飯原源公入道」がおり、その弟が彼女の夫・ 粟飯原常宣であることから、常宣はこのころまで存命であった可能性がある。 おそらく肥前千葉氏の重臣であったろうと思われるが、室町時代後期、千葉氏が竜造寺家の支配下に入ると 竜造寺家の家臣となる。 『岩蔵寺過去帳』のなかに応永12(1305)年11月3日に没している 「栗原胤清」という人物が見えるが、彼は平井城の西・栗原村の領主か? 永禄5(1563)年初春、 大友義鎮(大友宗麟)が竜造寺氏に肥前国主の座を追われた 少弐政興を擁立して挙兵した。 義鎮は島原半島の 日江原城主・ 有馬晴純入道(仙岩)と連絡をとって竜造寺氏を挟み撃ちにする計画を立て、晴純は子・ 有馬義貞を藤津郡に進駐させ、さらに 波多鎮(上松浦党)・ 大村純忠(大村城主)・ 多久宗利(多久城主)・ 西郷純尚(伊佐早城主)・ 平井経治(須古高城主で少弐一族)らが有馬勢に荷担した。 これに竜造寺隆信は3月17日、 (小城城主)、 鴨打胤忠、 徳島胤時(芦刈城主)、 持永盛秀(持永城主)、 粟飯原宮内少輔(平井城主)、 空閑刑部左衛門(西郷城主)、 橋本兵部少輔(津野城主)らを有馬勢が船から上陸するであろう港町・小城郡右原に派遣し、6月下旬、策略によっておびき寄せられていた有馬勢大将・ 島原弥七郎が港である柳津留に上陸するところを討ち取り、有馬勢は壊滅した。 このため有馬方についていた諸豪族も次々に竜造寺方に寝返り、少弐一族で有馬勢の中心でもあった 平井経治も竜造寺氏と縁組をしたことで、少弐政興再興の野望はいったん潰えた。 退却した有馬晴純は、重臣・ 島原弥介を大将とした軍勢を7月2日、ふたたび 小城郡横辺田まで出兵させた。 竜造寺隆信はふたたび小城郡内の 持永盛秀・ 持永長門守・ 持永清兵衛・ 粟飯原宮内少輔・ 粟飯原新七郎・ 空閑刑部左衛門・ 橋本兵部少輔・ 峰内蔵丞・ 峰民部少輔・ 峰甚左衛門・ 峰次郎兵衛尉らを派遣し、有馬晴純は猛攻を見せたものの敗れてついに退却した。 細川陸奥守顕氏が建武4(1337)年、阿波・ 讃岐守護職となって以来、細川一族は 阿波・讃岐・土佐・伊予の四国全域の守護職となっていった(伊予守護はのち河野氏)。 粟飯原氏については、貞和3(1347)年から2年間、 「幕府政所執事」という、幕府最中枢の長官になっている があり、この一族が下っていったものか。 阿波粟飯原氏の当主が明治期に作成した系譜では、古代氏族の 粟国造であった 粟凡直の子孫とする。 ただし粟飯原氏に伝わる系譜及び家紋、伝わる什物などから、古代氏族末裔説はあくまで伝承であり、千葉氏流粟飯原氏流である事は間違いないだろう。 この系譜についての論文でも古代氏族と粟飯原氏との接点については否定的である (『阿波国一宮社と「国造」伝承』)。 しかし、幾流かある阿波粟飯原氏の系譜はいずれも錯綜していて、確かなことはわからない。 系譜上では、 細川持常に仕えたという 千葉大炊助胤知がおり、彼が細川氏に従って阿波に移っていったのかもしれない。 彼の孫・ 粟飯原治部胤興は 細川政之に仕え、その子・ 粟飯原左京亮教胤は、主君・ 細川之持から 「之」字を給わって 「之胤」を称したという。 細川氏没落の後は三好氏に仕えたとされる。 また、別の系譜では、 千葉太郎兵衛基胤という人物を祖とするとされ、彼の子孫・ 粟飯原内記清常が足利家に仕え、その子には 粟飯原弾正保胤、 粟飯原太左衛門立胤がいたという。 立胤は四代将軍・ 足利義持に仕えたとされる。 奉公衆ということか。 保胤の孫・ 粟飯原兵衛尉近胤は 細川持常に仕え、 赤松氏追討戦の功績によって 桐紋の使用を許されたという。 赤松氏との戦いとは、嘉吉元(1441)年7月の 赤松満祐(六代将軍・足利義教を殺害した)との戦いであると思われる。 その子・ 粟飯原平十郎俊胤は 細川讃岐守義春に仕え、その子・ 粟飯原右近泰胤は 細川政之に仕えた。 妹は 高輪城主・ 粟飯原下総守常親の妻となった。 泰胤の子・ 粟飯原平内左衛門昌胤は 細川之持に仕えた。 そしてその子・ 粟飯原平之丞正胤は 細川持隆に仕えたのち三好氏に属した。 天正10(1582)年5月、 右大臣・織田信長は三男・ 神戸信孝を総大将とした 四国征討軍を起こして 河内国岸和田城に集め、副将・ 丹羽長秀も大坂に軍を進めて、先鋒として 三好笑岩入道を阿波に派遣して、 勝瑞城に拠って 長曾我部元親の軍勢と対峙した。 阿波の諸豪族はすでに織田勢に加わっており、長曾我部勢もうかつに阿波に攻め込むことができずにいたが、6月2日、京都本能寺において信長が重臣・ 明智光秀によって攻め滅ぼされたことから、四国の三好勢も壊滅。 笑岩はただちに兵を河内国へと戻したため、8月、 長曾我部元親は2万余の大軍をもって阿波に侵攻。 その主だったものは 長曾我部信親(元親嫡子で、烏帽子親は信長)、 香宗我部親泰(元親弟)、 長曾我部新左衛門尉(親興?元親従弟か)らで、28日には軍を二手に分けて南北から阿波に攻め込んでいった。 三好勢もこれに直ちに反応し、 十河存保が5千余の軍勢で 勝興寺城をかため、2千を先陣として城外・ 中富川に川砂利で陣地を築き、鉄砲隊を前面に押し出して長曾我部勢を待ち構えた。 この三好勢には阿波各地の諸豪族が参加しており、戦いは激烈を極め、長曾我部勢の一方の大将・ 香宗我部親泰と存保家老・ 矢野伯耆守虎村が一騎打を演じるほどの接戦が繰り広げられている。 親泰は 虎村の槍を内腿に受けるも虎村をつきふせて討ち取った。 この戦いで、 高輪城(名東郡国府町)の 粟飯原平之丞(粟飯原正胤)が討死を遂げたと伝わる。 そして天正13(1585)年、 蜂須賀家政が阿波一国を与えられ、 阿波国主として入部すると、家政は 土豪層の所領をすべて没収し、改めて与えるという形をとった。 この措置に強い反発をもった 湯浅十郎左衛門尉(仁宇山城主)・ 由岐備中守(山口城主)は一度は家政に従ったものの、ふたたび挙兵。 これに家政自ら出陣して圧力をかける一方、帰服した豪族・ 服部因幡守敬元の意見を聞いて説得にも乗り出しているが、これに応じなかったため、重臣・ 山田織部佐宗重に命じて 仁宇山城を攻め落とした。 さらに同じころ 名西郡大粟山の 森藤上野介知保も謀反を起こしており、こちらには 樋口内蔵助正長が派遣されて平定された。 知保は逐電しているが、家政は 森藤家が 南北朝以来の勤皇の家柄であることを知ると、知保の弟・ 伊賀守知隆を召出して家名を継がせ、さらに森藤の乱鎮圧に協力した 住友彦五郎・ 住友五郎右衛門・ 伊澤志摩守・ 粟飯原源右衛門・ 上野長左衛門尉には家政から感状が贈られている。 粟飯原源右衛門は 千葉介氏胤の子とされる 粟飯原満胤の五代の孫・ 粟飯原源右衛門清胤のことで、この功績によって 名西郡上山村の 「政所(まどころ)」となった。 清胤の長男・ 粟飯原源右衛門則胤は 政所役を継承、慶長19(1614)年には 「留守居役」を仰せつかる。 延宝3(1675)年、 上山村は上分、下分の二つの村に分かれ、則胤の系統は下分の庄屋を務めることとなった。 則胤の孫・ 粟飯原源右衛門佐胤は正式に 苗字帯刀を許されている。 この系統はとくに 「三日月家」と呼ばれ、名士として尊敬を集めた。 清胤の次男・ 粟飯原庄太夫倶胤もまた粟飯原家の一族として尊重され、その子・ 粟飯原太郎兵衛宗道の代に 上山村上分の庄屋となり、 「お東さん」と呼ばれ、代々庄屋役を務めて明治に至った。 現在、 徳島県名西郡神山町下分字栗生野にある 「粟飯原家住宅」は宝永7(1710)年に建てられた粟飯原庄太夫家の住宅。 県内最古で、阿波地方に珍しい六間取りの住宅であり、 奥村家住宅(板野郡藍住町徳命)、 福永家住宅(鳴門市鳴門町高島)、 長岡家旧宅(美馬郡脇町大字猪尻)、 田中家住宅(名西郡石井町藍畑)とならんで 国指定の重要文化財となっている。 元亨4(1324)年10月に行われた 北条貞時十三回忌の際に、「禄役人」として 粟飯原五郎左衛門尉常忠の名が見え、他の録役人 「合田」「尾藤」「本間」「五大院」はいずれも有力御内人として知られる氏族であることから、粟飯原氏も北条氏嫡流= 得宗家の家臣(御内人)であると考えられる。 若狭国の 「今富代官」として見える 「粟飯原入道道圓」も執権・ 北条高時(貞時の嫡男)の御内人で、若狭国に赴いていたことが推測される。 10月27日、幕府の諸御家人は参列した公卿らにそれぞれ品を進呈した。 石岡九郎は 中納言・三条公雅()に 鹿毛の馬一頭と 銀剣一振を納めているが、その際の御使は 粟飯原宮内左衛門尉である。 近衛実香( 中納言)に品を進呈した 千葉介貞胤の御使となったのは、 合田四郎である。 ほかに 「足立」「本間」「諏訪」「五大院」「尾藤」氏など、御使はすべて御内人が勤めていた。 また、鹿毛の馬一頭と銀剣一振を奉納した 粟飯原左衛門入道の名も見ることができる。 若狭粟飯原氏のその後は不明だが、おそらく室町時代は武田氏に仕えたか。 一方、江戸時代には、萩藩士に粟飯原氏がおり、若狭武田氏が安芸・丹後守護職を兼ねた 武田大膳大夫元信のころ、安芸にうつったのかもしれない。 幕末の安政2(1855)年、萩藩士に34歳の 粟飯原右衛門兵衛が見え、その子に 粟飯原常世が見える。 粟飯原右衛門兵衛は、明治時代に山口県士族として見られ、明治25(1892)年3月5日に亡くなった。 その子・ 粟飯原常世は 従五位勲三等。 陸軍歩兵大佐を経て、 日露戦争当時、 陸軍少将の地位にあり、 後備歩兵第五旅団長を務めた。 日露戦争の 奉天会戦では 第一軍(司令官:黒木為楨大将)として出征している。 ただ蝦夷相原氏と粟飯原氏との関係は不明。 千葉氏もしくは 相馬氏の流れを組む一族といわれる。 大館は蝦夷十二館のひとつで、政胤は 下国定季( 安東定季)を補佐をしていた人物だった。 長禄元(1457)年、アイヌ大族長 コシャマインがおこしたの乱では、十二館のうち十館までがことごとく占領されてしまった。 その後、花沢館主・ 蛎崎季繁の客将だった 武田信広(若狭武田氏という)が大館城を奪還した際に救い出され、以降は信広に従ってコシャマインの本陣・箱館攻めでは、その後詰として兵を率いた。 しかし、政胤はこの戦いで討死したという。 このあとを継いだのが子の 相原季胤で、下国定季の補佐となった。 その発祥地は『北海道史』では 「甲斐国都留郡相原村」としているが、この地名は『大日本地名辞書』にはみえず、陸奥国西津軽地方は鎌倉時代には 江流末 えるま 郡と呼ばれ、郡内に「相原村」があったようなので、この地を発祥とする一族か。 慶安元(1648)年の阿部家分限帳によれば、 六百石で騎馬格の 粟飯原八郎左衛門がいる。 このときの阿部家は 岩槻藩主である。 寛文8(1663)年の 『阿部正春御陣代中』によれば、千石取の 粟飯原八左衛門、三百石取の粟飯原文右衛門が見える。 その後、三代藩主・ 阿部備中守定高の子・ 阿部備中守正邦が 備後福山藩に移封となった。 福山藩分限帳には三百石取りの粟飯原五左衛門が見える。 粟飯原常益の子。 千葉成胤と藤原親正の戦いでは親正側について千葉氏と争う。 『千学集抜粋』 粟飯原元常 権太。 粟飯原家常の子。 千葉成胤と藤原親正との戦いの中で矢で射られて没する。 『千学集抜粋』 粟飯原顕常 次郎。 粟飯原家常の子。 千葉成胤と藤原親正の戦いでは親正側について千葉氏と争う。 『千学集抜粋』 粟飯原道光入道 文永3 1266 年に7回忌を行っていることから、文応元 1260 年に没したことがわかる。 「曾谷彈正忠内方親父」であり、八幡庄曾谷村(市川市曽谷)の豪族・曽谷氏との係わり合いがうかがえる。 『本土寺過去帳』 粟飯原左衛門尉 左衛門尉。 徳治2 1307 年5月4日、円覚寺大斎に名を連ねる。 『相模円覚寺毎月四日大斎番文』 粟飯原右衛門四郎 右衛門四郎。 徳治2 1307 年5月4日、円覚寺大斎に名を連ねる。 『相模円覚寺毎月四日大斎番文』 粟飯原清胤 下総守。 千葉介氏胤の後見人を務め、貞和3 1347 年、足利尊氏の側近となり政所に出仕する。 粟飯原又次郎 又次郎。 貞和5 1349 年正月6日、御荷用に列している。 『御評定着座次第』 粟飯原下総四郎 下総四郎。 貞和5 1349 年正月6日、御陪膳人衆八人の一人。 清胤の四男と思われる。 『御評定着座次第』 粟飯原基胤 彦五郎。 清胤の弟で足利尊氏の側近。 観応3 1352 年閏2月28日、笛吹峠で新田義宗を撃退した。 粟飯原詮胤 弾正左衛門尉。 清胤の子で延文3 1358 年12月22日に名が見える。 『宝筐院殿将軍宣下記』 粟飯原彦次郎 彦次郎。 応安7 1374 年9月27日の『奉行人連署奉書』を受けた人物。 小見川の津を支配。 粟飯原虎王 虎王。 応安7 1374 年9月27日の『奉行人連署奉書』を受けた人物。 彦次郎の子か? 粟飯原将胤 九郎左衛門尉。 明徳3 1392 年8月28日の相国寺供養の随兵四番手を東師氏とともにつとめる。 粟飯原兼胤 次郎左衛門尉。 明徳3 1392 年8月28日の相国寺供養の帯刀の列に参列。 系譜では清胤の弟だが、活躍時期に30~40年ほど差があることから、詮胤の兄弟、もしくはその子と考えられる。 粟飯原九郎右衛門 九郎右衛門。 応永元 1394 年9月11日に将軍に供奉した人物。 九郎左衛門将胤と同一人物? 『将軍家日枝社参詣供奉人』 粟飯原六郎 応永17 1410 年8月10日の香取社造営の文書に「泉水、椎名、萩迫」を知行していたことが見える。 『香取社造営料足内納帳写』 粟飯原三郎 応永17 1410 年8月10日の香取社造営の文書に「墨」を知行していたことが見える。 『香取社造営料足内納帳写』 粟飯原五郎 『香取社造営料足内納帳写』 粟飯原常善 但馬守。 詮胤の弟。 応永23 1416 年、千葉介満胤に従って上杉禅秀に荷担した。 粟飯原下総入道 下総入道。 永享年中 1429-41 の詰衆四番中に見える。 『永享以来御番帳』 粟飯原三郎左衛門尉 三郎左衛門尉。 永享年中 1429-41 の詰衆四番中に見える。 『永享以来御番帳』 粟飯原下総守 下総守。 文安年中 1444-1449 に詰衆四番に名を連ねる。 『文安年中御番帳』 粟飯原大和殿母 粟飯原大和守の母親。 法名は妙言尼。 宝徳2 1450 年6月28日没。 『本土寺過去帳』 粟飯原胤直 右衛門尉。 助九郎胤宣とともに戦死したとある。 千葉大介胤直のことか。 『鎌倉大草紙』 粟飯原胤宣 助九郎。 右衛門尉胤直とともに戦死したとあるが、千葉介胤宣のことか。 『鎌倉大草紙』 粟飯原九郎 康正元 1455 年、馬加康胤に攻められて千葉胤宣が自害したとき、ともに自害した。 粟飯原下総前司胤元 文明18 1486 年7月、「右大将」拝賀の際、将軍に供奉した「衛府」士として見える。 『親長記』 粟飯原豊後入道 明応4 1495 年11月9日、常輝(千葉孝胤入道)から宛てられた浄泉寺周心院に関する文書に見える。 粟飯原久四郎 永承2 1503 年11月15日、千葉介昌胤元服の儀において、馬・太刀を妙見社へ奉納した。 『千学集抜粋』 粟飯原孫太郎 永承2 1503 年11月15日、千葉介昌胤元服の儀において、馬・太刀を妙見社へ奉納した。 『千学集抜粋』 粟飯原大学 永承2 1503 年11月15日、千葉介昌胤元服の儀において、馬・太刀を妙見社へ奉納した。 『千学集抜粋』 粟飯原左近将監 粟飯原右衛門三郎の父。 永正6 1509 年9月28日、千葉介勝胤から右衛門三郎への文書に見える。 『千葉介勝胤書状』 粟飯原右衛門三郎 左近将監の子。 永正6 1509 年9月28日、勝胤からの広念寺領伊篠北方を周心院に寄進する文書にある。 『千葉介勝胤寄進状』 粟飯原孝宗 左衛門尉。 永正11 1514 年の文書に見える。 大永元 1521 年文書の「上野介孝景」と同一人物。 粟飯原幹宗 孫二郎・左衛門大夫。 孝宗の子。 永正11 1514 年、大永元 1521 年、天文6 1532 年2月の文書に見える。 粟飯原保宗 左衛門大夫。 幹宗の孫として天文6 1532 年2月に見え、天正13 1584 年の小見川金剛寺に寄付した。 粟飯原豊後 入道浄永。 天正17 1588 年のに見える。 『木内文書』 粟飯原胤光 隼人。 明応年中 1492-1501 のに名がある。 『伊篠浄泉寺文書』 粟飯原大和守 小見川伊篠浄泉寺の本尊観音の背識に天文20 1551 年、粟飯原大和守の名がある。 粟飯原大和守は根古屋村に墓があり、天正18 1590 年、小田原城から逃れて小見川に向かう途中で死亡した。 粟飯原九郎次郎 天正10 1582 年、討死。 『本土寺過去帳』 粟飯原四郎左衛門 塩古。 天正11 1583 年2月17日、法名:日啓。 『本土寺過去帳』 粟飯原大和守 塩古。 文禄3 1594 年正月22日。 『本土寺過去帳』 粟飯原大和守 塩古。 文禄5 1596 年6月13日、法名:日昌。 『本土寺過去帳』 粟飯原道感 佐倉。 慶長11 1606 年6月25日、法名:日就。 『本土寺過去帳』 粟飯原和泉 某年正月14日。 『本土寺過去帳』 粟飯原三河入道 某年10月18日、法名:日源。 『本土寺過去帳』 粟飯原治部左衛門 某年2月26日、法名:妙円。 『本土寺過去帳』 粟飯原文六 某年某月26日、法名:法忠。 All rights reserved. 当サイトの内容 文章・写真・画像等 の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。
次のの家老の家柄という。 いつの頃からか帰農したようで、桃生郡橋浦村名主・ 甚助は 千葉を称していた。 その後、4代当主・ 太右衛門は宝暦飢饉で村民を救済して仙台藩主から名字帯刀を許された。 7代目の 甚左衛門は天保14年、仙台藩主より「縦三引両紋」(仙台藩主・伊達氏の家紋)のついた白壁の土蔵を拝領した。 橋間 千葉一族。 木内氏の分流か。 発祥地は不明。 応永8(1401)年8月、 木内胤行(四郎) 木内胤信(七郎)、 木内胤継(平次左衛門尉)、 橋間胤保(左衛門次郎)の四名が、千葉氏の奏者として香取社録司代・ 慶海に対し祈祷に精を出すことを申し渡している。 橋本 上総千葉氏の祖・ 上総権介秀胤の子孫に 橋本秀助が見える (『山門文書』)。 「はせ」とよみ、 東一族の「長谷氏:ながい」氏とは別流。 陸奥国名取郡長谷村を発祥とする。 亘理元胤(因幡守)の三男・ 胤重(美作守)は亘理家の別家となる。 胤重には娘が一人いて、兄・ 宗元(右近大夫)の次男に嫁がせて 重景(紀伊守)と名乗らせ、その嫡男・ 景重(修理亮)は亘理本家とともに涌谷にうつり、 涌谷伊達氏(亘理氏)の重臣となった。 景重には子がおらず、 中野大膳の二男を養嗣子として 重長と名乗らせて亘理家を継がせ、重長は伊予と称した。 重長の代に陸奥国名取郡長谷村に住したことから、長谷氏を称するようになる。 重長ののちは嫡男・ 景親(左馬助)が継承。 二男・ 景時(藤左衛門)は別家となる。 景親の嫡子・ 重親(新三郎)は早世してしまったため、 葛西重常(壱岐)の四男を養嗣子として 重長(三郎左衛門)と名乗らせた。 亘理重景(紀伊守)の二男・ 盛景(又七郎)は宗家の 亘理元宗(兵庫頭)から亘理の称号を賜って別家をたて、元亀2(1571)年5月、信夫郡浅川において25歳の若さで討死を遂げた。 盛景に子はなく、叔父・ 村岡亘理胤信(右近)の二男・ 景長(善七郎)が継承したが、景長の兄・ 実信(彦右衛門)が早世したことから、景長は実家の村岡亘理家を継ぐこととなり、盛景の家は絶家となった。 もう一流、椎名氏一族の野手氏の出もある。 小田氏の重臣・多賀谷氏に仕えた 肘谷清胤(八郎左馬允)の次男・ 胤時(小四郎大炊助)が結城郡長谷村(場所不明)を領して長谷を称したといわれるが、下総国匝瑳郡野手村に隣接する長谷村(匝瑳市長谷)が発祥地か。 上総介平高望七代目の 景常が天喜4(1056)年、伊勢守に任じられて伊勢国一志郡伊藤庄に館を構えたことから伊藤を称したという。 しかし、景常は秀郷流藤原氏の一族で、平家方の侍大将である 伊藤忠清(上総介)・ 景清(悪七兵衛)らと同じ一族かもしれない。 景常の孫・ 常隆は常陸介に任じられて常陸国へ赴き、次男・ 常久は承安元(1171)年に上洛して平清盛に仕え、治承3(1179)年、常陸国の目代となって常陸国に下向した。 しかし、その翌年、源頼朝が挙兵したことで関東の情勢は激変し、常陸国が千葉介常胤らによって平定されると、雌伏した。 文治元(1185)年、常陸国筑波郡中村郷の名門・ 中村朝宗に仕え、彼とともに奥州藤原氏との戦いに従軍して功をあげ、信夫郡梁川村・伊達郡梁川村・柴田郡支倉村に所領を与えられて、 朝宗の家老となった。 その子・ 久成が支倉村に館をかまえて支倉と称する。 その後は伊達氏の宿老となり、代々伊達郡南方の大将になったが、天文14(1545)年に 支倉常正が伊達稙宗に従って二本松の戦いに参戦したが、兄弟3人を失ってしまう。 常正のあとは次男の 時正がついで信夫郡山口村に館を移し、武者奉行に任じられ、大崎白石の戦いに参戦した。 そのあとを甥の 支倉常長が継ぐが、時正の晩年に 紀伊守と 常次が生まれたため、常長と常次にそれぞれ六百石を分与して分家させ、嫡男・紀伊守は大坂の陣に従軍している。 支倉常長像(仙台城址) 支倉常長の父・ 常成は信夫郡山口村を領して山口を名乗るが、その子・ 常長は支倉宗家の時正にははじめ子がなく、養子として本家を継いだ。 その後、時正に二人の子ができたために、時正の次男・ 常次とともに分家して六百石を受けた。 常長は早くから 政宗に信頼され、21歳で 伝令将校に抜擢。 他領地の情報収集に長けた武士だった。 そんな常長が ローマへの遣欧使節団長に抜擢されることになる。 慶長18(1613)年9月15日、キリスト教フランシスコ派神父の ルイス・ソテロとともに 牡鹿郡月ノ浦を出帆。 船は五百トンの帆船「 サン・ファン・バプチスタ」。 太平洋を横断してノビスパン(メキシコ)を経由し、翌年の1月に スペインのマドリードに到着。 国王フェリペ3世に謁見して洗礼をうけ、 ドン・フェリポ・フランシスコと称した。 9月にローマに入り、 教皇パウロ5世に謁見、ローマ市から 市民権を与えられたが、政宗が望んでいた「 奥州司教区」の創設と「 日西通商条約」の締結は不成功に終わり、元和4(1618)年に帰途についた。 帰途は喜望峰、インドなどを経由する航路であった。 そしてフィリピンのマニラに至ったとき、江戸幕府がキリシタン禁制を出したことを知り、元和6(1620)年8月26日、単身仙台に帰国するが、 キリシタン禁令により閉居を命じられ、その2年後の元和8(1622)年7月1日、不遇のまま52歳で亡くなった。 寛永17(1640)年、常長の子・ 常頼と 常道の兄弟は キリシタンとして処刑された。 しかし常頼の子・ 常信は罪を許され、本領を安堵、子孫は仙台藩士として続いた。 支倉常長がローマ市から与えられた 「ローマ市公民権証書」や政宗が教皇に宛てた書状は現存している。 また、昭和20年7月の仙台大空襲によって焼失した政宗の廟所「瑞鳳殿」の再建のために政宗の石棺をあけたところ、中に横たわる政宗の遺骸のかたわらに、常長が欧州から持ち帰ったとおもわれる黄金のブローチや銀製の装飾品、メダイなどが発見された。 これらは仙台市博物館に収められている。 大須賀氏の一族・ 田部多胤秀(次郎左衛門尉)の子・ 胤盛(民部)が大須賀保幡谷(千葉県成田市幡谷)を領して幡谷を称した。 系図上では子になっているが、実際には田部多胤秀の子孫か。 胤秀は大須賀氏初代・胤信の子であり、 顕朝(次郎太郎)の子は 『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』には書かれていない。 その後は千葉宗家の直臣として活躍した。 が江戸から招いた歌人・ 衲叟馴窓は佐倉を中心に歌道を広めたが、その衲叟馴窓が永正11(1514)年に編纂した私家集 『雲玉和歌集』に、勝胤の家臣と思われる 幡谷胤相(加賀守)・ 粟飯原信尊(民部少輔)・ 海保幸清(丹波守)・ 円城寺道頓などが名を連ねている。 このほか、・ 太田資清・ 太田資長(太田道灌)ら千葉氏と敵対した人物の名も見ることができる。 祖の 花井門十郎は常陸国府中出身の人物で、谷中の日蓮宗寺院・ 瑞林寺(感応寺ともいわれる)の寺小姓となっていた。 慶長7(1602)年、慶長の役で徳川方、石田方いずれにもつかずに中立を決め込んだため改易処分とされた相馬家の再興願いをするため、相馬家嫡子・(のちの利胤)が瑞林寺に寄宿して旗本のつてを探した。 このとき、住職・日瑞上人の協力もあり、赤沢常重、藤野宗右衛門、そして島田治兵衛が相馬家再興に尽力してくれたおかげで相馬家は中村六万石を認められ、大名家として再興することができた。 その後、当主の相馬義胤が江戸に出府し、徳川家康・秀忠の両君と面会。 その帰途に瑞林寺に立ち寄り、世話になった日瑞上人に、寺小姓の 花井門十郎と上人の甥・ 首藤嘉助を相馬へ引き取ることを申し出て了承を受け、蜜胤は 花井門十郎を 泉藤右衛門胤政に、 首藤嘉助を 岡田八兵衛宣胤にそれぞれ預けて、泉家、岡田家の一族とするべしと命じ、花井門十郎は 「泉縫殿助」、須藤嘉助は 「岡田蔵人」となり、子孫は代々中村藩の家老職となった。 花井門十郎こと 泉縫殿助乗信は相馬家重臣の池田次郎左衛門直助の娘を娶り、重臣の列に連なった。 乗信は慶安元(1648)年7月27日に亡くなった。 法名は 傑勝玄英。 新沼村(相馬市新沼)にあった 新沼山宝泉寺に葬られ、代々の菩提寺となった。 乗信の長男・ 縫殿助成信は相馬藩家老となり、次男は薊家に養嗣子に入り 薊弥左衛門となる。 三男は原家の養嗣子となって 原権太夫を称した。 長女は御一家・ 泉田掃部胤精の妻となる。 しかし成信の養子・ 左五兵衛が罪を犯して寛文13(1673)年8月13日、 切腹を命じられると、連座制により、成信の長男・ 縫殿助は改易された。 その後、縫殿助の嫡子・ 泉嘉右衛門為信は許されて召し出され、家老に列し、御一家筆頭・ 岡田與左衛門伊胤の娘を娶った。 娘は家老・ 門馬嘉左衛門景経の妻となっている。 しかし、泉縫殿助家はこの為信の代で後嗣が絶えて断絶していまった。 こののち、泉家が再興することはなかったが、泉縫殿助成信の三男・原権太夫の孫・ 七郎大夫信英が本氏の花井氏として祭祀を継承した。 花井七郎大夫信英は中村藩重臣となり、 富田六郎右衛門実信の娘を娶るが、跡継ぎとなる男子がなく、 松本彦左衛門敷重の次男・ 平蔵を養嗣子として貰い受け、 花井六太夫信逸となった。 その婿養子・ 花井六太夫信以(花井甚五左衛門義房三男)は花井氏と死別後、御一家・ 泉内蔵助胤寧の娘(田原橘左衛門為定継母)を妻とした。 信以の長男・ 花井七郎大夫信興は 猪苗代貞之丞盛常の娘を娶り、藩内でも重臣として活躍した。 長女は家老・ 門馬嘉右衛門孝経の妻となり、次男・ 原伝右衛門信賢は原伝右衛門信豊の婿養子となった。 そして三男・ 花井助大夫は公族・ 相馬将監胤慈の養嗣子となり、 相馬将監胤武となった。 胤武の母が御一家・泉内蔵助胤寧の娘であったことで、御一家の急養子に定められたと思われる。 四男・ 立野助太夫儀房は 立野久左衛門定房の婿養子となる。 花井信興の嫡子・ 花井七郎大夫信因は岡田儀左衛門長意の娘と結婚し、嫡男・ 花井祐蔵信祥は天保8(1837)年正月、家督を相続。 4月に 花井助太夫と改名した。 嘉永6(1853)年9月7日、 在郷中頭に就任した。 さらに万延元(1860)年6月15日、 御使者・江戸屋敷御刀番となる。 幕末の動乱期には外交などに携わった。 埴谷 千葉一族。 発祥地は上総国武射郡埴谷村。 埴生 房総平氏の一族。 の次男・ 恒直(次郎)が埴生庄(千葉県印旛郡一帯)を領して埴生を称した。 「恒直」の名は中世に薩摩へ移った平氏・ 指宿氏に伝わる系譜にのみ見られるが(『指宿文書』)、 「恒直」は 「承暦四年為兄常永被殺害」とあり、承暦4(1080)年に兄・ 平常長に討たれたという。 もし、常長と恒直の抗争が事実とすれば、常長は弟・恒直の埴生庄を巡って争ったのだろう。 常長の子に 「埴生九郎常門」が見えるが、恒直跡を領したものか。 常門の跡は 大竹常遠(太郎)、 麻生久常(次郎)が、それぞれ埴生庄大竹郷()、麻生郷()を領したようだ。 その後、の弟・の子・ 時常(二郎)が埴生庄を称しており、千葉宗家の手に移ったと推測される。 時常ははじめ 「上総介次郎」を称していたと思われ、嘉禎4(1238)年1月1日の北条時房による椀飯で三御馬を兄・とともに曳いている。 時常の「時」はおそらく北条氏を烏帽子親として付けられた一字だろう。 兄のは、幼少のに代わって千葉氏の家政を取り仕切り、幕府内での権勢も次第に強まっていった。 さらに上総に領地のある 三浦義村の娘を正妻に迎え、三浦氏との繋がりを強めていった。 秀胤は自身の領地を広げるという野心もあって、弟の時常の所領であった 埴生庄(成田市)を横領してしまう。 時常はこれに怒って秀胤と断交した。 こうした中で、執権・ 北条時頼は三浦氏・上総氏の勢力拡大を恐れ、前年にあった 藤原頼経(先代の将軍)の計画した時頼追討の共謀者として、三浦泰村・上総秀胤らを「評定衆」から罷免した。 三浦泰村はこれに怒り、ついに宝治元(1247)年6月5日、時頼との合戦に踏み切った。 これを 宝治合戦という。 秀胤は泰村の妹婿という立場と時頼に対する恨みから三浦氏に加担したようだが、いち早くこれを察した時頼は、千葉一族の勢力を殺ぐいい機会として、千葉一族の(素暹)・を上総国一宮にあった秀胤の館に急行させてこれを討たせた。 このとき、秀胤と断交していたはずの 埴生時常は、 兄の危急を聞きつけて上総一ノ宮に急行し、群がる武士達を切り伏せて館内に入る。 館の中では覚悟を決めた秀胤の一族がおり、 時常は彼らとともに自決した。 『吾妻鏡』にはこのことを 「並死骸於一所、勇士之所美談也」と讃えている。 ただ、秀胤の子・ 上総泰秀(五郎左衛門)は討手である東胤行の娘を妻に迎えており、生まれたばかりの男子が一人いた。 胤行は時頼に懇願して、孫にあたるこの男の子のほか、時常の子1人、秀胤の幼い子・孫たち3人をたすけて庇護している。 埴生庄は秀胤・時常の死後、 足利泰氏(宮内少輔)の所領となり、建長3(1251)年12月2日、泰氏はこの埴生庄にて三十六歳で密かに出家を遂げた。 しかし、この出家は幕府の許可を得ないものであったため、12月7日、埴生庄は没収され、代わって 金沢北条実時(掃部助)に与えられた。 金沢北条氏と埴生庄の結びつきはこの時から始まり、下総に金沢称名寺の法灯が伝えられることとなる。 郡上篠脇城下の明建神社 の子・が美濃へ下る際に同行した宿老・ 埴生高師(太郎左衛門尉)がいた。 高師は妙見菩薩に供奉して美濃に向かい、妙見社(現在の明建神社)を造営して 代々神主となっている。 越後国奥山庄内の土地についての争論で 「埴生下総三郎兵衛尉清胤女子平氏 字松弥今者死去」が見える。 彼女は 「越後国塩澤村 并塩谷村田五段畠山野以下得分物」が 「和田彦四郎茂実」によって押領されていることを訴え、延慶3(1310)年9月12日の御下知によって知行が認められたが、彼女は嘉暦3(1328)年以前に亡くなり、夫である 「海老名又太郎忠顕」ならびに 「和田左衛門四郎茂長女子平氏 字土用若」に 「奥山庄内荒居、江波多以下村々」の打ち渡しを幕府に要求した。 これに対して、嘉暦3(1328)年9月24日、幕府問注所の摂津道準は 「尼生蓮茂長後家 、今者死去跡」を除いた分を、両名に打ち渡す旨を、池駿河七郎大夫をして伝えた。 ここに見える 「埴生下総三郎兵衛尉清胤」がいかなる人物かはわからないが、宝治元(1247)年に一ノ宮で自刃した埴生時常(次郎)には男子が一人いて、の嘆願によって助命されており、彼の子孫なのかもしれない。 東氏流では(本庄盛胤)の五男・ 胤文(又四郎)が 香取郡東庄馬場村を領して馬場を称した。 諸系譜では胤文の孫・ 胤郷(又次郎)以降は書かれておらず、子孫は不明。 千葉流では、の末子・ 胤重(五郎)と千葉介氏胤の子・ 重胤(八郎)が馬場を称した。 こちらの発祥地は 印旛郡馬場村(成田市馬場)と思われる。 馬場胤重(五郎)は南北朝の騒乱の際には、兄のに従って戦功を挙げたという。 馬場重胤(八郎)は 印旛郡公津村(酒々井町公津)に、郎党の 円城寺尚家(弾正)、 円城寺政俊(刑部少輔)、 片野胤定(美濃守)とともに移り住み、子孫は周辺各地に広まった (『千学集抜粋』)。 孫の 「金山殿」は馬場から約一キロ北の「金山村(成田市下金山・東金山)」、 「公津殿」は馬場から南西八キロの「公津村」、 「岩橋殿」ことは公津から三キロほど南の「岩橋村(酒々井町下岩橋、上岩橋)」に移り住んだと思われる。 岩橋輔胤は、との滅亡によって滅んだ千葉宗家を継承することになり、宗家の本拠地を自分の本領に程近い 本佐倉城(岩橋より西三キロ)に移した。 本佐倉は印旛沼の水運と防御に適しており、以降の千葉介の本拠地として発展していく。 輔胤は 寺崎城(佐倉市寺崎)に在城したとも伝えられている。 室町時代後期の 馬場胤平はが妙見遷宮式に親胤の馬を曳いているが、胤宗流か氏胤流かは不明。 家紋は「丸に十五枚笹」・「十曜」。 宗家の領内、千葉郡浜野村発祥。 原 千葉一族。 千葉宗家の筆頭家老。 戦国時代末期には宗家を陰から良きに悪きに支えた。 原氏は大きく分けて以下のように3つの流れがある。 (1)原常余 鴨根常房(三郎)の弟で養子。 小城千葉氏の家老である岩部氏・仁戸田氏は彼の子孫。 (2)原光氏 千葉介氏胤の次男で初名は満氏(二郎)。 子・常光は「原二郎」として原氏を再興した。 子孫は甲斐国に移った。 (3)原胤高 千葉介満胤の子といわれ、子孫は千葉氏筆頭家老となる。 諸国に広まっていった流れは、この流れが多いようだ。 常途は下総国香取郡原郷(多古町染井)に住んで 原四郎と称した。 子孫は原郷の周辺に移り住んで、円城寺・岩部・仁戸田・牛尾・飯篠・原口・江里口・峯・晴気・粟飯原・大原・次浦・江指・千田・岩沢・鞍持・佐野らの諸氏が生まれた。 承久3(1221)年5月に起こった「承久の乱」の後、一族・ 原胤勝(与九郎)は下総国から信濃国に移住し、下条家に仕えた。 その子・ 胤重は松枝合戦で戦死。 甲斐に移った一族は武田氏に従い、信玄のもとで三方ヶ原の戦いにも参加。 しかし、武田勝頼が滅ぶと帰農した。 (2)千葉介氏胤の次男・ 光氏(二郎)は、関東公方・足利氏満(1359-98)から偏諱を受けて 満氏と名乗ったが、のち 光氏と改名、子・ 常光は 「原二郎」と称した。 その子孫・ 胤重(二郎左衛門)は甲斐国に移住している。 (3)千葉介満胤の四男・ 胤高(孫次郎)は、原氏の名跡を継承(原胤惟養女を妻としたとされる)して原を称し、彼の子孫は千葉宗家被官として栄えていくことになる。 子孫・ 原胤房(越後守)は鎌倉府侍所所司・千葉介胤直の側近として鎌倉にあり、公方屋敷にも出仕して鎌倉公方とも昵懇にあった。 しかし、胤直は上杉氏(幕府方)と成氏との争いの中で、康正元(1455)年、胤房の諫言も聞くことなく上杉氏に加担。 胤房は成氏と結んで千葉庄に帰っていた主君・胤直に軍を向ける。 千葉館にいた胤直一族は成すすべなく千葉を脱出し、被官の多くが本領を持つ千田庄へと逃れた。 しかし、胤房は胤直の叔父・馬加陸奥守入道と結んで千田庄多古城ならびに島城を攻めて、主家である 千葉宗家を滅ぼした。 同年中、足利義政は成氏の追討のため、下総国東庄に所縁の奉公衆・ 東常縁に御教書を与えて下向させ、 上総国浜野に所領を持つ奉公衆・ 浜春利(式部少輔)を副将とした。 彼らは下総国に入ると、大須賀左馬、国分五郎ら千葉六党の国人衆に召集をかけ、馬加城に攻め寄せた。 馬加陸奥入道・原胤房らは防戦したが敗れ、胤房は千葉方面に逃れる。 胤房はその後も東常縁との戦いを続けるが、連敗を重ねたようだ。 そしていつしか胤房は名を見せなくなる。 その後、 原胤隆(宮内少輔、宮内太輔)が千葉庄小弓城主として活躍を見せ、おそらく胤隆の子孫が原氏の嫡流となり、 小弓城主となった。 永正14(1517)年、上総国真里谷城主の 武田三河守入道恕鑑が小弓城を攻め取り、武蔵国高柳に在館していた 空然(足利政氏の次男で鎌倉鶴岡八幡宮寺若宮別当)を迎えて空然は還俗し、 足利義明(右兵衛督)を名乗った。 この戦いに城主・ 原二郎は敗れ、一族の 原友胤(能登守)は子を連れて甲斐の武田信虎を頼った。 そしてこの子は信虎から偏諱を受けて元服し、「虎胤」と称した。 のちの武田二十四将「 原美濃守虎胤」である。 こうして小弓城は足利義明の居城となり、 「小弓上様(小弓御所)」と称される。 一方で領内を荒らされた千葉介勝胤は、相模国小田原の北条氏綱に義明追討を要請した。 しかし、氏綱は 「時を待って行動しましょう」といって積極的に応じなかったため、仕方なく義明と和睦しているが、義明には傲慢な性格が現れ、天文3(1534)年、彼を後見してくれていた 武田恕鑑に切腹を命じ、恕鑑は怒り心頭に達して憤死した。 さらに彼の死後、嫡男・ 武田信隆と次男・ 武田信応が家督をめぐって争い始めた。 信隆は義明のやり方に無念で仕方がなく、 北条氏綱と結んで義明を討つべく助けを求めた。 一方で異母弟・信応は義明に取り入って信隆追討の兵を挙げた。 天文7(1538)年10月、義明は武田信応・里見義堯と結んで、古河公方・足利晴氏の足元である関宿攻略のために下総国府台に進出。 一方で、古河公方方の北条氏綱が国府台に攻め入り、激戦の中で足利義明は討死。 小弓城は当時の原家当主・ 原胤清のもとに戻った。 この戦いを 「第一次国府台の戦い」という。 原氏はその後も千葉宗家の家宰として宗家の舵取りを行い、室町時代末期に臼井城に本拠を移して半独立。 宗家の執権は庶流の 原親幹(若狭守)・ 原胤長(豊前守)がつとめるようになっていた。 そして臼井原氏最後の当主・ 原胤信(吉丸)は天正18(1590)年、小田原合戦の余波を受けて臼井城を開城し、徳川家康の側近となった。 天正18(1590)年、徳川軍によって手賀城は陥落したと思われ、城主・ 原久胤の弟・ 原胤次が板倉勝重の推挙によって慶長18(1613)年、江戸町奉行・島田正利の組与力に就任。 子孫は代々南町奉行与力として幕末まで続いた。 胤藤の子・ 原胤貞(出雲守)は応永6(1399)年3月20日「肥前国神埼郡倉戸城」で討死した。 子孫はおそらく千葉家家臣として続いている。 しかし、忠長が謀叛の疑いをかけられて切腹させられると、連座して子の 重国とともに追放された。 その後、寛永13(1636)年12月10日赦免されて大番に列し、寛永15(1638)年12月1日、二百俵を賜って旗本に列した。 原胤歳は武田信玄に仕えた部将で、その子・ 胤従は信玄の目付役鎗支配で、武田氏の滅亡後に家康に仕えた。 胤従は家康の関東入府に伴なって、武蔵と甲斐の中継地である八王子を任された千人同心頭十二家のうちの1家として八王子に赴任した。 胤従は千人同心「葵組」の元締めであり、胤従は家康の麾下として奥州平定戦、文禄慶長の役にも参加。 その子・ 胤虎は関ヶ原の戦いで秀忠軍に加わって上田城攻めなどに活躍した。 屋敷は八王子追分町に七千坪の広大なものであったが、10代・ 原胤敦の時代の寛政11(1799)年12月12日、火災で焼け落ちた。 胤敦は翌年早々に配下を率いて蝦夷地へ渡って警備と開拓に従事、文化5(1808)年に八王子に帰郷した。 胤敦・ 胤広・ 胤禄の3代は幕府の地誌編纂事業に携わる。 初代・原胤歳は身延山久遠寺に埋葬され、2代・胤従以降は、胤従が開基となった上野原宿本立寺に埋葬された。 初見は 原胤継(肥前守。 入道行朝)である。 胤継は宝徳3(1451)年に宗家の原胤房と私闘を起こしたのち小弓城に拠った。 胤継が文明13(1481)年に亡くなったのち、子・肥前守(法名行源)が継ぐ。 その子・ 光信(能登守)は国府台の合戦では宗家の原胤貞に従って活躍したと思われる。 その子・ 能登守(法名日源)は元亀元(1570)年に里見氏と戦って戦死した。 景広は文明2(1470)年3月、臼井庄弥富郷に日蓮宗勝興山長福寺を建て、文明11(1479)年、臼井城に攻めてきた太田道灌の軍に突撃して戦功をあげている。 景広の嫡男・ 孫九郎は永正14(1517)年5月に足利義明との戦いで戦死した。 次男の 弾正忠はそれより2年前の永正12(1515)年に没している。 四男・ 胤行は天文7(1538)年の国府台の戦いで宗家・原胤清にしたがって出陣したものと思われ、 『千葉大系図』によると 「天文六年出張国府臺有軍功」とある。 胤行は天文19(1550)年の千葉妙見社遷宮の儀式の際には、惣領家の 原胤清の献上する神馬を曳きたてており、胤清の子・胤貞の神馬は、(1)の小西原氏の 原胤次(隼人佐)が曳いている。 大野村(市川市大野)を本拠としており、 「豊前守」を称した人物が系譜に多いことから、本作倉原氏となんらかの関係があったのかもしれない。 主に下総・武蔵の国境付近で討死している人物が多いことから、下総千葉氏と上杉氏との戦いのなかで戦死したと考えられる。 ただし、森山原氏と並んで戦国末期の 千葉宗家筆頭家老をつとめた。 原宗家である臼井原氏はすでに千葉宗家の家老という立場ではなく、千葉宗家とは密接な関係を保ちながらも独立した北条氏臼井衆の筆頭に位置していた。 千葉宗家の家政を取り仕切ったのははやくから千葉宗家の直臣として仕えていた原氏の庶流(本作倉原氏・森山原氏)であったと考えられる。 戦国末期の当主・ 原胤安は千葉宗家存続のためには北条氏の力を頼る他ないと考えていたようで、強硬に北条氏の介入に反対する 原親幹(森山原氏)と対立した。 親幹の態度はかなり強硬だったようで、胤安は北条氏直に下総出兵の要請までしている。 結果的に原親幹は説得に応じて降伏。 千葉宗家は北条氏に乗っ取られることとなった。 本作倉原氏と並んで戦国時代末期の 千葉宗家筆頭家老。 原親幹は千葉介親胤より偏諱を受けていて、その重用ぶりがうかがえる。 北の佐竹氏・大掾氏との備えとして、海上氏の居城・森山城(千葉介胤富が海上氏家督として入っていた)城将としてこれを守る。 北条氏が千葉介邦胤亡きあと、千葉宗家乗っ取りを画策するとこれに強行に反発。 親北条氏の本作倉原氏と激しく対立した。 しかし、北条氏が親幹の能力を高く評価していたためか、北条氏は粘り強く親幹を説得。 ついに親幹は出家して北条氏の支配下に入った。 その後も親幹は北総の要と考えられており、隠居は許されずに森山城将・海上氏の後見を命じられた。 はじめは織田信長に仕えて、柴田勝家に従い北陸地方を転戦する。 美濃土岐氏の一族とされる。 (2)幕末の土佐藩兵学師範に 原茂胤がいた。 茂胤は藩祖・山内一豊が定めた 北条流軍学を学び、弓隊が無用の長物だと唱える 乾退助(のちの板垣退助)がすすめた鉄砲導入に強硬に反対した。 原常途の子孫といわれる。 相馬重胤が奥州に下った際に従って行方郡小高郷に住む。 相馬高胤の時代、 原胤安(大蔵少輔)が大井邑に移った。 その子・ 原胤盛(玄蕃)とその子・ 胤寿(次郎右衛門)が宇多郡藤崎邑に移住し、その後、 駒ヶ嶺堡主に任じられた。 胤盛の次男・ 原胤直(左近・伊卜)の墓は小高郷入迫に残る。 その子・ 胤政(三郎衛門)は分限帳では6貫40文を知行したという。 その子・ 庸吉(新右衛門)は慶長の相馬家中村移封に際して中村に移り、200石を領した。 しかし、その後にゆえあって50石に減封され幕末にいたる。 嫡流の 原伝右衛門は200石、庶流の 原茂右衛門は20石、 原三郎右衛門は8石。 摂津は子・ 久長(治部)とともに相馬盛胤に仕え、要衝・駒ヶ嶺塁主に抜擢される。 しかし、伊達政宗が攻め寄せてきたため迎え撃ったが、ついに陥落。 摂津・久長父子は盛胤のもとに逃れ、坂元の戦いで戦死した。 胤寿の次男は 原三河を称し、大井邑に館を構えて14貫550文を領した。 その子・ 近江は慶長7(1602)年の中村藩成立と同時に中村城下に移り、子・ 助兵衛は127石を給され、六代目の 八左衛門は元文年中(1736-1741)に所領を没収されて滅んだ。 16世紀初頭の原氏の当主は原胤隆(宮内少輔)だった。 永正6(1509)年、 原胤隆は連歌師として名高かった 柴屋軒宗長を小弓城に招いて盛大な連歌の会を開くなど、歌人としての才能もあったようだ。 また、胤隆の三男・ 範覚が十三歳で 北斗山金剛授寺尊光院(現在の千葉市中央区「千葉神社」にあった別当寺)の 妙見座主に就任している。 本来、 妙見座主には千葉介の子が就任するしきたりとなっていたが、胤隆の子が就任するほど原氏の力は強かったようだ。 そして範覚が四十三歳で亡くなると、 千葉介勝胤の子・常覚(安寿丸)が座主に就任するが、彼は 原胤隆の娘を母としており、結局原氏の影響力が残る形になったと推測される。 妙見信仰は千葉一族の共通の重大事項であり、その頂点に原氏の子弟が就任していることをみても、原氏の権勢の強さがうかがわれる。 の子・(鴨根三郎)の子孫で、 原常継(十郎)の孫・ 原忠綱(又七郎)の五代の孫・ 原秀胤(対馬守)が文明元(1469)年12月に肥前に下向して原口を号した。 子孫はと原口氏に分かれるが、原口氏は 原口胤清(三郎)の七代の孫・ 原口平二兵衛以降の系は不詳である。 晴気 千葉一族。 小城千葉氏の流れをくむ家で、はじめ千葉鍋嶋家家臣、のち佐賀藩士となる。 家紋は 月星、十一曜。 正しくは 「晴氣」。 知行地は三根郡などに四十五石。 の子・には三人の娘と男子が一人おり、男子は 馬場清兵衛茂周の養子となり、 馬場帯刀を称したが早世した。 長女は 永田利右衛門に嫁ぎ、二女は 本告作左衛門に嫁いでおり、胤信は三女に 鹿江忠兵衛茂次の子を嫁がせて養嗣子とし、鍋島千葉家初代・となった。 一方、鍋島千葉家の名跡を継いだ常貞とは別に、 長女(永田利右衛門妻)の子(胤信には外孫)を養子に迎え、 千葉作兵衛胤仲を名乗らせた。 胤仲は叔父で義兄の 鍋島常貞の家臣となり、「千葉」姓を憚ったのか、鎌倉期の千葉氏西遷に随った 「飯篠」氏の名跡を継いで 「飯篠作兵衛尉」を称している。 胤仲の長男・ 常豊は石井忠右衛門の聟養子となり、 石井仁右衛門を称した。 正徳元(1711)年9月25日に亡くなった。 二男・ は江戸の徳川家菩提寺である 東叡山寛永寺の塔頭・一乗院の住職にまで昇った。 胤仲の長女は 関平兵衛の妻、二女は 犬塚三兵衛の妻、三女は 三谷八左衛門の妻となった。 胤仲の三男・ 胤之が 石井武右衛門を称し、その後、 飯篠胤之と改めて飯篠家の家督を継ぐ。 妻は石井権之丞の妹。 はじめ二十石を賜り、その後も微増を重ねて享保6(1721)年に神埼郡六丁牟田に所領を給わり、八十石取りとなった。 しかし、翌享保7(1722)年、江戸において人を傷つけ、家籍を没せられた。 飯篠胤之には三男三女があり、長女は白石鍋島家の家臣・ 牧要人(牧右衛門允)の妻となり、長男・ 郡右衛門胤陳は本来は飯篠家の家督を継ぐ者であったが、享保7(1722)年に父・胤之が刃傷沙汰を起こしたことから飯篠家は絶家とされてしまった。 そのため胤陳は、元文元(1736)年、五代藩主・鍋島信濃守宗茂の命を受け、石井新右衛門の養子となって石井新右衛門家の名跡を継いだ。 妻は石井七郎左衛門常長娘。 二男・ 作兵衛胤春も藩公・宗茂の命で「飯篠」を「晴気」と改めた。 二女は 広渡雪之進の妻となり、三男・ 常意(常政)は石井六右衛門忠之の養嗣子となった。 なお、飯篠家は武右衛門胤之で絶家とされたが、胤之の長男・ 石井郡右衛門胤陳の次男・ 野口利平次胤稠(野口三左衛門養子)が胤之家の再興を許されて 石井利平次胤清と改めて家督を継いだ。 晴気作兵衛胤春は飯篠から 藩公・宗茂の命を受けて改姓し、 初代晴気家当主となる。 妻は 志波喜左衛門慎之娘。 「晴気」は千葉家の先祖伝来の地である小城郡晴気村の由緒によるものか。 長男・ 平八は早世し、長女も早世。 二女は 伊東杢兵衛の妻、三女は蓮池藩士・ 原口三郎左衛門隆朗の妻となった。 胤春の二男・ 晴気胤丘ははじめ 軍蔵を称し、のち 作兵衛。 妻は 松永新右衛門忠英娘。 晴気胤丘の長女は 石井数馬尚方の妻、二女(始)は 石田利兵衛為武の妻となり、長男・晴気軍蔵が家督を継ぎ、 晴気作兵衛と改める。 三女は手明鑓・ 今泉新兵衛妻。 なお、藩公・鍋嶋斉直の命によって、石井数馬尚方の養女となった 龍女(藤堂家家来・高井九郎右衛門娘)は佐賀城奥向に上がり、 「唐橋」を称し、その後 「薗岡」となった。 さらに藩公の側室となって 「於増」と称し、 保九郎、 鍋島丹波守直永、 豊姫の母となった。 晴気作兵衛には跡継ぎの男子がなく、 深堀新左衛門正方の子を三女の婿養子に迎えて 晴気善作演胤として家督を譲った。 長女は所伝不明、二女は足軽の 嘉村庄助の妻となった。 その後、作兵衛に実子の 作一郎が生まれ、善作演胤の養子として家督を継いだ。 昭和期の軍人・ 晴氣慶胤陸軍大佐はこの晴氣家の流れをくんでいるのかもしれない。 椎名氏の祖・ 椎名胤光(六郎)の子・ 松山胤平(三郎)は、八日市場郷松山に松山神社を建立したときに、自身の事を 「其之地之豪族林資朝之孫、上総介良兼之門葉」と言っていることから、松山胤平は 林資朝の娘の子であろうと思われる。 林家はその後、椎名一族・ 野手氏の家老となり、戦国中期の 林資平(左平大)は野手氏の一族となっていた。 野手城主・ 野手義長が天文4(1535)年3月18日に 押田修理亮に滅ぼされると(野手合戦)、資平の子孫である 林左太夫(全仲)と 林弥右衛門らは義長の三男・義通とともに小田氏を頼っている。 また、林弥右衛門の兄・ 弥左衛門は野手に残ったという。 「はんざき」と読む。 遠祖は藤原北家と伝わり、相馬氏の功臣・ 木幡氏の一族。 発祥地は行方郡飯崎村(南相馬市小高区飯崎)。 盤崎村については、鎌倉後期に(彦次郎)が自らが惣領であると主張するために作成したと思われるの中に、小高村とともに 「闕所(領主不在地) 」として記載されているのが初見。 こののち、小高・盤崎村はによって師胤の母・ 尼阿蓮に知行が認められた。 相馬師胤の嫡子・に従って奥州へ下った 木幡範清(周防守)の弟・ 政清(伊予守)を飯崎氏の祖とする。 政清の子・ 胤清(紀伊守)は相馬氏より「胤」字を賜って一家に列した。 その後、木幡氏は室町時代まで代々相馬氏の筆頭家老・執事をつとめた家柄となった。 そして、胤清の子孫・ 胤秀(紀伊守)は相馬隆胤の代に小高郷中島に所領を与えられ、氏を木幡から飯崎へと改めた。 文安2(1445)年2月、牛越塁主(南相馬市原町区牛越)・ 牛越定綱が突如、相馬隆胤に謀反を起こした。 隆胤はみずから追討の軍勢を率いて牛越城に向かったが、中島塁主の 胤秀(紀伊守)が定綱と通じたため、隆胤は逆に攻めたてられる形となってしまった。 この危機を救ったのが 文間胤久(萱浜嘉右衛門尉)と 青田清弘(豊田三郎左衛門尉)の二将で、彼らは偽って牛越城に降伏して定綱を斬殺。 相馬勢は牛越城に乱入して攻め落とした。 胤秀は降伏して許された。 応仁2(1468)年3月21日、隆胤以下一族重臣たちが高野山金剛峰寺無量光院に銭を寄進した際、 「飯崎胤秀」が五十疋を、 「修理進」が百文を寄進している。 胤秀以降、 繁安(但馬守)、 安元(紀伊守)、 清安(右兵衛佐)と三代にわたって武功の臣として名を馳せる。 清安は永禄年中に起こった 青田顕治(信濃守)・ 左衛門父子、 草野胤清(式部)、 飯崎盛清(主水正。 飯崎本家で木幡家の惣領)が伊達家に通じた際には、に従って、彼らを宇多郡に追討した。 清安の郎党・ 高橋文右衛門は立谷村での戦いで、伊達家の武将・ 大谷地掃部を討つ大功をあげている。 清安の子・ 安吉(四郎左衛門)は81貫275文を領したが、慶長7(1602)年に家中減知にともなって北郷に44石1斗を知行。 その後、元和年中(1615-24)に出家して高野山に登り、後継ぎもなかったため飯崎氏嫡流は断絶する。 清安には 左近将監・ 但馬守・ 八郎の三人の弟がおり、それぞれ武勇で知られていたが、左近にも但馬にも子がなく、末弟・ 安定(八郎)が飯崎氏をついだ。 このとき飯崎氏はすでに半農半士の身分であり、幕末の当主・ 飯崎文五郎は宇多郡小高郷川房村に11石を給されていた。 ただし、府下給人 28石以上 と在郷給人 27石以下 で分かれる。 「御家中」と称された。 「給人」と称された。 ||||||| copyright(c)1997-2013. all rights reserved 当サイトの内容 文章・写真・画像等 の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。
次のの二男・ 胤幹が 香取郡千田庄を領して千田を称したというが、彼の存在は『千葉大系図』にのみ見られる名であり実在に疑問がある。 時代は下って、小城千葉氏の2代目・が千田を称し、その弟・ 胤泰の子の 高胤(小太郎)と 胤継(常陸介)が千田を称した。 胤泰の孫にあたる 胤鎮と 胤紹兄弟は肥前国で勢力を争って肥前における千葉氏の勢力を著しく衰えさせているが、胤貞の子・ 胤継(弥次郎)の子・ 胤氏(三郎)は下総国千田庄に住んで千田氏を名乗った。 一方、下総千葉介の家からは、(小城千葉胤貞の従弟)の子・ 胤矩(刑部大輔)と 胤春(右京大夫)が千田を称し、貞胤の弟・ 胤久は千田家の養嗣子になっているが、どの千田家に入ったものかはわからない。 千葉介利胤の子・ 千田胤羽(右京進)は兄の千葉介親胤が北条氏の手によって暗殺されたときに 京都に出奔した。 その後、宗家の千葉介胤富や一族たちが帰参を促したために佐倉に戻る。 その後、子供がないまま病死した。 千田氏は千葉氏の有力な一族で、千葉氏の中で嫡出でない者が千田を名乗ることが多かった。 暦応年間(1338-1342)に 千田重親(中務少輔)が奥州の葛西氏のもとに下向し、 陸奥国桃生郡太田城(桃生町)に住んでいる。 この後、室町から戦国期に北上川流域に勢力を拡大した。 美濃東氏の流れを組んでいると伝わる。 「せんば」「ちば」と読む。 の子孫・ 東胤綱(左京亮)は将軍家に仕え、大和国穴太に供奉。 その子・ 輝綱(備中守)は足利義輝より「輝」字の偏諱を受けているが、松永弾正久秀の反乱によって将軍・義輝が討たれると京都を脱出し、丹波国の赤井家を頼ったという。 そしてその子・ 輝胤(四郎左衛門尉)ははじめて 「千馬」を名乗り、織田信長に仕えたという。 その後は不明。 千馬光綱(内蔵助)は 仙石秀久(権兵衛尉)の二男・ 忠政(兵部大輔:信濃国小諸五万石)の家臣で、大坂冬の陣に出陣。 黒門口攻めで討死をとげた。 光綱・輝綱ともに「綱」という一字が用いられており、両者には何らかの関係があるのかもしれないが、具体的には不明。 光綱が仕えた忠政には 仙石秀範(豊前守)という兄があったが、彼は「関ヶ原の戦い」で西軍に属したことから、父・秀久によって廃嫡され大坂にのぼる。 そして大坂冬の陣で「仙石宗也」と称し、冬の陣後は丹波国へ逃れた。 一族・ 千馬喜兵衛は越前福井藩主・ 松平忠直(越前少将)に仕え、妻は 本多忠勝(中務大輔)の家臣・ 芝田伊右衛門の娘。 しかし、松平忠直は乱行を理由に改易となり、喜兵衛の子・ 三郎兵衛は播磨赤穂藩主・ 浅野長友(内匠頭)へ仕えた。 仙石忠政に仕えていた千馬光綱(内蔵助)の嫡子・ 求之助は摂津高槻藩主・ 永井直清(日向守)に仕え、 筑間三右衛門の娘を娶った。 二男・ 光忠(三郎兵衛)を播磨赤穂藩の千馬三郎兵衛と養子縁組させ、光忠は赤穂藩馬廻に就任、百石取りの中級家臣として迎えられた。 このとき、父・求之助は永井家を辞して赤穂へ来ており、光忠に養われていた。 光忠は義と情に厚い人物として知られる一方、剛直であり、些細なことで元禄10(1697)年、閉門の憂き目を見る。 禄高も百石から三十石取りに減封され、 『赤穂藩分限帳』には禄高千石の組頭・岡本木工助の組士として記されている。 元禄14(1701)年3月、藩に辞表を出し、家族を連れて赤穂を離れようとしたところ、藩主・ 浅野長矩(内匠頭)が高家筆頭・ 吉良義央(上野介)へ江戸城中において刃傷に及んだ報が伝わったため、赤穂城内へ駈けもどり、長矩が即日切腹させられ赤穂藩改易のこと、吉良上野介にはお咎め無しだったことなどが続々伝わってくるにおよび、筆頭家老・ 大石良雄(内蔵助)の示した結束の連判状に参加。 赤穂城が開城されると大坂へ下り、京都へ入った。 兄・ 荊木貞右衛門は浪人となって大坂にあった。 光忠らが京都にあった元禄15(1702)年正月、江戸の急進派を宥めるために下っていた 原元辰(惣右衛門)が京都へ戻ってきたが、 原惣右衛門は一転して急進派に変わっており、光忠はじめ 中村清右衛門、 中田藤内、 矢頭右衛門七などが京都に雌伏しているのを見て叱りつけ、同年4月12日、知り合いの吉良家の内情をよく知る浪人とともに江戸へくだり、その内情を探っている。 この浪人はある旗本と懇意であり、ともに40日間江戸で情報を集めたのち、6月12日、江戸を経って京都へ戻っていった。 そして大石良雄(内蔵助)が起請文に血判を押した赤穂浪士たちに仇討ちの計画を打ち明けるや、9月7日、光忠は中田利平次、間十次郎、矢頭右衛門七ら面々と江戸に向かい、新麹町四丁目裏に借家を借り、名も「原三郎」と変えて吉良邸を偵察しつづけ、12月14日の吉良邸討ち入りの際は大石良雄嫡子・大石主税の手に属して 吉良邸裏門へ廻り、吉良邸戸外で戦った。 討ち入りの後は伊予松山藩・ 松平隠岐守定直にお預け、松山藩中屋敷に留め置かれ、元禄16(1703)年2月4日、松山藩中屋敷において切腹となった。 享年51歳。 介錯人は 松山藩士・波賀清太夫。 戒名は 刃道互劔信士。 光忠の従弟・ 千馬五郎兵衛は 松平紀伊守に仕えていた。 千馬光忠の嫡子・ 藤之丞は光忠切腹のとき僅かに2歳であり、母方の祖父・ 津川門兵衛(備前岡山藩士)のもとにあった。 光忠も切腹直前の元禄16(1703)年正月に記した 『親類書』には津川氏・藤之丞について記さなかったため、赤穂浪士の子どもたちに対しての処分である「遠島」も行われなかった。 しかし一連の処分から半年後、藩主・ 池田吉政(伊予守)から老中・ 阿部正武(豊後守)へ届出が出されたので、津川氏・藤之丞は江戸北町奉行所へ出頭が命じられ、町奉行・ 保田宗易(越前守)から遠島の申し渡しがなされた。 ただし、藤之丞が15歳になるまでは祖父・津川門兵衛へお預けという条文が附されている。 宝永6(1709)年正月、将軍・綱吉が没したために大赦が行われ、藤之丞は赦免された。 そして成長の後は岡山藩士となる。 の四男・の子・ 重常(太郎)が 上総国長柄郡庁南庄(千葉県長生郡長南町)を領し、長南(庁南)を称した。 常茂は頼朝の挙兵の際には平家に属し、 押領使として 平維盛の軍勢に随って相模国富士川まで進撃するが、維盛は甲斐源氏・ 武田信義らの奇襲に敗れて壊走した。 押領使であった常茂も追いすがる源氏の兵を防ぎながら退却したが、捕らえられて殺された。 正和5(1316)年11月20日、将軍・ 守邦親王の命を奉じ、執権・ 北条高時(左馬権頭)、連署・ 金沢貞顕(武蔵守)が重常の末裔と思われる 長南常行(孫四郎)の所領を鶴岡八幡宮に寄進している。 常行が何らかの罪を犯したためであろうか。 常行については、通称の「孫四郎」から見て、重常の孫・ 長南常村(四郎)の孫にあたる人物かもしれない。 長南氏については、全国の長南氏を研究されているをご参照のこと。 本来は常陸大掾家の一族。 剣聖として有名な 塚原卜伝は千葉氏流国分氏の子孫で、父は常陸国鹿島祠官・ 卜部覚賢の次男。 塚原安幹(土佐守)の養子に入って塚原家を継承した。 卜伝は飯篠長威斎や上泉伊勢守に剣術を学び、新当流を創始する。 彼には北畠具教(伊勢国司)、足利義輝(将軍)、松岡兵庫、細川幽斎、師岡一羽、斎藤伝鬼坊、佐野了伯(天徳寺)、佐野天徳寺了伯ら有名な剣客が門弟にいたことで知られる。 の子・ 常盛(八郎)が 次浦を称した。 下総国相馬郡筒戸村(つくばみらい市筒戸)を名字地とする。 (小次郎・徳誕)の二男・ 胤満(摂津守)が筒戸を称しており、このころに筒戸城が築かれたか。 ただし、筒戸城は永禄2(1559)年の築城ともされている。 室町時代の末期には(左近太夫)の一族として 筒戸胤房(小三郎)・ 筒戸胤文(小四郎)の名前が見られる。 彼らは胤満の子孫か?相馬治胤(左近大夫)は一族を各地に派遣して要害を築かせていたようで、高井城を守っていたと思われる治胤の弟・(小次郎)、菅生城を守っていたと思われる 菅生胤貞(越前守)らがあった (『相馬当家系図』)。 筒戸城は守谷城の北部にある要害で、南の高井城と並ぶ相馬氏の守りの要であったと推測される。 筒戸城内には平将門と関わりの深いとされる 禅福寺があり、寺の紋は相馬氏ゆかりの九曜を用いている。 城の南には千葉一族が信仰していた妙見神と八幡神を合祀している 「妙見八幡神社」がある。 現在、妙見八幡神社の鳥居は破壊され、鎮守の杜もすべて伐採されて境内は駐車場と化しており、砂地の中にぽつんと建っている社が物悲しい状況にある。 堤 上総千葉氏の祖・の子孫に 堤秀朝(次郎)が見える (『山門文書』)。 は薩摩国内に多くの所領を有しており、その旧領にあったのかもしれない。 名字地は 陸奥国行方郡堤谷村(福島県南相馬市原町区堤谷)。 祖は不明ながら、相馬氏の一族郎従として文正年中(1466~1467)、相馬隆胤の代に 堤谷胤秋(若狭守)の名を見ることができる (『相馬家譜』)。 応仁2(1468)年3月21日、高野山金剛峰寺の無量光院に相馬惣領・ 相馬隆胤(前讃岐守)ら一族郎従が寄進をしているが、その中で 「堤谷若狭殿」は布五十疋を寄進し、妻は百文が寄進されている。 角田 上総一族。 「すだ」と読むとされるが不明。 「つのだ」「かくた」かもしれない。 の孫・の子・ 親常が角田を称した。 名字地は 上総国墨田保(千葉県茂原市墨田周辺)とされるが、相馬郡に近い地域の 下総国印旛郡角田村(千葉県印旛郡本埜村角田)とも考えられる、こちらであれば「つのだ」となる。 角田親常ははじめに仕えていたが、広常が暗殺されて所領を没収されると千葉氏に従った。 親常の父・ 相馬貞常(太郎)は の娘を妻としており、親常はの外孫ということになる。 上総氏滅亡後、名を上総氏の通字「常」を「胤」字に改めて 「胤親」とした。 胤親は承久の乱の時、上皇方に荷担した 三浦九郎判官胤義の郎党を討ち取った。 文明年中(1469~1489)初頭の諸大名の家紋集である 『見聞諸家紋』によると、 「角田或人曰與上総介同紋云々」として、 黒地に白抜き九曜紋が掲載されている。 鬼窪氏(野与党の一族か)とも同紋とされる。 ところで、この当時、上総介を称した家は 今川家だが、当主・今川義忠がこの当時、上総介であったか治部大輔であったか不明。 鎌倉時代初期、 奥州に千葉氏の一族が下向している。 その名はさまざま伝わっているが、 千葉胤親・泰胤・胤正らの名を見ることができる。 下の系図で見ると、胤親の舅には 胤正がおり、胤親の子には泰胤がいる。 奥州千葉氏の祖・ 千葉胤親は 右兵衛佐を称している。 また、奥州千葉氏のもうひとつの流れ、 千葉泰胤は 越前守を称した。 永仁2(1294)年2月、場所は不明だが、三反を 「角田与一妻女跡」、二反を 「同尼公跡」が知行しているとの文書が伝わっている (『某所田畠注文』:「称名寺文書」)。 金沢称名寺に関する所領と思われ、武蔵国国衙領に関する田畠注文の可能性が高いという (『北区史』)。 「角田与一」は 角田信胤(又太郎)の子息・ 角田行信(与一)と思われ、その 「妻女」と 「尼公(行信の母?)」もすでに亡くなって、遺領が誰に継承されたかは不明。 鶴巻・弦巻・鶴蒔・釣巻・鶴毛・弦牧・鶴慎とも。 いずれも「つるまき」と読む。 (治部少輔)の子・ 信幹(茂右衛門)が 白井庄鶴牧村(印西市鶴巻)に住んで鶴牧を称したか。 なお、 「瑞春院」とは5代将軍・徳川綱吉の側室・ お伝の方。 お伝の方の母親は徳川家綱の生母・ お楽の方の従妹にあたり、法名は「高覚院殿」である。 のち、大奥にて実権を握ったため、綱吉の正妻・ 鷹司信子と対立した。 泉氏の庶流・ 泉胤吉(次郎)が行方郡寺内村に住んで 寺内胤吉を称した。 その子孫は寺内村を離れ、寺内村は 富田隆実(備前守)が継承した。 寺内氏の子孫は、江戸時代には75石を知行し、本家・泉内蔵助家の家臣となり、その跡を継いだ従弟の 三左衛門は、行方郡北郷横手村に11石を給された。 の子・ 業遠が寺尾を称したという。 名字地は 上総国天羽郡寺尾郷(千葉県富津市寺尾)か。 『吾妻鏡』によれば、建久2(1191)年正月1日、御所において 千葉介常胤の椀飯が献じられ、五番目に馬を曳いた人物に 「寺尾大夫業遠」の名が見える。 「大夫」と見えるため、 五位の位を有していたと考えられる。 業遠の名が見られるのは 『千葉大系図』だけであるため、実際に胤正の子なのかは不明。 しかも、五位という位を持っており、名字地と思われる寺尾郷も千葉から遥かに離れた地にあることから、千葉氏系ではなく 上総氏系統の人物であるかもしれない。 発祥地は 葛飾郡寺島村(東京都江東区東向島)。 寺西 千葉一族。 千葉氏の末流・ 寺西秀之(石見守)の子・ 秀則(治兵衛督)が織田信長、前田利家に仕え、二男・ 之政(清左衛門)が織田秀雄に仕えたのち、天正19(1591)年、 浅野長政に見出されて1500石をもって仕えた。 子孫は 安芸広島藩士として続いている。 信之(織部)は清左衛門・将監とも称し、2800石を領した。 その子・ 直之(角丞)は1500石に、その子・ 秀信(権六)は1300石を知行している。 正安(与三兵衛)は600石、その子・ 忠左衛門は900石に加増されたものの、 正共(佐助)は500石に減知、 秀方(源六)は550石に加増された。 「とう」と読む。 下総国海上郡東庄(香取郡東庄町)を発祥地とする。 東庄(立花郷)は相馬郡と並んで、千葉氏が平安時代末期ごろから治めていた所領のひとつ。 の六男・ (六郎大夫)は平安時代末期、上洛して 遠藤持遠(左近将監)の知己となり、上西門院に仕えた。 当時、上西門院は反平家の拠点であり、歌道も盛んであった。 の子孫は 勅撰歌人を数多く輩出しており、彼の歌はあまり残されていないが、 自身も歌を詠んだのであろう。 は源頼朝が挙兵するよりも前から彼と交流を持っており、が頼朝の挙兵に味方した理由のひとつは、 が説得したこともあるとされる。 鎌倉幕府の成立ののち、 は父・常胤から東庄を譲られ、椿海(江戸時代に干拓)を望む高台にある 桜井に館を構えたとされる。 その後、引退した は上洛し、 宇都宮頼綱入道や 塩谷朝業入道らとともに法然上人の弟子に連なっていて、 『法然上人絵巻』には 「千葉六郎大夫入道法阿」として名を残す。 頼綱や朝業はともに歌人として有名であり、 も彼らとともに歌の交流を持っていたのかもしれない。 の孫・ (入道素暹)は、藤原定家の子・ 二条為家(権大納言)の娘を正妻としているとされるが、その 二条為家の妻は、 宇都宮頼綱入道の娘である。 一方、美濃国郡上郡に発展した東氏は、歌道をもって名を知られるようになり、室町将軍家の奉公衆に名を見せるようになった。 その中で著名な人物が、 (下野守)であるが、彼は下総国でおこった千葉宗家の内訌に幕府の大将として下向して、これを収めた。 また、歌人としての才能も豊かで、二条家に伝わっていた 『古今和歌集』の解釈の奥底を、才能のある人物に託す 「古今伝授」をはじめた人物としても知られる。 飯尾宗祇も彼の弟子であり、 から古今伝授を受けた。 関東では 太田道灌と交流を持ち、弟・ (建仁寺二百十七世住持)も江戸城に下り、道灌のために城内の 静勝軒に詩序を寄題した。 の孫・ (下野守)は、娘を重臣の (六郎左衛門尉)に嫁がせ、のちに盛数は東氏を郡上郡から追放して東氏に代わった。 盛数の子・ (左馬助)は織田信長に仕え、続いて豊臣秀吉、徳川家康と時代を読んで主を代えて、 美濃郡上藩二万七千石の礎を築いた。 子孫は歌道を伝える大名として続き、明治時代、 (但馬守)は「東」に復姓し、子爵に叙せられた。 東氏の末裔は江戸時代、美濃苗木藩(藩主は遠山氏)、常陸水戸藩にあるが、薩摩国鹿児島藩の藩領である日向国諸県郡都城(宮崎県都城市)にもこの東氏の流れをくむと思われる東氏がある。 薩摩藩都城領蔵方役の 東胤正(太左衛門)は天保8(1837)年に都城に生まれ、長じて蔵方役となる。 明治8(1875)年、宮崎県十四等出仕として県の官吏となるが、明治10(1877)年、西郷隆盛の起こした西南戦争に 都城隊を編成して参加し、8月24日、城山に討死した。 田路 千葉一族。 「とうじ」と読む。 但馬国朝来郡田路を発祥地とする。 朝来郡田路は古くは「田道」とも書き、「たじ」とも読んだ。 室町時代には播磨国守護・ 赤松氏の麾下にあり、文明17(1485)年4月2日、守護・ 赤松政則(左京大夫)から3月28日の陰木合戦で粉骨の活躍し、疵を被った 田路孫太郎に感状が出されている ()。 さらに、明応8(1499)年には赤松政秀入道性喜から、来栖中山城の攻城に対する感状が出された ()。 天文7(1538)年、 田路右馬允が敵陣に攻め入って切り崩したことを 宇野政頼(播磨守護代)から 尼子晴久(出雲大名)へ注進があり、晴久は9月27日、田路右馬允へ感状を発給した ()。 永禄2(1559)年10月7日、田路城の南・生野(兵庫県朝来郡生野町)での合戦で活躍をし、そのことに対して 太田垣朝延が 田路四郎五郎へ感状を発給している ( )。 ただし、太田垣家は山名家の重臣であることから、このころ田路氏は山名家に仕えていたと思われる。 太田垣家は 但馬国竹田城主をつとめていた国人領主で、田路城北部の竹田(朝来郡竹田)に在城していたか。 さらに、竹田と田路の間の物部城には、やはり山名家の重臣・ 賀陽氏が詰めていた。 室町時代後期、田路城主・ 田路胤直(大和守)は 山名氏政(山名祐豊の子)の家老として出仕し、丹波国赤井城主・ 萩野悪右衛門(赤井直正)が乱入して来た際にも、主だったもの数人を討ち取り、山名家より感状を賜った。 その後、萩野悪右衛門は丹波国夜久郷に出城を築いたため、 胤直・勘四郎父子は田路城より出張してこれを乗っ取った。 しかし、天正7(1579)年、田路城が攻め落とされて自刃。 大和守は菩提寺である 祥雲寺(臨済宗妙心寺派)に葬られた。 自性院の伝行基菩薩作の大日如来 天正期になると、織田信長の軍勢が中国地方に進んできた。 中国地方の織田家総大将は羽柴秀吉(筑前守)で、秀吉の弟・秀長は竹田城に拠った。 天正8(1580)年のものとされるによれば、秀吉は 田路五郎左衛門と安積将監にそれぞれ十人の人夫の派遣を命じていた。 これはあくまで信長の代官としての秀吉の命に従ったものであると推測されるが、天正10(1582)年10月7日に増田長盛(仁右衛門)から発給されているでは、この直前に 田路四郎次郎から増田長盛へ宛てて、みずからの所領に関する書状が出されていたようで、増田は知行は安堵されるから、イノシシの肉や狸の肉のような手土産を持って早々に秀吉へ御目見えしなさいと忠告している。 田路四郎次郎は、この直後、おそらく二日後の10月9日、秀吉のもとを訪れて 「宍粟郡河東五郎左衛門尉分五百石」の知行を加えた所領を知行すべしとする書状を受けた ()。 秀吉から知行地を受けたこと、つまり秀吉の家臣になったことがわかる。 田路氏の御子孫が田路城のある朝来町のという真言宗寺院におられる。 朝来郡礒部庄(兵庫県朝来郡山東町)には、承久の乱の功績として、東氏の一族・ 木内胤朝(下総前司)が地頭職に就いており、千葉一族と朝来郡の縁の深さがうかがえる。 前期の 田路胤直(大和守)の子・ 勘四郎(のち市助)は一旦攻め落とされた田路城を取り戻したのか、田路城主に復帰し、織田信長の軍勢が侵入してきた際には田路城に籠城してこれを迎え撃ち、山名氏政より感状を賜る。 その後、因幡国鳥取城の戦いに参戦し、山名家家老の 太田垣輝信より感状を賜った。 しかし天正8(1580)年、山名氏政が出石城を攻め落とされて滅ぶと、城を落ちて播磨国竜野城主・ 赤松広道(左兵衛督)のもとに逃れた。 広道は別名「 斎村政広」といい、秀吉に降服ののちは但馬国竹田城主となった。 左兵衛督は関が原の戦いで、鳥取城下を焼き払ってしまい、家康によって切腹を命じられた。 このため、斎村家の家臣たちは四散し、市助も牢人となった。 その後、丹波亀山城主・ 岡部長盛(内膳正)に牢人分として召抱えられ、鉄砲三十丁を預かった。 さらに長盛の子・ 岡部宣勝(美濃守)にも仕えた。 市助の子・ 五兵衛はすでに亡くなっており、元和2(1616)年に生まれた五兵衛の子・ 助之進は市助に養育され、市助が亡くなったのち、岡部家を辞した。 承応元(1652)年、助之進は 岡山藩池田家に二百石の知行取として召抱えられ、 池田主税組に配属される。 明暦2(1656)年3月27日、江戸御留守居御番として江戸へ上り、江戸屋敷留守居を勤めた。 その翌年4月8日、岡山城下へ戻り、寛文7(1667)年正月20日より、藩校に勤めた (『岡山藩家中諸士家譜五音寄』一)。 また、助之進の同族・ 田路権之丞も岡山藩に仕え、寛文8(1668)年10月3日、御弓組となり、杉山五左衛門組に配属されている。 禄は切米五十俵七人扶持。 江戸幕末、但馬国城崎郡栗山村出身の尊皇攘夷志士に 千葉郁太郎徳胤があった。 彼の父親は 田路鼎斎という人物で、郁太郎自身も 「田路玄桂」という号を有していた。 ただし、田路鼎斎の父は 小森正造という医師あり、鼎斎は婿養子であることから、田路家に養子に入って家号を冒したのかもしれない。 また、鼎斎の兄・ 田中河内介綏猷といい、尊攘公卿・ 中山忠能の諸大夫を勤めていた。 千葉郁太郎は幼いころから京都にいた田中河内介を頼り、その指示によって明治維新を奔走した。 そんなころ、鹿児島藩国父・ 島津久光は過激な尊皇攘夷論を打ち砕くために、京都寺田屋に集まった薩摩藩士を討つよう命じた。 郁太郎はこの池田屋での密談に加わっていた咎で、池田屋に捕縛に向かった薩摩藩士によって捕らえられ、 日向細島において文久2(1862)年5月8日、18歳の若さで殺害された。 「とうづき」と読む。 (四郎次郎)の6代目・ 胤正(右兵衛)が宇多郡百槻村に住んで「百槻」を称した。 百槻胤正は 立谷宇多郡栃窪城の城代を勤めている。 しかし永禄6(1563)年、 宇多郡中村塁主・草野直清(式部)が 黒木城代・青田胤治(左衛門尉)らとともに伊達輝宗に通じた際、胤正もこれに荷担したことから城を追われて浪人となった。 その後、許されて相馬家に戻ると、相馬家のために奮戦して天正年中には伊達家との戦いに大きな功績を度々たて、百槻村に知行を取り戻した。 江戸時代には嫡流は 門馬十郎左衛門家、庶流は 門馬徳右衛門家・ 弥惣右衛門家・ 六兵衛家・ 亘家と、それぞれ大身藩士となった。 遠江 千葉一族。 の十男・ 行長の四男・ 常光が遠江を称した。 東金 千葉一族か? 東郷 武石一族。 亘理氏の庶流で行方郡に移った。 その子孫・ 東郷胤充(治部)は相馬氏に仕えた重臣で、執政・ 木幡胤清(尾張)の娘聟となった。 しかし、黒木正房・中村義房の反乱に荷担したため、相馬顕胤に攻められた。 このとき、顕胤は胤清と相談して、胤充を胤清の滝迫城に 「今幸に対面の時を得ば速に来るべし、共に談ずべきことあり」と誘い出し、ここに伏せてある顕胤の兵に討ち取る手はずとした。 これにかかった胤充は郎従七十人を率いて滝迫を訪れ、たちまち顕胤兵に取り囲まれた。 謀られたことを察した胤充は郎従が防いでいる間に滝迫城を逃れて山中に逃げ込んだ。 しかし、顕胤の追跡は執拗であったため、逃れられないと悟った胤充は 行方郡浮田(鹿島町浮田)で自刃を遂げた。 現在、胤充が自刃した山は 「東郷山」と呼ばれている。 鴇根 上総一族。 「とおがね」と読む。 上総国山辺郡鴇根(千葉県東金市)を発祥地とする。 遠山方 千葉一族。 の七男・ 師胤(七郎)は下総国遠山方御厨(成田市北部~神崎町)の御厨司となって遠山方を称し、後、神崎を称する。 その子・ 行胤(七郎次郎)は幕府に出仕し、建長3(1251)年1月20日、将軍家の二所詣に際し、先陣の隨兵に 「千葉七郎次郎行胤」の名が見える。 の末子・ 為常(与一太郎)が時田を称したという。 ただし、為常が「与一太郎」を称したとするならば、為常の父は「与一」を通称としていた人物と思われるが、上総権介常澄が与一を称していたという記録はない。 「ときた」とよむ。 の子・ 胤之が下総国鴇田郷を領して鴇田を称したという。 のち、児玉党との合戦で戦死したとされるが、実在は不明。 の子・ 胤氏(三郎)の子・ 義胤(治部大輔)が徳嶋を称した。 この三郎胤氏は 千葉胤貞(千田大隅守)の孫・ 胤氏(多古庄千田氏の祖)とは別人で、甥の 千葉介教胤とともに藤津の陣所に加わり、教胤が戦いの中で船が転覆して溺死した翌日、胤氏は無事に文明元(1469)年6月18日に陣所にもどった。 義胤は 小城郡平吉郷芦刈に城を構えて住み、明応3(1494)年3月4日、 千葉介胤資より知行が安堵された。 法号は 道胤。 その子・ 徳嶋胤秀(左馬助)は明応7(1498)年4月3日に亡くなった。 法名は 道秀。 そしてその子・ 徳嶋盛秀(治部大輔)は初名を 孫八郎といい、文武に優れた武士として知られていた。 正妻に 龍造寺豊後守家純娘(玉室妙金大姉)を迎えるなどその勢力は大きくなっていった。 天正7(1579)年7月15日、亡くなった。 永禄5(1562)年、滅亡した少弐氏を復興しようと、 大友宗麟が 有馬晴純と謀って 少弐政興を擁立した。 有馬晴純は出家して仙岩と称していたが、依然として有馬家の実権を握り、名将としての名も高く、千葉氏・龍造寺氏を倒して肥前制覇を狙っていた。 永禄6(1563)年3月、有馬晴純は兵を動かして杵島郡まで攻め寄せた。 千葉胤連は龍造寺隆信に連絡をとり、 鴨打胤忠(陸奥守)・ 徳島胤時(甲斐守)・ 持永盛秀らを率いて小城郡丹坂峠に出陣した。 隆信も 鍋島信房・信生(=直茂。 千葉胤連の養子だった)らに命じて小城郡高田に出陣している。 隆信は、部将・ 馬渡俊光と謀って、有馬一族・ 島原弥七郎を柳津留の入江に誘いこんだ。 ここに伏せていた鴨打胤忠・徳島胤時・持永盛秀の軍勢が東から、そして馬渡俊光の一族・ 野田右馬允が西から攻め寄せて島原の軍勢を挟み撃ちにして撃退した。 このため、有馬方につくか龍造寺方に味方するか迷っていた豪族たちは、つぎつぎに龍造寺氏に味方し、有馬氏はついに東肥前攻略をあきらめて島原にひきあげた。 隆信は有馬氏に荷担した武士たちを討ち、杵島郡須古高城主・ 平井経治を攻めたが、これは失敗に終わり、中村にひきあげた。 その後、 千葉胤連は龍造寺氏の客将とされて小城郡高田城に配し、徳島氏らは龍造寺氏の部将となった。 天正4(1576)年、隆信は鍋島信房・信生兄弟らをはじめ、 犬塚鎮家、 徳島信盛(左馬助)、 横岳家実を率いて有馬氏の東肥前の前線基地・ 藤津郡横造城を攻めおとした。 横造城は鍋島信房(鍋島直茂の兄)を城主とし、徳島信盛も藤津郡松丘城主となった。 さきの戦いで島原弥七郎を追い払う功績をあげた 徳島胤時(入道道可)は鴨打胤忠とともに 小城郡芦刈城の城将をつとめ、250町を領していた。 龍造寺氏における徳島氏の扱いは 「譜代相伝之家人」とされ、鍋島・納富・小川・福地・江副・安住・百武・西村・副島・馬渡・土肥・成松・内田・小林・鴨打・野田・高岸・石井各氏と並ぶ家柄だという。 龍造寺氏が鍋島氏にとって替わられると、徳島氏も鍋島氏に仕えることになった。 朝鮮出兵のときには鍋島直茂は 鍋島茂里(平五郎)と 成富茂安(兵庫助)に派遣軍全権を任せているが、成富茂安の指揮下に 徳島四郎右衛門の名が見える。 四郎右衛門は龍造寺政家の御側定詰番となった。 明治時代、江藤新平率いる佐賀士族の反乱では、旧藩の公族や藩士が反乱に加わっているが、隊副司令に 徳島篤胤、小隊指揮に 徳島胤昌がいた。 の兄・の子・ 常政(七郎)が上総国戸田(山武市戸田)に住んで戸田を称した。 相馬氏初代のの八男・ 行常(八郎)は葛飾郡戸張郷を領して戸張(柏市戸張)を称した。 現在、柏市戸張(国道16号線の柏トンネルの付近)に戸張氏の居館であったとされる戸張城址が残る。 他にも、 相馬胤綱(次郎左衛門尉)の子・ 忠胤や、(次郎左衛門尉)の子・ 胤重(三郎)が戸張を称したという。 家紋は 「蔦」「繋駒」。 蔦紋は 「先祖母方之紋」であったという (『平姓戸張先祖書』:「埼玉叢書第四」)。 幕紋は 「九曜」「月星」「源氏車」。 松戸市平賀の本土寺の過去帳 『本土寺過去帳』の三日の項に 「前崎落城打死太田六郎殿十一月 同戸張彦次郎殿討死」とある。 戸張忠胤の子孫・ 戸張胤房(九右衛門)は北条氏に仕えており、 武蔵国二郷半領吉川村(埼玉県吉川市)に所領を持っていた。 しかし、北条氏滅亡後は没落していた。 家康が関東に入部後、吉川に鷹狩のため来訪した際、胤房の嫡男・ 胤久(山三郎)が 吉川八幡神社(吉川市八子新田)のそばで平伏していると、家康の目に留まって、その先祖の謂れを聞いた。 そこで、父・胤房が北条氏に仕えて没落した旨をつぶさに言上すると、家康は胤房宅を休息所とすることを決め、胤房も家康に謁見することができた。 このとき、家康は胤房に 扇子(十間骨金地模様桜ニ小鳥柳ニ燕)と 短冊(残黄地金雲形模様松竹)を手渡している。 春の日の光にあたる家なれと かしらの雪と成そわひしき この短冊と扇子は吉川村に住んだ胤房の三男・ 戸張胤永(三郎)に相伝され、子孫の 戸張清兵衛に伝えられた。 胤房の嫡子・ 胤久(山三郎)はそのまま家康に召し出されて江戸に供奉し、 松平正綱(右衛門大夫)のもと 小十人組として出仕し、 切米二百俵を給され、四年間勤仕した。 家康が亡くなった際には久能山への埋葬に供奉し、次いで日光山への改葬にも供奉している。 胤久は家康の近侍で駿河に詰めており、家康亡きあとは江戸の将軍・ 徳川秀忠より召し出され、駿河衆のために与えられた 神田山跡地の屋敷を給わった。 この駿河衆が集住したところが、現在の 駿河台()である。 このころ、岡部内膳正長盛の家臣・ 秋山善右衛門の娘を娶ったか。 その後、 牧野内匠頭信成組士となり、寛永6(1629)年8月6日、 二十六歳の若さで亡くなった。 法名は 心月院道蓮。 菩提寺の 吉川村延命寺に埋葬された。 胤久が急病に倒れたため、急養子として弟の 戸張全森(源五右衛門)が定められ家督を継いだ。 その後、胤久の実子・ 伯胤(喜太夫)が誕生したが、彼は次男としての扱いであったため、長じて将軍・家光の代に 新規召出として 切米二百俵を給された (『平姓戸張先祖書』:「埼玉叢書第四」)。 子孫は現在の三郷市から松戸市にかけて繁栄している。 相馬岡田氏庶流と伝わるが、実は海道平氏の一族で 標葉氏・岩城氏と同族とされる。 中村藩大身の家柄。 学者の 富田嘉隆(斉藤嘉隆)は40石取りの相馬藩士で、学識が深かった。 その子ふたりもそろって神童と呼ばれた秀才だった。 嫡男・ 完高(庄八郎)は地誌・歴史に造詣が深く、藩主より地誌と家臣の系譜を作るよう命じられ、地誌 『奥相誌』と系譜 『相馬衆臣系譜』二百余巻を編纂した。 次男・ 高慶(久助)は文化11(1814)年に中村で生まれた。 号は 弘道任斎。 150石取りの 大身藩士。 幼い頃から学芸に秀で、武芸も免許皆伝の腕前を持つ。 藩主・に召し出され、若くしてその側近となり、が継ぐとその側近となる。 しかし、天保8(1837)年からおこった 「天保の大飢饉」に直面したため、江戸に登って昌平坂の教授・ 依田誠廬(林大学頭信篤鳳岡の弟子)に入門して学んだが、得るものがなかった。 天保11(1831)年、高慶は小田原大久保領の 下野国芳賀郡物井村を復興させた 二宮金次郎(二宮尊徳)の噂を聞きつけ、さっそく面会を求めたが、 「儒学の人は江戸の学者に学ぶべきで、私のような土臭い人物は会うに値しない」と拒絶されてしまう。 しかし、高慶はあきらめず、近くの農家に間借りして二宮農政をつぶさに観察し、その教えにもよく参加した。 これに感じた二宮は天保12(1832)年に高慶を弟子とした。 その後一年間、高慶は二宮に就いて農政を修めて相馬中村に帰った。 高慶は中村に帰ると、執政の 池田胤直(図書。 郡代頭)・ 草野正辰に二宮流の農政改革をすぐ行うように勧め、藩主・充胤にも改革を藩政として行うよう訴えた。 こうして中村藩の政治全体がうごきはじめた。 翌年、充胤は二宮を招いて藩政を任せようとしたが、彼はこれを断る。 そのため、充胤は江戸家老の草野正辰に書状をもたせて藩の荒廃を訴えさせ、さらに池田胤直を江戸に派遣して、池田胤直・草野正辰は二宮に面会して改革の行い方などをつぶさに聞いて、直ちに国元に命じて過去の藩税収の資料を集めさせた。 弘化元(1844)年、寛文5(1665)年から弘化元(1844)年までの納税帳を完成させて、二宮に提出して改革の方向を尋ねた。 二宮もこの資料をみて驚嘆し、その1年のちに分析結果の 『為政土台帳』を草野らに伝えた。 弘化2(1845)年、充胤の熱意に折れた二宮は相馬中村を訪れ、富田高慶を奉行として藩政改革に乗り出した。 こうして荒れた村々は村民が中心となって立ち直り、道路の修復や備蓄米が蓄えられ、裕福な村へと変わっていった。 そして藩政改革の波は中村藩全域に及び、ついに藩は天保の大飢饉以来の危機から立ち直ることができた。 その後、二宮は相馬を去ったが、藩内では 「尊徳翁」として尊敬され、胸像が中村城内(相馬市中村)に残されている。 (六郎)の子・(八郎)の子孫・ 八郎が 匝瑳郡南条庄富下(匝瑳郡横芝光町富下)に住んで富下を称した。 平常兼の子・の孫の 宗常が 香取郡友部(佐倉市内か)を領して友部を称した。 その祖は相馬重胤の奥州下向に従った重臣・ 青田祐胤。 上総千葉氏の祖・ 上総権介秀胤の子・ 式部丞時 秀の子に 豊田五郎秀重が見える (『山門文書』)。 all rights reserved 当サイトの内容 文章・写真・画像等 の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。
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